日语文学作品赏析《千世子》
一足門の外に出ればもう田があきるまで見渡たせるほど田舎めいた何の変化もない、極うすい水色の様な空気の山の中に千世子の一家はもう二十年近く住んで居る。子煩悩な父親、理性的な母親は二人ながら道徳の軌道を歩みはずすまいとして神経質になって居るほどで又、それをするほど非常識でも感情的でもない。両親ともに書も歌や詩や文も達者で、父親は彫刻まで上手に若いうちはし、人にも見せられるスケッチさえもって居た。ごく古典的なところと此の上もない新らしさの入りまじった生活を長い間つづけて来た千世子の家庭は人々の思想もとうていはたからは想像さえ出来ないほど複雑なものであった。
感情的な我ままな想像を思いもよらないところにする頭をもった千世子は、その二親と召使共にかこわれて贅沢な思い上った様な暮しをして居る。
八畳の部屋の三方を本箱の城壁を築いてダンテの像を机の上に、孔雀の羽根首人形歌麿の絵を飾ってそうした中にゆっくりした籐椅子に頭をもたせて千世子は暇さえあれば読んだり書いたり考えたりして居た。なりふりに一寸もかまわない様で居ながら、すききらいの多い、こみいった気持をもった千世子は時々どうしていいかわからなくなるほどすぎてしまった古い事をなつかしがったりどんなに努力しても千世子なんかには分らないにきまって居る哲学的の事を思いなやんだりして両親からは妙な子だと云われながら自分で自分の心を信じて深いたくらみのある様にうす笑をしたりして居た。千世子はどっちかと云えば、ずんぐりのわりに顔の太って居ない男の様な額と神経質な眼、爪のやたらに小さい手を持って居る。顔の変化のやたらに目立つのがくせだけれ共笑う時にはいつでも顔いっぱいに笑う女だった。気にしないと云うわけではなくっても髪なんかをそんなにかまわない、いつでもまん中から両わきに分けた髪に結って居る。あんまり仰山な着物より気のきいた柄の銘仙の上に縮緬の羽織をかけたのが一番気持がいいと口ぐせに云って、お召のあのしんなりした肌ざわりをすいて居た。
人ぎらいのしない千世子のまわりには沢山の人達がよったりはなれたりして居た。
丁度女王が沢山の朝臣を謁見するその時だけ一人一人の名前で思い出す様に千世子に一寸でも考えさせたり忘られない様にする人なんかはただの一人もなく千世子を中心に遠くに輪を描いて廻って居るばっかりであった。中でたった三人千世子のごくそばに輪を描いて居る人達で、飯田町の信夫、従兄の源さん、工学士のH、そんな人達がある。
信夫はまだほんとうに若い世間知らずなお坊ちゃんで、二親に死に別れて千世子の叔父にあたる家に世話になって居る。二十一寸前の、そういう年頃に有勝な癖で、やたらに恋を恋して居る人だと云うのを千世子は知っていた。
まだ臆病な世間馴れない若い男が一番手近だと云う事と、一寸並の女と変って居ると云う事ばかりで自分に対して恋の真似事の様な事をしかけて居ると云う事を千世子は読みすぎるほどよんで、「恋を恋して居るうちがいいんだ!」位に思いながらもふるえる様な瞳や下らない事に顔を赤らめたりするのを見ると、いかにもととのわないみっともない物の様に思えた。
真面目な常識に富んだ源さんは千世子の従兄でありながら変なほど千世子を大切に思ってて、
源さんは自分の導いて行かなくっちゃあならない様なこの女に、心の奥の奥にひそんで居る感情は出来るだけはかくして居ながらも、いつの間にか千世子には知られて居た。工学士のHは苦労した事がその世なれた人をそらさない口つきでわかるほどの人であった。
おととし学校を出てすぐ外国に行って病気で帰って来て、今は保養がてら家でしなければならない事だけをして居る、三十きっちり位の神経質な体の弱い、白い立派な額と大変に濃い優しげな髪をもって居る。
Hに特別な同情と気持を千世子は持って居た。他人の話をきいて自分はだまって居る事の多い、話をする時にはいつでも丸いふくらみのある声でし、声楽のかなり出来るHは、千世子の一家から頭のすぐれた母親の気のおけない話し相手、千世子にはかなりいろんな事を教えて呉れる人として、大抵の人にはすきがられて居た。Hがこの家庭に出入し始めたのは二年前の夏頃から父親のいそがしい仕事を手伝ってもらう様になってからで、その年の冬になると、
木枯が情ないほど吹きまくって青白い月の水の様にかがやく晩、明け近くなるまで話し合った事があった。
昼間のいそがしさにつかれて夜になるとじきに眠気がさす笑上戸の千世子の父親は、
それからそれへとうつって行く話に、亢奮しやすい千世子はあたり前の事を話して居るのに一つ一つ言葉が心のそこにしみ込んだ様に涙ぐんで居た。Hや母親は自分達の若かった頃の事を話して、
「ねえHさん、先私がつまらなくってしようがないと云った時に、今と同じ事貴方は教えて下さったじゃあありませんか、うれしい事でも悲しい事でもを強く感じて居られる間が幸福ですわ。阿母さんだってそうでしょう、私はほんとうにそう思いますワ。ミイラ見たいにひっからびた感情になって生きて居たって仕様がありませんもんねえ。うれしい事や、それの又反対の事の沢山あるだけ生甲斐がありますワ、どんなにか……」
「お前なんかほんとに苦労をした事がないから悲しい事や辛い事をたえるって事があくびをするのと同じにポカポカ出来ると思って居るのさ。いざとなってそれに向って見ればよっぽど意志の強い理性的な頭をもった人でなければたえられるものじゃあないよ、お前なんかそんな事に出会うとすぐに気でも違ってしまうのがせいぜいだ」
「ほんとうにその通りですネ、
私なんか随分子供の時から悲しい事なんかにはなれて居るけれ共やっぱり頭のねれて居ない証拠には下らない事でむしゃくしゃにされる事があるんですからねえ。
自分にあんまり苦労ばっかり多いからクリスチャンにもなったほどですもの――『世の中は苦労のかたまり――それがあるからいい事もある』と悟って居ながら、なまはんかな悟りはすぐ破れちまいます」
「かまいませんよおっしゃいナ、貴方より一寸は年上なんだしするから年寄らしい御同情も出来るかもしれませんもの」
「エエ有難う、じゃ聞いて下さい。アノーマアこうなんです、私に、自分で何だか変な様ですが五年もの間約束して居た
千世子は涙をぼろぼろこぼしながら、
千世子は「女」と一言云った時には情にもろい中にもつんとした力のある生涯の事を約束したりして若しそれが成功しなかったら死ぬまで独りで居る様な信じられる考えのある女ばかりであって欲しいといつでも思って居た。独りで死ぬまで居られないんなら――そいだけ強いところがないんなら、お七の様に何にも考えずに只自分と男だけの世の中にしてしまう事の出来るほど情だけの女の方がまだ好い千世子のすきな女であった。
金のまばゆさに目のくらんだ女。病気で死ぬか生きるかに苦しんで居る男をこの時こそと云う様にすてて行った女。
斯う思うと、憎しみ、怒りのかたまりになってそのまだ見た事もない女の顔はとてつもないきたないものになって目の先にちらついた。
「何にもお前に関係のある事じゃあないじゃないか」
「そうには違いないけど阿母さんそうお思いなさらない?」
「ほんとうにどんな血とどんな脳髄をもって居るんでしょう、犬だって猫だって食べない肉をもってるんでしょう」
「いけませんでしたネエ、貴方のいらっしゃるところでするべき話じゃあなかったんですけど、つい……」
「は、一寸感じるとこうすぐ変になっちまうんですから……」
「その方が尊いんですよ。この女にすてられればこっちの女、こっちの女がだめならあっち――そんなにすさんでしまう人だってありますもの――男なんてまして女ほどそういう事に対しての刑罰は重くないんですものねえ。貴方がそれをすっかり忘れてしまって、皆の安心する様に結婚でもなさりゃあなおようござんさね。そんな事が一度位あるのもやたらに女にだまされない様になりますからねえ」
「私が若し一緒になる人なら、私がどうしても欲しいと思う様な人があった時のはなしです、それまで私は独りで書生の生活をして居る方がいいんです」
「でも若い人同志がお互にいいと思いあっても間違いがありやすうござんすものねえ、何にでも感情が先立つ頃なんだから……」
「それでも二人ともが真面目で、それこそ手なべさげてもと云うほどだったらその方がどんなにかお互に幸福でしょう」
「あぶなっかしいってどんな? ねえ貴方、そんなに私はあぶなっかしい猪武者なんでしょうか――」
「お阿母さんは案じていらっしゃるんですよ、貴方とお母さんの感情はまるであべこべですものだから時々お互にわからない事が出来る様になるんでしょう」
「そうでしょうかネエ」
「焔が、――まあなんてきれいに燃えてるんでしょう、何かまっかな着物を着たものが出て来そうだ」
「貴方、マアこうなんですよ、そんな事を感じて居るのは無駄な事だ、只神経を費すばかりだといくら云ってもやめないんですから、それで又思ってもだまって居ればいいのに、ヒョイと顔を出すんですからほんとにサ」
「そんなに云わずといいじゃありませんか、今日にかぎって。だれでも私みたいに御金の事も着物の事も考えずに居れば斯う云う好い気持になれるんですよ、私の方が妙なんだか世の中の人が妙なんだかわけがわかりゃしない」
「エエそりゃあ分ってますの、けれども人よりもよけいに嬉しかったりきれいだったりするのに心配はいらない事でしょう……」
「そう云うもんじゃありませんよ。親と云うものは、自分の子供がうれしがって居れば嬉しがりすぎはしまいかと案じる――あんまり綺麗だと云えば綺麗がりすぎはしないかと案じるんですから。聞くだけでも感謝してきかなくっちゃいけますまい、私なんか親に心配された事なんか夢にも有りゃしない、不幸なんです」
「いいかげんに考えるって云う事は私大きらいな事です。一生懸命に考えたり、人にきいたりすれば幾分か満足に近い考えが出来て来るんですもの、そんなうれしさは中々それこそほんとうに――」
「そうかもしれませんけどあんまり考えてわからない時は山の中に入ってしまいたかったり、華厳の滝から招待状が来たりネエ。そうじゃありませんか貴方ぐらいの年の人はもっとのんきらしくして居て好いんです、頭ばっかりの人間になってしまいますよ」
「中々むずかしい事ですネエ」
「斯うなんです。こないだ私がネ、ダヌンチオの『死の勝利』をよんでたんです、かして御らんておかあさんがおっしゃるからかしてあげたら『こんなものがこの頃はもてはやされるのかネエこんな事を書いてさ、だからこの頃の文学はいけすかない、第一かいて居る事からしていや味でサ』って云ってらっしゃったんです、だからそれででしょう?」
「そうでしょうかねえ、あの何とか云う人の『死の勝利』なんてまるで道徳を無視して居るじゃありませんか、それにサ、恋した女なら夢中で恋して居ればいいじゃありませんか、それだのにあんな自分の女をあっちこっちからのぞいてサ、一人でうれしがったり怒ったり、若い娘のよむはずの第一ものじゃないじゃありませんか」
「あの時もそう云ったんですけどネエ」
「私はどっちをどっちと云いかねますねエ、近頃の小説は一寸もよんで居ずそれについて又深く考えた事もないしするんですから、ちょっくらちょいとは云いきれないものです、……」
「私はごく平凡な事を思ってます。あんまり常軌を逸して居なければそんなにああこう云いやしません、世の中の事ってのは或る程度まで人なみにやって行くことが心要なんですから……」
「そう云うお考えなら私と阿母さんの間に入って好いお考えなんですねエ」
「そうでしょうか……」
「それじゃねましょう、阿母さんを起してやさしくして御あげなさいよ、サ」
「エ、今日は私があなたを興奮させたんでしょうネ、キット、かんべんして下さるでしょう、ネエ」
「エエそんな事おっしゃるまでもない
「ここでやります、エエ、もうそうひまもないんです――しますから――」
「考えずにおやすみなさい」といたわる様に云って一寸千世子の背に手をかけた。千世子はまっくらな室へ、Hはうす赤くローソクのガラス越に光って居る部屋へと、まるで違った気持で別れた。
(二)
寝間着を着て床に入りは入っても枕の羽根がかたまってごつごつして居たり、毛布がずったりして千世子は落ついた気持になる事が出来なかった。寝なくっちゃあならないと思って眼を閉じるとうすいまぶたをすかして五色の光りものが目先をとんで廻った。耳なりがするそうぞうしい音の中にヘッダの科白が浦路の声でひびいて来ると思えば鴈次郎の紙治のまつわる様なこえがひびいて来る。今日までよんだ本の中で良いと思って居たところがキレギレにうかんで来る。
千世子の頭中にたまって居る不平やら疑問やらがぬけ出して来てゾロリっとならんで一つ一つが、
うれしい時千世子がいつもする様にかるいため息を吐いて胸をそうっと抱えた。時には世間を知りぬいた女の様なさばけた様子をしたり、女王の様におごった心持となりをして見たり、又今の様にいかにも若い女らしいしなやかなこまっかい曲線をつくる身ぶりをする事等は千世子のくせの一つであった。
目さめかけた小供のまぶたの様にぼんやりとあかるんで居る外の景色は、寝坊な千世子の今までにあんまり経験した事のない優しさと考えぶかさと気高さをもって居るものだった。霊気にふれた様に、偉大なものを頭の中につきこまれて居る様に千世子は外の景色を見入って居た。今までめったに見た事のない壮厳な背景の前に千世子の頭にたえず描かれて居るニムフやサチルズがかるい足どりで木の葉かげから出て来ては舞うのが見られた。アポローの銀の絃の澄んだ響に、ふかさの知れない谷底になる沈鐘の鐘がまじって美くしい音楽となり、山の*さん郎らの金の櫛で梳りながらの歌声、そうした、いかにも想像で出来あがった美くしいおだやかな幻影の絵巻物が千世子の前にひろがった。
