美しき依頼人

      1

 二、三日前の大風で、さしも満開を誇つた諸所の桜花さくらも、いたましく散りつくしてしまつたろうと思われる四月なかばごろのある午後、私は勤先の雑誌社を要領よく早く切り上げて、銀座をブラブラと歩いていた。
 どこかに寄つてコーヒーでも一杯のんで行こうか、いや一人じやつまらない、誰か話し相手はないか、とこんな事を考えながら尾張町から新橋の方に歩いて行くと、ある角で突然せいのひどく高い痩せた男にぶつかつてしまつた。
「馬鹿め、気をつけろい」
 と云つてやろうと思つてふとその人をよく見ると、知り合いの藤枝真太郎という男である。
「おや、藤枝か。どうしたい」
「うん君だつたのか。……今日は何か用で?」
「ナーニ、あいかわらず意味なく銀ブラさ。君こそ今頃、どうしたんだい、この裏の事務所にいるんじやないのか」
「今ちよつとひまなのでね、三時半になるとお客さんが見えるがそれまで用がないので、ちよつと散歩に出て来たんだよ。たいてい君みたいなひまな男にぶつかると思つてね。……もつとも今みたいに文字通りにぶつかるとは思つてなかつたがね」
「あははは。そうかい、そりや丁度いい。僕も誰か相手をつかまえてお茶でも飲もうと思つてたところなんだ。じやここへはいるか」
 私は早速彼をさそつて、そばにある喫茶店へと飛び込んだのであつた。
 店の中は、よい按配にすいていたので、二人はかたわらのボックスにさし向いに坐りながら、ボーイに紅茶と菓子を命じた。
「おい小川、僕はこうやつてさし向つて腰かけるが、これは何故だか判るかい」
「あいかわらず、藤枝式の質問をするね。話をする為じやないか。つまり二人で語り合うために最も自然で便利な位置をとるのさ」
「そうさ。ところで君はこういう事実に気がついているかい。こういう位置をこういう場所でとるのは、ある人々にとつてのみ自然であるという事さ」
「なんだつて。ちよつと判らないね」
 私はこういいながら、ボーイが運んで来た紅茶に自分で角砂糖を二ツ入れた。
「ちよつと、あそこを見給え」
 藤枝が、ふと右手の方をさしたので、私は右後の方に目をやると向う側のボックスに、二人の二十才位の婦人が、一列にならんでこちらに背をむけて仲よく話をしている。
「わかつたかい。若い女同志だとああいう風にならぶんだ。あの人たちにはああ並ぶ方が便利だと見える」
 藤枝はこういうと、ケースから新しいシガレットをとり出して火をつけた。
「だつてありや特別の場合だろう。いつも女同志がああいう位置をとるとは限るまい」
「だから君にはじめはつきりきいたろう。君がそういう事に気がついているかどうかを。僕が今まで観察した所によると二人づれの若い女は必ずああいう風にすわる。必ずと云つて悪ければ、十組の中八組まではああいう風に位置をとるものだよ」
「そうかな」
「そうさ。つまりこういう事実が認められるんだ。若い婦人同志はボックスにまずああいう風に坐る。男同志だとわれわれみたいに向いあう。それから男と女の二人づれだとやはりむかい合うという事実だ」
 彼はこう云つて得意そうにプカアリと煙を吐き出したのである。

      2

「そうかな。じや君、女同志だと何故ああいう風に腰かけるか、その理由を説明して貰いたいな」
 私は藤枝がいつもの通り、何か吹きはじめるかと期待しながらこうきいたのである。
「いや、それは知らない。そんな事は、心理学者か生理学者にお任せするんだな。僕の商売はそこまで立ち入る必要がないんだよ、ただある事実を事実[#「事実」は底本では「実事」]として観察していればいいのさ。観察! そうだ観察だね、君だつてたびたび女がああ並んでかけているところを見てはいるんだが、そういう事実に気がついていないんだ」
「ドイル先生が、シャーロック・ホームズ氏にそんな事を盛んに吹かしているが、やつぱり実際上にも役に立つかね」
「立つこともあり、立たぬこともありさ。探偵小説の御利益は、ないとも云えるし大いにあるとも云えるね」
「じや、探偵小説なんてものは、実際、君みたいな探偵に役に立つ事があるんだね」
「作そのもの全体の御利益はまず疑わしい。しかし出てくる名探偵の片言隻語のうちには、なかなか味わうべきありがたい言葉があるよ」
 彼はこういいながら、アップルパイをフォークでしきりとほおばりはじめた。
 私は二週間ほど前、赤坂のある料理屋で、高等学校時代のクラス会が開かれたとき、最近英米で素晴らしい評判をよんでいる名探偵小説を二、三冊彼に貸したことを思い出した。
「こないだ君に貸した本はどうだつたい」
「あ、あれか、そうそうこないだはありがとう。皆一気に読み通したよ。みんな面白かつた」
「そりやよかつた、……しかし役には立たないかい」
 藤枝はこのとき、ちよつと黙つて考えこんだ。
 私は、早くも、彼がその小説について何か不満足な点を思い出していると感じたので、すばやく先手を打つつもりで切りだした。
「何も、これはあの小説には限らないけれども、いつたい僕が探偵小説の中で気に入らないのは、出て来る名探偵が偉すぎることなんだよ。シャーロック・ホームズは勿論、ポワロにしろソーンダイクにしろ、またフィロ・ヴァンスにしろ、人間以上じやないか。実際あんな偉大な人間なんてものがあるもんじやないからね」
「そりやそうだ」
 藤枝は余り気のない返事をした。
「これは君を前において、ひやかしに云うのでもなく、またお世辞に云うのでもないが、君位なところがまず実際上の名探偵だよ。我が藤枝探偵はシャーロック・ホームズの如き推理力はなく、フィロ・ヴァンスの如くに博学に非ざれども……」
「オイオイもうよせよ」
 彼は、でもちよつと恥ずかしそうに顔を赤らめて、私のいうことをさえぎるように云いはじめた。
「君のいう通り、探偵はえらすぎるよ。しかし僕に云わせれば、こないだの小説にしろ、どの小説にしろ、悪人が少々悪すぎると思うね。どうして小説家がほんとの悪人を描かないのかね」
「ほんとうの悪人?」
「そうだ。いつたい探偵小説に出てくる悪漢は大悪人すぎるよ。作りつけの、生れながらの悪人なんだ。たとえば、人を殺すのに、実に遠大な計画をたて、冷静にやつつける。それからあとでも実に平気でその始末をつけている。あれがちよつといやだな」
「じやなにかい。君はそんな悪人はないという気なのかい。そりや少しおかしくはないかね」

      3

「どうして?」
「こりや君の方が詳しいはずだが、犯罪学では生来、犯罪人という一つのタイプを認めているんだろう」
「そりやあるさ。そういう犯罪人はある事はある。『オセロー』に出てくるイヤゴーなんかはまずその例さ。しかし、めつたに出てくるものじやないぜ。ことに探偵小説に出てくるような殺人犯人がこの世の中にいるとはまつたく思えないね。今も云つたように、殺すまでに実に冷静に計画し、人殺しをしたあとでも、まるで朝めしでも食べたあとのように悠々として、少しも恐怖心や良心に悩まされてはいない。全くおどろくよ」
「無いとは云えないだろう。君が未だ出会わないだけじやないか」
「ともかく僕はまだ一度もお目にかかつたことはないな。検事をしていた頃だつて、それからやめてからだつて、まだ一度もそんなひどい奴に出つくわしたことはない。詐欺だの横領の犯人になると、ずいぶん悪智慧をめぐらして犯罪を行う奴がいるが、殺人犯人にはちよつとないね。だいたい人を殺すなんて事が、馬鹿な話だからね。智慧のある奴じやできないよ」
 彼は紅茶をすつかり呑んでしまつて、次の一杯をまた命じた。
「じや、智慧のある人間は殺人をしないとして、殺人狂なんてものはどうだい」
「殺人狂はたくさんある。しかし、余り智慧がないから、名探偵が出るまでもなく直ぐ捕まるよ」
「生来的に殺人狂で、そうしてすばらしく智慧のある奴が出て来ると、いよいよ名探偵が出動するわけかね。どうだい、そういう犯人と一つ一騎打の勝負をやつては?」
「それは僕も望んでいることなんだが、まあ当分だめらしいな」
 藤枝はこういいながら、二本目のシガレットを灰皿にポンと投げこんだ。
 人間というものは、どんなに偉くても一寸先も見えるものではない。
 こんな会話があつてから、半月もたたぬうちに、藤枝はかねて望んでいた通りの――いやあるいはそれ以上の、大罪人と一騎打の勝負をしなければならなかつたのである。
 しかも、その大惨劇の序曲が、この会話から一時間もたたぬうちに、はじまろうとは、全く思いもかけぬ事だつた。
 私は、ふと時計を見たが、三時にもう二分位しかなかつた。
「さつき三時半頃にお客が来るといつてたがまだいいのかい」
「まだいいさ」
 彼はこう答えたが、意味ありげな笑顔をすると、ちよいと私を見ていつた。
「僕の望みは当分達せられそうもないが、女性礼讃者の君には多少の好奇心を与えるかも知れないお客様だよ」
「女の人かい」
 私は、思わず云つてしまつた。
「うん、そうさ」
「どんな婦人だい、若くて美人かね」
「そうせき込み給うな。まだ会つたことはないんだ。今日がはじめての会見さ」
「なあんだ。しかし君のことだから、別に粋筋というわけでもなかろうが……」
「無論だ。事件の依頼人なんだよ。残念ながら、筆蹟から、顔かたちを推理する方程式がないので、美醜の程は判らないが、とにかく若い女たることはたしかだ。君だからかまわない、今朝、僕の所についた手紙を見せようか」
 彼はこういいながらおもむろにポケットに手を入れた。

      4

 私はこの辺で、藤枝真太郎という男の経歴と、それから余り自慢にならぬ私自身の経歴とを読者諸君に一応、御紹介しておく必要を感ずるものである。
 藤枝真太郎とは、五年ほど前まで、鬼検事という名で、帝都の悪漢達に恐れられ憎まれていた、もとの藤枝東京地方裁判所検事の後身である。
 何を感じたか、五年ほど前にとつぜん辞表を出して退職してしまつた。多くの司法官と同じように、すぐに弁護士の看板を出すかと思つていると、これはまた珍しいことに、世人の予期に反して、彼はいつこう弁護士の登録をしない、しばらくすると、銀座の裏通りに小さな洋室を借りて、私立探偵藤枝真太郎という看板をかかげはじめた。じつに彼が検事退職後、二年後の事であつた。
 それから今日までに、彼は恐るべき怪腕を振いはじめた。関係者が現存する為に彼の功績はいつこう世の中に発表されないけれども、それでも牛込の老婆殺しの事件、清川侯爵邸の怪事件、富豪安田家の宝物紛失事件、蓑川文学博士邸の殺人事件などは、人々のよく知る所となつていると思われる。
 鬼検事は依然として鬼である。在職当時よりも、自由がきくだけ一層悪漢らには恐れられているわけだ。
 私、小川雅夫は、実は彼と高等学校が同期なのでその頃から彼とはかなり親しくしていた。
 当時、世の中は、新浪漫派の文学の勃興時代だつた。誰でも当時の読書子は必ず一時は文学青年、兼、哲学青年になつたものである。
 藤枝も私も御多分にもれず、イプセンを論じ、ストリンドベルグを語り、ロマン・ローランの小説を徹夜して読むかたわら、判りもしないのに、一応判つた顔で、ベルグソンやオイケンを語り合つたものだつた。
 実際いまから考えると冷汗ものだが、その頃の高等学校の自分達の部屋には、ニーチェの言葉のらくがきが必ずしてあり、一方の壁にはベートホーヴェンのあのいかめしい肖像画をかけているかと思うと、ミケランジェロの壁画の写真が片つぽうにはつてあつたものだ。
 だから藤枝も私も将来は大文豪か大哲人になるつもりでいたものである。
 しかし此の芸術病も大学に行くころになるとだんだんうすらいで、大学に入学する時分には、だいぶん足が地について文科をよけて法科へ行くものが殖えて来た。
 藤枝真太郎なんかはまさにその類で、ゲーテの全集の前にいつのまにか判例集が並べられ、イタリー語の辞書などはどこかの隅に入れられて六法全書がはばをきかす事になつてきた。
 愚かだつたのは、かくいう私で、芸術病は一向さめきらず、哲学科に籍をおいて大いに勉強しようとしたのはよかつたが、大学二年のころ、大阪で、貿易商をして多少の産をなした父が死んだのが運のつき、あとを整理しに郷里へ帰つて、二、三ヶ月暮しているうちに、遊ぶ方が面白くなつて、すつかりなまけ者になつてしまつた。
 それでも、一応、文学士という称号はもらつて卒業したが、同窓のある人々はもはや文壇に乗り出すし、法科に行つたものは盛んに高文というのを受けて、立派なお役人になつてゆくといううらやましさ、これではならぬとがんばつても、さてなまけ者の悲しさにいつこう世に出られず、ええままよ、といつたん帰郷し、当分父の商売をついでいたが、さいわい生活の不安もないので一家をあげて上京し、たいして名もない雑誌社に小遣とりで御奉公している今の身分をかえつて気楽だとばかり、まけおしみを云つているわけである。

      5

 平凡な私の生活でたつた一つ忘れられぬ事は、三年前に妻を喪つたことで、それから後は、独身者、子もなし、母と二人きりののんきな暮しである。
 後ぞいをもらわぬ気でもなし、またいろいろ世話をしてくれた人もあるが、古いたとえの、帯に短し襷に長し、でもう四十にまもないのにこのところ、一人者である。
 藤枝真太郎も私と同じ位のはずだから、もう三十七八にはなるだろうが、彼は、この年になつてやはり独身である。それも彼のは私とはちがつて、はじめから結婚しないのだ。
「啖呵にやならないが、俺は女に惚れたこともなし、また惚れられたこともなしさ」
 というのが彼の口ぐせだつた。
「僕は女というものをどうしても尊敬する気にはなれないね。と同時に、信じることが出来ないんだよ」
とよくまじめに云うことがある。自らシャーロック・ホームズを気取つているように思われるが、実はこれは彼にとつては、かなり淋しそうなのである。
 私同様、父は既になくなり、母と二人で家をもつて、たいてい毎日、事務所に出ているのだつた。
 こういう彼のことだから、婦人の客が来ると聞かされてもいつこう羨しがるべき理由はないのである。果して私の思つた通り、ロマンスではなく、事件の依頼人とみえる。
「これが今朝着いた手紙さ。速達で事務所に来ていたんだ。大分いそいだとみえて、ペンの運びが乱れてはいるが、相当の金持の、教育のある女だね」
 彼はこう云つてクリーム色の洋封筒を私の前へさし出した。
 私は黙つて中の紙をぬき出したが、それは封筒と同じクリーム色の洋紙で、細かい女文字でこう認められてあつた。

 突然手紙を差し上げる失礼を御許し下さいまし。まだお目にかかつたことはございませんが、先生の御名前はかねてより承つてよく存じて居ります。ある事件につき、特に先生を見込んで御願いいたしたい用件がおこりました。私一身の事ではございませんが、私の家庭のことでございます。今日午後三時半に先生の事務所に伺いますから、御都合がよろしかつたら必ず御会い下さいますよう御願い申し上げます。万事はお目にかかつた上にて。早々。
秋川ひろ子
  藤枝先生

「ねえ、小川、この婦人はどうせ会いに来て、事情を語るつもりだろうから、自分の身の上を少しもかくす必要がないわけだ。だからいそいで平生つかつているレターペーパーを用いたと思つていい。見給え、このレターペーパーは相当贅沢なものだぜ。僕らがちよいちよい買うレターペーパーとは違つて、封筒と用紙とがちやんとそろつて、一箱いくらという奴さ。おまけにそれもかなり高い物だぜ。こんなものをいつも使つているとすりや、一応の金持の娘かなんかだよ。それから手紙の文章がちよつと気に入つた。要領を得ている。ただこの手紙は女の文章としては珍しいといいたいな……さて、そろそろ時間が来そうだから、引き上げるとしようか」
 彼はこういうと、机の上においてあった伝票をつかんで立ち上りかけた。
 私もつづいて立ち上ったが、まだ会つたことのない依頼人のことが、なんだか急に気になり出して来たのである。

      6

「ねえ君、若い女の人が自分の名をはつきり書いて、会つたこともない君にこんな手紙をよこすところをみると、余程さしせまつた事件がおこつているんだろうね」
 私は舗道を歩きながら話しかけた。
「うん、まあ本人から見れば、ずいぶん切迫した事なんだろうよ。しかし若い女の人たちはちよつとした事ですぐあわてるもんだから、話を詳しく聞かないうちは一緒に騒ぐわけにはいかぬよ。このあいだもひどく狼狽して女の人が飛び込んで来て、夫が行方不明になつたというのだ。だんだん調べて見ると、その夫というのが、ある待合でいつづけをしていたというわけさ。あははは」
「しかし、この手紙には自分の名がちやんと出ているね」
「うむ、これがちよつと面白い所だ。これが本名だとすればだね、君は気がついているかどうか知らないが、秋川という姓は、有りそうでいて殆どない姓だぜ。秋川といつて思い出す人があるかい」
 私はそう云われて、自分で暫く考えて見た。
 大阪で貿易商をやつていたころ、いろんな事業家を知つていたが東京の実業家で、そんな姓の人がいたのを思い出したのであつた。
「何とか会社の社長で、秋川という人がいたように思うが……」
「そうだよ、君は割に物をはつきりおぼえているね」
 藤枝は、妙な目つきで私をちよつと見た。
「この手紙がついてからすぐ、僕は紳士録だの興信録をあけて見たんだ。秋川駿三という実業家がある。秋川製紙会社の社長だ、無論外の会社にも関係しているが。そうしてその人の長女にひろ子という人がある事がちやんと出ているよ」
「え? じや秋川ひろ子というのは、その金持の娘かい」
「うん、そうだ、勿論これから僕を訪ねて来るお嬢さんが、その人と同じ人かどうかは未だ判らないが、ともかく秋川ひろ子という人が立派に存在している事はたしかだよ」
 こんな話をしているうちに、二人は藤枝の事務所の前にやつて来た。
「そのお客さんが来るまで、どうだい君、興信録でも見て、あらかじめ予備知識を得ておいては?」
 藤枝は室にはいつて、大きな机の前に腰かけると、側にちやんとおいてあつた大部たいぶの本を私の前にさし出した。
 見ると、成程彼がすでにだいぶ調べたと見えて、アの字の部の所が開かれている。秋という頭字をひろつてゆくと、秋川という姓はたつた一つしかない。
 秋川駿三、なるほどこれだな。私はそう思いながらその項をじつと読みはじめたのである。
秋川駿三(四十五才)
 君は旧姓山田、二十三才のとき、当家先代長次郎氏に認められて、家女徳子(現在の夫人)の婿養子となり、秋川の姓を冒す、夙に製紙事業に身を投じ、成功して今日に至る、現に秋川製紙会社々長、その他某々会社重役、云々(ここに種々な役名が書いてあるがここには略す)
 家族は、夫人徳子(四十五才)長女ひろ子(二十一才)次女さだ子(十九才)三女初江(十八才)長男駿太郎(十五才)
 これが興信録に表わされた秋川一家の記事である。

      7

「成程、これで見ると立派な家のお嬢さんだね」
「さあ、そのほんもののお嬢さんが来てくれれば、君も御満足だろうが、僕にはそんなことよりも事件そのものの性質の方が気になるよ」
「あいかわらず、藤枝式だな。美人に恋せず、女を信ぜずか。どうも君という人間は妙に出来ているんだな」
 私がこういい終つた途端、ベルが鳴つて訪問者がオフィスの戸の外に立つてることを報じた。やがて戸が開いたらしく、三十秒ばかりたつと、われわれのいる部屋に、給仕が一葉の名刺をもつてはいつて来た。
「うん、どうかこちらへ、といつて御案内してくれ」
 藤枝はこういつてちよつと私のほうを見た。
 こういう場合にはいちおう遠慮するのが道だから、私も立ち上つて座をはずそうとすると、彼はいつものように、目でそれを止めたので、私は一旦上げた腰をおろしたが、そのとき、部屋のドアが開いて、そこに一人の若い婦人が現れたのであつた。
 私は、その婦人を見た瞬間、思わずあつと叫ぶところだつた。
 それはただ美しいとか、気高いとかいう意味ではない。私は、このときほど、自分の直観を確信させられたことはなかつたのである。
 私は、さつき藤枝の所に若い婦人が訪ねて来る、ときいた時から何となく、好意のもてるような、美しい婦人のような気がしたのだ。それからつづいて、秋川ひろ子という名をきき、その筆蹟を見てから私は早くも、品のいい美人を頭の中に思い浮べたのであつた。
 藤枝のような、なんでも理窟できめなければならぬ男は、筆蹟からは容貌は断定出来ないと云つているけれど、私は早くも、これだけから、私が好きになれそうな美しい婦人を頭に描いていたのだ。
 それがどうだ。今、ドアの所に立ち現れた若い婦人は、まるで自分の考えた通りの美人ではないか! 名などはもうどうでもいい、秋川ひろ子の偽物であろうが、なかろうがそんな事はどうでもいい。
 しかし、事件は相当なものでなければならぬぞ。藤枝が冷淡に拒絶してしまうような事件では、困るぞ……いや、私は自分の事ばかり云い出して、この婦人を読者に紹介するのを忘れていた。
 このとき、ドアに現れた婦人は(まともに描写すれば)年のころ二十才前後、極く質素なみなり、羽織も着衣もめだたぬ銘仙のそろいで、髪は無造作にたばねて何の飾りもない。ただ一つ、この質素な身なりに特に目立つのは左の中指にはめた金の指輪で、そこにはたしかに千円以上もする宝石がはめてあつた。
 容貌は一言で美しいというに尽きる。しかし、はじめの印象によれば、それは決して華美な美しさではなかつた。どちらかと云えば、淋しい美しさである。特に大きな目は、この顔を大へん美しく、気高く見せてはいるのだが、同時に、それは女性に珍しい理性的なまなざしと云うべきであつた。
 戸があくと同時に、私は思わず立ち上つた。
 婦人は、われわれ二人が中にいるのを見て、その美しい目を見ひらいて一瞬間ちよつとまごついた様子を見せた。
「私が藤枝です。どうぞこちらへ。ここにいるのは私の友人で小川という者です」
 藤枝が、物なれた調子でよびかけた。

      8

「有難うございます」
 婦人は、余計な遠慮をせず、しかし決してしとやかさを失わずに、そのままそこに示された椅子に腰を下ろすと、赤青あかあおのきれいなハンドバツグを膝におきながら、その上に軽く両手をのせた。
 が、二人の男の前に対座して妙に窮屈そうなようすだつた。
「秋川さん、秋川ひろ子さんとおつしやいましたね。お手紙たしかに頂戴しました。今朝拝見しました。お待ちしておつたのです。ここにいるのは小川雅夫といつて、私の極く親しい友人です」
 婦人は改めて二人にていねいにあいさつをした。
「申しおくれまして。私秋川ひろ子と申します者でございます」
 私はいそいでポケットからシースを取り出し、その中から一番汚れていないきれいな名刺を出して秋川嬢の前にさし出した。
「小川君は極く親しい友人で、今、ある社に務めているのですが、道楽商売なので主として僕の手伝いをしていてくれているのです。従つて私同様の御信用を賜りたい。どんな御用件でも、この男の前で云つていただきたいと思います」
 実を云うと私は、そんなに今まで藤枝の事件を手伝つたわけではないのだ。しかし私は、こう云つて私の信用を、ここではつきりときめてくれた藤枝の好意には、心から感謝せずにはいられなかつたのである。
 もつとも、このとき、私が座をはずしてしまえば、これから後に説くような惨劇の渦中に私はとびこむ必要もなかつたわけだが、同時に私は秋川家の美しい人達とも永久にあわなかつたかも知れない。
「いま藤枝君が申す通り、私は藤枝君の手伝いをやつているものです」
 われながら訥弁だとひどく感じながら、私は美しい秋川嬢の前で、やつとこれだけをいつたが、なんだか顔が赤くなつたような気がした。
「しかし、藤枝君に特に極秘の御要件でしたら私はご遠慮しましようか」
 こんなつまらぬ遠慮をちよつと口からすべらせてしまつて実はひやつとした。
「なんだい、君、いつものようにここでお話をいつしよにきいたらいいじやないか。……秋川さん、小川君はこういうつまらぬ遠慮を時々いうんで困るんですよ。殊にあなたのようなお若い、立派な方が見えるときつと、こんなにはにかむんですよ」
 彼はこういつて、ちらとこつちを見た。
 女性を恋せず、女性を尊敬しないという藤枝は、しかし女性に対しては、きわめて社交的である。彼はたくみに相手の窮窟さを楽にしようとした。
 秋川嬢は、ちよつとあかくなつたが藤枝をにつこり見ながら云つた。
「やつぱり私みたいな者が時々うかがいますんですか」
「ええ、ちよいちよい見えますよ、この頃の若いお嬢さん達は皆しつかりしておいでで、中々立派な問題をもち込んでおいでになります。もつとも若いお嬢さんがたが見えるのは、よくよくの事で極めて秘密の要件が多いのですが」
 彼はこういうと、シガレットに火をつけた。
 秘密の用件をひつさげて、この探偵の前にあらわれたのは自分がはじめてではない、という確信が秋川ひろ子をして大へんにくつろがせたらしい。
「では、あの今朝、手紙をさし上げましたことにつきまして申し上げさせて頂きます」

   ひろ子の話

      1

 秋川嬢は、さすがに、もういちど自ら堅く決心したらしくこう云い出した。
「どうか、御遠慮なく。ただあらかじめ申し上げておきますが、私のところにおいでになる以上、よくよくの事情がお有りのことと思います。従つて無論その事は重大な秘密に違いありません。ここにおいでになつていることすら、既に秘密に属するでしよう。けれど一旦、私を信じておいでになつた以上、どうか何事もかくさず、嘘を云わず、はつきりと云つて頂きたい。これはあらかじめ、切にお願い申しておきます」
「無論でございます」
 秋川嬢ははつきりと答えた。
「一旦、先生を御信用申し上げてお訪ね致しました以上、決してかくし立てをしたり、嘘を申し上げたりは致しません。ただ私、心配なのは私が今日うかがいました用件と云うのが、少々漠然としたことすぎるような気が致しますの」
「漠然? はあ、そりやかまいません。どうかなんでも云つて下さいまし」
「実は今日うかがいましたのは私一個の問題ではございませんのです。それはあの御手紙で申し上げました通りでございます。私、実は父の事について心配な事がございますので、うかがいました次第なのです」
 私は少々意外な気がした。これまで藤枝を訪ねて来た若い女性の問題は、たいていデリケートな恋の問題か恋人の行方ゆくえに関してであつたので、私は秋川嬢もきつとこんな話をはじめると思つていたのである。
 藤枝は、しかし少しも意外な顔をせずにじつと秋川嬢をながめている。
「私の父は、あのもしかしたら名前位きいていらつしやるかも知れませんが、秋川駿三と申しまして、先頃まで会社の社長をしておりました者でございます」
「先頃までですか。現には?」
 これは藤枝がちよつとおどろいた調子できいた。
「昨年の十一月まで、秋川製紙株式会社の社長を勤めておりましたのです。それが昨年の末になつて急にその会社をやめ、その他一切の会社との関係を断つてしまいました。それで只今では無職というわけでございます。父はまだ四十五才になつたばかりでございますから、隠居をするにはまだ早いのでございますが、近頃大へんな神経衰弱にかかりまして、とても健康がつづかぬからというので、只今申し上げました通り、全く無職の人間となりました。家族は父の他、母徳子と、私が長女で、妹が二人ございます。すぐ次の妹が、さだ子と云つて今年十九才、次が初江と云つて十八才になります。それから弟が一人ございますが、駿太郎と申しまして、これは今年十五才になります」
 秋川嬢はここまで一気にしやべつてちよつと口をとじた。藤枝は、無表情な顔で、あいかわらず紫の煙を空中にふいている。
「私が今日うかがつたのは、父についてでございます。父は最近、何かを大変おそれております。一言で申せば、何者かに非常におどかされている。今日にも殺されはせぬかと恐れているようなのでございます。そうです、たしかに父は生命をつけねらわれている、少くとも父自身はそう感じて恐れておりますように思われるのでございます」
「生命の危険をですか」
 藤枝がきいた。
左様そうです。父はたしかに生命をおびやかされております。名誉や財産ではございません。はい、それはたしかでございます。そう考える理由が充分でございますの」

      2

 秋川嬢はつづけた。
「それをはつきり知つて頂くためには、父が昨年勤めを一切やめてしまつた頃からのお話を申し上げる必要があると存じます。元来、私の父と申す人は、余り強気の人ではございませんが、しかしともかく、秋川家に入りまして……あの御承知かどうか存じませんが父は養子でございますの……秋川家に入りましてから、事業も凡てに成功いたして今日までに至つた位でございますから、そんなに意気地のない性質ではありません。けれど私が幼少の時から父は大変神経質でございました。
 それがこの数年になりましてから、だんだん神経衰弱のようになりまして、毎晩眠り薬をのまねばねむれぬという風になつてまいりましたのです。
 医者にも診ては頂きましたが、格別にこれと申して、はつきりした原因はない。多分事業が余りはげしすぎるからではないか、というような事でございました。
 ところが、近頃はそれがだんだん劇しくなりまして、昨年の夏なんか、どうも眠れない夜が恐ろしいようすなのでございます。私もはじめは、いつもの神経衰弱がつのつたのだとばかり思つておりましたが、ある日、とうとうその原因らしいものを、発見してしまつたのでございます。
 それは、たぶん昨年の八月の末ごろだつたと存じます。ある夕方、私は父の所に来た手紙の束をもつて父の書斎にまいつたのです。まだ父が帰りませんので、一人で何気なくその手紙をそろえておりますと、青い西洋封筒が一つ、床におちました。拾いとつて、ちよいと封じ目を見ますと、そこに赤い三角形のしるしがおしてございます。珍しい印とは思いましたが、別に気にもとめずに、そのままそこにおいておきました。これにはさし出し人の名はありませんでした。
 その夜、父はどうしたわけか夜中二階の寝室でおきていたらしく、あくる日、母が私にふしぎそうに語りましたが、父は、床にもつかず、何か考え、考えてはためいきをついていたそうです。母が何をきいても一さい父は云わなかつたそうでございます。
 すると一月ひとつきばかりたつてからのある夜、父が青い顔をして私共の部屋にまいり、
『このごろは、世の中が物騒だから下男をふやそうかと思う。お前たちも気をつけて、夜ねる時には一通りの戸締りを見てから、ちやんと鍵をかけてねろ』
 と申して、また自分の部屋に戻つたそうでございますが、その夜、母がひそかに気をつけておりますと、父は夜中、ピストルを手にして部屋の中をうろうろしていたらしいと申すことでございます。
「ちよつと、秋川さん、その頃お宅には下男は何人いたんですか」
「下男は一人しかおりませんでしたが、老年の執事が一人おりました。今でもまだおります」
「失礼しました。どうか話をおつづけ下すつて!」
「私はそれをきいて、その翌日父が勤めに出ますと、そつと書斎にいつて見ました。この前のとき、何だかあの赤い三角形の手紙と、父の恐怖と関係があるような気がしましたものですから。それに西洋の探偵小説なんかによくあるものですから!
 父の部屋にはいつて見ますと、私はまず第一に状差しを見ました。けれど何も見当りません。紙くず籠を見てもやはりないのです。ではやつぱり私の考えは小説の空想だつたのか、とその時はそう思つてしまいました。

      3

 けれど、これは矢張り私の空想ではございませんでした。十月のはじめ、外出先から私が帰つて来て門の郵便箱を開けて見ますと、そこにまた三角形のしるしのついた手紙が来ています。今日こそは、はつきり確かめねばと私は決心しまして、其の儘、それを父の書斎において、父の帰るのを待つておりました。
 珍しく父は、その夕方わりに早く帰つてまいり、着物をきかえながら、夕食はうちでたべるからと云うので、母が台所に行つて女中達にいろいろ食べ物のことについて申している間に、突然父のようすが変つてしまつたのでございます。疑いもなく、父は書斎にはいつてあの手紙を見たに相違ございませぬ。折角母が丹精して作つた夕食にも殆ど手をつけず、食卓に向つても、なんだかしきりに考えているようでございました。
 食卓を離れた父は、ますますいらいらしているようでございましたが、書斎に入つたり出たりして落ち着きませぬ。母も何事かと、また心配しているようでございましたが、どうもはつきりしたことは判らないようなのでございます。
 夜になりましたが、私はとうてい眠られませぬ。十二時すぎにそつと起きて寝室から出てまいりますと、廊下でばつたり誰かにあつてしまいました。それはさだ子でございました。
『さださん、どうしたの? 今頃』
 とききましたが、妹は青い顔をしたまま何も答えないのです。私は思い切つて、
『さださん、あんた、お父様のことで何か心配していらつしやるのではない?』
 ときいて見ました。
 そうすると、妹は黙つてうなずくのです。
『じや、あんたも、あの手紙に気がついているの?』
 とはつきりきいて見ますと、妹は小さな声で申しました。
『お姉様、どうしてあの手紙の事、知つてらつしやるの?』
『だつて私、前からお父様の所にくる手紙に気をつけてるんですもの』
『え? お父様のところにも来たの?』
 妹は驚いて思わず大きな声を出してしまいました。驚いたのは妹ばかりではございませぬ。私もおどろきました。
『さださん、あなた、誰の所にきた手紙の事を云つてるのよ』
 私は思わず暗い廊下で、妹の手をかたく握りしめておりました。
『お姉様、私さつきへんな手紙を貰つたんですの。誰から来たのだか判りませんけれど……』
『じや、封じ目に三角形の印が押してあるのじやない?』
 私はさえぎるようにそう云つてしまいました。妹はこわそうに声をひそめて申しました。
『そうよ、私いまはつきりおぼえていないけれど、こんな意味の事が書いてあつたの。
 お前の父は今大変に危険な位置にいる。お前の一家も早晩大変な不幸にあうだろう。この手紙を早く父に見せてわけをきいてみよ』
『さださん、あなたその手紙をどうして?』
『私、その手紙のいうとおりにしたのよ。すぐお父様のところにもつて行つたの。そうしたら、お父様は、それをひつたくるように取つて読むと、自分のふところに入れたまま、お前、この事を決して誰にも云つちやいかん。決して心配する事はないからつて、こわい顔をなさつたのよ』

      4

 さだ子はその手紙を父に渡して戻つて来たが、父のようすがどうも心配なので、私同様おきて来た、とこう申すのです。その夜は、しかし別に何事もおこりませんでした」
 美しい依頼人はここまで語つて、ちよつと一息ついた。
「よく判りました。ちよつとおたずねしますが、妹さんの所に来た手紙はやはり郵便で送つてこられたのでしようね」
「そう申しておりました」
「その妹さんの所に来た手紙はペンで書いてあつたでしようか」
「いいえ、邦文のタイプライターで打つてあつた、そうでございます。表もすつかりタイプライターだと申しております。父の所にまいりましたのもたしかにタイプライターで打つてございました」
「判りました。これで、お父様が、会社を退かれる前のようすが、はつきりしました。つまりお父様は、なに者かの為にいつも脅迫されている。それでいつも心配していらしつた。そのうえ、妹さんの所にまでそれが来た、という事を知つて、ますます煩悶なさつた。その結果、神経衰弱がいよいよひどくなつて行つた、とこう云うわけですな。ところで、妹さんの所に手紙が来た事については、お母様にもお話なさつたでしようね」
「私は何も申しませんでしたが」
「では、さだ子さん御自身は、如何ですか」
 このとき、ひろ子嬢の顔にちらと妙な表情が浮んだが、それは直ぐ消えて彼女ははつきりこう云つた。
「いいえ、さだ子もきつと黙つていたことと存じます」
「そうですか。いやありがとうございました。ではつづいてお話し下さい」
 藤枝は新しいシガレットに火を点じてうながした。
「つまり斯様な状態で、父はだんだん妙な人間になつて行つたのでございます。十一月のなかばごろにまたまた一通の怪しい手紙がまいりました。私はそのとき、それをそのまま自分で開いて見ようか、と余程考えたのでございますが、それもなし得ず、黙つて父の机の上においておきましたが、その翌々日父は、健康がつづかぬと云うわけで、いつさいの職務から関係を断つてしまいました。これが昨年暮の十一月までの父のようすでございます」
「ちよつと、お父様は警察へは一度もその話をなさつたようすはないのですか」
「はい、決して! 私もそれがどうも気になつておりまして、自分で警察のほうにでもお話しようかと存じましたのですが、父自身がああして秘密にしている以上、何かわけがある事と考えましたから、私は今日まで誰にも何も申さずにおいたのでございました。ところが……」
 ひろ子嬢がここまで語つてきたとき、不意にドアをノックする者があつて、藤枝の声に応じて、給仕が一通の手紙をもつてはいつて来た。
 ちようど私が一ばんその入口に近いところにいたので、手をのばしてその手紙を受け取りながら表を見ると、
 藤枝真太郎氏事務所気付
  秋川ひろ子殿
 とタイプライターで書いてある。
 私は何気なくそれを秋川ひろ子の手に渡そうとして、ひよいと裏返して見たが、おもわず、アッと叫ぶ所であつた。

   第一の悲劇

      1

 見よ。そこには、はつきりと赤い三角形のしるしが押してあるではないか?
私はそれを見た刹那[#「刹那」は底本では「殺那」]、すぐにこれを、ひろ子嬢に手渡していいかどうか、ちよつと考えざるを得なかつた、ひろ子嬢は、しかしその間にもうその手紙の恐ろしい三角形を認めてしまつたらしい。
「あら! ここにもこんな物が? あの私にですの?」
 さすがはやはり女だ。今までしつかりとしていた彼女も、この手紙の印を見ては全く面喰つたらしい。膝の上から危くすべり落ちそうなハンドバッグをやつと握りしめた。
 けれど、一番敏活に行動をとつたのは藤枝だつた。彼は私の手に何があるかを見るや素早く立ち上つてドアをあけた。
 次の瞬間、ドアの外からこんな会話がきこえて来た。
「オイ、給仕、今の手紙はどうしてきたんだ」
「使いの方が持つて来たんです。メッセンジヤーボーイのようでした」
「もう帰つたかい?」
「あの手紙をおくと直ぐに帰りました。受取を書こうとしているのに、いらないと云つて!」
「そうか」
 藤枝が再び戻つて来た時は、私はひろ子嬢とただ黙つて顔を見合わしていた。
「畜生! ふざけたまねをしやがる」
 藤枝は、一人こう云いながら、椅子に腰かけたが、令嬢の前でとんだ乱暴な言葉を出してしまつたのを悔いた調子で云つた。
「いや、これは失礼しました。誰かのいたずらですよ。しかし、あなた宛の手紙です。一応ごらんになつては如何ですか。そしてもしお差し支えなかつたら、後で私に見せて頂きましようか」
 しかし、ひろ子嬢の顔色はまつたく青かつた。
「あの……私何だか恐ろしくつて……どうか開けて見て下さいませんか」
 藤枝は、こう云われると少しも遠慮なく、その手紙を手にとつた。
「これは今までお宅へ来たのと同じ封筒ですか」
 彼は、強いて平気を装うて、ひろ子嬢をおちつかせようとしているらしかつた。ペーパーナイフを側の机の上からとると、器用に、封をすつすつと切りながらつけ足した。
「御心配になる事はありませんよ。こんないたずらをする奴に限つて、決して恐ろしいまねなんかしやしないのですからね」
 ひろ子嬢は、しかしもう何も云わなかつた。否、云えないのだ。私もどんな手紙が出て来るかと、固唾をのんで待つていた。
 封筒の中からは卵色の洋紙が出て来た。
 一応藤枝が目を通して、それからひろ子嬢と私の前に出したのを見ると、邦文のタイプライターで全部、片仮名で次のような文句が書かれてあつた。
 タダチニ、ウチニモドルベシ。ナンジノイエニ、オソルベキコトオコラン。カカルトコロニ、イツマデモイルベカラズ。
「つまり、あなたに直ぐ帰れと云うんですな」
 藤枝は、にこやかにひろ子嬢に話しかけた。
「あの、私がここにまいつておりますことなんか、誰も知つているわけがないのですが」
 令嬢は青くなつて立ち上つた。
「秋川さん、そう御心配になるには及びませんよ。まださつきのお話もすつかりうかがつてないのですから、もう少しお話し下さいませんか。私もついているのですから大丈夫ですよ」

