「帰途」田村隆一

言葉なんかおぼえるんじやなかつた
言葉のない世界
意味が意味にならない世界に生きてたら
どんなによかつたか

言葉なんかおぼえるんじやなかつた
日本語とほんのすこしの外国語をおぼえたおかげで
ぼくはあなたの涙のなかにたちどまる
ぼくはきみの血のなかにたつたひとり帰つてくる
(『田村隆一全詩集』思潮社収録 詩集『言葉のない世界』)

欢迎点击右上方应用贡献翻译稿。

声明:以下内容仅代表作者个人观点,仅供参考。

(一)

言語学をやっていてよかったと思うことはいくつかある。まずそのためにやったのではないが、言語学で得た知識が外国語の習得に役立ったことである。言語の語彙がどのような分布をなしているかを知るのは習得のための近道である。そこに山があるから登るといったのと同じように、そこに言語があるから、その言語を理解したいと思うし、理解し得たときの喜びは大きい。文法の仕組が解けたときは最高である。

坚持学习语言学让我收获了一些东西。首先是通过语言学获得的知识对我的外语学习产生了帮助,当然这并不是学语言学的目的。了解语言词汇的分布情况是学习外语的捷径。正如眼前有山所以去爬一样,因为世上存在语言,所以才让人想要去理解它,征服后的喜悦是无与伦比的,解开文法构造后的心情亦是开心到无以言表的。

注:言語学(げんごがく)とは、人間言語を対象とする科学的研究。実用を目的とする語学(母語以外の言語を学ぶこと)とは異なり、言語そのものの解明を目的とする。

そもそも実用性があまりなく、ただ単に興味の満足のために取り組んだので、必ずしも言語学を唯一の目標として進んできた訳ではない。もし空襲がなくて昆虫や植物の標本が焼けなかったら生物学を学んだかもしれないし、画集を買うお金があったなら、美術評論のようなことを心がけたかもしれない。言語学は自分にとっては数多くある可能性の一つであると思っていた。そこで他の人の書いたものを読んでいて、もし、もう一度生まれてきたら、また同じ道をたどるつもりだという記述を読むと、驚くとともにうらやんだものである。

不过语言学实用性不太强,我埋头研究也只是单纯为了满足自己的兴趣,并不是说语言学就是我走到现在唯一的目标。如果当初没有空袭、动物植物标本没有被烧毁,也许我会投入到生物学领域,如果当初有钱买得起画册,也许我会留意到美术评论这样的事情。我以前一直觉得语言学对自己来说只是诸多可能性中的一个。所以读别人的著书,看到他们说如果有来生,自己还会走一样的路时,鄙人曾经既惊讶又羡慕。

ところが近年になって、自分ももしかしたら、もう一度やり直すことができたら、また同じ道を進むかもしれないという気になってきた。ただ選ぶ専攻の言語は違うかもしれないが、言語を専攻することだけは間違いなさそうである。言語を専攻することの大きな楽しみの一つは、言語の数が多く、決して退屈することがないという間違いない保証である。

不过近年来,我自己也似乎有了这样的感觉,如果人生再来一遍,也许还是会走语言研究这条路,只是可能会选不一样的语言,初衷大概是不会变的。潜心研究语言学的一大乐趣在于能接触到诸多语言,因而绝不会感到厌倦。

千野栄一「読んで、読んで、また読んで―――文献学から比較言語学へ」(『学問はおもしろい』講談社2001)
千野栄一(ちのえいいち、1932年2月7日 - 2002年3月19日):日本の言語学者。東京外国語大学名誉教授。言語学、およびチェコ語を中心としたスラブ語学が専門。

(二)

【プラハで】何を食べたか、なにも覚えていないが、店の経営者の名前(あるいは、レストランの名前かもしれない)は覚えている。それは“Vlk”というのだった。母音のない名前に魅せられ、ここで私は外国語は神秘的なものであるというもう一つの啓示を受けたのだった。

【在布拉格】我完全忘了自己当初吃了什么,却记得店主的名字(或许是那个餐厅的名字),那就是“Vlk”,我被这没有母音的名字所迷倒,这让我再次了解到,外语是个神秘的东西。

