日语文学作品赏析《二十歳のエチュード》
僕はきっと夢を見て来たのに違いない。
一明君
「自己の思想を表現してみることは、
右の最後の反省と共に、僕はこの小さな三つのノートを、君の手に渡そうと思う。
長い間筆を捨てて来た僕が臨終の直前まで来て、まだ一度も試みたことのないこうした感想録を作らずにおれなかったのは、やはり弱気の
君に渡すとすれば、もっと綺麗に、粗雑な文体も直した上で手放したいのだが、僕にはもうその気力がないのだ。我慢して受けてくれたまえ。
君はおぼえているだろうが、僕はよくドイツ人の悪口を言うときにこう語ったものだった。「ゲルマン人の思考の仕方は、城廓を築いてその中に安住する」このエチュードを記した後で、僕は自分の書き方に対してこの評言を与えざるをえない。それから、考えて見ることは、言葉を裏切った僕自分が、時にはやはり言葉で、動いたということだ。自分の思想を裏づけようとする時には、そうなるのは当然だし、プラトンの対話篇におけるソクラテスは、常に僕らの後を追い廻している。それにしても、僕の認識は、いつでも言葉の届かない所を歩いていたはずだ。
僕が君たちと離れて暮らした、昨年の暮れから今年の春にかけて、書き溜め、そして破り棄てた数々の詩篇や創作、自ら誇った「新しい日本語」を残すほうが、どれだけ君にとっては好いことだろうね。しかし、白状するが、僕には再び思い出して見る元気もないのだ。僕は疲れている。
一明君
世の中には人の言ったことばかりを覚えている者もあるし、その声の主調低音だけしか記憶に残らないような種類の脳髄もある。
表現は
別離の時とはまことにある。僕もまた、この夜、一人の仲間を葬ったのだ。
朝が来たら、友よ、君たちは僕の名を忘れて立ち去るだろう。
昭和二十一年十月朔日
机下
[#改ページ]
l'□tendue de mon innocence.
*
*
まだ傷つけ忘れた場合はないかと、安全地帯を探して廻る臆病者たち。
刃を捨てようというのか。
彼らの顔に刻まれた大小の
もはや、あの、生地のままの肌を持った、素朴な人々の住む故郷に彼らは帰って行けない。
そこで、こうした賤民たちが、「認識者」の刃を後生大事と、看板代わりにぶら下げて、お互いの顔貌を見せあっては安心するというわけだ。
*
僕がかつてお目にかかった「認識者」とは、なべて皆、醜怪な賤民たちにすぎなかった。
刃を捨て、
*
*
*
「思想は一つの意匠であるか」
*
最後に僕は、勝利の女神と対決した。
*
僕が「見る者」であった時には、よくこう語ったものだ。
「俺の眼にとっては、天が下にあり、地が上にある、と」
事実、そう信じたのだ。
今日、僕はすべての「見る者」を無視する。
*
いったい、奴隷が
*
今日、僕は、自分の語ること、考えることが、皆目嘘八百にしか感ぜられぬのだ。
*
僕が育った家。父母、兄たち、姉たち。ここでは、見慣れた家具の類が、家族の一員となって、僕を甘やかそうとする。
僕にはその居心地の温さが堪らなかった。
僕は冷たくありたかったのだ。「精神」への冒険に旅立ちたかったのだ。それはいっさいの温いものを拒否すること、すなわち「死ぬ」ことに帰着する。
理解できない「末っ子」の死を前にして、お母さんはどうするだろう。
*
表現はどんな風にでもあり、したがってどんな考え方だって存在しうる。
思索とは表現の可能性に対して行なわれる精神の賭博である。
僕の自意識は、思想のルーレットを己の意のままに廻すことができた。だが賭金などに用はなかった。
*
そこで僕は賭博場を飛び出した。外に出れば寒かった。
もはや僕の信ずるのは、自分の肌の感覚だけだ。
*
彼らの間のだれが、自分の居間では
*
*
西洋人の作品は、芸術であれ、哲学であれ、必ず「アルバイト」の臭いがする。
強制と義務と正確への努力感と。そして生存競争の意欲。
ところで、支那の古詩には、こうした臭味がない。「文学を楽しむ」という
*
*
つまり、すべての表現――われわれの中に存在し、外に存する、image――言語・論理・数学に対して、苛酷になることであった。
*
窓の内側に住む孤独と、窓の外側に立つ孤独と。
むかし、僕の幼い魂は、終日、窓ガラスに頬を寄せて
そして、自分を孤独だと歎いたものだ。僕の詩人は、すでにこの時に生誕していたのだ。
けれども、僕に帰ってゆく家がなくなってから、僕は行きずりの家々の窓の中に、かつての「空想児」の姿を見つけては、彼らの平和な一日を祝福して歩くようになった。
そして僕は、これこそほんとうの孤独だと、思った。
*
僕はもう「見る者」ではなくなったのだ――窓を捨ててしまったから。
ところで、これこそ真の孤独ではないだろうか。
僕はやがて死ぬ男だ。
*
*
しかし批評することは、どこまで行っても自己を許すことである。つまり自己自身を批判する最も厳しい眼をもつことは、生きている間は不可能である。
ここまで到達した後に僕は死を決意した。僕は「より誠実であろう」とするものであって結果を恐れるものではない。僕はどうしても自分を許せなかったのだ。
*
悪魔はどこまで行っても、この言葉を
「救いはない」
僕の胸はたえずこの声にしめつけられる。
「
「勝利はない」
だからと言って、僕が敗北したと、だれが言えよう。
*
*
――君はもともと、独りきりになったら生きて行けないほどの寂しがり屋のくせに、側に人が来ると、
もっともだ。僕くらい、いい気な男はない。
*
道ちゃんと玲子に贈るものはないだろうか、と僕の内奥の心が迷っていた。
その時、お婆さんは誘うような眼で言った。
――富士絹だっせ。
この言葉が僕の意志を決定した。
僕はお母さんと暮らしていたころのある日を想い出したのだ。
僕はいつものように駄々をこねた。何と言われても、すかされても泣きやまなかった。
ふと、泣き疲れて見上げた目に、お母さんの淋しそうな、涙にうるんだ視線で、やさしく僕を
僕は机の上にあっただれかのハンカチをとって、お母さんの膝の上に甘えかかりながら、
お母さんの眼が笑った。そしてハンカチを自分の手にとって、僕の顔を拭ってやろうとしながら、
「富士絹ね」と無心にぽつりと言った。……
あとで道ちゃんに尋ねたら、あのハンカチは人絹だった。
*
僕は生まれつき、臆病な、風邪をひきやすい箱入り娘なのに違いない。
*
*
*
*
*
僕にはどんな文体も可能であった。多少の幼稚さをまじえ、
他人をそっとしておこうという望みは、気弱い感傷でなければ、極度の
かつての僕なら、他人の自尊心の破壊を楽しんだに違いない。
いずれにしても、
*
さて、他人を頭から無視する人間は、かって気ままにふるまえるか。けれども、彼が勝利の感情を
*
「頭の中にあるものを出す」「一ぱいに満ち溢れた蜜がこぼれる」
ニーチェが巧みに弁解するところのこうした必然性を僕は拒んだ。
自己の思想の中に他人を化そうというこの願望は一つの弱気を含む。僕は「弱気だ」、と簡潔に言おう。
*
*
現代人は契約の中に明□さを見いだす。しかも彼らを安心させるのは、契約を作ったのも彼らだと考えられるからだ。
人間によって生み出されたものが人間を支配する。
現代人は己惚れた奴隷である。
ニーチェ以来人類は「貪慾」を肯定している。
*
けれども僕の明□さは、あくまで僕一箇のものだ。それは社会学者が「利己」と称して非難するごとく、破壊的なものではない。何故なら、それは沈黙しているからだ。
真の明□さは清いものである。それは利己主義者のように「所有」を受け入れはしない。
*
二十世紀の舞台に登場したこの花形役者に従えられて、我が世の春を謳歌するお歴々の名は、――形式・表現・連関………………。それは当然、「社会」と「全体」とをクローズ・アップするだろう。それがやがて「所有」への欲望と結びつけられる時に、あの
*
このほうが正確であった。彼は文学をより愛するに及んで、
「ここに言う文学とは、単に文字によって書かれたものを意味するに止まるものではない。いわばそれは文学に底流するかの情感、すべての人間の弱さ、惨めさ、醜さを超えて行こうとする人間精神の勝利であり、マンのいわゆる『にもかかわらず』によって成就された人間の業蹟なのだ」そして「………………これこそは芸術のすべて、文学のすべてなのだ。そして、この意味における文学こそまた人生のすべてなのだ」と壮烈に絶叫するのだ。
賢しらの
しかし、甘さはやはり排斥せねばならぬ。
真の詩人は詩論を書かぬものであり、真の信者は信仰を説明しないものである。
*
*
言語学と文法とを勉強しないで哲学ができるわけがない。
*
*
それは、正確に対して忠実・厳密でない、ということだ。
右の考えから、次の「悪魔の試論」へ。
人間は、自己の真情を吐露しようと欲することにおいて、罰せられている。
*
だから、僕の会話はこうなるだろう。
「『文は人なり』だって! 『人』なんて怪物が存在するものか。何といっても文は文だよ」
*
僕が最も憎悪したのは、「唯物論」「現実主義」そのものに対してではなく、世に現われた唯物論と現実主義の曖昧さ、不透明さに対してである。信仰のない「イズム」など僕には用はない。
*
唯物論はどこにでも領土を拡げる。
精神の世界にも唯物論は住んでいるのだ。すなわち、ありとあらゆる表現は、精神界における物質である。言語は物質である。
言語は精神を
僕においては、精神はあくまで言語と区別される。それは表現とは別箇に独立したものである。「精神」という単語の受けとり方の問題になるなら、僕は精神をこうしたものだと定義すると言おう。僕はこのけっして人に知られない、沈黙した実体の存在を信じているのだ。
それは「精神の肉体」と言う僕の発明した言葉で指摘してもいい、実証論者たちは、これを亡霊だと揶揄して凱歌をあげるだろう。それは当然だ。けれども僕はやつらを無視することができる。僕はいつでも、だれにも知られぬ孤独の中にのみ誠実さを見いだすのだ。
*
*
「われわれは、自己を隠し過ぎるという悪い癖と、あまりに告白し過ぎるという悪い癖を持っている」
*
このパスカルの言い方、あるいは、
「われわれは良心というものが存在するかのように行動しようではないか」という鴎外の声色。
僕は、実証論者たちと共に、きっぱりと、しかしながら沈鬱にこう言おう。
「気の弱い夢想児の寝言にすぎぬ」と。
しかし、かかる言葉は、今一度沈黙の中に鍛え直すだけのものを内に秘めているのではないか。
僕は Pens□es を、自分の胃袋の中で、思いきり
「パスカル。私にはお前の手が見えすぎる」と毒づく時の、ヴァレリイの眼の奥を覗くこと。
*
