【日语学硕】医学文学双修将浪漫贯彻到底的文豪之——森鸥外
大家好呀,今天我们一起来看下考研真题常出现的近代作家——森鸥外,在进入人物介绍之前,我们先来回顾下自然主义和反自然主义的概念。
1.自然主义和反自然主义的概念
(明治40年)19世紀末に、ゾラのナチュラリズムの影響を受けて、人間のありのままの姿や現実の醜悪さを自己告白的に表現しようとする傾向が自然主義である。
明治40年,也就是19世纪末,受埃米尔·左拉自然主义的影响,在日本,自然主义诞生,即以自我告白式表现人类本来的样子和现实的丑恶。
自然主義文学全盛の中で、それに同調せず超然としていた文学者と、自然主義のあまりの事実偏重と私小説への傾きに対して、はっきりと反自然主義の立場をとった文学者たちがいた。前者は余裕派と呼ばれた森鴎外と夏目漱石で、後者は耽美派·白樺派に属する作家たちである。
在自然主义文学的全盛时期,有些文学家并不赞同它,有些文学家对于自然主义过分偏重事实和倾向于私小说,明确地持反自然主义的立场。余裕派代表作家有森鸥外和夏目漱石,反自然主义还有耽美派、白桦派的作家们。详见下图。
接下来我们一起看下森鸥外所代表的余裕派。
余裕派とは、「自然主義」の流行した時代に、これと平行して批判的な立場を保つ、そういう文学的態度である。
余裕派诞生于“自然主义”盛行之时,与之平行,持有批判态度。
2.作家生平
森鴎外(もりおうがい)(1862年2月17日〈文久2年1月19日〉~1922年〈大正11年〉7月9日)は、日本の明治・大正期の小説家、評論家、翻訳家、教育者、陸軍軍医(軍医総監=陸軍中将相当)、官僚(高等官一等)、医学博士、文学博士。本名:森林太郎(もりりんたろう)。
森鸥外是日本明治、大正时期的小说家、评论家、翻译家、教育家、陆军军医(军医总监相当于陆军中将)官僚(高等官一等)、医学博士、文学博士。本名为森林太郎。
在记忆作家的作品时,我们可以参考作家的个人经历,经历会对作家创作产生巨大影响。
森鴎外は、代々藩主の典医を務める森家の長男として生まれた。幼児から家庭内で英才教育を受けた。四書五経など漢籍を学ぶかたわら、家では父から蘭学も学んだ。後に第一学区医学校(東京大学医学部)予科に入学した。最年少の19歳にして卒業し、陸軍省の軍医となった。明治17年(1884)、22歳の時、陸軍省の命令で念願のドイツへ軍費留学し、衛生学を研究する。医学の他に文学・哲学・芸術など幅広く知識を吸収し、とりわけ近代ヨーロッパの合理精神に強く影響を受け、後の文学理念の根幹をなした。
森鸥外出生于代代担任藩主典医的森家,是长子。自幼接受英才教育。除了学习四书五经等汉籍之外,在家也跟父亲学习兰学。后来进入第一学区医学校(东京大学医学部)预科就读。以19岁毕业,毕业年龄最小。毕业后成为陆军省的军医。明治17年(1884年),22歳的森鸥外受命前往心心念念的德国军费留学,研究卫生学。除医学外,他还广泛吸收文学、哲学、艺术等知识,尤其深受近代欧洲合理精神的影响,这成为后来文学理念的根基。
鴎外の作家活動は、日本最初の本格的な文学評論雑誌「しがらみ草子」の創刊(明治22、1889年)を皮切りに、ドイツ三部作といわれる『舞姫』(明治23、1890年)『うたかたの記』(明治23、1890年)『文づかひ』(明治24、1891年)、原作を凌ぐとうたわれる訳詩集『於母影』(明治22、1889年)、翻訳『即興詩人』(明治25、1901年)とたて続けに行われ、文壇での地位を確立した。後に小倉へ左遷され、文筆活動から遠ざかり、本務に専念し、軍医としての最高位である軍医総監に昇進した。
鸥外的作家活动,始于日本最早的正式文学评论杂志《しがらみ草子》的创刊(明治22年,1889年),森鸥外发表了被称为德国三部曲的《舞姬》(明治23年,1890年)、《うたかたの記》(明治23年,1890年)《文づかひ》(明治24年,1891年)。翻译作有《于母影》(明治22年,1889年)和《即兴诗人》(明治25年,1901年),这些作品奠定了森鸥外在文坛的地位,后来降职到小仓,远离写作活动,专注于本职工作,晋升为军医级别最高的军医总监。
