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日本語教育に携わる方々にとっては、「ウチ」と「ソト」の問題は初級者に「コ・ソ・ア」(指示詞)を導入したり、敬語の使い分けを指導したりする時によく使う身近なテーマで、先ごろ、テレビやラジオで偶然耳にした「うち」という言葉が印象に残りましたので、ここで改めて「ウチ」と「ソト」について考えてみることにしました。

对于从事日语教育的各位同仁来说,“ウチソト(内外)”这个概念并不陌生,在教初学者“コ・ソ・ア(如これ、それ、あれ)”(指示词)及敬语的区分使用等知识点时会经常用到,之前在电视及广播节目中碰巧听到的“うち(内、自家)”一词让我印象深刻,所以今天我想就“ウチソト(内外)”这个问题进行下探讨。

著名なコラムニストが、最近の子供を対象にした犯罪の増加は地域社会の人間関係の希薄化にその一因があるとして、自分が子供のころの体験を次のように語った。「私は下町育ちで、子供のころ家の近くで遊んでいたら知らないおじさんが近づいてきた。すると、近所のおばさんが急いで近寄ってきて、『うちの子に何をするのよ。』と大声をあげた。・・・」おばさんにとって近所の子は、「ソト」に対しては「ウチ」の子も同然であったのです。

某著名专栏作家提出,近来针对孩子的犯罪行为之所以增加,其中一个原因就是地域社会人际关系的日趋淡化,他还讲了自己儿时这样一个经历。“我从小在平民区长大,小时候有次在家附近玩,突然一个陌生的大叔向我靠近。结果邻居阿姨马上赶了过来,大叫‘你想对我们孩子做什么’……”在这位阿姨眼中,和“外人”相比,邻居家的孩子就等同于“自家”孩子。

また、たまたま聞いたラジオ英会話で、アメリカの少女が異文化理解のクラスで日本について学んだこととして、「日本ではうち(家)に入るとき靴を脱いでスリッパに履き替え、トイレに入るときはトイレ用スリッパに履き替えるんでしょう。」と日本人旅行者に話しかける場面があった。

还有,我无意中在英语会话的广播节目中听到过这样一个片段,某美国少女向一位日本旅行者搭话,内容是其在异国文化课上学到的和日本相关的知识,她问:“在日本,人们进家门后会脱下鞋换成拖鞋,进厕所时还会换成厕所专用拖鞋是吧。”

うち「内」はもともと空間的な概念だと思うのですが、どうして「自分の家族」になったり、「家」になったりしたのでしょうか。『基礎日本語辞典』によると「竹取物語(平安初期)の中で、家の内外にいて(家を)守っていた人たちを“内外にいる人”と言っている。」とあり、また、「うち「内」とは、本来は、自分を中心に、特に自己と関係が深いとみている範囲で仕切った線までの部分である。自分の家族のことを「身内」...というのも、この発想に基づく。そして「内」と認めた領域を除く部分が「外」となる。」とあります。

“うち(内)”原本是一个空间上的概念,后来怎么会变成“自己的家庭”、以及“家”了呢?据《基础日本语辞典》介绍,“在竹取物语(平安初期)中,人们把呆在家内外护家的人叫做‘内外にいる人(守在内外的人)’。”另外,辞典中还有这样的记载,“うち(内)原指以自己为中心划分出的和自己关系尤为密切的空间范围。把自己的家庭称作‘身内’也是基于这一想法。除去自己认定为‘内’的这一部分,其他都是‘外’。”

「うち」が「わが家」となり、さらに「わが社」の意味にまで発展しているのは、この延長線上にあり、興味深いですね。(「うち」が「わが国」を意味する時代は来るのでしょうか。)

而“うち”引申出“わが家(我家)”甚至“わが社(我们公司)”这样的意思,也是这种想法的一个拓展,真是颇有意思啊。(“うち”意指“我国”的时代会来临吗?)

例:「ウチ」

夫:おい、アレどこにやった?
妻:アレ?あたしが飲んじゃった。
・・・・・・・・
(余談)
「ねえねえ、ほら、あの人、会社の元上司、名前なんてったっけ。」
「ああ、あの人?えーと・・・、あのう・・・、あの人この頃ずいぶん老けたわねえ。」

夫:哎,那啥放哪了?
妻:那个啊?我喝啦。
……
(闲聊)
“哎哎,问你呢,那个谁,公司原来那个上司,名字叫啥来着。”
“啊,那个人啊?唔……嗯……那个人最近老了不少啊。”

附:日本内外意识额外解说

附1
日本人はウチソト意識が強い。同窓生、同郷の人、同じ会社に勤務する人等々、同じグループに属する人はウチの人であり、その他の人はソトの人。ウチとソトの間にはっきりとした心理的境界線を引く。日本人どうしであっても、ソトの人に対しては至って冷淡、無関心であるが、ウチの人どうしは打ち解けた仲間意識や強い信頼の絆で結ばれている。「日本はまれに見る平等社会であるが、人々の心に根強くはびこっている差別意識がある。それはウチソト意識である」といわれるゆえんであろう。

日本人内外意识非常强烈。同学、同乡、同事等皆为自己人,属于同个集团,其他人则是外人,内外之间有着明确的心理界限。即便同为日本人,对于所谓的外人态度也是极为冷淡、漠不关心,而自己人之间则以融洽的同伴意识及强烈的信赖感紧密结合在一起。都说“日本这样的平等社会很少见,但人们的心底都有着极为根深蒂固的差别意识,即内外意识。”这就是原因吧。

しかし、人と人との親疎、遠近、内外関係はいつも一定しているのではなくて、外国人にとって、とても判断しにくい。だから、授受動詞を使う時は、間違えやすいのである。

然而,人与人之间的亲疏、远近、内外关系并不是固定的,外国人判断起来很难,所以他们在使用授受动词时容易犯错。

附2
日本語のウチとソト

日语中的“内”和“外”

私たちが誰かと話をしているときに、その場その場で、「ウチ」と「ソト」を使い分けているということだ。

我们在和别人说话时,会根据特定的场合区分使用“ウチ”和“ソト”。

友達に対して、自分の家族について話すとき、これは明らかに、相手(友達)がソトであり、話題にあげる家族がウチである。そして、親しい友達であろうと、ソトの人と話をしているときに、ウチの人間をほめたりすることはあまりない。しかしながら、ソトの人(この場合友達)は、 それをふまえた上で、たとえ相手が自分の身内をけなそうと、決して肯定することはない。特別なケースを除いて、身内を軽くけなすなどの行為はたいてい本気でないとわかっているからだ。

在向朋友述说自己家人的事情时,很明显,对方(朋友)是“外人”,而话题中提到的“家人”则是“自己人”。另外,不管是不是关系亲密的朋友,在和外人说话时,一般不会去夸自家人。而外人(这种情况下指朋友)基于这一点,哪怕对方贬低其自家人,也绝不会做肯定回答。因为大家明白,除去特殊情况,日本人对自家人稍加贬低这种行为并非是发自内心的。

外国人向けのテキストには、「日本の慣習はそうなのだ」と書いてある。

在面向外国人的教材上,关于内外意识有这样一句话,“日本习惯本就如此”。

深度剖析:日本精神&日本人行为模式

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