「過去を憎み、ありとある思想に反逆し、詩を捨て、家を捨て、肉親の人々にさえも冷酷な瞳を投げつけ、そうしてお前の周囲のすべての人に、事物に――。
これは結局は、お前自身の血を否定することではなかったのか」と。
僕は黙って、この判決を聞いてやった。
*
〔 Simple et tranquille.〕
名古屋で玲子が教えてくれた讃美歌。
――仇に過ぎし日の、み赦しを願う。
カトリックとは全く魅力のあるものだ。
ボオドレェルよ、握手しようではないか。
さて、その後に別れるのだ。
*
*
僕は信仰を尊敬する。何故なら、信仰はお
*
けれども僕が、語らない海を愛するのは、それがすばらしい語り手であることを知っているからだ。
静かな忍従の衣の下にやすらう黎明の海上にも、きっと、あの壮絶な暴風の夜半が、怒号の夕べが、泡立つ正午が約束されているからだ。
だが、これは悲しいことではないのか。この約束なしにわれわれは海を愛せるであろうか。
人は海べに来て、はるか青一色の沖合いに砕ける幾つかの白い波頭を認めなければ、最後の微風も死に絶えた大気の中に、かすかなざわめきを聴きとらなければ、衰えた秋の陽を浴びて、じっと動かない灰色の砂丘の上に、無残な嵐の一夜の痕跡を踏まなければ、おそらく退屈に耐えずして
僕が語り手でなくなることを嘆くまい。
*
一、ばかでも言うこと。皮肉を籠めたつもりで嬉しがるばかもいる。
「原口が死んだって? やっぱり生きてるのがいやになったのさ」
二、厳めしい物知り顔がこう言う。
「これはまさしく人生への敗北である」
三、メカニスム的に語る生理学者。これはなかなか気持ちがいい。
「人の死に方にもいろいろあるが、なかには変わったのもたまには見つかるね、食慾過多で青酸加里を飲んだり、運動神経に狂いを生じて、自分の心臓にナイフの切尖が向いてみたり、恋水病という奇妙な発作で河に飛びこんだり……。
要するに死とは、脳細胞の活動停止によるところの……」
四、「人生に安心を見いだせなかったのだね」
「いや、安心という弱点が充満していることに安心できなかったのだそうだよ」
「ふうむ――どこまで
五、詩人曰く「原口は人生に最初から失恋して生まれて来たような男だったよ」
*
「先輩」の虚栄心は、「恐るべき後輩」に対して、自己の弱点を守ろうとしながら、こういうお世辞と、皮肉とを浴びせかける。
「君は要するに天邪鬼さ」(ついでに「ばかだ」と言いたいのだが、言えないのだ)
また、「君は一個のピュリタンだ。僕には、君の中にボオドレェルやフロォベルに見ると同じ、(ここまでいって、ちらっとひとつ顔を横目で見る。己惚れちゃいけないよ、という意味か。ふん、僕を詩人や小説家と一緒にされて堪るものか)禁慾者、修道僧の面影が見えるんだ。それなのに、君は他人に対しては、同じ修道僧であることを求めない。そっとしておきたいんだね。殊勝なことさ。でも、それはトニオ・クレーゲルの感傷にすぎないよ。君がピュリタンである以上、君は他人にもピュリタンであることを要求する権利がある」
その時、当の「天邪鬼」は答えたものだ。
「権利ですって! 義務ですって! ふん、まっぴらご免だ。それに僕がピュリタンだなんて、どうしてわかります。
それどころか、僕は『
さあ、僕が死んだら、思う存分「ばかなやつだ」と言いたまえ。
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「君がどんなに、『詩人じゃない!』って言い張っても、君の本領はやはり詩人だよ。
正直に言えば、僕は君の詩以外のものは読もうと思わないね。『断頭台の時刻』を書いた時に君は筆を折るべきだったのだ。
君はあの時、夢と共に自分自身をたたきつけてしまったんだよ。詩を失ったら、君にはもう何も書けないはずじゃないか」
それから意地悪い顔をして、
『窓蔭に流れる四季』には、もう君の姿はないね。もともと君は小説家でも、哲学者でもないのに、「あんなものを書こうとするのがすでに、君が俗っぽくなった証拠さ。――つまらない我を張るのはよして詩を書きたまえ、詩人でない君なんてありはしない」
僕はこの時も彼を冷笑したものだ。
「二十世紀に宿命などあるものですか。『額の
詩人変じて俗となる、なんて、現代の社会では珍しい事件じゃありませんよ」
しかし、自殺の計画はすでにこの時、僕の心に
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理解されようという願い、これも一つの弱気にすぎない。
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気持ちのいい親切は、ある程度の無関心を含むものである。何故なら、それはわれわれに、自由な余地を残しておいてくれるからだ。親切も、度を過ぎるとわれわれを不快にする。
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これらの群像を遠目に眺めて、「愛する」と肯定しよう。
「愛」がなんらかの卑劣な妥協を含むなら、棄てること。
「安心」は常に僕の敵ではないのか。
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ところで、精神とは、自尊心の活動する世界のことである。
僕の兇暴な自尊心は、あらゆる
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僕はこの持続 =dur□e という言葉が好きだ。ここには「忍耐」の響きがある。
「
表現への慾求が生む理想論。
これを「ロマンチスト哲学」と呼ぼう。僕の眼には「許容」すなわち弱気から生まれない表現などありはしない。
果実が落ちるのは、これをささえる
落としてしまうことは、この誠実さに謀叛する行為である。
「自然なこと」「必然性」
今一度、これを許容することを
しかも、われわれの
ならなかった記念碑を惜しむまい。「新しさ」は、常に未来に向かって立つ現在の自己の姿の中に住んでいる。
自意識の極限について考えて見ること。
*
このような言葉の前に僕は意地悪かった。
より明晢な[#「明晢な」はママ]こととは、より冷たい眼を持つことであると僕は考えた。この「冷たい眼」を僕は自意識と名づけた。
いっさいの「許容」「妥協」「弱気」これを僕は「曖昧さ」と名づけた。
そこで僕は「形式」を持たねばならぬ、ということ、「生きるとはなんらかの意匠を与えられることだ」という問題の前に腕組みした。そこでこの「許容」に身をもってぶつかることだった。
僕の純粋さが、懐疑の最も冷たい眼、すなわち、「死の眼」を持つことを要求したのだ。
認識するとは、われわれが生まれ落ちる時に与えられるもの、すなわち、豊かな生命の衣を少しずつでも
血は絶え間なく流れて、刻々に僕の身体は冷えて行った。
精神のより深奥を目指して進むものは、より「生きること」から遠ざかるのである。
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気の毒なルッソオの表情を研究してみよう。
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その生命の曠野は広く豊かであった。
目覚めている西洋は、常に城壁を嫌悪して、これを少しずつ破壊して行かねばならなかった。東洋を嫉んでこれを起こそうと努めながら」
僕の中の歴史家はこう語る。
ところで歴史家は歴史家だけに止まるものだ。
歴史家が人間の行為のすべてを決定することは、断じてない。
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言語とは思想家のためのルーレットである、と僕は前に書いたと思う。ところで金を目当ての仕事が、僕は汚らわしかった。
思想家の情熱は、「救済」という贋金貸に対して集中する。
金が智慧を生む、とはよく言った。
賭博場を飛び出した僕はやがて餓えに
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沈黙を尊重する僕は、旧世紀のこの国に住んでいた武士の一人の亡霊なのかもしれぬ。
表現は、商売であり、取り引きである。
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全く僕は、この諺が好きだった。
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ゲルマン民族は、常識的な事を、非常識な熱情をもって礼拝する。
僕が読んだドイツの哲学者たち、カント、フィヒテ、ヘーゲル、ショーペンハウエル、あるいはシュペングラーが話しをする時の顔つきは、俗悪なほど深刻である。
「ねばならぬ」と言い切ることは確かに男らしいことである。しかし、たいていの場合、それは脳髄の粗漏と、田舎君子の本能的な
さて、気の利いた悪口は、僕の中に政治家にまかせておくこと。
僕は、ドイツ人の太い地声に、「明□ならざる」ものを嗅いだのである。
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僕の通った道の角々には、いつも、これらフランスのモラリストたちの銅像が
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「表現」は永遠に不実な、気まぐれな、精神の恋人である。
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すでにこの箴言の存する現代にあって、人は、自己の中に政治家を所有しなければ、思想界の門を潜ることはできないであろう。何故なら価値の標準を決するのは政治家の爼上においてなのだから。
思想の価値は、表現方法を舞台とする巧妙なかけ引きと、
今日、思索を政治だと考えられぬ者は愚の骨頂である。そしてまた、政治家であることに誇りを感ずる思想家も
僕は政治家ではない。僕は価値そのものを抹殺する。
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こう、悪魔は思想家たちを、けしかける。
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ドストエフスキーの描いた、ニコライ・スタヴローギンや、イワン・カラマーゾフの面影を想起すること。
「理知の人」は、恐らく現代人にとって、最も魅力ある偶像である。
