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幕末の倒幕運動に身を投じた志士として、坂本龍馬に勝るとも劣らない人気を誇る高杉晋作(たかすぎしんさく 1839~67)。長州藩士として萩(山口県)に生まれ、農民など庶民が参加した軍隊、奇兵隊の創設者として知られます。また、4度の脱藩を繰り返し、破天荒な行動が目立つ一方、戦場にも携帯用の三味線を持って行くなど、洒脱な一面もありました。対幕府戦争の最中、肺の病に冒され、下関に戻り静養中。惜しくも慶応3年(1867)4月14日、明治の世を目前に、29歳でこの世を去りました。

作为投身于倒幕运动的志士,高杉晋作有着不亚于坂本龙马的火爆人气。长州藩士晋作出生于萩,以创立吸纳农民等庶民参加的军队——奇兵队而广为人知。同时,他反复脱藩四次的惊人之举也引人注目,而在战场上也随身带着三味线的晋作还有其潇洒一面。他在与幕府作战正酣之时,肺病突发,回到下关静养。庆应3年4月14日,就在明治时代前夕,29岁的晋作抱憾离开人世。

慶応2年7月頃から体調を崩した晋作は、翌年に入るとかなり病状が悪化し、本人も回復の見込みがないことを感じていたようです。奇兵隊の一員として晋作の薫陶を受けた三浦梧楼(みうらごろう)は、臨終の10日程前に晋作を見舞った際のことを以下のように回想しています。

庆应2年7月开始,晋作的身体已经垮掉了,进入次年病情更是严重恶化,似乎他本人也察觉到大限将至了。三辅梧楼是奇兵队的一员,深受晋作的熏陶,他回忆起晋作临终时前去探望他的场景。

フト傍(かたわら)を見ると、小さい松の盆栽があつて、其の上に何か白いものを一パイ振りかけてあるから、これは何んですかと聞くと、イヤ俺はもう今年の雪見は出来ないから、此の間硯海堂が見舞に呉(く)れた「越の雪」を松にふりかけて、雪見の名残をやつて居る所さと微笑された。(三浦梧楼「天下第一人」『日本及日本人』677号 1916年4月)

瞟了一眼旁侧,有一个袖珍的松树盆栽,因为上面覆满了白色的不明物,我向晋作询问此何物时,晋作笑答,“哎呀,因为我已经看不了今年的雪景了,就在前几日硯海堂探望时所赠青松上撒上“越之雪”,聊作惜别观雪之意。”(三浦梧楼「天下第一人」『日本及日本人』677号 1916年4月)

「越の雪」というのは、もち米の粉と和三盆糖を固めて作る、長岡(新潟県)の越乃雪のことでしょう。口どけのよい菓子で、少し力を加えれば崩れるので、粉状にして松にかけ、雪に見立てたと考えられます。

所谓的“越之雪”,大概就是指将糯米粉与和三盆糖加固制成的长冈越乃雪吧。这是种入口即溶的美味糕点,微微用力咬下就会塌散,弄成粉状覆于松之上,看起来正如雪一般。


越乃雪は、安永7年(1778)、当時の長岡藩主牧野忠精(まきのただきよ)が病に臥せった際に考案、献上されたのがはじまりといいます。その後病が治ったことを喜んだ忠精が、「越乃雪」と名づけたとされます。幕末には江戸や京都、大坂でも知られる銘菓となっていたようです。

相传,安永7年(1778),当时的长冈藩主牧野忠精卧病在床时,越乃雪被首次献上。疾病痊愈后的精忠十分高兴,为其起名为“越乃雪”。据说幕末时越乃雪已是名扬江户、京都、大阪的上等名点了。

藩主の病が治ったとの由来を知って、療養中の晋作のため、知人が越乃雪を取り寄せたのかも知れません。しかし、当の本人は覚悟を決めていたのでしょう。菓子で最後の雪見を楽しんだというのは、いかにも洒落者の晋作らしいエピソードといえるでしょう。

也许友人正是知道越乃雪治愈了藩主疾病这一由来,才送给疗养中的晋作吧。可是,晋作本人大概早已有思想准备了。用糕点来赏最后一次雪,可以说,这的确是极具晋作风雅作风的趣闻。

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