日语文学作品赏析《千世子(二)》
外はしとしとと茅葦には音もなく小雨がして居る。
千世子は何だか重い考える事のありそうな気持になってうるんだ様な木の葉の色や花の輝きをわけもなく見て居た。ピショ! ピショ! と落ちる雨だれの音を五月蠅く思いながら久しく手紙を出さなかった大森の親しい友達の処へ手紙を書き初めた。
珍らしく巻紙へ細い字で書き続けた。
蝶が大変少ない処だとか。
魚の不愉快な臭いがどこかしらんただよって居る。
とか云ってよこした返事を丁寧に馬鹿正直な位に書いた。
三日ほどしたらいらっしゃいとも云ってやった。
白い
中へ落ちて行くのを聞き届けてから一寸の間門の前に立って、けむった様な屋敷町を見通した。
近所に住んで居る或る只の金持の昔の中門の様な門が葉桜のすき間から見えたり、あけっぱなしの様子をした美術学校の学生や、なれた声で歌って行く上野の人達のたまに通るのをジーット見て居ると、少し位の不便はあってもどうしても町中へ
裏には京子とあんまり
あっちこっち返して見ながら、こんなやすっぽい絵なんかのぬりたくってあるものを平気で出してよこす其の人が自分の趣味とあんまり違って居る様でいやだった。
たった今自分が手紙をやった人がこんな事を平気で居る人だと思うとあんまり嬉しい気はしなかった。
部屋に帰ってあけて見ると、大森の見っともない町の不愉快さを涙をこぼすほど並べたててもう二日もしたらこっちへかえって来ると云ってよこした。
まあ考えて御覧なさい。
目の下にはあの芥だらけの内海の渚がはてしなくつづいて、会う女の大抵は見っともなくお白粉をぬった女か
「おむつ」がハタハタひらめくと魚の臭いがプーンと来る、もうほんとうにたまらない。
やっぱりあすこの方が好いからもう二日たったら帰ります。
それでも来る日が心待ちに待たれた。
これぞと云った特長もないのに
一年も半年も会わないで手紙さえやりとりしなかった時はたびたびでもその次会った時には
そうも思った。そしてお茶時にわざわざ、
京子の来るまでの三日は何にも
その日の夜千世子は何となし後髪を引かれる様な気持になりながら或る芝居に行って仕舞った。
かなり前から見たいとは思って居たけれど行って見ればやっぱりしんから満足出来るものではなかった。
時々舞台からフーッとはなれた気持になって今時分あの人が来てやしまいかなんかと思った。
それでも身綺麗にした若い人達の間を揉まれ揉まれしてゆるゆる歩いて居る時にはいかにも軽い
クルクルに巻いた筋書を袂に入れてかなり
お留守だって申上たら随分がっかりした様に御玄関にかなり立って居らしったんでございますからほんとに御気の毒でございましたよ。
すまなかった。
帯の「しわ」をのしながら女中は京子が旅へ出かけるらしい事を云って居たなどとも云った。
翌日朝早く京子の家へ「今日は一日居るから」と云ってやった。
午後ももう日暮方になって京子は重そうな銀杏返しに縞の着物を着て手が目立って大きく見える様な
悪うござんしたねえ。
でもお留守だって云われたら変になったの。
どうだった事? あすこ。
「私の事なんかより早くあっちで何をしてたんだか御話しなさいよ。
ほんとうにまあそんな見っともない処でどうして居るんだろうとよく思って居たんです。
でもまる一月ですもの。
よく
「何をするしないもあるもんですか。
あんな処に貴方が私位居たらほんとにどんなだろう、話すのさえいやだ。
それよりか私あさってっから西の方へ旅に出かけなけりゃあならないの。
「どうしてそんなに急に?