ドナルド・キーン『私と20世紀のクロニクル』(中央公論新社)
ドナルド・キーン(Donald Keene  1922年6月18日 - ):アメリカ合衆国出身の 日本文学研究者、文芸評論家。
『私と20世紀のクロニクル』内容:ニューヨーク・ブルックリンで過ごした少年時代、戦雲迫るなかで没頭した『源氏物語』、一人の日本兵もいなかったキスカ島、配給制下のケンブリッ ジ、自動車の姿もまばらだった京都の街、日本で出会った終生の友、三島由紀夫の自決のあとさき、『日本文学の歴史』『百代の過客』『明治天皇』…そして現 在の生活。85歳の今、思い出すことのすべて。

(三)

言葉には肌ざわりみたいなもののあるだろうに、僕は文学部にいても文学青年にはなれず、言葉の意味だけを考える散文的な人間になってしまった。

注:<散文的な人間>散文の反対語の韻文は詩に使われます。散文的な人間とは面白みの無い人の意味だと思います。しかしある種のホメ言葉とし ても使います。詩的で夢見がちの人をバカにするため「私は散文的な人間(あなたとは違う)」などなどという言い方をします。(引自网络)

语言许是也有像触感这样的东西吧,我即便是文学院的,也没能够当成文学青年,而是成了个单纯思考语言意义的无聊小生。

大岡信は中学生時代に「言葉に心臓をひっつかまれる」熱病にかかってしまったという。同じひっつかまれても、言葉を道具として扱う現代詩の方へ行くか、言葉そのものを目的とするかで同じ文学部でも大きく違ってくる。

大冈信(日本诗人、评论家)说自己在中学时代曾因为“被语言偷去了心”而患上“热病”。同样在文学院,即便都是倾倒在语言的石榴裙下,每个人的方向也大有不同,有往将语言作为工具的现代诗方向发展的,也有以研究语言本身为目的的。

専門が言語学だというと驚かれる。「言語学って何をしているんですか?」と聞き直されることが多い。まるで、僕という人間が不可解であるかのように、学問まで疑われている、そんな感じで問いただされる。

当我跟别人说自己的专业是语言学时,多数人会再次向我确认:“语言学是干嘛的?”那种感觉似乎像是无法理解我这个人,甚至连我的学业都被质疑了。

言語学が何か、というのはちょっと難しい話なのだ。ウソだと思ったら著名な言語学者に聞いてみるがいい。誰でも返答に困るだろう。

语言学是什么,这个问题有些深奥。如果不信可以问问著名的语言学家,可能谁都会头疼如何回答是好。

(四)

『言語学は何の役に立つか』(大修館)というジュラヴリョフの本には次のような話が出てくる。

本の内容:最も古い学問であり、数千年の間「学問の女王」とされてきた言語学。言語学者である著者と、数学者や物理学者、生物学者など他分野の専門家とのユニークな会話をまとめ、言語学の最も重要で興味深い問題を分かりやすく考える。

在Zhuravlev所著的《语言学有何用》(大修馆,山崎纪美子译)一书中出现了以下这段对话。

経済学者:あなたの専門は何ですか。 ------「学問の女王」と言われてきた最も古い学問です。
数学者:わかった。数学ですね。   ------違います。
化学者:その学問でノーベル賞受賞者は出ていますか。 ------一人もいません。おそらくこれからもね。
歴史学者:謎めいていますね。あなたは一体何者ですか。 ------言語学者です。
…みんな、しーんとして口をつぐんでしまった。

经济学家:你的专业是什么?------被人们称为“学问女王”,是最古老的一门学科。
数学家:明白了,是数学吧。------不是。
化学家:这门学科出了诺贝尔奖获得者吗?------一个人都没有。恐怕今后也不会有。
历史学家:很神秘啊。你到底是何许人也。------语言学家。
……突然一片安静,大家陷入了沉默。

下期内容提要,敬请期待:
言語学と語学とは違う。語学は訓練だ。習うより慣れよの世界だ。言語学が“study”だとすれば語学は“learn”である。頭の中にあるのが知識で、外にあるのが情報。例えば、語学の大部分は知識で、言語学の大部分は情報といえる……

日本中文学者谈:语言学习最高境界是?