涙をポロポロこぼしながら千世子はひざまずいた、嬉しさは潮の様に波立っておしよせて来る。
神秘的な暁の色の中に体をひたしてつっぷして目に見えないものを感謝し讚美した。ジいと上を見ながら千世子は立ち上った。
よろこびと云いしれぬ胸のときめきにかすかにふるえる体をうす桃色の房の長い寝間着とまっしろにシックリした毛足袋につつんで長くとかした髪をくびに巻いて青磁の燭台に灯をつけた、部屋の出口を銀に光る鍵であけることも廊下に木のかげのさして居るのもこの上なくいい感じのする事だった。途中まで来て千世子は巻いて居たかみをほぐしてその半分で顔をかくし灯をさきに出してすり足をして歩いた。
斯う云う時に斯う云うなりをして斯う云う心持でこんなところをあるいて居るのは、長くつづいた舞台面の一節をくぎったものの様だと思われた。
ふさわしい、いかにもつり合った言葉を一こと云って見たかった。けれども人間ぐさいろくでもない言葉を云ってぶちこわしてしまうよりはと千世子はだまっておどり上る胸をかかえて西洋間の前に立った。
うす赤い灯がチラチラとガラスの中にもえて居る、黒い人影がうごかずに居る、かるい歌ごえが戸のすき間からもれて来る。
オパアルのように光るハンドルをもってそうっとあけた。うす青い暁の光線の流れ込む中に桃色のかさをかぶったスタンドがともって新らしい色をした薪からは御あいそうをする様にまっかな焔がチラチラと出て居る。厚いカアペットの上に紫のクッションを敷いてHはなげずわりに座って火を見ながら歌って居た。胸の貝のボタンが大きくまたたいて紺と茶の縞の千世子と同じ形の寝間着の背中はポッカリとふくれて居た。
ローソクを消すのも忘れた様に千世子は立ったまんまで居た。フッとふりかえったHはおどろいた様なかおをして云った。
「ねられなかったんですワ」
「ねられない? 私も、だからこうやってさっきっからここに来てたんです」
「そう、だけどいいあけ方です事ネエ、部屋でさっきっからいろんな事を思ってよろこんで居たんですワ」
「有難う、でもほんとうに、あんまり興奮させちゃって、ネエ」
「私今うれしいんだからそんな事云うの御やめなすってネどうぞ、ほんとうにうれしいんです、もうどうして良いかと思うほどなんですの」
「ようござんすネエ、まわりの幸福な人は少し位いやな事に出会っても嬉しく思っちまうんですからネエ。一寸変な事云う様だけれ共私のきく事をあんた返事して下さる?」
「してかまわない事なら……」
「じゃネエ、貴方は私をどんな男だと思う?」
「どんなって――私はそう思ってます、かなり感情のつよい神経家なんだけれ共つとめて平気になんでもない様にしていらっしゃる方。それから世の中には自分が征服してしまうかそれでなければそれに心を奪われてしまう事ってあるでしょう。それを大抵の事は征服して――少しぐらい無理でも又心をうばわれそうになっても征服しなくっちゃあ気のすまない方、生をつよく愛する方、それで居てかなり悲しみやすい方、違いましたら――」
「そう見えますか、それで貴方は私をすき? それともきらい?」
「私はすきな人でも時によると、――その時の気持によって見向もしたくないほどになる事がありますもんはっきりは云えませんけど――好きはすきですわ」
「すき?」
「エエたしかに――だけどあんまりすきかすきかなんておっしゃるときらいになっちゃうかもしれない――」
「そう……」
うす青かった暁の光線は段々赤味をおびて来て、窓がらすがキラキラする様になった。
太陽の暖味と薪の赤さでのぼせる位部屋の中はあつくなった。千世子はこんなにうれしくこんなに神秘的だった暁がさわがしい昼間にかわる事がいかにもつらかった。
千世子は湯殿で一寸もねなかったのに顔や手を洗う事なんかはいかにもとっつけた様な馬鹿馬鹿しい事に思われた。虹の様な光りをもってこのうでまでついて居るシャボンのあぶくにさっきの気持が洗いさらされてしまった様になって、まっぴるまに見る瓦屋根の様なすきだらけなはげっちょろなものになってしまった。
午前中はとりとめのない事に時をつぶしてしまい、午後からはHもいそがしく、千世子も興にのって夕飯まで書きつづけたんでいつもの様に話もでず平凡な一日を送った。
夕飯の時父親が会でおそくなるのでいつも父の座るところに母親が座って食べながら、
「そうですか、でも御世話さんでしょう、私まで……」
「そんな事があるもんですか、ネ? そうなさいもうそうきめてしまいますよ」
「そんならそうしていただきましょう、御気の毒ですけれ共……」
「エエ、エエ、かまいませんとも」
千世子は何となくくすぐったい様な気持がしながらその話をきいて居た。
(三)
次の日も次の日もHと千世子はその日と同じ様な事をして暮した。議論で一日つぶしよみつぶしかきつぶしたりして十二月一ぱいをくらしてしまった。
暮に近くなっての日Hは千世子にこんな事を云った。
「だって仕立上ったばっかりの着物のしつけをとるのもいかにも新らしい気持がするこってすもの――私みたいな男でもかなり細っかい感情をもってましょう?」
「わりにね、でも興津に帰れば阿母さんがいらっしゃるんだもの……」
「これが一かたついたら一寸行ってきましょう、樗牛のお墓に行ってきますよキット、葉書あげましょうネ!」
「なぜ葉書っておかぎりになったんだか下らない事に気がねしていらっしゃる。どうせ私になんか御かまいなしで阿母さんがあけて見るんだから手紙だって葉書だって同じじゃありませんか」
「ほんとうにねエ、よその母親より厳格で神経質ですネ」
「エエ、エエ、そりゃあもうまるで定規とコンパスで一辺の長さって云った様な感情をもって居る人ですもの、それで又手紙とか電話とかにやたらにおそれて居る人なんですもの……」
「とにかくだれが見てもあなたとあべこべな感情だと云う事はたしかですネ。貴方が好いとも阿母さんが悪いとも云えないサ、そう云う性分なんだから……」
「感情のぶつかりなんて母親と娘の間にあんまりない筈のものなんですけれ共ネ、私がつい気ままなんで時にはじまる事さえあるんですものネエ」
「でもマア、一つのつとめとして貴方は阿母さんにおとなしくして居なくっちゃあいけませんよ……女としちゃあかなりの学問もあり常識も発達して居なさるんだから」
「エエそれは知ってますけれ共……人の前で自分の感情に仮面をかぶせてちぢこまって居る事は出来ないんですもの人のために生れた感情じゃないんですもの私のものですもん」
「何にも感情を押しつつんでどうのこうのって云うんじゃあないんですけれ共、子供の一挙一動によろこんだり悲しんだりして居る親を安心させるためにしなくっちゃあならない事と思ってたらいいじゃありませんか……」
「私自分にもそう思ってつとめる事があります。でもフイとした感情につつかれて『マア阿母さんの耳たぶがきれいだ、そりゃあよくすき通った色で』なんて云う事があるとしましょう、そうするとすぐ『ろくでもない事を云うのは御やめ気違いみたいじゃないか』って云われるんですもの、フックリした気持になって居る時そう云う事を云われると、美くしく化粧した舞台がおのきれいなかぶりものをかぶって居るとんだりはねたりが一寸松やにから竹がはなれるともんどりうってかぶりもののとれた下から白っぱげた役者の素がおが出ると同じ事にネ。自分でどうしようもなくなってしまうんですワ、そうなってしまうと……」
しばらくすると母親が、
うしろの方で新しい女の事を論じて居る母親の声がいやに耳ざわりになってたまらなくって「おやめ」と云われるのにはきまって居るのにピアノに向ってベートーベンのソナタを弾き出した。
時々出て来る「あのこ」と云う声のきこえる時には規則はずれになるのもなんにもかまわずにペタールをふんだ。乱調子にそむいた心で自分がピアノを弾いて居るのにわけもなくヘッダの最後の舞台面を思い出した。
自分とは何の関係もない事でありながら斯の音に似たなげやりな調子のととのわない音についで起ったあのピストルの音を想って身ぶるいをして手をやめた、何だか悪い事でも起って来る前の様に千世子は重い気持になった。字ばかりならべたてても一日中何となく落つかないイライラした気持に送ってしまった。
寝しなにHは千世子に、
千世子はそれには返事をしずに「フフフ」と笑って立ち入られた様な気持になった。ざっと一月はなれずに居た千世子はHの性質や癖をかなりよく見つけてしまった。しんねり強い神経質な前までの経験の悪い悲しい経験でも善い経験に思いなして居る人、生活にとらわれて居ながら時々まるではなれたものの様に生活し自分等を見ることの出来る人、自信の強い人、女と云うものを二色の目で見て居る、矛盾の多い自分の心の輝きに自分でまばゆがる人、千世子には性質としてこんな事が
羽織のひもをおもちゃにする事、
ひじかけ椅子によった時にはきっと両うでをそれにかけて胸のあたりで指をくむ、
お飯茶碗でお茶をのむ事のきらいな
しつけ糸のやたらに気になる
笑う時に多くまばたきをする事
どの部屋にでも入るときっと上を見る
指の先をひっぱる事
等がそんなに目立たないながらもくせであった。これ丈のくせを知りながら千世子はきらいな人だとは思われなかった。いつもすんだ晴れた声で丸く話をすることや、どこのこまっかい皮膚にでも男に有りがちのあぶらっこい光りをもって居ない事等が千世子が特別にうれしく思う事だった。
Hがとまる様になってから母親の一層注意深くなったのは千世子も知ったけれ共、別に気にもせず自分は自分でする丈の事をすると云った様な調子に暮した。
暮に近くなってから千世子の書いて居るものも半分ほどになったけれ共どうしても言葉つきや、みなぎって居る気分やらが千世子を満足させることは出来なかった。
見れば見るほどあらが出てもう見向くのもいやになってしまってからは毎日毎日わだかまりのある様な、笑いながらもフッと思い込む様な様子をして居た。
我ままな千世子は折にふれて年上の人にするらしくない様子もしない事はなかったけれ共Hは自分の心のどこかがそれでも満足し又、それにみせられて居るのを頭ばっかりそだった様な千世子に対しての興味と云う感情のかげにごくさわやかに育って行く感情があるのをHも知り千世子もすかし見て居た。
正月になってすぐHは興津にかえって行った。
千世子は、お正月だお正月だと云ってやたらにさわぎたてる人達や、只口の先だけで「あけまして御目でとう」と云い合って安心して居る人達を嘲った目で見ながら自分では
七草頃になってから千世子はすきのない――たるみのない気持になる事が出来た。始めて自分の原稿を灰にした千世子は十枚二十枚となげこまれる紙から立つ焔の焔心の無色のところその次にまだもえきらない赤い焔、そのそとに――一番そとに酸素も思う様にうけてありったけまざりっけなくもえて居るうす青紫の色のかすかな――それで居て熱もあり思いもある焔ばかりが自分の心のそこに集って不純物のない一色の心に焔の上るごとになって行く様に思えた。いつもならば形のある、しかも字の書かれたものの灰になって行くのを見ると悲しくなる千世子は、そのかなしみよりつよいうれしさ力強さにうす笑いして形のままのこった灰のため息をつきながらくずれて行くのを見て居る事が出来た。はでなお召の着物の上に袂や袖口にインクがついて居る銘仙の羽織をひっかけて火の気のわざとない部屋でまじめな気持で一字一字をたどって行った。一句の書きなおしもしずに一日に三十枚四十枚と書ける事は夢中になりやすい千世子を一日中居るか居ないかわからないほどしずかにうす笑いやため息ばかりつかせて居た。
くせを知って居る母親はかるたのまねきや新年の会なども体の良い様に千世子には云わずにことわって呉れた。
健全な目つきと顔色をして毎日毎日勉強して居た。三四度よこしたHの手紙にはあっちのおだやかな生活の状態ときたえられた様にハッキリした自分の頭の事や結婚しろとすすめられるうるっささなんかが書いてあった。特別にいい手紙でもなければ又役に立つ事でもなかったけれ共千世子は雑誌の間にはさんで置いた。
大してHに千世子が刺げきされたと云うわけではなくっても幾分か今までと違った色が生活の上に加えられたと云う事を信じないわけには行かなかった。
前とちがったところに手紙ははさんで有って巻方も一寸ゆるんで居た。
私が電車に行った頃、母さんがここに来た、せかせかした眉つきをして机の引出しなんかを大まかに見る何にもない本棚の押し込みを見るここもからっぽ、少し気ぬけのした様な溜息を一つしてから本だらけの部屋の様子を籐椅子に腰かけてながめ廻すそれから何の気なしに手近にあるこの雑誌をとりあげる、妙にふくらんで居る、阿母さんは一寸まゆをひそめる、それからこわいものを見る様にあけると手紙が入って居る、瞳
三枚ほど紙のまくれたのを知らないでそこにはさんでもとのところに置いて一寸指で表紙を叩いてそそくさと出て箪笥の前に座って「もうじきにかえるだろうが……」と思って時計を見る。
こんな事がはっきりと目の前にうかんだ。
手袋のフックをはずしながら、
「エエ、じゃきかえましょう。もう今日はどっからも電話なんかかけてよこさないでしょうネ、来たってことわるんだからかまわないけど……」
夕方飯田町の叔母のところから電話で、今夜病院の人達をよぶから手伝うつもりで来てくれと云ってよこした。気のすすまない千世子に無理やりに髪を結わせて一番似合う紺の縞のお召をきせて車にのせて母は出してやった。
(四)