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この原理に現代の人々は飛びつくのだ。もともとかかる言葉は、自意識のもたらす可能性の問題に関して、自己に忠実なもののみの知っているものである。
しかるに「無知」にして、冷静ならざるところの現代人は、自己の行動に関しては、「他人は俺の行動から俺を判断してはならない」という防禦の
こうした現代人の多くが、他人の行動には毛を吹いて傷口を求めるがごとしといおうか。
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われわれがその中に生活している、こうした環境の貧しさを逆用する図太い人間は、政治家になる。それゆえにわれわれは日常、いたる所で「政治家」に出会わすと言えよう。
この政治家が、これを強味だと思いこむ時に、彼もまた、精神世界における賤民の群れに堕するのだ。
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「生活するとは、それが全く機械人形と同じ操作でない限り、多かれ少なかれ、精神の誠実さに反逆することであり、われわれの冷静さを幾らかずつ奪うものである」
こう記した上で、僕はできる限り冷静になろうと願う。
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そして、「現実の汚濁を恐れずに抱擁したまえ。われわれの
けれども、彼を起ち上がらせるものは何物だろう。彼を動かすものは何物だろう。もし、彼を引きとめるものがあれば、彼はこれを拒否するに違いない。僕にとってはこれが「汚穢」と呼ぶものなのだ。
「起ち上がること」――この行為をさせるのは、彼自身の内奥にあるものであり、「人間性」という普通的な名詞で片づけるわけには行くまい。われわれは一人として同じ顔を持たぬ。われわれの独創性は、「立ち上がる」時の個々の姿に存するのである。
いったい、「必然性」という名詞を発明した人間は、「万象は例外なく必然である」と始めから確信していたはずだ。
僕には、必然性を拒否するという必然性が存する。
どこを向いても許容と、妥協とばかりではないか。ニーチェの最も偉そうなところが、僕から見れば、最も狭い、卑怯なところだ。
汚れたものを、僕はあくまで排斥する。
ニーチェよ。もし、君が徹底した宿命論者なら、宿命に反逆するという宿命も存在しうることを否定しまい。
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ニーチェは重荷を担いで、苦しまぎれに威張り散らす。
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しかし、ここには一つの嘘偽がある。
ニーチェの眼に、全き肯定者の姿が見られたか。彼の心は、絶えず不安と後悔につきまとわれていはしなかったか。この不安には男らしくないものがある。つまり真に肯定しているわけではないのだ。
さらにまた、ここにある一種の安定感。――「ここまで来たのだ」という無用の自慰の
彼は土台を必要としたのである。その弱気のゆえに。
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だから、論理を崩壊させるには、これに挑戦しさえすればよい。つまり、一歩動くだけでたくさんだ。
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今、西欧精神の辿り来った幾多文化の変転流相の歴史を望む時、僕は、その流れの最も遠い泉――伝説と神話との、ほの暗い叢林と
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われわれが過去を
過去に向かって立つ時、われわれの眼前にあるのは、無数のまことしやかな、虚妄の道路である。
過去について、われわれは頭の中で小説を書く。
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変わらないものは何もない。数学は決して時間と握手せぬ。
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僕の代数の公理は「純潔」の一語であった。そして、この公理に違うものはすべて誤謬にすぎなかった。
「解答を得よう」というあの願いが、やはり、僕のペンの尖を鞭打っていたのだ。
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僕はこうした弁解が不潔で堪らなかった。
それほど悩ましいなら、やめたらいいじゃないか。
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と僕の悪魔が、お世辞たっぷりの陥穽を張る。
だからと言って、僕の精神は嘘偽にお辞儀はしないよ。
簡明に言おう。
精神は嘘偽を支配するのだ。それが嘘偽を蹂躙するのは、沈黙の夜が訪れる時だ。
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橋本の家で貧血を起こして卒倒した時、僕の
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僕は逆立ちして、人生をひっくり返し、
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さっき、小さな玲子よ。僕はお前の名前を想い出せなかった。
その後で、僕は何か身のまわりに足りない物があるような気がして、押えきれない焦燥に駈られた。机の上に古い向陵時報があり、その上にふと、僕は「清岡卓行」という名前を見つけた。そこでわかったのだ。
――パイプだ!
と僕は気がついた。あのマドロス・パイプは橋本にやってしまっていたのだ。
僕は悲しくなりながら、清岡卓行とマドロス・パイプとをこういう推理で結びつけてみた。あたかもポーのデュパンがしたように。――僕のマドロス・パイプはブライヤァだ。ところでブライヤァとは薔薇の根であり、薔薇の根で作ったパイプは上等だと、始めて教えてくれたのは清岡さんだったわけだ、と。
Nonsens !
パイプ。いかにも清岡さんの風貌に似合ったものであった。
ボオドレェルは失語症に
――ボオドレェルが一生に儲けた金は、一万五千八百九十二法と六十サンチームだった。
この六十サンチームは、安葉巻二本に変わる、と。
*
大熊さんの所で、僕はレコードを聴いていた。窓の外では霧雨が林の上に
ショパンと、リストと、モーツァルトと、ドビュッシイと。最後にバッハのフーガとアリアとを聴いて小屋に帰ったのだ。ベッドに座ってから僕はふと思いあぐんだ。
今のフーガはピアノだったかしら、と。この耳で聴いたのだし、始めからピアノ・ソロばかりを選んだのだから、そうに決まっていたのだ。それなのに、どう考えてもますますわからなくなった。夜、僕は再度訪ねて確かめねばならなかった。
et □ tous sens ! ――Pascal――
悪魔が夢の中でこう
「過去を救おうとしなかった者への天罰です」
いつも味方してくれる天使でさえこう言った。
「迫害妄想狂の畸形児め。天邪鬼に恰好の断末魔だ」
民衆がこう
いつのまにか、ピアノの音がやんでいた。そして皆が声をそろえて歌った。「報いが来たのだ、この変わり者!」その合唱はしだいに大きく伝わって行った。「報いが来たのだ、この変わり者!」僕はその中に、若々しい乙女たちの声を聞きとめた。
さっきまで、無心にピアノを
僕ははっきりと耳にした。
「報いが来たのだ、この変わり者!」
僕はこの文句を
けれども、もう一度、あの少女たちの朗らかな、高い声をききとった時に、僕は微笑して
*
――一人のモーツァルトのかげに、百人のモーツァルトの死んでいることを忘れるな。
*
*
僕は記念碑に向かって、次々におさらばした。「足もとの土台がぐらついているぞ」と
いったい土台の上に立ってると思うのが、虚妄なのだ。
*
*
*
*
*
嘘つきがこういう。「すなおに、謙虚にぶつかることです」
賢明な者は黙っている。
感傷家が次のように語るだろう。
「やっぱりある程度、生意気だったんでしょうね」
*
僕の自殺もこんなことになるのだろうか。
*
「君みたいに、
ただそれだけのすなおな批評であったか、あるいは中野の胸にいつも潜んでいる歴史学者、類型学者としての眼が、こう僕にレッテルを貼ってくれたか、それは知らない。
*
このことが僕をして何も言えなくすると共に、何でも言えるようにした。
*
*
――過去がわれわれの今日をあらしめた。それゆえに過去の完全な認識によってわれわれは現在を完全に知ることができる。
――精神は嘘偽によって磨かれる。それゆえに嘘偽を完全に身につければ、精神は完全な光輝を発する」
悪魔の語法はいつでも同じだ。
「それゆえに」はまっぴらだ。それは次の「それゆえに」を生むだろう。僕にはもう接続詞の用はない。僕の文章はばらばらの断片だ。
正確な連鎖はけっしてありえない。
僕が詩人だった時は、いかに離れ合ったイマァジュといえども、見事につなぎ合わせてみせたものだ。
――人間・過去・精神。所詮は定義上の問題に落ちつくのだろうが、僕はいかなる定義をも抹殺する。
――偶像の頭には「完全」という奇怪な護符が貼りつけてある。
――必然性は時間の中よりもむしろ空間にある。怠惰な悪魔は必然性の網を展りひろげて、われわれの動きを止めようとする。
*
これを切実に知っており、しかもここに溺れてしまわぬ自己を育んで行こうとする人間。
僕が、今までに逢った人々の中で、こうした印象を汲みとりえたのは、中野ただ一人だった。
*
けれども誠実さは何といっても狭い道を行く。
精神の自由者とは、いつの日も、深淵に向かって張り出された、ただ一本の細糸の上を辿って行くものではないのか。
*
こう負け惜しみを言ったら、僕の天使が慰めて曰く、
「死によって、あなたの姿が消え失せても、
*
背後をふり返る者の眼には、もっと気弱い、臆病な影がある。しかも、先輩というやつは、傲慢なもったいぶった顔をして過去を語り、後輩の現在を、彼らの過去と混同する。元来「過去」はわれわれが考えるほど、頼りになるものでも、何でもない。時の流れにおいては、すべてが絶えず変化し転落してゆくものである。先輩は「過去」という亡霊が今なお生きていると錯覚して、後輩を失敬にもこの
*
彼の足取りはたどたどしく、時折り思いがけない方向に踏みこむけれど、困惑したり、立ち止まってしまいなどしない。溌剌とした、弾力ある魂は、すぐ、次に下すべき、他方の足の位置を考えている。
