沪江日语阅读提示:双击或划选日语单词,查看详细解释,并可收录进生词本以供记忆学习。

「知らざぁ言ってきかせやしょう。浜の真砂と五右衛門が、歌に残せし盗人の、種は尽きねえ七里ヶ浜、…名さえ由縁の弁天小僧菊之助たぁ、おれがことだ」。これは、歌舞伎『青砥稿花紅彩画(白浪五人男)』浜松屋での弁天小僧の名せりふ。5人の盗賊衆が七五調で名乗りをあげる、次幕「稲瀬川勢揃」で、大親分日本駄衛門は「問われて名乗るもおこがましいが、生まれは遠州浜松在、十四の年から親に放れ、身の生業も白浪、沖を超えたる夜働き、盗みはすれども非道はせじ、人に情けを掛川から、金谷をかけて宿々で、義賊と噂高札に…」と大見栄を切る。

不知且待俺相告,所谓岸边细砂,乃是那五右卫门(石川五右卫门)歌中所传、盗人不绝的七里之滨...俺乃辨天小僧菊之助,称谓尚有由来寻”。这是歌舞伎《青砥稿花红彩画(白浪五人男)》辨天小僧在滨松屋的名台词。5个大盗唱着七五调自报姓名,下一场“稻濑川势前”中,盗贼头子日本驮卫门隆重上台唱道:“为人询问才报家门,委实可笑,吾生在远州滨松,年十四为亲所弃,以盗为生,夜间行劫乃吾长技,虽为盗,不为非道,自挂川宿到金谷宿,一路惠施,世间盛誉吾乃义贼...”

注:石川五右卫门(图)是安土桃山时代的盗贼,被秀吉下令投入油锅处死,临终作歌:石川や 浜の真砂は 尽きるとも 世に盗人の 種は尽きまじ(纵然淘尽石川岸边细砂,也除不尽世间不绝的盗徒)

文久二(1862)年、江戸市村座初演で大当たりし、現在も上演されるこの芝居。弁天小僧は架空の人物といわれますが、統領の日本駄衛門は、実在の人「日本左衛門」をモデルに描かれました。

文久二(1862)年,该剧在江户市村座首演火爆,到如今仍在上演。虽然辨天小僧是虚构的角色,而首领日本驮卫门却是以实际存在的人”日本左卫门“为原型描写而成的。

生い立ちと資質

日本左衛門は本名を浜島庄兵衛といい、生まれは享保4年(1719)。父は尾張藩の下級武士で、父が七里役として金谷宿に赴任した折に同行したらしい。通称を尾張十(重)、幼名は友五郎。幼い頃から聡明な子どもでしたが、17~18歳の頃から飲む打つ買うの放蕩者となり、20歳でとうとう勘当されてしまいました。本格的に盗賊活動に入った時期は寛保元年(1741)、日本左衛門が23歳のときといわれ、遠州の豊田郡貴平村に本拠を構えて東海八ヶ国を荒しまわったと伝えられます。

成长与天资

日本左卫门本名滨岛庄兵卫,生于享保4年(1719)。父亲是尾张藩的下级武士,任职七里役赴往金谷宿时,庄兵卫也随之前往。庄兵卫通称尾张十(重),幼名友五郎。幼年聪慧,可从17、18岁开始便吃喝嫖赌,成了个放荡公子,终于到了20岁时被赶出家门。日本左卫门正式开始行盗是在宽保元年(1741),此时他23岁,相传他在远方州丰田郡贵平村建大本营,大肆招摇于东海道八国。

东海道金谷宿

父親の職「七里役」とは、藩が街道の七里ごとにおいた公文書の取継ぎや情報収集を役目とするもので、「進行を妨げる者は3人までは斬り捨て御免だ」と豪語し、その服装は竜虎梅竹などを加賀染めした半はんに金糸銀糸の刺繍をほどこしたビロードの半襟、腰には脇差と赤房の十手とたいそう派手なもので、横暴な振る舞いも多かったそうです。そのような親の資質と環境からも、日本左衛門の登場はうなずけるものがあります。

父亲的公职是“七里役”,也就是藩国每隔七里设置的传递公文和收集信息的职务。他曾豪言“连斩3名障路者,未受责罚”,身穿一半是龙虎梅竹的加贺染、一半是金丝银丝刺绣的鹅绒衬领,腰胯肋差一把、捕棍一根,扮相甚是奢华,据说他还有不少粗暴之举。有那样性格的至亲与成长环境,日本左卫门的出现也是理所当然的了。

斬り捨て御免:江户时代武士的特权,若受到平民无礼对待可直接斩杀,不受惩罚。