三十分も車にゆられて向うへついた時上り口には男下駄がいっぱいならんで居た。広間の方からはかっちまりのない男特有の笑声がくずれる様に起って来る中に、叔母のビードロ玉の様にすき通る声がきわだってきこえた。茶の間から足音をきいて出てきたばあやは「マアようこそ」と云って顔を見た眼で一文字にうら袖の色までねめまわして、「皆さまお待ちかねでございますよ早くあちらへ、サア」と云う時には敷石にそろえた草履の縫模様を見て居た。千世子がまだ手袋をぬいで居るのにせきたてて広間につれて行った。障子を細くあけて叔母に何か云ってだまって千世子の背中を押してやりながら後からしめてソソクサとかわききった足音をたてて出て行った。うす紫の様な煙草のけむの中にいくつもいくつも瞳がこっちを見て居たけれ共、別に赤くなるほどのはずかしさも、うつむくほどの余裕のない態度もしなかった。
「よく御噂をうけたまわって居ります」
「新花町の友人ともあれだそうですナ」
どの人もどの人もそれほかしらない五つほどの下すなしゃれをくり返しくり返して「オーヤオヤ」と思わせる人達ばかりの様に見えた。中ぶらりんのお医者様特有なフニャフニャな様子をどの人もどの人ももって、長いひげをピョンとはりがねの様にしたのと、短かくこの頃のはやりにきったのとあるかなしかの影の様なおもわせぶりなひげを一本ずつ並べてある人達などだった。わりに目はしがきいて居そうなかおをして居るくせに半間な人、やたらに通がる男、たえずあごをさすっては、「エヘヘヘ」と思い出し笑いをして居る人、着物の衿を人さし指と中指でしごいてキューキューと音をたてて下前を一寸ひっぱって袴のひもの結び目をポンと叩く事を目ざましい手ばやさでする男、どれもどれもこんな人のところへわざわざお嫁に行く人があるんだろうか? と思われる人達ばっかりだった。口元では笑いながらはぐきで「つン」とせせって叔母の横がおを見た。
杯が廻ってからの男達の様子はよけいしだらのない愚かしいものに見えるばっかりだった。あっちこっちで「お嬢さん」とへべれけな声を出してよんだりした。中には「奥さんの御めいごさん」なんかとおどろいて頓死しそうな間ぬけな呼び方をする男さえあった。酔って手をふるわせながらまだあふれそうな杯をにぎって袴からひざにダラダラと斬りかけられた様に酒をこぼしてあわててふこうとする拍子にたもとの先をお碗の中に入れたりする男の様子を千世子は手伝ってふいてやろうともしないで眉をひそめて奥歯をがチがチ云わせてにらんで居た。(こんな人達の女房なんか年中おはしょりをずるっかずるっかして袖口の光った着物を着て、ひまさえあれば塩豌豆をかじりながら火鉢の灰にへのへのもへじをかく事ほかしらない方がいいんだ)こんな事を思って居た。畳にお酒のしみを三つも作って御飯がすんだ。
千世子はかんしゃくを起した様に白い爪のやたらに小さい指さきを動かしてそこいら中をなぎたてた。赫色の毛むくじゃらの手が只わけもなくさわぎまわる中をルビーとダンラをうきぼりにした指輪のある手でスイスイと札をぬいて行く、おまけに手は白し爪は桜色になって居る。千世子は愚な民をその白い手で征服して居る女王の様な又いくじない動物達の群の中を胸をはって進む女獅子か女豹の様なかがやかしいおごった気持になった。
男達が自分をふざけさせて見たくってしようがないで居ると云う事を千世子は知って居る。一人の男は千世子をくすぐろうとしてつねられ、一人はわざと自分からつきあたって行ったくせにしりもちをついた。何故男なんて云うものはこんな時にうんざりするほどふざけたがるもんなんだろう。
千世子は男と云うものの一番みっともないところをさらけ出された様な不快な気持になった。そして思うともなくHのあの高く澄んだ額やしっかりしたくびの筋肉と丸い声を思った。
十時一寸過ぎ頃千世子はたまらなくなって帰ると云い出した。叔母がとめてもきかなかったものをあんな男達が何と云ったってもとよりとまると云うはずもなく、白い毛のボーアを
「又いつかお目にかかりましょう」
「素敵ですよ」
眠気をさそう様なそれ等の音は一つの音楽となって鼓
(五)
興津から帰ったHは見違えるほど血色がよくなって快活な眼色をして居た。高山先生の御墓の絵葉書と名所カアドを千世子に呉れた。
かなり更けるまで景色の好い事や妹の大きくなった事を話した。話を聞きながら千世子の目の前には人気のない冬の海辺の舟が腹を出してほされあみの細々とひかって居る所を強い波のとどろきに気をひかれながら、遠い事を考えて歩いて居るHの様子が目の前にうかんで居た。高山先生のお墓には自分も埋めて欲しいほど気持よさそうに思えた。Hは帰りしなに上り口の敷石のところでこんな事を云った。
翌日Hが来て製図をしながら話したのは千世子に手紙で云ってよこした様な婚礼の話だった。
三四日前から千世子にはねられない晩がつづいた。悪い夢にうなされたり、興奮したり考え込んでしまったりしてウトウトとすると夜の明けてしまう事が多かった。やたらに囲りのものに刺げきされたりあんまり感情が動きすぎたり、頭の重いのや食事の進まないのはただじゃあないと千世子は自分でも思って居た。
毎日毎日追われる様に書かなくっちゃあならない事が沢山ある様で居て何からして好いかわからずあんまり感じすぎて手が動かなくなったり一度書いた事を又くり返して書いて見たり、只さえ神経的な千世子の頭はよっぽど変調子になって来た、かお色も青く目もくぼんでいた。
翌日朝、強い目まいがしてたおれてからジッと床についてしまった。昼間ねて居るのにきたなくして居るのはいやだと云ってシイツも西洋洗濯から来たばっかりのをしかせて枕も羽根を干した方のを出させて紫のビロードの夜着の衿にローズの香水を少しまいた。そしてその中に自分は袖の思い切って長いメリンスの友禅の着物に伊達巻をしめて髪をすっかりのばして横になった。枕元にはすきな本を並べてはりまぜの枕屏風を置いた。
夢中になってすきがって居る人の詩集を抱えたまんま眠った様なさめた様な気持で目を細くあいたりつぶったりして居た。何も考えず、何もしないで居るくせに一週間位てつ夜をつづけた様に頭はつかれきって一人で枕から上げるのはむずかしいほどで、目のそこに絶えず五色の渦が巻いて居た。夜になってから九度ほど熱が出た。頭の中でお湯がにえくり返る様な気がして、目を開いたまんま千世子はポーッとなって居た。小声にブツブツ口小言を云いながら何も彼も忘れはてた様なかおをして寝入ってしまった。そして翌朝目が覚めるまでは夢さえも見なかった。
起るとすぐ、
『マア、お前ほんとうの千世かい』
ふるえながら阿母さんが云って手を握って見たりかおをなぜて見たりする。そしてほんとうの私だと信じられた時のよろこび様はマア、どんなだろう?――」
それから三日ほど千世子はねて居た。その間Hはいつもと同じ様に西洋間で製図をして居たけれ共お茶時に紅茶とお菓子を銀の盆にのせてわざと目八分にささげて入って来るおどけた姿、子供の様に他愛もない事に大声で笑う事、むずかしいかおをして真面目な話をしだす見つめる目つきや、うす笑いする口元なんかが自分の生活からはなして置かれないものの様に見ないで居ると云う事がものたりないすきがある様に感じた。鉛筆の先を削りながらフッと千世子の思い切った様に弾き出すヒラリッとおどった手つきを思い出す事もあった。そんな時にはいつでもHは「フフン」と人事の様に鼻の先にしわをよせてこの頃漸く育って来た感情を自分で信じる事はこのまなかった。
(六)
それは随分温い上気しそうな日だった。
Hは光線をよく入れようと南に面して沢山ある出まどをすっかりあけはなした、白い紙は光線のさすところだけうす桃色ににおって居た。
白い額に落ちかかって来る濃い髪を上げあげしながらHは軽い気持になって自分のすきな子守唄をうたった。Slumber Slumber ゆるいなだらかな諧調の声を胸のそこからゆすり出す様に張って歌った。
不意に庭の木のしげみからかるい若い女の声が伴奏の節に同じうたをつけて合わせて居る、Hはフイと歌をやめた、それと一緒にパッタリとその声もやんだ、うす笑いしながら又うたうとその声もつづく。
Hはうたいながら斯う思った。
「エエ、好いことは好いけど貴方は一つ家に住んで居ながらろくに顔も出さないで……女王はおこっておいでになります」
「どうーぞお許しあそばして女王! それはそうと今日は好い日じゃあありませんか、暖くってしずかで、そう思いましょう?」
「好い日ですワ、ほんとうに、でもこんな日には只はずんだ様な気持になるばっかりで、考えるなんて事は一つも出来ないお天気です……」
「ようやっと今日起きた人がそんなに考える必要もないでしょう……それに又考えたって」
「もうその先はわかってますから――」「貴方は考える事のすきでない口ばっかりの女が御すきだと見える」
「何故って一々そんな事に説明をつけてる人なんかめったにありゃあしませんわ」
「そいじゃもう云いません。今日どっかへ行らっしゃらない? 歩るくに丁度好い暖さで気もかるいし!」
「まだかるはずみですよあんまり、今日とあした位はしずかにして居なくっちゃいけません、臭剥はまだのんでましょう」
「イイエ、悪い時だけなんです、あんまりつづけるとくせになってきかなくなっちゃいますもの。じゃ、今日はおとなしくしてましょう、でも何だか出て見とうござんすわね」
「いい気持ですネエ、ほんとうに、背中からコー羽根が生えて来そうな気持じゃありませんか、飛行器にのったらいいでしょうネエどんなにか」
「いい気持ですけど斯うやって見上げてるのはもういやですワ、貴方の声でも何でもが頭の上におっこって来る様な気がするから……」
「又くせが出ましたネエ、でもまあそいじゃあっちから御入んなさい、そしても少しはなしましょう、母さんもさそって御あげなさいね」
「そうかい、でも私はこれをしなくっちゃあならないからネエ、後で行きますってそお云い」
Hの目を覚まして居るのをさとって居る千世子は、つんとすましたゆるみのない顔をして細っかいでこぼこのある紙の面が複雑な美くしさにてって居るのを見ながらしずかな自分の耳なりに気をとられて居た。
「何故私は千世子の笑って居る時にはいつでも笑って居るんだろう。千世子が気むずかしくて居る時は私までいつの間にか重い気持になって居る――どんな時にでも思い出してもふるえる様に腹立たしさと悲しさをあたえたのも女だと云う事を忘れずに居なくっちゃあならない。
私はただ一人のあたり前の娘として千世子を見て居なくっちゃあならないけれ共一日一日と立つにつれて千世子を私からはなして置きたくないものになって来た。今は斯うやって自分の心をいい悪い又そうでなくっても考える事が出来るけれ共――千世子を私は――
でも私自分ではそんなに若い心持は持って居ない様に思って居た
〔以下、原稿用紙一枚分欠〕
何にかになれそうに見せかけて置いてポッカリしょいなげを喰わせた様に何でもないものにほかなれない様にして仕舞うんじゃあるまいか?」
「そりゃあ
「こんな日にMでも来て呉れなくっちゃどうしようもなくなってしまう」目をつぶって組んだ手の上に頭をのっけて、
「そう、でも今日はそんな話するより何か美味しいお菓子でもたべた方がいい」
「そうですワ、皆がかおを見合わせて居るのに一人背中を向けた人が居るって云うのは、白粉のむらについたのよりいやなもんですわ」
だまってHのかるく動く口元を見て居た瞳を源さんの五分がり頭にうつそうとした時源さんがさっきっから自分を見つめて居たのを知った。すきをねらわれた様な馬鹿にされた様な気になって奥歯のすみに息をためた。そして見すかした凝視を源さんの瞳の中になげつけた。
源さんはすぐ横を向いた。勝ちほこった心になりながら大切なものを守る様にソーッとHの白い額を見て居た。
「大切にしなくっちゃあネ……この次の日曜には目黒あたりに行って見よう、いいでしょう?」
千世子はやたらにつかれた頭になって来た。一番深い椅子を選んでクッションを頭にあてながら二人の話をきいて居るうち、いつの間にかうたたねをしたものと見えて、目を覚した時体には赤い繻子の羽根ブトンが巻いてあった。
源さんは裏で弟達とテニスをして居るらしくおもみのあるボールの音がきこえて居た。
Hさんは懸命に線を引いて居たが身じろぎする音に気がついてふりかえってやさしい笑がおをしながら、
「せいぜい一時間位なもんでしょう。そのふとんはあんた源さんが阿母さんにたのんで出してもらって来たんですよ、そいで貴方にきせてあげたんですよ」
「ヘエ……」
Hはまだ千世子を見つめて居る。その眼からさける様にそっぽを向きながら、頭の髄からしみ出る様な涙のこぼれるひやっこさを感じて居た。男の前で涙を見せるなんかって云う事は千世子のきらいな事である。けれ共身動きも出来ないほどわけのわからない感情がたかぶって来た。頭をたおしてクッションの中にうずめた。柔かい中で、頭はガンガンに鉄の玉の様になってた。
Hは足の先を見て部屋の中を歩き始めた。幾度も幾度も廻ってから暗い方を向いてHは祈り始めた。うつむいて胸に手を組んで祈って居る様子を千世子は涙にぬれた眼で見つめた。Hが祈りをやめた時には千世子は涙をとめて居たけれ共Hの眼の中にはこぼれそうに涙があった。二人は、何のわけで涙をこぼしたんだかお互に知らない、それでもどっかでお互の心がそれを知りあって居るらしい気持がして居た。
二人の好きな曲をひきながら千世子は目をねむって居た。一つ一つの音が胸の中にしみ込む様で段々かおがあつくなり体がふるえて来て涙が又こぼれた。
こらえて千世子はHに涙を見せまいとして弾きつづけたけれ共とうとう象牙の鍵板の上に頭を下してしまった。ゆるやかに歌をやめたHはそっと見て居たけれ共、ソーッと千世子の頭を抱えてから庭に出る戸をあけて出て行った。つかれた様にふるえて声をたてないばっかりにして千世子は泣いて居た。
Mが来ないから悲しいんでもない、何がなくってかなしいんでもない、若い女によくある、只わけもない悲しみなんだろうか? そんな事ならあんまり下らない見っともない事だ。