彼の一歩一歩が、「探り当てた」者の誇りに満ちている。
*
「明識ある行為は自然の経路を短縮する。そこでわれわれは確信をもってこういうことができる、すなわち、一人の芸術家は一万年、あるいは一億年、あるいはそれ以上の歳月に匹敵する」
ここに僕が汲みとるのは、「芸術家」とは(……………に匹敵する)者にすぎない」という響きである。
これに答えるプルウストの
しかし、芸術家が芸術を擁護しようとすることは所詮、感傷にすぎまい。
*
*
*
僕はけっして時計を持たなかった。
大事そうに金時計をぶら下げた
*
*
表現は生まれ落ちたとたんに自己から離れて、独立する。
すなわち自己は常に自己だけの孤独な時間の流れを通る。
もはや生み落とされた「表現」は一つの過去の記念碑にすぎない。
*
*
あれほど厳しいヴァレリイの視線の中にある何というやさしさと思いやり。
「レオナルド・ダ・ヴィンチの残した数々の作品。――絵画に、建築に、科学に残した業蹟は、彼が
*
――人生においてたいせつなのは、人生であって、その結果ではない。
*
現代人は、自分で自分の墓穴を掘る。「権利」を主張したあげくに、また一つ
「……すべからず」という禁令はもう葬られたそうだが、彼らは、代わりにこんな立て札を見つける。「何を
いずれにしても、結局は首が廻らなくなる。
*
*
そして僕ほど、嘘つきの嫌いな人間もないだろう。
*
*
無垢の小鳥は、絶えず、この暴虐な猟人の銃口の前で怖れおののいている。
*
小鳥は武装しなければならぬ。
*
*
「安慰」、「満足」、「傲慢」。なべてこれらのものは、僕が立ちつくすたびごとに、僕の身辺に寄り添おうとしてくるのであった。
何が汚穢を感じさせたか。「僕の皮膚の敏感さが感じるのだ」と僕は答える。
*
*
「着物を見つけなければならぬ」
これは、悪魔と、天使が口をそろえてすすめてくれたことではあったが。
僕は恐らく、夢を見て来たのに違いない。
*
この活動の中に認識がある。
認識の曖昧さ、不明さは、触覚の鈍さを証するものである。
*
*
*
ところが、僕には「救済」ほど、思想を曖昧にするものはないのだ。
*
*
*
*
「子曰。参乎。我道一以貫之。曾子曰。唯。子出。」
僕は学校の教場で居睡りしながら、よく、この論語の一節を懐しく思ったものだ。三尺離れて師の影を踏まず、といったあの東洋の美風はどこに行ったのだろう。
言語学上から見て、現代の社会に、「師弟」という二字が残っているのはきわめて不当なことだ。
*
僕はこうした人が好きだ。それはか弱い印象を与えるけれども清純さに溢れている。
そして、弟子は師よりも元来自由なものだ。
*
超人は不潔な偶像である。
*
――九つの交響楽は確かに偉大ですし、私を圧倒します。しかし、何だか頭の中が濁って、疲れちまって………………いや何、これは私が始めて聴いた時の印象でしてね、考えて見ればそのころは皆目音楽なんてわからなかったんですよ。
*
僕は五十二のマズルカを作った
*
この清岡さんの言葉が胸を刺した。
そして、それ以来、僕の誠実さの唯一の尺度となった。
結局、僕は精神の旅において「男の中の男」として振舞いたかったのだ。
*
*
*
精神にも礼節がある。
僕はいつも精神の戸口で身ずまいを正しくする。
しかも僕の見て来た認識者とは、汚れた服装で、
*
*
芸術家はいつもこう言って来たし、僕も芸術家だったこともある。
僕は疲れてしまったのか。いや、ただこういう言い方をしなくなっただけの話だ。
それにしても、僕の「憧れ」はどこに姿を消したのだろう。
「お前自身の内に清純さがなければ、どうして汚濁を排することができよう」
ああ、皆、弁解だ。慰めだ。純潔を掘り出した、と?――僕は耕しもしない、発見もしない。僕には、すべてのことが汚らわしかったし、曖昧にしか見えなかったし、それが堪らなかったのだ。
*
子供たちよ、警戒したまえ。その次に何が飛び出すか、僕にはわかっている。そうして、こんなお説教には耳をかさずに君たちの遊戯をつづけたまえ。
ごらん、空はあんなに晴れている。
「…………それゆえに」を聞いたらおしまいだ。この呪文は雨を降らせるだろう。
*
*
処世術を破壊し拒否する男に処世術の枠をはめこもうとしてもだめである。
*
賢さとは冷たいことである。――僕の尺度――
*
*
「詩人! まっぴらだ」などと威張るまい。
僕はもう、詩人と握手する
*
僕はこんな忠告には耳を
するとまた、だれかがこう言った。(ジャン・コクトオだったかしら)
「確かに『立ち止まる』のはもう時代遅れだ。それにしても、何てまあ無愛想な恐ろしい顔をしてるんだい。体操だ、ダンスだ、スピードだ! もっと軽快に歩くことを学びたまえ」
僕は相変わらず押し黙っていた。
やつらは、僕を不幸な男だと思ったに違いない。
だが、「天邪鬼め!」などと、
*
「なんて軽はずみな子だろう。危くて見ちゃいられない。もういいかげんにわがままなお茶番はおよし」
放蕩無頼の悪党たちは、僕を鄭重に敬遠する。
「せっかくのお酒がまずくなっちまうよ。君は、肩を張りすぎてるんだもの。何だか面映ゆくってしょうがないや」
*
僕にはばかのまねも、白痴のまねも可能である。
眼の光さえ、今日では隠し偽ることができる。
つまり意識のある高みにおいては、真実とそっくり同じ仮面をかぶりうるということは、実証論者をして、次のように言わせるだろう。
「全く同じであれば、やはり同じわけだ。これを偽瞞とか、真実とか区別する必要はない。ばかの容貌はばかであることの証拠なのだ。――精神。ふん、亡霊さ」
*
――やがて、宇宙的言語の時代が来るであろう。それは、音・色・匂い、すべての陰影を要約して魂へと通ずるであろう、と。
*
「権力への意志」とは所詮賤民ども・プロレタリアートのみの振り
まことの貴族は「権力」にすら、何らの関心をも示すものではない。彼らはそういう言葉のなお上層に位する。
東洋人の去勢者のような、滑らかな無表情が、右の言葉を語らせたのか。そして、これが西洋精神の重苦しい表情へのとどめの一撃になるのだろうか。
歴史的な話法には必ず曖昧さと自己満足とがあるものだ。
*
*
*
*
この二つの単語が人類の辞書から抹殺されぬ限り、永久に戦争は絶えないだろう。
プロレタリアートよ。今度は君の番だ。恨めしい顔をした、貴人たちの幽霊を警戒するがいい。
*
*
*
プルウストはコルク張りの密室のベッドの中で、あの偉大な芸術の糸を紡いだ。
Discours de la M□thode は煖炉部屋の椅子の上から生まれ出た。
*
*
詩人を廃業した時に僕はこう思った。
「僕は『美』を殺害したのだ」と。
さて、今日、僕は次のようにしか語れまい。
「僕は『美』に酔えなくなったのだ」と。しかし、やはり同じではない。反省の時刻が違うから。
*
*
しかも僕は常に高利貸しを憎悪してやまぬものなのだ。
*
――お前は「生」の裡に、汚穢しか見いださなかった、と。では、お前は俺の仲間さ。何故なら、これこそお前が、最も汚れ多い人間であるという明らかな証拠ではないか。
*
――僕は童貞を失って生まれて来た子供なのかしら。
*
*
*
*
*
僕のこの過ぎ去った数か月は、彼らの数十年の春秋の流れと同じものであろうか。――そうではない。
*
――僕は純潔を求めた。
――僕の肌が敏感に、か弱くできていた。
今では僕は、後の話法を採用するだろう。
*
平等主義。――歴史家は詩人の時代は去ったと説く。詩人自身もこう思っているらしい。「ここでわれわれの個性は地の下に圧えつけられて芽を出す機会がない」と。
*
「せっかく、一度入った者を、もう一度落とすなんて
橋本や、都留や、児島がもし、あれについて何も言わなかったら、僕もただそれだけの夢として葬っただろうし、いつの間にか忘れてしまっていただろう。
けれども、彼らが「怪しからんじゃないか」という口振りを、いかにもおもしろそうにまねするたびごとに、僕の心は人知れぬ傷口の痛みに苦しんだ。
われわれは自分一人では問題ともせず、気にもとめない一見些細なことでさえ、他人によってそれを投射されると、本能的な反射作用で表面を守ると共に、投影された跡について冷たい反省の眼を向けざるをえない。ところで他人にはそんなつもりは、さらにないのだ。
あの時以来、僕は自分が二十歳をまだ越えない歳ごろにいるということを知っている。
何でもなかったことが、潜在意識の流れの上に投げこまれた、もともと見当違いのはずの一石によって、思いがけない認識に達するということ。この焦躁感のまじった探究心はますますその悩みと傷口を大きくする。
僕が青春に背を向けることを歎くまい。
*
*
*
*
*
*
*
しかし、次のように言った方が正確なのかもしれぬ。
「僕は屈辱を受けることにある
*
僕の
興味はなかった。しかし、興味を持てないということが僕には我慢できなかった、と。
*
僕は奴隷の
*
ヴァレリイは芸術家を精神世界における生産階級と見る。
ここに制作に従事する自分、という姿を、当然ではあるが劃とした枠に入れて区別して見せるところの正確さが存する。
清岡さんの芸術論の曖昧さと比較すること。
*
「積年、私は韻文芸術を打ち捨てて顧みなかったが、再びこれを自己に強制することを試み、この習作を仕上げた…………」
*
*
ルナアルは「書簡集」を嘲笑した。
*
この古めかしい文句が今なお通用するとすれば、それは徹底的実践主義者の前でだけだ。
「生活と芸術」について旧時代の批評家が得々と述べたものは、すべて皆独断論である。
嘘つきはどこにもいるし、意識してまじめな顔をするのは、廿世紀の社交界では朝飯前だろう。機械文明の世の中だ。自意識という巨大な機械に注意するがいい、感傷詩人のインスピレイションなど、幾つでも製造できるではないか。
こう毒づいた上で、僕は、我が心の墓地に眠っている、あの薄倖な詩人たち、宿命の病人たちの生涯を憶っては、
*
「今こそ、人類が、太陽人と地球人とに分割される時だ!」と。
そして、純粋詩は地上の勝利をうたい、純粋批評は移住民の合唱を奏するだろう。
*
*
*
僕はいかなる詩人をも眠らせ、いかなる批評家をも飛び上がらせた。
*
*
[#改ページ]
Recevons tous les influx de vigueur et de tendresse r□elle. Et, □ □aur re, arm□ d'une ardente patience, nous entrerons aux splendides villes.
