还记得前面弥生时代中小编提到的邪马台国的女王卑弥呼吗?上次回顾>>

作为弥生时代后期的倭国女王,卑弥呼在日本历史上占有重要地位,同时她也是个谜团重重的历史人物,为此小编今天专门向大家介绍这位神秘人物,到底她是一位怎样的女性人物呢?今天为大家特别奉上【弥生时代特别篇之邪马台国·卑弥呼】,快跟随小编一起一探究竟吧!

邪馬台国はどこか|邪马台国在哪

畿内説|近畿说

内乱が激しくなっている中国や、倭国大乱からの影響を避けるために、都を大陸から離れた纏向という奈良盆地にしたとする説です。古くから大和は開けた土地で、人口が20万人以上いたとされている邪馬台国ですが、奈良県であればそれが可能だということです。また、畿内では新聞でも取り上げられる、考古学的な古墳の発見も相次いでいたことから、畿内の地域を巨大な勢力が支配していたと考えられています。

据说为了躲避中国激烈的内乱和倭国动乱的影响,邪马台国的都城是坐落在远离大陆的奈良盆地——“缠向”的。古代日本是纯开放式土地,据说邪马台国当时人口超过20万。如果真的坐落在奈良的话倒是有可能的。近畿地区的报纸也曾报道过,从考古学古坟依次面世可推断出,近畿地区在当时受到来自巨大势力的支配。

九州説|九州说

日本は5世紀以降に全国統一されており、邪馬台国があったとされている3世紀の日本はまだ地域分権国家でした。この時代に、九州から畿内までの広い範囲を統治した、大和朝廷のような大きな権力が存在したとは考えにくいため。弥生時代の畿内では、祭祀用の青銅器の一つである銅鐸が、大和朝廷が成立してからの日本の歴史には存在しません。九州地方で祭器だった銅矛や銅剣、銅斧などは神話にも登場し、剣は誰もが知っている通り、天皇家の三種の神器にもなっています。そのため天皇家が畿内から発生したとは考えにくく、九州からきて大和朝廷を樹立したと考えるのが妥当であり、邪馬台国は九州にあったと考えられているのです。

公元5世纪之后日本全国统一,邪马台国存在于公元3世纪,当时日本还处于分裂之中,这一时代是不可能存在像大和朝廷一样要统治九州到近畿这样大范围区域政权的,弥生时代近畿地区用于祭祀的青铜器——铜铎在大和朝廷建立之后的日本历史中并没有记载。九州地区用于祭祀的铜矛铜剑和铜斧经常出现于神话中。剑,众所周知,是天皇家族的三种神器之一,所以说天皇家族起源于近畿地区这一说法很难成立,而大和朝廷建立在九州地区的说法则更加妥当,如此一来,邪马台国应位于九州地区。

卑弥呼は誰だったか|卑弥呼是谁

神功皇后説|神功皇后说

江戸時代までは、卑弥呼=神功皇后だと考えられていました。日本書紀に書かれている『神功皇后紀』では、魏志倭人伝の卑弥呼に関する記述を引用しているからです。もしこの説が本当であれば、邪馬台国はヤマト王権があった畿内に存在したということになります。

一直到江户时代,人们都认为卑弥呼就是神功皇后,日本史书《神功皇后传》引用了《魏志倭人传》中关于卑弥呼的记载,如果这一说法成立,那邪马台国或者大和政权就很可能位于近畿地区。

注:《魏志倭人传》是指中国史书《三国志》中的《魏书》中关于倭人的记载

熊襲の女酋説|熊袭女酋长说

古事記の解読を行った江戸時代の国学者である、本居宣長の説です。卑弥呼は、熊襲が勝手に朝廷を名乗っていたものではないかと考えました。宣長は、日本は本来独立を保った国という考えを持っていて、魏志倭人伝にある、卑弥呼が魏へ朝貢して、倭王に封じられたとする記述は、彼にとって受け入れられないものでした。宣長は、邪馬台国が九州にあったとして、熊襲の女酋が神功皇后の名前を語り、魏と通交したのではないかという考えです。

这一说法来自研究《古事记》的江户国学家本居宣长,卑弥呼或许只是熊袭族随便报给朝廷的称呼。宣长认为日本自古以来就是独立国家,至于《魏志倭人传》中记载的卑弥呼向魏国朝贡并受到倭王封号之说,宣长是无法接受的。宣长认为邪马台国位于九州地区,而熊袭女酋长只是以神功皇后的名义与魏国进行外交。

甕依姫説|甕依公主说

筑後風時逸文に登場する、筑紫君の祖である、甕依姫が卑弥呼ではないかとする説です。

在筑后国风时轶闻中登场的筑紫君的祖先,有一种说法称甕依公主就是卑弥呼。

注:筑后国如今位于福冈县南部

倭姫命説|倭国公主说

垂仁天皇の皇女、倭姫命(やまとひめのみこと)が、卑弥呼ではないかとする説です。

另有说法称卑弥呼是垂仁天皇的女儿。

注:垂仁天皇,第十一代天皇,崇神天皇的第三任皇子

宇那比姫命説|宇那比公主说

宇那比姫命(うなびひめのみこと)は、別名、大倭姫(おおやまとひめ)と言い、大和王権の女王とも思われる名前を持ちます。

宇那比公主别名大和公主,名字就令人联想到其握有大和政权。

卑弥呼=卑弥呼|卑弥呼就是卑弥呼

これは、卑弥呼は日本書紀や古事記の中に人物にあてはめるのではなく、卑弥呼は卑弥呼でしかないとする説です。どの説を見ても、部分的な符合はあり、魏志倭人伝のような実録が元となっている者に、後世にかかれた記紀を結びつけることは、学問的には正しくないとする説です。

有一种说法称,卑弥呼并不是《日本书纪》或《古事记》中记载的历史人物,卑弥呼就只是卑弥呼。不论哪种说法都只有部分符合事实,把《魏志倭人传》这样的纪实史书与后世的书纪联系起来在学术上是不正确的。

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日本历史巡礼之邪马台国之谜

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