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言葉には音があります。日本人はあまり意識していないかもしれませんが、その音の響きから私たちはたくさんの印象を受け取っています。

语言是有声音的,日本人可能没怎么意识到,这些声音让我们获得诸多感觉。

英語では例えばDの音を重ねると不吉な重苦しい雰囲気が出るとされています。英詩ではそういうテクニックがよく使われます。

比如英语中的D音,这个音重叠后会营造出不吉利的沉闷氛围,这种技巧在英文诗中常常被用到。

これは日本語でも同じではないでしょうか?ダ行の音は暗く重く激しい感じがします。

这在日语中不也是一样的么?日语中ダ行的音会给人以阴沉、猛烈的感觉。

同じくサ行ならサラサラした感じ、ナ行やマ行なら柔らかい感じ、ハ行は薄いものがはためく感じ、ラ行は響いたり弾んだりする感じ、ガ行やダ行なら何かがぶつかるような感じ、バ行はそれが割れる感じ、等々。

同样,如果是サ行音则感觉清爽、ナ行和マ行音感觉柔和、ハ行音如轻薄之物随风飘扬、ラ行音听起来或声声绕耳或情绪高涨、ガ行和ダ行音则如撞击之声、バ行音却如破碎的声响,等等。

昔の和歌にはそういうことを意識したものがたくさんあります。ここでは詳しく書きませんが、百人一首を見ただけでもいろんな例が見つかります。

古时的和歌有很多都掺入了这些声音元素,在此我就不赘述了,光看看百人一首就能找到很多例子。

ところが、こういう語感に引っ張られて意味を取り違えることがあるのです。

然而,我们有时却会被这些语感误导从而理解错了意思。

以前も取り上げたことがありますが、例えば「はんなりと」。──この京都弁は近年使われる機会が全国的に増えてきたように思いますが、残念なことにその多くが「京都らしい柔らかい物腰」を表す言葉として間違って使われているのです。

以前我也曾经提到过这个词,那就是“はんなりと”——感觉这个京都方言近年来频频在全国曝光,但遗憾的是,很多时候都是作为“态度柔和、京都味儿十足”这样的意思被人们所误用。

正しくは「派手だけど上品だ」という意味です。派手な柄はともすれば下品になってしまいがちですが、上品なものの中に華があることを指すのが「はんなり」であり、その語源は「華なり」なのです。

正确的意思应该是“雍容华贵”。奢华一不小心往往就容易变成庸俗,但“はんなり”这词却是形容事物既高雅又华贵,它的语源是“華なり”。

でも、なんか「すんなり」とか「ほんのり」とか、そういう音の似た単語が大体柔らかい印象を呈していることもあって、「はんなり」もそういう言葉だろうと思い込んでしまい、「派手」という意味とは想像しにくいのです。

但是,总觉得像“すんなり”啦“ほんのり”啦,还有类似这些音的单词大多给人感觉柔和,所以便以为“はんなり”也是这样的单词,很难想象它会是“华丽”之意。

そう、言葉に音があるということは、逆に私たちは音から言葉の意味を知ろうとすることもあるということです。で、その結果、音の似た単語に引っ張られて間違った意味を憶えてしまうこともあります。

没错,语言有声音,反之我们也会想从这些声音中去理解语言的意思。结果,我们有时却会被这些音近的单词所误导,从而记错了意思。

私の体験を書きましょう。

说说我自己的经历吧。

例えば「おっとり刀」:

比如“おっとり刀”:

この言葉を初めて聞いた時、私は「一大事だというのに妙に落ち着いてゆっくりと刀を携えるさま」を連想しました。これはまぎれもなく「おっとりした」に引っ張られたのです。正しくはこれは「押し取り刀」が促音便になった「押っ取り刀」でした。「あまりの緊急事態に、刀を腰に差す暇もなく手に持ったまま駆けつける」という意味でした。

第一次听到这个单词时,我联想到的是“明明不得了了、却出奇的冷静,并从容的拿着刀”,毫无疑问,思路是被“おっとりした”这词给牵跑了。其实,“押っ取り刀(おっとり刀)”是“押し取り刀”进行促音音变后的结果,意思是“由于事态过于紧急无暇将刀插在腰际,就那么拿着赶去了”。

例えば「可及的速やかに」:

比如“可及的速やかに”:

