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美しい日本語を大切にしよう

美好的日语,我们一起珍惜

私は私のことばを大切にし、人に良い印象を与えることばを使いたいと思っている。

对于我自己的语言,我很是珍惜,同时也希望自己对他人使用的一言一语,能给人留下好的印象。

だが、当然のことに「美しいと感じる表現」が何か、「よいイメージの語」は何か、というのは、時代によって異なり、個人によっても異なる。

不过,“让人觉得美好的表达”及“给人良好印象的话语”这两者的定义会因为时代和个人想法的不同而发生变化,这是毋庸置疑的。

「言葉に付随するイメージ」をとりあげてみよう。プラスのイメージをもつ語なのか、マイナスイメージの語なのか。

那么,我们一起来讨论下这个话题吧——“语言的感情色彩”,看看下面提到的词给人的印象究竟是正面的,还是负面的。

私にとっては、プラスイメージだった言葉の例。「練炭

举个例子,“練炭(煤球)”,对我个人来说,这是个正面的词语。

冬の日、こたつの中のあたたかいイメージと共にあった練炭。寒い朝、母が用意してくれ、掘り炬燵の中に入っていた。練炭のこたつは、寝起きの私たちをほかほかとあたためてくれた。「おこたのレンタン」、プラスのイメージだった。

煤球,伴随着冬日被炉的温暖。寒冷的早晨,母亲将备好的煤球放入内置脚炉中,温暖了从睡梦中醒来的我们。因此,“暖炉的煤球”,对我来说是美好的。

若い世代にとっては、「何ソレ、そんな言葉何をさしているのか、イミわかんない」という人と、「えぇ、レンタンって、あの自殺の?やだなあ」という人と。今朝のニュースでも、レンタンが置かれた車内に集団自殺の3人が。練炭から連想できる言葉は「一酸化炭素中毒。ネットで募集の集団自殺に使われたもの」というマイナスイメージしか思い浮かばないという。

而对于年轻人而言,有人会说“什么啊这是,这种词语能表达什么,真是让人费解”,也有人会说“啊?煤球?就是那个自杀用的?好恐怖。”就在今早的新闻里还提到,有三个人在放置了煤球的车内一起自杀了。对于他们而言,煤球只能让人联想到“一氧化碳中毒。网络集体自杀道具”之类的负面描述。

ニュースでの言葉のイメージについて。

关于新闻词句给人的印象。

テレビやラジオのニュース原稿、新聞報道は、これまで「標準的な日本語の発音、語彙、用法」の代表にされてきた。「雑貨小売業ドンキホーテの防犯ビデオに映っていた女が窃盗容疑で逮捕された~」「バイクによるひったくりの被害にあった女性は、~」ニュースで聞くかぎりでは、容疑者は「女」で、被害者など他の立場の人は「女性」と表現されていて、逆はない。「詐欺で起訴された女性は」とか、「電車内で痴漢被害にあった女は~」というニュースは聞いたことがない。

电视、广播节目的新闻稿件、新闻报道一直被认为是“标准日语发音、词汇、用法”的代表。“某女疑似在杂货店堂吉诃德实施盗窃而被警方拘捕,其作案过程被店中防盗录像录下~”“遭遇摩托党抢劫的女性受害者~”,光从新闻内容来看,对嫌疑犯用的是“女”这个词,而对受害者及其他立场上的人用的是“女性”,不会出现对调的情况。我也没听过新闻报道里会有“詐欺で起訴された女性は(因为诈骗而被起诉的女性)”、“電車内で痴漢被害にあった女は~(在电车内遭遇性骚扰的女人~)”之类的话。

「悪いことをした方=女」「被害者その他悪いことをしていない方=女性」と、区別して表現している。ニュースのなかでは「女」をつかうのは「悪いほう」に固定されている。本来は「女」に、特別悪い意味はない。しかし、この用法が固定されれば、「女」が今より低いイメージの語になっていき、そのうち「おれの女はお前ひとり」などという歌の一節も、受け取られる意味が変わってくるかもしれない。

人们将“女人”和“女性”区分开来使用,“做了坏事的=女人”,“受害者以及没做坏事的其他人=女性”。而在新闻中,只要使用“女人”这个词,那必然是指“做了坏事”的一方。“女人”这个词本来并不包含什么不好的意思。但是,这种用法一旦被固定下来,“女人”这个词给人的印象会逐渐变差,说不定哪一天“おれの女はお前ひとり(我的女人只有你一个)”这样的歌词也会逐渐被人曲解。

現代日本語で、「あなたにとって、よい感じを受けることば、プラスイメージの語は、何ですか」というアンケートをとったら、おそらく上位にランクインするであろう「ありがとう」「おかあさん」の二語を見てみよう。

如果对现代日语做一个问卷调查,主题为“对你来说,哪些词句能给你留下好的印象,听起来比较正面?”恐怕“ありがとう(谢谢)”“おかあさん(妈妈)”这两个会排名较前吧。我们一起来看下。

「お母さん」という語が一般に広まり、使われるようになったのは明治時代から。国定教科書が制定され、標準語導入時に、母親への呼びかけの語として、当時の一般的な語であった「オッカア」「オッカサン」「カーチャン」「カカ」などを押しのけて採用された。教科書によって徐々に「お母さん」が普及していくにつれ、「オッカア」は書き言葉の地の文中には登場せず、「セリフ」の中の語としてだけ文字にできた。「オッカア」と表現された母親が文章に登場したら、それは「田舎に住む母親」や「街の片隅で、つつましく暮す母」をイメージする手がかりになった。

“お母さん”这个词是在明治时期开始普及并被人们广泛使用的。当时日本制定了国定教科书,并引入标准日语这个概念,“お母さん”这个词打败了其他日常用语“オッカア”“オッカサン”“カーチャン”“カカ”等,成为了对母亲的标准称呼。随着教科书的使用,“お母さん”逐渐普及, “オッカア”这个词则不再出现在书面用语中,只是在“台词”中露个脸。如果文章中出现被称为“オッカア”的母亲,便会让人联想到“住在乡下的母亲”或者“在城镇的偏僻角落里朴实的过着日子的母亲”。

標準語として採用されたことにより、「おかあさん」は「オッカア」「オッカサン」より、「よい暮しをしていそう」なイメージを与えられたのだ。一方、戦前は「都会に住むハイクラス家庭の母親」をイメージされていた「ママ」は、現在は「一般家庭の母親」から「飲食業店舗の女主人」への呼びかけまで、さまざまに用いられている。

“お母さん”这个词被采用作为标准日语后,给人以这样的印象——比起“オッカア”“オッカサン”,“她”的日子似乎过的要好些。另一方面,“ママ”这个词在战前的形象是“城市里上流家族中的母亲”,如今不管是“一般家庭的母亲”,还是“饮食店的女主人”,都能用这个词,可谓用途广泛。

言葉に付与されるプラスマイナスイメージも、時代によって変化していくのである。

语言被赋予的感情色彩,不管是正面的还是负面的,都会随着时代的变化而变化。

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