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第一話:「もう、死のうか」

第一话:“死了算了”

31歳の僕は、真剣に生きたことがなかった。

31岁的我,从未认真生存过。

大学時代、本気で何かに取り組んだことはなかったが、本気でやれば誰にも負けないという根拠のない自信に満ち満ちていた。世間を舐め、自分がうまく行かないときは他人を見下し、「俺の実力がわからないあいつはアホだ」と鼻で笑った。

我在大学时代并未真心努力做过什么,却没来由地充斥着真心干不会输给任何人的自信。我轻看社会,自己进展不顺时就看扁别人,耻笑“连我的实力都不知道,那家伙真是傻瓜”。

ところが、27歳のときに逃げられなくなった。それまで漫才をしたことはなかったが、舞台に上がればすぐに天下が取れると思っていた。いや、思うと言っても、「俺なら絶対に宝くじで3億円が当たる!」という程度の馬鹿な子どもの自信と違いはなかった。

可是,在27岁上我终于无所遁逃。我从没说过单口相声,却自以为一上台就能傲视天下。不,说是以为,这其实跟想着“我绝对能中3亿日圆彩票!”的熊孩子的自信毫无差别。

当時、ほんの一瞬、たった一度だけ本気のすぐ手前のところを生きてみたことがある。しかし、うだつの上がらない貧乏芸人の足元にさえ及ばなかった。その日以来、頑張ることをやめた。頑張らなければ、失敗したときに「興味がなかった」と言えば済む。才能ある相方が今でも出続けていたらテレビで活躍していただろ うが、僕が生き残る可能性は完全にゼロだった。

当时,虽然只是昙花一现,我也曾尝试着接近脚踏实地的生活。可是却连万年不红的穷艺人都无法望其项背。那之后,我就放弃了努力。不去努力,失败时只需说声“我没兴趣”就可了事。有才能的对手如今也不断涌现,活跃于银屏上,我要在这当中生存下来的可能性完全是零。

秘書時代は「仕事が合わないから辞める」と言うだけで済んだ。誰かに責められた憶えもない。漫才は「食って行けないから辞める」とひとこと言うだけで済んだ。

我当秘书时,说句“这工作不适合我,我不干了”就了事。谁都不会责备我。单口相声也是说句“靠这个活不下去,不干了”就搞定。

31歳、夏。天下取りの夢を捨て、中国大陸へ逃亡した。その5年ほど前に付き合い始めた中国の彼女と暮らすため、青ざめた顔をぶらさげて北京空港に降り立った。

31岁的夏天,我舍弃了名扬天下的梦想,逃到了中国大陆。为了跟5年前开始交往的中国女朋友生活,我耸拉着苍白的脸降落在北京机场。

そこには、彼女と、彼女の両親が静かに立っていた。言葉を発することもなく。アパートに向かう車内では、ほとんど会話がなかった。アパートに到着すると、ご 両親が、「今夜は早く寝なさい」と言って静かに出て行った。翌朝、目が覚めると彼女がそばにいた。そして、「別れて欲しい」とつぶやいた。はっきり聞こえ なかったが、口の動きで意味がわかった。理由はいまでもわからないが。

女朋友和她的父母静静地站着接我。大家都没说话,在驶向公寓的车内也几乎没有交谈。到公寓后,双亲说了句“今晚早点睡吧”就静静离开了。第二天一早,我睁开眼就看到女朋友在旁边。她低声道:“我想分手”。我没有听得很清楚,可从她的口型明白了意思。不过理由我至今都不清楚。

目の前が突然真っ暗になった。突然頭の中が真っ白になった。色は逆だが同じ意味だ。

我眼前突然一片黑暗,脑袋瞬间一片空白。两种正相反的颜色却是同样的意思。

それまでの失敗は照れ隠しでごまかした。しかし、もうごまかしは効かない。声も出ない。青ざめた顔の相が見る見るうちに崩れてゆく。病院へ行くと抗鬱剤を出されたが、薬を飲めば気分が悪くなり、アパート9階の窓から真下を見下ろすのが習慣になっていた。

一直以来我都对失败欲盖弥彰。不过,这手已经失效了。我说不出话,苍白的脸色渐渐失去常态。我去医院,医生给开了抗抑郁的药,吃过药觉得不舒服,于是养成了从公寓9楼俯瞰下面的习惯。

どうでも良いこの人生、ゲームならとっくにリセットしていた。いや、ゲームじゃなくてもリセットするか…。夢で一度だけ飛び降りたことがある。目が覚めて、それが夢だとわかった。

我的人生无足轻重,游戏的话早就重新来过了。不,就算不是游戏也重新设定吧……我在梦中曾经跳下去过一次。接着醒过来,才发现是梦一场。

北京に到着して数週間が過ぎ、夏期講習が始まった。その年の5月に北京の民間大学と契約を交わし、日本語教師になったからだ。資格も経験もなかった。ただ日本人というだけで大学の教師になれたから、何も考えずになったのだ。やはり、世間を舐めている。

到北京后过了几周,夏季讲习开始了。这年5月,我跟北京的民营大学签约做了日语老师。我当然没有教师资格和经验,只因为是日本人就成了大学老师,什么也不想就当上了。果然我还是轻看了社会。

民間大学は面白いところで、その日に使う教科書はその日の朝に手渡される。事前準備などできない。よほどのベテランでない限り、民間で教えるのは無理なのではないだろうか。ちなみに、僕には資格も経験もなかった。

民营大学很有趣,当天上课要用的教科书当天早上才给我。当然没法事先备课了,如果不是经验老道,要在民营学校执教还是不可能吧。重复一遍,我没有任何资质和经验。

授業初日。校長、副校長をはじめ、学部長、副学部長ら教師陣がずらりと並んで、偉そうな態度で椅子に腰掛けていた。そんな中での初授業。新米教師が普通の精神状態ではうまく行くはずがない。しかし、僕は普通の精神状態でなかった。狂ったような、自暴自棄にはちょうど良い状態だった。うまく行くも行かぬもどうでも良かった。

上课首日,以校长、副校长为首,系主任、副系主任等教师阵营一顺出来,得意洋洋的坐在椅子上。我就是在这种环境下上的第一堂课。菜鸟老师带着平常的精神状态当然不会顺利。不过,当时我并非平常的精神状态。有些发狂似的,正好适合自暴自弃的良好状态。不管能否顺利我都无所谓了。

学生から質問を受けるとすぐに校長に振った。校長は答えられずにモジモジしていた。それを見兼ねて副校長に振った。その瞬間、学部長から下、教師全員の表情が曇った。「次は私かもしれない」。そう思ったのかもしれない。次に気づいたときには、みな背筋が伸びていた。

学生提问后我立刻甩给校长,校长答不出来而扭捏作态掩饰。我看不下去了于是甩给副校长。一瞬间,自系主任以下,所有教师的表情都僵住了。“下一个说不定就是我”,估计他们在这么想吧。接下来注意到时,大家都伸直了身子。

90分、学生と一緒に声を張り上げた授業は大成功だった。その日、いつか日本語航海士になるという夢を描き始めた。そして、彼女にこの姿を見せたい、そして惚れ直してもらいたい、そういったある種の復讐心で、その後は授業を続けることになる。

90分钟,我跟学生一起扯嗓子的课堂大获成功。那天,我开始描绘有一天成为日语航海士的梦想。然后要让她看到我的这一姿态,让她再迷恋上我,带着这样一种复仇心,我以后也继续教着书。

本篇为笈川幸司老师所著日语自传,授权转载,未完待续!

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