      2

 藤枝は、秋川ひろ子の話に余程の興味をもつたらしい。肝心の所で、話が途切れかかつたので、後をつづけさせようと、しきりとひろ子を落ち着かせて、その後をきこうとした。
 しかし、さすがの彼の雄弁と努力も、のあたり今きた三角の印が、ひろ子に与えた影響にはかなわなかつた。
 やはり弱い女性である。しつかりしているように見えても秋川ひろ子は矢張り女である。
 私はそう感じたと同時に、この三角形の印のある手紙が、最近どんな恐怖を秋川父子おやこに投げ与えているか、という事もはつきりと感じられた。
 おそらく、ひろ子が、これから語ろうとした事実には余程深刻なものがあるらしい。
 藤枝が頻りとききたがつていたのも無理はない。
 約二、三分、藤枝はいろいろとひろ子を説得したけれども彼女はもう腰がおちつかず、
「でも私……何だか恐ろしくて……」
 と云つて立ち上りかけていた。
 こういう有様では、とうてい今ここに落ち着かせる事は出来ぬと悟つたか、藤枝は、とうとうこう云つた。
「私は決してそう御心配になる事はいるまいと、思うのですけれど……まだすつかりお話をうけたまわり切れぬうちに、そう断言するのも軽卒ですから、それほど心配になるならすぐにお帰りになつたらいいと思います。……しかし、まだ、明るいですが、一人でおかえしするのは、ちよつと心配ですから……」
 彼はこう云つて私のほうを見た。
「いえ、私一人で結構でございますの」
 ひろ子はこう云つたものの、やはり気になると見えて、すぐには去りかねているようすである。
「失礼ですが、私どうせひまですから、お宅までお送りしましようか」
 私は、二人の中どつちともつかずに云つた。
「大変でございますわ」
「いいえ、小川君はどうせ今ひまなのです。それに人間も確かですから、小川君に送つてもらいましよう、ねえ秋川さん、そうなさつたらいかがです?」
「でも余り……はじめて伺つて勝手でございますから」
「何、いいですよ。小川君に頼みましよう」
 彼はこう云つて私を見た。
「ねえ君、君が行つてくれれば安心なんだが、その辺の流しの車を捕まえてうつかりのるのはまあけんのんだ、君、すまないが日の出タクシーへ一台よこすように云つてくれないか」
「うん、よし」
 私はすぐに、電話器の所に行つて指でナンバーを廻転しはじめた。
 ジージーと明らかに相手をよんでいる音がきこえるが、中中相手は出て来ない。
 すると、どう混線したか、妙な声が途中でしきりにきこえて来る。男の声か女の声かはつきり判らない。
「かけてるんですよ。困りますね。切つて下さい」
 私はじれ切つてその声に向つてどなるように叫んだ。
 すると、どうだ、その不思議な[#「不思議な」は底本では「不思議が」]声がこういうではないか。
「ほほほほ、藤枝さん、余計なことに手を出すものじやありませんよ。秋川家のことには手をお出しなさいますな!」

      3

「何?」
 私は思わず、電話口で大声をあげた。
「秋川家のことに手を出すものじやないというんですよ。どんな不幸が来ても、来るには来るだけの理窟があるんだから、藤枝さん、むやみに手を出すととんだ事になりますよ。ほほほほほ」
「何だ。オイ、君はいつたい誰だ」
 声では男女がはつきりしないが、言葉の云いまわしはたしかに女とみえる。この不思議な声に対して、私はとびかかるように、またどなり返した。
「おい君、どうしたんだい」
 左の肩をちよいとつかれて、ふりかえると藤枝真太郎が、早くもこの電話の応答を怪しいとみたか私の側につつ立つて、さぐるような目つきをして私をにらんでいる。
「妙な声がきこえて来るんだよ、それが秋……」
「シーッ!」
 彼はこわい目をして私をにらみながら、ちらとひろ子の方を見た。ここでへんな事をいい出して、この上この美しい女性に心配をかけるなという意味であろう。
 私は、黙つて、受話器を藤枝に手渡して後にさがつた。
 おそろしい手紙の事で、夢中になつているらしいひろ子には、幸い私のへんな様子は気付かれなかつたらしい。
 私は手紙を手にとつたまま、椅子の所にぼんやり立つている彼女に向つて、
「今、すぐ車が来ますから、まあおかけになつていらつしつて下さい」
 と云いながら、たえず藤枝の方に注意していた。
 しかし、本人の藤枝が電話口に出た時は、もうあの怪しい相手は話を切つてしまつたとみえて、彼は少しも妙な会話をはじめなかつた。やがて彼はおちついた声で、
「え、日の出タクシーですか。こちらは藤枝です。一台すぐよこして下さい」
 と云いながら電話を切つてしまつた。
「今すぐ来ます。この裏ですから二、三分で来るでしよう。それまでお待ち下さい」
「どうもいろいろごめいわくをかけまして、ほんとうに申し訳ございません」
「どう致しまして……それでと……すぐ車が来ますがそれまでに一言うけたまわりたいのですが、最近の御父様のようすは、つまりさつきおつしやつた状態がだんだん進んだ、というのでしような。手紙がまたさかんに来る、というような事なのでしよう。最初あなたが、漠然という言葉を使われた所からみても、とり立ててこれというような事件が、最近におこつたわけではないのでしようね」
 彼は、ちよつとの間に、すばやく要領を得ようと努力をした。
「はい、一言で申せばまあそんなわけでございますの」
「それから、その手紙ですが、あなたにあてられていますから無論これはあなたがおもち帰りになつていいのですが、もし出来ることでしたら私に御預け願えませんでしようか。何かの参考になると思いますから」
 ひろ子は、何の躊躇もなく、今きた手紙を藤枝に渡したのであつた。
 丁度その時、
「自動車がまいりました」
 と云つて、給仕が顔を出した。

      4

 藤枝は、ひろ子と私を玄関まで送り出して来たが、頻りとひろ子に対しては、勇気をつけるような事を云い云いしていた。
「ですけれど、もし余り御心配ならば、いちおう警察におつしやつた方がよくはありませんか。その辺は充分にお考えになつて……じやあ君、よろしく頼むぜ。お送りしたら直ぐに戻つてき給え」
 エンジンが音を立てはじめた時、彼は一言私に向つて云つた。
 二十一歳になる美しい令嬢とたつた二人で、自動車に乗つて走る気持というものは、決して悪いものではなかつた。
 私は、さつき興信録で、ひろ子の家が、牛込区の、ある高台の邸町にあることを知つていたので、乗ると直ぐに行先をつげたのであつたが、車が余り早く走つて、この楽しいドライヴを少しでも短くはしないかひそかに恐れていた。
 車は帝国ホテルの横を通り、日比谷公園の角を曲つて桜田門にで、それからずつと右手に御所の御濠をながめながら、二十五マイル位のスピードで走つている。
 私は、ひろ子の側に腰かけながら、出来るだけ藤枝真太郎のひととなりについて話すことにした。そうして彼女がおそれている事件に就いては、なるべくふれぬ事につとめた。
「私も、先生にお頼みしてほんとうに安心はしておりますけれど。……でも、どうして私が今日先生を御訪ねしていることが人に判つたのでございましよう。誰にも話してなんかないのでございますが……」
「おたくの方もどなたも御承知ないのですか」
「はい」
「手紙は無論一人で書いて自分でお出しになつたのでしようね」
「無論でございますわ。……そうそうあの手紙の表を書いておりましたとき、妹のさだ子が用事で私の部屋にはいつてまいりましたけれど、さだ子にすらその上書を見せなかつた位でございますもの。私すぐ吸取紙で上を伏せてしまつたのです」
「それは不思議ですね。郵便局では、裏にあなたのお名前が書いてないからわかるわけはなし……しかし藤枝もいつてたように、誰かのいたずらですよ。そんな事をする奴に限つて、実行にうつるものじやありませんよ。第一、昨年の秋からお父様をおどかして今日までかかつているんでしよう。もしほんとに危害を加える気なら、今までにいくらも時がある筈じやありませんか」
 私は、われながら、立派な理窟だと思いながら、こうひろ子にいつて安心させようとした。
 車はいつの間にか富士見町を通り、外濠をこえて牛込区にはいりかかつている。
 宏壮な邸宅のつづいた町を、車はどんどん走つて行つた。
「あれが宅でございますの。もうこの辺でよろしゆうございます。却つてうちの者の目につきますから」
「でもお宅の門の側まで行きましよう。万一の事があると私が藤枝に怒られますからね」
 こう云うと、ひろ子は、につこりとほほえんだが別に拒みもしなかつた。
 車が、秋川駿三と書いた立派な石の門の前にきたとき、私は停車させた。門から玄関まで、ちよつと半町ほどあるけれども、その門にはいるのは目についていけないと思つたのである。

      5

 私は、門の前に車をとめて、そこでひろ子をおろし、彼女が無事に玄関につくまでじつと見ていたが、別に何事もなく、玄関でひろ子はベルをおすと同時に、こつちを向いて、につこりしながら腰をかがめたので、私も先ず安心と、すぐにまた銀座に車を走らせた。
 事務所に着いて見ると、藤枝は室中へやじゆうを煙にしてじつと椅子に腰かけて待つていた。
「やあ、わりに早かつたね。ご苦労様。おかげでひろ子嬢も安心だつたろう」
「なかなか立派な家だよ、なるほど今どきあんなすばらしい家をもつてちや、おどかされるのも無理はないよ」
 私は、彼の前に腰をおろしながら云つた。
「そりやそうと、さつき君が受けていた電話は何だいありや? 何か僕をからかつてでも来たのかい」
「うん、そうなんだ。男だか女だかよく判らないが、ちよつときくと女の声らしい。秋川家の事なんかに手を出すなと云うんだよ」
「そんな事だと思つたよ。馬鹿にしてやがる。しかし事件が面白くなつて来たね。この手紙の来かたが少し早すぎたよ、僕はもう少しあと、つまり最近の話をききたかつたんだがね、こうと知りや、最近の話からきくんだつたが、この手紙がすつかりひろ子嬢をおどかしてしまつたんでね」
「手紙と云や、君は誰がそれをもつて来たか、もう調べたろうね」
「うん、君が出てから直ぐ電話で調べて見たよ。メッセンジャー・ボーイは大阪ビルの下のメッセンジャー・ステーションから来たんだが、そのボーイをよび出してきいてみると、そこへ、どこかの給仕らしい子供がこの手紙をもつて来たんだと云つている。その子供はまだ判らんが、たしかにこれを書いた奴は、間に二、三人の使者を入れてよこしているから、なかなか判らないよ、いずれ、最後の使者にきくと、たとえば尾張町の角で、これこれこういう男または女に金をもらつて誰にとどけた、というような事になるんだからね、それが知りたいが相手もさる者だから、ちよつとわかるまい」
「それより、ひろ子嬢がここに来てることがどうして判つたろう。不思議じやないか」
「君は、彼女が今日どういう風にしてここに来たかをきいたかい」
「いや、それをきくのを忘れたが、あんな用心深い人の事だ。あとをつけられるようなへまはやるまい」
「そりやそう思えないこともない。僕の処に出した手紙は無論、自分で出したんだろうね」
「それははつきりきいて来た。無論自分で出したと云つている。それを書くのも全く秘密にしたと云うのだ。なんでも、上書を書いている所へ妹のさだ子がはいつて来たが、それにすら見せぬつもりで吸取紙で上からかくしたと云つているよ」
「妹が来た? へえ、それにも見せなかつたんだね。そうか。して見るとどうして知れたかな」
 彼はこう云つて煙を吐き出しながらじつと考えこんだ。
「小川、君はおぼえているかい。さつき僕がさだ子という人もお母さんに云わなかつたか、ときいた時、彼女の表情がちよつとかわつた事を。ともかくこの秋川という家には何かふしぎな秘密があるね……さて、今日はもうお客もないらしいから、これで引き上げようじやないか」
 私はまだたくさん彼にききたい事があつたのだが、彼がそういうのでやむなく立ち上つた。
 銀座のある角で、私は彼と袂を別つたのであつた。

      6

 その夜、私はどうしても落ち着けなかつた。
 床につくと、いつもは十分もたたぬうちに眠つてしまう私も、この夜はなかなかねつかれなかつた。
 無論私はその原因を、秋川ひろ子という美しい女性の印象に帰していた。事実、彼女の姿が、どうしても私の目から去らないのだ。同時に、私はいろいろな想像をしてみた。
 もしこのまま何事も起らなかつたらどうだろう。それはひろ子にとつては幸福かも知れない。秋川一家にとつても勿論幸いであろう。けれど、私は、たつた一度彼女に会つたきり、このまま永久に相会あわぬことになる。それは私としてはまことに淋しいのだ。
 彼女がまた私にあうようになる為には、何事かが秋川家に起らなければならぬ。
 こう考えてきたとき、私は自分の利己心をかえりみて、我が身に実は恥じたのである。
 そうだ、何事か起つて、それが大した事件ではなく、ちよつとした事であつてくれればいい、ひろ子もその父も無事な程度に何か起つてくれればいい。そうすれば、ひろ子にとつても私にとつても都合がいいんだ。
 こんなくだらぬ事を考え、同時にまた、事の推移をいろいろに想像した。
 秋川駿三が何者かにおびやかされている事は間違いない。しかし、その相手は何者だろう。何故、彼はすぐに警察に訴えないのだろう。去年から今まで脅かされつづけて、いつたい彼は何をしていたのだろう。
 今まで知つている範囲では、秋川駿三は、一代で巨富を作つた人間である。こうした経歴をもつている人の中には、随分ひとに恨まれるやうな事をする者があるから、彼が誰かに恨まれているであろう事は察するに難くはない。
 ではそれは、金銭上の恨みか、恋愛関係についての怨みであろうか。――私の考えはいろいろな方面に動いていつた。
 それにしても、さつき私が此の目ではつきりと見た三角形の印のついた手紙は何者によつてかかれたか。いや、それどころではない、私がこの耳ではつきり聞いたあの女らしい声の悪魔の嘲笑は何を意味するのか。悪魔は正しく藤枝真太郎に向つて挑戦しているではないか。彼はつづいて何をしようとするのだろう。更に、藤枝がひろ子と話をしている間にさだ子の話にふれた時のひろ子のあの表情は? これはなんと解釈したらいいのか。
 私の頭の中には、とりとめのないいろいろの渦巻が交る交る現れたが、結局一つとしてはつきりしたことが判らなかつた。
 珍しく夜の十二時、一時の時計の音をきいたけれども、二時の打つのをおぼえなかつたから、いつのまにか眠りに陷つたとみえる。
 私が目をさましたのは翌日の朝、九時すぎだつた。いや正しく云えば、目をさましたのではない。目をさまさせられたのだ。
「おい小川、起きないかい。おい……」
 ぼんやりと目をあけて見ると、意外にも私のねどこの側に藤枝がすわつているではないか。
「お目ざめかね。ちよつといそぎの用がおこつたので、女中さんに云つて、かまわずねどこに押し入つて来たんだよ」
「ああ君か。……どうしたんだい」
「オイ、とうとう秋川家に大事件がおこつたよ」
 わたしは、いきなり夜具をはねのけてとこの上に坐つた。
「何? どうしたんだ」
「秋川ひろ子のおつかさん、秋川徳子が昨夜毒殺されたんだよ」

      7

「毒殺? あのひろ子のおつかさんが?」
「うん、はつきり毒殺とは云い切れないかも知れないが、とにかく、秋川徳子が毒薬をのんでその結果、けさ死んだことはたしかなんだ。しかし自殺とみるべき所がないので、当局は殺人事件とみている」
「で、ほかの者は?」
「主人もその外の人もどうもないそうだ」
「君にどうしてそれが判つたんだい」
 私は、もう起き上つて着物をきかえながらきいた。
「けさ、早く、ひろ子嬢から電話があつてね、母が昨夜から大変に苦しみはじめ、かかりつけの医師がつきつきりで介抱したが、とうとうけさ落命した、というのだ。その医師が、死因に非常な疑いをもつて、すぐに警察に報告したらしいんだね。警察署からすぐに司法主任と医師が来たそうだが、これらの人々の意見も、まつたく自殺とはみないらしいので、検事局へも報告したそうだ。ひろ子嬢は、私にもすぐに来てくれというのでこれから行くつもりなんだが、君にも御同行を願おうと思つて、いそいで君の寝込みをおそつた次第さ。ともかく、行つて見なけりや判らんよ」
 私は、ひろ子が無事だつたということで、ともかく一安心はしたものの、無論藤枝の好意を拒むべき理由はないので、雑誌社の方へは適当に二、三日休む旨をつたえて、すぐに出かける準備をした。
「何、そうあわてる事はないよ、朝めしでもやつてから出かけるさ、待つてるよ」
「いや、めしなんか食べてはおれん。しかし牛乳を一杯のんで行くからちよつと待つてくれ給え」
 私は、早々に顔を洗つて、洋服にきかえていると、女中が牛乳をあつくしてもつてきた。
「とうとうやつたね。君がいるのにひどい事をやりやがつた。……で、誰が犯人かは判らないんだろうか」
「そりや、まだ君、すぐには判らないさ」
「あらかじめ手紙をよこし、電話で報告しておいて、それから人殺しをやりやがる、ひどい奴だ」
 私は牛乳をのみながらこう云つた。
「うん、そりやそうだ。たしかにあの手紙を書いた奴の仕業だとすればね」
「とすればねつたつて、ほかに怪しい奴があるのかい」
「判らんね。しかし君のようにそうすぐに事をきめちや困るよ。勿論、あの手紙のさし出し人や電話をかけた奴をたしかめる事も最も必要さ。犯罪の予告があつた後、犯罪が行われたとすれば、いちおうその犯罪の予告者を犯人と断ずるのは最も常識的だ。しかし、そりや絶対にまちがいがないとは云えないぜ」
「というとどういう意味なんだい」
 しかし藤枝はこの問には答えずに、こういい出した。
「僕はあの秋川という家の中に何か余程重大な秘密がある、とにらんでいるのだ。昨日のひろ子の話の中でも脅迫状の話はなかなか面白かつたけれども、さだ子の所に手紙がきたあたりが一番、興味をひいたね。僕は父以外に対して脅迫状がきた時、何故、特に次女のさだ子に来たか、という事を考えていたんだよ、ただ意味なく偶然に次女をえらんだとしてもちよつと妙な所があるし、ことさらさだ子をえらんだとすれば、更に奇怪なことになるんだ。……もう仕度はいいのかい。じやすぐ行こうよ」

      8

 間もなくわれわれ二人は、自動車上の人とはなつたが、車が私の家から秋川家に向つて走つている間、藤枝は急に黙り込んでしまつて、一言も私に話しかけず、頻りとシガレットをふかしていた。
 こういう場合は、いつも、彼が何か重大な考え事に耽つている時にきまつているので、私はその思索を妨げぬように何も云わぬ事にして、自分のポケットからケースを取り出して、チェリーに火をつけた。
 車が昨日のあの美しいひろ子を送つて来た、秋川家の門の処に着いた頃は、車中一杯煙草の煙だつた。
「おい君、裁判所の連中ももう来ているらしいぜ」
 彼はわざと車を門の外にとめさせて降りながら、つづいてステップに足を下ろした私にこう云いかけた。
 成程、玄関のすぐ側に一台の幌型の自動車がついている。
「あれが君、警察の車だよ。こつちにあるのはこの家の医者の車らしいね」
 玄関まで歩きながら、藤枝は、他のがわにおいてある二台の自動車を指した。
 外からは、ゆうべこの家に何事かあつたとは、ちよつと見えないけれども、それでも一時に自動車が三台もここについているということは、吉凶いずれかの意味とすぐとれるであろう。
 宏壮な玄関に立つと、何事もなかつたように大きな戸が堅く閉ざされていたが、ベルを押すとまもなく戸があいて、内から女中が出て来たが、その顔つきには明らかに興奮の色が見えていた。
 藤枝は、懐中から名刺を出しながら、取次の女中に
「一番上のお嬢さんに私の来た事をお伝え下さい」
 と云うと女中が丁重に、
「あの、お嬢様からのおいいつけで、先生がお見えになつたらすぐお通し申せということでございますから、どうかこちらへ」
 と云つてスリッパを二足そこにおいた。
「そうでしたか。……じや、ちよつと待つて下さい」
 こういうと彼は、私にさきに上れと手で相図をしたが、急に踵を返すと、つかつかと裁判所の自動車の処に行つた。その運転手は、さきに藤枝が検事をしていた頃からの知り合いと見えて、何か二言三言交していたが、やがて藤枝はいそいで戻つて来た。
 私はその間、自分がさきに上るわけにも行かないので、自分の名刺を女中に渡すと、しきりに女中が上れというのを遠慮しながら、藤枝がもどるまで靴の紐をときながら待つていたのである。
「やあお待ちどおさま」
 彼はこう云いながら、靴を脱ぎはじめた。
「今聞いたらね、検事局からは奥山検事が来たんだそうだ。ほら君もよく知つてるだろう。いつか牛込の老婆殺しの事件の時に君にも紹介した事がある人さ。丁度よかつたよ」
 二人は案内されるままに上ると、すぐ右手にある応接間に通されたが、まもなくやさしい絹ずれの音がして、昨日のひろ子が入口にあらわれた。
「先生、よく来て下さいました……とうとう大変な事が起りましたの……」
 彼女はこう云つたが、見ると昨日とはまつたくようすが変つていた。顔の化粧もろくろくしていないが、泣きはらした美しい眼が、彼女に更に一層のいたましい妖婉さを与えている。

   悲劇を繞る人々

      1

「とんだ事でした。ほんとにとんでもない事でした。しかし、まだお母様のおなくなりになつた原因ははつきり判らないと思いますが、あるいは何か過つて呑まれたのかも知れません。が、万一、お母様が誰かに……」
 藤枝はここまできて口をつぐんでしまつた。
 母を失つたばかりのこのやさしい女性の前で、その次の言葉をはつきり口に出す事は、さすがの女性蔑視主義者である彼にも出来なかつたらしい。
 いや、それほど、この時のひろ子の有様はいたましかつたのである。
「これは、つい余りの事に度を失つてしまつて、昨日のお礼も申し上げませんでした。それにあの小川さん、昨日はまたわざわざお送り下さいまして、私はおかげ様で無事に帰りましたけれど……母が……母がとんだ事になりまして……」
 彼女はこう云つて、またもハンケチを目にあてたのである。
「お礼どころじやありません。……私改めておくやみを申し上げます」
 私はやつとこれだけを云つたけれども、なんと云つてひろ子を慰めてやつていいか全く途方にくれてしまつた。
「もし何かこれが犯罪ならば、きつとこの藤枝が仇を討つて見せます。そうです。きつとです」
 彼が、きつとなつてこう云うとひろ子は顔を上げてたのもしそうに彼を見た。
 こういう場面によく出会でくわすらしい藤枝も、ひろ子を慰めるのにはちよつと困つたとみえ、しばらく、ばつのわるいような沈黙がつづいた。
 しかしこの沈黙は折よく次の瞬間にうまく破られた。
 ドアをノックする音がきこえると同時に、入口から司法主任がはいつて来たのである。「や、藤枝さん、小川さんも御一緒ですか。暫くでした。今こちらであなたが見えるときいて待つていたところです。奥山検事が見えておられます。今屍体の現場に行つておられますから、なんでしたらすぐおいで下さい」
「いやありがとう。高橋さん、じやすぐまいりましよう」
 高橋警部の声に応じて藤枝はすぐ私をうながして立ち上つた。
 丁度そこへお茶を二つもつて来た若い女中に、ひろ子が何か云つているのにかるく挨拶しながら、二人は早速高橋警部の後について廊下に出た。
 私が、警部と藤枝のあとについて廊下に出ると、さきの二人は何か小声で話し合つていたけれども、私にははつきりきき取れなかつたが、『他殺』という一言が警部の口から出た事ばかりはききのがさなかつた。
 廊下を右に曲ると階段である。われわれはそれを上つて二階の廊下に出た。
 玄関からここまですつかり西洋間である。
 さすがに大実業家の家だけあつて実に堂々たるものだ、階段の壁の所に、ルーベンスの三人の女が立つている、なんとかいう画の写真がかかげてある。
 廊下の右手に三つばかり部屋があるらしいがみんな戸がしまつていた。
 そこを少し行くと、警部が立ち止つてふりかえりながら右側の大きなドアをかるく叩いて、
「ここです。屍体のおいてあるのは、検事もここにおられますから……」
 と藤枝に云つた。
 藤枝は幾分緊張した顔で私の方をさそうように見たが、ふとかたわらの壁にかけてある美しい色の額をさしながら私にささやいた。
「オイ君、ゴッホだぜ。さつきのルーベンスの『ドライ・グラチェン』に気がついたかい。金持にしちやめずらしい趣味だね」

      2

 途端に右手の戸があいて、警部が先ずはいり、つづいて藤枝がさつさと中にはいつて行つた。後から私もついて行つたが、此の部屋は外見と違つて広い日本間である。二十畳もあるだろうか、見渡したところ、ちよつとお客でもする座敷らしいが、その上手の方に立派な床がとつてあつて、秋川夫人の屍体はその上に横たえられているらしく、その周囲にかねて顔を見知つている奥山検事が坐つて、かたわらの洋服の人と何かひそひそと語つているのは、おそらくは裁判所の書記ででもあろうか。
 死者に対する――殊に、ちやんとこうして形よくととのえられた屍体に対する礼儀を守つて、藤枝は小さい声で奥山検事に挨拶をしているらしいので、私は遠くの方にすわつてかるく一礼した。
 それから警部と検事と藤枝は、かたわらにいた二人の医者らしい人と屍体の手にさわつたり、顔を見たり、いろいろの事をしていたが、私にはいつこう判らないので、なんとなくそこにいるのも窮窟な気がして、またちよつと礼をして戸の外に出て、廊下の所でシガレットを取り出し火をつけようとしていると、そこへ不意にひろ子が現れた。
「おや、おはいりになりませんの」
「ええ、私にはよく判りませんから……仏様におじぎだけして出て来ました」
 いつのまにかひろ子はもう涙をすつかり拭いたと見えて、晴れ晴れとした顔つきになつていた。
「では、こちらへおいでになりません? 父も妹もおりますのよ。御紹介致しますわ。あなたや藤枝さんの事も、もうこんな事がおこつてはかくしてもおられないので、父にけさ話してしまいましたの、そうしたら父は大変喜んで御目にかかりたがつておりますわ。父は父であわてて今朝、なんでもやはり知り合いの探偵の方に来て頂くように申しておりましたのよ」
 彼女はこう云つて私をうながしながら前に進んだ。
 屍体のおいてある座敷の次の間の戸をあけながらひろ子は、
「お父様、小川さんがお見えになつてよ」
 と云つて私の方を見てにつこりほほえんだ。
 次の瞬間、私は、隣室に劣らぬ大きな日本間の敷居を跨いだが、そこにずらりと並んでいる人々を見て、ちよつとめんくらつた形だつた。
 私は、いきなりひざをつきながら、
「私が小川雅夫です」
 と丁寧におじぎをした。
 すると正面にきちんとすわつていた立派な紳士が答えた。
「お名前はひろ子から承つております。藤枝先生とご同道になつたそうで、私秋川駿三です」
 見ると、鼻下に立派な髭をたくわえた一見品のある紳士であるが、ひどくやつれて病人のようにしか思われない。昨夜の悲劇もさる事ながら、かねてから神経衰弱にかかつていたという事もよくうなずける。
 駿三のそばに二人の美しい娘が黙つてすわつている。これらの人々は、隣室で今行われている検屍の結果如何を心配しているのだろう、皆緊張した顔をしていた。
 駿三が一人一人紹介した。
「これが次女のさだ子、次が初江です。その向うにおりますのが当家におります大学生の伊達正男です」
 娘は一人一人ていねいに礼をしたが、最後に制服で窮窟そうにすわつていた学生が、ひどく丁重なおじぎをしながら、
「僕、伊達です」
 と云つた。それは映画俳優にでもありそうな立派な男で、年は二十七八にもなろうか。

      3

 私はこの若者の立派さに驚いたけれども、同時に、いつたい此の伊達という男は、秋川家とどういう関係になつているのかしらといぶからざるを得なかつた。
 こうして秋川一家の人々と一間に並んでいるところを見ると、少くともこの家で客としての待遇を受けている人にちがいない。
 こういう学生がここに住んでいるときいていなかつたが……ははあ、判つた、ひろ子の婚約者ででもあるのかな!
 私がこんな事を考えながら、一応のくやみを述べている所へ、高橋警部がはいつて来た。
「あちらで一通り検屍も終りましたから、秋川さん、ちよつと来て下さい。検事がお目にかかり度いといつておられます」
 予期したものの如くに秋川駿三は、立ち上つた。
「はあ、ではすぐにまいります。私の書斎でお目にかかります……オイやすや、皆さんを書斎にお通ししてくれ」
 こう云つて彼は私の側を通つて座敷から出て行つた。丁度それと入れ違いに藤枝が廊下にあらわれ、室内の人々にちよつとあいさつをすると私を招くので、私は直ぐ立ち上つた。
「ここの主人の取調べがあるんだ。僕と一緒に来給え」
 駿三の書斎は今までいた部屋を出て戻つて右側、すなわち夫人の屍体のおいてある部屋の斜め向い側にあつた。
 はいると中には今、女中に導かれたばかりらしい検事が書記と何か話しながら朝日をうまそうに吸つている。高橋警部は、室にはいらずそのまま急いで出て行つた。
 部屋は洋室で、真中に大きな机が置いてあり、その上に書類がたくさん載せてあつた。そばに、卓上電話がおかれてあつたが、凡て金のかかつている事が目につくばかりで、いかにも実業家の書斎らしい。両側の本棚の中もガラス戸をのぞいて見ると、カーネギーの伝記だとか大倉男の言説だとかいうものばかり、そうでなければ、予約で売りつけられたらしい二、三十円の馬鹿値のついている出版物ばかりでうずめられ、それも、多分読んだ事はないのだろう、いかにもきちんと並べられていた。
 さつき廊下で見た美術趣味などは全然ここには感じられない。
 やがて、女中がお茶をもつて来て去ると、駿三が重々しい顔をしてはいつて来た。
「一通り、今あちらの方は取り調べました。それで、このお宅で起つた事ですから、まず御主人たるあなたに、昨夜の有様を一応おききしようと思つているのです」
 検事はこう云つて駿三の方を見た。
「いや、そりや無論私の方から申し上げなければならん事でして……で早速お話致しますが、一言で云いますと、一体どうしてあんな事になつたものか、私にも全く判らないので弱つているのです。妻は別に平生恨まれているような事もなく……」
「いや、そう云う事はまた後でききます、昨夜奥さんの亡くなられるまでの話をうかがい度いのですよ」
「そう、妻は、二、三日前から少々風邪をひいておりましたが、別段熱もなく、すこし頭痛がすると云つていたのですが、昨日午後、どうも頭痛がして困るからと申すので、いつも家に出入をしております薬局で、西郷という家に風邪薬を注文しました。それでその頓服を求めまして、夜十二時頃、しんにつく時にのんだらしいのです。私はそれより少し前、睡眠剤を大分のみましてとこに入りました。

      4

 それから、私は直ぐに深い眠りに入つたのでどの位たつたか判りませんが、物音で目をさましますと、寝室の戸を頻りに叩く音がしてさだ子が、おとうさま、大変です、起きて下さい、起きて下さいと叫んでいるのです」
「ちよつと待つて下さい。僕には少し判らないが」
「あ、そうでした、寝室の模様を少し申しておかなければならなかつたのでしたね。実は私は、このごろ大変不眠症に悩まされているので――それが為に会社も一切退いてしまつたようなわけですが、兎も角妻でも誰でも側に人がいてはどうしても眠れないのです。それで私は自分一人で寝室に眠るのです。その部屋は、この部屋(書斎)の向う側で、階段を上つて直ぐ右が私の寝室、次が妻の寝室で、これも一人で眠ります。
 それから、さつきごらんの通りの日本間を二つ程隔てた向うに、三人の娘の寝室があります。ひろ子とさだ子は各自一人でねますが、次の初江と駿太郎が一室に一緒に眠ることになつているのです。それで、私が十二時前に自分の室で薬をのみ、鍵をかけてねてしまつたので、妻がいつねたかはほんとうは判りませぬ。私は自分が睡眠剤をのんで、うとうとしはじめると間もなく隣室のドアのあく音がして、つづいて私の部屋と妻の部屋の間の戸が少しあいて妻が、お休みなさいと云うのをきいたのです。だからそれは後から考えると十二時頃だと思うのです」
「成程、それで、あなたはお嬢さんに起されてからどうしました?」
「私は直ぐにはねおきました。こりや賊がはいつたなと感じましたから、護身用のピストルをとつていきなりドアを中からあけて、
『オイ、どうしたんだ?』
 とさだ子にたずねました。
 するとさだ子は、隣室を指でさしながら、
『ほら、お母さまの室であんなうなり声が……あれ……お父様!』
 と叫んで私に取りすがるのです。私ははじめて落ち着いて妻の室の前でじつと耳をすませますと、成程、なんとも云えない異様な苦しそうな声が聞えます。私はあわてて戸を破れるようにたたきながら、
『徳子! 徳子! どうしたんだ? どうしたんだ』
 と叫びました」
「秋川さん、あなたの室から奥さんの所に行くドアにも鍵がかかつていたのですか?」
 検事はさすがに、此のデリケートな問題を極平気でたずねた。
「はあ……ちよつと妙にきこえるかも知れませんけれど……妻はやはり大変神経質なので、この頃の物騒さを知つているものですから、ねるとき、必ずそこへも鍵をかけていたのです」
「すると、夫たるあなたの室からも賊がはいるかも知れぬというわけだつたのですね。これは少々用心がよすぎるようだ」
 検事はにやりとしながらこう云うと、チラリと書記の方を見たが同時に、藤枝は私の方を妙な目つきでながめた。
「つまり、私がすぐ眠り薬をのむので、この戸は全く必要が……」
「いや、よろしい。それからどうしました?」
「私とさだ子が頻りに戸をたたきますけれども、どうしても開きませぬ。そのうち、ひろ子も此の騒ぎをきいてねまきのままかけつけました。三人で協力してドアを押しますと、その一部が裂けましたので、私はそこへ力をいれて戸を破りはじめました。やつと、中へ手をつつこみ鍵をはずして、妻の室にとび込みますと、妻は、ベッドからころがり落ち、断末魔の苦しい叫び声を立てながら床の上をはいまわつておりました。

      5

 私共三人は驚いて中にはいり、とりあえず徳子を抱き上げてベッドの中に入れましたが、もう目がひつつり、手足をもがいて身を捩るようにして苦しむばかりで全く言語は発しませんでした」
「一言も云えなかつたでしようか」
「言葉はもう一言も発し得なかつたようです。ひろ子が、お母様、どうなさつたのです? と泣き声を上げながらだきつくと、その耳に口を寄せていましたが、何か云いたそうでしたが聞えませんでした。ただ慄える手で傍を指すので、見るとスタンドの側に薬紙らしいものがもみくちやになつており、すぐわきにコップがおいてあつて、そこに半分程呑んだ水がありました。それで、私はすぐ、こりや何か毒でものんだのではないかと感じたのでした。
 いや、決して自殺とは思えません。第一妻が死ぬ理由はないのです。……それでとりあえず、かかりつけの医者の木沢さんに来てもらつたのです。時間はおぼえていませんが多分十二時半か一時頃ではなかつたでしようか。木沢さんはまもなく来られました。いろいろ介抱して応急の手当をして下さいましたが、ごらんの通り、とうとう駄目になつてしまつたのです」
 駿三はこう云い終つて一息ついた。
「だいたい判りました。そこでたずねますが、さつきあなたの云われた奥さんの風邪薬ですがね。それはあと残つていますか」
「いえ、一包の頓服とみえて、残つていたのは薬局の包装用紙だけで薬はありません」
「その頓服と云うのはなんです?……処方はいつ誰がしたのですか」
「さあ、薬は何か知りませぬが多分アンチピリンか何かでしよう。処方は特に、妻の為のものではなく、次女のさだ子が数日前発熱して頭痛がひどかつた時に、木沢さんに処方してもらつた頓服薬です。それを西郷薬局に云いつけたのです」
「では、さだ子さんの為の薬を奥さんに上げた、というわけですね」
「そうです。私共素人はよくそういう事をやりますのですが……」
 駿三は何か小言でも云われると思つたらしくおずおずしながら検事の顔色をうかがつた。
「で、どなたが薬局に命じたのです」
「うちの女中が電話でそう云つたと思います。無論、妻の命を受けてでしよう」
「そうすると、薬局では、さだ子さんの薬だと思つて調製したのでしようね」
 駿三には、何故検事がここをつつこんで来るのか、ちよつと判らなかつたらしく、
「はあ、まあそうだろうと思います」
 と軽く答えた。
「もう一つききますが、薬はむこうの者がもつて来ましたか、それともお宅の誰かが……」
「電話であらかじめ注文しておいて、うちの女中の佐田やす子というものが取りにまいりました。只今ここにお茶をもつて参つた、あれです」
「では、あなたは一応お引き取り願いましよう。で、ひろ子さんか、さだ子さんをよんで頂きたいですね」
 駿三は一礼して部屋を出て行つた。[#「行つた。」は底本では「行つた、」]
 検事は、かたわらの書記をちよつとかえりみたが、また一本の朝日を取り出して火をつけ、天井をじつとながめていた。
 藤枝は何も云わずに、あいかわらず、エーアシップをふかしつづけている。
 ノックがきこえて、まもなくそこへ、次女のさだ子が、不安そうな顔つきであらわれた。

      6

 戸口にあらわれたさだ子は、姉に劣らず美しかつた。ひろ子の顔つきを理智的な美とすれば、さだ子の顔つきは情的な美しさをもつていると云える。きれいというよりは、むしろ愛らしい顔つきで、さつき見た時、ひろ子と初江とが、共通の表情をもつているのに反し、さだ子は、父親の顔にどこか似ているが、なんとなく淋しげな色がどこかに見える。これは平生でもそうなのだろうか、あるいはこの悲劇の直後だからだろうか。
「あなたは……さだ子さんですか……二番目のお嬢さんですね。今お父様にいろいろと昨夜の事情をうかがつた所です。……さ、そこにどうかおかけ下さい。……そこで、今お父様にうかがつた所では、二、三日前からお母様が風邪をひかれた。昨日は特に頭痛が烈しかつたので西郷薬局にそう云つて薬をお求めになつたそうですね。それをねる時に呑まれてから大変苦しまれて、あなたがお父様をお起しになつたという事ですが、そうですか」
 これは検事としては異例な質問である、と私は感じた。平生検事というものはまず相手に昨夜の有様を一応きいて、供述者等の供述に互に矛盾がないかを確かめ、それから後で、いろいろきくものだと私はきいている。然るに奥山検事は今、いきなり駿三の供述をさだ子の前にはつきり云つた。
 多分これは時間を節約する為と、それからこうした一家族の一人一人を調べる時は、仮りに口を合わせようとすればあらかじめ検事の来る迄にいくらでもそれは出来る事だから、却つて一人の供述をその儘伝えたほうが便宜だから検事は此の方法を取つたものであろう。
「はいその通りでございますの」
 さだ子ははつきり答えた。
「昨夜、夕食は何時頃でしたか」
「あの、たしか六時半頃と思います」
「皆さんが御一緒でしたか」
「はい、父母と、私共姉妹弟とそれから……」
「それから?」
「伊達さんでございます」
「伊達というのは? ご親戚ですか」
「いいえ……あの……」
 さだ子は急に顔を紅く染めながらちよつと口ごもつた。
「親戚ではございませんがこちらにおります方で……私と婚約の間柄でございますの」
 彼女はこう云うと下をむいてしまつた。
「ははあ成程、そうなると、つまりあなた方ご家族以外には伊達という人が一人夕食に加わつていたわけですな。いかがでした、お母様は食慾は充分おありでしたか?」
「いいえ、父も母も少々頭痛がすると申しまして……殊に母は可成りの頭痛で殆どごはんを戴きませんでした。ただ父や私共の為に食堂に出て来たようなものでございます」
「そのとき、何か食べた物で悪かつたと思い当るものはありませんか。……お母様以外に食物にあたつたという方もないのですね」
「はい、どうもいつもと少しも違わぬような品ばかりだつたと存じます。私台所で女中を手伝つてマヨネーズソースを自分で作りましたが、料理を作る女中がおりますから、なんでしたらその女中をよんで聞いて見ましようかしら」
「いや、それではそのほうはあとできいて見ましよう。そうすると、あなたも、お母様の死の直接の原因はあの風邪薬だとお考えですか」
「はい、そうとより外考えられないのでございます」
「その風邪薬――正確にいえば、その時薬局から届けられた薬は、あなた自身の名になつていたものですな」
「はい」
「そのあなたの薬を呑み度いというのがお母様のご希望だつたのですか」
「いいえ」
 さだ子はこういつたが、この質問はすこし意外だつたらしい。