明治42(1909年)の「スバル」の創刊と同時に、旺盛な創作活動を開始し、文壇に復帰した。『ヰタ・セクスアリス』(明治42、1909年)、『青年』(明治43~44、1910~1911年)、『雁』(明治44~大正2、1911~1913年)などの作品を次々に発表した。
在明治42年(1909年)《スバル》创刊的同时,森鸥外开始不断创作,回归文坛。作品接连发表《ヰタ・セクスアリス》(明治42年,1909年)、《雁》(明治43~44年,1910~1911年)、《青年》(明治44~大正2年,1911~1913年)等作品。
明治天皇の死に続き乃木大将夫妻の殉死という大事件に軍部の人間として関わった鴎外は、強く刺激を受け、鴎外の自我や批判精神を粉砕してしまったかのように見え、殉死を主題とした『興津弥五右衛門の遺書』(大正1、1912年)を書いた。この作品以後、鴎外は歴史小説を書くようになり、武士道精神を追求した『阿部一族』(大正2、1913年)を書いた。現実社会への苦悩と諦観を感じていたこともあって、以後は歴史小説に転じた。史実に忠実に事件や人物を描くというより、むしろ「歴史離れ」をまざして書いた『山椒大夫』(大正4、1915年)、続いて『最後の一句』と名作を相次いで発表した。『高瀬舟』(大正5、1916年)は安楽死の問題を扱った。なお、鴎外の歴史小説は、後の菊池広や芥川龍之介の歴史小説に大きな影響を与えた。
继明治天皇之死后,乃木大将夫妇殉死,作为军部人员,森鸥外受到了强烈的刺激,这一事件粉碎了森鸥外的自我和批判精神,创作出以殉死为主题的《兴津弥五右卫门的遗书》(昭和八年,1912年),这部作品以后,森鸥外开始写历史小说,写了追求武士道精神的《阿部一族》(1913年,大正2年)。由于对现实社会感到苦恼和无奈,此后转向创作历史小说。与其说他忠实于描写事件和人物,不如说是以“远离历史”为主题而创作,比如《山椒大夫》(大正4,1915年),之后又相继发表了名作《最后的一句》和《高濑舟》(1916年,大正5年)。《高濑舟》涉及到安乐死的问题。另外,鸥外的历史小说对后来的菊池广和芥川龙之介的历史小说有很大的影响。
森鸥外著作一览表:
『青年』(1910~11)漱石の『三四郎』を意識した青春小説。
『雁』(1911~1913)自我に目覚めかけた主人公お玉の挫折を描写する。
『山椒大夫』(1915)人間内部の論理観を描いた、伝説に基づく歴史小説。
『渋江抽畜(しぶえちゅうさい)』(1916)弘前の侍医(御医)の伝記を基にした史伝。
『舞姬』(1890年)短編小説。ドイツ三部作のひとつである。
3.代表作《舞姬》
接下来为大家介绍十分著名的著作《舞姬》。
大田豊太郎は幼い頃から厳しい家族教育の中で育ち、優秀な成績で大学を卒業、官命によりドイツに留学する。仕事の合間に行った大学で「自由なる大学の風」に触れた彼は、「まことの我」に目覚め、官長の命令に反抗的な態度を示すようになる。そのころ、貧しい踊り子エリスを救ったことから交際が始まるが、留学生仲間に中傷され、職を解雇される。その後、本国の母の死やエリスの妊娠が重なり窮地に陷ったとき、親友相沢謙吉の助により天方伯に重用され、本国への帰国の望みを得る。天方伯に帰国をすすめられると、豊太郎は悩みながらも承諾してしまう。そのことが結果的にエリスを追い込むことになり、エリスは精神に異常をきたす。豊太郎はそんなエリスを残し、複雑な思いの中で帰国の途につく。
主人公大田丰太郎从小在严格的家庭教育中长大,以优异的成绩从大学毕业,奉官命前往德国留学。在工作之余去的大学里接触到“自由大学之风”的他,“真正的我”观念开始觉醒,对官长的命令表现出反抗的态度。在那时,因为救了贫穷的舞者爱丽丝,二人开始交往,但是主人公被留学生同伴中伤,后被解雇。之后,由于本国的母亲去世以及爱丽丝的怀孕陷入困境,在好友相泽谦吉的帮助下被天方伯重用,有望回国。当天方伯劝他回国时,丰太郎虽然很烦恼,但还是答应了。这最终导致爱丽丝精神失常。丰太郎撇下爱丽丝,在复杂的思绪中踏上了归国之路。
「考察重点」
1. 森鸥外所属的流派。
2. 森鸥外的代表作品。