「何故だか知らないけどそうなったんだもの。
先から思って居る事だから嬉しいとか何か好い事が自分を待って居る様な気がするとも云った。
帰って来てから相談する事があるとか考えてもらいたい事があるとか云って、
嬉しさの半分はいやな相談から抜けられると云う事なんだもの。
何を考えてもら
「帰って来てから好いんですの。
そうさし迫った事でもないしするんだから。
私はほんとうに真面目に考えなければならない事なの、
その事を考えると先ぐ感情が先に立つ、それを鎮めて冷静にして居なければいけないんだから――
やっぱり私一人では困る――
京都へ行ってからの事ばっかりを云って居る京子は、鴈次郎の紙治が見られるとか、純粋な京言葉を習って来るとか、いつもにないはでな口調で話した。
これからざあっと一月又会わなくなると云う事等は一寸も悲しい事にも淋しい事にも思えなかった。
新らしい
立つ日も聞こうとしなかったし御大事に行らっしゃいなんかとも云おうともしなかった。
ましてステーションまででも送ろうなどとは夢にさえ思わなかった。
只旅に出る事ばっかりをそわそわして嬉しがって居るのが千世子にはたまらなく気にさわった。
けれ共翌日になるとこのまんま一日も会わないのはいかにも物足りなく思われて立つ時間を聞きにやった。
いよいよ立つ日には落ちては来なかったけれど泣きそうな空模様だった。
御昼飯を仕舞うとすぐ千世子は銘仙の着物に爪皮の掛った下駄を履いてせかせかした気持で新橋へ行った。
西洋洗濯から来て初めての足袋が「ほこり」でいつとはなしに茶色っぽくなるのを気にしながら石段を上るとすぐわきに、時間表を仰向いて見て居る京子の姿を見つけた。
奇麗に結った日本髪の
だまって
急に振りっ返った京子は顔いっぱいに喜んで、
そんなに時間もなかったので千世子は入場券を買って居るとわきに居た京子は、
うすい地のインバネスを
その伯父と云う人は千世子に通り一ぺんの口を
ただ見かけただけだったにしろ、ろくに笑いもしない様な伯父と京都まで差し向いで居なければならないのかと思うと斯うやって満足して居る京子がみじめな様に思われた。
プラットフォームに入っては口もろくに利けないほど
コトリと動き出して、京子の窓が三間ほど向うへ行った時千世子は何の
急に開けた往来の真中に立って見知らずの人達がただスタスタと目の前を歩いて行くのを見ると急に友達を送って来たと云う一種異った淋しい様な気持が千世子の胸に満ちた。
電車の中では隣りの人の雑誌に心を引かれてすぐに家に行きついた。
入り口の石の上に見なれない下駄がそろえてあった、来た人が誰だか千世子には一寸想像がつかなかった、母親の居間で客の話し声が聞えた。
男にしては細い上っ皮のかすれた様な声をその人は持って居た。
千世子は自分の部屋に入ると懐のいろんなものを机の上にならべた時母親に呼ばれて千世子は居間に行った。
あけっぱなしの縁側のわきに座ると母親は自分の近い身内の者で千世子にもかなり近い人だと云った。
柔かな厚い髪が額にかかって思いのこもった眼と白い良くそろった歯をその人は持って居た。
肇と云う名だった。
顔が細くて男にしては喉仏の小さいのや、少しずつひかえ目に内気に物を話すのが千世子には快い気持を起させた。
初対面のほぐれにくい話の緒をもてあます様にして居る肇の態度がまだそうはすれない人の様に見せてじきに一つ事に熱中するらしく見せて居た。
今度の時は御馳走してあげますよ。
十二三になっても夜は一人で「はばかり」へ行かれなかった児だったとか、すぐ物を恐れる癖があったとか云うのがその様子に思い合わせて千世子にはうなずかれる様な節々が多かった。
それからもう十年より沢山会わないで居たんだからどう性質が変ったか分らない。
でも内気な気持だけは今だに持って居るらしい。
来ても何をそう食べると云うでもなくしゃべると云うでもなく他処よりも木の葉の深々と繁って居るのを見たり、忘られた様な数多の書籍の裡から思いがけなく好い絵や言葉を見つけ出したりして居た。