千世子は若い娘のやたらに淋しいとか悲しいとか云う様な事をすきがって居ない。
感情的なのを、いやだと云うんじゃあない、それをむやみと表白して「私淋しゅうござんすわ」とか何とか云ったりするのがきらいだった。それだもので何のために泣いて居るのか? と思ったらいつの間にか涙はとまって居た。そのかわり恐ろしいほどの陰気さと疑が雲の様に湧き上って来た。「妙だ!」引っからびた様な目つきで千世子は思った。おや指の腹でうなる様な音を出してそれにききほれながら年よりの様なかたまったかおをして居た。Hと源さんは庭の方から高く笑いながら入って来た。
「そう、そんならそうなさいあれの原書もあるワ、正面の棚の上から二番目のはじの方に……キット」
「僕はこの頃フレンチを独りでやってるんだけど……貴方もやって御覧な……そんなに骨も折れないから……楽しみに好い……」
「でも今のところは出来ない、毎日こんな風をして居るんだからこの次の日曜に目黒に行って気分がわるくならなけりゃあ少し位つめてもいいけれ共……」
「ほんとうにそうだっけ、でも見たとこでは何ともないもんだから……」
「そうさネ……」
「それはそうと今日一体何曜?」
「今日? どうして忘れたの? 木曜ですよ!」
「じゃこの次の日曜まではじきネ」
「そうらしゅうござんすネエ、あしたは金曜でその次は土曜で……」
「口下手な方が尊いんですよ」
「でもはなしかが女にはありませんわ」
「ほんとうにそう云えばそうだが……ちっと妙だナア……」
衿を合わせながら入って来た母親は二人をつかまえて北海道の話をし始めた。いくどもいくどもお祈りの文句の様にくり返してきかされて居る千世子は自分の部屋に入ってK子のところに手紙を書き始めた。まとまりがつかないで始まり一字が思う様に出て来なかった。
一番おしまいの紙くずをなげ込んだ時、
ひき終えて二人はかおを見合わせてわけもなくかるく笑った。
夕飯の手伝いを云いつけられていやなかおをした働きぎらいの千世子は八時頃になって、
翌朝夜が早かったんで五時頃に起きた。又例の寝間着のまんま西洋間に行って火にあたりながら歌を読んで居た。
七時頃っから千世子は本をしまって学校に行くつもりで仕度しはじめた。着物を着かえて時間割を見ると数学。いかめしい字で千世子にかみつきそうにがん張って居る。
Hのわきに腰をかけて何のわだかまりもない様にスースーと引けて行く線を一日中見て居た。出がけに父親が、
何となく気弱な様な自分の心を引きたたせ様引きたたせ様と千世子は骨を折った。
その日は話のたねのつきた様に目黒行の事ばっかり云って居た。
(七)
日曜日はかなりの天気で千世子は健康らしいかお色をして居た。
千世子は何をするんでも三人と云うかずはすきでなかった。二人がはなしをすれば一人がぽかんとして居なければならないキットすきが出来る。そんな事を思って居る千世子は今日三人で行くと云う事もあんまりこのましくなかった。
千世子はいつもほどしゃべらないで白い足袋のつまさきで小石をけとばしたり、Hのかるそうな洋服すがたと源さんのマントを着た大きな影をちょいちょい見くらべたりなんかして歩いた。
割合に山の手はすいて居たけれども真向いに居る一人は二十五六の、も一人は二十位の女が悪ずれした目つきをして二人の間にはさまれてツンとして居る千世子の風の変った髪やじみはでな着物の着こなし方なんかをわざわざきこえる様に批評するのが気にさわってたまらなかった。千世子は「何がたか……」と思い上った様な目つきをしていかにも矢場女らしい鼻ぴくなかっちまりのない顔をジーッと見つめた。
向うの女も始めは、
荒い縞の背広を着てあくどい色のネクタイをいかにもとっつけた調子に結んで居た。
ニキビの一っぱい出た油ぎってニチャニチャする様な二十五六の男だった。
上から三つ目の貝ボタンの根にきりきりといたいたしく女の髪が巻きついて居た。
そのわきに話して居るまだ十七八の小僧にさえ千世子は眉をぴりッと動かして、落ちついた眼色でいかにも下等らしく見える男をにらんだ。いつまで立っても二人の男は何か意味のありそうな下びた笑いをやめなかった。
家を出る時っから源さんは、重い進まない気持になって今日こんなところに来ると云い出さなけりゃあよかったとさえ思って居た。
電車の中でも自分の隣りには座らないでHのわきに座った。話をするにもHとする、笑うのにもHの方を見る、いかにもおさなげな事ではありながらたまらないねたましさが湧いて居た。
千世子はHとかおを見合せてたまらない様な不愉快なかおっつきをした。
三人は話をしないで歩いた。けれ共千世子の目の中には絶えず笑がさしこんで居た。不動さんへのまがりっかどに来た時Hは向うから来た夫婦づれを見て、
まだ若い旦那さんが奥さんの洋傘をうでにひっかけて笑いながら歩いて来る。奥さんは鼻の先ばっかり白い、髪を不器用につかねた、草履でほこりをあげあげする、白っぽい縫の半衿が馬鹿に形につり合って居ない、頭のなさそうな女だった。これだけをすぐ見た千世子は鼻声でこんな事を云った。
一廻りして下に下りた。千世子は何にもわだかまりのない様なカラッとしたかおっつきをして四方のものをすばしっこくながめ廻した。ほんとうを云えば斯うやって歩いて居ると云うよりもあんなひがんだ心持で自分の心を一寸の間でも不愉快にさせた源さんにかたきうちをしてやるのがうれしかった。三人は広っぱを小さく一っかたまりになって歩きながら、
「あの家並の茶屋に黄色い声でほざいてる女達がよけいに気に入らないじゃあありませんか」
「あの声につられるマットン・チョップ(間抜もの)もあるんですかネエ」
「案外なものですよ、十人十色世間は広いんですから」
「又時間をつぶして来ようとは思えないところですわネエ、そうじゃあない?」
「すきずきですよ、すきな人もないではありますまい、キット、君は?」
「サア、すきませんネ、こんなところ、二度と来るもんですか」
「いまいましそうですネどうしたの? 私知ってますわ!」
「そんな事を云って居るもんじゃあないんですよ、――」
下をむいてクスクス笑いながら、
「そう、いずれ何々めしなんてこんな家並にする様になっちゃあ素人が作ったのより不美味いものになっちまうんですよ、デモ若し御給仕に来た女が自分の気に入ったら我慢するかも知れませんワ」
いいでしょうつき合っても……」
「歩けまいと思えば誰が云い出しなんかするもんですか、キット歩きます、どんな事になっても……」
「自分は歩くつもりだって足が云う事をきかなくなったら困るじゃありませんか」
「歩かして見てから云って良い事ってすワ、早すぎます、今っから」
話に身を入れて居る娘はきこえないと見えてふり向こうともしない。
Hはからになったきゅうすを出しながら、
両肩を張って二人にぶつかりながら歩いた。甘ったれる様な意味のある様な様子をして居るのが源さんに気に入らなかった。
そして二人のする話をもれなく聞こう聞こうとしながら又今日ばかり馬鹿に意地の悪い千世子にそのけぶりをさぐられまいさぐられまいとあせるととのわない身ぶりに却って心持を見すかされて居た。
「いやな事ですわネエ、私なんか自分ではキットそんな心をもってないと思ってます、だから私はやきもちやきじゃあありませんわ」
あまり美くしい景色に会うとほんの二三秒は気が遠くなる様に目にも心にも何にもうつらないまっしろになって息づまる様な事が千世子にはよくある様に今日もなって、川の上に居ると云う事もせまい橋に立って居ると云う事も忘れてさそわれる様に一二足のりだした。Hは袂の先をにぎって居た。千世子は自分の体が段々と空に上って行く様に思われるほど愉快だった。
自然と云うものを千世子が抱けるものだったら、しっかりと抱えて、千世子が自分で可愛がって居るまっしろなフックリした胸にあとのつくほどだきしめてそのまんま感謝しながら窒息してしまいそうに、又そうして見たくさえ思われた。
Hは千世子の肩をかるく押して歩き出した。
夢を見る様にウットリと心がうき出して居る様な目をして居た千世子は、急にさめた様に目を輝かせて立ちどまった。涙がこぼれそうにまでにじんで来た。
千世子はその葉をやけにやぶいて下駄で土の中にのめりこむまでふみにじった。
だまって見て居たHはようやく千世子の怒ったわけがわかった。
源さんはHのわきに立って我ままな女王がおつきをいじめちらす様な澄んだ青いかおをして足元をみつめて居る千世子の様子をきづかわしそうに眺めた。三人とも一言も口をきかなかった。そのだんまりの中に神経ばかりが魔物の様にすばやくお互の間を走り廻って居た。
だれが歩き出すともなく三人は歩き出した。
源さんはHをようやっとつかまえたと云う様につづけざまに何かしゃべり出した。
千世子の腹立たしさは中々とけなかったけれ共二人の話には気をとられて居た。
Hは、千世子の先にきかされた事のある落し話でない様な落しばなしをして居た。千世子の口元はついついゆるみそうになって来た。さっきあんなに怒っておいてすぐ仲間入りさせてもらうと云う事は何となく権威をそこねる様でけぎらいの千世子は自分が先に頭を下げる事は出来なかった。笑いそこねた妙にはばったい口元をしてはなれて歩いた。
Hも又「さっきは私がわるかったからサ、もう仲なおりネ」
とは云いにくかった。二人はどっちか早く「もう」と云い出して呉れればとまち合って居た。
千世子は歩きながらHの様子を見た。ふっくりと柔味のある光線をうけてしおらしげに耳朶やくびすじはうす赤にすき通って居た。時々気にしたらしくまっくろな髪を上げる小指の先が紅をさした様に色づいて居るのや、まぼしいほど白い歯がひかる事なんかを千世子は見つけて思わずうす笑いした。
三人はかおを見合わせて何とも云えないほどいろんな感情の入りまじった笑い方をした。そしてお互にさっきの事には小指の先でもさわらない様にいくえいくえにもおしつつんで心のすみの方につくねて居た。
千世子がさっき不きげんな様子をしてから源さんの様子はよっぽどうちとけて来たのを知った千世子は何だか源さんのためにわざわざ自分が怒った様な、又その時をうまく利用された様なだしぬかれた気持になった。間もなく千世子は今源さんがどんな事を思って居るかと云う事まで知った。
三人は他愛もない事を話合いあたり前の人の笑う事を笑って妙華園に行った。三人は小さい束を作ってもらおうとあっちをさがしたりこっちをさがしたりして居た。
世間知らずの様ななりをして居るくせにすれた眼と心をもつ男達は千世子の事をいろんな風にとった。千世子は、白い服(うわっぱり)をきて自分のたのんだ花を作って居る十九位の男の手の甲にある黒子を見ながら男の姉の云って居る事をきいて居た。
「違うよ、先にあの雑誌に出てた写真にあんなかっこうした人は居なかったよ」
「だってあんな頭してるよ、その年にしちゃあ着物の模様が大きいネエ、何だか分らないナ」
「いずれ女にゃあ違いなかろう」
千世子は、中から三本こまっかい花をぬいた。Hさんは衿に、千世子はリボンの間に、源さんはもてあました様に人さし指と拇指でクルクル廻して居るのを、
三人は山の手電車にのった。
(八)
源さんはやたらにはしゃいでいやがるHさんをつかまえて指角力なんかして居る中に、千世子は瞳を定めて段々とくらくなって行く外を見ながら、
源さんは何だかやたらにうれしかった、すっかり安心したと云うのではなくっても心が軽くなった様に大きい声で話しがして見たい様な気持で居た。
「思わない事もありゃあしませんサ、でもたった一人ぽつねんと行くのもいかがなもんですからネ」
そしてHに向う自分の心の眼がくもって居る様な、又何かをおっかぶされて居るんじゃああるまいかと思われた。
田端に下りるとすぐ千世子は、「何だかうすら寒いようですわネエ」と云ってショールを一つ余計に巻きつけた。Hと源さんとの間にはさまって両うでにつかまりながらくらい陰気くさい道を恐ろしい事に出合う前の様なおじた気持ですかし見ながらたどって行った。
「マア例えばおっかけられた時とかかけおちの時」
「オヤオヤ偉い事を云い出したもんだ、それじゃあ今もかけ落ちしてると思ってたらこわくはないでしょう?」
「三人のかけ落ちってどこにありますの、それで又自分の家へかけ落ちするなんて……とうていそんな気持になれるもんじゃあありませんわ」
かたまりになって大声にはなして行くんで客待ちの車夫なんかは千世子のかおをすかし見たっきり、
足音がするとすぐ、
「そりゃあよかったネ、も一枚着物を持たせてやりゃあよかったのにってねえ、あとで云ってたんだよ」
「そう、――そんなじゃあありませんでしたワ、とっとっと歩いて来たんですもの。でも裾をうすくしたかもしれませんねえ、この着物そりゃあ歩きいいんですのネ」
御飯後三人は母親を中央に据えて今日のいろんな事を話してきかせた。話の中途にHは用のあるようなかおをして西洋間に行ってしまった。
西洋間の皮張りの長椅子によっかかって、目の下にくらいかげをつくってHはうたたねをして居た。
フカフカするカアペッツの上をしのび足して千世子はすぐわきの椅子に腰かけて、ほんとうにつかれたらしくHの目をつぶって居る様子を見た。
千世子は瓦斯を消してスタンドのうす赤い光線をHのかおをよける様にして置いた。すぐその下で本をよんで居たけれ共フット、
時々、
二時間ほど立ってからHはまぼしそうな目つきをして出て来た。
夜おそくなるまで千世子は母さんと三人で話して居た。まっかなこの上もない花をまんかなに据えてうす青な光線の中でHと二人きりでその顔を見つめたっきりで居て見たいなんかと思って居た。
久しぶりで学校に出た千世子は皆からちやほやされて帰るまで妹か子供の様に思ってる友達にとりまかれて居た。