私はこれをずっと「めちゃくちゃ急いで」という意味だと思ってました。ところがある日辞書を引いてみると「できるだけ早く。なるべく急いで」と書いてあったので驚いたのです。そもそも私の場合カキュウテキという単語は耳から憶えて、それで勝手に「火急的」だと思っていたのです。で、字が後に目から入ってきて「可及的」だと判り、一応頭の中で訂正したのですが、意味のほうはいつまでたっても「火急的」がこびりついていたのです。

我一直以为这个词的意思是“非常快”。但是某日查了字典才发现原来是“尽早、尽快”之意,当时着实吃了一惊。话说回来,我是用耳朵去记的“カキュウテキ”,然后便认为是“火急的”这个词。之后看见文字,知道了其实是写做“可及的(尽可能)”,在脑海里倒是把写法给改过来了,但“火急的”之意却一直挥之不去。

あるいは(これも「はんなりと」と同じ回で取り上げましたが)「すべからく」:

“すべからく”这个词或许也是如此(我曾在同篇文章里提到过“はんなりと”和这个词):

これは間違えている人が非常に多いですが、私もかつてはそのひとりでした。どうしても「すべて」に引っ張られて「すべて」という意味だと思ってしまうんですね。でも、これも多分以前書いたはずですが、スベカラクは漢文の再読文字「須」であり、「スベカラク…スベシ」と読み下し、「必ず…しなさい」という意味です。だから、そもそも「べし(べき)」と一緒でない使い方は間違いですし、「すべて」という意味もありません。

误解这个词的人非常之多,我也曾经是其中的一个,怎么都会被“すべて”一词给误导,然后理解成“全部”之意对吧。可能我以前也写过,其实“スベカラク”是汉文中的重读字“須”,依次读作“スベカラク…スベシ”,意为“必须……”。因此,不和“べし(べき)”一起使用原本就是不对的,也不包含“全部”之意。

再読文字(さいどくもじ):漢文の訓読の際、二度読む文字。再読文字は返り点に関係なくまず副詞として読む。その後、返り点に従って、下から戻って動詞・助動詞として読む。

あと、巷に多い間違いは「嗚咽」と「嘔吐」の混同:

另外,大家经常搞错的还有“嗚咽”和“嘔吐”,容易将它们混淆:

「嗚咽」はむせび泣くことであって吐いたり戻したりすることではありません。これもきっと音から来ているのだと思います。即ち、オエツ→オエッ→嘔吐、という連想。

“嗚咽”是指“抽泣”,并非反复呕吐。想必这个也是因为发音而搞错的,也就是这样联想——オエツ→オエッ→嘔吐。

それから、これはちょっと毛色の違う例ですが、「煮詰まる」:

再举一个性质不太一样的例子,“煮詰まる”:

皆さん、この言葉を悪い意味で使ってませんか?「ひとりで考えてたら、なんか煮詰まってきちゃって」などと、「行き詰まる」と同じような意味で。これは「詰まる」に引っ張られているのです。パイプであれチューブであれ血管であれ内臓であれ連絡経路であれ出世の道であれ恋の通い路であれ、日常生活において通常は詰まると碌なことがありません。

各位有没有将其作为贬义词使用呢?“ひとりで考えてたら、なんか煮詰まってきちゃって(想表达的意思是:一个人想着想着就陷入了死胡同)”之类的,将这词当成“行き詰まる”去用,这就是被“詰まる”给误导了。不管是管道、软管、血管、心脏,还是联络线路、飞黄腾达之路、恋爱之路,在日常生活中,堵上了总没什么好事。

ところがこれは料理用語なんです。和食用語なんです。煮物用語なんです。和食の煮物は充分に味が染みるように、最後の最後に強火で煮詰めるのが決まり切った手順です。だから、「煮詰まる」というのは完成に近づくという意味なんです。本当は「途中で随分手こずったけど、漸く煮詰まって来た」などと良い意味で使わなければならないのです。

但是,“煮詰まる”是烹饪用语,是日式料理用语,是烩煮料理用语。烹饪日式烩煮料理时,为了让味道彻底进去,必定会在最后的最后用大火将其熬干。因此,“煮詰まる”意为事物接近完成,为褒义词,它原本是该这么用的——途中で随分手こずったけど、漸く煮詰まって来た(虽然过程十分艰难,但总算有些明了了)。

どうです、皆さん?音そのものや音の似た単語に引っ張られて間違って憶えている言葉はありませんか?間違いに気づいたら、可及的速やかに頭の中身を入れ替えておきましょう。

怎么样,各位?你们有没有被词句的一些发音或者和其发音相近的单词所误导,从而记错了意思的时候呢?要是意识到了自己的错误,就尽快在脑子中纠正过来吧。

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