上品なこの来る度の無口さは千世子に、やがて口を開いた時に云う言葉の価値をいかにも大きいらしく思わせた。
そいでその緒をなかなかほごそうとなさらない。
遠くからながめる夏の暮方の森林の様な心の色が何にでもおだやかな影を作って「
自分の
自分が進んで話を切り出し、自分が自分を
お互に或る無形の鏡を持って照し合わせ様として居るのを又お互に知って居た。
時々亢奮した目附で何か云い出そうとしてはフット口をつぐんで静かな無口になるのを千世子は興味ある気持でながめた。
肇のすきこのみなどを千世子は話すまで千世子は聞くまいと思ったし、千世子のすきこのみ、毎日仕て居る事、などは同様肇は何も知らなかった。
誰でも――お互に。
何だったかの折にジーット一つ処を見つめながら、
多くの人は犯し難い沈黙を持つ事は喜びもし口にもする、けれ共尊い悲しみと云う物を思う人達の数は少ないものだろう。
心の正しい、
笑いの影には悲しみが息づき歓楽の背後にすすり泣く悲しみがある。
悲しみなしの喜びは世の中に
いかなる詩聖の言葉のかげにも又いかばかり偉大な音楽家の韻律のかげにもたとえ
悲しみと云っても只涙をこぼすばかりの悲しみではない。
人は喜びの極点に達した時に或る一種の悲しみを感じる、その口に云えない悲しみが美の極点にも崇高なものの極点にもある悲しみである。
その口に云い表わされない悲しみの心に宿った時、口に表わせない尊いすべての事がなされるのである。
千世子は斯う思って必ず有ると信じる「尊い悲しみ」を愛して居た。
自分の絶えず心に思って居る事を思いがけない時に話されたので千世子はそれをかなりの間覚えて居たのだった。
けれ共自分の心から湧きあがった事でない限り一つ事をそういつまでも思いつづける事のない千世子なので久しい間とは云えじきに忘れて居た。
千世子は
頭脳の
けれ共その望は到底みたされ様にもなかった。
少し頭の細やかな、頭の先立って育った人達は或る時期にある特別に涙っぽい気持を持って世の中のすべての事の一端をのぞいて全部だと思い込む人達であった。
心の隅に起った目に見えるか見えないの
そうして千世子は頭の友達に満足は出来なかった。
自分は奇麗にしずとも美くしいものを見、美くしい
千世子が自分から進んで
たった一度千世子はフットした処でわけもなくただスンナリと美くしい人に会った。
忘られない様な見開いた眼と長い「えり足」を持って居る人だったけれ共横から見る唇がたるんでシまりなく
美くしくもなく
千世子とは正反対にただ音無しい京子の性質と何でもをうけ入れやすい
一言一言を頭にきいて話す頭の友達が出来そうなど
(二)
昼間のまっすぐに通った大路は淋しい人通りがあるばっかりでいかにも昔栄えた都と云う事がしのばれます。
貴方にも都踊は見せてあげたい。
祇園の
自分の性質をよく知って居る京子がうっかり見せられないと云うのはほんとうの事だろうと思った。「美くしい」と名のつくものは何んでも千世子はすぐ
だから、奇麗だと思って居たものがきたなかったりするともうしんからがっかりして仕舞うのが癖だった。
自然の美くしさをあんまりわすれかけると大変な事になって仕舞う。
人工の美くしさにはかなりな批評が出来るけれ共自然の美くしさは批評をする事がなかなか出来ない。
すき間も無い美くしさだから批評は入れられない。
人の手の届かない美くしさを持って居るからだ。
永い間つき合って居る京子にこんな種類の話は幾度仕たかわからない。
京子はあんまり熱中して話す様になると、
そう呼ばれても千世子は満足して居る。
――○――
葉書をうけとって間もなく千世子は返事を書いた。
そしてあんまり棒の太くない首人形をお土産に持って来て呉れるのを忘れない様になどと
女中にたのんで出させにやると入れ違いに肇が訪ねて来た。
いつも来るときまって通す部屋に入れて千世子はいかにも喜んで居るらしい目つきでまとまりのつかない事をいろいろと話した。
散歩に出た時の話だの旅行に行き度いと思うなどと一時間も立てばフイになって仕舞うほど
もう少しどうかした話はないんでしょうか?