死に至るまで、僕の演ずる行ないはすべて――善良な友よ。君たちに聞かせた、たあいない寝言の片言隻句に至るまで、小説に書かれるためのお茶番であるかもしれないのだよ。
*
*
*
太陽を欲するなら、太陽に行きたまえ。
*
*
*
宿命・悔恨・反逆・悲惨……。しかも、かつての僕の魂はかくのごとき「言葉」の温床に
ポオル・クロオデル――
「ボオドレェルは十九世紀の有する唯一の熱情を歌った――すなわち悔恨」
過去という記念碑への愛憎と後悔[#「後悔」は底本では「後海」]。
支那の古人はこの重苦しい悩みの表情を、いかにも
鸚鵡含秋思。聰明憶別離。――杜甫――
桃花流水沓然去。別有天地非人間。――李白――
帰去来兮。と君は誘うのか。僕はすべての詩を拒否する。
*
これが詩人の祈祷である。
すべての宗教を寄せつけぬこと。僕の眼より冷ややかにならねばならぬ。
勝利の感情を受け入れてはならない。また、弱気の
*
壁を破壊することだった。そしてありとあらゆる学問に、思想に、人々に、まだ僕自身の影に、僕は「壁」の姿を見つけた。
僕に、慰安とは不具戴天の仇同士であった。
身についた
*
*
悪魔よ、黙ってろ。お前の汚れた手の指は、僕の身体に一本でも触れることはできないのだ。
「やはり救いはあるのですわ。そうやってただ独りで歩いて来たあなたに、今、残されたものが、あなたの清浄さであり、透明な無垢の肉体なのではありませんか」
感傷家の天使よ。あまり僕を泣かせないでくれ。
*
あの「信あつき巫女」は、もう存在しない。「神託」は墓石の下に眠ってしまった。
*
それは、いつでも「一般論」の網を張りめぐらして、僕の
*
僕はどちらにも意地悪かった。
*
*
いたりしよ……
*
*
*
大連の肌目は粗いが、それを洗煉されたお化粧でごまかそうとする。
大連の顔は
港の
他国の星の下で、若者は、自分の町を思い出す。ロシア少女の甘い、
「ダルニー」とただ一言。
すると、その言葉が、不思議な魔法で彼を縛ってしまう。
そして、若者はきっと
が、やがてまた、ダルニーは彼の心を駆り立てて、新しい汽船に乗せてくれるだろう。
植民地は野心の子を作る。
彼はアカシヤの花にノスタルジアの匂いを嗅ぎ、清澄な空の高さを仰いでは、希望の欣びを知り、棧橋の人混みにまぎれて異国趣味に
*
「語らない日本」こそ、母国のほんとうの美しい姿だ、と僕は思う。われわれの国語は、元来人に聞かせるように作られているものではない。吐き出すのではなく、口に含んでみる言葉なのだ。しとやかに、つつましく――これが日本語発声法の正統だ。
お喋りな日本人の顔ほど、滑稽、醜悪なものはない。僕には現代人が、落語家や万歳師の類にしか映らないのだ。
清岡さんが、明治以来の文学者を評した折りに、こう言ったことがある――漱石か。あれは高等講談さ。
われわれの父祖たちは、ゼスチュアを他から借りて来なければならなかった。天平文化に、明治文化に、われわれはわれわれ自身に表情を認めることができるであろうか。
演説をするなら、すべからく外国語で
瀬戸内海の平和な島々の間を通りながら、植民地の子供は感じたのであった。
――これこそ、お母さんの故郷だ、と。
けれども、神戸の
――何というみにくい国だろう!
「必要だったのだ」と歴史家は弁解する。しかし、必要は、向こうからやって来るものなのだ。われわれの民族は、必要に自己を売り渡したのである。
しかも今、
見栄と野望を葬ること、これが第一の問題だ。だれが今ごろ、身振りを信ずるものがあろう。孤独を豊富にし、忍耐を高貴にし、沈黙に魅力を与える術を心得ていたのは、泰西の詩人ばかりではなかった。そしてまた、老いたる伝統の帰趨を凝視する苦悶の吐息は、ヨーロッパの天地にも
うらぶれ、痛めつけられた霊魂は、もう一度、
――この病み衰えた霊魂は、カルタゴのごとく、城と共に自らを焼いてローマの一土に埋れ去るのか、あるいは放浪のユダヤ人と化して、故山を後にせねばならないのか、と。
*
全く、われわれの民族は、間の抜けた発明の天才揃いに違いない。
*
さて、それが、どうして恥ずかしいことなのだ――日本人よ。
*
賢明な奈良の大仏はすわっていた。愚かな明治の帝は、他人の足で動こうとした。
*
日本人はまず、この人間が、地中海産か、新大陸生まれか、シベリヤの
要するに、定義上の問題だ。哲学者たちは、けっして真の人間を教えはしなかった。彼らは彼らの亡霊を押しつけただけだ。
アダムとイヴの子孫、猿の同族、最高等の有機化合物、万物の尺度、社会を構成する因子、考える葦、世界理性の権化、地球の王者、日本国民、――ああ、めんどうくさい。「人間」はいくらでもある。
僕は断じて「人間」などになるまい。
*
この神の前に
「太陽の下、いかで新しいことのあり得べきぞ」
さて、僕は、いかなる骰子をも捨て去ろう。
*
*
*
*
*
現代において、表現への信仰が薄弱になったのは慶賀すべきことではない。人々は、嘘をつくことに熱中したあげく、自分で自分の嘘を信ずるようになる。
*
嘘が、万物の霊長の表看板なら、女性の典型こそ、まさに男性の目ざすべき、「人類の進歩の極限」であろう。
*
僕の悲しい信条はこうだ。「真実は嘘によって磨かれ鍛えられる」
*
*
*
*
自意識の臭みを隠すことが可能なまでに至った自意識。
*
新しい世紀の門口に来る時、われわれは沈黙の悲哀を忍ばねばならない。
*
*
蒼白い月が南国の夜を照らしていた。城門を忍び出た仏陀と車匿とは、その時ふと顔を見合わせた。地上に
*
海べで、星ヶ浦のようだが、思い出せない。
星がしずかに夏の夜空をめぐっている。僕と清岡さんとは黙って暗い沖の彼方をみつめている。波の遠くへ
「あれは古代が僕らを呼んでいるんだ」
と清岡さんが言う……………。
知らぬ間に世界は明るくなっていた。黎明。海も空も砂も、一面に黄金の光の海。気がつくと清岡さんが道ちゃんに変わってしまっているのだ。道ちゃんは輝かしい人魚の立像のように化石して動かない。
潮風が吹いてくる。波々がざわめきはじめ、いっせいに白い手をあげる。
「今日の波が、『近代人になれ』と
と僕がつぶやく。地球の
*
また、海がある。僕は、たえず一つの方向に走りつづけながら、それでいて、常に、円い太洋の中心点から少しでも、動くことのない、大きな汽船のデッキに立っている。
そこで僕とヴァレリイとが会話した。
「自分の顔に傷をつけることによって僕は認識した」と僕は言った。
「よろしい、障碍物を置いてみることだ」とヴァレリイが答えた。
「僕にとっての障害とは、虚栄・
「どうして乗り切らねばならなかったのだ」
「君にはわかっているではないか。僕の精神の肉体の冷たさが、これらの物の生温さを排斥したというのだ」
「つまり恐れたというわけだね」とこの時、ニーチェが来て口を出した。「僕なら、それを抱いてやるよ。僕の肉体はますます温くなるのだ。
「なかなか、うまい言い方だね」とヴァレリイが言った。「それでは君を出発させるものは何なのだ」
「何物かが僕を鞭うつから」
「曖昧な言い方はよしたまえ」
「僕の中にたえず動いているものだ。とにかく僕は出発する」
「どちらに向かって」
「超人を目指して」
「偶像というわけだね。僕は君の偶像を軽蔑しまい、しかし、曖昧な言い方はよしてくれ」
「曖昧ではないはずじゃないか。人類はこれを目標として進むのだ」
「そこまで言ったら、夢だ、幻影だ、と言われても仕方あるまい。では、超人に向かって進まないものがあるとすれば、君はどう思う」
「無視するだけだろう。そんな賤民に用はない」
「それでは、君の裡にこうした賤民の影はない、と言えるか」
「賤民の影を自己の中に持たないもの。それが超人なのだ」
「よろしい。君の歩みを鈍らせるものを君は無視し、拒絶する、というのだね。それなら、君もまたこれを排斥したといわないで、恐れた、というだろうか」
ニーチェは黙った。そして僕の方を向いて言った。
「君の排斥した許容・怯懦とは僕における賤民の影だったのだね。つまり、僕らの動きの方向を決定するものは同じ
「同じものではない」と僕は
「僕の節操とは、君が男らしい顔をして肯定した必然性、人間性というものを、より厳しく検討することだった。過去と、自分の現在の位置とを結ぶ線を考えることはそれでいい。けれどもそれは、それだけの話だ。必然性の上に立って活動するのだ、と思いこむのは、やはり何らかの安定感、僕に言わせれば用もない生温い背景を持つことにすぎない。
もし、過去と現在とを必然という線で結ぶなら、それはそれだけに止めるべきである。君の必然の線は現在からはみ出して、未来の
予言は所詮、予言にすぎない。
そしてまた、君もキリスト教徒と同じく、救済という『予定』を振りかざす、一宗教家にすぎない。予定には必ず許容がある」
「そして、それは正確ではない、ということだ」とヴァレリイが言った。
僕はつづけた。
「いったい『安心』というやつが怪物だ。ニーチェよ、君の文献学者としての過去の眼は、そこから未来への予定を汲みとっている。君の
真の支配者は常に、自己の全領土の代表者としての威厳と緊張した顔貌をもって、自由な行動をとるであろう」
「暴君の末路は常に
「結構だ」と僕が答えた。「賤民の群れに身を落としめることを
ニーチェが言った。
「
僕は答えた。
「レッテル貼りは常に君たち歴史家のすることだ。ドン・キホーテか、アルセストか。何とでも言いたまえ。もう一度言い方を変えてやろう。
僕はいつも、今立っている所から始める。僕は潔癖な自意識の冷たい身ずまいと共に、次の一歩に誠実さを籠めたいのだ。僕にはこれが『自由』というものだった。
極度に自分に冷たくなることだ。それは曖昧なもの、弛んだものを許さないことである」と。
「自由とは、独立して歩ける自意識が、支配し、操る、精神活動の冒険の中に存する」
ヴァレリイがこう言った。
いつの間にか、船は陸地の見える所まで来ていた。
僕が最後にいった。
「ニーチェよ。所詮歴史家は歴史を書くだけだ。君の精神の行動を律する眼は、やはり君の精神の肉体にある。
そして君の中にある精神の行動者が、感傷的なあるいは傲慢なジャーナリストのお
棧橋の上で僕らとニーチェとは
「君にはさし当たって職業がない。これからどうするのだ」
とヴァレリイが尋ねた。
「君の工場を見に行こう」と僕は答えた。
