日本でラジオの放送が始まった日を記念して,3月22日は「放送記念日」とされる。現在では「ラジオやテレビでニュース・音楽・公演・演芸などをおくること」を「放送」という(『新選国語辞典第9版』小学館)。この語は大正時代に日本で作られた漢語であると言われる。1917年,欧州航路の船が発信元のわからない無線通信を受けた。これが「送りっぱなし」の通信であったことから,通信士が通信日誌に「放送」と書いたのが,この語を使った最初とされる(『新明解語源辞典』三省堂)。その後,1922年ごろに逓信省でラジオ関連の法整備を行う中でbroadcastingの訳語が検討され,「放送」が採用された。

日本为纪念首次播放广播的日子,将3月22日定为了“广播纪念日”。现在,“通过之声或电视播放新闻、音乐、演出节目、表演等内容的行为”统称为「放送」(广播)(《新选国语辞典第9版》小学馆)。据说该词是大正时代的日本人所创造出的汉语词。1917年,欧洲航线上的一艘船接收到了一通来源不明的无线电讯。正因为这是一通「送りっぱなし(送りっ放し)」(译:一直在发送的)电讯,所以电讯员在电讯日志中将其记录为了「放送」,这被认为是该词的第一次使用(《新明解语源辞典》三省堂)。之后,1922年,通信省在整顿广播相关法律的过程中,对broadcasting的翻译词进行了讨论,最终采用了「放送」一词。

「放送」という語が「送りっぱなし」という意味から作られたというのはおもしろい話だ。しかし個人的には以前からこの話に違和感があった。「送りっぱなし」という意味に否定的なニュアンスを感じるためと,2字漢語における「放」は,どれも「放つ」という意味を持ち(例:放火,放出,解放),「~っぱなし」という意味を持たないためである。

「放送」是人们根据「送りっぱなし」的词义创造出来的,这种说法确实有趣。但我个人从以前开始就对这个说法感到别扭。一是因为「送りっぱなし」本身带有否定意味,二是每个2字汉字词中的「放」都有「放つ」(放出)的含义(例:放火(纵火),放出(发放、喷出),解放(解放、解脱)),并没有「~っぱなし」(一直继续着,放置不管)的含义在其中。

「放送」を各種コーパスで調べると,江戸時代の読本『新編水滸画伝』に「はなちおくる」と読む「放送」が見られる。また,1917年の雑誌『太陽』にも同様の例がある。現代の国語辞典には「放ち送る」という複合動詞は見られないが,かつては「放ち送る」という複合動詞が使われていたということであれば,「通信が放ち送られた」から「放送」となってもおかしくはない。既存の「~送」という2字漢語の中には「運送」「移送」のように前の要素が後ろの要素を連用修飾するものがあり,「放ち送る」についても「放送」という2字漢語が派生的に作られたのではないだろうか。

在各大语料库中查询「放送」,可以看到江户时代的读本《新编水浒画传》中有发音为「はなちおくる」的「放送」一词。此外,1917年的杂志《太阳》中也同样出现了这个词语。虽然在现代国语辞典中并没有「放ち送る」这一复合动词,但既然以前「放ち送る」这一复合动词有被人们使用过,那么由「通信が放ち送られた」(通讯被发出)这句话演变为「放送」也不足为奇了。在现有的“~送”2字汉字词中,有像「運送」(运输)「移送」(输送)一样,前一个要素连用修饰后一个要素的词语,或许「放送」这个2字汉字词也是这样由「放ち送る」演变而来的吧。

「放送」という語の由来については,同じ考え方が「放送の語誌」(『立教大学日本文学No.121』)にまとめられている。また,『日本語大事典』「放送」の欄には「送り放つ」「送り放す」を起源とする説が述べられている。

关于「放送」的由来,同样的想法在《放送的语志》(《立教大学日本文学No.121》)中被整理了出来。另外,在《日语大事典》「放送」的词栏中,还提到了以「送り放つ」「送り放す」为起源的说法。

こうして調べてみると「送りっぱなし」の意味で「放送」と言うようになったというのは,のちの解釈と言えるのかもしれない。

这样调查一番后,「放送」来源于「送りっぱなし」的这种说法,可以说是后来的一种解释吧。

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