      7

 彼女は暫く何か考えているようだつたが、やがてはつきりといつた。
「あの……母が呑もうと申し出したのではございませんの。私がはじめすすめましたのです。余り頭痛がするというので私が数日前にのみました頓服薬を、のんで見たらと申したのでございました。母は、平生漢方の薬ばかりのんで西洋薬を好みませんでしたが、私が余りよくきいたのでまあ無理にすすめたのでございます。でも勿論こんなことになろうとはまるで想像もいたしませんでした。今から思いますと、私の好意が母を殺したようになりまして……」
 彼女はここまで語つて来て、母の死を嘆くのか、我が身の好意が仇となつたのを悔いるのか、俄にあふれ出る涙を歯をくいしばつてこらえているようだつた。私はこの時、検事という職業は随分罪な、職業だと感ぜざるを得なかつた。
「でも私、なんにも存じませんの! 何も存じませんの! 私が母を殺すなんて、そんなこと露ほどだつて考えたことはありません」
 突然さだ子はヒステリカルに叫ぶように検事に云つた。
「そりや勿論です。あなたがお母様をどうするなんてそんな事がある道理がありません。私は決してそんな疑いをもつてきいたわけではないのです」
「でも……」
「でもも何もありませんよ。そんなこと心配しないでいいんですよ。では薬局にはあなたが電話をおかけでしたか」
「いえ、女中に申しまして電話をかけさせました」
 彼女の声はやつと落ち着いて来た。
「いつも私がもらつている頓服薬を、すぐに使を出すから作つてくれつてそう申してやりましたの」
「では、薬局ではあなたがおたのみになると考えたでしようね無論」
「まあそうと思います。母がのむのだとは云つてやりませんでしたから。それに木沢先生が御処方なさつた私の薬と申してやりましたから」
「使いは?」
「佐田やす子と申す、うちの女中が夕方とりにまいりまして、夕食ちよつと前に帰つてまいりました。いつもと同じ袋にはいつておりまして封がしてございました。丁度私が台所にいたので、やすやは私にその袋を渡しました。それで私はそれを一時自分の帯の間にはさんでお台所で手伝つておりました」
「その薬があなたの名であるが実はお母様がおのみになるのだという事を、あなたはその女中に話しましたか」
「いいえ――ですから女中は私がのむと思つたかも知れませぬ。母と私との話は二人きりで致しましたから、はつきり誰も知つている筈はないのでございます。姉は昨日夕方になつて帰つてまいりましたから、これもよく存じますまいけれど、母が頭痛がすると申しておりましたから、ことによつたら私のところに来た薬をのむと思つたかも知れません。でも、私は薬の話は誰にも致しませんでした。それから夕食となりましたが、私は、いつも自分がねるすぐ前にのんで発汗するのがいいので、母にもねる時のませるつもりでおりました。母も、もとより自分が進んで求めたものでもないので、忘れたのか私には催促もせず、自分で何かいつもの煎じ薬を作つておりました。それで私は夕食後自分の部屋へ戻り、帯の間の薬を自分の机の引出しに入れておきました」
「それから、ずつとねるまで部屋におられましたか?」

      8

 極く僅かだつたが、さだ子の顔に一種の困惑の表情が浮んだ。
「そりや、うちの中ですから時々室から出ましたけれど、たいていは部屋におりました」
「そうすると、だいたいあなたはずつと部屋にいたとすると、その薬は無論机の引出しにそのままあつたと思わなけりやなりませんね。これはただ私の思いつきですが、あなたの部屋に誰か外の人がいたことはありませんか。またはあなたが外に出ているうちに、誰かがお部屋にいたというような事は。たとえば女中さんでも……」
 さだ子の顔には今度ははつきりと不思議な表情が浮んだが一瞬にしてすぐ消えた。
「……いいえ……」
 彼女は小さな声で答えた。
「それから?」
「夜十一時頃私はベッドに入りましたが、その前に母の部屋にまいりました。母は父がまだ起きているので、寝室にはおらず居間に一人横になつておりましたので、薬を封じた袋のまま渡し、ねる時におのみなさいと云つて先に寝室にはいつたのでございましたが、昨夜はいつこう眠くなかつたので、もつと起きているつもりでございましたけれど、これよりおそくなりますと父がやかましいので、いちおう寝室に入りました。でも眠くないので、トマス・ハーデイの小説をよんでおりましたが、いつのまにかうとうととしたとみえ、そのままベッドの上に眠つてしまいました」
「ではお母さんの寝室にはいられた時は知らぬのですね」
「はい、全く存じませんでした。それからどの位たつたか判りませんが、ふと目をさますと、私はハーデイの本に手をのせたまま、横になつておりましたが、なんとも云えぬうなり声が聞えるのです。はつと思つて起き上るとその声はたしかに母の寝室からきこえるではありませんか。私は驚いてドアをあけ、母の寝室の前にいつてお母様、お母様と叫びましたけれども、中からは苦しそうなうなり声がきこえるばかりで、一向に戸のあくようすもありませぬ、戸をわれるように叩きましたが駄目です。それで私は隣室にねている父の方の戸を割れるようにたたきますと、父は泥棒がはいつたとでも思いましたか、手にピストルをもちながら『誰だ、誰がやられた?』と云つてとび出してまいりました」
「ちよつと待つて! 誰がやられた?」
「はい、父も無論あわてたのでしよう。誰がやられた? と申して飛び出して来ました。それで私は母の部屋をさしますと、父もそのうなり声をきいたと見え、驚いて『どうした? 徳子』と叫んでおりましたが、そのうちねまきのままでさわぎをきいてかけつけた姉も一緒に力を合わせまして戸を破つてはいりますと、母が床の上に身をくねらして苦しんでおりました。
 父がいそいで抱きあげて介抱しましたが、もう唇の色が変つており、物も云えぬようでございました。ただ夢中で一方を指さしますのでその方を見ますと、さつきの薬の袋が破つてあり、中のパラフイン紙に包んであつた粉薬をのんだらしくその包紙がすててありました。早速木沢先生に来て頂いていろいろ注射などして頂きましたけれども、御承知の通り甲斐がなかつたわけでございます」
 彼女がここまで語つて来た時、今までどこに行つていたか高橋警部が、不意にドアをあけて部屋にはいつて来た。それを見ると検事は、
「ではさだ子さん、今日はこれ位にしておきましよう。またききたい所があつたら後でよびますから」
 といつてさだ子にもう去つていいという合図をした。

      9

 さだ子が書斎から姿を消すと同時に、検事は警部に向つて云つた。
「高橋君、どうだつたい。矢張り同じ事かね」
「はあ、今度は主人が帰つていましたから、直接主人について充分取り調べて来ました。しかし、どうも西郷薬局の方には間違いはないようです。警察の野原医師もそれから、この家のかかりつけの木沢[#「木沢」は底本では「野沢」]医師も同行して専門の方の調査をしていましたが、やはり向うでは間違いは起つていないようですよ。
 さつきも申した通り、私はけさ早く、木沢医師から秋川徳子変死の報をきくとすぐかけつけましたが、薬の紙、その他証拠品を領置すると同時に、何より先に西郷薬局店にかけつけ同家について取り調べたのです。
 かくの如き変死者の出た場合、自殺であろうと、過失死であろうと、あるいは他殺であろうといずれの場合であれ、徳子が何をのんだかという事を第一に確かめる必要があると信じましたから。
 ところが薬局に行つて見ますと、生憎主人の西郷幸吉という男は昨夜、仲間の宴会があつてそれに出たまま未だ帰らぬ、という事でした。そこで数名の雇人を取り調べたのです。
 それらの供述は甚だ自然でありまして、昨夕、秋川家から電話がかかつて、二女さだ子に、木沢医師が数日前に処方した風邪薬の頓服薬を一包用意してくれと云うことだつたので、無論薬局では、さだ子ののむものと信じて木沢医師処方の粉薬を作つた、電話は雇人が取りついだがただちに主人に話したので主人自ら調剤したそうです。あそこには雇人として薬剤師の免許をもつているものが二人もいるのですが、その時は主人自ら調剤したそうです。主人は無論薬剤師です。
 そうして西郷薬局と書いた袋に一包の粉薬を入れ、封じて店においておくと間もなく、秋川家の女中がそれを取りに来たので、勿論なんら怪しむ事なくそれを渡したのでした。
 そこで肝心の粉薬ですが、これは絶対に間違いはない。なんでもアンチピリンを〇・ポイント四だけ作り、これを包に入れ『頓服一回、秋川さだ子殿木沢先生御処方』と記して渡したそうです。此の点について、店の薬剤師二人ともその時、主人が作る所を何気なく見ていたそうですが、絶対に誤なしという事です。
 ところで今また行つて見ますと、主人は、帰宅した所で、うちをあけておおいに恐縮して語りましたが、そのいう所によれば全く、さきの供述と同じです。私が領置した薬用袋をもつて行つて見せましたがたしかに、それは彼自身の渡したもので、字は自身で書いたにちがいないという事です。ただ封の所が破つてありますが、封緘紙が袋についたままでいますから、どうも薬局でアンチピリンを入れたのに、途中で誰かが外のものにすりかえた、という事も考えられぬようです。西郷には後刻警察に出頭するよう一応命じておきましたが、同行した二人の医師も一応帳簿などを調べましたが、それによつても、どうも云つている事に嘘はないようです。……それから徳子の屍体のそばにあつた包紙ですがね。すぐ本庁に送つて調べて貰つていますから、もう判るでしよう」
 警部が一気にこうしやべつた時、ドアが開いて女中があらわれた。
「あの、[#「あの、」は底本では「あの、 」]電話でございます――警視庁で……」
 警部はいそいで立ち上つて出て行つたが、やがて暫くすると戻つて来た。
「今、包紙を調べたそうです。少し粉末がついていたのでそれを調べた結果昇汞だという事が判りました。純粋の昇汞だそうです。何もまじつていないという事です」

      10

「昇汞? 昇汞をのんだんだね」
「鑑識課で調べた粉末はたしか昇汞だという事です。前後の状況から見て徳子の呑んだのはどうも昇汞らしいですな。野原君も木沢医師も同意見です。ことに木沢医師はかけつけた時、徳子の苦しみ方や、嘔吐の模様からして、昇汞じやないかと感じたそうです。なんでも二ヶ月程前に牛込のある病院で、看護婦が昇汞で自殺した時にかけつけたそうですが、その時の看護婦の様子とよく似ていたと云つていました」
「無論屍体解剖をやれば明白になることだが、昇汞嚥下は先ず間違いなしだね。自殺ではないらしい。自殺とすれば徳子がどうして昇汞を手に入れたかを先ず考えなければならん。又、同時に、それなら西郷薬局から届けた筈のアンチピリンがどこかに残つているか、あるいは両方とも徳子の胃にはいつたとしても、アンチピリンを包んだ紙が残つていなければならない。今まで調べた所では、徳子は薬局から来た薬を何も知らずにのんだとしなけりやならん。しかし、薬局ではたしかに解熱剤を作り、これが間違いなくこの家に来たとすると、それが徳子の口にはいるまでにいつのまにか昇汞に変じたことになる」
 検事はこう云つて朝日の煙をふきながら藤枝の方を見てにやりと笑つた。
「いや、もつと正確に云えばだね。西郷という男が解熱剤をまちがいなく作つたとすれば、それが袋にはいつてから、徳子の胃にはいるまでに昇汞に変つたというわけだね」
 藤枝が検事に対してはじめてこう云つた。
「うん、そうだ。薬局からこの家に来るまでに変つたか、この家に来てから変つたか、これが大問題だからな」
 検事がまた、にこやかに藤枝に云つた。
「じや、長女に来て貰おうか」
 ふと気をかえて検事が警部にこういうか、いわないうち、ドアにノックが聞えた。検事の声に応じて開かれたドアの所には、ひろ子が美しい顔をあらわしていた。
「あの、私をおよび出しになるだろうと思つてまいりましたのですが、はいりましてもよろしゆうございましようか」
 ひろ子はさだ子の取調べがすんで、自分が呼ばれると思つていたのに、意外に手間どつたので、待ちかねてはいつて来たものと見える。
「ああ、あなたはひろ子さんですね。ちようど今来て貰おうと思つていた所でした。どうかこの椅子へ」
 検事はこういうと朝日の喫いさしをポンと机の上の灰皿にほうりこんだ。
 検事のひろ子に対する取調べも最初はさだ子に対すると同じく、主として駿三の供述に従つたもので、一応その供述を簡単に彼女に述べたのだが、ひろ子の答も大抵それと同じであつた。
「では、昨夜あなたが騒ぎで起された所から話して下さい」
「私が昨夜床に入りましたのは多分十時頃だつたかと思います。いつも枕に頭をつけるとすぐ眠る習慣なので、昨夜もそのまま眠つてしまいましたが、夜半よなかにふと目がさめました。後から考えますと、これはつまり父と妹が母のねまの戸を叩いていた音の為に起されたのでございましよう」
「その時あなたはすぐお父様の声だと判りましたか」
「はい」
「では、お父様が何と叫んでおられたかおぼえていますか」
「いいえ、なに分部屋もはなれておりますのでそれはよく判りませんでした」

      11

「よろしい、それから?」
「私は何事か容易ならぬことが起つたと感じましたので、夢中で戸の所にかけつけ鍵をあけて廊下に飛び出しました」
 この時藤枝が検事の許しを得てちよつと口を出した。
「ひろ子さん、あなたは、騒ぎをきいてなんと感じましたか」
「…………」
「つまり、容易ならぬことというのは、たとえばどんなことです?」
「私、はつきりおぼえておりませんが、母がどうかしたんじやないかと考えまして」
「あなたは、お母様が風邪の薬を昨日求められたことを知つていましたか?」
「いいえ、それは母が死にましてから妹にききました」
「いや、ありがとう。失礼しました」
 今度は検事がつづけた。
「ではそれからの話を」
「そこで私はねまきのまま廊下に出ますと、すぐに父の所にかけつけました。廊下では父と妹が夢中になつて母の部屋の戸を叩いておりましたが、父はねまきで妹はちやんと着物をきていました。私はわけが判りませんがともかく母の身の上に何事かおこつたと思いましたから、一緒になつて戸をこわしにかかりましたが、父がやつと一方を打ち破つたので、いそいで寝室にはいつて見ると母がゆかの上に倒れています。父があわてて抱き起しましたが、母ははつきり口がきけません」
「ちよつと待つて下さい。お母様の部屋にはあかりがついていたのですか」藤枝がまた訊ねた。
「はい。電気がついていました」
「お母様はいつも電気をつけて休まれるでしようか」
「いいえ、まつくらにして眠ります」
 すると検事がひきとつて
「あの部屋には、天井に電燈が一つ、それからベッドのそばの机の上にスタンドがおいてある筈ですね。今あなたが云つたのはどつちの灯ですか」
 ひろ子はちよつと考えていたが、
「天井の方の電気はたしかについていたと思いますが、スタンドの方はどうだつたかはつきりおぼえません」
「それからもう一つ。天井の電気のスイッチは、たしかドアをあけたすぐ左手の壁についていましたね」
「はい」
「すなわち、お母様のベッドの中からは手が届かない、ということになりますね。もしお母様がつけた灯とすれば――無論そう考えるべきですが――昨夜お母様は、電気を消さず、もしくは消し得ないうちに倒れたというわけですな」
 ひろ子はなんのことかちよつと判らないようだつたが、につと微笑して軽くうなずいた。
「それから……?」
「父が母を抱きおこしまして、とこの中に入れたのですが、母は全身をもがいて中々静まりません。しかし私共がとび込んだのは、よく判つたらしく、皆でよぶと、ふるえる手をスタンドの方にもつて行くのです。私はもつとはつきり事情を知ろうと思つて耳に口をつけながら、
『お母様、どうなすつたのです?』とよびますと、母は目を大きく見開いて、何か云いたそうに口を動かしました。
 私が耳を母の所に押しつけるように致しますとやつと母は物を申しました。たつた一こと!」
 検事も藤枝も、警部も急に緊張した顔つきになつてひろ子の顔を見すえた。
 秋川徳子は死の瞬間にたつた一こと[#「一言」は底本では「一言と」]、何といつたのだろう。

      12

「たつた一言」
 ここまで来てひろ子はひよいと口をつぐんで検事と藤枝の顔を見くらべた。いつていいのかしら、と考えているように見える。
 しかし検事も藤枝もひどく緊張したまま何もいわないので彼女はつづけた。
「母はその時、たつた一言『さだ子に……』と申したのでございます」
 彼女はこういうと、やつと心の重荷をおろしたような表情をした。
「何? さだ子に? ひろ子さんそれは確かですか」
 検事がいそいでいい放つた。
「ここは大切な所ですよ。さだ子にといわれたのはほんとに確かですか」
「私、うそは申し上げません」
 ひろ子はきつぱりと答えた。
「いや、私の云うのはあなたがもしや聞き違えてはいないか、ということです。念の為にもう一度じゆうぶん思い出して下さい。お母さんは、さだ子! と云つたのではありませんか」
「いえ、さだ子とよんだのではございません。たしかに、さだ子に……と申しました」
 彼女の答は前にもましてきつぱりとしていた。
「そうですか。で、あなたはそのお母さんの言葉、さだ子にというのをきいてなんと解釈しましたか? さだ子に……あとなんと云おうとしたと思いますか」
 困惑の表情がひろ子の顔にあらわれた。
 少しの間をおいて彼女は云つた。
「なにぶん、そんな騒ぎの最中ですもの、私ゆつくり考えている間はございませんでしたわ。すぐ皆して木沢さんに来て頂いたりなにかしたのですもの」
「そうですか。いや尤もです。では改めてききますが、その言葉を今からゆつくり考えてあなたはどう思います」
 再び困惑の様子を彼女は表わした。
「さあ、私よく判りませんけれど、今から考えると、さだ子にすすめられてその薬をのんだのだとか、又はさだ子に薬をのまされたとかいうのじやないんでしようか」
「のまされた?」
 検事はじつとひろ子の顔を見ていた。つづいて彼はおそらくこういうにちがいない。
「じや、のまされたとお母さんが云いそうな状態がさだ子とお母さんの間にあつたのですか。毒をのまされたという状態が?」
 ところが意外にも検事はこの重要な質問を留保した。これは後に藤枝が私に云つた言葉であるが、さすがにものなれた奥山検事は、相手が若い女性でしかもこちらの質問を充分緊張して警戒してきいている際、このクライマックスでそういう重大な問をうつかり発すると、相手はしばしばうそをいうものであり、捜査方針を誤らせることがあるのを充分心得ていたものと見える。
 検事の質問は意外な方向にとんだ。
「きのうあなたはずつと家にいましたか」
「いいえ、用事でひるから出かけました」
 彼女はこう云つてちよつと藤枝の方に目をやつた。
「そうしていつ頃帰宅しましたか」
「そうです。多分四時すぎ頃でした」
「それから夕食までは」
「夕食までずつと下の広間でピアノをひいておりました」
「お母さんは、あなたの帰宅当時どんなようすでしたか」
「母は座敷に、とこをしかずに横になつておりました」
「では、薬屋に風邪薬をとりにやつたことは少しも知りませんでしたか」
「はい、母が死ぬまで存じませんでした」

      13

「妹さんにさつき聞いたのですが、夕食には家族の方が全部一緒だつたそうですね」
「はい、それに伊達正男さんが加わつていました」
「伊達という人は妹さんの婚約者ですか」
「はい、左様でございます」
「いつもあなた方と一緒に食事をするのですか」
「はい。来られますといつも一緒に」
「ではこのやしきに住んでいるのではないのですな」
「最近まで邸におりましたが、この二月ふたつき程前から近所に小さい家を一軒借りておられます」
 検事は何かちよつと考えていたが、ふと何気なく訊ねた。
「妹さんの婚約はもう余程前からですか」
「いえ、まだこの二ヶ月前ぐらいです」
「では婚約と同じ頃に伊達という人が別になつたのですね」
「はい、つまり妹が結婚致しますと伊達さんが今いる家に入るわけになるのでしよう。でも詳しいことは私よく存じませんわ」
「もう一つききますが、その婚約には御両親は無論賛成されたのでしようね」
「はい、父は大へん喜んでおりました。むしろ父の方から進めた話なのです」
「では、お母さんは?」
 私は、この時のひろ子の複雑な表情を決して見逃さなかつた。
「母も……母も婚約そのものには別に反対は申さなかつたようなのでございます。ただその条件について父とは大分意見が合わなかつたようで……」
「条件というのはどういうことです」
「なんでも財産のことなんですの。なんでも父はさだ子にかなりの財産をつけて嫁にやろうと申すのでしたが、母がそれについて反対のようでございました。でも、私そういうことよく判りませんから、なんでしたら父にきいて見て下さいましな」
「お父さんには無論ききます。……では夕食後あなたは?」
「私自分の部屋にはいつて小説を読んでおりました」
「小説つてどんな本です?」
 藤枝が妙な質問を発した。
 ひろ子は藤枝の方を見ながら、親しそうなようすで、
「ヴァン・ダインのグリーン殺人事件という本ですの」
 とかるく答えた。
「ああ Greene Murder Case ! そうですか」
 藤枝はこう云つてぷかりと煙を輪にふいた。
「あなたはずつと部屋にいましたか」と検事。
「いえ、それから八時頃ちよつと母を見舞いに座敷にまいりました。すると」
「すると?」
「そこで伊達さんが何か母と話しておりますので、すぐまた部屋に戻りました」
「伊達はずつとお母さんの所におりましたか」
「まもなくさだ子の所にまいつたようでした。今度はさだ子が母の所に行つたようでした」
「ほほう。どうしてそれがわかりました」
「私が手洗いにまいりました時、さだ子の部屋の前を通りましたの。その時、ふと妹に用があるのを思い出してノックしながら戸をあけますと、中に妹がいないで伊達さんが一人椅子に腰かけておりました。で、私はさだ子はおりませんの? とききますと、今お母様の所に行つているつて、伊達さんが申しました」
「その時、あなたは伊達のようすに何かへんな所を感じませんでしたか。たとえばへんにあわてた様子とか……」
 ひろ子はほがらかに笑いながら答えた。
「伊達さんは、妹の許された婚約者ですもの、妹の部屋にいるのを見られたからつて、あわてなんかなさいませんでしたわ」

      14

「では、その後の事はききましたから、今日はこの位にしておきましよう」
 ひろ子はかるく検事に挨拶し、それから藤枝と私の方に礼をしながら去つた。
「君、君がきいたあの小説は一体何だい」
 検事は一息ついたという形で、新しい朝日に火をつけた。
「ありや君、有名な探偵小説だよ。グリーン家の人々が一人ずつだんだん殺されてゆくというとても凄い話なんだ」
「それをあんなきれいなお嬢さんがよむのかね」
「うむ、そんなこたあちつとも不思議はないさ。この頃の令嬢の趣味は、第一にスポーツ、第二に探偵小説かね。――そうでもないかな、第三か、第四かね。しかしともかく、よく読むよ……だがグリーン事件とは」
 藤枝はここで妙に考え込んでだまつてしまつた。
「いやエロとかグロとか云つて全く妙なものが流行しますよ。しかし探偵小説の流行は私等から云うと嘆かわしいですな。ことに余り作家が巧妙な犯罪を書きすぎるから、われわれの方が忙しくていかん」
 こう口を出したのは高橋警部だつた。
 一座は屍体のある家で捜査をしているのをちよつと忘れて、なごやかなくつろいだ気分でおおわれかかつた。
 しかしこの時、あわただしく戸が開かれて白髪の老体が腰をひくく、しきりにおじぎをしながらはいつて来た。
「ええ皆様、どうもとんだ御苦労様で。私御当家に永らく執事をつとめております笹田仁蔵と申しますものでございます。この度はとんだことで何とも申し上げようもございません。旦那様が大変お力落しで、なんでもかでも犯人を捕えてやらなければ、とおつしやいまして、ええ、決して皆様だけでは足りないといふわけではございませぬが、充分の上にも充分に手配をすると申すことで、けさから、有名なあの林田英三先生に御依頼致すというようなわけで、私只今先生をお連れ申しましたばかりで留守をいたし、大変失礼をいたしました」
 私はおもわず藤枝と顔を見合わせた。
 さては、さつきひろ子が「父も知り合いの探偵をたのんだ」といつたのは林田英三のことだつたのか。
 藤枝にとつても、検事にとつても林田こそは実に強敵である。
 林田探偵と云えば、藤枝同様、否、あるいは藤枝以上に名のひびいた私立探偵である。
 読者はあるいは知つていられるかも知れないが、林田氏の探偵方法は一種独特のもので、藤枝とは又全く異り、なんぴとの追従も許さず、あの清川侯邸の怪事件の時はおどろくべき快腕を振い、競争者たる当局を全く出しぬき、もう一人の強敵藤枝真太郎もすんでの事に出し抜かれる所だつた。あの事件では、結局藤枝が、最後の勝利を占めたとは云うものの、林田英三は藤枝と全く別な方面から犯人をあて、若しあの時偶然にも藤枝の時計が七分すすみすぎていなかつたら(これは勿論藤枝としては意外な手ぬかりだつたが)犯人の首に手をかけたのは、藤枝だつたか林田だつたかいまだに疑わねばならぬと私は信じている。
 あの事件では今云つたように藤枝は手ぬかりの為に却つて成功したのだが、世人は怪魔王と呼ばれたあの浜松の殺人魔の悲惨な最後をはつきりおぼえているだろう。
 表向きは、犯人は警察の捜査厳重で逃げるに道なく、大川に身を投げて自殺したという事になつているのだが、実は当局の手の充分にのびた以外に、藤枝と林田の手が両方から犯人の首にのびたのであつた。
 藤枝の手におちるか、林田の手に捕われるかという所で犯人は進退きわまつて自殺したのである。

      15

 私は林田英三の経歴を詳しく知らない。けれども、藤枝のような官僚的な過去は全くもたないらしく、某私立大学を卒業後、犯罪学にひどく興味をもち、そのまま学究として進んだなら、あるいは学位を得るのも難くはなかつたろうと云われている。ただ彼の活動的気象は終日彼を書斎にとじこめることを許さず実際の犯罪事件に手を染めさせるに至つた。
 私立探偵としての彼の手腕は右にも述べた通り、並み並みのものではなく、たちまちにして彼の名は警察方面と悪人達の間に評判となつた。
 私はまだ一回も彼に会つたことはない。いよいよこの事件で彼にあい得るのだ。
 今や殺人犯人は藤枝と警察当局との以外に林田という大敵を向うにまわさねばならなくなつたのである。実に壮観というべきではないか。
 殺人鬼を繞つて当局と藤枝と林田の描く三つ巴は如何に発展するか。好奇心をもつもの、あにただ私一人ではあるまい。
「林田英三? ではここに来られても差し支えないと伝えてくれ給え」
 検事が緊張した面持で笹田執事に云つた。
「はい、あの私もあらかじめそう申し上げましてすぐこちらへお通し申すよう申したのでございますが、林田先生のおつしやるには、お調べのお邪魔をしても悪いし、又旦那様方におたずねしたいこともあるから御遠慮するということなので応接間で今旦那様とお話しておいでになります」
 この事件の直後、ややおくれて登場した林田探偵は、一刻も早くそのハンディキャップを取り返すべく、すでにもう秋川駿三の訊問を開始しているものと見える。まことに、聞きしにまさる敏腕さではある。
「そうか。では、あと初江と駿太郎という人がいるがこの人人は何も知らなかつたようだから、ではと……伊達正男をよんでくれ給え」
 笹田執事はかしこまつて部屋を去つた。
 まもなく入口にさつきの立派な青年が姿をあらわした。
「僕、伊達正男です」
 極めてはつきりした口調でそう云つて検事の示した椅子に腰をおろした。そうして検事の問に対して次のように語りはじめた。
「僕は小さい時から当家で育てられました。この家の遠い親戚なのです、父にも母にも早く別れてしまつてたつた一人ぽつちです、ここの叔父さん(彼は秋川駿三の事を叔父とよんだ、しかしこれは所謂おじさんであつて、叔父甥という程近い間ではないのだろうと思う)のお世話で、中学を出て目下某私立大学の経済学部におり、本年三月卒業したばかりですが、まだ就職口も見つからないので、大学院に籍をおいております、在学中はラグビーの選手をしておりました」
 そう云つてたくましい腕をちよつとさすつて見せたのである。
「君は昨日はいつ頃ここに来たのかね」
「夕方でした。このごろ近くに一軒家をかりておりますが、夕食を皆と一緒にたべるために五時すぎにやつて来ました」
「今聞けば君は、さだ子と婚約中の人だそうだね」
「そうです」
「では夕食後、さだ子の所で話でもしていたのかね」
「は、そうです」
「ずつと夜まで?」
「いや、実は、叔母によばれまして、叔母と話しておりました」
 若者の顔にはちよつと不安そうな色が浮んだ。検事はそれを見逃さなかつたらしい。
「君はその時叔母さんと何か争つていたのではないかね」

      16

「争い? 別に争いという程の事もありませんでしたが…」
 徳子と伊達が口論をしたとは初耳だ。検事は周囲の状勢から何か推察してカマをかけているのかしら。カマとすればこれは成功だつた。
 伊達正男は明らかに狼狽した。
「しかし、今ほかの方にきくと何か口論があつたようだが」
「口論て、大したことはないのです。ただ叔母さんがしきりに私にせまるものですから」
「どういうことを?」
「さだ子さんとの結婚についてです。叔母さんに云われてはじめて知つた位なんですが、何でも叔父さんは今度僕がさだ子さんと一緒になると、このうちの財産の約三分の一をさだ子さんと僕にくれることにきめているのだそうです。叔母にすれば、それが甚だけしからん、という事になるのです」
「何が」
「つまりその額がでしよう、まだたくさん子供があるのにさだ子だけに三分の一を分けるというのは不当に多すぎると云われるのです」
「それで君はなんと答えた」
「無論僕は財産なんか、目的ではない。たださだ子さんと結婚するのが目的なんだから財産なんか一文だつていらない、と云つたのです。又実際そう思つていますよ。ところが叔母にはその理窟がどうしても判らないらしいのですね。僕の結婚と三分の一の財産というものとは離るべからざる関係があるらしいのです。つまり僕がさだ子さんと結婚すればどうしても三分の一という財産がついて来るらしいのです。これは叔母が判らぬというより叔父が頑固でそう云い張るのでしよう。だから僕は、余り不愉快だから、一文もいらぬと度々云つたのです」
「そうしたら叔母はなんと云つたね」
「叔母はしまいには、この婚約を一旦、取り消してくれ、とこういうのです」
「で、君は無論反対したろうな」
「勿論です。僕はとんでもないこと、さだ子さんと自分の間には二人で堅い約束をしたことでもあり、そんな今更取り消すなんていうことは絶対にできない、とこう云いました」
「結局君はその時、何と云つて部屋を去つたんだい」
「僕は、どんなことがあつても結婚する、といいました。叔母は、どんなことがあつても断じて結婚させないと主張します。結局、双方頑張り合つたまま、別れました。そうして僕はさだ子さんの部屋に戻り今の話をしたわけです」
 彼はこう云つて検事の顔をきつと見つめたが、彼が徳子との話にはいるや全く興奮したようすがあらわれていた。
「つまり叔母は君の結婚の邪魔をする、といいはつたのだね」
「まあそうです。いや、まあじやありません。正にそうです」
「うん、そうか。では今ではその邪魔者がなくなつた、というわけだな」
 検事はどういうつもりか、こう云つて伊達の顔をじろりと見た。
 しかし、伊達の顔色には少しもこの言葉からの動揺は見られなかつた。
「それから君はさだ子と入れかわつたのかね」
「僕がさだ子にその話をするとさだ子は驚いて叔母の部屋に行きました」
「すると君はさだ子の部屋に一人残つたわけだね」
「そうです」
「どこに君はいたね」
 この問は伊達には何のことやらちよつと判らなかつたらしい。
「さだ子さんの机の前に腰かけていました」
「すると君はさだ子の机の引出しを開けることが出来たわけだね」

      17

 この時、伊達の顔にはさつと血の気があらわれた。
「何、なんですつて? 机の引出しを開ける? 僕、これでも紳士のつもりですよ。女の人の、ことに婚約者のいない留守にその人の秘密を知ろうなんてした事はありません。さだ子さんだつて僕がそんな事をしないと信じているから、僕を一人部屋に残して行つたのでしよう」
 検事といえども容赦はしない、出方によつてうんと云いこめてくれようというようすが見えた。
「いや、そう君興奮しちや困るね、私は君が引出しを開けたか、ときいたわけじやないんだ、あけようと思えばあけ得る立場にいたのだねという意味を云つたまでだよ」
「僕、あけようなんて思つたことは……」
「それならそれでよろしい。時に君は、叔母さんが西郷薬局に風邪薬を注文したことは知つていたかね」
「全然知りません」
 伊達はぶつきらぼうに云つた。
 それから二、三の点について問答があつたが、やがて検事は伊達に引き取つてもいいという許しを与えた。
 次によばれたのは年ははたち位の当家の女中で佐田やす子という者であつた。美人とは云えないが十人なみの容色、ただ昨夜からの椿事がすつかり彼女の気持を顛倒させている上に、検事や警部といういかめしい役人の前に出たため、青ざめきつておどおどしていた。
 彼女に対する検事の問はわりに簡単だつた。
 昨日薬をとりにやらせられた話にとどまつていた。
「私は御当家にまいりましてからちようど十日にしかなりませぬ。昨日の午後、時間ははつきりとはおぼえませぬが、さだ子様――二番目のお嬢様が、西郷薬局の番号を教えて下さつて、お嬢様の風邪薬をすぐ作つてくれるように電話をかけろということでございましたので、その通りに致しました。十五分ほどたちましてから、西郷薬局にまいりました。はじめての所なので、お邸で道などよくうかがつてまいりました。向うにつくと、もうできておりましたのですぐ薬を受け取り、手にもつて戻りました。ちようどお台所にさだ子様がいらしつたのですぐお渡し申し上げましたのでございます」
「君は、薬局からどこにもよらずまつすぐに戻つたかね」
「はい、どこにもよりませんでした」
「誰かに会いはしなかつたか」
 ちよつとやす子はためらつたようだつた。それは質問の意味を考えているようにも見えた。
「いえ、誰にもあいませんでした」
「薬はたしかに手にもつて来たね」
「はい、手にもつておりました」
 佐田やす子に対する聴取はこれで終つた。
 次いで笹田執事がよばれて、種々きかれたけれども、この老人は薬の件については何も知らぬようで、あまり要領を得ず、このききとりもまもなく終つた。
「じや今日はこれ位で引き上げようじやないか」
 検事は、秋川家で骨を折つて作つてくれた飲物や茶菓子には一指もふれず、ただ茶を一杯のんだきりで警部をうながした。
「いずれは解剖の結果もきかねばならないが、ともかく今日はこれで……」
 検事の一行は、秋川駿三に送られて玄関にと出た。
 藤枝も私もそれを送つて玄関まで行つたが裁判所の自動車が門外に走り出ると、主人に案内されてわれわれ二人はそばの応接間にと通されたのである。

   秋川一家と惨劇

      1

 主人に案内されて応接間に藤枝と私がはいると藤枝はいきなりそこに端然と腰かけていた四十二、三の紳士に対して、
「や、暫く」
 と挨拶した。
 するとその紳士も立ち上つて答えた。
「こりやお久しぶり。又あいましたね」
「おやおやお二人ともよく御承知なんですか。今私が御紹介しようと思つていた処だのに」
 主人が云つた。
 すると紳士が口を出した。
「いや、藤枝君には度々やられてますからよく存じていますよ」
「とんでもない。僕の方が林田君にいつも出しぬかれているんでさ」
 二人とも、社交的辞令を用いているのだが、心では互に「何くそ」と考えているに違いない。
 ただ私はかけ違つて、まだ此の有名な林田探偵には一回も会つたことはなかつた。
 見たところ立派な紳士である。がそのカイゼル式の髭と鷲鼻を除いては別に何の特色もない。
 私はすぐ藤枝から林田に紹介されてそこに腰かけた。駿三はまもなく部屋から出て行つた。あとにはわれわれ三人だけ。
「けさここの主人から急によばれて、やつとさつき来たんだが、来て見るともう君らが見えているという話さ。大分おくれをとつて残念だが、しかし主人やお嬢さんにあつて、もう大分おくれを取り返したぜ」
「いやこつちの方が大分へまをやつちまつたよ。僕の方の依頼人は主人ではなくお嬢さんなんだが、実は昨日たのまれてたんだ。ところで今日はもうこの騒ぎだ。ちつとへまだつたよ。しかし君の方は主人に頼まれただけに大分有利なわけだね」
「どうして」
「どうしてたつて、主人からきけばこのうちの妙な関係がすぐ判るじやないか」
「ああ、君はもう気がついたかい。実は主人もはつきり云わないんだけれど、この家の中には全く惨劇か何かおこりそうな空気があるよ。僕は今話をきいてそれを感じたんだ」
 此の時、ドアがあいて笹田執事がうやうやしく、盆に何かのせてはいつて来た。
「只今、郵便箱にこの手紙がはいつて居りましたので……」
 私はすぐ手近にいたのでその盆の上に二通の封筒がのつているのに気がついた。
 表には、林田英三殿、今一通には藤枝真太郎殿と書いてある。
 藤枝と林田とは各自その封筒をとつたが、裏返すと二人は、はつとしたように顔を見合わせた。
 まぎれもなくその封印の所には赤い三角形のしるしがつけてある。
 字は相変らず邦文タイプライターで藤枝の手によつてあけられた封書にはこんな事が書いてあつた。
 ダイ一カイノヒゲキハ、スデニオコナワレタリ。ナンジダイ二カイノヒゲキニソナエヨ。
 藤枝が声を出してよむと、林田も亦よんだが文章は二通共全然同じであつた。
「ふん、こりや郵送されたものじやないね」
「うん、番地もなし、切手もなしだ。郵便箱にこのまま投げ込んで行つたものと見える」
 恐るべき殺人鬼はこの二人の巨人に対してまた挑戦しているのである。
「人を殺すなら黙つてやりやいいんだ。何もこんな広告をする必要はない。馬鹿なまねをしやがる」
 藤枝はこういうと私の方を見てにやりと笑いながらその封書をポケットに入れた。