途中で僕らはいろいろな人々に行き逢った。そして僕は、かつての僕の生産工場が、主人を失った空家となって、さびれ果てているのを見た。
僕は清岡さんに見せたかった、と思った。彼と別れてのちに、僕はまじめに働いたのだ。そうして、この大きな工場を完成したのはつい最近のことだったが、僕はそれを棄てたのだった。ヴァレリイの工場で、僕は彼の仕事振りを感心して見物した。
「たとい夢にでも、何らかの壮麗な建築の企画を夢みない輩、……」とヴァレリイは、機械を愛撫しながら、おしゃべりを始めた。
「僕と、君とが友達になれたのは不思議なことだ」
「僕にだってそうした企画がないわけではない」
と僕は意地悪く言った。
「教えてくれたまえ」
「役者になるのさ」
「何の」
「喜劇だ。その筋書の企画がすばらしいのさ。僕の役者が、本物の狂人になって、舞台から飛び下りて自殺するのだ」
「本物の?」とヴァレリイは
「もちろん、本物ではない」と僕は痛快そうに叫んだ。
「だが、本物だと思わせるんだ。もし、お芝居だとわかったら失敗さ、これが初めから書割りだと知っているのは僕と君だけだよ」
「何も死ぬ必要はないではないか」
「自殺の場所をここに決めただけだよ。畳の上だって、水の中だって僕がやがて自殺することに変わりはない」
「君には君の道がある。自殺することはやめはしまい。だが、どこだって同じなら、そんな場所を無理に選ばなくたっていい」
「ヴァレリイ。僕がこういう計画を抱いたのは二つの理由によるのだよ。聴きたまえ。
一、自意識の力は、それが自意識の働きであることを隠しうるまでに至るということを、実験してみたかったのさ。真に迫るのじゃなくて、真そのものと全く同じに見えるのだ」
「そんなことは示してくれたっていい」とヴァレリイが遮った。
「ばかばかしいじゃないか。しかも、それがわかるのは僕だけだ」
「観客が本当だ、と思いこんだら、成功だからそれでいいよ」
「そうなれば、君の死亡届にはやはり狂死と記されるだろう。そして、人々はあいつはとうとう気が違って死んだ、と信ずるだろう」
「僕はもはや屈辱に虚栄心を感じはしない。僕の誠実さは、人に知られない沈黙の中に、いつだってあるのだ」
「そいつは傷ましすぎる」
「僕は、常にお茶番を演じて来た。ばかに見られること、賢く見られること、これが僕には意のままにできた。
そして、僕は屈辱と
「君の誠実さは表現の外にあるさ。だが何も好んで途方もない表現を装うことはない。君の中にある
「反対に、ヴァレリイ。きれいな死に方の中には往々、年寄りの感傷的な合掌が念仏を唱えてるものだよ。
僕にはたまらない、あの弱気。自殺する者が最後に人生を見返る時に、彼の魂に忍びこむ、慰めの影。これが今の僕にも巣喰いだしたのだ。僕は、こいつを追い出そうと思ったのさ。これが第二の理由。屈辱にせよ、慰安にせよ、僕の冷静な魂の鏡は、これらに曇らせられてはならない。すべての
こうして僕に課そうとした筋書。――僕はいつでも、自分の肌身に刃を刺して来たものだ」
「僕は、君の自意識に、極度に神経質な偏執の棘を感じるよ」
ヴァレリイはこう言って嘆息した。そうして長い夢から僕は目がさめた。
ヨーロッパは最後のダンスを踊ったか。
無関心な楽天家を祝福しよう。ただし、彼が礼儀作法を心得ている限りにおいて。アメリカは育ちが下等だ。
新大陸と機械文明とを呪ったボオドレェルは、近代に育てられたところの伝統の子である。
僕は恐らく、先祖の名を忘れてしまった、身許不明の棄て児である。
*
精神の厳粛な門口に
*
理解されよう、あるいは愛されようという望みは弱気にすぎない。けれども、愛することはまた、一つの自己に対する許容ではないだろうか。
*
孔子の「仁」――理想的愛。すなわち、最も豊かに生きること。
己を捨てた愛。己の全てを与える愛。――東洋人の理想。
*
ショーペンハウエルを罵倒したニーチェを、さらにまた、僕が唾棄するのだ。
西洋人が、耳をかすまいとしながらも、未練げにしがみついている必然性――僕の
曰く「
*
*
自我を守ろうとするあの暴君的意欲はギリシャ以来、ヨーロッパ文化の一底流をなしている。
ニーチェの眼は「愛」と「自我」とが極点においては全く対立することを看破しなかった。ここに彼の思想の壮烈な虚妄がある。ニーチェは、より大きな慈愛を抱くことが、より自我に忠実にあることだ、と考えた。
しかし、「自我」に忠実であろうとすればするほど、われわれは「愛」を拒絶しなければならぬ。生きるとは愛することであるのを知っていたニーチェは、このことを明確に示しえなかった。しかも愛するとは自我を許容することであり、自我の姿をいささかでも見失うことは、それに仕えるところの忠実なる「精神の使徒」の冷静な目に、とうてい許されぬ謀叛である。
ここにおいて、「生命」と「自我」は対決する。
すでに「ツアラトストラの超人」は、この相反する二者を所有しようとする、虚妄の狼の飢えた眼に映る幻にすぎまい。
ギリシャ文化をかくも早く死滅せしめた、あの暴君たちの影。
*
*
われわれは精神の王国の祭壇の前に
何故に僕の認識は血を流さねばならなかったか。
いかにも「精神の肉体」はすべての生温い、生命の匂いの前に身をすくめた。
ありとあらゆる「許容」の汚れを拭いさること、それはついに「生命」を拒絶することであった。
僕の最後の誠実さは、止めの一刺を心臓に向けねばならないのだ。
*
「表現」とは所詮、「生命ある世界」のものである。
僕の誠実さは「表現」の中に許容の匂いをいちはやく嗅いだ。
*
*
だが、なべての人々を
*
僕の中にあるパスカルを拒絶すること。彼は精神の秘奥の、全き沈黙の死滅の世界の前で身ぶるいする。
*
*
*
このヴァレリイの
そうしてこう言うこと。
「ヴァレリイ、僕にはお前の手が見えすぎる」
精神の荒涼たる、生命の匂いなき風景の中で、「生命」を求めること。――あの、「救済」の願いは、「考える葦」に課された永遠の
*
Le jour de gloire est arriv□.
革命の栄光は、すでにここにはなかった。しかし、僕の胸奥にも、あの高らかなマルセイエーズの合唱が波打っていなかったわけではない。僕が一歩踏み出すごとに、力強いルフランはまた新しく湧き上がるのであった。Aux armes citoyens ! と。
ああ、その懐しい声はどこに消えて行ったのだろう。今日、僕はもう聞かないのだ。いかなる激励の歌も、勝利の歌も。
*
このころ僕は、街頭で、これらのうらぶれた廃人が、飢えと寒さに
*
リラダンの風貌と僕の顔とを見比べてみよう。
*
「最も強く『生きている』と感ずることは、最も強い自意識を所有することである。しかして最も強い自意識とは生命なき『自我』を完璧に、損わぬことである。それゆえに、人間は、全き死滅の中において、最も豊かに生命を感得する」という論理へ。
*
と定義した上でボオドレェルの“Le N□ant”への憧憬を想い出すこと。そうして次のように書いて見る。
「ボオドレェルは完全な生命を憧れた」と。
カトリック教の原罪説を、自意識への
仏教の
宗教は来世を説く。現世の「自我」をやさしく否定しながら。
*
時折、僕の脳裡にも忍びよる、かの永劫回帰の妄想。
永劫回帰の思想はツアラトストラが挑戦する最後の恐ろしい
意志――人為。われわれが欲する時インスピレーションはいつでもやってくる。ニーチェが、何故に永劫回帰説を作り出さねばならなかったか。ツアラトストラにとっては、これこそ、自我と現在との完全な意識であり「最高の勝利」、「ありとあらゆる征服の絶頂に立つ聖なる
永劫回帰説において、ニーチェの雄々しさを讃えよう。それと共に僕は、この思想が、彼の中に潜んでいたすべての不安と恐怖との爆発的開花だと言おう。
*
*
*
*
*
*
*
この一ギリシャ人の
*
しかもこの変わりゆくものを見下ろして、これにいつも同じ「人間」という名前を与える者は、かの、縛られたプロメシウスである。
だれひとりとしてこの不遇な恩人の鎖を解いてやろうとする者はいない。
何故なら、プロメシウスが見えなくなったら、われわれは「人間」でなくなるかもしれない、というのが彼らの未練がましい弁解なのだ。
情深いランボオは、プロメシウスの鎖を断ち切った。
*
彼らの中のプロメシウスは、苦しんでいるが、こいつがいてくれる間は安心できるというわけだ。
*
“L'Orient de l'Occident”
これが詩人の夢である。
「支那人のお面のような顔」とルナアルは日記に書いた。
西洋人の自意識は、支那人の無表情な顔の中にある、「生命」の豊満を見て首をかしげる。
かつての愛読書。「論語」と「老子」
僕はつつましくお辞儀して立ち去ろう。
*
この事実に酔わないこと。
自意識の重圧から逃れようとする、流行のジャズ文学のことを言ってるのではないのだ。
「西洋は東洋を征服した」
このような曖昧な言い方は、実証論者、歴史家だけがするものだ。
*
僕の精神の世界では、これが標準語であったが、外界に出て行った外交官は、次のような言語で話さねばならなかった。
「『一人のモーツァルトの蔭には百人のモーツァルトが埋もれている』って! 僕らが一人のモーツァルトの作品しか受けとらない以上、百人もの知りもせぬやつらのことを考えてやる必要がどこにある」
*
*
「精神」はヨーロッパの守り神であり、同時に暴君である。ヨーロッパ人は二千年の間、ひたすらにこれを渇仰しながら、その苛酷な使役の下に
いつ、この「至上命令」のラッパは鳴り止むのか。恐らくそれはいまだ消え絶えていないだろう。十九世紀は来るべき死の予感に怖えつつも、なお伝統への誇りを守りつづけた。そして、年老いたヨーロッパは、疲れ果てた肉体を
十字架を見失う時、十字架に反逆する時、十字架の倒れる時、――それこそはヨーロッパ臨終の日である。
*
僕はけっして涙を流すまい。
ハムレットは人前で、やさしく、涙を拭い隠した。
(注) ノートの最初の原稿では次のようになっている。
「悲しい時は涙を流せ」
これが世間で通用する「正義」である。
僕はけっして涙を流さなかった。
ハムレットは人前でやさしく涙を隠したものだ≫
著者の死後、刊行者は、著者の托して行った数葉の訂正追加の紙片を、受け取った。その一枚に次のように記されている
≪エチュード□の後の方の一章を書き改める、すなわち
*
Je me suis arm□ au (sic) justice.