それから毎日毎日千世子は考える事のない様なかおをして学校に出て四時頃かえっては本をよんだり書いたり、Hとうたをうたったりして暮して居た。
(九)
三月の末Hの仕事がすんで蓬莱町の家にかえる様になった。その頃千世子は又頭の工合が一寸変になって居たせいか、やくにも立たない書きぬきに夢中になって毎日毎日かんしゃくをおこしながらあくせくあくせくして居た。机にとりとめもなく本を並べたててキョロキョロして居たり、いそがしくもないのにいそがしがって夜更けまで鉛筆をけずったりして居た。
「何にも悲しむほどの事じゃあない」と思いながら気が重かった。Hはかわいた目をしてかたよせられた製図台と自分の買って来た花の鉢を等分に見て居た。
ねてから目がさえた千世子は暮から今日までざっと四月の間の事をいろいろ考えて見た。大変に遠い事の様でもあり近い事の様でもあり、Hはすきな人でありながらきらいな人の様に思ったり「どうしたんだろう」と思うほどいろんな事が考えられた。「Hが私のそばに居る居ないは私の生活に一寸した変化を与えただけの事で何にもそれ以上に私に関係のある事じゃあない――」
「私はどんな事があってもHを恋はしない、若しそうなったら二人は不幸になるにきまってる――私の心の眼もにぶり目っくされの様になってしまうだろうから……」
「あの人と私とはお互にたすけ合って幸福な様にして行けばそれが一番好い道なんだ。私は夢中な恋は出来ない――さりとても一つの様な恋も私のまだこんな貧乏な頭では及ばない事だからキット神様だってこの様に思ってらっしゃるんだろう……」
翌朝目をさました時千世子は何とも云われないかるい歌をきいた様な気がして居た。
学校に出がけにHはわざわざ寝間から出て来て、
女中のもって来た銀丸をはの間につぶしながら、
千世子は柱によっかかってHを見ながら、
Hは一つ一つうなずいて居た、言葉に出しては一言も云わずに一番おしまいに大きくうなずくとかるいため息をついて笑った。
千世子の感情の上に重いものがのしかかりのしかかりする様になって来た。敷石を靴のつまさきであるいた千世子は、Hの見つめる眼の中に自分が段々小さくなって行く様に思われた。
にげる様に門の外に出てホッとした様にたいらに白く光って居る広い道をうつむきがちにあるいた。
友達は皆、
「ゆうべよくねなかったとかおに書いてある」
「だれでもがよろこぶ事ってすワ」
「そいじゃあ若し貴方がこんな人なら一生いっしょに居てもいいと云う様な人が出来たらどうします?」
「そうしたら私はキットその人と約束して死ぬまで別に生活して居るでしょうよ、そいで、会いたい時に会い話したい時にはなしてお互に金銭の事なんか云わないで居た方が私はいいと思います。子供なんか生まないでネエ、馬鹿な子供なんか生んで心配したりするより一代こっきりの方がようござんすよ!」
「それもそうかもしれないけど……貴方みたいに男の兄弟のある人はいいけれ共そうでない人はこまるじゃあありませんか……」
「そんな事大丈夫ですわ、世の中の沢山の女の百人中九十九人半まではお嫁に行きたい行きたいで居るんですもの」
「九十九人半とは? 妙な」
「半分はお嫁に行きたいし半分はお嫁に行っても下らないと思う人があるだろうから……」
「そうじゃあありませんわ、割合に女よりは入りこんで居ない感情をもった男なんかそんなに私がやきもきしなくったってプリプリさせる様な事はしやしませんワ、でも私はお嫁に行った翌日からきのうまでのかおとはまるで別なかおをして何にも思う事のない様に旦那のきげんとりにばっかりアくせくしてるんなんかって私にゃあ出来ない事ってすワ、旦那が我ままを云って怒りゃあツンとしたかおをしてとりあってもやらないでしょうキット、馬鹿な人だと思ってネエ」
「…………」
「知ってますわ、その位の事、母さんは又お嫁のしたくにこんな事教えるなんて云っていらっしゃる」
小声にうたをうたいながら廊下をすべって西洋間に行った、長椅子の上にHはつっぷして居た。
Hはそれを娘がする様におちょぼ口をしてのんだ。酒に弱いHの目のふちや頬はポーッと赤らんで来た。千世子はHの頭を両手にはさんで一寸の間押してやった。
台所の器具のぶつかる音や母親の女中に何か云いつけて居るこえを遠くの方にききながら二人はひっぱりあげる事の出来ない様な、深い深い冥想にしずんで居た。
千世子は自分の頭に血がドックドックとのぼって行くのが分るほど考える事がこみ入って来た、目をつぶって手を組んでひざをかかえて身動きもしないで居た。
Hは細い目をあけてととのった調子で考え込んで居る千世子の白いくびにフックリもり上って居る胸に気を引かれた、Hのまだ若い血のみなぎって居る身の中からは一種異様の誘惑が起って来た。
Hは椅子から立ち上ってカーペッツに足をうずめる様に歩き廻った。
千世子はしずかに目をあけると一緒に顔がまっかになった、何の意味だか千世子自身にも分らなかった。千世子は衿をかきあわせると一緒に立ち上って少し足元をふらつかせる様にして一番そばの戸から自分の部屋に入った。波うつ様な心地になって原稿紙に向ってふるえながらペンをにぎってジッと紙の肌を見て居た。感情の走った千世子の心の中に木の肌、草の葉、花の蕊なんかにこもって居る目に見えない物が心をなぜる様にくすぐる様に快いものになって入って来た。
千世子の目から涙がこぼれた、紙の上に丸あるいしおらしげなしみを作った。心の中に「今の心ほどしまった純な創作をどうせ私に作る事は出来ない、この紙はその涙のあとで、下らない字が書かれるよりよろこんで居る――私も又この方に満足して居る」
と思って居た。
千世子が感じて涙をこぼす時は、たった一しずくやけそうにあついのをこぼすかそれでなければ夕立の様に心まで心のそこまでひたりそうにこぼすかどっちかであった。
その時は一しずくほかこぼさない涙であった。千世子の心の中には限りないよろこびと感謝と目に見えないものを祝福する心でみちみちて居た。
戸をあけた時Hは千世子の心を見て何も彼もしった様に笑った。
二人はピアノの前に座ってソナタを弾いたり、ゴンデサードを弾いたりしてかるい気持になって居た。
夕はん一寸前に父親がかえって来た。元気のみちて居る目をしてHのかおを見るなり、
千世子は、三人の興じて居るのをわきで見ながら自分の領分にふみこまれた様ないやあな心地で皆の笑う時も大方は唇をかんで居た。
父親のした話の大半はHにお嫁さんを御もらいなさいと云う事だった。
新しく買って来た古物を見せたり、今して居る事の相談をしたり、そうかと思うと、
「ほんとうにネエ、もう貴方じき夏の仕度ですよ」
十一時頃Hはあんまりおそくなると風を引くと云ってかえって行った。
段々遠くなる下駄の音がパッタリと、飾井戸のあたりでやんだ。
何かの霊の様にスーッと心を掠めて通りすぎられた様に感じながら、
(十)
幾日も幾日も気分のわるい日ばかりが千世子を呪う様につきまとった。朝は大抵にしてミルクをのんだり果物をたべたりして居た。
夜一夜うなされどうしでまっさおな顔をして居る事も珍らしくなかった。
物覚えは悪くなる、かんしゃくは起す、やたらに悲しくなる、いりまじった感情ばかりもつ様になってじっとしてものをして居る事が出来ない様になった。弟の飲んで居るじあ燐をのんで居た。目の上が十日ばかりですっかりくぼんでしまった。
あたり前ならもうとっくに寝入って居るはずの夜中の二時頃千世子は自分の体の上に大きなものがのしかかって来る様に感じる。にげようとしてもにげられずもがいて居るうちにつかれてね入ってしまう。
翌朝寝間着をたたんだ女中が云ったと見えて学校からかえるとすぐ母親は、
御のぼりの立った日は千世子は縁側で高い竿のてんぺんにまわって居る矢車を見て居る間に変になって土間にころがり落ちてからズーッと本とうにとこにつく様になった。
寝はじめてからはもう一月も二月も病んで居る人の様に、救けられないじゃあはばかりにさえフラフラして行かれなくなった。千世子は病気の時いつもする様にきれいな様子をして居たけれ共先よりは重いと見えてじょうだん口もきかずにぶい目で天井の木目を見て居たり人の立ち働くのを見たりして居るのが多かった。
ちょくちょく来るHは、いつでも千世子の床のわきに一寸の間でも来て何か千世子の気に入る様ななぐさめの言葉をのこして行った。
時には長い間だまってまくら元に座って、ひくい声でうたをうたってきかせたりして居た。
千世子がきのうより悪くなって気のぬけた人の様に唇を少しあけて胸をはだけて夜着からのり出してあてどもないところを見つめて居た時、忍び足をして来たHはわきに座って居る母親に小ごえで云って居た。
「どうしたんでしょうかネエ、父様なんかそりゃあもう大変なんですよ、案じて。今馬鹿にするのはあんまり惜しいと云ってネエ」
「馬鹿になるなんて――そんな事は有りませんけど
「それまでにしないでもいいでしょうがネエ」
目の前には、すっかり馬鹿になった自分が元の完全な頭だった時苦労して書いたもの、あつめたものを笑いながらやぶいて居る様子だの、夜着の衿をかみかみうめきながら死んで行く自分の心持を想像してどうしてもそれからのがれられないきまった時の様にボロボロ涙をこぼした。
「どうしたの?」
それから十日ほど立って寝はじめてからざっと二十日足らずで起きて歩いてもフラフラしない様になった。頬のあたりはかなりやせてふだんより涙もろくなって居た。
母や父はもう四五日したら小田原に行ったらいいだろうと云って居ながら、
皆の働く中でポッツンと千世子はもって行く本や原稿紙なんかをひねくりひねくりして居るばっかりで何をどうしていいんだか分らない様な気持で居た。
「何をしていいか分りゃあしない」と云ってかんしゃくを起すのを見て母親は斯う云った。
「どうだね、この分じゃああしたもかなりあったかそうだから行っちゃあ、送って行ってもあげられるし」
二人は何かしきりに話し合って居る内に行く事にまとまったと見えて女中にドレッスケエスを出させるやら、小田原に電話をかけるやらして父親は時間表を見て居た。
Hと一寸も会わずにたとえ十日か二十日の事でも行くと云う事は何だかそれっきり長い間会われないものになってしまいそうな不安がおそって来た。
青い海とがけの多い箱根を見て単調に暮す海辺の生活を想って見たり、海の面には陽炎が立って居るだろうの朝起きるとすぐむれた足をひやっこい水にひたす時の気持なんかをたのしい気持で思って居た。若い女がだれでも感じる様に旅に出る前夜のわけもわからないワクワクした感じにとらわれて居た。
その晩は安眠する事が出来ないで早く眼をさました時、母親や女中達はもうコトコトと何かして居た。寝間着のまんま千世子は自分でかたをつけなければならないものに手をつけ始めた。
すき見されるのを案じる様に千世子は書いたものの入って居る文庫に鍵をかけ、出て居るのを皆本箱にしまって妙にガランとした部屋の中をひっこしをする時の様な目つきをして見て居た。
思ってる様な思わない様なとりとめもない様子をして居るといきなり人の足音がしたんであわててふりっかえると後にHが目つめたかおをして立って居た。
「エエ好いにゃあいいんですけど、きのうっから何とはなしに興奮して居るんでかるい目まいが一寸する事がある位、――それに一寸気にして居る事があったんで……」
「何、気にしてる事? まさか日が悪いなんてんじゃあありますまい」
「なんぼなんだって――マアこうなんですの。私がネ、貴方に御目にかからずに今日たってあっちに行っちまいましょう、そうして急に悪くなったっきりになっちゃったり大浪にさらわれてしまったりするときっとどんなにか悲しいだろうと、それに私若しかすると死ぬ時に、
『Hさーん』
て云いやしないかって……」
「そんな事分るもんですか、それにかくれてなんかかいてもしようがありませんし御義理に書くのも私はすきでないんですもの……」
「そんならなるたけ、ね? これからの海辺はようござんすネエ、静かで……あんまりいろんなものを書いたりよんだりしちゃあ、いけませんよ、勉強するんじゃあないんですよ、馬鹿げた様な気持になって遊んで居ればいいんですもの……土曜から日曜にかけてお父さんが行らっしゃるんだろうから私も都合がよかったら上りましょうネ」
「ほんとうにいらっしゃる? でもあてには出来ないこってすワ、二十日ほど貴方の顔に合わせる人がないかも知れませんわネ」
「エエほんとうにネ、今日よりも見違えるほど好いかおの色で二十日立ったら帰っていらっしゃい。キットネ」
「いかにも恋文らしい恋文」千世子は自分より三つも年上の男がよこしたものでありながら年下の男に思いをかけられる女の様な目つきをしてその文の批評をした。
手紙をもとどおりたたんで、先のところにはさんで引き出しをしめるとかるく頭をふって笑いながら西洋間に行った、何にも知らない母が「随分かかったんだネエ」と云ったのにも只笑ったばっかりであった。
深い椅子によりながら立つ三時間ほど前のおちつかない時間に自分の心をこめてとにかく書いた文を女からこんな気持でよまれると信夫は想像さえすることが出来ないに違いないと、Hの森の様な髪を見ながら思って茶化した笑いさえもらした。
(十一)
電車にゆられながら千世子は何となくHとはなれてしまいたくない様な、一所に一日でも行って見たい様な気持になって居た。車で来る筈の母親を待ち合せて、父親の切符を買うのをジッと見て居た千世子はわけもなくさしぐむ様な気持になった。千世子の一っかたまりはプラットフォームを早足にあるきながら赤帽のとって置いてくれたまんなか頃の二等車に入った。