      2

 藤枝と林田とは向いあつてしきりと話し出したが、殆どそれは大切な事柄ではなかつた。
 私はいつも不思議に思うのであるが、よく方々の警察署が功名争いをして、肝心の犯人を取り逃がすなどということがある。彼らが一致さえすれば必ず犯人を捕えただろうというようなことを屡々耳にする。
 それと同じことでこの二人の探偵が互に相談し合い、助け合つたならきつと今度の犯人も捕まるだろうに、と思われるのだが、残念にもそんな気もちは藤枝にも林田にもないように見えた。
 二人とも表は平和に見えるけれども、きつと心の中ではしのぎを削つているのだろう。二人は腹の探りあいをしている、しかもおたがいに、カマをかけて見たところで相手がうかうかと考えていることをしやべるような人でないことを知つているので、決してそんなまねはしない。ただ態のいい世間話をしているのだが、かたわらから見ていると、何となく重苦しい気もちで決して愉快な対面とは云いかねるのである。
 しかしこの空気はたちまちにしてここの主人によつて破られた。
 青い顔に、つるし上つたような目つきで、興奮して駿三が飛び込んで来た。
「林田先生、藤枝先生、こんな手紙が今郵便箱から出て来たのです」
 狼狽しきつた彼の手には、今しがた二人の所に来たと同じような封筒が握られている。
「第一の悲劇は既に行われたり。汝第二の悲劇に備えよ、ですか」
 藤枝が落ち着いてきいた。
「え? 先生! どうしてそれを」
「何、今私の所へもきたんですよ」
「切手をはらずに届いて来たんですね」
 今度は林田がこれもきわめておちついて訊ねた。
「そ、そうです。そうです。他の郵便物の中にまじつて来たのです」
 駿三は林田にその手紙を渡しながらそう云つた。
「如何でしよう。指紋を調べてもらつたら……」
 彼は二人に向つて嘆願するように云つた。
「さあ、こんなことをする奴が、指紋を残すようなへまをやりますかね……顕出すればあなたの指紋か笹田君の指紋が出て来るのが落ちじやないですかな」
 藤枝はこう云いながら急に私をうながして立ち上つた。
「御主人と林田君とのお話もあるだろうし、僕も帰つてする仕事もあるからこれで失礼しようじやないか」
 まあいいではありませんか、という主人と林田にいとまをつげて藤枝と私は玄関まで出て来た。
 林田は応接間に残り、主人が一人送りに出て来た。
 靴をはきながら、ふと何か思い出したように彼は駿三に云つた。
「秋川さん、今まであなたの所に来た同じような封筒をあなたは一体どうしてしまつたんです?」
 この不意打の質問に駿三は口をあいたまま驚いて暫しは何も云えないようだつた。
「秋川さん、もし残してあるのだつたら、よく今日のと見比べて下さい。紙質がちがつているかどうかという事を。それからタイプライター[#「タイプライター」は底本では「タイプライラー」]というものは、手で書くと同じように機械によつて個々必ず癖があるものですからそれも見比べておいて下さい」
 驚いている主人の前に彼はかるくあいさつをした。
「それからもう一つ。従来は必ず郵送されて来たのでしようね。切手のはつてなかつたのは今日がはじめてでしよう」
 この質問に、駿三は思わず首をたてにふつたのである。

      3

 門の外に出ると藤枝は暫くふり返つて、秋川家の建物をながめていたが、やがてぶらぶらと歩き出した。そうしてケースから一本エーアシップを出してライターで火をつけながら、うまそうに一服すいこんだ。
「どうだい、馬鹿馬鹿しいと思わないかい。人を殺すなら黙つて殺しやいいじやないか。相手を苦しめるつもりなら相手に脅迫状を送るのも意味はあるが、僕だの林田にこんな手紙をよこすというのはちよつと気狂いじみちやいないかね」
 彼はこう云いながら例の封筒を入れたポケットを外から叩いた。
「まるで探偵小説じやないか。しかし、こういう事をかりに犯人がやつているとすると、今度の犯罪はこの点にたしか一つの特徴があると云えるよ。よくおぼえておいてくれ給えね」
 ちようどこの時、空車という札をかけた自動車が通りかかつたので、藤枝はすばやくそれをとめて、二人は車中の人となつた。私も一緒にこれから彼のオフィスに行くつもりなのである。
 車が牛込と麹町の二つの高台の間になる外濠の所に来るまで、彼はだまり込んで煙をふきつづけだつたが、ふと口をきつた。
「さつきひろ子が、ヴァン・ダインの小説をよんでいたと云つたのをきいたろう。君はあれについてどう思うね」
「さ、どう思うつて。君があの時検事に云つた通りさ。このごろのお嬢さんが探偵小説を読んでいたからつて僕は少しも不思議だとは思わないよ」
「うん、そりやそうさ。しかしね。あの『グリーン殺人事件』という特別の名が君に何かを暗示しなかつたかい。少くとも僕らが知つている所では、あの人は、秋川一家に、――殊に父親に何か危険が来はしまいか、と恐れていたのだぜ。しかもその結果思い余つて僕の処にきのう来た人だよ。しかも更に僕の処で、おかしな手紙を受け取つて青くなつて帰つて行つた人だぜ。その人が昨夜、あんな本をよんでいた、という事実はどうだろう。君は一体どう思う?」
「うん、成程そう云われりやおかしな話だね。あんな小説をよんでいる余裕はなさそうに思われる。でも僕はあの人がいいかげんなことを云つていたとは思いたくないな」
 私は知らず知らず美しいひろ子を信じる気になつていた。
「いや、僕のいうのはそういう意味ではない。出たらめだと云うのじやないよ。ほんとだとするんだ。ほんとだとするとどういうことになるだろう。今日行つたあの家のお嬢さんが、惨劇の直前に『グリーン殺人事件』をよんでいたという事実……面白いじやないか」
 私はこの時はじめて「グリーン殺人事件」の内容と、今の状態を思い合わせて、車の中でおもわずぞつとしたのである。
「小川君、僕の記憶がまちがつていないとすれば、あの小説はグリーンという一家族の者が、不思議な方法で次から次へと一人ずつ殺されて行く話だつたね。フィロ・ヴァンスという探偵が活躍するが惨劇を防ぐことが出来ない。グリーン一家の主人は死んで後家さんが残つている。これは病人で老婆だ。三人の娘と二人の息子がいる。皆はたち以上の人達だ。最初、長女のジュリアが殺され、それから末の娘のアダというのが殺されかかつてこれは助かる。四日程たつて長男のチェスターが何者かに殺される。二十日たつてから次男のレックスがまた殺されてしまう。それから終りに母とまた末の娘が毒殺されるが、娘の方はまた助かる。とこういう話だつたね。そうしてその話で、結局犯人は……」
 彼はこう云つて私をじつと見つめた。
「犯人は」
 私は思わずつづけた。
「犯人はその末の娘だつた筈だつたね」

      4

「では君は秋川一家にやはりそんな不祥事が起ると云うのかい。丁度小説にあるグリーン家のように」
 私はむきになつてきいた。
「うん、ないとは云えないね。現実が小説の真似をするということは絶対にあり得ないとは断言出来ないよ」
 藤枝はいやに落ち着いて煙草をふかしている。
「それで、結局、犯人は家庭内の、無邪気に見える娘だというわけかな」
「小川君、僕はそこまで事実が小説のまねをするとは必ずしも信じないよ。仮りにこの事実を探偵小説だとして、真犯人があの家の娘の誰かだとすれば、作者は余程腕がないと云わなけりやならない。それじやまるでヴァン・ダインの小説の通りだからな。……もつとも作者はわざと読者の裏をかいてそんな所に犯人を定めるかも知れないが……ともかくわれわれは小説中の人間ではないからね。しかし、くり返して云うが、ひろ子が昨夜、ヴァン・ダインのあの小説を読んでいたという事実は、今度の事件のうちで非常に重大な意味をもつていると君は思わないかね」
「とはどういう意味だい」
 けれど藤枝はこの問には答えずそのまま黙りこんでしまつた。
 車はいつの間にか麹町区を通りぬけて、人通りの多い銀座の通り近くを走つている。
 私は藤枝の言葉をいろいろに考えて見た。
 成程、今藤枝の云つた通り、脅迫されて青くなつているひろ子が、昨夜、あの恐ろしい探偵小説を読んでいたということは、ほんととすれば――いやたしかにほんとに違いない、あの美しいひろ子が何でうそなどいうものか――余程不思議な事実である。
 彼女は悠々とあの小説によみ耽つていたのであろうか。それとも何か他に目的があつて読んでいたのだろうか。
 しかし私にはその目的が全く判らなかつた。
 私がこんなことを考えているうちに、車は早くも藤枝のオフィスの前に止つた。
 オフィスにはいると、彼は先ず机の上に積まれてある手紙に目を通したがやがてその中の一通をとり出した。
「おい君、また妙な手紙が来ているぜ。三角印だよ。少々しつこすぎるじやないか」
 彼はこう云つてその内容を私に示した。
 文句は相変らず邦文タイプライターで、この手紙はちやんと切手がはつてあつて郵送されている。消印は麹町区。内容は、
「五月一日を警戒せよ」
 という九字であつた。
 私は藤枝の少しもあわてない態度に実はひそかに感心したのである。藤枝ばかりではない、さつき秋川邸でこの種の手紙を受け取つた際の、林田探偵も少しも顔色をかえなかつた。
 さすがに二人とも名探偵といわれるだけあると思つた。
 藤枝は、おもむろにポケットからさつき受け取つた手紙を取り出した。それから、昨日ここでひろ子宛に来たあの手紙をも取り出した。
 彼はこの三つを机の上に並べながら仔細に見比べていたが、やがて拡大鏡を取り出してレンズを通してしばらく見ていた。
 約十分間彼は何も云わずに見ていたが、何も云わずに傍の重要書類を入れてある箱の中にこれをしまつた。
「ねえ、五月一日とはよかつたな、メーデーだね。馬鹿な事をするねえ。犯人というものは時々こんなことをするものだよ。これが彼、もしくは彼女の手落ちにならないことを僕は望むよ……あはははは」
 彼はこういうと、ふと机に向つて、紙をおいてしばらく何かしきりと書き込みはじめたのであつた。

      5

 私は実は気が気でなかつたのである。
 警察も無論活動を開始しているであろう。
 林田探偵もあの秋川家にふみとどまつて、その神の如き鋭い頭を働かしているであろう。
 だのにわが藤枝真太郎はこのオフィスで、一向あわてる様もなく何か悠々と机に向つて書いているではないか。
「おい君、いやに落ち着いているじやないか。そんな事をしていていいのかい。活動しないでも」
 私はたまりかねてとうとうこう云い出した。
「活動? 何をあてに君、動くつもりなんだい。僕らはあるふしぎな事実を知つている。然しはつきりした事実を少しも知らない。それを知らずに君どうして動けるものかね。まず充分ここを働かしてからにしようぜ」
 彼はこう云つて自分の額を指でさした。
「ねえ、僕は念の為に今までの事実をノートに記して見たのだ。これから君と二人でこの事実を考えて見ようじやないか」
 おもむろに机の上から数葉のペーパーを手にとると、彼はその中から一枚のペーパーを取り出して私の前に腰かけるとおちついて語りはじめた。
「僕は今までの事件を二つにわけて見た。つまり大体の事実と、秋川一家の人々の供述とだ。まずはじめに、惨劇までという項目から事実をぬき出して見よう」
 こういうと彼は、側においてあつた、とつておきのスリーキャッスルを一本つまみ上げ、ダンヒルライターを巧みに用いてそれに火をつけた。
「われわれは秋川駿三という人物の存在を知つている。この人の現在は興信録にある通りだ。三人の娘と一人の息子があり、宏壮な邸宅を山の手にもつている。信用録その他で見ると彼の資産は約八十万と云われ、それが不動産でなく大抵現金と有価証券とから成つていると云うから大したものだよ。ただ大切な事は、彼が一代にしてその富を成した、という事をわれわれは知つているが、如何にしてその巨富を作つたかということについては残念ながら僕らは今の所まつたく無智だ。この点をまず第一に心にとめておく必要がある。ところで彼は今まであまたの会社に関係していたが、昨年の十一月頃に急に全く社会から関係を絶つてしまつたのである。ひろ子の云つた通り四十五という男盛りでこれは少くとも通常の出来事ではない、と云わなければならん。
 その隠退の表面の理由は極度の神経衰弱だけれども、誰もその原因を知ることが出来ない。これが又重要な点なのだ。長女ひろ子の説によると、彼は何か自分のいのちの危険をおそれているらしい。いいかえれば彼のいのちをおびやかす人間がこの世にいるか又はいると彼は少くも信じているのだ。
 その具体的なシンボルは例の赤三角の封筒だよ。八月に一回、十月に一回、彼の所に脅迫状が来たことはたしかだ。しかしわれわれはまだこの他にも来たかも知れないと思うことができる。
 そこで又ここに注意すべきは、駿三はこの手紙を誰にも――警察は勿論家族のものにも一切見せなかつたということだ。家族に見せないというのは一応常識で判るけれども、全然当局に示さぬというのはどういうわけだろう。しかして、その上にだ。彼はその手紙をどこへどう始末してしまつたか全然われわれは知ることはできない」
「ねえ、藤枝、秋川氏は誰にもこの話をしなかつただろうかね」
「そう思われるね。ただたつた一人、林田英三君にはいつかしやべつたかも知れぬよ。彼中々信用を博しているから。しかし彼に話をしたにせよ、わりに近くのことだと思うね。さてそこで又々注意すべきは、昨年の十月になつてから次女さだ子の所にもへんな手紙が来たという事実だよ。

      6

「君は、さだ子がその赤三角の手紙を父にもつて行つた時の父の慌て方をひろ子からきいたろう。そこで又一つ考えなければならぬことがおこつた。すなわち、われわれは不幸にして父の所に来た脅迫状の内容を知ることができないが、一体その脅迫状は、駿三のいのちをおびやかしているのか、又その家族にも危害を加えると云つているのかという問題だ。駿三のあわて方から考えると、たしかに後者だと見なければならない。更にここで今一つ君に注意を喚起したいのはこれらの手紙は全部郵送されて来たということだよ。
 次にもう一つ不思議なことがおこつている。
 それははじめて気味の悪い手紙を受け取つた当人のさだ子がこれを姉には云つたけれど、母には云わなかつたという事実だ。君はひろ子が、この点について、確信を以て、さだ子は母にいわなかつたろうと思うといつたことをおぼえているだろうね。父が誰にもいうなといつたからいわなかつたといえばそれまでだがね、ちよつとふしぎじやないかな」
「しかし姉ひろ子には、はつきり話したらしいね」
「それはあの場合、どうしても話さなければならなかつた状況にあるからさ。それに或いは姉には話しても母にはいわぬという理由があつたかも知れない。これはしかし僕には大分判つて来たよ」
「そうかな」
「つまり秋川一家では昨年の夏から年の末まで主人がおどかされ通しで、それを知つていたのはひろ子一人、そうして、そのまま今年にもち越して来たという事になる。ところで昨年の末から昨日までのようすは生憎、君も知つている通り、ひろ子からきく事が出来なかつたが、察する所、段々その脅迫の度合がひどくなつて来たと考えればいいのだろう。
 つまり、ひろ子がたまりかねて僕の処にとび込んで来た、と見ればいいわけさ。
 以上が惨劇までの秋川一家のようすだが君は一体これをどう思うね」
「そうだね。まあ常識で考えて判ることは主人の過去に何か恐ろしい秘密があると思うよりほかに仕方があるまい」
「そうさ。秘密というより或いは犯罪かも知れないよ」
 彼はスリーキャッスルの煙をゆらゆらと上げながら云つた。
「さて、そこでいよいよ昨日の事件にうつるのだ。ひろ子がここに来ていたことは、たしかに犯人、少くともあのへんな手紙の発信者には判つていたと見える。彼は少くとも犯罪の予告をしている。
 徳子が頭痛がするといい出した。さだ子が自分の薬をのまそうと発議した。そこで佐田やす子に云つて薬局にいいつけて薬を作らせた。次いでやす子がこれをとりに行き、すぐ受け取つて、誰にも会わず家に戻つた。薬局を調べて見るとたしかに間違いはない、これは高橋警部が二回も調べ、医者も立ち会つたから大丈夫だろう。そこで封印のしてあるまま、さだ子がこれを保管して夜、母にのませたのだ。しかるにそれがいつのまにか毒薬に変じて母がその場で死んだということになつている、君は一体これをどう考えるね」
「どうつて、何をさ」
「われわれの常識では、アンチピリンが昇汞に急に変化するとは考えられない、甘汞か何かなら又別の考えようもあるがね。とすると誰かが、薬局の封印のまま中味をすりかえたと見なければならぬ。その手品をやつた奴がまず犯人だという事になるね。無論、たしかな事はあしたの解剖の結果を待たねばならないが、徳子が昇汞で死んだということはまちがいないらしい」
 私はこの時ふとある疑問を心に浮べた。

      7

「そうすると、一体犯人は誰を殺すつもりだつたのだろう」
 私は思わずこうきいた。
「さあ、そこだよ。犯人は一体徳子を殺すつもりだつたのだろうか、それとも他の人をやつつける気だつたのか、ということは確かに考えて見る必要があるよ。君もきいていた通り、検事はその辺を調べていた。西郷薬局では、あの薬はさだ子がのむと思つていたという。これはごく自然な話なのだ。そこで問題はこういうことになる。風邪薬が、西郷薬局から秋川邸に来るまでに昇汞に変じたか、あるいは秋川邸に来てから後、昇汞に変じたかということだ。もし、秋川邸に来るまでに代つたとすれば、犯人は一応さだ子のいのちを狙つたものとしなけりやならない。秋川邸へ来てから代つたものとしてもそう考えられぬことはない。
 しかしだ。若し秋川邸の中の誰かが、徳子がのむことを知つていたとすると別な考え方をしなけりやならなくなるわけさ」
「けれど、二人のうちどつちでもかまわぬという犯人があるかも知れないね」
「おや小川、君は中々うまいことを云うね。僕もその考えはもつているんだよ。もしここにある人間がいて秋川駿三を苦しめようとすれば、その妻を殺しても又は娘を殺してもいいというわけになるからな。だから、結局こういうことになるんだ。犯人は、秋川家の家族の中誰でもいいから殺そうとしたか、あるいは妻を特に狙つたか、又は娘を狙つたかだよ」
 藤枝は自分のふかすシガレットから上る煙をじつと見ていたが、ふとまた真面目な顔をしてつづけた。
「ただ一つ今度の事件で重要なところがある。それは、今度の殺人は一見全く偶然のチャンスに乗じたということだ。ねえ君、徳子が頭痛がするということは前からきまつていたわけではない。いわんやさだ子が自分の薬をすすめるということは決してその必然的の結果ではない。全くの思いつきだ。とすれば犯人はこのごく僅かな事件と時間を有効に利用したということになるのだ。
 しかして一方、八月頃からの脅迫状のことを考えて見給え。あれだけのことをする奴は余程冷静に計画していたと思わなけりやならんよ。君はこの二つの事実をよく考えて見る必要があると思うね」
「しかし、遠大な計画をたてていた犯罪人は常に秋川一家のようすを注意していたと思わなけりやならない。だから彼はその偶然のチャンスを決して見逃さなかつたのだろう」
「うん、それもたしかに一つの考えだ」
 藤枝はこういつたが、更にまたつづけた。
「ここで特に君の御注意を乞いたいのはその偶然のチャンスが家庭内の極めて家庭的のものだという点だよ。そうでない場合、たとえばさだ子がドライヴに出て自動車のアクシデントに出会つたとか、徳子が芝居見物の帰途を要されておそわれたとかいうのとは全く違つて、母が娘に家の中で、頭が痛いと云い、娘が又それに対して薬をのめと云つたということだ。このチャンスを利用出来るものは……」
 彼はここまでしやべるとふと口をつぐんで私を見た。
 何とも云えない戦慄が私の全身をおそつた。
「ねえ君、これを利用出来るものはどういう種類の人達だろう」
「うん」
 私はおもわず唸らざるを得なかつた。
「じやあ、やつぱり犯人は家庭内の人、すなわち家族か雇人だということになるのか」
「そうなりやいよいよおあつらえ通り『グリーン家の殺人事件』になるわけだね」
 彼はこういうと立ち上つて私の肩に手をおきながらささやいた。
「しかしね小川。そう断ずる為にはわれわれはある一つの勝手な仮定を前提としてしまつていることを忘れてはいけないぜ」

      8

 彼はそういうと立つてまた机の所に行き、別な紙片をとつて私の前に腰かけた。
「ところで昨夜の事件だが、これに又いろいろ妙な所がある。秋川一家の人達の様子なのだが、君は気がついたろうが、なんとなく僕はあの家庭が気にいらないね。又『グリーン家の事件』の話になるが、あの小説では探偵がグリーン家にはいるとすぐなんとなく冷たい感じがしたということになつている。我が秋川一家はまさかそうではない。これはつまり小説と事実との相違だけれども、しかし秋川家も何か起りそうな感じの家庭だよ。
 次女さだ子に婚約者があつて長女ひろ子にそれがないというのは必ずしも異例とは云えないけれ共、さだ子の婚約者たる伊達という男ね。一体あの男と秋川家との関係を君はどう思う? 次に最も注目すべきは、結婚と共にさだ子に秋川家の財産の三分の一がゆく、すなわち、名義はさだ子のものでも常識では伊達という家にこの財産がゆくという事実だ。僕の知つている所では、秋川駿三には四人の子がある。その次女に全財産の三分の一がゆくんだぜ。しかして之は主人駿三の意見であつて、夫人徳子はこれに烈しく反対した。結局伊達をよんで婚約すら取り消させようとしたのだ。この点は非常に重大だよ。これから察すると秋川家では、さだ子の結婚問題に関して、主人と妻が全く反対の立場に立つて今日まで来たらしい。しかして長女ひろ子は」
「ひろ子はどう思つていたのだろう」
「さつきの彼女の供述ぶりによつて君には察しがついたろう、彼女が父母いずれの意見に賛成なのかということは」
 私は藤枝からこう云われて多少思い当る節があつたのである。
「ねえ君、話がちよつとそれるが、君はさだ子の顔について気のついた事はなかつたかね。またはひろ子と初江の顔について」
「さあ」
 私は一言こういうより外はなかつた。さきにもちよつと記した通り私がはじめて彼女を見た時ひろ子と初江がよく似ているということはすぐ気がついた。しかしさだ子はどこか父におもざしが似ていると感じたきりで別にそれ以上考えようはないのである。
「さてそれから彼等の供述だ。一体あの人たちのいう事はどこまで真実か判らぬところがあるが、一応ずつと思い出して見よう。あの夫婦が別室にねるのは不思議ではない。ただ問題は、夫婦の寝室の間にある戸に、妻の部屋の方から鍵がかかつていたというところだ。これは少くとも我国の習慣では異例と云わなければならないね。検事のあの時の一言に対して駿三が答えた所は、必ずしもこの異例の合理的な説明にはならん。何故秋川徳子は、内側から凡ての戸に鍵をかけていたかが、忘れてはならぬ一点だよ。次にまた注意すべき点が出て来た。
「通常われわれの家で夜半よなかに急にさわぎがおこれば、まず泥棒がはいつたか、火事か、もしくは急病人ができたと思うだろう。ところが今日の人々は一人も火事だとか泥棒だとかは考えていなかつたようだ。駿三はいきなり、『誰だ、誰がやられた?』と云つてとび出して来た。これはさだ子が云つている。それからひろ子はひろ子ですぐ『母がどうかしたな』と感じている。そしてこれらの事実に更に、さだ子のあの取調べの時のヒステリカルな様子をくつつけて考えて見たまえ。彼女はふいに『私が母を殺すなんて、そんなこと露ほどだつて考えたことはありません』と叫んだぜ。
「最後に最も大切な点を考えよう。すなわち徳子の臨終の一言さだ子にという言葉だ。そしてこれに対するひろ子の解決の仕方だよ。ただし、この点に関して、ひろ子が全く嘘を云つたと思うこともできるがね」

      9

「まさか!」
 私は思わずこう云つてしまつた。まさかあのやさしい、ひろ子がそんな嘘をつくとは思われぬ。
「小川、相変らず君は美人を見るとすぐ信用してしまうんだね。困つた人だよ君は。美人に好意をもつのは君の自由だが、凡てを信じてはたまらないぜ。美人はよく嘘を云うものだよ。いや、もつとはつきり云えば美しい女性ほど平気でいい加減なことをしやべるもんだよ」
「だつて」
「だつても何もない。美人がひどい嘘をつく例はいくらも世の中にある。犯罪事件に関してもたくさんあるよ。君はあの有名なコンスタンス・ケントという女の殺人犯人の実話を知つているだろう。更に、マドレーヌ・スミスという美人に至つては、夫を毒殺しておいて、まるで天使のような顔付を法廷で保つていた。おかげで陪審員もすつかりだまされて無罪という判決が下つたじやないか。僕が検事をしていた時にも、十八才の虫も殺さぬような美人が情夫をうちへ引き入れている所を家人に発見されて、あべこべに情夫を泥棒だと云つて訴えて来た事件があつたよ。
「しかし僕はひろ子が嘘を云つたと断言するのではない。この点は安心したまえ。ただ彼女はいくらでも母の最期の一言を創作することが出来た筈だ、というのだ。考えて見給え。昨夜徳子の部屋にとび込んだのは、駿三とひろ子とさだ子の三人きりだぜ。そうして徳子の口に耳をよせたのはひろ子一人だ。他の二人は徳子が何を云つたか全く知らぬ状態にある。一方徳子はすぐ死んでしまつた。とすればだ、ひろ子がこの世の中で母の言葉を伝え得るたつた一人の人間ということになる。さだ子にと云つたかどうか果して誰が証明するか。しかしてさだ子にと仮りに徳子が云つたとしても、どうしてその一言を、直ちに毒を呑まされた、と解釈出来る?」
「じや、ひろ子はさだ子を疑つているのではないかね」
「そうさ。それはたしかに一つの見方だよ。けれど、そうとすれば何故ひろ子はさだ子を怪しんでいるのだろう。怪しむには相当の理由がなければならない」
「犯罪が行われた場合、まずその犯罪によつて利益を受ける人間を疑え、という諺があるよ」
「おや、君は中々いいことを知つているね」
 藤枝はわざと感心したようにこういつて、ポンと煙草の灰を皿に落しながら、すぐまたこんな皮肉をいい出した。
「しかしだね。だから同時にその利益を受ける者を疑つている者は、余計な嘘を云いやすいということも考えなければならない。ひろ子はさだ子を疑つている。こいつは事によるとさだ子が母をどうかしたのじやないかと思つた。そこで一刻も早くさだ子に嫌疑をかけさせるように供述を仕組んだかも知れないよ」
 私は、ひろ子のようなやさしい人を、どうして藤枝がこうあつさり片づけるのか、むしろ反感をもたざるを得なくなつたが、彼はこんな事を云い出したら決してその説を曲げない男であるのを知つている。私は今度は何も云わなかつた。
「母が死ぬことによつて利益を受ける人が少くとも二人はある。すなわちさだ子と伊達だ。反対者がなくなつた以上三分の一の財産がもらえることになるからね。そこでさだ子を犯人として見るさ。君がひろ子の肩をもつ理由はよく判つたが、するとさだ子は君のお気に召さないと見えるね。僕にはさだ子もたしかに美人だと思われるがな。あれが親殺しをする人と見えるかい」
 今度は逆に彼が攻めて来た。成程、さだ子がおそろしいそんな犯罪を行おうとはこれもちよつと考えられぬのである。

   誰を疑う

      1

 藤枝はへんな微笑を唇に浮べて私をじつと見つめている。私の心の中で突然ある考えがひらめいた。
 では、藤枝はあの伊達正男という男を疑つているのではないか。
 彼は、黙つている私をながめて、また煙を吐きながら語り出した。
「ところで、一体駿三はあれ程までに脅かされていたのに、どうして警察に云わなかつたか。これは今も云つた通り、余程重大なことだが更に今日でも全くあれをかくしているのはどういうわけだろう。すなわち既に自分の家で殺人事件が行われてしまつたのだ。それだのにまだはつきりしたことを述べない。
「次にさだ子とひろ子の供述の矛盾をはつきりおぼえていてくれ給えよ。さだ子は、夜、ずつと自分の部屋にいて誰も自分以外にははいつて来なかつた、とはつきり云つている。一方ひろ子の言に従えば、明らかに伊達がさだ子の部屋にいたということになる。云いかえれば伊達は少くともさだ子のひき出しから薬を出し得るチャンスをもつていた。ただし封をそつとあけて中味をすりかえ得たかどうかこれは一応考える必要がある。
「この事実に関しては、本人の伊達があの時さだ子の室にいたと云つているから、さだ子の供述は嘘だと思わなければならない。
「そうするとここにまた一つはつきりしておかなければならないことがあるよ。というのは、ひろ子とさだ子はきようだいであり、伊達もあの家族の一人と見ていい状態にある。事件が起つた直後に一人一人取り調べられれば別として、徳子が死んでから数時間経つている際、一人一人調べられてもそれまでにあの連中はどうでも口を合わしておけた筈なのだ。奥山検事もそれを見越していたからああいう訊問法をとつたのだろうと思うのだ。然るにあの有様だ。これはどう考えるべきだろう」
「うん、ひろ子とさだ子とは仲がよくないらしいんだね。少くともひろ子と伊達とが妥協をしなかつたんだろう」
「そうだ。しかしだね。さだ子と伊達とは婚約者だから、何とでも云えるだろうじやないか。それなのに、さだ子は誰も部屋にいなかつた、すなわち伊達が自分の部屋にいなかつた、と云つているのに伊達は平気でそれを話しているぜ」
「成程」
 私はちよつとよい説明が浮ばぬままにこう云つてしまつた。
「ありや君ね。さだ子が伊達をかばおうとしたのじやないか、小川、君はどう思う?」
「だつてそれじや肝心の本人が平気でしやべつているのはおかしいじやないか」
「それだよ。さだ子にはああやつてかばう必要が何か感じられたのだ。それだからはつきりとあんな嘘を云つたのさ」
「じや伊達は?」
「伊達はだね。全然嫌疑などかかるとは自分でも全く考えていないか、でなければあの際、ああわざと正直に云つた方が利益とくだと思つたのだろう……ところで、最後に佐田やす子という女の供述だが、これは全く簡単にして要を得ている。あれが絶対にまちがいのない事実だとすりや、犯人はどうしても秋川一家の人々の一人、もしくは数名だということになる。だからあの女のいうことはもう一度はつきりたしかめる必要があるよ」
 彼はシガレットのすいがらを灰皿にポンと投げ込んだが、やがて腕をくんでこう云つた。
「たつた一つ確かなことがある。それは例の脅迫状だがね。あれを送つた奴は、二個のタイプライターを使用している。そうして不思議な事には郵送された分と、直接送られた分とがはつきりタイプライターが別になつている。仮りに郵送の部をAというタイプライターでたたいたとすると、直接の方は全部Bという機械で打つているよ」

      2

 藤枝はこう云うと、くるりと立ち上つて机の前に行つたが、それから何か考えこんでしまつたと見え私に背を向けたまま、一言も発せず、しきりとまた煙草をすいつづけはじめた。
 私はこんな時、また彼の頭を乱してはいけぬと思い、そつと彼の事務所を出かけ、銀座通りに出て昨日彼と一緒にお茶をのんだ店に寄つて、紅茶をすすりながらいろいろと事件のようすを考えて見た。
 ここではつきり云つておくが、これは、四月十八日のことである。だから秋川家の惨劇は、四月十七日の夜半よなかに起つたものということになる。
 喫茶店を出て、洋品店のウインドなどをのぞき込みながら約三十分程たつて事務所に戻つて見るといつのまにか秋川ひろ子が、今日も目立たぬなりでやつて来て、藤枝と向い合つて何か話している最中だつた。
 私が挨拶をすますと藤枝が私に話しかけた。
「今ちようどこのお嬢さんが見えたばかりなんだよ。警察の諒解を得て僕の所にやつて来られたんだ。僕もきのうきかなかつた点をききたいところだつたのでちようどよかつた。――じやあひろ子さん、どうかつづけてお話し下さい」
「ほんとに、何から申し上げてよろしいやら、私、昨夜の事で気も顛倒しておりますの。でもこんな事になりはしないかとは、ひそかに考えていたのでございます。きのうも申し上げました通り、脅迫状がまいこんでまいり、父はすべての会社から手をひいてしまつたのですが、その後ますます神経衰弱がひどくなるばかりなのでございます。今年になりましてからは、例の手紙が前より頻繁にまいりますの。従つて父の様子はますます変になるばかりでございました。ところが、今度は、家の中で妙なことが起りはじめたのでございます」
「ほほう」
 藤枝は急に身を乗り出した。
「これはどうもはじめがいつ頃かはつきり致しませぬけれども、今年になりましてから父と母との仲がひどく悪くなつて来たのでございます。いつも余り泣いたりせぬ母が、どうもこのごろヒステリーのようになつてまいりまして、その度が段々はげしくなつて来たのでございます。私もはじめのうちは、どういうわけで父母が争いを致すようになつたのだか判りませんでしたが、ある時、二人の争いをそつときいておりますと、たしかにさだ子と伊達さんの結婚問題が中心なのでございます」
「つまり、あなたがさつき検事に云われたように、財産の問題なのですな」
「はい、だんだんきいておりますと、たしかにそうなのです。三分の一だか四分の一だかそれは私存じませんけれども、ともかく母の方はそんなにやることはない、そんなことには絶対に反対だ、というようです。父は父でどういうわけか、また自分の云い分を決して一歩もひかないのでございます。これはまことに妙なお話なのです。何故つて、父はさきにも申しました通り脅迫状の一件で何事にも恐怖心をもつており、そんな剛情をはる気力もないのに、このことになると、大変な見幕になるのです。母は元来おとなしい女で、今まで父と争つたりしたことはないのですけれど、やはりこの問題にふれると大変むきになつて、ヒステリーをおこしてしまうのでございます」
「たとえばどんな調子なのです?」
「ある時母が云つた言葉は、『あんなどこの馬の骨だかわからないものにそんなにやるなんて……』というような事がありました」
「どこの馬の骨? すると伊達のことをさされたのでしようね」
「ところが先生、すぐそのあとから『相手の男だつてどこの者だか判りやしない』という言葉が母の口をついて出たのでございます」

      3

 藤枝は左右の手の甲を交る交るこすりはじめた。これは彼が非常な興味をもつてあるものを観察するか、何事かをきいている時にきまつて出る癖である。
「ほほう、そりやちと妙ですな」
「あの……でも私、それからいろいろ考えますと、何だかこんな気が致しますの、あのさだ子というのは実はまつたく他人で、私の実の妹ではないのじやないかしら、と……」
「然し、さだ子さんはたしかにお父様の子のように思われますがね」
 藤枝はこの言葉を充分確信あるもののように云い放つた。
「父の子? では母の子ではないとおつしやるのですか」
「そこですよ。あなたが今まで云われた点から、もしさだ子さんの素性を疑い得るとすればですね、そこを疑い得るということです」
「まつたくそうなのでございます。私もこのごろになつてさだ子は私の妹ではない、少くとも母の子ではない、ということを信ずるようになつたのでございます。それで母があんなに父に反対しているのだと考えられるのでございます。一体今までこんなことを少しも思わなかつたのは、母が少しもさだ子に冷淡でなかつたからでございますの。今年になつて例の結婚の話と、それに絡む財産の問題が起りますまでは、一回だつてそんな様子を見せたことはございません。さだ子だつて勿論まつたくほんとの子だと思つているようでございます。それがこのごろ母とさだ子とがまつたく仲が悪くなつてしまいました、母はヒステリーのようになりますと、私の前などでもさだ子の事をひどく悪く云うようになりました。さだ子の方では明らかに母のことを悪くは申しませんでしたが、でも心の中では何と思つておりますか……先日などは、母が何か父と激論をまじえた揚句、私の所にまいり、
『このまま行つたら私はきつと殺されてしまうよ。お父さんかさだ子か伊達に!』
 と申してしきりと泣きはじめたのでございます。私は驚いてそのわけをたずねましたが、決して申しません。父に対していろいろききましても一ことも申さないのでございます」
「ちよつとおたずねしますがね、最近になつてもお父さんは例の恐怖の様子を盛んに表わしておられたのでしようね」
「はい」
「すると、お母さんの方はどうですか、今の、殺されるかも知れぬなどと云うのは無論一時の発作での言葉でしようが、多少やはり恐怖心でも、もたれていたでしようか」
「平生はさほどでもございませんでした。けれど夜などは大変神経質になつていたようでございます。妙な話ですが、昨夜あの騒ぎの時気がつきましたのですが、母の部屋から父の寝室に通つている戸がなかから鍵がかけてございましたので父は表の戸をこわしてとびこんだのですけれど、こんなことから考えますと、きつと母は父に対して恐怖と憎念とを抱いていたのではないでしようか」
「もう一つおたずねします。お父さんの例の恐怖はただ自分のいのちだけのように思いましたか。それともあなた方にもしきりと警戒するように云われましたか」
「それはこの前申し上げた時と同じく、このごろになつてからますます盛んに云うようになりました。私ら子供に対してもまた母に対しても、しきりに気をつけるように申しておりました」
「成程……すると、今までの話では、お母さんがお父さんを憎みはじめた。それからあなたがさだ子さんの素性を疑りはじめたということになるのですね。もつともさだ子さんの方のことは単にあなたの疑いにすぎぬが……」
「いえ、ただ私の疑いばかりではございませぬ。とうとう母がそれについて私に申しましたのです」

      4

「お母さんが?」
「はい、しかも昨夜のことでございます。私は母と伊達さんがどつちも気まずいような顔で話しており、さだ子がまた母と大分長く話していたのを知つておりましたので、さだ子が自分の部屋に戻つた頃を見はからつてそつと母の所に行つて見ました」
「ははあ、そうするとあなたがさつき検事に話されたところと少々違いますね。あなたはさつきはたしかずつと自分の部屋にいたといわれたようでしたが」
「そうでございます。でもほんとのことをあの時申しますと、妹や伊達さんにすぐ嫌疑がかかりそうで気の毒だつたものですから」
「それでお母さんは何と云われたのですか」
 彼は相変らず手をこすつていたがこの時、シガレットを一本とつて口にくわえた。
「母は大変に興奮しておりまして、いろいろ申しましたが、結局、父が余りにさだ子と伊達の結婚について二人の為を思いすぎる。自分は結婚には決して反対ではないが、その条件には絶対に反対だ。お前も極力父に反対してくれ、とこう申すのです。それで私も今までの疑念を晴らすのはこの時と思いましたので、お父さんが二人の為を思いすぎるつて、さだ子も私の妹であなたの子ではありませんか、ときいて見ました」
「うん、そうしたら」
「そうしたら母が急に暫く黙つてしまいましたが、突然私に『お前ほんとにあれを私の子だと思つているのかい?』と青い顔をしてきき返すのです。『そうじやございませんの?』とまた私がきき返しますと、しばらく母は黙つて居りましたが、軈て苦しそうに顔をしかめながら『それについては明日でもゆつくり話してあげる。これには深いわけがあるのだからねえ。どうも頭が割れそうに痛いから今日はもうこの話はやめておくれ』と申しました。それで私も強いてはこれ以上きかなかつたのでございました。私が部屋に帰ろうとする時、『お母様、頭痛ならお薬のんではどう?』と申しますと、母は『ああお薬はとつてあるのだがお前、さだ子がこのあいだのんだ薬を知つているかい』と申すのです『アンチピリンでしよう』と私が云いますと『ではのんでも大丈夫だろうね。何分さだ子にすすめられたものだからね。心配で……』とこう申しました。私はそれで部屋に戻りましたが、私がねる前、お休みなさいを云いに母の部屋にまいりました時はまだ起きておりました。父がまだおきていたからだと思います」
「ところで昨夜母上が死なれたとすると、その秘密はとうとうあなたに知られずにしまつたのですな」
「はい」
「そこでつまりあなたの今の考えをいちごんで云えば、母上の死についてはさだ子さんか伊達か、または両方が怪しいということになるんですね」
「まあ、そう申す事は恐ろしゆうございますけれど、そう思うより外仕方がないかと考えます。もつともこれはごくないないのことで……」
「御もつとも。それで検事には云われなかつたのでしよう。判りました。時にあなたは探偵小説はお好きと見えますね」
 昨夜のヴァン・ダインの小説事件が彼の頭にまだこびりついていると見えてまたしてもこんな質問をしはじめた。
「はい、すきでございますわ。アメリカのものは余り面白くございませんけれど、ヴァン・ダインなどはいいと思います」
「グリーン・マーダー・ケースはどうでした?」
「結構だと存じます。ただ私には途中から犯人が判つてしまいましたので」
「へえ、えらいですね。あれは中々判らないんだが」
「でもあの犯人は、実子ではないのでしよう。一家族の中に他人が一人はいつておりますのですもの」