「悲しい時は涙を流せ」
これが世間で通用する「正義」である。
この三行を全部抹殺して次のようにする。
*
泣きっ面は……(本文)≫
確かにこの章全体の改変の意向と思われるが、著者の疲労による記憶の誤りか特に「三行」と指定してあるので正確を期して注記する。
なべての、野心家、博識者、「生きている厭世家」たちよ。
僕は君たちの、傷だらけの醜い顔よりも、あの、悩みなき、育ちのいい人々の一群を好む。
*
けれどももし、口を開くならこう語るであろう。
「あらゆる思想家の中で、僕は厭世的な
さらにまた、僕が愛した人々に向かっては、
「楽しく豊かに、暮らせますように」と。
*
「人生ってほんとうにいいものですねえ」
やつらは
行動のみからひとを判断することはできない。自殺も一つの行動にすぎないではないか。
*
「精神の肉体」は全く、個人のものであり孤独である。「死」とは遍在する普遍的観念である。
*
一切の許容の衣を追放すること、生命の臭味を拭いさること。
僕の精神の肌は、処女のように敏感だった。
*
「『純潔』が得られたか。お前の生は失われた、そしてお前の『自我』はもう存在しない。それが最後の『汚れ』を拭った姿を、お前が得た、といえるのか」
僕はつつましく人々に答えよう。
「未来の結果を予定して、そこから現在の行動の価値を判断するのは、精神の真に厳しい眼にとって、『不誠実』と『卑怯』との同義語である。僕は勝利者の微笑を最後まで持たぬだろう。けれども僕はまじめな顔を持っている」
*
*
この言葉を検討してみよう。
創作ということ、書くという仕事は、精神の厳粛な緊張した世界から、搾り出される生きようという意慾である。
より、精神の国の扉の閉りを固くすることが、より見事な作品を生む。
芸術家は、自己の作品の中に生きようとする。すなわち彼の制作への意志は、作品の裡に生命の幻を眺める。
「…………死んでいなければならぬ」
この言葉は、芸術を愛するものには厳粛な響きがある。けれども僕には、なお甘いものだ。
*
僕の少年らしい魂は、厳粛であろうとした。「思無邪」の前に。
*
「もう帰って来ないのか」
「ああ、帰らないよ」
(思い切って「死ぬのか」と聞けないので)
「じゃあ、永久に vagabond(彼はこれを『バカポン』と発音する)のわけだね」
*
もう、すっかり、秋の匂いが街々にみなぎっていた。
夜の降りた戦災地区の、ひっそりとひろがった風景の中に、幾つかの燈火が浮き上がって、貧しいけれど暖い生活の営みを、やさしげな低音で歌っていた。
僕らを乗せて走る満員電車の、壊れた窓々を抜けて、涼しい風が吹きつづけた。
道ちゃんが、洋傘に
僕の冷たい頬を撫でて、幾度も通り過ぎる夜風の一つ一つに、僕は、遠い幼年時の窓で、野原で、海のほとりで、あるいは学校の行き帰りにふと耳にした、あの微風の声のドレミファを嗅ぎ分けた。
*
「何と言ってお別れしたらいいかしら………………。
――今日はどうもご馳走さま」
「早く、ピアノ、じょうずになってね」とは僕の挨拶。
*
この言葉を胸に隠して、僕は君たちの幸せな日々を祈り、その上で旅立とう。
*
レッテルを貼ることはできる。貼られたレッテルに気がついて、これを隠そうとすることは、気弱さのさせる行ないだが、自分が貼った他人の顔の上のレッテルを信ずることもまた、無知の気強さに過ぎない。
*
「方法」を用いないことを方法とする思考――直観。
僕は命を賭けて直観する。
*
*
精神の世界に住む「男の中の男」は、けっして
*
橋本は感傷的なこういう言い方をする。
「僕は統さんのスピードに、ついて行けないんです」
*
一、必然性という鎖に執着と嫌悪を
ランボオは、鎖の継ぎ目を一本ずつ断ち切って、転身する。
二、ニーチェは築き、ランボオは破壊する。
途中でニーチェは嫌気がさし、ランボオは未練が出る。
三、スケッチ
正面に嶮しい坂。その果てに地平線が天空との境界を区切っている。一番手前に低くひろがる平原。ここで無数の民衆が種々雑多に
――――○――――
坂がある。
かつてその天涯の彼方にある未知の風景をきわめようとして、孤独の影を地上に引きながら、この坂を登って行った二つの影があった。
頂上に
他の一人は絶頂に足を止めると、昂然と頭をあげて断崖の彼方を一
――――○――――
僕は今、坂の向こうに横たわる風景が、いかなるものであったかを知っている。
*
*
――過去と、未来とを亡ぼすのではなく、「過去」と「未来」という単語を放逐することです。新しい言語を創造することです。私たちは、夢の宇宙の奥底深く沈む、一粒の妖しい螢石とならねばなりません。
感覚を変えること、それが唯一の問題なのです。
人間は、狂人となることを恐れてはなりません。
*
発狂。――これこそは、文明人の特権、近代に寄せられた信篤き敬称、廿世紀の頭上に
*
*
ところでジイドよ、君はこうつけ加えるべきであったのだ。
「――ただし生命に別状のない限り」と。
*
ジイドよ。次のように言ってもよいではないか。
「影響を恐れまい。――ただし芸術様々だけではご安泰に残りますように」
*
僕は、僕のいかなる「御本尊」をも、裸で突き出すのだ。そのうちの一つとして、精神の枯れ果てた凍原に吹きすさぶ残酷な北風の寒さに耐えたものはなかった。
*
ランボオは詩の世界の扉を閉じたのではなかったか。
*
清岡さんのノートはこうだったろうか。
僕はもう、こうした言い方が嫌いである。ランボオが書いたことは書いたことだし、僕らは「地獄の季節」一巻を与えられたのだから、これを読むだけだ。すんでしまったことをとやかく言わなくたっていい。
*
この小さな書物が僕の唯一のバイブルであった。
*
*
亡びたる詩人はかく歌った。「吾人は
われわれの詩人はかく歌うであろう。「吾人は推す、死の門」と。
[#改ページ]
かつてはおれの額の上にも
勇ましい流浪のあらしは吹き荒れていた、
……静かな夜明けの村はずれで、冷たい風がしきりに頬を吹いていた。僕は黙々と何かの感慨に
「お早う、統さん。今ごろどこへ」
橋本と節ちゃんと道ちゃんとが、通りすがりに手をつないで、通せんぼをして見せた。
「――いいえ! 行かなくちゃならないんです」
夢から醒めた人のように、僕はふと驚いた眼をみひらいて、自分の声の烈しさに気がついた。
そうして、森のほうにつづいた
*
*
あの日の僕はどこへ行ったのだろう。
今日の弱気が昨日への忘却を生む。
*
*
*
*
――貴様こそは敵だ!
するとやつらは、僕の憤怒に対して、ちょっと肩を
――敵だからこそ俺にはよく理解できるのだ。君の背中に噛りついている「宿命」という俺の分身をね。
*
だめだ。ランボオは洗礼を受けに行ってしまった。やつはもういない。それにしても僕のロザリオはどこで失くしたのだろう。
――かまいはしない。クリスチャンのものはクリスチャンにかえせ。
Adieu ! Rimbaud, cher ami. Applaudis □ moi.
*
彼の家からの帰途、彼は頭上を指さして意地悪そうにこう語った。
――かつて満天の星くずを眺めて、あれが残らず金貨だったらなあ、と考えた男がいるそうだ。――俗悪なレアリストの夢とは何といやなものだろう!
*
その時、清岡さんがこう言った。
「もう幾年になるだろう」
それは僕にもわからなかった。そうして、地上に躍る僕のみすぼらしい影法師は、昔ながらの道化者であった。
いつのまにか、遠くにアカシヤの並樹が匂い、山の形が寛城子のロシア寺院に変わっていた。
径があった。風が吹いて、朝露が舞い、風が吹いて、野原は一面の海となり、そうしてその風は、黄金の波のしぶきを僕らのほうにやさしく送っては、忍びやかに通り過ぎた。
僕らの歩いてゆく先々で、名もしらぬ花々が、
丘の上に赤屋根の家。煙突の向こうが海。そうして、今、清岡さんが、子供のように跳ね廻りながら、一散に小径の上を、こう怒鳴って駈けてゆく。――その足には、おどけ者の小犬が、じゃれついては、蹴っとばされて。
「これこそ俺の故郷だ! これこそ俺の故郷だ!」
そうして僕は眼がさめた。窓の外は、一面に朝の光が溢れていた。
何といういいお天気だろう! 橋本よ、君はまだ眠っている。きのうの悲しい夢のつづきを、僕の代わりに語ってやろうとでも言うような君の顔。
何も悲しむことはない。起きるのだ。
今日の僕の臆病なこと。日光までが、僕の掌には重たいのだ。風が幾度追い払ってくれても、必ずすぐに戻ってくる――忠実な太陽よ、豊かな太陽よ。
しばらく、あの、
ひ弱な魂はそっとあたりを見廻している。――足りないものはないのだ。皆が満足しきっている。草も、木も、黄色い木の葉も、家も、屋根も。
*
*
*
*
――その風呂場の窓には、
僕は浴槽に身を沈めて、胸もとに揺れている水面の鈍い動きを見つめていた。ふと、窓の外を見上げた瞳に、蜘蛛の巣が覆いかぶさった――と思うと、それは魔法のように闇の奥に吸いこまれてしまった。……僕は急に寒気をおぼえて、身体をすくめたが、頬にまつわりつくほの白い湯気だけが、奇妙に生温い感じがした。その時、僕は何気なしに思い出したのだ、ずっと以前に読んだリルケの詩の一節を。
時の中に故郷を持たないこと……
それ以来、僕は「夢」と「回想」とが、堪らなく汚らわしい気がした。あの時の僕を考えて見れば、確かに、失意と、惨めさの意識との中で
*
*
*
俺の涙が出ないから
お前を一つひっぱたいて
お前の落とす涙に酔おうと
そう思って俺は――
十八歳の詩
……………………
ひとり怒りに耐え
かの遠き秋をゆかむ
…………………………
ほんの些細なことが、君を驚かせるだろう。木の葉の微かな戦ぎが、書物のページのふと落ちる音が、通りすがりの垣根で嗅いだ名も知らぬ花の匂いが、君の呼吸をとめてしまうだろう。どんなにわずかな扉の隙間からでも夜風は忍びこんで、君の傷口にしみわたるだろう。
思い出はどこにでもあり、夢はいかなる形にでもある。
僕は、紅茶一杯でどんな夢でも見ることができた。仲間から離れて鍵を下した一部屋で――僕の周囲をとり巻いていたのは、数百の書物と、汚れた白壁だけであった――黙って茶碗のスプーンを動かしている――この単調な動作の中から、僕の詩集が生まれたのだった。