からっぽで、千世子等の五人丈ほか乗る人はないらしい様子だった。一番はじっこに座をとった千世子はHが棚の上に手荷物を置いたり、千世子の薬を入れた袋がたおれない様になんかと父親と二人で動いて居るのをしずかに見ながら「Hなんか動かないでジーッと私のかおを見つめて居ればいいのに……」
なんかと思って居た。
車掌がもう発車に間もございませんと注意して行くと、母達は今更らしく送ってくれた礼やらひまがあったら来る様になどと云って居るのを返事しながら下りて下に立ったHは今まで一寸も気のつかなかった袂から、今までよく「古い方がいいからさがして買いましょうネ」って千世子の云って居た樗牛の五巻を出して、
「エエ、去年だか買ったんでした、一通りよめば専門にして居るんじゃあないんだからどうでもと思ってつくねて置いたものだから……線や点がうってあるかもしれませんけどマアかんべんしっこですよ」
「ほんとうにネエ、どうも」
一寸速力が速くなった時千世子はズーッと体をのり出して、
すみっこに体をおしつけてHからもらった本をわけもなくくって見た。まんなか頃にHが満州を旅行した時に蒙古の羊の群が川の家鴨をおって居るのをとった写真が入って居た。いつだったか病気で居た頃見せてくれた時、「いい事、いかにもお互のものの感じが出てますネエ」って云ったのを覚えて居てだろうかと思って見たりした。五つ六つステーションを通りすぎてから母親がこんな事を千世子に云った。
「そうした方がいいよ、青いよ」
フカフカの肩にもたれかかって単純な様で意味のある様なカタカタと云う音を耳のそこできいて居る内に少し眠のたらなかった千世子は包まれる様になっていつの間にかフンワリと夢の中にとけ込んでしまった。
一人手にまたいい気持になって目をさました時もう四つばかりで国府津につくところまできて居た。
女中は小さい弟に干アンズをパンの間にはさんでこまっかく一口にたべられる様にきっては口に運んで居た。それをあどけない目差しで千世子は見て居た。母親達はこないだっから問題になって居る玉川の地所の事や、持主のあこぎな事やら仲に立って居る男の半間な事やらを笑い合って居た。
その話をきき本と景色も弟のパンをたべるのをも見してまとまらない散り散りの気持で千世子は停車場に下りるまで居た。
停車場から連絡して居る湯本行の電車にのった時千世子達より前にのって居た小田原の土っくさいお話にもならない様な芸者が三人ほど居た。そういうものにむかうといつもする通りに千世子は又女王の様なきどり方をした。一足はこぶにでもいかにも都にそだった娘らしく又つき合になれた女の様に様子をととのえた。
三人の女達は愚かしいみっともない目で千世子のツンとした着物の着方だの髪の結い方だのを見た。そうしたあげく、千世子のもうとっくに知って居る事でありながら知って居ないつもりで手の形で千世子の批評をして居た。
母親は、
千世子はわけもなくうれしくなって肩をゆすって母親の肩に自分の肩をぶっつけた。三人の女は千世子を千世子は三人の女をお互に女にあり勝な批評的な目で見合って居た。
千世子の一隊は養生館前で車を下りて迎に出て居た男が沢山なトランクやドレッスケースを荷車にのっけて波の音のきこえる方に砂道をサクサク云わせながら引いて行った。その男はお世辞よく主人夫婦が大変まって居る事小供達が東京の話がきかれるとたのしみにして居る事なんかをかるい調子に話しては高く笑って居た。
(十二)
千世子達の姿が店のガラス戸にうつった時台所でたすきがけで居た主婦は、
先に来た時と同じ二階に座った千世子は気が遠くなるほど青い空と青い海の境が紫にかすんで居る事や、くだけるまっ白な波の様子、遠くひびいて来る船歌の声なんかがうれしかった。
らんかんによっかかって千世子はいつまでもいつまでもその景色を見とれて居た。
若がえった様に父親は小石をひろってなげたり、小さい弟と一緒に波頭とおにごっこをしたりして居た。それをよそ事の様にして千世子は大きな自然の前にうなだれて居た。病み上りのふだんにもましてセンチメンタルになって居る千世子の心の底にドドーッドッドッという波音は厳とした威厳をもってしみ込んで行った。
波のよせるごと引く毎に洗われる小石は、ささやかな丸い輝をお互に放して、輝きと輝きとのぶつかるところに知る事の出来ない思いと音律がふくまれて波の引く毎にはささやかな石がお互の体をこすり合わせうなずき合って無窮の自然を讚美する歌を誦して居た。
千世子はこの微妙な意味深い音にききほれてしばらくの間は夢中に、それからさめた時にはこの音にききほれる自分が人間だと云う事は情ない事に思われた。
暗闇の中に物をさぐる様に千世子はどこかにとけ込んでその姿をかくした自分の今まで持って居たほこりをたずね廻った。つかまるものもつかまるものも皆自然に対する感謝と云うものばかりであった。心の中、体の中を感謝のかたまりにして入日の赤くなった空と、満潮に青さのました水面を見まもって、尊い、ととのった芸術的な顔つきをして千世子は時の立つのを知らずに座って居た。
海のひろい胸は刻々にその鼓動が高かまって行った。さっきまで修道女の様なその胸の様な鼓動を打って居た胸は、その一息ごとに世の中のすべての悲しみと嬉しさと幸と不幸をすい、又はく様にたしかにトキーントキーンと打ち始めた。青さはその鼓動の高まると共にまして行った。
若い処女が若い男の息の下に抱きすくめられたその瞬間の様な海のはげしい乱調子な鼓動はそのトキーントキーンと云う音を空の末地球全体にひびかせて千世子の前にせまって来た。
それに答える様に、千世子のうす赤いふくらんだ胸の鼓動も乱調子にやがては狂いそうにまで打った。けれ共千世子は動こうとはしなかった。水はすぐ前によせたり引いたりして白い歯を出しては千世子の心をほほ笑んで又遠い青さの中に混って行った。
「こんなにまで苦しいほど私は自然に感じて居る事が出来る」と思った。千世子は身をおどらして青さの中に身をしずめて見たいほどうれしかった。
迎に来た女中にひっぱられて気ぬけの様な顔をして千世子は宿にかえった。
海辺に来たらしい気持のする食卓についてからもまねく様な潮なりに心をとられてまっかな箸の先にまっしろな御飯を一つぶずつひっかけてたべたりして居るほどであった。
夜はかなり暗いあかりの下でほこりっくさい都になぐさめる人もない様にして一日の仕事につとめて居なければならないHのところに絵葉書に短かいたよりをしてやった。
白い被いをすみから隅までかけて気持の好い夜着にくるまって潮の笑声を子守唄にききなして眠った千世子は六時に起きるまでにHの夢ばかり見て居た。
寝床から出るとすぐ浜に出てひやい水に足をつけた。眠りからさめた許りのムシムシした足はやわらかくくすぐられる様に感じて居た。
そうして居る間に気持もはっきりと迷わない心でものを見る事が出来る様に思えた。
まだ何にもさわらない白いふっくりした手の掌にひかって居る水をすくって一寸唇につけて合わせて居た指をかるくゆるめると、糸の様に水は細く五つ色にまたたきながら落ちて行った。
こうして一日を始めた千世子の日はその日中嬉しい事ばっかりであった。
その翌日も翌日も海を見、海に話して日を送った。そうして顔の色も日の立つごとによく貧
囲りの旅客を観察するとか批評するとか云う余裕のないほど千世子は海にきをとられて居た。
おきるとからねるまで浜に座って暮して居るのが何よりうれしいほど千世子の心は子供げなものになって居た。読むつもりでもって来た本等は床の間のケースの上につまれたまんま時々に吹く海風に軽い表紙の本なんかはハタハタとひるがえったりして居るばっかりだったし、又原稿紙も一字もうずめられて居なかったのを母親なんかは却って、
「何よりの事だよ」と云って居た。
夕方近くなった頃、千世子は芸者の多い小田原の町を歩く事をしたがった。
それはもうよっぽどここに居なれた頃になっての事だったけれ共、ろくでもない、時によると目をつぶりたいほどの顔やなりをした芸者をつかまえて、紫のハンケチなんかをくびに巻きつけた磯くさい男達ややたらに黄金色にピカツイて居る男達が
小雨のする日に千世子は紺の蛇の目に赤い足駄をはいて大きな模様の着物を着て電車の車庫のわきに本を買いに行った。
雨にひまな芸者達はまどから千世子の様子をのぞいては大股にシュッシュッと歩くのを見て、
そんな事にはもうなれて居る様にうつむきもしないで正面を見て歩いてどこまでも行った。すれ違う男達が一足か二足ぐらいひろくよけて通る事も千世子には、
「フフフフ」と笑いたい様な事だった。
ひろい店にずっと入るとすぐ大胆な目つきをして棚の上から台の上までの本を一通りズーと見廻す様子を、帳場に座って居た番頭は目を大きくしながら、
その日は「その前夜」と「お絹」を買って帰った。
「東京より本が高い、ろくなものもないくせに」こんな事を道々考えて居た。
晩はまっくろい海が目の下に見えるベランダに出てあかるい電気の下で買って来た本をよみ始めた。
けれ共何となく囲りの気分とよんで居る本とがつり合わない様に思われてしかたがなかった千世子はわざわざサロメをとりかえてもって来た。
そうして電気を消した暗い中に自分の鼓動と海の鼓動とくだける波の白さと自分の顔の白さばかりがある中で、低い厳かな声で暗く強い鼓動を打って居る海の面に千世子は、Roll on, thou deep and dark blue Ocean―roll! と尊い詩の一節をなげてはてしもしれない様な冥想にふけって居た。
綺麗な夢の様な気持がさわがしい管絃の音に破られて現実にかえった時、そのごく早い気持の別れ目の時に千世子はHの事が青い光りものになって目の前をよぎって行ったのを知った。
さわがしい音の中に自分のしずかな心だけをソーッとかこって置く様にして働く事も嬉しがる事も一人でして居なければならないHを一人の人間として考えて居た。いろいろと思って居るうちにいつだか、
「あの人はまだごくの若い心で居た時に思いがけない苦い悲しさを味わったから結婚なんて事を只感情的に考える事が人並より出来にくくなって居るんだ!」
「でも私はあの人の生活に手をさわってはいけないんだ、そうすれば悪い事が大抵は起るにきまって居る」
千世子はたった一人の男のために自分の生活の状態が変調子になって来たり、こびりついてはなれない感じをうけるなんて事はこのましくないいやな事だった。
いくら何と云ってもHがすきだと云う事ばかりは千世子のどんな心ででも打ちけして、
お前の体は山の上のゆきの様に――」
母親は千世子のかおを見るとすぐに、
「そう――いい事ねえ、迎に行ってやりましょう」そんなでもないと云った調子に千世子は云った。
よみかけの雑誌をもった母の顔を見て千世子は時と云うものを考えなければ居られない様な気がして居た。
その晩は随分おそくなるまで母親は千世子に自分の若かった時の事、姑が辛かった事などを話して居た。姑の辛さなどは自分の生涯うけずといい苦しみだと千世子は信じて居た。
翌日四時までの時間がかなり長く感じられた。
「Hが来るかもしれない」と云う事が千世子の好奇心をそそった。
割合にまち、割合によろこんだけれ共、電車から下りたのは小供達と源さんきりであった。
子供達は母と小さい自分の弟をとり巻いて、こないだのひなのかえった事からバラの一輪さいた事から私の部屋に鼠の出る様になったとやら障子の破けのふえた事まで話してきかせた。
母親は笑ってその報告をききながら一人一人の手をひっぱって見たり頭をこすって見たりして居た。
今までにないにぎやかさではんぱな時候で客は沢山居ながらもしずかなこの家に高い笑声をひびかせて居た。四方をガラスではった娯楽室に皆丸くなってトランプをする、歌をうたう、千世子は少し調子の変なオーガンさえ弾いたほどであった。
ここの家の小供は千世子の女なのに気をかねて居たのが、いかにもうれしそうに三人の弟の間に二人の子がはさまってほっぺたを赤くして居た。
十二時頃までも皆で笑いどよめいて居たけれ共源さんが一番先に寝たのをしおに今日だけお客の小供達は下のひろい座敷に寝に行った。
母は日記をつけ、千世子は短かい感想をかきつけたりして物足りないすきだらけの気持で床についた。
次の日いっぱい砂の中をころげ廻った小供達は又源さんにつれられて東京に行った。行くまで源さんは千世子と二人っきりになりたい様なかおをして居るのを知ってわざと千世子はよけよけして居た。
急に嵐のないだあとの様になった部屋の中に居られない様にはだしのまんま千世子は裏から砂をすべって浜に出てなめらかにひんやりする砂に座った。何と云う事もない悲しみは千世子の心の中いっぱいになって居た。
こんなうすねずみの色の中にこんなこい色の自分の身体をひたして、こんな気持で泣いて居ると思う事はいかにもうつくしげななよなよしげなものであった。
しみじみとホロホロ――ホロホロ――と散って行く涙の一粒ごとに思いをはらんで居る様に感じて居た。まるで幼子の様にわけもわからない事に泣きじゃくって居た。泣きながら千世子の心は悲しみながらこの上ない歓喜に小おどりして居た。
夜つゆにしっとりと長い袂や肩のしんみりしたつめたさになった時千世子は顔いっぱいに笑いながら部屋にかえった。そうしてじきにねてしまった。
三日たったのぼせる様な日に、千世子は十四になる男の子に誘われて一寸ある小峯の原に蓮花をつみに行った。その男の子は大抵の時は少しこごみ勝に下を見て神経質らしい額の大きな高い唇の馬鹿げてあかい子だった。細い白いくびすじに小さく渦まいて髪のかかって居るのは千世子にたまらないほどうれしい事だった。まだ六つ位の児の様なすんだ声とサラッとした皮膚をもって居た。
二人は手をひかれ合ってせまっこい一方は沼のまわりを森でかこんで居るところ、一方は丘の様になった畑の道を通って行った。二人の草履の音はこの頃の時候につり合った音を立てて居た。