   第二の惨劇

      1

 藤枝とひろ子はなお一しきり探偵小説の話をしていたが、私には一体何の為に藤枝がこんな会話を特にこんな場合えらんだのかさつぱり判らなかつた。
 暫くしてひろ子がいとまをつげて去ろうとすると、藤枝は、
「これから私が度々お宅に伺いますから、あなた御自身は余りこちらに出かけぬ方がいいと思います。世間がうるさいですからね。なるべくなら今度の事件も新聞などに載らぬ方がいいですから」
 とやさしくさとしていたが私の方を見て云つた。
「君また御苦労だがお送りしてくれないか」
 そこで私はきのうと同様、タクシーをよんでひろ子をその家の門まで送つたが、今日は是非上つて茶でものんで行けと云われるのを断つて、いそいでまた藤枝の事務所に戻つて来た。
「オイ。いよいよグリーン殺人事件になつて来たね」
 私は彼の興味をまたひくために帰るといきなりこう云つて見た。
「うん、似た所もあり、大いに違つてる所もありだよ」
 意外にも彼はこの話題には全く趣味がなくなつたらしく、ものうげにこう云つたのみであつた。
 さきに述べた通り、これが四月十八日の出来事で、この日はこれ以上何も記すべきことはなかつた。
 翌十九日早く大学で死体解剖があり、死因はまさに昇汞をのんだためと判つた。藤枝も林田も大学まで行つたそうだが私は行かず、ちよつと社へ顔を出して後、藤枝と一緒に秋川家を訪問した。警部も林田も来ていたが取調べも余り進んだようすはなかつた。警察でも確たる証拠を握らぬと見え、誰も拘引されたものもなく、表面何事もなく十九日はくれた。この日は、徳子の死を伝え聞いて親戚等が大分集つて来ていたので、さすがの藤枝も林田も充分な取調べはやりにくかつたらしい。
 翌二十日の午後、質素な葬儀がいとなまれた。
 報道機関はさすがに敏活で十八日の夕刊には既に「秋川家の怪事件」とか「秋川夫人の怪死事件」とかいう標題がかかげられたが、諸新聞は一斉に不思議にも翌十九日の夕刊に「秋川徳子の死は過失死」という事を書きたてた。
 これは秋川家の主人が全力をつくして新聞社に手を廻したのかあるいは警察で、犯人捜査の為わざとかやうな報道をさせたのか、または秋川一家と当局者とが巧に新聞社の人々を斯く信ぜしめたのか、私にはよく判らないけれども、ともかく、秋川夫人は十七日の夜頭痛の薬をのむつもりで誤つて駿三の催眠剤を多量に服用し、その結果、不慮の死を招いたものと一般に報ぜられたのである。
 だから世人は、藤枝、林田両探偵がせつかく登場したけれども、実は過失死事件であつたかと、いささか力ぬけの気味があつたようだ。
 もしこのまま秋川家に何事も起らなかつたなら、世人は秋川夫人の怪事件を、あるいはそれきりで忘れてしまつたかも知れぬ。つづいておこつたあの惨劇がなかつたならきつと秋川という家は、殺人鬼という名と共に人の記憶に残るようなことはなかつたろう。
 然るに、第二の悲劇が意外にも同一の家の中におこつた。これは藤枝と林田にはあらかじめ予告のあつたことはすでに読者の知らるる通りだ。しかし世人は無論そんなことを知らない。否私だつてこんな予告を信じていたわけではない。
 しかし悲劇は予告よりもはるかに早くおこつた。五月一日をまたず。四月二十日、すなわち夫人の葬儀の夜、意外な時におもいもかけぬ人が被害者となつた。
 誰が殺されたか。
 読者試みに想像したまえ。

      2

 と云つたからとて、四月二十日まで警察が眠つていたわけでもなく、また藤枝、林田両探偵が手をつかねてぼんやりしていたというわけでは勿論ないのだ。
 よく探偵小説などでは、殺人事件が起ると少しでも怪しいという人間が片つ端から拘引されるように書いてあるものだけれど、いやしくも法治国において、現実に事件が起つた場合、ただ「あいつが怪しい」位で無闇とその人間を引張つたり、ぶちこむわけには行かないこと勿論である。
 それも、一定の住居のない浮浪人とか、一定の職業もなく偽名を用いているというような相手ならば、ただちに警察に引張る手もあるのだけれども、今まで現れた人達は、実業家として堂々たる邸宅を有する紳士及びその家族、並びに召使と、立派に薬剤師として営業している家の主人及びその雇人なので、警察でもそう高飛車に出ることを遠慮していたらしい。
 藤枝、林田両名にすればなお更で、これはしきりに秋川家を訪問はしていたけれども、取込み中とて中々取調べははかどらないようだつた。
 私には藤枝が一体誰を疑つているのかさえ知りようがなかつたのである。
 無駄と知りつつ十九日の夜、藤枝にその見込みをきいた所、彼は苦り切つて答えた。
「全く判らん。あてもつかない。警察のような権力をもつていないのが残念だよ。あいつをもつと厳しくせめなけりや第一方針が立てられん。しかしもう一日待ち給え。明日の、そうだ、夜になればいくらかはつきりするだろう」
 あいつとは誰だろう。
 これは後になつて聞いたことだが、検事は十八日一通り皆を調べた所から、伊達正男、さだ子、佐田やす子の三人に特に目をつけたらしく、その命を受けた高橋警部はこの三人に任意出頭の形をとつて警察に出頭させ、しきりと取り調べたのであつたが、何ら確証を掴まず、ことに佐田やす子にはかなり烈しく当つて見たのだがやはり、これという所が判らず、右に述べた通り、一人の被疑者も拘引されずに二十日となつたのである。
 ただこの時分は新聞で例の過失死事件を報道した為、世人も怪まず、警察及び探偵に対する非難は少しもおこらなかつた。
 さて、さきに云つた通り四月二十日の午後、質素な葬儀が行われた。
 流石に永年実業界に活動した主人の力で大分多数の人々の顔が見えた。藤枝と私は共に式に列したが、やがて式が終ると、家族及び親戚の二、三が棺と共に埋葬についてゆくというので、われわれは一旦帰ることにした。
 林田もやはり帰つたようであつた。
 私は自宅に戻り、窮窟なフロックコートを軽快な背広にかえるとすぐ藤枝の事務所に行つたが、ちようどそれは夕方四時すぎであつた。
「これからまた行つて見よう、いよいよ肝心なところへ来たぜ。しかしまだ家族も帰つていないかも知れないから、暗くなつてから出かけて見ようよ。君は気がついていたろうが、親戚の人々は御義理で来てはいたものの、皆何となく今度の夫人の死を怪しんでいて不気味に思つているようだつたから夜になれば皆帰つてしまうよ。銀座ででもゆつくり飯をたべてちようどいい時分に行つて見ようじやないか」
 二人はそれから暫く銀座で時をつぶして、円タクをつかまえ、秋川邸へと向つたがその時はもう、銀座通りに赤い火、青い火が一杯ついて、ネオンサインの光がいたずらに目を射る頃で、日は全く暮れてしまつて居た。
 秋川邸では家族は全部もううちにもどつていた。
 取次にきくと藤枝の思つた通り親戚は一人残らず帰つてしまつてたつた一人、林田がやはり一足さきに今来たばかりだという事である。
「今日はこつちがおくれたぜ。林田君におくれちやいかん。すぐ捜査開始だ」

      3

 藤枝と私は上つてすぐ右手の例の応接間に通されたが、藤枝は何だかおちつかない様子をしていた。
 われわれに一歩おくれて警部がまたやつて来て応接間にはいつて来た。
 お茶をもつて来た女中に藤枝は一刻も早く主人に会いたい旨を告げたがやがて間もなく駿三が現れた。
 一通りの挨拶がすむとすぐ藤枝がきいた。
「秋川さん、林田君がもう来ているのですつてね」
「はあ、今しがた見えたようで私ちよつとお話ししました」
「で、今は」
「今、あの女中を調べておられます」
 何故か藤枝は不意に立ち上つてドアの把手に手をかけながらきいた。
「女中つて、あの佐田やす子ですか?」
「そうです」
「そうですか。じや僕も行つて見ましよう」
 彼はそういうと私をさしまねいて室を出ようとしたが、それはいかにもあわてた様子だつた。
「いや、藤枝さん、いくら当つても同じでしようぜ。私は昨日も今日も調べたんだが、あいかわらずの供述だ。どうもいつている事に嘘はなさそうです。林田さんだつてやつぱりあれ以上は進みますまい」
 こういつたのは警部だつた。
「ここをずつと行つた右手の部屋におられますよ。御案内しましようか」
 駿三が藤枝のようすに驚いて腰を浮した。
「いや、いいです」
 私が彼につづいて廊下に出ると藤枝は小さな声で、
「うん、やはり林田だけの事はある。僕と同じようにあの女を落そう(自白させる事)としているんだ。先を越されちやいかん。かまわぬから僕にも調べさせてもらおう」
 とささやいた。
 主人の云つた通りに行くと階段の右側に大きな戸がある。藤枝はノックをしながら、
「林田君、藤枝だ。はいつてもいいかね」
 というと中から林田の声で
「うん、いいとも。どうぞ」
 という声がきこえた。
 それに応じて藤枝と私とは部屋にはいつた。
 途端に目にうつつたのは、こちら向きに腰かけている佐田やす子の顔だつたが、相当烈しく林田に問いつめられていたと見え、まつさおになつて目のふちには涙のあとが充分に見える。手にもハンケチがいたましくふるえているのがすぐ判る。
「実に剛情だ。こんな女ははじめてだよ藤枝君、一つ君の腕で充分調べて見給え。何なら僕は遠慮しようか」
「いやいや、君の前できいて見よう」
 こういつて藤枝は佐田やす子に対してわりにおだやかに質問をはじめた。
「どうも君のいう事が判らないんだがね。度々いう通り、あの日まつすぐに西郷へ行つてまつすぐに帰つたのかね」
「はい……只今全部林田先生に申し上げた通りでございます」
「林田先生に云つた通りとは、このあいだ云つた通り少しもまちがいはないと云うのかい」
「はい……」
 彼女の答はこれで終始していた。
 私と林田とを傍において藤枝はしきりといろいろな方面からやす子を問いつめていたが、まつたく高橋警部の云つた通り、さすがの藤枝もおとといの検事の取調べの時から一歩も進む事は出来なかつた。
 林田はこれもやはり警部の云つたように、不成功だつたと見え、苦りきつて女を見つめている。彼には佐田やす子のようすが余程癪にさわつたらしい。

      4

 私は藤枝が、相変らずおだやかな調子でやす子に問を出している間にはじめてこの部屋の中を注意して見廻した。
 此部屋は居間ではなく、まず客間ともいうべきものだろうか、令嬢達の親しい友人等を通す所と見え、われわれがはいつて来たドアからはいると左手の壁にそうてかなり大きなピヤノがおいてあり、右手の壁には立派な西洋画がかけてある。ドアにそうた壁の下の方にはストーヴが冬中おかれてあるものと見え、そこがくりぬいてあるが今は洋風のついたてでかくしてある。そのすぐ上に四尺に三尺位の鏡が壁にはめこんであつた。
 その他部屋の中の道具は皆立派なもので、ほかの部屋の飾りと共に充分富の程度を表わしている。
 われわれがはいつて来たドアと反対の側には三つの大きな窓があつてその向うは広い庭らしいが、もう暗いのでよく判らない。
 庭に面した窓と右手の洋画のかかつている壁と直角に交わつている隅に、立派なヴィクトローラ(蓄音機)が一台おいてある。

 何故私がいそがしい今、こんな煩わしい描写をしたか。読者は充分にこのピヤノの部屋の有様を記憶しておいて頂きたい。後におこつた惨劇を解する上に甚だ大切なことだから。
 さて、藤枝のやす子に対する質問は、もし今までやす子が嘘を云つていたとすれば、一言にしていえば、まつたく不成功であつた。
 彼はやはり高橋警部、林田英三を一歩も追いこすわけにはいかなかつた。
 とうとうあきらめたものか藤枝は林田に向つて、
「僕はもうこの位でいいと思うんだが、もう君はいいかね」
 と云い出した。
「いや、僕もいい。今までやつたんだがやはりよく判らんよ」
「じや、どうも御苦労、もう部屋に戻つてもいいぜ」
 藤枝にこう云われてやす子はやつと安心したやうに椅子をはなれて入口のドアの方へとゆきかけた。
 藤枝と林田はお互いに不成功を慰めあうつもりか、苦笑しつつ顔を見合わせたが藤枝は左手でシガレットケースを出して林田にすすめながら、自分も一本つまんで、右手でライターをパッとつけると林田が口にもつて行つたシガレットに火をつけてやろうとした。
 ちようどその時、庭の方から草笛のような声が聴えて来た。窓があけてあつたので私ははつきりきくことが出来たのだが、別に怪しい音ではない。近所を通る書生か少年がいたずらに木の葉を口にあててふいているとしか思わなかつたのだが私が妙に感じたのは、その時のやす子の顔付だつたのである。
 藤枝と林田の二人はちようどシガレットに火をつけてやり、またつけてもらつている瞬間だつたので、あるいは草笛をきいたかも知らぬがやす子の方は見ていなかつた。
 やす子はその時入口の所でかるく会釈をして室外に出ようとしていたが(偶然かどうか私にはその時よく判らなかつたが)窓越しに遠くから草笛の音がきこえて来るや否や、はつとしたような顔付をした。一言で云えばそれは驚きと恐怖の表情だつた。
 一瞬にして彼女はドアの外へと出て行つてしまつたのである。
 この時のやす子の表情とあの草笛の音とを結びつけて考え得る人間は私一人だつたのだ。
 もし私がすぐその場でこのことを藤枝と林田に告げればあるいはこの直後に起つた惨劇を防ぎ得たかも知れぬ。
 然し事のおこる時は仕方のないものだ。
 この時のやす子の表情をすぐその場で二人にいわなかつたばかりに、私は何度藤枝と林田に怒られたことか。

      5

 やす子が部屋から出て行つてしまうと、藤枝と林田は向きあつてシガレットをふかしていたが暫く何も云わなかつた。
 突然口を切つたのは林田だつた。
「ところで僕は、ここのお嬢さんにもう一度会いたいのだが……君はどうするね」
「うん、僕は主人の所に行つて見る」
「主人は今どこにいるんだい」
「応接間に高橋警部と話しているよ。じや君はお嬢さんに会つて来給え。僕は主人に是非ききたいことがあるから」
 二人は立ち上つて部屋から出ようとした。
 ドアをあけると丁度その外にひろ子と駿太郎とが立つていた。
 私は駿太郎を読者に今まで詳しく紹介する機会をもたなかつたからちよつとここではつきり記しておこう。(十八日に私がこの家に来た時、この少年は家にいなかつた。あとできくと主人は、妻の変死事件を外に知らせたくないのと、学校を休むことはいかんというので、あの日、駿太郎はやはり学校に出ていたのだつた)
 彼は十五歳で、中学の二年生だが、白い豊頬に幾分紅をおびた上品な美少年である。この時はかすりの着物に兵児帯という活溌な姿だつた。
「おや、先生方ここにいらしつたのですか」
「ひろ子さん、あなたは?」
「あの……父の所にまいります。ちよつと用があるので」
「そうですか。そりやちようどいい、僕も今お父様にあいに行く所です。それに、あなたを前においてお父様にききたい事があるんですがよいでしようか」
 こう云つたのは藤枝だつた。
「はい、結構でございますとも。私もそうして頂きたいと思いまして」
 藤枝はひろ子と一緒に応接間の方に行きかかつた。
 すると林田が、
「さだ子さんはどこでしよう」
 とひろ子に訊ねた。
「さあ、私よく存じませんが、多分二階の自分のへやではないでしようか」
「じや私はさだ子さんに会つて来ます……駿太郎君、君も来るかい」
「僕はいやだ。僕ここで蓄音機をきくのさ」
「ほんとに困るんでございますよ。こんな時に蓄音機をやるなんて申すので。この人は毎日毎日レコードをかけてきいているのがすきなので、今日もどうしてもやりたいつて申しますの」
「だつてお姉様。毎日このごろ不愉快なことばかりで僕堪えられないんだもの。フューネラルマーチ(葬送行進曲)ならいいでしよう。今やつたつて」
「ほんとに仕方がないのね。じや竹針で内証でするんですよ。お父様に叱られるから」
 ひろ子は仕方がないと云つた顔で藤枝と共に応接間の方に去り、林田は階段の方に上り駿太郎少年はピヤノの部屋にはいつた。
 応接間にひろ子と藤枝と私がはいると、今まで何か話していた主人と警部が、急に口をつぐんでこちらを見た。
「お話最中ですか」
 藤枝がいう。
「いや、もうすんだのです」と警部。
「じや僕がちよつと御主人にお話したい。今日はひろ子さんに立ち会つてもらつて、そうしてお話を承りたいのです」
 藤枝の声音には何か厳としたものがあつた。
 駿三は明らかに驚いたらしいが、強いてその色をかくそうとしていた。
 一同が座につくとはじめて藤枝が切り出した。
「秋川さん。あなたは何故、私達に大切なことをかくしておられるのですか」

      6

「あなたは、非常に重大な問題を私にかくしておられる。私はひろ子さんから詳しくきいているのです」
 藤枝はこういうとじつと秋川駿三の顔を見つめた。
 ちようどこの時、私はピヤノの部屋からレコードが美しいメロディーを送り出したのを耳にした。極めて小さなピヤノの音であるがまさしくそれはショパンの葬送行進曲の最初の部分である。
「私はまず第一にあなたが何故脅迫状を受けてしかもそれをかくしているのかはつきり承りたい。第二に伊達正男という人物……」
「ありや決して怪しい者じやありませんよ」
「そりやそうでしようが……私はあの青年とあなた御自身との関係が承りたいのです」
 秋川駿三はこの時、この言葉をきいて愕然としたようだつたが、何も答えず黙つて藤枝の顔を見返した。
 藤枝も何も云わぬ。この時ちよつとした静寂がこの部屋をおおつた。レコードの音は、一層はつきりと伝つて来る。
「おいひろ子! 誰だ。こんな時にあんな音をさせるのは」
 突然駿三がひろ子にきく。
「駿ちやんよ。だつてどうしてもやると云つてきかないのですもの」
「駄目だよ。早くやめさせて来い。そして駿太郎をここへよんでおいで。ほんとに仕様のない奴だ」
 彼はほんとに怒つたのか、ただしは藤枝の詰問を一時でものがれるために怒つたふりをしたのだか、ともかくひろ子に烈しく云つたのであつた。
 大切な質問の所に来ているのでひろ子もこの場を去りにくいらしく藤枝の方に助けを求めるようなまなざしを送つた。様子をみた私は、立ち上るといきなりドアの方にかけ出して、
「いいですよ。僕が行つて止めて来ます」
「ああ小川君、君行つて駿太郎君にそう云つてくれよ」
 藤枝にこういわれると、私は駿三がしきりに何か云うのもかまわず一人で部屋をとび出してさつきのピヤノの部屋にいそいだ。
 ノックをすると同時に私はドアをあけたが、これは意外、部屋の中には誰もおらず、ヴィクトローラ一人相変らずいい音をさせているではないか。
 私はとりあえず、ヴィクトローラの所へ走り寄つていそいで蓋をあけた。丁度その時レコードはショパン独特のあの婉麗極まりなきトリオの部分を奏ではじめている所だつたが、私はいそいでアームをあげてそれから廻転を止め、そのまままた応接間に戻つた。
 (後に詳しく調べて判つたことだがこの時、駿太郎がかけ放しにしていたレコードはヴィクター版で Ignace Jan Paderewski の演奏にかかる Funeral March(Chopin op.35)で私がとめた所は丁度トリオのはじめの部分、藤枝があとで親しく実験した所では、正規の廻転で、はじめからここまで約一分二十秒の時間を要することが判つた)
「どうも恐れ入りました」
 と駿三がほんとに恐縮したように私に云う。
「いや……しかし駿太郎君はいませんでしたよ、あの部屋には」
「何、駿太郎君がいない? レコードをかけつ放しにしたままか」
 驚いて云つたのは藤枝だつた。
「はばかりにでも行つたんでしよう」
 ひろ子が何でもないようにそう云つた。
「変です。おかしいです。駿太郎君を見て来て下さい。小川君、君も一緒に行つてくれ」
 藤枝は、ひどくあわててひろ子と私をうながした。

      7

 ひろ子と私は急いで、廊下に出た。念の為にもう一度ピヤノの部屋を見たがやはり駿太郎の姿は見えない。はばかりの外から声をかけたが返事がない。階段の中途まで上つて二人で駿太郎の名をよんだけれども、これも無駄だつた。二階にもいないと見える。
 ひろ子は私の先に立つて階段を下りすぐ左に曲つた。つづいてあとから行つて見るとピアノの部屋のすぐ隣、すなわちピヤノのおいてある側の壁の裏側に突出た廊下があつてそこに硝子戸があつてそこから庭に出られるようになつている。
「おや、戸があいている、それにこんな所にスリッパがありますわ」
 ひろ子はその半ば開かれた戸の下にぬぎ捨ててあるスリッパを指した。
「あら、庭下駄がない! じやきつと庭に出たのかも知れませんわ」
 早口に云つた。
「ともかく藤枝君にいいましよう」
 私にはこの場合たいした智慧も浮ばなかつたので、急いでひろ子と共に応接間に戻つて来た。
 藤枝は非常に何か心配な様子で私達が戻るとすぐ立ち上つた。
「おい、見えなかつたかい」
「うん、便所にも二階にもいないらしい」
 私がこういうと傍からひろ子がひき取つて答えた。
「あの、庭に出たんじやないかと思われますの。廊下にスリッパがぬいであるし、庭下駄も見えませんので……」
 藤枝は何も云わずいきなり高橋警部の肩をつかんだ。
「高橋さん、もしかするとこりや大変な事になる。すぐ庭へ出ましよう。一刻も早く!」
 彼はこういうと驚く警部や駿三や私を残して玄関へ飛び出した。
 彼のこのあわて方が尋常でないので警部も駿三も余程驚いたらしく、ことに警部はさすがに、瞬間に藤枝の気持を察したと見え、すぐに玄関へ出て靴をつつかけた。私も、二人におくれじと玄関へ出て自分の靴をつつかけたまま、藤枝と警部につづいた。
 玄関を出てすぐ左に折れ、今いた応接間の窓の下を通ると木戸がある。これをあけると庭である。
 藤枝も警部も私も、木戸をあけた途端、はたと当惑せざるを得なかつた。というのはここから左手にさつきのピヤノの部屋の中がすぐ見えるのだが反対に右側すなわち庭の方は、文字通り真暗で一体どこをどう行くとどこに出るのだかさつぱり判らない。
(あれだけ用心していた筈の駿三がこんな広い庭、しかも、奥には鬱蒼たる森をひかえた庭に一つも電燈をおかないとはどうしてだろう。後できくと駿三も無論ここに気がついていたのだそうだが、種々な説があつて、暗い方が安全だという人もあり、明るいほうが安全だという人もあつて結局彼は暗くしておくことにきめたそうだ。いざという場合自分が闇にまぎれて避難する気だつたのだろうか。ともかくこの事件の結果から考えると家の周囲に燈がついている方が危険が少いに違いないと私は思つている)
「こいつはしまつた。こんなに暗いとは知らなかつた。誰か懐中電燈を……」
 藤枝がこう云つた時すぐ後から駿三が追つて来た。
「懐中電燈? 私の部屋にあります」
「秋川さん、すぐ、すぐ取つて来て下さい」
 藤枝はこういいながら一生懸命に前をにらみながらかまわず二、三歩闇の方に進んだ。
 その時、さつきのピヤノの部屋に降りているガラス戸の所にひろ子の姿が現れた。
「ひろ子! 早く! 私の部屋から懐中電燈をもつて来てくれ!」
 駿三がどなつた。ひろ子はすぐに姿を消した。

   惨死体

      1

 ひろ子が姿を消してからまた現れるまで(それは実に二分もかからぬ間であつたが)藤枝は、一年も十年も待つていなければならぬような顔をしていた。平生に似ず異常に緊張した目つきはただならぬ不安を示している。
 警部も待ちかねたと見えて飛鳥の如くに走つて行つて今ひろ子が姿を表わした入口までゆきついた。
 ほどなくひろ子が下りて来ると、警部はもぎとるように懐中電燈をとつて戻つて来た。
「さ、何でもいい、南の方、奥のほうへ行つて見るんだ。あの森みたいになつている所、あつちへ……」
 藤枝は夢中になつて先へ歩き出した。
 そこで私は一応この家と庭の位置をはつきり記しておく心要を感じる、でないとこれから私の記するところが読者にはつきりしないかも知れないから。
 ここに表わしたのは私がほんの心覚えにノートにとつておいたもので無論正確な図ではない。
 ことに、土地のスペースと建物のそれとの比率が甚だいいかげんなものなのだが大体こういう土地にこういう風に家が建ててあると思つていただけばよい、土地はあとできくと二千坪以上のものだから、図面では家屋に比してもつとずつと大きくなるわけだけれど見易い為に上の如く記した。

 すなわち[#「 すなわち」は底本では「すなわち」]われわれは玄関を出て、点線の示す方向に進み木戸をあけて庭にとびこんだのである。
 藤枝が奥の方と云つたのは、南の方の事でABという方向に森のように木がしげつているのだ。(ABが何を表わすか、それはすぐ後で判る)
 距離の観念にうとい私には、木戸から南へむけてわれらがどの位進んだかはつきり記することが出来ないが、何でもおよそ現今いまの家の庭の中では、ずいぶん進んだという感じだけはたしかにした。
 警部がパッと照らしている電燈の光が森のような茂みのはしの方に何か白い物を浮び出させた時、さすが鈍感の私も思わずはつとした。
「おい、あそこだ。あそこだ。間にあうだろう」
 藤枝はこういうとその白い物体の方に飛ぶように走つて行つた。つづいて警部がおくれじと走る。私と駿三とはややおくれてかけつけたが、私ははじめて白い物に近づいて思わず、
「こりやひどい!」
 と叫んだのである。
 さつきまであんなに元気だつた駿太郎がここに、見るも無惨な死体となつているではないか。しかもなみたいていの死にざまではないのだ。
 からだは全くすつぱだかである。
 両足を開いてこちらに向けて仰向きに倒れているのだが、あしの下に着物がくちやくちやに敷かれている。両腕は背にまわされ、多分しめていた兵児帯で後手うしろで緊縛きんばくされているのだろう、その端がいんこう部に二まわりばかり堅くくくられている。
 きれいな顔の上半分が血まみれになつているのは傷でも受けたものであろうか。
 更に奇怪なのは、猿股がひきちぎられてすてられ更にうすいメリヤスシャツがむちやくちやにむしつてあつて右に述べた通り、身体が全くむき出しになつていることだ。
 私が叫んだと同時に後で、うんという異様な声がきこえた。ふりかえつて見ると駿三がふらふらと倒れかかつて来る。
「いかん。我が子のこんな有様を見せちや駄目だ。脳貧血だよ。君早くかついで行つて介抱してくれ。それからすぐ警察へ……」
「警察は僕がやる。小川さんはすぐ秋川さんをつれて行つて、それから林田君をよんでくれ給え」
 高橋警部がこう云つて木戸の方へとんで行つた。
 私は駿三を介抱しながらガラス戸の入口に向つた。

      2

 私がガラス戸の入口へ向つて進んで来るとひろ子が下駄をはいてこつちへ来ようとする所だつた。
「ひろ子さん、お父様がちよつと脳貧血を起したんですよ」
「まあ」
 彼女はこう云つてかけよつたが、駿三ももう回復しかけたらしく、多少歩けそうなので私はひろ子に駿三を托した。
 ひろ子は不安なまなざし[#「まなざし」は底本では「まざし」]
「あの、何か起りましたの、弟がどうか……」
 どうせまもなく判る事だけれど、彼女に今真相をつげる手はないと思つたから私はそれには答えず、
「林田君はどこにいます」
 ときいたがちようど此の時、二階のさだ子の部屋にいる林田が騒ぎに驚いて窓から首を出したものと見え、
「おおい、林田君、すぐここへ来いよ」
「何だ。よし、すぐ行くよ」
 という、一方は庭から、一方は二階からの藤枝と林田の問答がきこえたので、私は安心して、
「ひろ子さん、ともかくお父様を一緒につれて行きましよう」
 と云いながら、ひろ子と共に家に上り、駿三を下の日本座敷へとつれて行つた。
 この時二階から足音がしてガラス戸口の方に行くのがきこえたがそれは林田探偵であつた。
 私は駿三の為にとりあえず木沢医師をよぶようひろ子にそう云つて再び駿太郎の死体のある所にもどつた(すなわちAという地点)
 藤枝と林田が傍に立つている。
「こんな可愛い少年を、ひどい事をする奴だよ。ここの所を石かなんかで一撃やつたんだね。だめだ。全く死んでいる」
 藤枝はこう云いながら少年の脳天を指した。
「それにしても、まつぱだかにするとはどういうわけかね。……猿股までとつて……」
 林田が重々しい調子で云つた。
「ともかく警察の連中が来るまで手が出せないんだから、兇器でも探すかな」
 藤枝はこう云いながら、電燈をてらしつつ、しげつた木々の間を下を見ながら歩き出した。
 これはなかば、彼が競争者たる林田英三に対する紳士的礼儀で、自身は、少くとも私が再び死体の所に来るまでは充分に、死体を観察することが出来た筈だから、おくれて来た林田に、一人勝手に死体を調べさせようという気もちだつたに相違ない。
 それにしても、肝心の懐中電燈をとつてしまつて林田一人を暗闇に残しておくとは藤枝も皮肉なまねをするわいと思いつつ、私もすぐ藤枝のあとをついて行くと、林田もさるもの、ちやんと懐中から小さな電燈を取り出して駿太郎の白い死体を仔細に見ている(この点ではたしかに藤枝は林田に負けたと云つていい。藤枝はこの時、自分が懐中電燈を用意していなかつた事を大変後悔した。だからこれ以後、彼のポケットにはいつでも万年筆形の電燈が用意されていた。さうしてそれを出す時はいつも「東京にも森があるからな」と自分を嘲るやうな調子で笑つた)
 しかし、得意になつていた林田もその調査を長くつづけるわけには行かなかつた。
 私が、藤枝のあとをついて二十間程東へ進んだ時、私は遠くにまた何か怪しいものを認めたのである。
「おい、あそこに何かある!」
 私は藤枝の腕をつかんだ。
 彼はしばらくそこらを光で照らしていたが「ことによると、俺が考えた通りだぞ」
 と云いながらいそいでその方に近寄つた。
「うん、やつぱりそうだ」
「え?」
「佐田やす子が殺されたんだよ」

      3

 驚いて近寄つて見るとまさしく彼が云つた通り佐田やす子がそこに仰向きに仆れている。
 藤枝は死体に手をあてていたが
「いかん、これももう駄目だ。完全に死んでいるよ」
 と私をかえりみた。
 佐田やす子の死体は一見かなり乱れたていをしていた。抵抗したらしいあとも見える。
 着物は、今しがたわれわれが見た通りの物だが襟がはだけて乳房の辺まで出ており、両肩近くまでひろげられている。右手を地上に伸ばし、左手を胸の上においているが、断末魔に何か掴もうとしたらしく、両方とも堅く拳を握つている。頭髪は相当乱れてはいるが、引きまわされたようにはなつていなかつた。
「こりや君、咽喉をしめられたんだよ。ここを見給え。ほら、色が変つているだろう」
 電燈の光で仔細に死体を見つめていた藤枝が私にそう云つた。成程、咽喉のまわりがひどく変色している。何かでぎゆつと引き締められたに相違ない。
 この時、
「おい、何か起つたのかい」
 という林田の重々しい声が聞えた。
 見ると、懐中電燈を照らしながら林田がむこうから近づいて来る。
「女中だよ、さつきの女中がやられたんだよ」
 藤枝がやや興奮して答えた。
「佐田やす子? 畜生、とんでもないことになつたぞ」
 不意に興奮した林田の声が近よると、彼はいきなり死体の所に寄つて藤枝のした通りに手をあてた。
「畜生! 大切な証人を!」
「まつたくだ。まつたくだ。これでわれわれはまた大きな困難に出会でくわしてしまつたんだ」
 藤枝はいかにも残念そうに唇を噛んだ。
「僕はひよつとするとこんなことになりやしないかと心配してたんだが……まさかこう早く来ようとは思わなかつたよ」
 藤枝は独り云うようにこう云いながら、はじめてシガレットケースを取り出し、一本ぬき出して口にくわえると直ぐ火を点じた。
「高橋さん、また一つ死体がありますよ。ここです。こつちこつち!」
 不意に林田が木戸の方を見ながら、しきりに懐中電燈を振つて相図をするので、ふりかえると、警部が電話をかけ終つたと見え、手に一つ懐中電燈を携えて、木戸から駿太郎の死体の方に歩いて行くところだつた。
 私はこれから約一時間にわたつて秋川家におこつた検視、捜索、訊問等全部をここに詳述することはできない。それは読者にとつてはいたずらに煩わしいばかりである、と思われるからだ。だから私はごく簡単に事件の進行を敍述して行く。
 われわれが二つの死体を発見したのは丁度四月二十日の午後八時五十分頃のことだ。
 私は、藤枝、林田と共に佐田やす子の死体のかたわらに立つていた際シガレットの火をつけようとしてライターをつけたがその時、左手にはめていた腕時計を見たが、ちようど八時五十二分を指していた。
 それから約七分たつてから、警察から刑事数名と野原医師がかけつけた。一方事件は警視庁に報告されたと見え、二十分ほど経つてから沢崎捜査課長、田中技師及び刑事が現場に登場するに至つたのである。
 月のないこの夜、まつくらな木立の中を、電燈、提灯をともした制服の警察官等が二つの死体をとりまいて右左に動く様は筆につくせぬ異様な恐ろしさを人々に与えた。
 読者の知れる如く、駿太郎、やす子の二人はたつた今七、八分前まで現にわれわれと話をしていたのである。殺人鬼はいよいよその本性を表わしはじめた。僅かちよつとの間に二人の生命を! しかもかくむごたらしく! 夢ではない。事実である。

      4

 現場に当局者が登場して活動しはじめた以上、多少遠慮した方がいいと考えたのか、あるいは外に思う所があつたか、藤枝は急に私を促して、
「君、うちに上つて結果を待つとしようじやないか」
 と、木蔭を出て歩き出した。
「そうだ、僕も主人を慰問してやらなくちやいかん」
 俺だつてお前のあとに残つて種を拾うようなケチなことはしないぞというつもりか林田も木立の間からふらふらと出かけ、母屋の方に池の側を通りながら例のガラス戸の入口の方に向つた。
「ねえ、小川、僕はまだこの家のたてかたを充分研究してないんだ。裏口にまわつて見ようじやないか」
 藤枝が不意に云うので私は同意の旨を顔でしらせると、藤枝は池の方に行かず、ずつと東の方(やす子の死体のあつた地点すなわちBよりももつと東の側)に向つて歩きはじめた。
 まるで林田と藤枝は子供の喧嘩をしているようなものだ。お前がまつすぐに行くなら、俺は廻るぞと[#「廻るぞと」は底本では「廻るぞど」]藤枝が林田に云わんばかりである。
 林田は、どうぞご自由に、と云つた風で、すまして、ガラス戸の入口から家の中にはいつてしまつた。
 死体のあつた茂みから母屋を見ると、実に立派な洋館が東西に横たわつているのが見える。左が玄関で右端が女中部屋である。母屋と女中達がいる所との間にはちよつとした廊下があつてその渡り廊下(図には細くなつて表れている)が母屋につづく所に庭に通う出口が一つある。
 それを左手に見ながら東側の塀に沿うて歩いて行くと立派な裏門に来た。
 不意に闇の中から人が現れて電光をわれわれに浴びせたがすぐ親しげな声が聞えた。
「おや藤枝さんですか」
 それは制服に身を固めた巡査だつた。
「殺人事件が起つちまつてからお邸検分と出かけました。あなたはここで警戒ですか」
「はあ、今ちよつと内外の交通を遮断しております。牛込区内には全部非常線が張られていますから、大抵今夜中にも捕まるでしよう」
 それから二人は私に全く判らぬ暗合か符牒みたいなもので暫く話していた。
 (これは、警察官や犯人達の間に用いられる隠語だと後に藤枝は私に説明してくれた)
「いやどうも御苦労様です」
 藤枝はやがてこういいながらその巡査に別れ、裏門を右手に見廻しながら今度は北側の塀の所まで歩いた。それから暫く外から内のようすを見ていたけれども、別に変つたこともないらしく、再び裏門を左に見て戻り、例の渡り廊下の入口から母屋に上ろうとしたのである。
 藤枝は靴を脱ぎつつ私の方に向つて、
「君これから右手が台所と女中部屋らしいね。こつちには別に異状はないらしい。じや僕等も主人公を慰問するとしようか」
 と云つたが私は彼より早く、母屋の廊下に飛上つてしまつた。そこには、スリッパが無暗にたくさんぬぎ捨ててあつた。
「おやおや、昼間のお客さんがぬぎすてたまんまかい。表玄関を遠慮した連中の為に此の家で出したんだな。一つ拝借するとしよう」
 藤枝がこんな事を云いながら後から上つて来た。
 その時ほんの偶然から、彼は右足をスリッパにつつかけそこねてよろよろとすると同時に、そのスリッパを横の方にはねとばしてしまつた。
 彼はそれで他のスリッパをはいたが、ふとはねとばされたスリッパを見て、独り言を云つた。
「おや、こりやおかしい」

      5

「どうしたんだい」
「いや、何でもないが、一寸このスリッパを見給え、裏にひどく土がついてるじやないか」
 こういうと彼は今度は夢中になつて十五、六もおいてあるスリッパを片つ端から調べて居たが、やがて私に向つて命令するようにこう云つた。
「おい君、そのスリッパをぬいで見せろよ」
 私がいわれるままに両方ぬぐと彼はその時私が左足にはいたスリッパを調べていたが。
「ほら見給え。この裏にもやつぱりひどく土がついているぜ」
 と私の顔を見たが
「まあいいさ。別に君に関係してるわけじやないんだよ。しかしちよつとこれは外のと別にしておいて貰わないと困る。……」
 彼はこう云いながら、その一足のスリッパを手にとつて歩き出したがふと立ち止つた。
「ねえ君、スリッパ一足でも持つてつちや泥棒だね」
「じや黙つてもつていかなけりやいいじやないか。ちやんと主人にそう云つたら……」
「いいや、まあよしにしよう。それ程大切な物じやないよ。しかし君僕が今これに気のついた[#「気のついた」は底本では「気のつい」]ことを断じて誰にも云つちやいかんぜ」
 彼はこういうと、せつかく今探しあてたスリッパをそこにポンと捨て別のをはいてさつさと廊下を歩き出した。
 このスリッパの一挿話はごく些細なことのようだけども、後に思い当る所が非常に多くなつて来るから読者はよく記憶しておいて頂きたい。
 座敷に来ると、中には続く不幸に悩まされ切つた秋川一家の人々が皆青い顔をして集つていた。家族以外の者では、伊達と林田がいるだけだ。
 主人はもう勇気を恢復したけれども、しかし物を云う気にはならないらしい。
 ひろ子もさだ子も、それから三番目の初江もただおどおどしているばかりだ。
「伊達君、君は今来たのかい」
 と藤枝。
「は、ここから急をきいて今しがたかけつけたばかりです」
「伊達君は僕らが来た時、一応ここを辞して自分の家に帰り、和服を制服にきかえて今来た、というわけなんだよ」
 林田が側から説明した。
「さだ子さんは、この騒ぎの時上の部屋にたしかにずつといたんだね」
 かなり無遠慮な質問を、藤枝がさすがに直接ではなく、林田に向つて発した。
 私はこの時さだ子が赤くなつて下をむいたので、ちよつと気の毒なような思いがした。
「ああ、さだ子さんは僕と話をしていた。さだ子さんの部屋でいろいろ質問をしていたんだよ」
「そうそう、君が、窓から顔を出した時、さだ子さんもつづいて顔を出したつけね。それでと、初江さんは?」
「あの初江は、女中部屋で話をしておりましたんだそうです。今日までお調べにまつたく関係がなかつたものですからわざと私があつちへ行つておいでと申しましたので」
 初江にかわつてひろ子がにつこりしながらそう云つたが更に、
「女中部屋にはその時、しまや久や清やがおりましたので、皆そう云つておりますからたしかでございますわ」
 とつけ加えた。
「実はその三人を一人一人今よんで、女中達の行動もきいて見たのだが、僕らが来てから三人の女中と初江さんがあつちにずつといた事はたしからしい。ただやす子はねえ、僕らが調べた後で一度も女中部屋に顔を出さなかつたそうだ。だから皆まだ僕らがやす子を調べていると思つていたそうだよ。何ならもう一度皆よんできいて見るかね」
 林田がこう藤枝に云つた。

