文章导读:鲁迅先生的《一件小事》短小精悍,内容警策深邃。用一千字左右的文字描写了日常生活中的一件小事,运用对比手法,将车夫和“我”对于同一件事的不同态度进行对照,显露出“我”自私自利的渺小,映射出车夫敢做敢当,关心别人的高大形象。

而《一件小事》的写作背景是:1919年,五四运动爆发。它在歌颂下层劳动人民崇高品质的同时,还反映了知识分子的自我反省,表现出真诚向劳动人民学习的新思想。若不了解这样的背景,一般只会把它看作一曲人力车夫正直无私品德的颂歌,而不会将之上升到赞扬劳动人民,提倡知识分子必须向劳动人民学习的高度。

わたしは在所から都の中に飛込んで来て、ちょっとまばたきしたばかりでもう六年経ってしまった。その間、耳にもし眼にも見たいわゆる国家の大事というものは、勘定してみるとずいぶん少くないが、わたしの心の中には何の跡方も残らない。もしその事について影響を説けと言ったら、ただわたしの悪い癖を増長させるだけのことだ。――実を言えば、これがわたしをして日に日に見るに足らない人間ならしめているのだ。

我从乡下跑到京城里,一转眼已经六年了。其间耳闻目睹的所谓国家大事,算起来也很不少;但在我心里,都不留什么痕迹,倘要我寻出这些事的影响来说,便只是增长了我的坏脾气,——老实说,便是教我一天比一天的看不起人。

だがここに一つの小さな出来事があって、それがわたしにとってはかえって意義があり、わたしを悪い癖の中から引放し、今に至っても忘れることの出来ないものである。

但有一件小事,却于我有意义,将我从坏脾气里拖开,使我至今忘记不得。

民国六年の冬、北風が猛烈に吹きまくった。その頃わたしは仕事の都合で毎朝早く往来を歩かなければならなかった。通りすじにはほとんど人影を見なかったが、しばらくしてやっと一台の人力車をめっけ、それを雇ってS門まで挽かせた。まもなく風は小歇みになり、路上の浮塵はキレイに吹き払われて、行先きには真白な大道が一すじ残っていた。車夫は勢込んで馳け出し、S門に近づいた時、車はたちまち人を引掛けてふらふらと挽き倒した。

这是民国六年的冬天,大北风刮得正猛,我因为生计关系,不得不一早在路上走。一路几乎遇不见人,好容易才雇定了一辆人力车,叫他拉到S门去。不一会,北风小了,路上浮尘早已刮净,剩下一条洁白的大道来,车夫也跑得更快。刚近S门,忽而车把上带着一个人,慢慢地倒了。

躓いたのは白髪交りの一人の女で著物はひどく破れていた。彼女は車道の隅から車の前を突然突切ろうとしたので、車夫はこれを避けたが、彼女の破れた袖無しに釦がなかったため、風に煽られて外に広がり、梶棒に引掛った。幸に車夫の方で素早く足を留めたからよかったものの、でなければ彼女は大きな飜筋斗を一つ打って、ひっくりかえり、頭から血を出したことだろう。

跌倒的是一个女人,花白头发,衣服都很破烂。伊从马路上突然向车前横截过来;车夫已经让开道,但伊的破棉背心没有上扣,微风吹着,向外展开,所以终于兜着车把。幸而车夫早有点停步,否则伊定要栽一个大筋斗,跌到头破血出了。

彼女は地に伏した時車夫は足を留めた。わたしは、この老女が怪我した様子も見えないし、ほかに見ている人もないから、余計なことして附け込まれ、手間を取っては困ると思い、「何でもないよ。早く行ってくれ」と車夫を促し立てた。

伊伏在地上;车夫便也立住脚。我料定这老女人并没有伤,又没有别人看见,便很怪他多事,要自己惹出是非,也误了我的路。我便对他说,“没有什么的。走你的吧!”