「さあ、
もう少しどうかした話しって。
千世子は大きな籐椅子に
どっちかが口を切らなければ斯う云う沈黙はいつまでもはてしなくつづくのである。
何とはなし重っ苦しい
その時さっきっから読みかけて居た形の小さな小奇麗な本をひざにのっけて居た千世子は、
千世子は肇の話の工合で自分の読んで居る物位は肇も読んで居るに違いないとあてをつけて居たのでそんな思い切った事をした。
肇は小さくうなずいた、そして驚いた様な口調で、
どうして」
「何故でもないんですが。
そいだのに読んだものの話なんか何故一度もなすった事がないんでしょう。
遠慮していらっしゃったんですか。
「そう云うわけじゃあありませんけど。
貴方なんかがそう読んでなんかいらっしゃるまいと思って居たんです。
千世子の知らない事も知って居た。
一つ処を見つめて低い声で話されるのはいかにも快く千世子の耳に響いた。
尊い悲しみと云う事について死ぬと云う事について顔のほてるのを自分で千世子が感じたほど話したのはこれまでには例のない事だった。
物事に感じ易い涙もろい気持を持って居る肇の一事一事が又感じ易い千世子の頭の裡に一つ一つとのこって行った。
何かを抱えて居るらしい人だと云う感じがその時に限ってふだんの倍も倍も強く千世子の頭に湧き上った。
淋しい影の裡に喜びのこもって居るらしい、黒の裡に紅の模様のある、おぼろ月の夜の
近づき
自分が男だもんで着物の色彩からうける
強いて目立つ色の着物でゾロットする事などは学者肌とも云う様な肇の出来る事ではない。
色彩と云うものに対しての気持は一人前以上に強いのだ。
などと云うと千世子は
この頃の若い女の人は随分飛び飛びな種々な色を身につける。
髪に新ダイヤが輝いて赤い「ツマミ細工」のものなんかも一緒に居る。
それでも夏はそれほどひどくは気にならないけれど冬羽織着物、下着、半衿とあんまり
紫紺の極く濃いのと茶っぽい色とを
沢山の色が自由になると云う事が
話の緒がフットした事でほぐれるといかにも自由に肇はいろんな事を千世子にはなした。
予期して居た通りいつ来た時でも「あくび」が奥歯の隅でムズムズする様な事がなかった。
自分の生い立ち等を話す時はあんまり神経的になりすぎた。
けれ共一度寄せた大浪が引く様に高ぶった感情がしずまると渚にたわむれかかる
千世子の
けれ共
人の物を
漸く話のわかって来た友達を失うと云う事は嬉しい事ではないので
――○――
其の日は随分暑かった。
明けられる「まど」は少し位無理をしたって開けっ
ギッシリと
そしていつもの癖をむき出しに紙をなめる様にしてペンを
そうして居るうちに肇が来て帰って仕舞ったと云う事は思いもよらない事だった。
肇は母親が呼ぼうとしたのに邪魔するのはお
でもまけおしみの強い千世子はそれについてあとでは一言も云わなかった。
肇に話そうと思って居た事を夜母親に話してきかせた。
けれ共これぞと云う人格をはっきり云う様な事はしなかったが心のなかでは「ハーア」と思って居る位は千世子にだってわかって居た。
何にもそう追求する必用もないし又只友達でなみなみにつき合って居る分ならなどと千世子は思って居た。
その晩千世子は両親の容貌の美醜によって子供の性質に幾分かに変化を与えられると云う事が必ず有りそうで仕様がないと話した。
あるらしい気がする。
来る毎度に肇がぶちまけた話をする様になったと云うのはたしかである。
けれ共千世子の読む物、書くものに対して一歩もふみ込まない事がいかにも快い事の一つであった。
親切な保護者に両親はなるべきもので監督者にはなるもんじゃあない。
保護者として自分が思うのはあながち両親ばっかりと限ったわけでもない。
その人の云った事なら千世子は心から満足して随う事が出来る。
けれ共監督者には随っても心からではない。
そうは云うけれども真の保護者と監督者がどんなに違うかを味わってからでなくっては云える事じゃあない。
千世子はよく
千世子は家の事を云う毎に必ず幸福だと云う。
希望に満ち、喜びがあふれて居る、と云う。すさんだ家庭に
ホーム、スゥイート・ホームと云う言葉をしみじみと味わって見られたらなどと肇が云うと、母親はすぐ、
母親はそんな事を不思議がって、
物がすぐ好きになる、物事に限らず人でもすぐ信じ易い千世子は肇を
静かに育った頭と上品な話し振で、家庭の辛い
私はきっとない様な気がして居る。
其の次肇の来た時、千世子はこの前の事を何にも云わなかった。
肇も亦それについては一言も口に出さなかった。
懐の裡に入れて来た肇の雑誌に千世子が読みたいと思うものが出て居たのでそれを見つけるとすぐ奪う様にして息もつかず肇を忘れた様に読み始めた。
眼の奥が痛い様になるほどいそいで読んでフイと首をもちあげると不用意に千世子が
千世子はホッと顔が熱い様になった。
