棒の両端にかますを吊して、ぶらんぶらん担ぎ廻る例の「皆喰爺」が、寮の裏で見える度に、私は尹書房ユンソバングを思い出すのだ。
 尹さんは少しはましのチゲ(担具)労働者である。然し土壇場にまで突き込まれて、喜劇ならぬかわった意慾の生活をろうする点では、全く同じいだろう。
 早朝起き上ると、尹さんは先ず自分の版図を検分し出すのだ。崩れかかった彼の小屋が、しょんぼり立つ低湿地の一帯は、書房の心の中では、彼の所領と定められている。地面に境界の線を引き廻ったりして、夢中になる。
 終日街を出歩いて、三十銭も稼げぬことだろう。今日はどうでした? と夕頃つい出会って、問いかけでもしたら、彼は直様すぐさま癖の手を頭にやって、
「なあ学生さん」とうそぶくのだ。「偉え不景気でがしてのう」
 彼は裸一貫である。何時かの述懐に依ると、二男一女が一時に熱病でやられているが、信用はおけない。ただ彼の女房が産褥で悶死したことだけは、どうにか事実だと云われている。
 今年の夏なども帰国すると、尹書房はどうして嗅ぎ付けたものか、最早その翌日には、庭先にくだんのおどおどした体を現わしたことである。彼は喰ってかかる様に、突拍子に叫んだのだ。
「日本てとこさ、豊作ちゅうですな!」それから、歴とした小作農でもある様に、ぶつくさ愚痴をこぼした。「チェーギたまらねえだ、もみ一斤五銭でやがらあ」
 又或日の如きは、高潮した興奮の中で、すっかりせき込むのだ。……羽二重はぶたえの見捨品を日本内地の工場から直接取り寄せて、大儲けをする者が居る。日本へ渡ったら、何とか取り計って呉れぬか。佐賀の居所は何処どこだ。一筆走らして貰い度い、等と。然し次の瞬間、尹さんは先の仰山ぎょうさんな用件はけろりと忘れたものか、
「学生さん」と急に話題を変え、えへらえへらひょうきんに笑い出すのである。それはべらぼうな吐言の予告でもある。そして、彼はむきになって、村長と駐在所長とどちらが位の高いものだろうかと頭をひねった。私はつい苦笑すると、彼は益々顔面に深いしわを刻んで、それ見ろ至極しごく難題で困ったろうとでも云うみたいに、胡麻塩ごましお蓬髪ほうはつをくさくさ掻き立てたのだ。
 ――秋の学期が始まり、佐賀に再び帰ってから間もないことである。郷里の母の手紙は、苛性曹達ソーダんだ彼の死を告げてきた。あの莫大な夢想と陶酔と自尊心の荷が、とうとう始末に逐えなくなったのかと、私は異様なショックに打たれたのだ。然し今日、寮裏でひょっこり例の「皆喰爺」を見つけると、この爺はあの偉大な口と胃腸の名誉にかけても、最早自殺等は出来まいと、不図ふと私は思ったことである。爺はその固く喰いしばった口の中で、どんな言葉を反芻はんすうしているのだろう、諸君も知っているのだ。炊事場の掃溜場から、かますを吊した例の棒を肩に掛けて腰を上げると、籾、羽二重、村長を呟くかわりに、爺はう怒った様に喚くのである。
「ちゅっ、おいが荷物はこぎゃんとばかしこ」

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