だまりあったまんまかなりの道をあるいた。
「私の名も?」
「ええ」
「何ての? いってごらんなさい」
「だって……千世子ちゃんてんだって……」
「マア、ほんとうにそうなの、……可愛い名でしょう?」
達っちゃんはすぐかがんできれいなの、きれいなのとつみ始めた。千世子はたんねんにさがして少しずつとって行って時々高い声で、
「ええ」
達ちゃんは大した目的がある様に一本ずつ花を摘んで行った。両手にあまるっくらいつみためた時達ちゃんははにかみ笑いをしながら、
千世子は手がつかれた様に感じるほどの花をかかえて達ちゃんと並んで先に来た道から又もどった。
丘の所にせまくつくられた豌豆の畑の、白い蝶の様な赤いリボンを結んだ様な花のどっさりついた一つるを根からとって千世子のも一つ別な方のうでにかけてやった。達ちゃんがいろいろと千世子に親切にしてやりながらも、
どことなく神経質らしく見えるこの子の、時々赤くなったりうす笑いもしたりするのが、千世子には無暗に可愛らしく思われた。
そのしまった白い額を見ながら、もうじきにここまでも油ぎって色も黒くなるんだろうと思うとどんなに美くしくどんなに尊げに見えて居てもその後にせまって来て居る身ぶるいの出るほど千世子にいやな事を目の前にうかべて、それをなでたり又さわる事なんかは出来なかった。
花でもって飾られて千世子は家に帰った。大きいコップに入るだけの花を入れて豌豆のつるは床の間の花かけにさした。小さなコップに丸るく盛花にして千世子はしのび足をする様にして達ちゃんのマドンナの絵のはってある机に置いて、格子のかげでのぞきながら笑って居る主婦にかるく頭をさげて部屋に入ってしまった。
母親は、
その日も又考え深くない何の思い出す事も思う事もしないで暮してしまった。
その晩は暗で星ばっかりが出て居た。
漁があったと見えて磯はかがりと人いきれとでポッポッと燃えて赤いかがやきは波にゆられて向うの陸に住んで居る人にしらせに行く様に動いて居た。ほらの貝をふく音は千世子の心をどっかにひっぱって行きそうだった。
母親と並んでその上気する様な光りを見て居た千世子は、何だか限りない悲しさを抱いて一人で都をにげてこんなところに来て居る様にそのほらの声で思わされてしまった。
いかにもこんなところの筆らしいガチガチになった筆の先をかんでふだんよりぎこっちない字でHのところへ手紙を書き始めた。書き出しが気に入らないとよくっても悪くってもそのかみを破らないじゃあ気のすまないくせのある千世子は幾度も幾度も紙反古を作ってはあてもない方へなげつけて居た。
そうしてようやっと書きあげてよみ返したときにはそんなに気に入った手紙じゃあなかったけれ共母親が来てこのわきに何かそえ書きをするかさもなくば千世子の名のわきに自分の名をかくまでまって居た。下で主婦とここいらの地価の話をして居た母親は笑いながら下から上って来た。
「Hさんのところへ――阿母さんよんで見て何か御書きんならなくっちゃあならないんなら書いて下さいナ花のしぼまない内に出したいんだから……」
「Hさんとこへなんか手紙なんか出さずともいいじゃあないかわけもないのに――それに先達ってこっちに来るとすぐ葉書を出したのにうんともすんとも云って来やしないじゃあないか、だものそんなにしずとも……」
「何にも返事が欲しくて書くんじゃあありませんわ、書きたくなったから書いたまでの事なんですもの」
「一体男なんかに手紙をやるなんて事は不賛成なのさ」
「ちゃんと書いたものはお見せするしそうして出すんなら何にもわるい事じゃないじゃあありませんか、御まけに阿母さんの名まで自筆で書くんじゃあありませんか……」
「そりゃあそうでもネとかく……」
「何ぼなんだってあぶり出しの手紙なんか書きません」
何でも早くくくりをつけちまう方がいいんだと云う様にまっしかくな目つきをして云った。
厚いまっしろい紙のこまっかくなって行く音はシュッシュッと云う悲しそうなものであった。
「何でもかまうもんか」と思いきった様な目つきをして居ながらうすらさむい様な気持になって居た。
二人の間にわだかまった事をときたいと云う様にそれからは出来るだけ陽気に天狗俳諧をしたりしてさわいだ。千世子のそんなに深く思って居ないらしい様子を見て母親は快く他愛もない事を書きつけて笑い合って居るのが、千世子には只自分のつとめた事が成功したと云う事のほかにうれしい事はなかった。
そうしてねられなかった長い間千世子は母親と小供と小さな鼻をした女中の顔を見て涙ぐんで居た。そうして居る間パチパチと目をあいたりつぶったりしながら、妙に親しくなったHと自分の事を考えないでは居られなかった。
その次の日もその次の日も千世子にはものうい心が二つに分れた様な気持になって暮した。つかれたらしい海にあきたらしいあくびをするたんびに、
嫁いで来てから随分長い間世間を苦労して渡って来た母親も宿屋生活をしなれないんで、又気ぐらいの高い事や高くとまった心をもって居る事やで人に知れない苦しみがこの旅行にともなって居た。
自分の若い娘をなるたけよく、きれいにととのったものに見せたいと思いながら又男達にふり向かれたり、何か云われたりするといかにも不安心な抱えて置きたいとまで思われるのであった。
小さい子供は海には入りはすまいか、ころんで額にきずを作りはしまいかと云うとりこし苦労までたった一人で、御まけに少しは神経衰弱になって居る頭であれこれと気をくばる事はつらい又努めなければならない事であった。
ほんとうを云えば千世子より前に母親は海にあきて居たけれ共本人が、つれて来た本人がいやだとも云わないのに又それほどよくも見えないのに帰ろうと云う事はあんまり不真面目な様に思って居た。
東京に電話をかけすぐ一日置いた日に立つ事にきめてしまった。
千世子はこっちに来る時よりよけいにうれしそうにして居た。目をまっくろに光らせて健康らしい気まぐれな顔色をして母の女中相手のはかどらない荷造りまで手伝った。その前の晩は目があいたまんまで一晩中すごしたほどはずんだ心で居た。
丁寧な主人夫婦の礼言葉や子供達の御名残の言葉なんかは夢中にきいて電車に国府津までそれから汽車にのってしまった。
ゆられながら千世子はあんまりあわただしい立ち様をふり返っていろいろと思い出した。あの日に宿の女中が私の髪を結うのを見て居て手のものをおっことした事もあったっけ、あの時には――この日には――もうとっくに過ぎ去った事の様に千世子はくり返して、一番おしまいに小峯に行った事、手紙の事、それからさっき達っちゃんが、
気軽に小供や母親に言葉をかけながら段々に都めいて来る町の様子を千世子は晴ればれした輝く顔をして見て居た。
同じ室のすみに座って居たまだそんなに年をとらないイギリス婦人が千世子の方を時々見ては何か云いたそうに笑ったり手を動かしたりするのを、目の合うたんびに笑いかえして居るのもうれしい心がさせる事だと千世子は思って居た。
新橋についてドアに手をかけた時、迎えに出た人の中にHさんと源さんの首から上を一番先に見つけそのわきに父親の立って居るの車夫が二人のび上って居るのも見つけた。
手をのばして高いところで二三度ふるとその人達は皆見つけて千世子の居る車の前に立った。
母親は父親に小供は車夫に千世子は源さんとHにたすけられて降りた時胸いっぱいにうたをうたいたいほど嬉しさがこみ上げて居た。
母と小供は車にのって帰るから千世子にも車で行けと云われた時、
こんだ電車の中につめこまれてゆれるたんびにHと体のぶつかるのや、父親のところによろけるのや、夕刊うりのこえや、そんなものは皆千世子にはうれしく思われたり見えたりする事柄だった。
電車からの十五六丁の道も歩いて初めて自分の生れた家の柱を見た時とびついて頬ずりしたいほどなつかしい光をもって居た。
さぞ汚れて居るだろうと思ってあけた自分の部屋には額がかけかえてあって机の上には新らしい雑誌が二冊ちゃんとならんで、赤茶色の素焼の鉢にはうす赤のふるえる様な花が千世子の方にその面をむけて笑いながら首をかたむけて居た。
ピアノのキイを小指でつっついて見たり、本をパラパラとくって見たり皆とじょうだん口をきいたり、外のすっかりくらくなってしまうまで千世子はジッと座って居る事さえ出来ないほどだった。
留守をして居た弟達はうれしがって居る自分達の姉の体を胴上げにしないばっかりにその小さい子供と一緒にかこんで鬨をあげる様に笑いながら一っかたまりになって家の中をめぐって歩いた。
御飯がすんでから皆丸く座った時千世子は立ち上って一人一人に、
「貴方は手が大きくなった様だ」
「オヤ、正ちゃん貴方は――」
「勉強がすぎて私の二代目になりかかってらっしゃる様だ!」
父親は風呂に母親は小供の世話に三人きりになった千世子は小さなふくみ声でこんな事を云った。
「マアほんとうにかえりたくなった事が有ります、心が二つに分れた様になってネエ」
「今になると家の中にジッとして居た方がよかった様にも思われます。同じ宿にとまって居る人達を観察するでもなし、割合に無駄な時間を多く費したんですものネエ」
「それがいいんですよ。だからごらんなさい、顔だって赤くなって居るし目だって丈夫そうになって居ますよ」
その翌々日から千世子は学校に行った。どの教師も又どの友達も、
そうしてその日っから毎日毎日元気らしく、時には寝不足な青い顔もしながら学校に通って居た。
Hは一日おき位にはキッと来た。六時すぎ頃から来て更けるまで話すと云う事はここの家の習慣の様になってしまった。
Hの来た時はいつも十一時半にかえって行くのがきまりだった、その十一時半を家の人達は定刻と云って居た。千世子が小田原から帰ってから五ヵ月の時はかなり早く大した変った事も生まないで立って行った。
その間にHと千世子の一家は一緒に江の島に遊びに行ったり、たまには芝居を見に行ったり音楽をききに行ったりした。そのたんびにHと千世子と又その囲りの人達はうちとけて行った。いろいろなこみ入った経済の事までHは母親に相談するほどになった。
Hがたびたび来る毎に二人っきりで居る事も多くなった。けれ共千世子はそんな事を別によろこびもしなければ又いやにも思わなかった。ただあたり前の事と思って居た。
菊の花が盛りになったホカホカな日に母親は千世子にそれとなしこんな事を云った。
だからHさんが来た時でも何でもあんまりしゃべったりふざけたりなんかしない様にするんだよ、あんなものは下らない廻気なんかして云いふらすもんだからネ」
千世子の仲良くして居るK子が、千世子が海辺に行って居た内一度も便りをよこさなかったと怒ったのももっともなほど段々よそよそしくそうして又段々、千世子には関係のうすいものになりかかって来て居た。
K子は御嫁の仕度に今までそんなに身を入れて居なかった家庭向の事に懸命になって今まで加なりに知って居た事考えて居た事はすっかり忘れた様になって、知って居る事と云えば先に覚えて来た事をそのままに守って文学と云うものにはうとくなって来るばっかりでそれに対する慾も一頃よりはよっぽど下火なあるかないか位にほか過ぎなかった。
千世子はその人達を悲しい目で見ながら自分の進むべき事を張のある心で進めて行った。
「女の友達なんて――まして私達の年頃の友達なんて下らないもんですネエ、仲がよくなるとなるとすぐなるしはなれるとなるとすぐはなれて一寸だって未練なんてものはもたないんですものネエ。そして御嫁に行く事ばっかり考えて馬鹿になるのを知らないで居るんですもの。
もう一二年したら私は一人ぼっちになって仕舞うかもしれない」
こんな事を小学校時代からの自分の親友の話をして自分の事の様に嬉しがって居るHにする事もあった。物にはまってみやすい千世子はこの頃のK子の様子が気になって絶えず頭の中を
黄な日差しのむずかゆい様な日に午後から来たHは、両親とも留守だったんで千世子と二人で洋館に居た。他愛もない事に笑ったり考えた目つきをして御互の顔を見合ったまんまだまって居たり、ピアノを弾いたり歌をうたったりして居た。
「おだやかですワ、ほんとうにネエ」
「千世子さんあんたにいい事きかせてあげ様……」
「どうぞ」
「こないだの夜貴方が外へ出て居なかった事があったでしょう? ほら、中西屋に行った時ネ、阿母さんが云って御いででしたよ。
『何か貴方御心あたりがありませんか、千世子のなんに――もうこないだも
私まだそんな事しないだっていいでしょうって云ったら『そうじゃあありませんよっ』てネエ、千世子さん……」
「そんな事云ったって一生ミスでも居られますまい」
「サア、居るとも居ないとも云えませんワ、死ぬほど行きたい人があったら行きましょうし……」
「そう? キット?」
「エエきっとそう」
「そいじゃあもし死ぬほどもらいたいと云う人があったら?」
「おやめなさいよ、そんな、昔から幾人の人がつかった言葉だかわかりゃあしないし、又そんな事を云ってると田舎者の厚化粧みたいだから……」
「オヤ貴方そう思ってる?」
「エエ、私そう思ってますわ。
この頃の人間は自分の恋してる女が、
『命にかけて……』
と云った時に、
『お前は幾度そんな事を云った?』
とつきはなす様になりましたもの……」
「…………」
二人の間に短い時が長く沈黙の間に立って行った。
「そんならもっとこっちにいらっしゃいな、そうして何か話して下さいナ」
「何でも貴方の話したい事」
「一寸わかりませんワ私の今さしあたって話したい事なんて――」
「そいじゃあ私に云わして下さいネいいでしょう」
エエほんとうにそうですワ、神様はキットそう云う人を作って下さるでしょう。
でもそう云う尊いものは中々、ぞうさもなく現われる筈はありませんでしょう?