      6

「いや、君が今ここできいたんなら大丈夫だ。……実際、とんだ事でした」
 藤枝はこんなことを最後に主人に向つて云つたが駿三はただうなずいたまま一言も発しない。いや発し得ないのだろう。
「高橋警部や林田君や僕などのいる前で、こんなひどいことをする奴ですから犯人は余程の奴です。しかし御安心なさい。警察と林田君と僕と三つが同盟する時、きつと犯人を捕まえて見せますから」
「そうだ。秋川さん、しつかりして下さい。必ず僕か藤枝君か警察が犯人を捕まえますよ」
 二人の名探偵にこう云われても主人は余り安心した様子もなかつた。無理もない、藤枝自身云つた通り、この有力な三つの力を愚弄して今度の兇行が行われたのだもの。
 二人の名探偵もまつたく余り得意になれなかつた。何となく気まずそうに二人は立ち上つた。
「御両所に申しますが、警察の人達に、余りわれわれ親子を手荒く調べないように云つて頂きたい。さんざん訊問しても結果はこんな悲惨な事になるのですからね」
 今まで黙つていた主人が急にこんな事を云いはじめたが、藤枝も林田もこれには一言もないと見えて苦笑して部屋を退却した。
 それから私らは再びさつきの玄関の側の応接間へと通つた。
「藤枝君、今は同盟という言葉を出したが僕も今度という今度は、もう競争している場合じやないと思うよ、われわれは協力して犯人に向わなくちやならん」
「無論だとも。僕も全くそう考えているんだ」
「そこで同盟の印として今日のことで君が知らないことを一つ云おう。さつき僕が佐田やす子を訊問してそれから二階に上ると、さだ子の部屋の前に、もう帰つた筈の伊達がいて、さだ子と立話をしているんだ。それで僕は、どうしたのかと聞いたら、一旦、この家を出たが思い出した用があるので裏口から(渡り廊下の入口の事を云うのであろう)来たというのだ。君も知つてるだろうが、裏口からも階段がついているからね」
「それで君はどうした」
「そこで僕はさだ子に用があるからと云つて伊達にすぐ帰るようにいい、僕はさだ子と共に部屋にはいつたんだ。ところでさつきのこの騒ぎで、女中が伊達の家に行つて見ると彼一人きりしかいなくて、雇婆さんは丁度留守だつたというのだ」
「成程、すると、はたして君と別れた後、伊達がまつすぐに家に帰つてそれから今までずつと家にいたかどうかということは判らないわけだな」
「そうさ。もつとも、僕が伊達と別れてから例の事件が起つてそれから女中が迎いに行くまでは十分か十五分位しかないのだから、迎えの女中が行つた時彼がちようど服の上衣をつけていた、というのに不思議はないがね」
「しかしともかく、伊達のアリバイは決して完全ではないな。ところでこの家の中の者は、主人は、事件当時僕とこの部屋にいたし、ひろ子もここにいた。さだ子は君に調べられて二階の室にいたのだから、これも確かだし、初江は女中部屋にずつといたというわけだね」
「そうだ。だからどうも家族の中では皆が皆完全にアリバイをもつている。少くとも直接に犯罪に関係のあるものはないと云わなけりやならんよ」
「伊達の外にアリバイを立て得ないのは、厳格に云えば、そこにいる(と云つて藤枝は応接間の戸をさして)笹田執事だが、しかし僕らが玄関にとび出した時は部屋から出て来たのを見たよ」
 笹田執事の部屋は玄関を上つて左手、すなわち応接間と廊下を隔てて反対の側にあるのだ。
「結局、此の犯人はどうしても外からの者だと思わなけりやならんね」
 林田が煙草に火をつけながらそう云つた。

      7

 ちようどその時、窓の外にガヤガヤと声がして警視庁の人達、警察の人達が一通りの検視捜索を終つて戻つて来た。
 藤枝も林田も私も、応接間に待つていると本庁の捜査課長はじめ、刑事部の人々を先頭に六、七人の人達がはいつて来た。藤枝、林田共にこれらの人々と懇意の間柄と見えて親しげに挨拶をしていた。
 応接間はたちまち、今回の事件に関する緊急会議所と変つた。藤枝も林田もここではじめて当局の現場検視の結果をきくことが出来たのであつた。この結果によれば、警察の人々はかなり現場で活動したことになる。
 私がその時きいた事柄の大体を記すと次の通りである。
(一)駿太郎の死体、楓の木の横に南西に頭を向けて両足を大の字に開き仰向きに仆れていた。無論他殺と認められた。死体はひきちぎられたシャツ[#「シャツ」は底本では「シヤッ」]の一部分が肩のあたりに残つているのを除いて全裸体。着衣は死体の下にあり、シャツはむしり取られ猿又ももぎ取られたらしい。両手を兵児帯で後手に緊縛きんばくされている、その帯の端が咽喉部に三巻半ほど巻かれ、これが又緊縛きんばくされており、呼吸は完全に止められている。
 脳天よりやや前額部に近く鈍器による裂傷一個あり、烈しく出血している。一見これが致命傷らしく、深さは充分骨膜に達し骨を破つている、しかし、咽喉部にまかれた帯による絞殺も可能な場合であるので、撲殺、絞殺いずれがその直接の死の原因であるかは解剖によるにあらざれば明らかでない状態であるが、いずれが先にせよ、時間的には永くも僅か二、三十秒位の間しかない筈である。
 なおこの他に、縛られた手首には皮膚に擦過傷が現れている。
 猥褻暴行の跡はない。
(この最後の一行は、蛇足のようだが、猿又を取つてある所から係官は一応確かめたものと見える)
 死体はまだ温度をもち、検視前二、三十分に兇行が行われたものらしい。
(この点は読者の既に充分知つておらるる所である)
 なお、死体の横に、庭下駄とおぼしきものが一足ちらかつていた。
(二)駿太郎の死体附近は茂つた木の下なので余り土は乾燥してはいない。しかも判然とした足跡が見出し難い。が東方に向つて靴の足跡が僅かに発見出来る。くさむら等みだれていないので格闘等のあとはない。
 (靴の足跡と云うのは実は藤枝や林田や私のものであると後に判つた)
(三)駿太郎の死体から東南方約十間程の草の中に血まみれになつた拳大の石が発見された。駿太郎の頭部の傷と符合するから恐らく兇器はこれだろうと思われる。
(四)佐田やす子の死体、他殺と認められる。絞殺、恐らく両手を以てやくさつされたものらしい。多少抵抗したらしい跡がある。猥褻暴行の痕跡はない。死体は東の方に頭をむけて仆れていた。右の二の腕に死の直前に受けたらしい大きなあざが発見された。多分人間の手で掴まれて出来たものと推定される。死の時間は殆ど駿太郎と同じ。ただしいずれが先に殺されたかは明らかでない。
(五)邸の東南の隅に大きな桜の木があつて塀の所に出ている。犯人は塀外よりよじて庭に下り兇行後、再びもとの道から出て行つたらしく塀の外側に、素足のつまさきについていたらしい土が附着していた。又桜の幹にも足の指の土が残されていた。
(六)なおやす子は下駄をはいたまま仆れていた。
 (この下駄は彼女自身の品であることが後に判つた。)

   藤枝の観察

      1

 細かい点を除いて大点判つた所は右の様なものであつた。
 秋川家の南側の石塀を乗り越えて侵入し更にそこから脱出した者のある証拠があるので現場臨検後警察官の一隊はただちにその方面の捜索に取りかかつた。機敏なる警察当局は、殺人事件行わるときいてただちに非常線を張つたこと、既に先の巡査の言葉によつても判るのだがいよいよ侵入者の形跡を見ては捜査は一層厳重に、かつ敏活に行われはじめたことだろう。
 更に被害者佐田やす子の素性、従来の知人関係を調べるために八方に警察隊が飛んだ。やす子は読者の既に知れる如く、秋川家に来てからやつと十日にしかならない、それまでどこにどうしていたか桂庵の手を通じて来たので一向に判つていない。
 これは、あれ程物事を警戒[#「警戒」は底本では「警械」]している秋川駿三の雇い入れ方としては、いささかおかしいけれど、雇人に関して駿三は、万事徳子夫人にまかせ、それを信戒[#「信戒」はママ]していたという話だから、やす子も徳子の気に入つて使われるようになつたものと見える。
 一方、兇行当時の秋川家の人々の行動も一応警察官達によつて取り調べられた。この点に関しては、藤枝、林田及び私は参考人の立場に立つて、いちいち説明し得べきことを立証した。その結果はさきに藤枝、林田の会話に表わされた如く家族中一人も屋外に出たと思われる者はないことになつた。
 雇人に就いても三人の女中はずつと女中部屋にいたし、笹田執事はわれわれがピヤノの部屋に行つている間高橋警部から二、三の質問を受ける為ちよつと応接間に顔を出し更にわれわれが走り出した時は、高橋警部及び藤枝によつて、その部屋から出て来た所が見られているから、この老人も外に出たとは思われないことになる。
 秋川家に密接な関係をもつ者の中で、その当時の自己の行動につき立証するのに最も困難だつたのは伊達正男であつた。
 彼はちようど私達が秋川家に着くちよつと前に裏口から辞し去つたのである。しかるに暫く経つてから、二階のさだ子の部屋の前にその姿をあらわした。これは本人も認めているらしく林田もさだ子もそう云つている。
 ところでそれからの行動は誰にも判らない。本人の云う所に従えば、彼は林田に、直ぐ家に帰るように云われてから従順にその言に従い、再び裏口からぶらぶらと歩きながら自分の家に帰つた。
 そうして自分の家で紋付を取つて制服に着かえようとしている所へ、女中が事件を報告に来たというのである。
(後に当局者の調べた所によると秋川家の裏門から彼の云つた程度のぶらぶら歩きで伊達の家に行くには約十分かかる。だから彼の供述が偽りである、とは云えない。けれども、これは伊達の歩調がぶらぶら歩きである、という仮説のもとにおいてのみ認められることで、この近距離を青年が、ことにラクビーの選手である彼が疾風の如くに走つたならば三分で行き得た筈である。従つて残りの五、六分の間に彼は何をやつたか判らないことになる)
 ことに伊達の為に不利だつたのは平生雇つている婆さんがちようどその時うちにいなかつた事で、彼がまつすぐに平生と少しも変つたことなく帰宅したといふ事実を立証する者が一人もなかつたのである。
 伊達に対する警部の訊問はかなり厳しいものだつた。
 従来あらゆる悲しみと苦悩とを無言でかみしめて堪えて来たらしい可憐なさだ子がついにたまりかねて、
「皆さんは伊達さんを疑つてらつしやるのでしようか……」
 と林田に嘆願するようにたずねた位であつた。

      2

 ちようどその時さだ子のすぐそばに藤枝がおり次に私がいたのだから藤枝か私にこうきいてもいい筈なんだが、さだ子はわれわれよりも林田の方を信用しているものと見える。
 もつとも、藤枝や私は、彼女にはじめから好意をもつていないらしいひろ子に頼まれてここに来ているのだからそれも不思議はないけれど。
 林田もさすがにはつきりした事はいいかねて、何やら口の中でしきりに云いながらさだ子を慰撫いぶしていた。
 警察や本庁の人達の調べは約二時間余にもわたつて漸く一先ず打ち切りと云うことになつた。あとは裁判所から予審判事と検事が現場に来るのを待つばかりである。
「恐らく今日は誰が来たとてこれ以上のことは判るまいからそろそろ失礼しようじやないか」
 藤枝は腕時計を見ながら私をうながした。
 そこで私もただちにこれに同意して、一同に暇をつげて玄関に出た。ひろ子が送つて来てくれた。
「そうそう、裏から上つたのだつけな、靴はあつちだよ」
 藤枝がくるりと向きをかえたので私もああそうだと思い返して彼のあとについた。
「おや、おはき物はあつちですの、どうぞここでお待ち下すつて、今すぐ私が取つてまいりますわ」
 私達がとめるのをかまわずひろ子がいそいで廊下を走つて行つた。
 藤枝はさつきのピヤノの部屋の前まで歩いて行つた。
「君、ちよつと聞きたいが、さつき君がここへ駿太郎を探しに来た時にドアはちやんとしまつていたかい」
「うん、何でもノックすると同時にあけたと思うから、そうだ、たしかにしまつてたわけだよ」
「じやちよつとはいつて見よう」
 彼は私にさき立つて部屋にはいつた。
「ところで、小川。僕はここでわれわれが昔音楽青年だつた頃のことを思い出して見ようとおもうのだがね」
 不意に藤枝はこんな妙なことを云い出した。
「僕あ応接間にいてヴィクトローラが鳴り出した時こりやショパンだなとすぐ感じた。そうして僕の記憶にして誤りなくんば、君がここへかけつけた頃、このレコードのパデレヴスキー氏は、例のトリオの部分をかなり進んでひいていたように思うがね」
 私はあの咄嗟とつさ[#「咄嗟」は底本では「咄差」]の際の藤枝の観察の鋭いのに感心した。
「うん、思い出した。僕がグースネックをもち上げた時にたしかにそこをやつてたよ。ほらいつか僕らがどこかでこのレコードをきいた時君が、どうもパデレヴスキーのよりパハマンの方がいいと云つたことがあつたな、あのトリオの所だよ」
「ところが、今われわれはパデレヴスキーに感謝しなければならん。もしもこのレコードがパハマンのだつたら、たとえこのように駿太郎君が姉上の命令にもかかわらず金針を用いたとしてもああはつきりとはきこえなかつた筈だからね」
 彼はこう云いながらレコードを手にとつて暫く眺めていたが、
「へんだぞ。見給え、このレコードは大分ほこりがついている。然し針の走つた所だけはこうやつて見るとはつきりごみが取れてるんだ。ところがこのごみの取れている所が僅か三、四分しかないよ」
 彼はこういうと、そばの竹針をとつてそのレコードをはじめからかけながら、目を皿のようにしてヴィクトローラの中を見つめていた。
 葬送行進曲は再び奏でられはじめた。しかしあの美しい部分にはいらぬうち、すなわちABAという形式のAの部分の途中で、藤枝は不意に廻転をとめてしまつた。

      3

「へええ、ちようどここで終りだよ」
「何がさ」
「きれいな所がだ、音楽のことじやないよ。レコードの表面のことだ。つまり最近針が進んでいたのはここまでだというのさ」
「だつてさつきは確かにもつとさきまで行つていたと思うがね」
「そうさ。わが音楽趣味に感謝す、さつき僕はここん所をきいたと思うよ」
 彼はこういうと、口笛でショパンの葬送行進曲のトリオの部分をふいていたが、ふと振り返つて窓を見た。
「ブラインドが降りているね、さつきやす子を調べていた時はこの窓が三つともあけてあつたと思うが」
「うん」
「君はこれらの窓の上があいていたか下があいていたか判然とおぼえているかい。――特にこのヴィクトローラの側の窓の……」
「さあ、はつきりしないが、下の方が二尺ばかりあいていたと思うよ。そうそう、窓と云えばさつきね」
 私は例の草笛とやす子の表情の一件を思い出したので手短かに藤枝に話したのである。
 しかしこの事実は驚くべき興奮を彼に与えてしまつた。
「馬鹿だな君は! 何ていう間抜けだ! 何故もつと早く云わなかつたんだい。あの時すぐに云つてくれればあるいは此の惨劇を防ぐことができたかも知れなかつたのだ」
 余程残念だつたと見えて、彼は大きな声をたてて私にくつてかかつた。
 その時、ドアがあいて林田がはいつて来た。
「どうしたんだい。何を怒つているんだい?」
 藤枝はまだおさまらず林田に草笛の件を話してしまつた。
 林田はそれをきいてやはり愕然としたようだつたが、さすがに私にくつてかかりはしなかつたが、軽い批難を浴びせた。
「そんなことがあつたんですか。そりや私も藤枝君に賛成だな。小川さんがあの際すぐ云つて下さればどうにかなつたかも知れない。しかし君、小川さんは探偵じやないんだから……それにもうすんでしまつた事は仕方がない」
 ともかくこう云つて藤枝をしきりに落着かしてくれた。
「すんだ事は仕方がない……か。そりやそうだね」
 藤枝もあきらめた調子で云つたが大分不機嫌だつた。
 ひろ子のはからいで靴が表玄関に廻つていたので私達は玄関の方に行つた。
 林田も帰るつもりと見えてついて来た。ひろ子は送つて来ながら、自動車を呼ぼうと云うのを、林田も藤枝も辞退した。
 靴をはく時、藤枝が思い出したように、ひろ子を呼んできいた。
「あのピヤノの部屋ですがね。あそこのブラインドをいつ誰がしめたか、きいておいていただきたいのですが……」
「あのブラインド? いけませんでしたの? あれは私がさつきしめましたのよ。皆さんがたが外でいろいろ調べていらつしやる間に……」
「あ、そうですか。いやいけないというんじやないのですよ。その時ヴィクトローラに手をふれられたでしようか」
「いいえ、私窓だけしめてすぐ外に出てしまいましたの。何かどうかしておりますの?」
「いえそうじやありません。つまり駿太郎さんがレコードをかけつぱなしにしたままになつてるんですね」
 林田は靴をはき終つて一足先にさつさと行つてしまつた。
「はい、私そう思います」
「それから裏口にたくさんスリッパがあるでしよう。あの中に裏に土のついたのが一足ありますから誰にも云わずに別にしておいて下さい」

      4

「はい、それはあの今しがた林田先生からもそう申されましたのでちやんと別にしておきました」
「へへえ?」
 これには藤枝も驚いたらしい。藤枝が内心得意になつていた発見を競争者たる林田はもうちやんと知つているのだ、しかも藤枝より一歩を先んじてひろ子に注意を与えている。
 藤枝はそれきり何も云わずに、秋川邸を出た。
「驚いたね。林田という男は成程ききしにまさる探偵だよ」
 しかし藤枝はさつきの草笛の一件からまだ私に対して気を悪くしていると見え何も云わなかつた。
「しかし先生のカイゼル髯はちとおかしいね。あの男は変装なんかしないのかしら……」
「おい、何を云つてるんだ。あれが附髯なのに気がつかないのかい。警察の人達なんか皆よく知つているぜ。敵を欺く手段とおぼえたりさ。事件の現場へはいつもあのカイゼル髯で現れ給うんだよ。だから君はじめ秋川家の人達もほんとのひげだと思つてるんだろう。もつともあれがないと先生鼻の下が馬鹿に長いからこの頃は平生でもあれをつけてるつて話さ。ははははは」
 ともかくやつと藤枝のご機嫌がなおりかけて来たのは何よりだ。林田のカイゼルひげも飛んだ所にお役に立つたつていうわけである。
 秋川邸の門を出ると藤枝は右に曲つて歩き出した。この家をはじめて訪問した時帰りは円タクを捕まえて乗つたのだが、二日目からいつも秋川家に出入りしている泉タクシーというガレーヂから車に乗ることにしていた。
 泉タクシーの前で藤枝は暫くそこの主人と話していたが、そのうち一人の運転手が出て来て藤枝に挨拶した。
「あ、君かい、じやあの日の通りに行つてくれ給え」
 こういうと彼は、傍にスマートな形をして乗客を待つているハドスン・セダンのドアを開けた。私もつづいて乗り込んだ。
 私は車がどこへ行くのかしらんと怪しんでいると、自動車は牛込の高台から外濠へまわり、四谷見附を通ると坂を下つて一散に赤坂に向つて走つてゆく。
 赤坂見附から溜池の方に更に走つたが、電車の停車場と停車場の間でピタリと止つた。
「いやご苦労様」
 二人は下りた。車を返してしまうと藤枝は少し進んで左手の敷島ガレーヂというのにはいつてそこでまた何か云つていたが、やがて私をさし招くので行くと彼はクライスラーのクションに既に腰かけている。私は驚いておくれじとあとからつづいて乗り込んだ。
 車は溜池から虎の門に出てそれから右に曲ると南佐久間町の通りをつつきりいつのまにか銀座の裏通りへと出た。
 事務所の前に来ると彼は車をとめさせて下りた。賃銀を払つて、合鍵を出してドアをあけスイッチをひねるとまず一息というので机の前に腰かけてスリーキャッスルをすいはじめた。
「一体こりやどうしたつてわけなんだい」
「君が尊敬するわがうるわしの依頼人秋川ひろ子嬢が十七日の日私を訪問した足取りさ」
「へえ。じや途中で乗りかえたんだね」
「乗りかえだけは大出来さ。さすが探偵小説愛読者だけのことはある。あれでしかし誰からもトレースされないと思つてるから彼女は愛すべきかなだよ。自分の家へ出入りの車に乗つてあそこまで来るなんてなんというノンセンスだ。それにあんな所でまたガレーヂの車にのりかえるとは。さすが大家のお嬢さんだけのことはあるよ」
「どうして君はそれを知つたんだい」

      5

「そんなことはわけはないさ。一体もつと早く判るはずだつたんだ。一昨日からあのガレーヂで聞いてたんだが、今の運転手がいつも出ていたのできけなかつた。十七日の午後ひろ子があれに乗つて溜池まで来たというのだ。そこで溜池で今きいて見ると十七日か十八日かおぼえぬけれどこういつた風の令嬢が乗つたと云うのだ。もつともここの前までは来ず向うの角で乗り捨てたそうだがね」
「それにしても、溜池で車が止つた時手前にもガレーヂがあつたろう。どうしてすぐ敷島ガレーヂが判つたい」
「そりやこうさ。あの位の女性がトリックで人をまく時人につけられぬ為に車にのる時は、目的の地点を決して乗りすごさず得てして少し手前で止るものなんだよ。見給え、僕の処へ来た時だつてわざと乗り越さずに手前で下りている。然しこんな事を調べるのが目的じやなかつたのだ、さつき泉ガレーヂできくとあの日、さつきの運転手がひろ子を送つて帰つて来た途端、秋川家からと云つて電話がかかりどこまでひろ子を送つたか、ときいて来たので彼は何げなくほんとの答をした。すると暫くしてから今の赤坂の敷島ガレーヂに今度は何者とも云わず、電話がかかつてひろ子のらしい形容を一応してその行先をきいたというんだ。もつともこんどの運転手はここの名は知らなかつたがともかくこの附近で止つた事を云つたそうだ。ところではじめ泉ガレーヂへかかつた時は男の声で敷島ガレーヂにかけたのは女の声だつたそうだぜ。曲者はこうやつてひろ子の足取りを研究した上、ただちにタイプライターを打つておどかし、つづいて例の怪しい電話となつたんさ。何も不思議はありやしないよ」
「そうか、そんなことだつたのか」
「然しね、林田の奴、いちいち僕に一歩ずつ先へ廻りやがる。今しがたちよつと前に泉ガレーヂへカイゼル髯の男が来てやつぱり十七日のひろ子の行動をきいて行つたそうだ。驚くべき腕だよ。ひろ子が来た事もすぐ判つたろう。もつともお互様でね、あの日、午後に秋川駿三が、林田の家に二十分程行つていた事が判つたよ。駿三はひろ子のようにトリックを用いなかつたからすぐ知れた」
 こう云つて彼は腕時計を見た。
「おやもう十一時半だね。冷たいものをのむ所はもうこの辺にはないな。どうだい君は大分近頃この辺で発展なんだろう。どこか大きなバーへつれてゆけよ」
 藤枝がバーに連れて行けというのは余程不思議なことである。酒を一滴も呑めない彼は平生バーへは誰か呑む人が引張らねば行つたことがないのである。
 しかし、酒の多少のめる私はあえてこれを拒む気にはならなかつた。
 すぐ側のサロン、エネチヤという家にはいると早くも私は知り合いの女給たちに囲まれてしまつた。
 藤枝はと見ると、オレンヂエードか何かを一杯命じたまま、ジャズと喧騒のバーの空気にも一向心を動かすようすもなく、眠そうに傍のクションに身をもたせて一言も発せず天井を薄目をあいては時々見ている。
「まあ、こちら、変な方ね。オレンヂエードに酔つてるの」
 なんて女給にからかわれてもまるで気にする様子もない。
 私は私で藤枝には少しもかまわず、搾取主義の女給達の云いなりほうだい、カクテールをのんだりのませてやつたり、果物を御馳走したりしていいかげんいい気持になつてしまつた。
「Wein, weib und Gesang か」
 ふと彼はこう云つたかと思うと立ち上つて、
「おい僕は先へ帰るよ。じやあした朝オフィスへ来給え。左様なら」
 呆気にとられている私や女達を残して消え去つた。

   殺人交響楽

      1

 四月二十一日の朝八時過ぎ、私は目をさました。
 前夜久しぶりにバーにはいり、分別盛りの年甲斐もなくいい気持になつちまつて藤枝においてけぼりを食わせられてから、まだおそくまで残つていて大分酔つて戻つたのだが、酒のために床に入るとそのまま、恐ろしい殺人事件も何もかもすつかり忘れてぐつと一息に眠つてしまつたらしい。
 目をさますとすぐ昨夜の事件が気にかかり出したので床の中で新聞紙を手あたり次第にひろげて見ると、ある、ある、「秋川家の殺人」とか「秋川家の惨劇」「殺人鬼現る」とかいう標題でゆうべの事件が盛んに報道してある。
「第一の悲劇」という項で私が記した夫人の死については先にも述べた通り、過失死となつておさまつたので、昨夜現場に私達がいたのは、夫人の葬式の後、偶然居残つていたという事に報道されている。
 けれども、われわれの居合わせたことが偶然であるにせよないにせよ腕利きと云われた高橋警部、鬼と云われる藤枝、それと並んで竜にたとえられる林田、この三人の目前で二人の人間が惨殺されたという事実はたしかに都人士をして戦慄させるに十分だつた。だから二、三の新聞が「殺人鬼現る」と標題を作つたのは少しも不思議ではない。
 面白いのは、こんな記事がかかげてある某紙だ。
「藤枝、林田両氏は悲憤の表情で交る交る語つて曰く、いやわれわれがいる所でこんなことが出来てしまつて全くお恥ずかしいです。然し犯人の目星もついていますから間もなく捕まるでしよう云々と」
 勿論昨夜この二人が、朝刊に間にあうまでに記者に会う筈はないから全くの創作だろうが、まさにこれは御両所の云わんとする所であろうと私にも思われるから、まんざら与太とも云えまい。ただし、犯人の目星云々は少々早すぎはしまいか、とよんで行くと、案外にもどの新聞にも犯人の目星はついているから今明日中には捕縛されるであろうと書いてある。これは当局の言としても記されている。
 さてはあれから裁判所の連中は有力な手係りを見出したのか、そうそう警視庁の連中も塀を越えた怪漢のあるのを確かめた筈だ。では佐田やす子の素性も判つたのかな……
 あれ程秋川一家を脅かした怪人も、案外脆くも捕まるのかしらん……こんなことを考えながら私は藤枝の事務所に電話をかけた。
 ゆうべの約束も思い出したのだが、元来、大寝坊の彼のことゆえ、まだ事務所にご出張がないといけないと思つたのである。
「昨夜は失敬、小川だよ」
「ああ君か。すぐ来いよ。おそいじやないか」
「まだ君がねているかも知れないと思つたのでね」
「どう致しまして。近頃は大変な早起きだよ」
「新聞を見たかい。藤枝氏曰くどうも面目次第もありませんだつてさ」
「おい、くだらぬことを云つておらずにさつさと出て来いよ」
 こんな会話が一応電話で行われてから私はすぐに彼のオフィスにかけつけた。
 相変らず、彼は部屋中を一杯の煙にしてその中の大きな机に向つて腰かけていた。
「昨夜はどうも御馳走様。相変らずああいう所で大もてだね。羨望に堪えずだな」
「いやまつたくあれこそ小川氏曰く、どうも面目次第もありませんという所だよ」
「僕は昨夜あれから殆ど眠らず事件を考えつづけた。一晩かかつて注意すべき点だけをノートに取つて見たが、ねえ君、いつか云つた言葉をいよいよ取り消さなくてはならない」
「何だい」
「探偵小説に出て来るような稀代の犯人がやはりこの世にいるということだよ」

      2

「稀代の犯人?」
「そうさ。稀代の大犯罪人、稀世の殺人鬼、比類なき大悪漢、いや暗黒街のナンバーワン。犯罪界のカイゼル、無比の大英雄、罪の国のナポレオン、犯罪芸術のベートホーヴェン、大天才、大秀才、という讃辞を奉つてもいい。いよいよそういう人物が今や僕の敵手として現れたのだ。仮りにもし僕が今考えている通りだとすればね」
 私はいささか呆気に取られた形であつた。
「ああそうそう、それからもう一つ、昨夜、君の讃えているジュリエット姫のあの自動車の行動を、ノンセンスだと片付けた失言をも取り消さして貰おう」
「何だ。ひろ子嬢の事かい」
 藤枝は何か非常に重大な事を考えている時に、わざとその気もちを表わさぬように、かえつて軽快にいやにはしやいで語るのがくせである。私はこの部屋にはいつて来た時からの彼の言葉の調子で、彼が余程難問題にぶつつかつているなという事を感じた。
「ねえ君、当局は犯人の目星がついた、と云つているようだぜ。君の讃えるナポレオンとカイゼルとベートホーヴェンを一緒にしたような犯罪王も案外尻尾を早く出したようだよ」
 私も負けずに彼の調子に乗じてやつた。
「もつと正確に云えば、当局の言明は昨夜秋川邸南側の高塀を乗り越えた怪漢が捕まりそうだという意味だよ。物事は出来るだけ正確に云つてもらいたいな」
「では真の犯人は?」
「だから彼はナポレオン、シーザー、ミケランジェロ、ベートホーヴェン、ショパン……ショパン、そうだ、そう云えば今しがた林田から電話がかかつてね、もしや昨夜僕がショパンのレコードを耳にしたか、もし耳にしていたらどの辺まできこえたかとてきいて来たぜ。あのレコードに気がついたのはさすがに彼だよ。ただ気の毒な事に丁度あの時彼は二階にいて、あの音楽を自分では聞かなかつたんだね。それで、恥を忍んで僕にきいたわけだろう。僕はきいたけれどもどこまでだつたかよくおぼえていないと答えてやつた。たとえ同盟はしても秘中の秘だけはちよつと云いにくいやね。それに先生だつて僕に大分かくしている所があるらしいからな」
「へえ、あれへ気がつくとはやつぱり林田先生だけある」
「いやもつと素早い事があるんだ。昨夜あのレコードを僕がいじつたろうと来た。どうして判つたつて聞いたら、彼もあのレコードに目をつけたと見えてあのレコードを秋川家の者に云つて当局に調べて貰つたそうだ。ところでレコードからは、犯人の指紋のかわりに、駿太郎の指紋とあと二人の指紋がとれたという事だ。詳しくきいて見るとそれがどうも林田と、斯くいう小生のものだつたらしいんだね。お笑い草だよ。あんなトリックをする犯人が、御丁寧に指紋なんか残してゆくわけがないじやないか。あはははは」
 私も一緒になつて笑つている所へ、先に命じてあつたと見えて、給仕が紅茶とトーストを二人分だけもつて来た。
「僕あ、めしはすんだよ」
「そうかい、じや僕だけトーストを食うとしようか」
 藤枝は、トーストを片手に取りながら、ミルクをやけにたくさん紅茶に入れると、むしやむしや遠慮なく朝めしをやり出した。
「どうも朝早く起きるとすぐは食慾がないんでね」
 彼はこんな事を云いながら中々重大問題に触れて来ない。
 やつと朝めしが終ると口をぬぐつて彼は云い出した。
「さて、いよいよ難問題を考えるとしようか」

      3

「四月十七日の夜半、秋川徳子が毒殺された。四月二十日の午後八時四十分頃に同家の息子、たつた一人の男子駿太郎少年と雇人の佐田やす子が庭で惨殺された。そこでこれらの三人は一体同一犯人にやられたのだろうかどうだろう」
「判らないね」
「判らない? そりやまあ僕だつて判然としたことはいいかねる。しかしここにこういう事実を加えて見ようじやないか。秋川という一家の主人に昨年の夏頃から何者とも知れぬ奴が脅迫状をよこす。それが為に主人は神経衰弱になつて一さいの公の仕事から手をひいた。最近ではますます度が強くなつて自分のみでなく家族の人々にも警戒させる。これが第一。ところがこの秋川一家が普通の家庭じやない。何だかしらぬが複雑極まる家である。まず長女はほんとの子らしいが次女がおかしい。次女は父のたねらしいが母がちがう。すなわち秋川の主人が他の女につくつた娘をひきとつて自分の本妻の子として育てているらしい。無論戸籍にもそう書いてあるに違いない。この次女が長女とは仲がよくない。これが第二。更にここに不思議な伊達正男という存在がある。これはひそかに今素性を調査しているから何者の子か、ということは近いうちに判ると思うがこの男がこの次女と婚約者になつている。この婚約の条件として父の出している条件がまた普通ではない。これが第三。それが為に夫婦間に争いがおこつていて嘘か本当か妻は誰かに殺されやしないか、と恐れていた。彼女は夫すらもしまいには警戒して寝室の中から夫の寝室の方に向つても鍵をかけてねていた、夫の方は妻の身を案じて、相変らず警戒しろと云つていたということ。これが第四。第一回の事件が起つてから長女のひろ子は積極的にさだ子のことを怪しんでいる。無論その婚約者の伊達も共犯者と信じられているらしい。ここでちよつと参考に云つておくが、ひろ子は非常に探偵小説にくわしいこと。私の所に思い余つてたずねて来たその夜、事件の直前までヴァン・ダインをしきりに読んでいたという性格の女であること。大変に理智的な女性であること。これらは注意すべきことの第五。
 次にさだ子自身に脅迫状が一回来た。しかし彼女は事件直後、検事の前に出た途端、自分が殺人犯人と疑われているのじやないかと思つてヒステリカルになつた。と同時に伊達正男の行動に対して嘘を云つた。これが第六。事件後秋川駿三自身は誰を疑つているのか少しも判らない。林田探偵に依頼したのは一体いつだかはつきり判然せぬ、これが注意すべき事実の第七、である。無論まだ注意すべき細かい点はたくさんあるがこれは今までに君に云つたことだからここには省く。
 さて右の七つの事実をよく考えて見たまえ。第一の事実は、犯人が家庭外にいることを暗示、もしくは明示しているが、第二以下第七までの事実は反対に家庭内に怪しい人間がいるのを示しているではないか。いやむしろ、犯人は家庭内にありと信じた方が正しい位だ。
 ところで愈々昨日の事件、第二の事件を考えて見よう。一体犯人は駿太郎を殺すつもりだつたのだろうか、佐田やす子を殺すつもりだつたのかしら」
「僕にはよく判らないが、例の草笛の一件から思うと、犯人はまず佐田やす子を、さそい出して殺し、それから(もし犯人が一人だとすればね)駿太郎をおそつたんじやないかな」
「何故佐田を狙つたろう」
「そりや判らないさ。しかし痴情とか何とかいうことがあるからね」
「それならどうして駿太郎をやつつけたろう」
「さあ、……こう考える事は出来るね。佐田やす子を殺している所を見つけられたのでこれも一思いにやつちまつたとね」
「じやその時駿太郎はどこにいたんだね」
 藤枝は皮肉な目付で私を見た。

      4

「君のようなそんなことを云つたつて、僕は犯人じやないのだからそう詳しいことは判らんよ」
「いや失敬失敬。君の考えが一寸ききたかつたものだからね。判つたよ。君の云わんずるテオリーは、つまりこうだろう。例の草笛か何かの相図で佐田やす子が庭に出て来る。相図をした奴は塀を乗り越えてはいりこみ東南の木立の下で話をしたがとうとう談判破裂でやす子を殺してしまつた。これは駿太郎が何かの拍子で庭に出ていて見つけてしまつたのでは今はこれまでというので駿太郎をもやつつけ、来た道から再び外へ逃げ出したとこういうわけだね」
「まあそうだな。それに現にあの塀に足跡があつた以上はね」
「これも一つの考え方だ。これが正しいとすれば今度の事件の犯人は第一回の犯人と全く関係なく佐田やす子に恨みのあつた者の仕業だということになる。ただしこれが為には、少くとも駿太郎が唖だという仮定が必要だね」
「唖?」
「そうだ。だつて彼はたとえ少年とは云え十五才の男の子だぜ。やす子の殺されたのを見て少くともキャーとかワーッとか云いそうなものだが、あの時、誰もあの少年の叫び声をきかなかつたじやないか」
「成程、すると僕の考え方は、まつたく駄目かな」
「いやそうとは云えん、少くともあの塀からはいつた奴のあることはたしかだ。僕とてもあの足跡を、犯人がわざわざつけたトリックだとは思わない」
「うん判つた。藤枝君、じや君はこう考えるのかね。やす子を殺した犯人と駿太郎を殺した犯人とはまつたく別だとね」
「そういう考え方もある。すなわちやす子の犯人は今君が云つたようにしてはいつて来てそうして彼女を殺した。と丁度同じ頃、庭の他の隅で駿太郎が誰かにやられた、というテオリー。めつたにありそうもない場合だが不可能とは云えない。シャーロック・ホームズ曰く『全くありそうもないことでも不可能な事柄を全部ある事実からひき去つた後に残つたことは、真に起つた事実と考えなけりやならん』とね」
「じや君は犯人二人説をとるのかい」
「ところが簡単にそうはいかない。いいかい、今云つたようなわけで駿太郎なりやす子が他の一方の殺人の場に居合わしたとはどうして考えられぬ場合だ。しかして駿太郎は一体何者かといえば、秋川家にとつて最も大切な息子だ。法定家督相続人である。この人間を殺すということは秋川家に怨みをもつている人の最も望ましきことと云わなければならない。だから駿太郎を殺した人間は徳子を殺した人間と同一人だと思うのが正しくはないかね。更に加うるに僕がさつき云つた一から七までの状況や事実を考えに入れれば、秋川徳子の犯人すなわち秋川駿太郎の犯人と考えていいと思うよ」
 彼はこう云つて紅茶をガブリとのんだ。
「で、やす子の方は……草笛の……」
「うん、君はしきりに草笛氏のことを云つてるが無論これは重大な人間だろう。しかし、君は佐田やす子を独立して考えすぎている。そりやあの位の女だから恋人もあろうし情夫もあるだろうよ。けれど君、やす子が秋川家における関係をもう一度充分に考えてもらいたいね」
「関係とは」
「つまり、第一回の殺人事件、秋川徳子の殺人事件において彼女がどういう関係に立つているかということさ。今しばらくやす子の痴情関係や怨恨関係を考えの外にして研究して見給え。彼女は秋川一家に対する怨恨事件に重大な関係がある」
 私はこう云われてはじめて佐田やす子の死体を見た時の林田の言葉を思い出した。
「君は林田の言葉を忘れたかい。彼は彼女の死体を見た時に何と云つた。大切な証人をなくしてしまつたと云つたじやないか。ほんとにそうだよ。僕らはやす子が死んだので重大な証人を失つてしまつたんだ」

