一、《平家物语》的成立及作者

鎌倉時代、十三世紀半ばごろには原型成立。
据推测成立时间约为13世纪中叶的镰仓时代。 
『平家物語』は、特定の個人の創作ではなく、様々な見聞談や「いくつ語り」、日記などの記録に基づき、原型ができ、その後、僧侶など多くの人々の手を経て増補されて今日の形になった。琵琶法師に語り広められて出来上がり、現在の形になったと考えられている。

《平家物语》并非是特定某个人的创作,而是根据各种见闻以及“一些故事”、日记等形式记录下来形成的,后经僧侣等多人之手增补成今天的形式。一般认为是失明的琵琶法师用琵琶伴奏演唱的基础上形成的。

二、《平家物语》的内容

平家の栄華と没落を描いた軍記物語である。保元の乱、平治の乱勝利後の平家と敗れた源家の対照、源平の戦いから平家の滅亡を追ううちに、没落し始めた平安貴族たちと新たに台頭した武士たちの織りなす人間模様を見事に描き出している。

这是一部描写平家兴盛和衰落的军事物语,描写了经历保元之乱、平治之乱后获胜的平家和战败的源家、及源平战争后平家的灭亡,描绘出一幅开始走向没落的平安贵族与新兴的武士阶层交织出的世间万象。

平家一門は栄華を極め、平清盛は太政大臣にまで栄達するが、専横が激しく、早く反平家の動きが起こる。源頼政の決起に促された諸国の源氏は、源頼朝・木曾義仲をはじめとして次々に挙兵する。折りしも、平清盛は熱病で病没、義仲の驚異的な進撃の前に、平家は京都を捨てて、都落ちする。しかし、横暴な義仲軍は人心を得ることができず、頼朝の代官源義経に敗れ、義仲は討死にする。平家は一の谷、屋島で義経の天才的な軍略によって大敗し、ついに壇ノ浦で滅亡する。

平家一门荣华富贵,平清盛虽然荣升为太政大臣,但是专横跋扈,众人早有反平家的举动。在源赖政崛起的导火索下,各地的源氏以源赖朝、木曾义仲为首,纷纷举兵。恰好平清盛因热病而病逝,在木曾义仲惊人的进攻面前,平家抛弃了京都,逃往外地。然而,横行霸道的义仲军不得人心,败给了源赖朝的弟弟源义经,木曾义仲战死。平家在一之谷、屋岛之战中因为源义经天才的军略而大败,最后在坛之浦之战中被歼灭。

このような平家一門の興亡の歴史が語られる中に、清盛の寵愛を失った祇王、高倉天皇の寵を得ながら清盛の圧迫を恐れて嵯峨野に隠れた小督、一門の滅亡後、大原に隠棲した建礼門院徳子など、女性たちの哀しい物語も織り込まれている。仏教的な無常観に基づきながらも、勇壮な合戦場面は迫力をもって描かれ、また、死や別離を前にした人々の心情も、美しく、哀切に物語られている。

在讲述平家一门兴亡史的过程中,也存在一些女性的悲哀故事,如失去平清盛宠爱的祇王、得到高仓天皇宠爱却害怕平清盛压迫而隐居嵯峨野的小督、平家一门灭亡后隐居在大原的建礼门院德子(平清盛女儿)等。虽然本作品基于佛教式的无常观创作出来,但是雄壮的战斗场面也被描绘得绘声绘色。另外,面对死亡和别离,人们的心情也被美丽而哀切地诉说着。

解説:

保元・平治の乱

1156年(保元1)と1159年(平治1)に京都で相次いで起こった内乱。いずれも宮廷内の権力争いに原因があり、短期間の戦闘で勝敗が決したが、武士の時代の到来を告げ、平氏政権が成立するきっかけとなった。

保元・平治之乱

1156年(保元1年)和1159年(平治1年) ,京都相继发生的内乱,即保元之乱、平治之乱。这些都源于宫廷内部的权力之争,虽然在短暂的战斗中决定了胜负,但此内乱宣告了武士时代的到来,成为平氏政权成立的契机。

三、《平家物语》的文体

漢語を多く用いたであり、力強くリズム感に富んでいる。擬音語・擬態語を効果的に用い、である武士の躍動する姿を活写している。

多用汉语,是和汉混合文体的代表作,文体强有力而富有节奏感。有效使用拟声拟态词,生动地描绘了武士潇洒的身姿。

四、《平家物语》的构成

通常十二巻からなっているが、物語は三人の登場人物(平清盛(たいらのきよもり)・木曾義仲(きそよしなか)・源義経(みなもとのよしつね))に焦点をあてると、【第一部】巻一~巻五、【第二部】巻六~巻八、【第三部】巻九~巻一二の三部に分けられる。

《平家物语》由十二卷构成,故事以三位登场人物(平清盛木曾义仲源义经)为焦点展开,全书主要分为三个部分。

第一部分(卷一~卷五)叙述平清盛当上太政大臣,成为第一位武家登上这个职位的人物,平家的盛极一时,令人赞叹。但平清盛当上高官后,开始跋扈,除了硬将自己的女儿平德子嫁给高仓天皇,后来更让自己的外孙登基成为安德天皇,并曾囚禁后白河法皇,控制整个朝廷。此外,还强行迁都福原,引起贵族公家的不悦,后来不得不又迁回京都。因此福原迁都,也被鸭长明在方丈记中,视为与地震、饥馑、旋风、大火等同样的灾祸

