そしたら、お父さんは、「まだあるよ」と言いました。らぬき言葉は、実は、大正時代にはもうあったそうです。つまり、1960年にアメリカに行った人が生まれたころには、もうらぬき言葉を使っている人がいたということになります。ぼくが、「そうか、この人がびっくりしたのは、昔はなかったからじゃなくて、この人が知らなかっただけなんだね」と言ったら、お父さんは、「そういうことになるね」と言いました。

然后爸爸又说:“还有呢。”据说“らぬき言葉”实际上在大正时期就有了。也就是说,那个1960年去了美国的人刚出生的时候,就已经有人在使用了。我说道:“这样啊。那这个人如此惊讶是因为他不知道,不是以前没有啊。”

それで、お父さんは、「もちろん、その時その時で、人が『美しい』と思う言葉はあるよね」と言いました。確かに、ぼくも、テレビに出てくるタレントがしゃべっている言葉は、あんまり美しい日本語とは思えません。でも、同じテレビでも、ニュースを読んでいる人がしゃべっている言葉は、美しいかどうかはわかりませんが、ていねいだと思います。ぼくたちも、先生と話す時は、友だちと話す時より、ていねいな言葉を使います。

于是,爸爸说:“当然,每个时期都有当下人们所认为的美丽日语存在嘛。”确实,我也没觉得,电视里明星说的日语有多么美。不过,同样是电视,读新闻的人说的日语,美不美我不知道,但是很正式。我们和老师说的日语,也比和朋友们说的要正式。

ぼくが、「言葉は、人によってずいぶんちがうよね」と言ったら、お父さんは、「そうそう。なのにこの新聞では、美しくない日本語はみんな若い人のせいになってるでしょ」と言いました。見ると、確かに、記事には、「「ら抜け」世代」という言葉が出てきます。どう見ても、若い人たちをさしているようです。50年前にも、らぬき言葉を使っている人がいたのに。

我说道:“语言这东西要看人的吧。”爸爸回答:“没错。可这新闻,却把不美的日语怪罪到年轻人身上对吧。”我再看了下,确实如此,在报道中,出现了“‘ら抜け’的一代”这个词。不管怎么看,都像是在说年轻人。明明50年前就有人用“らぬき言葉”的说。

ぼくは、「昔からあった言葉なのに、若い人たちばかり悪くいわれるのはずるいね」と言いました。そしたら、お父さんは、またニヤリとして、「でも、ここには、若い人が悪い、とは書いてないよ」と言いました。ぼくは、「でも、これを読んだら、みんなそう思うんじゃないかなあ」と言いました。

于是我说:“明明是以前就有的,却光怪在年轻人身上,真狡猾。”这时,爸爸又笑了:“但是,这里可没说年轻人不好哟。”“可读了这内容大家都会这么觉得吧。”我回答。

そしたらお父さんは、うんうんとうなずきながら、「よくわかったね。そう、そこがこの文章の一番悪いところなんだよ。はっきり書かないで、でも読んだ人をそう思わせる書き方だね。らぬき言葉がきらいなら、はっきりそう書けばいいのに、そうすると、だれかに文くを言われるかもしれないから、こうやってわかりにくくして、でも読んだ人がそう思うように書いてるんだね。ずるいやり方だと思うよ」と言いました。

于是爸爸边点头边说:“理解的很透彻嘛,正是这样。这就是这篇文章最不给力的地方啊。不写清楚,却让读的人都这么觉得。要是讨厌“らぬき言葉”,就明明白白写出来嘛,不过要是这样了,可能会有人不满。写的不清不楚却让看的人心里明白,真是狡猾啊。”

ぼくが、「じゃあ、こういう日本語は美しくないのかな」と言ったら、お父さんは、「そうだね。どんな言葉を使うかだけじゃなくて、どういう気持ちで、どんなたい度でその言葉を使うかってことも、「美しい日本語」には大切なんだろうね」と言いました。

我问道:“那这样的日语就不算美吧?”爸爸回答:“对啊。除了措辞以外,使用日语时的心情和态度也很重要。”

ぼくは、とてもよくわかった気がしたので、「じゃあ、ウソをつくのも、美しい日本語じゃないね」と言ったら、お父さんは、「そうだね」と言いました。そこで、「だったら、こないだ約束した遊えん地、今度の日曜に行こうよ」と言ったら、お父さんは、「いやーそのー、ちょっと、いろいろと大人の事じょうが・・・」とか何とか言いながら、向こうに行ってしまいました。ぼくは、大人が美しくない日本語を使うのは、大人の事じょうがあるからなのだな、と思いました。

我终于明白了:“那……说谎也不算美丽的日语咯?”“对啊。”爸爸回答。“那么,上次约好说去游乐园的,这个周日去嘛。”“哎哟……那个啊……大人事儿多也是很无奈的啊……”爸爸听我这么一问,边说边走开了。我心想,大人之所以会用不美的日语,也是不得已的啊……

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