でももし現われた時には嬉しいでしょうネエ、この頃の世の中はその換りにサタンが特別に男のために作った様な女やそれと同じ男も居ますもんネエ」
「そうですか……」
「ネエ、Hさん、そう御思いにならない? 私が貴方に始めて御目にかかった時から今までもう一年ですワ、そいでその間に随分変った事もありましたワネエ。私の身丈の育った事、一寸ちょんびり利口になった事、いろんなものを書いたり読んだりした事なんか、私の頭だけ年に二つ位ずつ年をとって行ってしまいます、じょうだんじゃあなく」
「ほんとうにネエ、もう一年ですネ、今年の一年は今までの一年と随分内容が違ってます私にとっては。
第一、ここの御家にこんなに段々親しくしていただく事、阿母さんと貴方とが私の相談相手にもなぐさめて下さる人にもなっていただける、ほんとうにどんなに何だか斯う嬉しいかわかりませんよ。私みたいに独りぼっちで苦労して居なくっちゃあならないものには斯うした御家のあるのがこの上もない事なんですもの……」
「親しくして呉れる人のふえるのってのは誰だってよろこぶもんですワ」
「でも貴方みたいに皆から可愛がられて居る人はそうひどくは感じないでしょう?」
「どっちかと云えばねえ――親しくして呉れる人の三人ふえた時のうれしさより中位にして居た人でもはなれる事はつらさがひどうござんすものねえ。だれでも私のそばに居た人がはなれて行くと云うのは大きらいですワ、ほんとうに……」
「でも貴方はほんとうに幸福な方だ!」
「一寸Hさん、あんた私をもう一年も前っから知ってらっしゃるくせに千世子さんなんて御呼びんなるんですねえ、なぜ?」
「なぜって――貴方私が千世ちゃんなんて呼んだら御怒りになるでしょうキット……」
「始めて会った人なら無論怒るどころかそっちを見てもやりませんワ、でももうようござんすワ、ねえ、千世ちゃんて呼んで御覧なさい、もし変だったら前通り、そいでよかったらそのまんま」
「千世ちゃん――」
「変じゃあありませんわ、却ってその方がようござんすワこれからそうよんで下さる? ねえ」
「エエ千世ちゃん――」
「そうですか、私はそんなに貴方打ちとけて下さらないと思ってます」
「私はそう云う人なんですよ、大変すきな人でありながら大変きらいな人だったりするんですもの、打ちとけてたって貴方にわからない事だってあるかも知れませんワ」
「私達はこれよりもっと仲よしになれましょうか? 私はたしかになれます」
「私はわかりません、若し私があしたかあさってかに死んでしまったらどうなさる? 仲良しになるもならないもありゃしませんワ。でもじいさんばあさんでさっぱりした御茶のみ友達で居るのも悪かありませんワネエ」
「仲の悪くなる事はありますまいネエ」
「それもわかりませんワ、大抵はありますまい、そんな事はあんまり約束しちゃわない方がいいんですワ」
「私はそいじゃあ一人で約束しましょう、きっと貴方と仲が悪くなりませんどんな事があっても……」
「エエ、私は死ぬ事を恐れてるんです、神様から下さる人が目の前に現れるまでは……」
「現れると一緒に頓死して御しまいなさる?」
「そんなに茶化すもんじゃあありませんよ、私の真面目で云って居る事はネエ」
「じゃあ私は貴方の、貴方は私の運命をお互に見合ってるんですの? いやな事ってすねエ」
「…………」
「私のした話の皮肉を云っていらっしゃるんでしょう」
「そんな気じゃあないんです。頭を押えて御らんなさい、熱くなってましょう、ほんとうの事なんですもの」
「そうですか、どうしたんでしょう」
時にかるい小さなせきばらいをしたり、とまって見ては千世子のなやましそうに又我ままそうな様子をして居るのを見た。
「いいえ私達はネエ、この位の仲のよさで居るのが一番いいんだと私は思ってるんですもの。私達が仲がわるくなっても悲しゅうござんすし、あんまり仲がよくなりすぎてもそのおしまいに悪い事がありそうですもの……悲しい事があった時はお互になぐさめ合って年取るまで御友達で居る方がいいんです。あんまり仲がよくなるときっと二人ともいやいやながらしなくっちゃあならない事や、しなくっちゃあならない気持をもたなくっちゃあなりませんもん……」
「貴方、思ってる事と云ってる事が矛盾して居るじゃあありませんか、貴方はきっと私と同じ様に出来るだけ仲よしになっちまおうと思って居ながら――」
「そりゃあそう思ってるかも知れませんワ、でも私は自分のすきな人自分の仲よしを自分のために悲しい思いやつらい思いをさせるのはいやなんです」
「きっと悪い事が起るときまってますまい」
「大抵はきまってます、私はジーッとして居る事の出来ない我ままなその時々の気持を可愛がる女ですもん、一緒にならなくっちゃあならないために自分の感情を押えつけたりつくろったりする事は出来ない人なんですもん……」
「貴方死ぬまで一人で居ますか?」
「今だって私一人じゃあありませんワ、私の家の囲り体の囲りにはいっぱい目に見えない。そいで力強いものが集って居ますもの、私はそれを信じてそれと話し合いながら六十年なり五十年なりの一生を終る事が出来ます、そいでそれが一番私の幸福な事ですもの。
それで私は満足して居ますワ」
「ネエ、千世ちゃん私はもうさらけ出して云います、どうぞねえ怒らずにきいて下さい。私はねえ貴方が大変すきなんです、そいで又私のすきがる事を皆貴方はもってらっしゃる、そう思ってるんですよ、私は一生はなれないで居られる様になりたいと……
それを御願いしようたって貴方はいやがっていらっしゃる」
だまってきいて居た千世子は又新しい涙が湧いて来る様になった。
私はきっと御断りするにきまってます、でも私は貴方がすきですワ、私は貴方がすきだからそう云うんです」
「じゃあ私達はどうしても死ぬまで御友達で居なくっちゃあならないんですか、私は……」
「私は貴方の御友達としてならいい女かも知れないけれ共それ以上のものになる様には生れついて居ませんもの――その方が幸福です――」
「でも私達ははなれちゃう事は出来ませんねえ」
「ええそれはきっと出来ません、そうしたら私は悲しがるでしょう……」
「そんなら私は今のまんまに満足して居なくっちゃあいけないんですか」
「お互にその方がようござんすワ」
私とあんまり仲よしになれば自分が不幸になるって云う事も忘れて居るんだもの――信夫も源さんも――ああ、ああ、私はもういやになってしまう」
Hの髪のふるえと同じ様に千世子の心もふるえて居た。
声をあげて泣きたいほど、千世子は何とも云われない気持になって居た。
若しそうなって居て呉れたら私は夢中になって恋をする事が出来たかもしれないのに、――」
夜の十時すぎまで居て、
それからあとも、Hと二人きりで居る時母親がガラス戸に耳をつけて話をきいて居る事の度々あるのを千世子は知って居た。Hも知って居た。そうした時に二人はかるく淋しい様な口元をして笑い合った。
千世子は何にもする事のない時ジッと考えに沈んだ時なんかに、
「Hさんはああやって毎日毎日悲しそうな目つきをしてこれからあともひとりぼっちで暮すんかしら……」
そうして千世子はHの来るたんびに千世子自身の心をうたがい始めた。
でもかまわない出来るだけ戦ってまけたらその時の事だ。
何! 私なんかHを恋して居るもんか。
それが一番いいんだ!」
心に余裕のない人だ。
文学とか美術とか云う事に私ほどの興味をもって居ない人だ」
「そう思ってこないだも云って見たんだけれ共いやだと云ってききゃあしないんだもの、思ってる人でもあるんだよきっと……」
「そんな手紙を書く時にあとさきを考えるんなら始めっからそんな事も思わないんだろうけれ共――ほんとうに私はいやになっちゃう、尼寺へでも行っちまいましょうか」
「そうするといいよほんとうに……」
「アアアア早く年取っちまえばいいとも思うけれ共――」
「若い人でなければうけられない特別な恩沢をうけすぎて私はもうあきあきしてしまった、しずかなところに独りで考えたい事を考えて居たい」
Hは時の来るのを待つ様に
でも御友達には違いない。
私達はお互に不幸にならない様にしなくっちゃあいけませんワねえ、そうでしょう」
「Hさんが一人で居様と二人で居ようと私に関係はないんだ。
私は私をやたらに思って男の人達の心を犠牲にしてもっと尊いもっと光のあるものを作って行かなくっちゃあならない様に神様が作って御置きなったんだ!」
「Hさんをむごくしずともいいんだ、あの人が私をそんなに思ってて呉れるって事は真面目に感謝しなくっちゃあならない事に違いない。私はHさんがすきだ、だから私達は恋をするなんて事よりもっとお互に救け合って尊い物を作っていった方がいい」
寒い晩であった、Hが来た時千世子はいかにも愉快そうな顔をしてHに云った。
「どうして? 貴方に迷う様な事があったんですか?」
「ええ、あったんです、私が斯う云えば貴方には御わかりんなるんですワ。
ネ、私はこの頃そう思ってるんです。
私はあたり前の女の様に――又、娘の様に夢中で恋なんかする事は出来ないんです。
けーども人間同志の恋よりももっと高いところにもっと輝いて私の来るのを手をひろげてまってるものがあるのを見つけたんですワ、私は、――
その方がもっと生甲斐のある私につり合った生涯を送る事が出来ると云いはる事も出来れば、もっと私の心を満ち満ちた輝きのあるものにして呉れると云えます――恋をする事はどんな女でもしますワ、けれどもどの女でもが高いところにその人の来るのを待って居るものはもってませんワネ、私はそれを信じて又自分を信じて居ます」
「近いうちにきっと御目つけになれましょう、そうに違いありませんワ、自分のすべき事を真面目にして行く時に一人手に自分を待って居るものが見つかりますもの。
これから私達は救け合ってお互に幸福にだれにも似せる事の出来ない生活をして行かなくっちゃあねえ」
二人は新らしい生命をうけた様にその日っきり今までお互に迷って居た事は忘れる事にした。
千世子はしんから迷わなくなった。
あけてもくれても真面目に輝いた目をしながら書いたりよんだりして居た。
Hには、忘られる様で忘られない千世子の顔を見ると、先に云った事をくり返したい様な気持になった。
女のとりすました、考えてばかり居る様な顔や目を見ては、
今はそれで満足して居なくっちゃあならない。時が来たら――」
Hには自分も親切に案じながら同情しながら恋をしない様にとつとめ、そうすればきっと不幸になると云う女の心気持が分らなかった。
父親や母親が、
もっと尊いものが私には出来る。
又きっと出来して見せる!」
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