車夫は肯(き)き入れず――あるいは聞えなかったかもしれぬ――轅(かじ)を下におろし、その老女をいたわり扶(たす)け起し、身体(からだ)を支えながら彼女に訊いた。
「どうかなさいましたか」
「突傷が出来ました」

车夫毫不理会,——或者并没有听到,——却放下车子,扶那老女人慢慢起来,搀着臂膊立定,问伊说:  
“你怎么啦?”  
“我摔坏了。”

わたしの見たところでは彼女はふらふらと地に倒れて怪我するはずもないのに、甘くすれば附上る、本当に憎らしい奴だ、車夫もまた余計なことして自ら苦労を求めているのだから勝手にしやがれ、と思った。しかし車夫は老女の言葉を聞くと少しも躊躇せず、そのまま彼女の臂を支えて一歩一歩先へ進んだ。

我想,我眼见你慢慢倒地,怎么会摔坏呢,装腔作势罢了,这真可憎恶。车夫多事,也正是自讨苦吃,现在你自己想法去。车夫听了这老女人的话,却毫不踌躇,仍然搀着伊的臂膊,便一步一步的向前走。

わたしは不思議に思って前の方を見ると、そこに巡査の派出所があった。大風の後で外には誰一人見えない。あの車夫があの老女を扶けながらちょうど大門の方へ向って歩いている。

我有些诧异,忙看前面,是一所巡警分驻所,大风之后,外面也不见人。这车夫扶着那老女人,便正是向那大门走去。

わたしはこの時突然一種異様な感じを起した。全身砂埃を浴びた彼の後影が、刹那に高く大きくなり、その上行けば行くほど大きくなり、仰向いてようやく見えるくらいであった。しかもそれはわたしに対して次第々々に一種の威圧になりかわり、果ては毛皮の著物の内側に隠された「小さなもの」を搾り出そうとさえするのである。

我这时突然感到一种异样的感觉,觉得他满身灰尘的后影,刹时高大了,而且愈走愈大,须仰视才见。而且他对于我,渐渐的又几乎变成一种威压,甚而至于要榨出皮袍下面藏着的“小”来。

わたしの活力はこの時たぶん停滞していたのだろう。じっと坐ったままで、派出所の中から一人の巡査が歩き出して来るまでは何の思付もなく、それを見てからようやく車を下りた。

我的活力这时大约有些凝滞了,坐着没有动,也没有想,直到看见分驻所里走出一个巡警,才下了车。

巡査はわたしに近づいて言った。
「あなたは雇い車でしょう。あの車夫はあなたを挽いてゆくことが出来ません」
わたしは思いめぐらすまでもなく、外套のポケットから銅貨を一攫み出して巡査に渡した。
「どうぞこれをあなたから車夫に渡して下さい」

巡警走近我说,“你自己雇车吧,他不能拉你了。”我没有思索的从外套袋里抓出一大把铜元,交给巡警,说,“请你给他……”

風はすっかり止んで往来はいとも静かであった。わたしは歩きながら考えたがほとんど自分のことに思い及ぶことを恐れた。以前のことはさておき、今のあの銅貨一攫みは一体どういうわけなんだえ?彼を奨励するつもりか? わたしはこれでも車夫を裁判することが出来るのか?わたしは自分で答うることが出来ない。

风全住了,路上还很静。我走着,一面想,几乎怕敢想到自己。以前的事姑且搁起,这一大把铜元又是什么意思?奖他么?我还能裁判车夫么?我不能回答自己。

このことは今でもまだ時々想い出し、わたしはこれに因って時々苦痛を押し切り、つとめて自分自身に想到しようとする。幾年来の文治と武力は、わたしが幼少の時読み馴れた「子曰詩云」のように、今その半句すらも諳誦し得ないが、たった一つこの小さな事件だけは、いつもいつもわたしの眼の前に浮んで、時に依るとかえっていっそう明かになり、わたしをして慚愧せしめ、わたしをして日々に新たならしめ、同時にまたわたしの勇気と希望を増進する。

这事到了现在,还是时时记起。我因此也时时煞了苦痛,努力的要想到我自己。几年来的文治武力,在我早如幼小时候所读过的“子曰诗云”一般,背不上半句了。独有这一件小事,却总是浮在我眼前,有时反更分明,教我惭愧,催我自新,并且增长我的勇气和希望。

(一九二〇年七月)