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室町幕府ならば初代尊氏、三代義満、八代義政、十五代義昭。江戸幕府ならば初代家康、三代家光、五代綱吉、八代吉宗、十五代慶喜……室町、江戸の両幕府ではそれぞれ十五人が将軍となり、名の通った将軍も何人もいます。しかし、日本最初の幕府である鎌倉幕府の場合は、初代頼朝、そして三代実朝くらいしか将軍の名は知られていないのではないでしょうか。これは鎌倉幕府における源氏正統の将軍が三代で絶えており、後に続く将軍は公家から選ばれた「お飾り」の将軍であったためです。三代で絶えた源氏将軍。それは何故だったのでしょうか。

要说起室町幕府的话,便是初代尊氏、三代义满、八代义政、十五代义昭。江户幕府的话则是初代家康、三代家光、五代纲吉、八代吉宗、十五代庆喜。室町、江户两幕府各有十五人成为将军,还有好几位将军的大名是如雷贯耳的。然而,日本最初的幕府镰仓幕府却仅有初代赖朝、接下来的三代实朝的将军之名为人所知。这是因为,镰仓幕府的源氏正统将军仅三代便断绝了,之后接替的将军是从公家选来凑数的“摆设”将军。源氏将军三代而终,到底是什么原因呢?

源实朝

 

内紛の末
鎌倉幕府が源頼朝によって作られたことは広く知られています。その鎌倉幕府以後、700年近く続くこととなる武家政権の初めを担ったわけですから、やはり頼朝は卓越した政治家でした。初期の鎌倉幕府は、源氏の政権である以上に頼朝の政権という側面がありました。それだけに、頼朝の死後、幕府が混乱することは定めであったのかも知れません。頼朝の死後、後を継いだのは息子の頼家でした。しかし、頼朝のいない幕府で大きな権力を握ったのは頼朝の妻政子とその父時政率いる北条氏でした。頼家は北条氏を排除するために策を練りますが露見し、将軍として権力をふるうこともかなわず北条氏によって殺されてしまいます。そして登場するのが、頼家の弟実朝というわけです。

内讧的结局

众所周知,镰仓幕府是由源赖朝建立起来的,镰仓幕府担当了在此后延续了将近700年的武家政权的开山祖,因此赖朝的确是位卓越的政治家。初期的镰仓幕府与其说是源氏的政权,赖朝政权这一面的色彩却更为浓厚。正因如此,赖朝死后幕府一片混乱也许是注定的事。在赖朝死后继任的是儿子赖家。可在没有赖朝存在的幕府中,赖朝夫人政子和她的父亲时政(北条时政)所率的北条氏掌握了大权。赖家为扫除北条氏殚精竭虑,却东窗事发,还没发挥出将军的权力就被北条氏杀害了。接下来出场的便是赖家的弟弟实朝了。

源実朝は建久3(1192)年8月9日に生まれました。母は北条政子です。幼い頃から京都の公家文化に憧れ、政治にはあまり興味を持たなかったと言われます。幕府で強い権力を握りたかった北条氏にとっては非常に都合のよいことであったでしょう。そもそも母の実家である北条氏により、政治に興味を持たないように育成されていたということもあったようです。

源实朝生于建久3(1192)年8月9日。母亲是北条政子。相传他幼时钦慕京都的公家文化,对政治没太大兴趣。对想在幕府把持重权的北条氏来说,这恐怕是再好不过的事了。他对政治不感兴趣似乎原本就是由母亲的娘家北条氏刻意培养而成的。

しかし、それで実朝の生涯が平穏無事であったかというとそうではありませんでした。政治に興味を持たず、公家の文化に傾倒していた実朝は幕府内での居場所を失い、ついには公暁という人物に暗殺されてしまうのです。わずか27年の生涯でした。ここで源氏正統の将軍は断絶します。この件を裏から操っていたのも北条氏であるという説が有力です。

然而,并不是说实朝因此就能安享一生了。对政治不屑一顾、憧憬公家文化的实朝在幕府内失去了地位,最终遭公晓暗杀。仅仅过了27年的人生。这样源氏正统将军的血统就断绝了。有可信说法认为,在这件事背后操纵的也是北条氏。

公晓暗杀源实朝时藏身的银杏树(公晓受北条蒙蔽,误以为父亲赖家之死为实朝所害,暗杀实朝后自己也为北条氏所杀,死时年仅19岁)

骨肉の争い

ちなみに、二代頼家の母も政子でした。驚くべきことに頼家は、母の実家によって死に追いやられたのです。そして、実朝を暗殺した公暁はなんと頼家の息子にあたり、互いは叔父甥の関係。つまり源氏将軍をめぐる争いは、血のつながった者同士の骨肉の争いであったということです。

骨肉相争

顺便一提,二代赖家的母亲也是政子。让人惊愕的是,赖家是被母亲的娘家逼死的。接下来暗杀实朝的公晓竟然是赖家之子,三人互相为叔父甥的关系。也即是说,围绕源氏将军的权争是血脉相连者之间的骨肉相残。

思えば、かの頼朝も弟の義経を奥州の地で討っています。ここに源氏が持つ宿命・運命のようなものを感じずにはいられません。裏で糸を引いていたのが北条氏であったとはいえ。

想起来,那位赖朝也在奥州讨取了弟弟义经的性命。在此不得不感到源氏背负着宿命、命运那样的东西。可以说,在幕后操纵的正是北条氏。

(源氏骨肉相残的历史由来已久,保元之乱中,赖朝之父源义朝站在了后白河天皇一方,战后处死了加入崇德上皇一方的源为义,为义是义朝的亲父)

(《百人一首》中收有源实朝的和歌)

文人将軍実朝

実朝は言わば「ダメ将軍」ではありました。将軍・政治家としての実績はほとんどありません。しかし、この時代の文化に対しては確固たる足跡を残しています。「古今和歌集」「新古今和歌集」や、奈良時代の「万葉集」を愛読し、当時最高の歌人であった藤原定家とも交流がありました。自らの歌集「金槐和歌集」も完成させています。短い生涯であったがゆえ、歌人として未完成ではありましたが、それだけに個性的で、歌の随所に光るものをのぞかせていました。後世の歌人や評論家も実朝を高く評価しています。将軍ではなく、歌人として生涯を送ったならば、大歌人として歴史に名を残していたかも知れません。そういう意味でも、実朝は「悲劇の将軍」であったのです。

文人将军实朝

实朝并非所谓的“无实将军”。他作为将军、政治家的业绩寥寥,而在这个时代的文化上却留下了不可磨灭的足迹。他爱读《古今和歌集》、《新古今和歌集》与奈良时代的《万叶集》,还与当时一流的歌人藤原定家诗文唱和。自己也完成了歌集《金槐和歌集》。因为他短暂的一生,作为歌人也有未尽之业,但正因为那样,他有着与众不同的气质,在和歌中随处显露不凡之处。后世的歌人、评论家也高度评价实朝。如果不是作为将军,而是作为歌人过一生的话,他大概会是个流芳百世的大歌人吧。从这种意义上说,实朝可谓是个“悲情的将军”。

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