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三代目のリーダーが優秀であるかどうかで組織の存続が決まる、というようなことがよく言われます。歴史を紐解けば、鎌倉幕府の三代目源実朝は文人肌で家臣団を御することが出来ず、正統将軍の血を絶えさせてしまいました。室町幕府の三代目足利義満は卓越した政治手腕で南北朝を合一、反幕勢力も駆逐するなど幕府の体制を固めました。そして江戸幕府三代将軍徳川家光。江戸幕藩体制の確立者として名高い人物です。優秀な人物であったことは間違いありませんが、その立ち位置には初代家康、二代秀忠とは全く異なるものがありました。将軍職そのものの意味合いが、家光を境に変化してゆくのです。

常言道:第三代领导是否英明决定了组织的存续与否。翻开史籍,镰仓幕府第三代将军源实朝一身的书生气,驾驭不了家臣,于是正统将军的血脉就此断绝。室町幕府第三代将军足利义满以高超的政治手腕统一了南朝与北朝,还铲除了反幕势力,让幕府体制固若金汤。接下来是江户幕府第三代将军德川家光,他可是确立了江户幕藩体制的著名人物,自然是非常优秀的,不过他所处的位置与初代将军家康、二代秀忠完全不同。将军一职本身的意义就以家光为界发生了变化。

将軍として育って
徳川家光は慶長九(1604)年の7月17日、江戸城にて誕生しました。父は江戸幕府二代将軍徳川秀忠。将軍継承の関係上、男子の誕生が切望されていたこともあり、祖父家康の喜びも大変なものでした。家光の幼名は竹千代。家康の幼名と同じであり、このことからも家康の喜びようがよく分かります。

作为将军成长

庆长9年(1604)7月17日,德川家光生于江户城。父亲是江户幕府二代将军德川秀忠。鉴于关系到将军的继承,男孩出身为万众翘盼,祖父家康也对家光的出生喜不自胜。家光幼名竹千代,与家康的幼名相同,从这就可以充分感受到家康的喜悦了。

このままいけば家光の将軍継承ということだったのですが、やがて国松と名付けられた弟が誕生します。当然二派に分かれての跡目争いが発生しました。結果として家光の方が家康に認められ、次代の将軍としての地位を手にしますが、この時に活躍したのが家光の乳母春日局です。

就如此下去的话家光会继承为将军,然而不久,弟弟出生了,取名为“国松”。自然德川家中分为两派,发生了嗣位纷争。结果是家光得到家康的认同,稳坐下任将军之位,不过在此时奔走活动的倒是家光的乳母春日局(阿福,明智光秀部将斋藤利三之女)。

さて、次期将軍の座についた家光には何人かの教育係がつきました。いずれも徳川の信任篤い重臣であり、優秀な人物たちでした。彼らによって家光は言わば「帝王学」とでもいうような教育を受けたのでしょう。中でも家光を厳しく教育したのは青山忠俊という重臣でした。将来の将軍としてふさわしい振舞いなどを叩き込み、その厳しさは家光の恨みをかうほど。事実一人立ちしてから家光は忠俊に蟄居を命じ、忠俊は蟄居処分のまま亡くなりました。

说来,位居下任将军之座的家光还有好几位教育者。这些出类拔萃的人物基本都是深受德川信任的重臣。因为他们,家光想必也接受了“帝王学”这种教育。其中对家光管教最严的是重臣青山忠俊。他猛烈对家光灌输身为未来将军的得体举止等等,其严厉苛刻甚至招来了家光的记恨。家光在能独当一面以后就命令忠俊禁闭,而忠俊就死在了禁闭处分期间。

後に家光は忠俊が後に将軍となる己のために厳しく接してくれたことと思い至り、このことを深く後悔したといいます。幼い頃から次期将軍として育てられた男の高慢からきた過ちといったところでしょうか。武将上がりだった家康、秀忠らと「次期将軍」家光。その違いがよく表れているように思えるエピソードです。

后来家光才察觉到了忠俊是为了将会成为将军的自己才严苛相待,十分后悔处分了忠俊。可以说,这个过错是由于从小就作为下一任将军抚养的男人的傲慢所导致的。原本是武将的家康、秀忠与“下任将军”家光,他们的差异在这个故事里充分展现出来了。

格が違う!

やがて秀忠が二代将軍の座を退き、家光の将軍就任の時がやってきます。しばらくは二元政治が続き、秀忠の死後にいよいよ本格的な家光の治世が到来しました。そしてこの時、諸大名を前に家光はこう宣言したと伝えられています。「余は生まれながらの将軍である」と。

身份大不同!