第二部分(卷六~卷八)则是在平清盛因为热病过世后,由于长子平重盛早逝,只好由三子平宗盛继承平家。但由于平宗盛个人能力不够,使平家渐渐衰落。此时木曾义仲趁势崛起,成为本书第二个重点。义仲为源氏后代,在北陆一代兴起,很快的就打入京城,逼迫平家撤到西国,丢掉首都。不过义仲进入首都后,没有办法约束自己军队,木曾军在京城里坏事干尽,加上碰上养和大饥馑,军心很快就涣散,最后镰仓的源赖朝下令两位弟弟源范赖、 源义经追讨义仲,并且将义仲斩首示众。

第三部分(卷九~卷十二)则是将重点放在被日本人视为战神的源义经身上。义经进入京城后,受到后白河法皇的信赖,并且在追讨平家的一之谷之战坛之浦之战等等立下战功,被视为打倒平家的最大功臣。但是由于战功彪炳,因此引来哥哥源赖朝怀疑,最后被下令追讨,一路逃到奥州的平泉,刚开始受到藤原秀衡庇护,但秀衡死后,其子藤原泰衡为了讨好源赖朝,便逼死了义经。也让义经成为日本史上备受欢迎的悲剧人物。

平家灭亡后,平清盛之妻平时子抱着外孙安德天皇与三神器一同跳海,更让人感受到盛者必衰之感。而这种无常观也是作者想要表达的重要观念之一。

原文赏析

冒頭文

祇園精舎

祇園精舎ぎをんしゃうじゃの鐘かねの声こえ、諸行無常しょぎゃうむじょうの響ひびきあり。沙羅双樹しやらさうじゅの花はなの色いろ、盛者必衰じやうじゃひっすいの理ことわりを顕あらわす。奢おごれる者久ひさしからず、ただ春の夜の夢の如ごとし。猛たけき人ひとも遂つひには滅ほろびぬ、偏ひとへに風の前の塵ちりに同じ。遠く異朝いてうを問とぶらふに、秦しんの趙高てうかう2、漢の王莽わうまう、梁りようの周伊しうい、唐の禄山ろくざん、是等これらは皆旧主先皇せんくわうの政事まつりごとにも従はず、楽たのしみを極きわめ、諫いましめをも思ひ入れず、天下の乱れん事をも悟さとらずして、民間の憂うれふる所を知らざりしかば、久しからずして、亡ぼうじにし者どもなり。近く本朝を窺うかがふに、承平の将門まさかど、天慶てんぎやうの純友すみとも、康和の義親ぎしん、平治の信頼しんらい、是等これらは奢おごれる心も、猛たけき事も、皆とりどりなりしかども、間近まぢかくは、六波羅ろくはらの入道にゅうどう前さきの太政大臣だいじょうだいじん平たいらの朝臣あそん清盛きよもり公こうと申まうしし人の有様、伝へ承うけたまはるこそ、心も詞ことばも及およばれね。

現代文訳

祇園精舎の鐘の音は、諸行無常の響きがある。沙羅双樹の花の色は、盛んな者もいつか必ず衰えるという道理をあらわしている。権勢を誇っている人も、永久には続かない。それは春の夜の夢のようなものだ。勇猛な者も最後には滅びてしまう。それは全く風の前の塵と同じだ。遠く外国に例を求めれば、秦の趙高、漢の王莽、梁の朱异、唐の安禄山、これらの者は皆、もとの主君や前代の皇帝の政道にも従わず、ぜいたくの限りを尽くし、人の諌めを受け入れようともせず、天下が乱れることを悟らず、民衆の憂いも顧みなかったので、長続きせず滅亡してしまった者たちである。また近くわが国の例を見ると、承平の平将門、天慶の藤原純友、康和の源義親、平治の藤原信頼、これらの人は権勢を誇る心も勇猛な事も、皆それぞれ甚だしいものだったが、やはりたちまち滅びた者たちである、ごく最近では、六波羅におられた入道前の太政大臣平の朝臣清盛公と申した人のありさまを伝え聞いてみると、想像することもできず、言うべき言葉もないほどだ。

中国語訳(周作人訳)

祇园精舍

祇园精舍的钟声,有诸行无常的声响,

沙罗双树的花色,显盛者必衰的道理。

骄奢者不久长,只如春夜的一梦,

强梁者终败亡,恰似风前的尘土。

远征外国的事,有如秦之赵高,汉之王莽,梁之朱异,唐之安禄山,这些人都因为不遵旧主先皇的政治,穷极奢华,不听谏言,不悟天下将乱的征兆,不恤民间的愁苦,所以不久就灭亡了。近观日本的例,如承平年间的平将门,天庆年间的藤原纯友,康和年间的源义亲,平治年间的藤原信赖等,其骄奢的心,强梁的事,虽然各有差别,但是即如近时的六波罗人道,前太政大臣平朝臣清盛公的事迹,就只照传闻的来说,也有非意料所能及,言语所能形容的。

考点提示

1. 《平家物语》虽然写的是平安时代末期平清盛一家由盛转衰的故事,但是作品成立时间是在“镰仓时代”。
2. 《平家物语》的文学地位:与《源氏物语》并列为日本古典文学双璧。是军事物语的代表巨作。
3. 《平家物语》描写了武士阶级的抬头,自此之后武家文化和思想逐渐压倒贵族文化,以皇家为主体的文学逐渐衰退。

4. 《平家物语》的中心主题有“无常观”“武士道”“儒家思想的道德观”“佛教思想的因果论”等。

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