      5

「君も知つている通り、佐田やす子は十七日午後に西郷薬局に使いに行つた女なのだ。
 誰もあんなことになるとは思わなかつたので彼女が何時に秋川邸を出て何時に帰つて来たか、また西郷薬局に何時について何時にそこを去つたか、そんなことは一人も覚えてはいない。問題となるのはそこなんだ。しかも甚だ困難な点なのだ。これが正確に判つていればもつと厳しく彼女を責めることが出来たのだが誰も時間を正確にはかつていた者がない。ただ少し時間がかかりすぎたようだと皆がいうのをたよりに僕も林田も恐らくは警察も彼女を訊問したけれども、何分なにぶんこつちに充分な時間的な証拠がないので、とうとう新しい事実は一つもつかみ出せなかつた。もつとも一回は一回よりうまく行つていたので、昨夜あれからもう一回調べたらあるいはほんとのことを自白させることが出来たかも知れない。もし彼女がほんとのことを云つたとすれば少くもあの昇汞が秋川家に来るまでに代つたか、来てからかわつたかが判然とするわけだつたのだ。ねえ、判つたろう、彼女が秋川徳子の事件に対して如何に重大な立場に立つていたかということが」
「うん、成程」
「そのやす子が殺されたのだ、とりもなおさず徳子の犯人にとつては非常な利益じやないか。もし、かの草笛氏が仮りに痴情か何かの結果、やす子を殺したとすれば、彼氏は知らずして徳子の犯人をかばつたことになる。これははたして偶然だろうか」
「しかしもし徳子の犯人が昨夜駿太郎を殺したとすればいかなる方法でやす子を殺したかね」
「さ、そのデテイルについてはあとで考えよう。そこで僕の考えでは、もし草笛氏がやす子の殺人犯人だつたとしたら、とりもなおさず彼が徳子の犯人だとしていいと思うよ。君も知つているとおり[#「とおり」は底本では「とあり」]犯罪によつてまず利益を得る人を疑えということがあるからな」
「じや結局、徳子の犯人もやす子の犯人も、駿太郎のそれも君は皆同一だというのかい」
「明らかに断言はせん。しかし一応そう考えるべきだと思う。ただ、今云つたように、何も知らぬ草笛氏が偶然に徳子の事件の証人を失つてしまつたと考える方法もあるが。少くも徳子、駿太郎は同一人の手でやられている」
 彼はこう云うと、ふと立ち上つて窓の外を見ていたが、傍のシガー入の箱を取り出して私にもすすめ、自分も一本ぬき出して火を点じた。エーアシップの煙の中に、香高いシガーの紫煙が立ち昇りはじめた。
「時に話は違うが、君は犯罪にもまた人の個性があらわれるということを知つているかね。つまりAという人間のやつた犯罪をBという犯人がやれば、決してAのやつたと同じ犯罪が出来るものではない、ということだ。すなわちいいかえれば心理学的に犯罪のやり方特色を見るということだ」
「フィロ・ヴァンス先生がそんなことをやはり云つてるね」
「僕はフィロ・ヴァンス探偵の云う程、ああすべてを心理学的に見るということはどうかと思うが、少くとも今度の二つの事件をそういう角度から観察するのは必要だと思うよ」
 彼は片手を後にやり片手で時々シガーを口にもつて行きながら部屋の中をあちこちと歩きまわつてしやべり出した。
「僕は今回の犯罪を同一人がやつたことと信じている。だからこそその犯人をナポレオンなり天才なりとして尊敬しているのだ。まずあのうす気味悪い脅迫状を思い出したまえ。これこそ堂々たるイントロダクションではないか。そうして十七日に行われたあの悲劇。何と完全に、何と冷静に、何とうす気味悪く行われたことか。かくして Murder Symphony(殺人交響楽)の第一楽章が奏でられ終つたのである」
「何、殺人シンフォニー?」

      6

「そうだ。僕の考える所によればこの犯人は順次に秋川一家の人々をやつつけて行くつもりじやないかと思う。その第一の犠牲者がすなわち徳子だと云うわけだ」
「君はそれを殺人シンフォニーの第一ムーヴメントだというのかい」
「ふん、もし云い得ればね。殺人は音楽ではない。どんな天才だつて多くの殺人をソナタ形式で行つてゆけるものじやないよ。恐らく、最終の楽章まで第一楽章と同じに作り奏して行かねばならない筈だ。それが今云つた通り犯罪には犯人の個性があらわれて来るという所だ。だから、第二の犯罪も第一と同じ色彩をもつていなければならない。すなわち、あのように完全に、あのように堂々と行われるべきである」
 彼はプカリとシガーの煙をはいた。
「くり返していう。堂々たるあの序曲。これは極めて静かに秋川一家にひたひたと波の如くよせて来た。それがすむと十七日のあの惨劇だ。これは完全だけれども極めて陰気に、しかもテンポは緩やかに行われた。……僕は徳子の死に方を云つてるのじやないぜ。犯罪の性質だよ。実によく考え、よく落着き、冷静にことが運ばれている。音楽の言葉で云えばこの第一楽章は andante か adagio である。
 しかして、徳子が頭痛でやす子が薬を取りに行つたというそのチャンスの掴み方が実におちついている。そこで僕はこの犯人はおそらく、予告の如く五月一日に同じ組立の上に第二楽章を演奏すると思つていたんだ。不意に昨夜おこつて僕はいささか驚いたのだよ。五月一日という約束を破つてなぜ犯人は四月二十日をえらんだのだろう」
「君は殺人犯人から紳士の約束を期待するのかい」
「必ずしも然らずだ、が、この犯人のような奴はきつと約束を守るものだよ。今までのやり方を考えて見たまえ」
「うん」
「ここに微妙な心理学的の考察が必要となるのだ。その犯人がだね。予じめ五月一日といつておきながらどうして廿日になつて俄然その第二楽章を演奏したか、という問題だ。しかもあんなに急テンポに僕らの前でたつた三、四分の間にね」
 私には彼のいう所がよく判らなかつた。
「昨夜の惨劇のあの素晴らしさ、あの電光のような速さ。正にこれは Presto agitato だ。第一の楽章をあの荘重なアダヂオで作曲した犯人が何故第二楽章を昨夜突然プレストで書いたか。君にはこれが判るかね。実に予期に反した出来事じやないか。彼は第二の殺人も四月十七日の通りの調子で五月一日に行おうと思つたのだ。昨夜僕らは全く不意を打たれた形だつたよ。しかしこれは何故だろう。
 ここで忘れてならないことは、第二の殺人、すなわち昨夜の事件は、実に早く、素晴らしくものの見事にやつてのけて、大向うをうならせたかも知れないが、第一の殺人に比して甚だしくそのやり方が拙いということだ。作者すなわち犯人は非常な危険を冒して、危く身を以つて免れている。危険に身をさらしただけに案外その結果は見事だつた。だから一般には受けるかも知れない。これがもし探偵小説なら僕は第二の事件から先に書くねえ。何故ならばその方がすぐ読者をひきつけると思うからだ。第一の事件は地味で渋い。第二の方が派手だからな。
「けれども、わが殺人シンフォニーの作者には第一楽章の方が性質に適している筈だ。彼は最終までアンダンテで押し通すべきだつた。彼には昨夜のようなプレストの作曲は元来むかないんだよ」
 彼は立つたまま紅茶をのんだがやがて私の前に腰を下ろした。

      7

「昨夜は僕も実は驚いたんだ。第二の楽章が終つた時、それが余りに第一楽章とちがつているのでひよつとするとこりや作者、すなわち犯人が別なのじやないかと疑つて見た。しかし、昨夜ずつと考えて見るとどうしてもやはり同一人の作としか思われない。秋川一家に対する「のろい」の Leitmotivライトモチーブ が奏せられている限り、どうしても同一人の仕業と思わなけりやならん。とすればだ。どうしてあのような作者たる犯人は五月一日を待たず、昨夜俄に、殺人を行つたか。これに対する解答はたつた一つしかあり得ない。すなわち、五月一日まで待てぬ事情がおこつたのだ。昨夜犯人の予算に入れてなかつたことが起つたのだ。切迫した意外なことが……」
「そりや何だろう」
「さ、何だろう。昨夜意外な予想外なことがおこつた。犯人に危険が迫つた。しかしてその結果やす子が殺されたのだよ」
「…………」
「判らないかい。佐田やす子の問題だよ、僕と林田のあの烈しい訊問だよ。その結果あの女がもしかすると何か自白しやしまいかということになつたのだ。それを云われちや大変だというので、犯人はおどろいて彼女を殺したと思うのが合理的じやないか」
「しかし、君や林田や警察がやす子を相当厳しく訊問するということは犯人はあらかじめ充分知つている筈だろう。ことに君がいう通り犯人が大天才だとすれば、そんなことはとくに予算に入れていなけりやならない」
「えらい。流石は君だ。そうだよ。無論だよ。その犯人は少くとも五月一日まではやす子が生きていても大丈夫と考えていた筈だ。当分やす子は口を割るまいと信じていた。それが急に昨夜あわてたのだ。彼女に対する犯人の自信がぐらついたと見る外はない。そこでこれからの犯罪の様子が大変なんだ。プレストだ。アヂタートだよ。そして仕上げは案外うまく行つたがずいぶんきわどい仕事だつたよ。
 素人目には派手で、素晴らしく見えるかも知れない。しかしあの堂々たる序曲と第一楽章を作つた作者にしては決して誇るべからざる第二楽章ができ上つてしまつたのだ。
 テンポの緩やかな長いイントロダクション、続いて湖水の表のような冷静な第一楽章、アンダンテ、しかして作者はこの章と第二楽章との間に少くとも十二日間という休符を挿入するつもりだつた。ところが予期せざる事情の為に第二楽章は意外に早く、しかもプレストで行われた。秋川一家というテーマの上に組み立てられたこの殺人シンフォニーはかくして第一、第二の楽章がアンダンテとプレストに作られ偶然にもシンフォニーの形式で弾奏されはじめたのだ。はたして第三楽章がつづいて演ぜられるだろうか。……そうだ。ことによると、第三楽章がまた意外に早く来はしないかな。ぐずぐずしてはおられん」
 彼はこういうと、腕時計にチラリと目をやつた。
「そうあわてる必要もあるまい。しかし、気がせくよ」
「そんなに早急なのかい」
「うん、この殺人芸術家はシンフォニーの第二楽章を不用意に開始した。彼如何に天才なればとて、必ずや何か手ぬかりを残している。この手ぬかりの故だよ。もし第三楽章が急に演ぜられるとすれば……しかしまだ時間がある。僕らは例によつて一応昨夜の事件を考えて見ようよ」
 彼はシガーの煙をますます濃くはき出した。
「例の草笛氏のサインで顔色をかえた。この前後のことでだろう。犯人がやす子の様子に自信がおけなくなつたのは」
「だつてあの時は君と僕と林田の三人しかいなかつたぜ」
「何も顔色をかえた刹那をいうのじやない。それから部屋を出て後のようすがどんなものだつたかな」
「それは僕らに判らんね」

      8

「恐らくその時分わが天才犯罪人は、これはどうしても一刻も早くやす子を殺さなければならないと決心したのだ」
「じや一体犯人はその時うちの中にいたのかね」
「さあ、彼女の態度なり様子を知つていた以上、少くも秋川家の門の中にいたと思わなけりやならぬ。問題は、顔色をかえてピヤノの部屋を出たやす子があれから誰に出会でくわしたかということだ。犯人はおそらくやす子と共に庭に出たか、やす子のあとをつけたと見なければならない。それはいずれにせよ、昨夜あの騒ぎの時分、スリッパのまま庭に出た人間が一人あるのだ」
 私はこの時暫く考えて見た。藤枝、私、警部はいずれも玄関から靴で出、ひろ子は下駄で出ている。ただ林田一人は急をきいて二階から下り、靴をはく間もなくそのままあのガラス戸の入口からスリッパでかけ出して来たのだつた。
「うん、林田がスリッパをはいていたよ」
「いや、それ以外にもう一人あるということさ。林田がスリッパをはいて出ていたことはよく判つている。然し彼はあれからまたガラス戸の入口から上つて行つた筈だぜ。ところが君、昨夜、裏口から上つた時僕は一足の土のついたスリッパを発見したのだ。しかも偶然に!」
 私は昨夜のあの時の事を思い出した。
「われわれは一体このスリッパは誰によつてはかれたか、しかしスリッパの主は何のために外に出たかを考える必要がある」
「え……それから駿太郎は?」
「さ、それさ。駿太郎が部屋からとび出したのは決して暴力を用いられたのではないということを君も了解出来るだろうね。少くとも彼は自己の意思で部屋をとび出したのだ。しかも非常にあわててね」
「何か見たのかしら」
「見たとすれば、それは決して恐ろしい光景じやあるまい。もしそうなら、キャーとかワーッとかいう筈だからね」
「とも角レコードをかけつ放しにしてとび出したのだから余程いそいでいたと見える」
「ところがそれ程いそいでいた駿太郎が、ちやんとドアをしめて出て行つたのはどういうわけだろう。君はたしかあそこのドアがチヤンとしまつていたと云うが……」
「そうだ。たしかに……」
「こうは考えられないかね。駿太郎はわざとレコードをかけ放してドアをしめて出たのだと」
「というと」
 私はちよつと判らないのでこうきいて見た。
「つまり彼は、実は自分があの部屋にはいないのに外からちやんと中にいると思われるようにしたのじやないかしら」
「成程」
「次に犯人の活躍ぶりを一応考えて見よう。さきに云つた事情で駿太郎の犯人――恐らくはやす子の犯人はあの庭の木立の中で電光の如くに二人をやつつけたのだ。いいかい。これが人里はなれた一軒家でやつたのではないよ。うちの中にはわれわれはじめ多くの人がいて、いつ偶然のチヤンスから庭に出ないとも限らぬ状態だつたのだ。とすると、犯人は実に短時間の間、身を非常に危険な状態においていたことになる。これは実に彼としては死物狂いの、デスペレートな襲撃と云わねばならぬ」
「実際、もし見られれば万事休矣ばんじきゆうすだからな」
「しかし、この位の大シンフォニーの作者がそれ程大きな危険をいかにデスペレートになつたからと云つて、平気で冒すだろうか」

      9

「かりに犯人が死なないうちのやす子、駿太郎の側にいることを偶然に人に見られて万事休矣という場合に立つただろうか。もしそうだとすれば犯人はわりに長い時間(といつても一分か二分だが)にわたつて非常な危険に身をさらしたというべきである。わが尊敬する犯罪王ナポレオンがいかにデスペレートになつたからと云つてそんなへまをやるだろうか。僕はそうは思わないね」
「というと?」
「すなわち犯人の危険は僅か一瞬間だつたのだ。一秒にも足らぬ間だつた筈だ。駿太郎の頭を割つているところ、またはやす子の首をしめている所を見られれば誰だつて万事休矣だ。しかしこれは時間にして極めて短い。犯人の計算によればこれが発見されるプロバビリティはごく小さかつたわけだ」
「じや殺人の直後に見られてもいいのかい」
「そうだ。僕はそう考えるべきだと思う」
「僕にはちよつと判らないな」
「判らないかい――じや例をあげて説明しよう。今かりに秋川家のおやじが駿太郎の死体の側に立つている所を、偶然僕に発見されたとする。その時彼が『先生、大変です。へんな声がきこえたので来て見るとこの有様です』と云つて僕にすがりついたとして見給え。僕はただちに彼を疑い得るだろうか。彼にとつて万事休矣だろうか。そうじやあるまい。あの家のおやじが自分の庭を歩くのを怪しむわけにはいかないからな。だからかりに駿三が駿太郎を殺すとすれば危険は甚だ少いわけである。これと同じ理由で、ひろ子かさだ子が、やす子の死体の側に立つている所を、誰か女中――例えばあのお清という女に発見されたとしよう。『大変よ、清や。大変よ、やす子が……』と云つてウーンと後にのけぞつて目でもまわして見給え、誰がひろ子やさだ子を疑うだろう」
「成程、では君は、今度の殺人犯人はきつと家の中の奴だと思うのだね」
「いよいよグリーン殺人事件だ。あの時庭にいた犯人は家の中の人々すなわち家族の一人かまたは、やす子や駿太郎に甚だ親しい人間と思うのが至当だろうね、つまり今云つたように殺人直後に発見されても人から怪しまれぬ条件をもつている人間と見るより外はないな」
「しかしあの時駿三もひろ子もさだ子も初江も皆アリバイをもつているぜ」
「しかし共犯者という者があるからな」
 私はこの時伊達正男のことを思い出して一種の戦慄が身体を通つて行くような気がした。
「少くとも直接手を下したのは、家庭の者ではない。……とするとまず伊達だな」
「そうだ、伊達なら今僕が云つた条件にかなうことはかなうよ」
「するとその共犯者はさだ子ということになるね、無論」
「小川君、君はものの表ばかり見ているからいかん。成程、かりに伊達を犯人だとすればさだ子が当然共犯者だということになる。しかしそれは表向きの話だぜ。伊達とさだ子は婚約者だ。しかし君は彼ら二人の恋人がしたしく抱擁をする所でも見たことがあるのかい。ねえ、婚約者には違いない。しかし愛情の点は誰も見ていないぜ。否、かりにある程度まで愛情があつても、もし伊達が犯人だとすればそんな男は誰とでも妥協し得る筈だ。ことに秋川家のようなへんな家の者ならね。彼はあるいはひろ子とひそかに妥協しているかも知れない。初江と通じていないとは限らぬ。否、あのおやじとどんな妥協をしているか判つたものではない。この中でひろ子かさだ子と妥協しているということは最も考え得べきだ」

      10

「ねえ君。今回の犯罪によつて一番利益を得たのは誰だい。十七日の殺人事件によつて一見利益を得たと思われるのはさだ子及び伊達だ。然るに昨夜の殺人事件によつて利益を得たのは誰だろう。佐田やす子の死によつて利益を得たのはさきにも云つた通り犯人Xだ。しかし駿太郎の死は誰に得をさせたか。考えて見給え。駿太郎は秋川家の法定家督相続人だぜ。それがなくなつて女の姉妹だけが三人残つた。そうすれば長女がまず一番得をするわけじやないか」
「じや君はひろ子が怪しいと云うのか」
「うん、怪しいと云えば皆怪しい。そうだ、秋川一家の人々悉く怪しむべしと云いたいね」
「犯人が全く秋川家の外にあるとすれば無論別だ。僕は十七日の事件の後でここで君にまさかこの事件がグリーン一家と同じことになるのじやあるまいと云つた。しかしこの言葉は取り消さなければならないかも知れぬ」
「ところでまず第一回の事件すなわち四月十七日の事件だ。嫌疑から全く遠ざけていいのは第一に駿太郎だ。次に初江だ。この二人は全然薬のことも何も知らなかつたらしいから。そこで疑えば他の家族のメンバーを皆怪しむことが出来る。その嫌疑者の第一は駿三さ」
「どうして彼が妻を殺すだろう」
「そんな動機なんか、すぐ判るものか。ことにあんな秘密の多い家のことだもの。駿三を犯人とすることは最も便利な説明のつき易いテオリーだよ。夫のことだから妻のねる時妻の部屋にはいるのは極めて自然だろう」
「だつて中から戸に鍵がかけてあつたぜ」
「君は徳子が内から鍵をかけるのを見たのかい。ただ駿三自身がかかつていたと云つてるだけじやないか。ひろ子はただその話を父からきいたにすぎないよ。駿三が妻の部屋に入り、何か話している間に薬をすりかえる。そうして、妻に昇汞をのましておいて素早く自分の部屋に去るのだ。このテオリーは徳子の寝室の天井に電燈がついていた、ということを説明するのに極めて便利だ。普通ねて薬をのもうとする者は、大抵スタンドをつけて、天井の燈はまず消すものだからな。こう考えればアンチピリンが見えないのは不思議ではない。すなわち駿三がどこかにかくしてしまつた、と思えばいいわけだ。鍵は騒ぎがおこつてあとからかけたと見ればいい。同じようなテオリーはひろ子を犯人としても成立する。ただ夫と娘と代るだけだ。ひろ子が母親の寝室にはいることだつてちつとも不思議はないからな。ひろ子が何かの理由で母を殺したとすれば彼女は実に絶好のチヤンスをつかんだのだ。彼女は殺人を行つて自分が疑いをのがれると同時にさだ子に嫌疑が向くようにしたからだ」
「しかし君、徳子の最後の一言は? あれでは夫やひろ子に嫌疑をかけるわけには行くまい」
「判らない人だね君は。こないだも云つた通りあんなことはひろ子の出鱈目かも知れないじやないか。またもし、ほんととしても、徳子は薬をすりかえられたことを知らないのだから、発議したさだ子のことを云うのに少しも不思議はないよ。さて次がさだ子。これも充分疑つていい。理由は今までと同じ。加うるに母と仲が悪いという重大な点がある。だから家族すべて怪しいと云つていいようだ。家族以外ではまず伊達だね。これはさだ子を疑うと同じ理由だ。ただ薬をすりかえる為に徳子の寝室にははいれまい。まずさだ子の部屋であろう。佐田やす子は僕は犯人でないと思う。これは後に殺されたからばかりではなく、一体秋川家の者を恨んでいる奴が、図々しくそこの家の女中になりますということは余り大胆すぎるからね。ただ以上、誰の場合でも、一番説明のしにくい所は、一体犯人は昇汞をどうして手に入れたかと云うことだよ」

      11

「第一回の犯罪においては今いつたように、駿三、ひろ子、さだ子、伊達の四人を疑うことができる。ところで第二回すなわち昨夜の犯罪ではどうだ。このうち、駿三、ひろ子、さだ子の三人はいずれも直接の犯人ではない、といわなければならぬ。皆が皆完全にアリバイをもつていることすでにいつた通りだ。
「ところで始末の悪いことに、今いつたように一番怪しく思われる――すなわち直接の犯人と疑い得べき伊達正男はこの三人のどれとも、ひそかに連絡し得るのだ。では右の三人はいずれも同じ程度に疑わしいかというにそうではない。
「僕は父親になつた経験はないけれども、父が子を殺すということは、姉が弟を殺すというよりもはるかにかたいと思つている。従つてこの場合、ひろ子、さだ子の方が駿三よりも疑うとすれば程度が高かるべきだ。
「ところで、僕はここで君に昨夜の事件のうち、最もデリケートな一点を特に指示したい。それはあのレコードのトリックだよ。犯人が何故あのレコードに変な仕かけをしたか、僕は昨夜の犯罪の重大な特色の一つとしてあのトリックをあげたい。夕べ君に示した通り、あのレコードは知らない人が見ると、トリオの部分まで行かぬ所で君が針をあげてしまつたことになつている。そういうトリックだ。僕は幸いあれと同じレコードをもつているので昨夜おそくうちで、標準スピードでかけて見ると、あそこまでは丁度二十四秒しかかかつていない。ほんとに君が針をあげた所までやると正確に一分二十秒かかる。こんなトリックを何故やつたか。そもそもかようなトリックが通常の犯人に考えつくことだろうか。実にこの点だよ。あれは、今回の犯人がやつたことの中で一番賢いところだが一方から云えば、大変な手落ちだつた。何故ならば、僕らは、愚かな頭脳所有者を嫌疑者の中からオミットすることが出来るからねえ。あんな利口なまねの出来る人がもし秋川家の中にいるとすれば一体誰だろう」(ヴィクターレコードの標準スピードは一分間七十八回転。作者附記)
 藤枝はここまで来るとちよつと黙つたが、ふとまた云つた。
「今回の犯罪で注意すべきはまず此の点だろうね」
 私はこの時思い出したことがあつたのでたずねた。
「駿太郎ね、一体あの少年をすつぱだかにして後手に縛つてなぶり殺しにするとはずいぶんひどいやり方じやないか。もし彼をただ殺すのが犯人の目的だつたとすれば……」
「さあね、しかしここに駿三に深刻な恨みをもつている奴がいて出来るだけ彼を苦しめようとすれば、出来るだけその子を残酷に殺すことになる。現にその目的は充分達しているぜ。駿三はわりにしつかりしているが心の中ではずいぶん苦しんでいるらしいからな」
「駿太郎は何と云つたつて少年だ。そう大して人に恨まれているとも思えない。して見ると親の因果が子に報いたという次第かな。そうするとただ財産関係であの少年が殺されたというわけでもないね」
「君は中々うまいことを言うよ。いい所に気がついたね。全くそうだ。問題は二つある。第一は何故駿太郎が殺されたかということ。第二は何故彼があんな殺され方をしたか、あんな残酷な殺され方をしたかということだ。あの少年の殺された方法はたしかに今度の事件で考慮に入れるべき特色の一つだよ。この二つの問題を同時に満足させるべき答はただ一つだ。すなわち非常に深刻に駿三を憎んでいる人の犯罪だという解答だ」
 彼はこう云つて私をしばらく見つめていたがやがて三分の一程にもえつくしたシガーをポンと灰皿に投げこんだ。
「けれども、もう一つ妙なことに君は気がつかないかい」

      12

「さあね」
「あの豊頬の美少年を素裸体すつぱだかにした上、後手に縛つてしめ殺したり、あるいは頭を割つたり、やす子の胸まではだけて殺していたりして何となくこの犯罪は、いわば変態的なエロティックな臭味を大分もつているとは思わないかい」
「そういえばそうだね」
「やす子の方はまあ抵抗の結果ああいう死にざまになつたとしても駿太郎の着物をはいだのはどうしたつて犯人だからね。死んだ後にはいだかもしれないけれど……」
「しかし君、後手に縛られた手首が大分すり切れていた所を見ると駿太郎は縛られてからかなりもがいたらしいじやないか[#「ないか」は底本では「ないか。」]
「えらい。中々君はよくおぼえている。じや君、もがいている間に少しも叫び声を立てなかつたのをどう説明する?」
「そうさね。まずガンと一撃頭をなぐつて昏倒したひまに着衣をとつてはだかにし、それから縛つて駿太郎が息をふき返したとき改めて絞り殺したんじやないか」
「その通り。解剖の結果で判るだろうが、僕もそう思うよ」
「ともかく、駿三に深刻な恨みをもつている奴の仕業しわざとすれば、少くもひろ子、さだ子、伊達の仕事としちやちよつとおかしいな」
「君、物には裏の裏ということがある。僕が検事をしている時に取り扱つた事件で、一見財産の為の人殺しのように思われて調べて行つたら実は痴情の故だということが判つたのがある。また丁度それと反対なケースもあるよ。だから外見からうつかりスタートすると、とんだ迷路にはいり込んでしまうものだ。僕は今度の駿太郎の死に方を一つの特色にかぞえるけれども、この特色に決してごまかされてはいかんよ。案外犯人のあくどいトリックかも知れんからね」
 藤枝はこういうと、シガレットケースからエーアシップをまた一本とり出した。
 この時電話がチリチリとなつたので彼はいそいで立つて行き、暫く話していたが、まもなくそれが終ると、にこにこしながらもとの椅子に腰をおろした。
「奥山君からだよ、頼んでおいたのでけさ二人の死体の解剖に立ち会つた結果を報告してくれたんだ。駿太郎の直接原因は、絞殺だそうだ。つまり、ガンと食わせた方がさきで、後に絞殺ということになつて、今君の云つたのとよく合つている。それからやす子の方は扼殺だということが明らかになつたよ」
 するとまた、電話のベルがけたたましく鳴りはじめた。
「おやまた奥山検事からかな」
 藤枝はいそいで立つて受話器を手にとつたが、
「あ、高橋さんですか。何、けさ捕まつた? どこで? 新宿駅で? そうですか。うかがつてもいいですか。じや、御邪魔します」
 と云つて電話を切るとすぐ私の前に来た。
「何だい。犯人が捕まつたのかい?」
「うん、けさ早く牛込署の刑事が、方々の停車場に張り込んでいると妙にそわそわした男を新宿駅で発見したそうだ[#「そうだ」は底本では「そうしだ」]。不審訊問をすると答がおかしいのでとりあえず署につれて来たら、ようやつともう少し前に昨夜秋川邸へ侵入したという事実を自白したそうだよ[#「そうだよ」は底本では「そうだよ。」]
「殺人もか」
「そこまでは行つていないらしい。司法主任の好意で来るなら来てもいいつてことだから行つて見ようじやないか」
 無論躊躇すべき場合ではない。
 藤枝と私とはすぐに自動車に乗つた。

   被疑者

      1

 車に乗ると、彼は相変らず自動車中を一杯に煙草の煙を吹きつづけたが、何を思つたか、ふとこんなことをいい出した。
「あの、伊達正男という青年ね。ちよつと好意のもてる顔をしているじやないか。いい青年だよ。僕は、彼が今度の犯罪事件に全く関係のないように望んでいるんだがね。そういえばあの男たしかに誰か僕の見た男に似ているよ。どうも思い出せない……」
 私にはしかし彼のいつてることがよく判つていた。伊達は、そのおもざしが、花形力士天竜をまともに見た時の感じによく似ているのである。あの凛然としていて同時に一くせありげな面だましい、ともいうべき顔によく似たいい男である。
 この年の一月場所、私は藤枝を角力にさそつたことがあつた。少年時代に、うめたに常陸山ひたちやまの角力を見た切り、さつぱり角力を見たことのない彼は、つまらなそうに土俵を見ていたけれど、幕内の土俵入りの時早くも彼は天竜を見て、
「ありやいい角力だね。何ていうんだい」
 と私に説明を求めた。
 ついで天竜が土俵に登つて能代潟のしろがたと戦い、掬投すくいなげでこれを仕止めると思わず拍手を送つて喜んでいた。もつともこの日人気の焦点となつた勝負は武蔵山と朝潮の一番で、立ち上つてから左四つになるまで、朝潮甚だしく優勢で、武蔵山は東二字口に寄りつけられ危く見えたが、これを残して左をさすと、朝潮の打つた例の強引の小手投げに乗じて、掬投げを打ち返し美事に武蔵山の勝となつたのである。
 藤枝の頭の中には天竜の顔がおぼろげながらうつつて伊達と結びついているのだろう。
 私はわざと何も云わず、やはり煙草をふかしていた。
 自動車が警察署の前につくと、藤枝と私はただちに、高橋司法主任の部屋に通された。
「さき程はありがとう。早速小川君をつれてうかがいましたよ」
「いや大分手ごわいので刑事も閉口したらしいのですが、やつとさつき口を割るようになつたので、取り敢えずおしらせしたようなわけで」
「ありがとう。で、供述はピンと来ますかね」
「まあ、殺人の点は否認しておりますが、邸宅侵入は立派に認めています。この点は間違いはありません」
「ふうん、で、動機は窃盗ですか」
「いや。被疑者は佐田やす子の情夫ですよ。僕の方でも調べたんだがあの佐田やす子という女は今まで方々のバーやカフェーを渡り歩いた女ですな」
 この時、給仕がわれわれの為に茶をもつて来てくれたが、私は高橋警部の前におかれた訊問書の上書をちらと見ることができた。
 そのはじめの行に何かむずかしい法律語が書いてあつたが次のところには、
    住居不定  無職
      岡本一郎事  早川辰吉
           (当二十三年)
 と記されている。
 藤枝も茶に口をうるおしながらそれを認めたものと見え、
「その早川辰吉というのが、今日の被疑者ですね」
「そうですよ。さつきから暫く休ませてあるのですが、もう一度ここで改めて供述をきく所だつたのです」
 高橋警部はそういうと卓上の呼鈴を押した。
 やがてドアがあいて、制服の巡査がはいつて来ると、警部は何か小声でささやいていたが、巡査はすぐ立ち去つた。
 二、三分程たつと、さきの巡査が一人の青年をさきにたてて部屋にはいつて来た。
 これが早川辰吉という男であろう。

      2

 私はその青年を見て少々驚いたのである。
 昨夜あの秋川邸に侵入した上、二人の人間を殺したのじやないかという恐ろしい嫌疑のかかつている男のことだから、しかもその上、刑事を相当手こずらしたのだという以上、余程獰猛どうもうな青年が現れると想像していたのだ。
 ところが、今われわれの前に出て来た早川辰吉はどう見てもそんな大犯人とは見えない。かりに犯罪をやつてもたかだか空巣を狙う位の所だろう位にしか考えられない。
 暫く留置場におかれたので眠不足ねぶそくの顔色は全く衰弱し切つてはいたが、一見やさしい好男子で、しかもどことなく品がある。
 今車の中で話に出た伊達を凛然という言葉で形容すれば、この早川の方は決して凛然ではないが、やさ男である。伊達がどこか天竜を偲ばせるとすれば、早川の方は役者の感じだ。(私は読者に早川辰吉の顔をはつきり呑み込んで貰いたい為に、東京の福助の顔をあげたいのだがあれでは余り美しすぎる。あの感じの顔をもつとずつと汚くして考えて頂きたいと思う。それに加うるに時蔵の憂鬱そうな感じを混ぜて考えて頂けばややこの男のようすが判ると信ずる)
 よごれたかすりの着物に兵児帯をしめ、足には草履をはいている。
 すつかり諦めきつたという様子で、警部の質問に対して、語りはじめた。
(早川辰吉が育つた所は、彼の供述でも判る通り関西方面なので彼の話は全部上方弁で語られたのだが便宜上、ここには標準語に改めて御紹介する)
「私は早川辰吉と申し本年二十三才になります。最近牛込区○町○丁目の八重山館という下宿にまいりましたが別だん職業というものはありませぬ。私の父母は相当の商人で、質屋をしておりました。私の少年時代には父母は健在で大阪におり、私も同地の小学校に通つていたのです。小学校を出る頃父を失いました。しかし、資産は相当ありましたので私は別段困ることもなく、つづいて同地の某中学校に入学致しました。中学の三年の頃母を失つてしまつたので、大阪市外に当時住んでいた私の叔父の所に預けられ、そこから学校に通つておりました。
 それからずつと叔父の所で通学して居りましたが、中学を出る頃になつて、私ははじめて、父の財産の全部を叔父に横領[#「横領」は底本では「横母領」]されていることに気がつきました。無論私は叔父だの叔母[#「叔母」は底本では「叔」]だのとさんざん争いましたけれども、とうとうごまかされてしまつたのです。叔父は私の後見人である地位を利用して実に非道な事をやつてしまつたのです。そうです、叔父があんな奴でなかつたなら私も今こんな浅ましい姿にはなつていなかつた筈なのです」
 彼はこう云つたが余程残念だつたと見えて涙が一杯目にあふれて来た。
「親戚の人々もこの悪い叔父に楯をつく者は一人もないので、私全く一人ぼつちになつてしまいました。でも中学を出ると、進んで高等学校に入る気だつたので、一回その入学試験を受けましたがうまくまいりませんでした。これが丁度私の十九才の時であります。
「叔父は私に僅かばかりの資産を渡して、私が堕落するようにしむけました。今から思えば実に残念なわけですが、当時一方には自暴自棄になり、一方若いのに少しばかり自由に金が費えるようになつたものですから、私は日夜酒色に耽るようになつてしまいました。全く私は叔父のうまい計略に引つかかつてしまつたのでした。叔父は一方私に自由になる金をまかせて、酒色に溺らせるようにしておきながら他方多くの親戚達に、いかに私が愚か者であり、手におえぬ道楽者であるか、という事を宣伝してまわつたのです」

      3

「それまでは、表向き叔父に反抗しないでもかげではひそかに私に同情していてくれた人たちが親戚の中にも友人の中にも二、三あつたのですが、日毎にすさんでゆく私の有様を見、またそれを誇大して伝える叔父の宣伝の為に、皆私に愛想をつかして、だんだんと遠ざかつてしまいました。
「二十歳の春に私はバーに通う事を知り、その年の秋には茶屋酒の味を知りました。私はほんとうに淋しかつたのです。父母が生きていてくれたら……何度、どんなにこう心で叫んだか分りません。一番近いと思つていた親戚に裏切られた私は、色街にさまよいながらもいつも他人の――ことに異性の親切、真心をしたい求めるようになつたのです。
 私が、全く酒色に溺れ、とうとうある廓の女と懇ろになつたのは、真に叔父にとつては思うつぼでした。彼は私の知らぬ間に、親族会議を開いて私が到底父の業をつげぬ男だということを親戚一同にも認めさせ、公然と私の家を乗取つてしまつたのでした。御上の前で恐れ入りますが、実際こういう人間が平気で大きな顔をしてくらしておるなんて、世の中というものは変なものだと思います」
 辰吉は真実うらめしそうにこう云いながらわれわれの方を見た。警部は石のように無表情で彼のいう事をだまつてきいている。藤枝はしかし、いかにも同感というような顔付で、早川辰吉をながめた。
「私の家を乗取つた叔父は公然と私を追い出しました。否私の方からとび出たのです。そうして南地に出ていた金三という芸者と大阪市外に半年程同棲するようになりました」
「その姓名は?」と警部がちよつと口を入れた。
「岡田かつ子と申しました。当時は未だいくらか金もありましたので、二人でのんきにくらしておりましたが、半年程一緒におりまして事情があつて別れました。これが二十一才の時であります。それから後懇意になつたのが、今度事件になりました佐田やす子という女で、これは道頓堀のシュワルツエ・カッツエというバーの女給でした。
 昨年の一月頃に私はそこへ行つて懇意になりました。当時やす子ははるみという名で出ていました。その頃はもう余り金もなく、公然と一緒になるのもうるさかつたので、忘れもしませぬ、昨年の一月廿八日、二人で大阪を逃げ出しまして、名古屋におちついたのでした。名古屋には、やす子も元いたことがあるという事だつたので、都合がいいと思つたのです。
 昨年の七月までは、無事に二人で何とかして暮していたのですが、いよいよ生活が苦しくなつたので八月からやす子をまた名古屋のあるバーに出して働かさなくてはならない状態になつてしまいました。
 私は、式こそあげないでも、まあ私の妻であるやす子を、バーに出すということには多少の不安を感じないではありませんでしたけれども、今申したように金が無くなつたので、これはどうもやむを得ないことだつたのです。
 やす子の様子が怪しく思われはじめたのは九月半頃なかばごろからでしたが、でもこれは私の邪推だと思つて我慢をしておりました。丁度その頃私も何か働かなくてはならないので、やつと小さな印刷屋に、毎日出て働く口を見つけ[#「見つけ」は底本では「目つけ」]ました。
こうやつてまず九月は無事にくらしたわけです。
 十月にはいつて丁度五日の日でした。私は終日働いてやつと夕方六時頃、うち――といつても無論間借りなのですが――に帰つて見ると、やす子がいないのです。気がついて見ますと、やす子の持物が全くありません。畜生! 情夫を作つてとうとう逃げやがつたな! と私は思いました[#「ました」は底本では「ました。」]