*
しかし思い出は僕にとってこの上なく退屈なものであった。すなわち、僕は過去に向かって、忘却にも似た痴呆の眼をひらいていたのだ。僕は時おり、退屈の臥床から起き上がってペンをとったものだ。
今日、僕には思い出が退屈には感ぜられない。
恐らく、それと共に、今日の僕の記憶力も、臨終の床に夢を見る
*
光と闇との不思議な交錯が織り成す、あの懐しい人々の影。
「窓蔭に流れる四季」――この、短かった僕の生涯の自叙伝によって、僕は、過去の事物と共に、文学にもまた訣別を告げたのではなかったのか。
いくらでも、だれにでも、己の身体を切り売りする――僕は気前のいい売笑婦だった。社会のあらゆるごみ溜に、僕は鼻面をつっこんだ。警察と、犬殺しが、僕の跡を躍起になって追い廻す――捕まるはずがあるものか、どこに寝ようと、ほっつこうと、僕はやっぱり屋根裏に住んでいたのだ。けれどもその窓は高すぎた。神様よりもよく見えたのだ。お澄まし顔の紳士たち、挨拶じょうずの奥様方、は、僕の眼の下で慌てたが、けっして逃しはしなかった。
夜明けごとに、違った地角に姿を現わす、神出鬼没の暁の使者、季節の変わるたびごとに、新しい童話を乗せて渡ってくる異国の風、そうして粉雪の降る正月の晩、貧しい街々をめぐっては、子供たちの枕べに、やさしい初夢の唄を奏でる、僕は恵み深い訪問者、気軽な独り身の辻音楽師であった。
その夕べ、地獄の歌はもうなかったが、僕はジャズなどには目もくれなかった。
*
*
雄々しい力強い第一弾。ショパンは今、はるかな回想の時間の突端に、立って、昂然と身ずまいする。
急に、こらえていた感慨の
夕暮れの空の下にひっそりとまどろむ、奥深い木立に包まれた、とある郊外のとある庭園。やさしい微風と、葉ずれの音の合唱に和して、噴き上げの水がたえず規則正しい四分の三拍子でさらさらと流れつづけている。
そうして、その、暗い木蔭に、白い砂利道に、もう夜の降りかけた芝生の上に、忍びやかに笑いさざめきながら、幾組もの恋人たちの影が通る。それは通り過ぎて行く、ここの物蔭に立って見つめている、ショパンの
失恋の
淡々と高音部から、低音部へ。――だが、今日のショパンの姿勢の何と男らしいこと。いつの間にかあの夕暮れの風景も消えてしまった。彼の澄んだやさしい瞳は、無心に遠い空の青さをみつめている。――時おり、その暗い
もう一度、高音部から低音部へ。……そう、忘れるのだ……何もかも。……君の視線の爽やかなこと。……淡々と、すべてを忘れて……弾きたまえ、ショパン……つづけたまえ……そこで思想を途切らせてはいけない……そこで悲しくなってしまってはいけない。
さあ、もう一度、高音部から低音部へ。……つまずかないで……すべてのことを忘れつくして……ああ、だめだ、そこで夢を見ちまっては。――は、は、は、は、は。ショパン! 君はやっぱり感傷家だねえ。――いいよ、もういい。
――さあ、高音部から低音部へ。……つまずかずに……流れるように……弾きたまえ、ショパン……つづけたまえ、ショパンよ……
*
歳々年々人不同。
きょう、ショパンの散歩の杖の先は、ほんとうに気まぐれだ。けれどもそれは忠実だ。思いのままの方向に振られながらも、いつでも同じ一本の径を辿ってゆく。
*
たえず動いているわれわれの身体と、止まろうとするわれわれの瞳との
その時、われわれの手は投げる。船尾のデッキから海面を見下しながら、親しい人々の名を呼びつづけては、幾つかの小石を投げこんでみる。
今、そこにわれわれの心がすでに見知っている、かの懐しい面輪がひろがるのだ。そして、もし、鋭い聴覚を備えた魂なら、小石の落ちた瞬間の水の下に、思いがけないある微かな、けれども確かな反響を聴きとるであろう。
幾度びか、僕の独り寝の夜の枕べに訪れて来たマルセル・プルウストのやさしい声が、今日この明るい十月の空の下で、あらゆる物の、ものかげに隠れては、僕を呼んでいる。
窓外を吹きすぎてゆく微風に、あそこの森の上に休んでいる日光に、このひっそりとした小屋の空気に、時おりきこえて来るだれかの
*
夜明けの海はまだ暗く
夢のなかに 幻の城は聳えていた
…………………………
*
*
ああ、この眼が醒めてくれなかったら!
所詮は愚痴だ。泣き言だ。それに、考えて見れば僕もまた、海の彼方の異国を欲情する子供の一人ではなかったのか。洋行の夢は破れ、新しい都会は破壊された。
*
時おり、突っ拍子もない、すばらしい単語が浮かぶのに、次の瞬間には、自分にも何が何だかわからないのだ。
*
ところが、自己を見失うことは僕には、「安慰」と「無知」との代名詞にすぎなかったし、僕の潔癖さはそれが汚らわしくてならなかったのだ。
僕も僕なりに、一つの変わらないもの、を獲得しようという愚劣を犯したのに違いない。
しかし、今では僕は、幸いなことに、あの嘘つきの、
*
生きてゆく人々よ。どんなものであろうと各自の感受性を、尊重したまえ。
趣味の異なるということはいいものだ。
皆が、違った模様の布団の中で、違った顔をして、違った夢を見る。もし、似たような夢があったら、お互いに起き上がって、手を握り、さてその上で、顔を見合わせて苦笑いすることだ。
*
*
「君たちのいわゆる美しい夢なんて、フロイドに説明させればこんなものさ」
僕はこうした人々の魂胆の醜さが見えすいている。
自分の空想を正当化そうとするロマンチストたち。
「あるいは、フロイドのいうとおりかもしれない。しかし、人間が元来そんなものであるなら、何もわざわざそう言って見る必要はないじゃないか」
同時に僕には、こうした人々の怯懦と自慰とが見えすいている。
*
*
*
平等主義・ヒューマニスム・機械文明。――なるほど大衆は常に流行に乗るものだ。しかし、同時に大衆は、常になべての「主義」の
*
これも詩人の夢だ。
科学は自我主義の貪慾な表現である。
*
僕の「悪魔」が来てこう言った。僕はやつの血のめぐりの鈍さ加減を
*
それがいいことだとも悪いことだとも言うまい。
感傷家の君に、果たして「泣き言」を口にせずに通せるだろうか。「政治」は「表現への不信」を見事に逆用する図太さと、テクニックの中にある。それは相手の攻撃をすべて無視して見せるだけの仮面を常に持たなければならない。
思想発表の確たる規準となるものが、一般に見当たらない時代には、政治家が幅をきかすのは当然のことである。しかし政治だけが「強い生き方」とは限らないのだ。黙々と機械と取っ組む一人の技師の姿を、君は、弱い生き方だと思うだろうか。
いずれにしても他人の思惑を無視するだけのものを所有しなければならぬ。
しかし、所詮政治は職業であるし、趣味に止まる。橋本の弱気が、政治家であることに虚栄心を持たないで行けるだろうか。
要するにこんなことを考えてやるのは、おせっかいにすぎない。
年寄りの冷や水はどこにでもある。
僕はまだ二十歳を越えていないのだ。
*
これが政治家の勝利の極限である。すなわち、政治を越えてしまった勝利である。
ところで僕は、あらゆる勝利を踏み蹂った。
*
*
彼は涙を拭って
さて幕が下りると、彼は楽屋に行ってさめざめと泣いた。
*
大学教授、ローマ法王、文壇の大家、田舎夫子、…………。
*
*
僕には「精神の危機」が不断に存在した。
*
これは中野が僕のために作ってくれた最後の名刺である。
中野君。僕の年寄りの冷や水は、いつも、君の顔の中に点滅する「ともすれば涙ぐもうとする、ひ弱い、良家の子供」の、幸せな将来を祈っていたのだ。
そして、現代の日本ではもう忘れかけられた、かの「
僕のボヘミヤン気質は、君とは違った感覚で、チエホフを懐しんだこともあった。洗煉とボン・サンス。――僕はやはり仏文の生徒だ。
*
*
かつて、この港の棧橋の上に立って、僕の少年らしい魂は、遠い行く末を美しく夢みたのだった。
大連よ。
戦争が、お前と僕とを隔離した。けれども僕はお前のことを忘れていた。僕は勇ましい「駄々っ子」だった。
僕には「戦争」なども用はなかった。工場を怠け、学校はお留守にし、
僕は東京から一歩も出なかった。あの「観察」を唯一の文学の糧だと心得る、売文家・旅行者どもを軽蔑しながら。
それから僕は寄宿舎に閉じこもったのだ。仲間といっしょに働くことを拒絶し、僕は怠惰の椅子の上で数知れぬ「美」を創造した。
だれにも聞いてもらおうとも思わなかった。清岡さんはもういなかった。彼なら
そうして僕は惜しげもなく筆を抛った。あれは、今年の春だったかしら、僕は「詩人」に倦き倦きしたのだ。もはや「古代」は懐しいとも思わなかった。
大連よ。今、僕の疲れた魂がお前の顔を思い出す。そして失われてしまった僕の豊かな「詩人の辞書」を懐しむのだ。今の弱気な僕の手に月並みな泣き言以外に何が書けるだろうか。
かつてあらゆる「比喩」と「まね言」を軽蔑した僕、あの時の僕はどこへ行ったのだろう。
表現を破壊した僕に、表現が戻ってくるわけはない。
*
*
批評家よ。君は、ホーマーの「イリヤッド」から彼の私生活を計算できるか。フランソア・ヴィヨンだって、彼の詩は、詩として、別にたてまつるなり、葬るなりするのが当然だ。
批評はどこまでも正確でなくてはならぬ。臆測はどこまでも臆測である。ラ・ロシュフウコオの時代は過ぎた、と僕は手紙に意地悪く記したものだ。
「古典とは、作者の伝記から独立して提出されるに耐えるところの作品である」
こう定義して見よう。正直な文学少年が、ある種の古典を少しもおもしろいと思わないのはもっともだ。
*
思えば、僕が「詩」を離縁した時、すでに僕は「死」との婚約を成就していたのではなかったのか。
*
「誠実さは常に全き孤独の中にある」
この
それはこのエチュードを止めて抛り出すことだ。そして、僕をも含めてすべての人に貼りつけたレッテルをはがしてしまうことだ。
僕はもう自分を誠実であったとも言うまい。
沈黙の国に旅立つ前に、深く謝罪しよう。
「僕は最後まで誠実ではなかった」と。
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