终于,秀忠从二代将军的位子上隐退了下来,家光就任将军的日子终于来了。在持续了一段时期的二元政治后,随着秀忠去世迎来了家光的治世。于是就在这时,家光在诸大名前宣言:“我生来便是将军”。

家光继位(《大奥》剧照)

家康、秀忠はもともと戦国武将です。知略を尽くして天下人へ登り詰めました。大名らの中には徳川の家臣ももちろんいましたが家康、秀忠の天下取りに対する協力者、言わば「元同僚」も多くいたのです。

家康、秀忠原本都是战国武将。费尽谋略方成为天下的统治者。当然,大名们中间有德川的家臣,不过也有不少是帮助家康、秀忠取得天下的所谓“原同事”。

一方、家光の生まれは「1604年」。すなわち江戸幕府の成立後です。よって、家光は生まれ落ちたその時から将軍となることを約束されていた(跡目争いなどもあったため厳密には違いますが)人間であり、他の大名とは全く格が違うということになります。もちろん元同僚などという気安さ、しがらみなども一切関わりのないこと。家光にとって全ての大名は「家臣」に過ぎません。家光は自分を「生まれながらの将軍」と位置付けることで、江戸幕府の将軍職とは全ての大名に君臨すると改めて示したのです。

而家光生于1604年,也就是江户幕府成立以后。因而家光生下来就是已经被定为将军的人了(虽然有过嗣位之争,不过严格上说是没错的),和其他的大名处于完全不同的地位。自然他和原来那些同僚之间的亲近与羁绊也通通归零。对家光来说,所有的大名都只不过是家臣而已。他将自己作为“天生的将军”,以此再次显示江户幕府的将军一职是君临全体大名的存在。

德川葵纹

孤高の施政者

その後の家光の辣腕ぶりはご存知の通り。以後の幕府による強力な支配を確定させたとも言える重要政策を次々と実行しました。例えば、妻子を江戸に釘付け、大名は江戸と地元を往復させる参勤交代制度。道中では大名行列によって湯水のごとく金を遣わせ、なかなか蓄財させないなど、二重三重に考え抜かれた大名への枷です。

孤傲的执政者

此后家光的铁腕已经众所周知了。他接连实行一些重要政策,可以说就是这些政策使后来幕府的强力统治得以确立。比如, 参觐交代制度让大名妻子入质江户,而大名在江户与封地间往返不停。途中的大名队列花钱如流水,难以积聚起财富,这是处心积虑为大名套上的枷锁。

例えば、一部を除き海外との接触を禁じた鎖国制度の完成。キリスト教宣教師による内政干渉を未然に防ぎつつ、オランダや中国との貿易を幕府の独占事業としました。その過程では海外在住日本人の帰国禁止という処置もなされ、多くの悲劇が生まれたといいます。

又如,完成除了少部分地区外、禁止与海外交往的锁国制度。这是为防止基督教传教士干涉内政,也使幕府独占了与荷兰和中国的贸易。其中居住在海外的日本人受到禁止回国的出发,酿成了许许多多的悲剧。

これらの政策を見るに、家光の幕府運営は、先代、先々代の事業を受け継ぎつつも、それらに比べて余りに鋭く、システマチックに進められたという印象です。これはやはり幼い頃からの教育と、「生まれながらの将軍」であるという誇りが可能にしたものでしょう。

了解这一系列政策后,会有如此印象,家光时期幕府的运作既承接于前代、前前代的事业,而在灵活性、系统化上又远甚于前代。也许,这正是源自幼小时的教育以及“天生将军”的荣耀感吧

日光东照宫  家康墓

しかし、その一方で家光が家康に傾倒したことも見逃せない事実です。後世の財政難の遠因ともなったと言われるほどの費用をかけ、家康を祀る日光東照宮を造営したのは、この家光なのです。ここに何か、家光の複雑な心中が垣間見えてはこないでしょうか。戦国の気風を強く残す時代にあって、戦国を知らぬ男。戦国に対する憧れや、遅れて生まれて来たという焦燥感、孤独感が、家光にはなかったでしょうか。

不过在另一方面,家光对家康极为崇拜也是不争的事实。他营建祭祀家光的日光东照宫,甚至不惜花费间接导致后世财政困难的巨费。从此举中多多少少能窥见到家光复杂的心境。这个男子生在还强烈残留着战国风气的时代,却对战国一无所知。他一定有着对战国时代的憧憬、以及出生太晚的焦躁感、孤独感吧。

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