けれ共すぐ元に戻った青白い顔を真正面に向けてうつ向いて読んで居る肇の顔を珍らしいものの様に見た。
丁度うっとりと眠ってでも居るかと思われるほど長い黒い「まつ毛」がジイッとして、うすい
こんなに静かで居て火花を散らして働いて居る頭の
ややしばらくたって肇がそれをテーブルの上に置いた時思いがけなく自分を見て居た千世子をチラット見て子供がする様な笑い方をした。
誘われた様に千世子もだまって微笑んだ。
千世子の頭には
けれ共はにかみ屋の小娘の様に口に出しては何事も云わなかった、そして母親と三人で一番近くにあった芝居の話や新らしい書籍の話やらを開けっ放した気持ちでして居た。
かなり名の聞えて居る小説家の裡で千世子はどんなにしてもただ
文学に
満足する様な人は一人だって無い。
少し婦人雑誌で名が売れると一つ二つ著作してもう文士気取りでカフェーをほっつき廻る。
文士と云う名から気に入らないしその裡にゴチャゴチャになってホイホイして居る女の人達ももう一層嫌いだ。
千世子は亢奮した口調でこんな事を云った。
話した後で黙って聞いて居る母親と肇の顔を見るとあんまり云い過ぎたと云う様な気持になって取っつけた様に笑った。
そして、斯うやっていく分かはお調子に乗って話し込んだ自分の頭のなかみをすっかり肇に見すかされた様ないやな気がした。
それでも肇は千世子の云った事に賛成した。
男の人達の裡にだってそう云う人はいくらでもある。
よっかかりのあるうちは華に小鳥の様にさわぎ廻って居た文学ずきの人達がその頼りを失って世の中に投げ出された時、自分の持って居た自信よりも
眼先にちらつく物を追いはらう様な顔をしながら肇は低い声で云った。
幼い時っから不幸な目にばっかり会って来た自分はこれから何か仕様と云う希望はあってもいつでも何とも知れずそれに手をつけると善くない事が起って来そうに思われていけない。
物事をするのにあんまり考え深すぎる、いくじなしな人間の様に見える事がある。
自分の淋しい過去を思い出した様に涙組んだ様になった肇の大きな眼を見ると、兄弟がなくとつられて泣く赤坊か何かの様に千世子も淋しいうるんだ気持になってこの先にだけは幸福にあらせたいなんかと思ったけれ共その影のうすい様に細い体や愁の絶えない様な声を聞くと肇の体が世の中から去るまで悲しい影がつきまとって居る様に見えた。
千世子はこれから草を刈ったり耕したりしなければならない畑地が苗を下すに合うか合わないか分らない様につくつくとのびて行くか、根ざしさえ仕ずに枯れて仕舞うんだか分りもしない事でありながら肇についてそんな事の思われたのはいかにもいやだった。
自分の一度でも口をきいた人達は皆幸福であって欲しいと自分の身の幸福なお
どうしても幸福であらせたい。
千世子は仲の善い
肇が帰って仕舞ってからも母親に、
(三)
もう十年ほど前に
大伯父が純宗教家でそう華々しい生活もして居なかったけれ共
千世子の家とはかなり親しいんで千世子なんかもちょくちょく行った。
大伯母さんと千世子なんかは呼んで居た。三十八九の時、信二をもったので息子の年の割に母親は
まとまった意味のある話の出来ない人でクタクタな首をふらふらさせながら涙組んで、
どんなに
大伯父はしっかり者で頭の明かな人だったから好い様だったけれ共その
今の学校ももうじきに出るんですしこの先をどうしたらいいか、又貴方のお父様の御力でもかりなくっちゃあねえ。
お金になりましょうかねえ。
金持になりたい人が小説屋さんになるのは間違って居る
千世子は大伯母がわかるまで廻りくどく七くどく話した。話をきいた大伯母がげんなりした様に、
そんなにこの大伯母に心配をかけるに十分なだけ信二もまたかっちまりのない風にゆれる夕顔みたいなノコンとした気持で居た。
別に仕たい仕事もこの世の中には無い様に云って居た。
生涯の目的が定まって居ないからこれから先行く学校は自分でも分らず親類の者の考えで蔵前を受けて誰でもが予想して居た通りの結果で選抜されるほどの頭も鬼っ子で持って居なかった。
或る学校の補欠の試験を受けるつもりで当人は居るけれ共身内のものは皆あやぶんで居る。
もうまるで大人になった体をもてあました様に柱によっかからせてついこないだから着始めた袖の着物の両袂に手を突込んで突袖をして居る様子は「にわか」の
千世子が歯がゆい様に
大伯母さんはそりゃあ案じてなさるのに。
まとまりのない頭の裡を大部分占めて居る其の年頃特有な気持が何かにつけて見っともない様子を信二に与えた。
何となしノポーッとした躰やじいっとした瞳や、やたらに気味悪いほど赤い唇が信二の年と共に育って、その唇からジラジラした嫌な声が出ると千世子は自分の体がちぢまる様な気がして自分がこんな男でなくってよかったなあと思う心とやれやれと思うのが一緒に
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