1枚の写真がある。白いヘルメットにスカーフの白バイ隊員姿。やや不安そうな目に鼻筋の通った青年の顔。モンタージュ写真としては最も名高い手配写真である。

有这么张照片,这是个戴着白色的安全帽围着围巾的白摩托(警用摩托)队员模样的人。年轻人的脸上那笔挺的鼻梁鼻梁上方目光略带着些不安。作为一张蒙太奇式的照片,这是张非常有名气的通缉照。

昭和43年(1968)12月10日。この日は東京府中にある東芝工場のボーナス日だった。朝9時半頃、雨の中を工場へ向かう現金輸送車を「白バイ」に乗った警官姿の男が停めた。「車に爆薬が仕掛けられている」。そう言って銀行員らを車の外に待避させると、男は輸送車を運転して猛スピードで走り去った。従業員のボーナス、2億9430万7500円の現金を積んだまま……

昭和43年(1968)12月10日,位于东京府中的东芝工厂在这一天发年终奖。早上9点半左右,一个骑着白摩托的警察模样的男子拦住了在雨中开往工厂的运钞车。“车内被安装了炸药”,该男子如此说着,让银行职员们到车外回避,然后男子猛地一踩加速开走了运钞车。营业员的奖金2亿9430万7500日元现钞都还屯在车上……

警察はメンツにかけて大捜査を展開した。多摩地区のアパートをしらみ潰しにする「ローラー作戦」を展開、大学紛争や新左翼の活動家を狙ったものではないかといわれた。

警察们不顾面子地展开了地毯式大搜索,一个不漏地调查多摩地区的公寓,展开“滚筒作战”,这一举动在当时被认为是以大学斗争和新左翼运动家为目标。

当初、犯人逮捕は難しくないと思われていた。なにしろ遺留品が多い。現場には「白バイ」や、爆発物と思わせるための発煙筒などが残された。現金を積み替えて逃げるのに使われたカローラも別の場所から見つかっている。だがどれも盗難品かありふれた物で、犯人にはつながらなかった。そしてあの有名なモンタージュ写真も、やがてその信憑性と有効性に疑問が投げかけられたのだった。

一开始警方认为逮捕犯人并不困难。毕竟遗留物品不少,现场还残存了一台“白摩托”以及疑为爆炸物品的发烟筒。为转运现金后逃离所使用的丰田KE10型汽车也在其它地方被找到了。然而这些不是赃物就是量产物品,无法和犯人联系起来。然后那张著名的蒙太奇照片的可信度和有效性不久后也遭到了怀疑。

実は事件直後から、捜査線上には重要参考人として地元不良グループのリーダー格の少年が浮かび上がっていた。少年の父親は白バイ隊に所属する警察官であるうえ、少年が現金輸送車襲撃を計画していた、という仲間の証言があったことなどから、捜査本部は少年の事情聴取を行おうとしていた。しかしその矢先の、事件から5日後の晩に、少年は青酸カリを飲んで死んでしまった。

其实,事件发生后不久,在警方的调查中,一个领导当地不良集团的少年曾被作为重要证人。因有同伴证言显示,少年的父亲就是任职于白摩托队的警察官,而且该少年也曾经计划过袭击运钞车,搜查本部打算对少年就案件情况进行问询。可就在问询开始前,也是抢劫案发生5天后的当晚,这名少年吞服氯化钾身亡。

事件から1年後、捜査本部は有力容疑者として20代の男性を別件で逮捕、マスコミも大々的に実名報道した。だが男性にはアリバイがあった。大失態である。

事件过去了1年后,搜查本部又以另一案子为由逮捕了一个被认为是重大嫌疑人的20岁男子,媒体也大张旗鼓地进行了实名报道。然而该男子有不在场证明。警方出尽了洋相。

↓遗留在现场的白摩托

捜査は常に後手後手にまわり、7年後の昭和50年(1975)に時効を迎えた。この間に動員された捜査員はのべ約17万人、民間からの情報提供約2万5000件、「3億円事件、もう一度あなたの記憶を」などと呼びかけたポスターが16種208万枚。壮大な敗北だった。

调查始终处于被动,7年后的昭和50年(1975),该案件时效过期。在此期间,动员起来的调查人员约合17万人、民间提供的信息约2万5000件,“请重新回想起三亿元事件吧”的呼吁告示共16种高达208万张,可谓一败涂地。

昭和43年。日本は大量消費とクルマの時代を迎えていた。犯人はそんな時代の風を利用して、白昼堂々「3億円」を奪い去った。「強奪事件」と名付けられたものの、犯行は頭脳的で血は一滴も流されていない。奪われた金額は外国の損害保険会社が補塡したので、その意味では「損をした人」もいない。「3億円事件」は謎のまま伝説となった。

昭和43年,日本迎来了消费高峰和汽车时代。犯人正是利用那种时代风气,光天化日下将“3亿”席卷一空。虽称作“抢劫案”,其实是以头脑作案并没有流血事件发生。被夺走的金额也由海外的财产损害保险公司补贴掉了,因此从这一意义上讲,也并没有“吃亏的人”。“三亿元事件”便保持着神秘成了一个传说。

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