镰仓幕府灭亡的次月,后醍醐天皇返回京都,重掌朝政,推行新政,引来武士的不满。其中倒幕大将足利尊氏更为不满,足利尊氏在京都的室町开设幕府,是为室町幕府。室町时代(1338年-1573年)是日本史中世时代的一个划分。

今天要讲的就是室町时代的代表作,日本著名建筑金阁寺,正式名称其实是鹿苑寺,因为建筑物外面包有金箔,故又名金阁寺。金阁寺位于京都市北区,于1994年被列为世界文化遗产。

金閣寺の歴史|金阁寺的历史

金閣寺は、鎌倉時代には西園寺という浄土宗の寺院でした。建立したのは西園寺公経で、代々、公経の子孫である西園寺家が所有していました。西園寺家は代々朝廷と鎌倉幕府の連絡役を務めていましたが、鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇を当主の西園寺公宗が西園寺に招待し、そこで命を奪おうとしているとの容疑をかけられ、処刑されてしまい、膨大所領資産は全て没収されてしまいます。そのため、修理や人の手が加えられることがなくなり、徐々に西園寺は荒れ果てて生きます。

金阁寺的前身其实是镰仓时代被称为西园寺的净土宗(日本佛教的一个宗派)的寺院,由西园寺公经所建,归公经的子孙后代西园寺家族所有。西园寺家族世世代代行走于朝廷和镰仓幕府之间,镰仓幕府覆灭后,当时寺院的主人西园寺公宗在西园寺招待后醍醐天皇,并在此因被诬陷有逆谋意图,当下处决,庞大的资产和领地被全部没收,西园寺也因无人问津而渐渐荒废。

注:西園寺公経(さいおんじ きんつね),镰仓时代的朝廷公卿、歌人,被认为是西园寺家族的先祖。

1,397年、足利義満が西園寺を譲り受け、改築をして一新しました。当時は『北山荘』『北山第』などと呼ばれました。邸宅でありながら、その大きさは御所にも匹敵し、政治中枢の全てが集められました。義光は息子の義持に征夷大将軍の座を譲っていましたが、実権はそのまま自分が握っており、北山殿で政務を行っていました。やがて義光がこの世を去ると、義持は舎利殿を残して北山殿を取り壊します。この舎利殿を義光の遺言通り禅寺として、義光の法号『鹿苑院』から『鹿苑寺』と名前を変えました。

公元1397年,足利义满接手西园寺并进行了改建,由此西园寺的面貌焕然一新,当时被称为“北山庄”、“北山第”,作为宅邸,西园寺的规模堪比皇宫,并成为政治中心。义光将征夷大将军的名号让位于自己的儿子义持,退居北山殿行政,但真正掌控实权的还是义光,不久后义光去世,义持拆除了北山殿,只留下舍利殿,按义光遗愿将舍利殿作为禅寺,根据义光法号改名“鹿苑寺”。

金閣(舎利殿)|金阁(舍利殿)

通称の金閣寺の由来になっている金閣は、正式には舎利殿といい、漆地に二層、三層部分に金箔を押した建物です。初層は『法水院』と言い、寝殿造り風です。二層は『潮音洞』と言い、武家造りになっております。三層は『究きょう頂』と言い、禅宗の仏殿風になっていて、仏舎利を安置しています。舎利殿の屋根はこけら葺きになっていて、鳳凰が飾られています。

作为金阁寺的名称由来的金阁正式名称是舍利殿,舍利殿建在泥金画的底子上,二层、三层镀成了金色,第一层称为“法水寺”,按卧室风格建造,二层是“潮音洞”,武士住宅样式,三层则“究竟顶”,禅宗佛殿建筑风格,里面安置着佛舍利,舍利殿屋顶为木瓦板屋顶,顶端有只象征吉祥的金凤凰装饰。

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