追悼の夏が去る。62年が過ぎて、なお終わらぬ戦争を抱える人、いまを「戦前」にすまいと心を砕く人。戦争と平和を問う8月の言葉から。

悼念的夏天已逝去。已经过去了62年,还有人还处于战争状态、还有人将现在当着“战前”,心力憔悴。这都是出自于质疑战争与和平的8月用语。 

被爆地は元防衛相の「しょうがない」発言に憤った。長崎で被爆した池田道明さん(68)には、語り部になる決意をした矢先の冷や水だった。風化懸念しつつ「被爆体験は平和の教科書。私もその一冊になり、多くの人に読んでもらいたい」と気を新たにする。

原防卫相所言的不得已”让被炸地的居民极为愤慨。对在长崎曾遭遇爆炸的池田道明(68)来说,无疑给他要成为说书人的决意当头一瓢冷水。他在抵制淡化战争残酷性的时时有了新的想法,他说“经历爆炸时和平的教科书,我也要成为其中的一册,希望能够让更多的人读到”。

広島で原爆に遭った竹内勇さん(87)はがんと闘いながら、集団訴訟で国に原爆症の認定を求める。あの日、「亡くなっていく人に一杯の水もあげられなかった」と悔恨は深い。そしていま、「年老いた私たちに一杯の水をください。私にとって一杯の水とは原爆症の認定です」

在广岛遭受原子弹爆炸的竹内勇(87)一边与癌症做斗争,一边通过集团诉讼向国家寻求核爆炸后遗症的认定,那一天,对于“无法给濒临死亡的人们哪怕是一杯水”而深深悔恨。因此,现在,“请给年老的我们一杯水,这杯水就是核爆炸后遗症的认定”。

新潟生まれの蓑輪喜作さん(78)は、東京の武蔵野公園で憲法9条を守る署名を集めて、6000を超えた。「9条おじさん」と慕われている。趣味で詠む歌に、〈田舎弁まるだしなれど若者は戦争体験聞いてくれたり〉。

生于新潟的蓑輪喜作(78)在东京的武藏野公园召集守护宪法第九条的签名,已经超过了6000人。被尊称为“第9条爷爷”,他在乘兴而吟咏的歌中说,“尽管满是乡下语,却想让青年人倾听战争体验”。

動員学徒らの遺稿展が、東京であった。受付の井室美代子さん(80)は神宮外苑の壮行会で学徒兵を送った。「悲惨な現実を名誉のように演出するものだった。その片棒を担いだ。悔しいし、やりきれない」。ゲートルを巻いた学徒兵のすねの細さが脳裏に残る。

东京有过战时被动员学生们的遗稿展。负责接待的井室美代子(80)曾在神宫外苑的壮行会为学生兵送行。她说,“那是一场将悲惨的现实当作荣誉的演出,我曾作为其中的负责人之一,觉得后悔难当”。至今脑子里还残留着裹着绑腿的学生兵那纤细的小腿。

抵抗の詩人金子光晴。戦時中に編んだ私家版詩集が見つかった。〈人よ。なぜ人生を惜しまない。/こまやかな人間の生を、/なぜもっといつくしまない。……〉。その反戦は、深い家族愛に根ざしていた。

反战诗人金子光晴,在战时曾编集出版过个人诗集。“人呀,为何不珍惜人生/为何不让渺小的人世生命/更加庄严呢。….. 其反战,深深植根于对家人的爱之上。