      4

「それから私はおはずかしい話ですが、全くやす子を探すので夢中でした。私は毎日餓鬼のようになつて名古屋中をうろうろたずね廻りました。やす子の出ていた店は勿論、バーとカフエーを片つ端からたずねあるきまわりましたが全く彼女の行衞ゆくえが判りませぬ。
 十一月なかば頃まで探しましたが何処へ行つたのかさつぱり見当がつきません。それで十一月になつてから、再び大阪に戻つたのです。彼女の逃げた相手の男の手懸りさえあれば、勿論何とかなるのですが、てんでその相手さえ判らないのです。
 大阪に戻つて恥を忍んで一時叔父を訪ねましたが、叔父は全く相手にしてくれません。それで私は、又労働をしたり色々なことをしながら大阪中を探しまわりました。
 昨年中大阪におりましたが、元のつとめ先のシュワルツエ・カッツエという家の、他の女給の話から彼女が東京に行つているようなことをちらとききましたので、旅費を工面すると早速上京いたしました。それが今年の一月のことであります。
 東京は広い上に、何分私ははじめての所なのでどこをどう探していいかさつぱり判りませぬ。銀座のバーを片つ端からたずねようと思つても、金がなくては表からはいるわけにも行かず、その間私は新聞を売つたり何かして云うに云われぬ苦心をいたしました、女一人の為に馬鹿な話ですが、私は全く夢中だつたのです。
 でも、一心というものはおそろしいもので先月はじめに、渋谷の方で、彼女の姿らしいものを、乗合自動車の中で見かけたのです。私は歩いていたので、そのまま追つかけるわけにはまいりませんでしたが、それからというものは渋谷の方にきよをうつして毎日毎晩あの辺を見張つておりました。
 偶然の機会から、渋谷の小さなバーで彼女らしい者がその近くのバーにいることをききましたので早速行つて見ますと、二、三日前にひまを取つたばかりの所でした。それは本月のはじめのことであります。
 しかしこれまで判れば、あと探すことは余程楽になりました。私は彼女の兄弟ということで、そこの店でいろいろききますと、大分探り出すことが出来ましたので、更にやす子が頼みに行つたらしい桂庵を捜しますとちようど本月八日に、牛込の秋川という家に奉公に上つたということが判つたのです。どこをどう胡魔かしたのか、ちやんと姉という人が保証人になつておりますそうです、がそれは渋谷のバーに一緒にいた年上の女で、今は男と一緒になつて一軒ちやんと店をもつている人らしいのです。
 私は、その日から今おります下宿に岡本一郎という偽名ではいり込んで、毎日秋川家の様子を見ておりました。勿論、はじめの考えでは、いきなり秋川邸に彼女を訪ねるつもりだつたのですが、さて門の前まで行つて見ると、余り立派なので急におそろしくなり、いつか彼女が出て来たら会つた方がいいと思いなおしました。電話をかけて相手に警戒されるのもつまらぬと考えて機会を待つていたわけです。するととうとうその機会がやつて来ました」
「ちよつと」
 藤枝が、急に口を出したが、ちらと警部の方に許しを乞うような顔付をした。
 警部も別に反対しなかつたらしいので、彼は早川辰吉の方に向き直つた。
「それがつまり今月の十七日の午後だつたのだろう。佐田やす子が秋川邸を出て薬屋に行つた時、君は彼女に会つたわけだね」
 この質問は私にとつてはまつたく意外だつた。
 しかし早川は別に驚きもせずに答えた。
「はあ、本人もそう申しましたのですか。おつしやる通り、あの日の午後、私はやつとやす子をつかまえたのでございます」

      5

「会つた時の話を詳しくしてごらん」
 今度は警部が早川に向つて云つた。
「はい。あの日、やはり私は、いつもの通り秋川家のまわりをうろうろしておりますと、何時頃でしたか、ともかく夕方、裏門から彼女らしい女が出てまいるのです。すぐにかけつけて話をしようと存じましたが、彼女は何かひどくいそいでおりますので、私は考えをかえ、ひそかに尾行してまいりました。すると五、六町も行つた所の西郷薬局という店にはいりました。私は一分を一時間位の気もちで持つておりますとやつと出てまいりましたので、曲り角でいきなり彼女に出会したのです。
 この時のやす子の驚きは申し上げるまでもありません。私は今まで思つていたことが一時に胸に迫つて来て何から云つてよいやらほんとにわけが判らなくなつてしまいました。しかし何分往来中のことでもありますので、二、三町廻つた所の小さな公園の中にはいり、ベンチに腰をかけて六、七分ばかり話し込みました。無論彼女は逃げよう逃げようとしていたのでありますが、私がおどかしてつれて行つたのです。
 ところが、やす子は、帯の間から薬の包を出して、何分今急病人があつてこれを取りに行つたのだから、今は長い話はできぬと申して逃げようと致しました」
「ちよつと君。やす子はその薬袋を手にもつてはいなかつたかね」
 藤枝が言葉をはさんだ。
「いえ、帯の間から出して私に見せたのです。私も、ともかくここで長い話はできぬ。では今はこれで別れるが今夜ひまがあつたら会おうじやないか、と申し出しました。それまで彼女は、決して情夫なんかあつて逃げて来たのではない。これには深いわけがあることだとしきりと弁解しておりました。今度、僕が邸の塀の外で草笛をふいたらそれを合図に必ず出て来い、出て来ないとどんな目にあわすか判らないぞ、とこう申して仕方なく十七日の午後は別れました。その夜、塀外でしきりと合図を致しましたが、一向やす子は出てまいりませぬ。癪にさわつたので電話をかけて見ますと、いきなり外の女の声がしたので何も云わずに切つてしまいました。
 そのあくる日、朝から見張つていると、何事が起つたか、朝から警察の方々がしきりと秋川家に出入していられるようです。こりやどうしたのかなとふしぎに思いながらその日の夕刊を見るとあの始末です。これじやとても今日はやす子が出ては来まいと、十八日中はあきらめて、帰つてしまいました。
 十九日の朝早く、電話をかけますと、ちようど偶然やす子が出て来ました。今夜はあわねば殺してしまうぞと勿論これはおどかしで申したのですが、今夜は明日の葬式の為にとても出られぬと申します。じやあしたの夜、すなわち、昨夜です。二十日の夜合図をしたらきつと出て来い、出て行く、と申すことでしたので、私は電話を切つてしまいました。
 それで、やす子が逃げてしまわぬよう見張りをやつて居りましたけれども十九日はどうすることもできません。昨夜、よくおぼえませぬが、八時ちよつとすぎ塀の外に行つて合図をしましたが一向に返事がありません。またしばらくたつて多分九時前でしたろう、私は塀の外からもう一度合図の草笛をふいたのです。
「するとしばらくたつてから、庭の方から石がとんで来ました。見ると紙がまきつけてあります。心をおどらせてひろげ、むこうの街燈の所まで行つて開いて見ると鉛筆の走り書きで今スグ行クカラムコウノポストノソバニイテオクレというのです。私はもはや一刻も待ち切れません。石のとんで来た塀をのりこえていきなり中に飛び込みました」

      6

「塀に手をかけて、身軽に塀の上に乗つた私は、多分桜の木でしよう、大きな木の幹に伝つて、すぐ中にはいり地上に下りました。この時はやす子に会いたいので夢中だつたので、無論外から中の様子を研究した後ではなかつたのですが、塀の外から見て、木のこんもり茂つた暗い庭に出るとは考えていました。
 いきなり庭の中に飛び下りた途端、急にまつくらな所に来てしまつたので充分あたりが見えませんでした。しかし、やす子のいる所はすぐ判りました。それは彼女が、
『あら、あなた来ちやつたの?』
 と小声でいいながら私のそばに来たからであります。いいえ、彼女は私の姿を見てすぐに逃げようとしたのではありません。彼女の方から寄つて来たのです。それは無論、逃れぬ所と覚悟していたのかも知れませんが。
「私はいきなり彼女の腕を掴んで自分の思つている所をしやべりはじめました。するとやす子は手早くそれを遮つて、決して情夫などと一緒になつて私を裏切つたのではないということを語りましたが更に、
『実は十七日の夜私が取りに行つた薬が大変な劇薬に変つていて奥様がおなくなりになつたの、それで私は途中でもしあなたに会つたと云つて疑いがあなたにかかると悪いから今まで検事だの、刑事だの探偵にずいぶん責められたけれども、一言もあなたに会つたことは云わなかつたのよ。それでどうも私が疑われているのじやないか、と思うの。だけれどたつた一人大変親切な方があつて私をかばつていて下さるので今までは無事なんだけれど……。ともかくそんな有様なんだから今ここにぐずぐずしていては大変よ。今言つた通り外で待つててちようだい。きつと行くから』
 とこう申すのです。
 彼女のその時のようすは万更嘘でもなかつたらしいのですが、私はもうのぼせ切つておりますから、
『そんな事を云つて逃げようとしても駄目だ。今度こそ逃しはせぬぞ』
 と云いながら彼女の右の腕のところを両手でしつかと押えました。
 やす子は、ともかく今ここで話しているのを人に見られては大変と云いながら何とかして逃げようとしますので私も怒りの余り掴んだ彼女の腕をとつて二、三尺自分の方に引きずりよせした。
『あなた、ほんとうにそんな乱暴をする気なの。じや声をあげて人をよぶわよ』
 と申しましたが、さすが、大きな声もあげませんでしたが、家の方を見て急に、
『あれ誰かこつちに来る!』
 と叫びました。
 思わず私が、立派な母屋の方を見ると、ちようど燈のついている部屋の横から誰か来るのが見えます。私は驚いて手を放し、小声でじやあとで来るのを待つてるぜ、
 と云うや否や再び同じ木から伝つて外に逃げたのです」
「うんお前は、そこでやす子と今云つた通りの問答をしたんだね。そしてお前は、あざのつく位強い力でやす子の腕をつかんでいたのだな」と警部が云う。
「そうです」
「お前の今までの話ではやす子は情夫と一緒かどうかは別としてともかくお前を嫌つて逃げ出したと思わなけりやならん。これはいくらお前が自惚れて見たところで認めなければならぬ筈だ。そのお前がいきなり庭にとび込んだ時、女の方から寄つて来たというのもずいぶんおかしな話だが、あんな乱暴されている間、黙つていたというのはちとうけとれん話だね」

      7

「ですけれど今申した所がほんとなのです」
「腕をあんなに痛められた上に引ずられたりすれば、大きな声をあげなけりやならない。……お前その時、同時に首をしめたんじやないか」
「いいえ、決してそんな……」
「しかしその時は、今お前の云う通り、お前は夢中になつていた筈だ。夢中であるいはやつたかも知れないではないか」
「いえ、私は決して彼女を殺す気なんかははじめからないのです」
「そうではない。私はお前がやす子を殺そうとしたとは云わん。しかし今云つたように叫び声をとめようとして夢中で手をやつたんじやないか。そうだろう。よく考えてごらん」
「…………」
 早川辰吉は暫く何も云わずに下を向いていたが、やがて眉をあげて、
「いえ、どう考えても左様なことを致したおぼえはありませぬ」
 ときつぱり云い切つた。
「じやお前に云うが、お前が昨夜話したという佐田やす子は、すぐあの後、首をしめられて死体となつて発見されたのだ」
「え、何ですつて? やす子が……殺された……」
 若者は思わずこう云つたが急に今まで緊張していた表情が弛緩して、ぼんやりした目つきになり、唇がだらりとたれ下つた。
 この様子を見ると、彼は、やす子が死んだのを、今まで全然知らなかつたという外ないが、犯罪人のやるうまい狂言はこうした時に巧みに行われるものだから反対にこれを実に上手な芝居だと解釈することもできるわけだ。
 警部は若者のようすをしばらく黙つてながめていたがやがて問を発した。
「じやお前は、今までやす子が殺されたのを全く知らなかつたのかね」
「はあ、全く……」
 いかにも全く知らなかつたように早川は答えた。
「それじやきく」
 警部の調子は急に厳然となつた。
「お前は何故ゆうべおそく、つまりけさ早く新宿駅をうろうろしていたのだ。さつき云つただけのことならまた下宿に戻つていればよかつたじやないか。お前がどこかに高飛びをしようとしていたのは、とりもなおさずお前がやす子の殺されたのを知つていたからではないか。云いかえればお前があの時殺したからだ。殺す気はなかつたかも知れん。しかし夢中で首をしめている中、女が仆れたのでお前は驚いてとび出しそれから一旦下宿に戻つてまたとび出した。お前は人殺しという大罪を犯したから高飛びをしようとしていたのだろう」
「いいえ、決してそうじやありません。そんな……そんな大それた事を私が……やれるわけはありません」
 早川は意外な嫌疑が自分にかかつているのをはつきり感じたという風に泣声になつて叫んだ。事実彼は涙をぼろぼろこぼしながら語つたのである。
「とんでもない。そんなこと。私は、塀からとび出すや否やすぐ例のポストの所に行つて待つていました。中々待つてもやす子が出て来ないのでしばらくしてまた塀の近くに行つて草笛をふこうかと思つていますと、何事が起つたか、巡査が二、三人秋川邸のまわりを歩いています。こりや怪しまれちやいかんというので、一時私は下宿に戻りました。しかしそれから今の出来事をつくづく考えて見たのであります。今日自分が塀をこえて人の家にはいつたこと、それから、その時やす子の云つたこと、これらをつくづくと考えたのです」

      8

「嘘かほんとうか判りませんが、とにかくやす子がもつていた薬が劇薬にいつの間にかかわつていたとすれば、あの日彼女にひそかに会つて話をしたことに嫌疑のかかるというのは不思議ではありません。十八日頃の秋川家のようすと云い、あの夕刊を見ても、やす子の話はまんざら嘘とも云えぬのです。こう考えて来ると私は真に不安になり出したのです。それに、今警部さんも云われた通り、いくら私がうぬぼれてもやす子が今私に恋してるとは思えないので彼女がはつきり私のことを、警察なり探偵の方に云つてしまえば私の立場は実に危いのです。何分私は今は一定の職もなく、偽名を用いて宿にいる人間ですから、変に思われても仕方がないのです。
「こう思うと、一刻ももはやぐずぐずしてはいられませぬ。それに、やす子の話では、自分にたつた一人親切にしてくれる人があつてやす子をかばつてくれてはいるということですけれど、その方というのは私の事を疑つているのだそうです。それがほんととすればやす子は少くともその人には私の事をしやべつているに相違ない。これはぐずぐずしてはいられぬと思つて、別段にあてもなく下宿を飛び出してしまいました。それからどこをどううろついてたかおぼえませぬが、はじめて上野駅にまいりました。が、あそこは何だか、刑事さんが張り込んでいるような気がしておちつけませんので、とうとうしまいに新宿駅へと来てしまつたのですが、その時はもう夜が更けて汽車がないので、疲れ切つてあの辺をうろうろしておりますと刑事さんに怪しまれてつれて来られたのです。かような次第で、私が昨夜秋川家の塀をのり越えて人様の庭に忍び込んだのはたしかなことで申し訳ありませんけれども、やす子の死については全く存じませんです」
 早川辰吉は、こう云つて不安気に一座を見渡した。彼の様子にはしかし落着いたところは見られなかつた。
「じやお前は、やす子を殺したのが恐ろしいのではなくて、秋川夫人の殺人犯人と見られはしまいか、というのであんなにあわてて宿を飛び出したというのか」
「は、そうです。それに相違ありません」
「ではお前は、秋川夫人の死に関係があるのか」
「え? 何ですつて?……いいえ絶対にありません」
「そんならお前は何もそんなにあわてて逃げ出す必要はなかつた筈じやないか。つまりお前があの事件に何か関係があるからそんなに恐怖したと思われても仕方があるまい」
「でも、私があわてて逃げたのは今云つた通りで外に理由はないのです」
「君ちよつとききたいが」
 藤枝が口を出した。
「さつき君は、やす子と問答をしていた際、やす子が『あれ、誰かこつちに来る』と叫んだので母屋の方を見ると、誰かが出て来たと云つたね」
「はあ」
「その時出て来た人は男だつたか女だつたか。大人だつたか子供だつたかおぼえているかね」
 早川は暫く考えていたが、やつと口を開いて
「何分私は遠くから人の出て来るらしいのを見ると、すぐこりやいかんと思つて後をも向かず逃げ出してしまつたのですから、よくおぼえませんが」
 と答えた。
「しかし、これは大切な所なのだ、よく思い出して見給え」
 だが、早川は何とも答えなかつた。
 そこへ口を出したのが警部だつた。
「お前が云えなければわしが云つてあげよう、その時出て来たのは十四、五の少年だつた筈だ」

      9

「十四、五の子供が?……」
 早川が意外な、というような顔できき返した。
「そうさ。十四、五の少年だ。つまり秋川家の息子なんだよ。そこでお前は、やす子を殺して夢中になつていたものだから、のぼせ切つて、あの暗闇の中でその子も一緒に殺してしまつたんだ。そうだろう」
「あの……子供も……殺された!」
 この時の早川の顔付こそ世にも不思議なものだつた。駿太郎が同じく殺されていたなんて、全くはじめて聞く事実であるのみか、司法主任の質問の意味が、さつぱりわからないで面喰つたという有様である。
 狂言とすれば実に巧みな狂言と云わなければならない。
 警部は、しかし相手の様子に少しも構わずたたみかけた。
「お前にはつきりと聞かせておく。お前は、昨夜すなわち四月二十日午後九時、秋川駿三の家の塀を乗りこえて同家の庭に侵入し、女中佐田やす子及び同家の一人息子秋川駿太郎を惨殺した、という嫌疑で今取り調べられているのだぜ」
 早川はこれを聞いて、暫く呆れたようにぼんやりと警部を見つめていたけれども急に、自分が非常に危険な位置にいることにはつきり気が付いたのか、ぼろぼろと涙をこぼすと同時に両手で顔を蔽つて、
「何も知りません。何も知らないんです。二人殺すなんて……。一人だつて殺したおぼえはありません」
 と叫びながらそこに泣き伏してしまつた。
 藤枝はさつきから、早川の様子を黙つて眺めていたが、この時テーブルの上にもみくちやにおいてあつた紙片を手にとつて、おもむろにそれをひろげた。
 それはさつき早川の供述中にあつた佐田やす子の紙つぶてであろう。下手な鉛筆の走り書きで、今スグ行キマス ムコウノポストノソバデマツテイテ下サイ と記されてある。
 早川辰吉のむせび泣きがやつとおさまりかけた頃藤枝は静かに早川に向つて語りはじめた。
「君にもう一つ参考の為にきいておきたい事があるんだがね。さつき君の話の中に佐田やす子がたつた一人大変親切な方があつて自分に同情してかばつてくれている、という言葉があつたな」
「はあ」
「君はその親切な人の名をやす子から聞かなかつたかね」
 早川はじつと藤枝をながめた。
 警戒するような目つきでしばらく見ていたがやがて、
「いいえききませんでした」
 とはつきり答えた。
 彼からは、藤枝もやはり自分を死刑台に上らせようとする人間の一人だと見えているらしい。
「では、やす子が君に語つた時のようすで、その親切な方というのが男だか女だか判らなかつたかい」
 早川はまた暫く藤枝の方を見つめていたが、やがて悲痛な調子で叫んだ。
「ああ、あなた方は、またそんなことの何も知らぬことばかりきいていじめるのですか……」
 彼はこう云つたまま下を向いて再びむせび泣きはじめた。
 警部も藤枝も、少しも顔色をかえず、黙つて彼の様子を見ていたが、ちようどその時ドアをノックして一人の巡査が現れた。
「伊達正男はさつきから刑事部屋に待たしてあります。それから林田氏が今見えましたが……」
「うんそうか。林田氏を通してくれ給え」

   あらしの前

      1

 間もなく、林田が戸口に現れた。
「やあ、高橋さん先刻はわざわざお電話ありがとう。早速うかがうわけだつたんですが秋川駿三を今ちよつと訪問して来たのでね……藤枝君、秋川駿三は可哀想にひどく弱つてるぜ。昨夜から床についた切りだよ。木沢医師が今朝からずつと来ているけれど、面会謝絶の状態さ」
「そんなに重態なのかい」
「何、そうでもないんだが本人が一切誰にも会わん、と頑張つているらしいんだ。何分われわれがいる所であの騒ぎだろう、どうも僕らは信用をすつかり失つちまつたらしいんだよ、高橋さん、あなただつてそうですぜ」
「ほう、そんな有様ですか」
「木沢医師の話によると、昨夜のショックで元来神経衰弱なのが一層ひどくなつているらしいんだ。昨夜あれから興奮して、まるで眠れぬ上、調子が妙なのでゆうべおそく、木沢医師がよばれたそうだが、先生もちよつと手がつけられず、抱水クロラールかなんかのましてやつとねかしたというんだ。今僕が行つた時は眠つてるということでしたよ。何でも警察も探偵も全く信用出来ぬから、以後誰にも会わん。予審判事の令状でも持つて来ない限り、警察人にも会わんと頑張つていたそうです」
「おやおや、一番信用があつた筈の君が会えないとすりや、僕はとても駄目だね」
 藤枝が、頭をかきながら苦笑した。
 林田はそばの椅子に腰かけたが[#「腰かけたが」は底本では「腰かけたか」]、今まで不思議そうに林田と藤枝の会話をきいていた早川辰吉をじろりと見ながら、高橋警部に、小さな声で、
「これが、さつきの、あれですね」
 と云つた。
「そう」
 と高橋警部がこれも小声で答えたが、今度は藤枝、林田両名に向つて、
「伊達ですがね。あの男も一応調べたいのでさつき刑事をやつて同行させて来ました。刑事部屋に今待たしてありますが、のちにきいて見る積りですよ」
 と云つた。
 藤枝は、腕時計にちらと目をやつたが、何を思い出したか、つと立ち上つた。
「さて、僕はともかく一度秋川家を訪問して来よう。主人公には撃退されるかも知れないけれども、誰かには会えるだろうから……林田君、君は一つこの早川辰吉という人のいう所をよくきいてくれ給え」
「藤枝さん、伊達の取調べはいいですか」
「さあ、ききたいですが、ちよつと急ぐことがあるので……」
 彼はこういいながら一ゆうすると私を促すので、私も高橋警部と林田にあいさつしながら、部屋を出た。
「ここから大して遠く[#「遠く」は底本では「違く」]もなさそうだから、ぶらぶら歩いて行つて見ようよ」
 何となくおしつけられるような警察の建物から出て、四月の青空の下に出た私は、解放されたようないい気持になつていた。
「ねえ君、早川というあの男ね。犯人だろうか」
「さあね。しかし、邸宅侵入は明らからしいね。警察では邸宅侵入の罪で当分身柄を拘束するだろうよ。それからじわじわと殺人の方にとりかかるのさ」
「伊達の取調べはきかないでもいいかい」
「ききたいけれど、大して得る所はなさそうだよ。無論伊達が殺人を自白すれば別だが……ただ本人がアリバイを立証できぬというだけでは意味がないからね。警察側で、彼が殺人をしたという事を立証できなければ仕方がないよ」

      2

 秋川邸の玄関についてベルを押すと、出て来たのは笹田執事であつた。
「これは藤枝先生ですか。もう少し前に林田先生が見えてお帰りになりましたよ」
「御主人は御病気だそうで。あなたも中々忙しいでしような」
 靴をぬぎながら藤枝がこんなことを云つた。
「全く今日は閉口致しました。朝から新聞社の方々が見えて、御主人にお目にかかりたい、御主人が病気なら令嬢にあいたい、と云つて中々帰らんので、私がいちいち応対致しましたようなわけでね」
「ははあ、じや、今日の夕刊には『秋川家の執事笹田仁蔵氏は憂わしげに語つて曰く』……てな記事が出ますぜ。あなたも大いに有名になるわけだな」
「とんでもない。こんな事で有名になんかなりましては」
 こんな事を云いながら、笹田執事はわれわれ二人を応接間に通した。
「勿論、御主人にはお目にかかれますまいから、令嬢に御目にかかりたいんです。おや、これじやつまり新聞記者と同じことだな。あなたに撃退されちや困るが」
「御冗談で……」
 愛想よく、笹田執事は二人を残して出て行つたが、暫くすると、ひろ子が部屋にはいつて来た。
「先生、あの昨夜犯人が捕まつたそうでございますね」
「ええ、どうして御承知ですか」
「さつき林田先生がおいでになつた時、そんなことを承りました。先生はこれから警察に行くんだとおつしやつてでした」
「私は今牛込警察署でゆうべ捕まつた男というのに会つて来たんですよ」
「まあ! そうして犯人は白状致しまして?」
 ひろ子は美しい目を大きく輝かした。
「御当家の庭に外から飛び込んだということはたしかに本人も認めています。何でも佐田やす子の情夫だつたというので、やす子にあいに来たというのです。しかし、駿太郎君を殺したことは勿論、やす子を殺したおぼえもない、とこう云つていますよ」
「で、先生のお考えは?」
 ひろ子はさぐるように藤枝を見つめた。
「私の考え? その男、早川辰吉についてですか」
「はい」
「さあ、そりやその男が殺人犯人かも知れないし、そうでないかも知れない、と今の処そういうよりほかはありませんな」
「でも、佐田やす子の情夫というのが、かりにやす子に恨みがあつたとしてもどうして弟をあんな目にあわせたんでございましよう」
「さあそこです」
「私には、やす子に恨みのある者が弟を殺さなければならない、という理由がどうしても判りませんわ。弟がその犯罪を邪魔したか、現にそばで見ていたかしない限りは……それにしても駿太郎のような子供にそんな邪魔が出来るわけはなし、また唖でない限り、黙つて見ていたとするのもおかしゆうございますわ。先生、そうお思いになりません?」
「そうです。そういう考え方はたしかに正しい考え方だと私は思います」
「それに、やすやの知り合いの男なんか駿太郎が知つているわけはないじやございませんか。駿太郎はたしかに、あのピヤノの部屋から誰かよく知つている人間にさそい出されたにちがいないと思いますの」
 彼女はこうはつきり云つて再び藤枝の顔を見た。
 この時、ドアがあいて、笹田執事が、三人分の紅茶を盆にのせてうやうやしくもつてはいつて来た。

      3

 ひろ子のひどく論理的な質問にいささかタジタジになつていた藤枝は、笹田執事がはいつて来るのを見ると不意に彼の方に話を向けた。
「おや、あなたが小間使の役ですか。女中さん達はどうかなさつたのですか」
「はい、昨夜あの騒ぎで皆殆ど眠りませんので、今日はやすませてございますので」
 笹田執事は不器用な手つきで紅茶の茶碗をテーブルの上に無事に並べ終ると、余り多くを語らずに部屋を出て行つてしまつた。
「今笹田が申しました通り、女中は皆休ませてございますの。ですけれど、何だかすつかりおびえておりまして部屋から出てまいりませんのよ。どうも三人でひそひそ話をしている所を見ますと、暇でもとろうというのじやないかとおもいますの。でも無理もありませんわ。こんな気味の悪い家に! 私が女中だつたら一日だつていることは出来ませんものね。ほほほほ」
 ひろ子はこう云つて笑つたがそれは決して朗らかな笑いとは云えなかつた。
「ひろ子さん。今日は大切な事を一つあなたにお頼みしておきたいのです。御承知の通り昨夜あの事件の起る前に、私はお父様に重大な質問をしていたのです。つまりどうして脅迫状の事をかくしていたかという事、及び伊達正男という人と、御当家との関係についてです」
「存じておりますわ」
「ところが、不意におこつたあのさわぎの為に、お父様のはつきりしたお答をうかがう折を失つてしまつたのです。今日になつてうかがおうと考えたのですけれど、御病気だということです。かりに御病気でないにせよ、私は官憲ではないのですから、お父様が私に会うことをお断りになれば強いて御目にかかるわけにはいきません。して見れば、まず私はお父様からは答えて頂けないものと思わなければなりません。林田君だつてそれはきけないかも知れない。結局、これはあなた方お子さんが直接おきき下さるより外に道はないのです。勿論私自身の方でも伊達という人の素性を取調べ中ではありますが……」
 何故か藤枝は最後の言葉を極めて力強く云つて暫くじつとひろ子の顔をながめた。
「あなたか、さだ子さんか、初江さんにこのことはお頼みしたいのですが、さだ子さんと初江さんは私をどの程度に信じていて下さるか判らない。あなたなら私を信じていて下さると思いますから……」
「無論でございますわ」
「ですから、是非ともお父様にあの点をはつきりきいていただきたい。勿論、機会を捕まえなくてはいけませんよ。むやみにお父様を責めたつてだめですよ」
 ひろ子はにこやかに微笑した。
「判りました。おつしやる通りにやつて見ます」
 彼女は充分引き受けたという調子で、紅茶を一口ぐつとのんだが、急に藤枝を見ながら、
「ではやつぱり先生も! あの伊達さんを」
 と云い出した。
「え! 何ですか」
「つまり早川とかいう男が犯人とは信じていらつしやらないのでしよう」
「どうしてですか」
「でももし早川が犯人だとすれば伊達さんのことなんかお調べになることはないのではございませんの。結局早川とかいう人以外に犯人があるとお考えになつていらつしやるのでしよう」
 彼女はちよつと微笑を表わした。
「ひろ子さん。誤解してはいけません。早川の話と伊達君の話はまつたく別ですよ。ともかく伊達君の事をはつきりきいて下さい」
 彼は口ばやにこう云い終つた時ドアがあいて、さだ子が憂わしげな顔をしながら、部屋の中にはいつて来た。

      4

 我国には昔から「雨に悩める海棠かいどう」という形容がある。この時のさだ子が私に与えた印象位、この言葉にしつくりあてはまつたようすを私は今まで見たことはない。
 勿論、秋川一家の人々は、惨劇の後、一人だつて陽気に見える者はなかつた。それは云うまでもない、比較的しつかりしているひろ子でさえも、この物語の冒頭で私が諸君に紹介した通り、どことなく淋しい美しさをもつている。彼女も惨劇後かなりやつれてはいた。今までの話も、中々しつかりはしているけども、陽気な処は少しも見えなかつた。
 しかし、今はいつて来たさだ子の様子は、全く、雨に……否暴風雨に打ちひしがれた海棠の面影である。第一の悲劇の直後、私がはじめて彼女にあつた時とは何たる変り方であろう。
 彼女は今、気も魂もまつたく打砕かれてしまつた美女としか見えなかつたのである。ことによると、愛し切つている青年伊達正男が、恐ろしい嫌疑で警察署に連れて行かれたのをもう知つているのではあるまいか。
 さだ子は部屋にはいると、藤枝と私に一礼したがすぐ、ひろ子の方を見て、
「あの……お姉様ちよつと」
 と用事ありげによびかけた。
「何よ。さださん、かまわないわ。おつしやいよ」
「今、清やの叔父つていうのが来てね……」
「ああそう。暇をくれつていうんじやない?」
「ええ、そうなの」
「お父様が今御病気だから、今日は判らないつておつしやつてはどう?」
「ええ、そう申しましたわ。だけど、中々きかないんですもの。あの私じやとても駄目ですわ。お姉さま、会つて下さらない?」
「仕方がないわね。じや、私会いましようか。先生、おききの通りなのでちよつと失礼致します」
 母を失つた今日、主婦としての位置に自然と登らせられてしまつたひろ子はこう云つて立ち上つた。
 ひろ子が部屋から出て行つてしまうと、さだ子は、藤枝の傍らによりながら、
「先生、あの伊達さんが警察に連れて行かれたつて、ほんとうでございましようか」
 と嘆願するように訊ねた。
「おや、さだ子さん、どうして御承知なのです」
「只今、伊達さんの所にいる婆やがまいりまして、もうちよつとさき、警察の方がうちに来てあの人を連れて行つたとしらせてくれましたので……」
「そうですか」
 私は藤枝がさだ子に何というかと思つて固唾をのんだ。
「実は私は今警察に寄つて来たのです。昨夜の事件の犯人らしい男が捕まつたというのですね。……あなた林田君にききませんでしたか」
「いえ、ちよつとさきに林田先生にお目にかかりましたけれどもその話は……」
「そうですか。その男は早川辰吉という青年なんですがね。それが捕まつたので私も警察に行つて来たんです。私があつちにいるうちに伊達君も来られたようでしたよ」
「先生、伊達さんにお会いになりまして?」
「いや、会いませんでした」
「で、いかがなのでございましよう。伊達さんは捕まつてしまうのじやございませんかしら。昨夜、いろいろ警察の方にきかれていましたのでもうすんだことと存じておりましたのに」
「さあ、しかし、警察では、その早川辰吉の方をにらんでいるようすですから、伊達君の方は大丈夫でしよう。第一、罪のない者なら少しも心配する事はありませんよ」

      5

「でも、その早川という人が怪しいときまれば伊達さんが捕まる筈はないと思いますのですが……」
 ひろ子と同じような質問がここでまた彼女の口から出た。しかし、全くひろ子のが論理的であつたのに反し、さだ子の質問にはどうやら必死の熱情が感じられた。
「さあ、警察の方針については私も確かとしたことは云えないのですが、昨夜のような事件がおこつた場合、一応皆にきいてみる必要があるのでしよう。必ずしも伊達君が嫌疑をかけられているとは限らんですよ。そう御心配になる事はありますまい」
「そうでございましようか」
「つまりこうなんでしよう。昨夜伊達君が一旦御当家を辞した後、二階であなたと話していた。そこへ林田君が来たのであなたは林田君を自分の部屋へつれてはいられたその後、伊達君がたしかにまつすぐにうちに帰つたかどうかが自分で証拠をあげられぬというんでしよう。ねえ」
「はい」
「それ以外に何か心配な事はあなた御自身でも何もないのでしよう。たとえばその伊達君が、邸内をうろうろしているのを誰かに見つかつたなんていう事はないのでしよう」
「そ、それは勿論でございます」
 さだ子はこの言葉を極めて力強く云い放つたけれども、その声は明らかに異様な慄えをおびていた。彼女は必死でこの言葉を発したように見えた。
 藤枝はこのようすに気がついたかどうか、急になぐさめるような調子で語りはじめた。
「それごらんなさい。何ら積極的な嫌疑は、伊達君にはかけられていないのですよ。安心なさつてよいでしよう。――時に、これは婚約者の事に立ち入つて甚だ恐縮なんですが、一体、伊達君が二度目にもどつて来てあなたにお話したというのはどんな重大な事なのですか? もし云つてもいいのでしたら承りたいものですがね」
「ああそれでございますか。それは少しもおかくし申す事はございませんわ。林田先生にも警察の方にももう申し上げた事でございますもの。例の母親が云い出した婚約取消についての伊達さんの決心なのでございます。これは、姉を疑つてまことに申し訳ないことでございますが、母が死んだ後、母と同じ意見をもつているのはどうも姉らしゆうございますもの。それに就て伊達さんと私と話しておりましたのですが、一旦出て行つてあの人がもどりました時、『どうしても取消に応じてはいかぬ、自分達は決して財産なんかあてにしているのではないから、あなたからもきかされたら充分姉様に云つて下さい』という事だつたのでございます。無論私だつて同じ気もちでおります。金なんかあてにしてはおりません。あの方と一所になれれば……」
「ああよく判りました。それじや伊達君が念を押しに戻つて来たつて少しも不しぎはないわけだ」
 彼はこう云つてシガレットケースを取り出したが、中には生憎一本も煙草がなかつた。
 私はいそいで自分のケースを出したけれども運の悪い時は仕方がないもので、私のケースにも一本のエーアシップもなかつた。
 藤枝は、やむをえずふとテーブルを見たが、そこに来客接待用の金口のエジプト煙草がおいてあつたので、無造作にそのシガレットをつかみ出すと、ライターを出してすぐ火を点じた。
 私は敢えて運が悪いという。もしこの時彼かあるいは、私のケースの中に、五、六本のエーアシップか、ヴァージニヤ葉のシガレットがはいつていたとすれば、此の物語は別の方向に進行したかも知れないからである。

      6

 と云つたからと云つて、よく探偵小説にあるように、此の煙草の中に毒薬がしかけてあつて、我が藤枝探偵が急にそこにぶつたおれたというようなわけなのではない。
 彼は平素エジプト煙草は嫌いで少しもすわないのだが、この時は「無きにまさる」と思つたのか、M・C・Cの紫煙をさかんに吹きはじめたのだつた。
 彼は更に何かさだ子にききたそうだつたがこの時、ドアが開いてひろ子がまた戻つて来た。
「ほんとに困つちまうんでございますよ。とうとう清やの叔父というのが来て清やをつれて行つてしまいましたの」
「あら!」
 驚いてさだ子が口を出した。
さださん、私も腹が立つたから、さつさとお帰りと云つて帰してやつたわ。だつて、叔父つていう人が『こんなお化け屋敷みたいな家においておくと、今夜にも清やが殺されてしまうかも知れない』なんていうんですもの。私腹が立つたから帰してやつたわ。これで女中が二人になつてしまつたのね」
「でも、清やが帰つてしまうと久やしまやも帰るつていうかも知れませんわね」
「じや、私が清やを帰したのが悪いつていうの。さださん、そんならあなたが談判してとめればよかつたじやないの」
「お姉様、私そういうつもりで申し上げたわけでは……」
「まあいいじやないですか」
 藤枝が、姉妹――心の中では明らかに反目し合つている二人の間に口をはさんだ。
「帰ろうつていう女中をいくらとめたつて仕方がありませんよ。ひろ子さんが帰したのは決して非難さるべきじやありません。しかしさだ子さんは決してひろ子さんを非難したんじやないんです。……それより、いつたいお父様は、どうなさつておいでですか。まだ眠つておられるんですか」
「そうそう、あの木沢先生が今来ておいでになるのですが何でしたら、私の部屋に来てお話になりません? 今二階においでになるのですの」
 女性の争いは執拗なものだ。ひろ子は、余程さだ子の言葉が気にさわつたと見え、藤枝と私を自分の部屋によんで、さだ子を除外しようというつもりと見える。
 藤枝はそれに気がついたかどうか、判らぬが、すぐ快く承諾した。
「じや、お部屋にまいりましよう。ところで、甚だ失礼ですがあなたのお部屋には煙草がありますまいから、此のM・C・Cを十本ばかり頂戴して行きます」
「あのミス・ブランシュというのでよければ私の所にもございますわ。でもこれを私がもつてまいりましよう」
 彼女はこう云うとM・C・Cの罐をとつてさつさと応接間の戸を開きながら、藤枝と私とを促した。
 藤枝はえんりよなく戸の方に行つたが、しかしさだ子に適当な言葉をかけるのを忘れなかつた。
「では、木沢さんに会つて来ます。さだ子さん、御心配になるには及びませんよ。大丈夫です、安心して待つていらつしやい。伊達君はきつと帰されて来ますよ」
 応接間を出て例の階段を登り廊下に出ると、左側が十八日に検事が家人を訊問した主人の書斎でそれを左に見てずんずん行くとやはり左側に立派なドアがある。ここがひろ子の部屋と見える。
 ひろ子の案内でわれわれ二人は美しい令嬢の部屋に通された。
「いや、素晴らしい結構なお部屋ですね」
 藤枝がお世辞でなく思わずそういつた位、美人に似つかわしい美しい部屋であつた。

      7

「では、ちよつとここでお待ち遊ばして……」
 ひろ子はこういうと部屋を出たが、木沢医師を呼びに行つたのだろう。
 藤枝と私は、椅子の傍らに立つた儘、部屋の中を見まわした。
 壁には泰西名画の写真が二つかけられ、部屋の一方に寄せられてあるテーブルの上には、美しいカーネーションがその姿に相応しいかおりを室内に送つている。一方の壁によせて大きな書棚がおかれてあつた。
「マドモアゼル(令嬢)の愛読書があるぜ」
 藤枝が指すので、ガラス越に本棚をのぞくと一番上の列に第一に目についたのは Richardリヒヤルド Mutherムーター の「絵画史」とそれに並ぶ Lエル. Nohlノール それから Paulパウル[#「Paul」は底本では「Panl」] Bekkerベッカー の有名な Beethoven 伝だつた。
「Spricht sie Deutsch ?(おやあの人はドイツ語をしやべるのかしら)」
 藤枝はちよつと驚いたように独り言を云つたがすぐその下の段に目をやつた。
 そこには我国で発行された、文学、音楽、美術に関する書物が美しく並べられていて、この部屋のもち主の教養の程度を物語つている。
「わがヴァン・ダイン先生とドイル先生とはどこにいるのかね」
 藤枝はしばらく本棚を見つめていたが、やがて、私を見ながら左手の方をさした。そこには、ヴァン・ダインの既刊の五冊の小説とドイルのシャーロック・ホームズ物が殆ど全部、それから、Wallace Runkcl, Rosenhayn, Hans Hyan,(後者三つはドイツ文)の小説、更にとなつて、Kingston Pearce 等の犯罪実話が並べられてあつた。
(私は、実は一生懸命になつてハンス・グロースの本を探した。これがあるといよいよ「グリーン・マーダー・ケース」に似て来るのだけれど、流石にそうした法律的の書物は一冊も発見出来なかつた)
 われわれが本棚の前に立つて、M・C・Cをくゆらしている所へ、ひろ子が戻つて来た。
「どうかおかけ遊ばして。只今木沢先生が見えますから……」
 しばらくたつと、木沢医師がにこやかな顔をしてはいつて来た。
 藤枝は十八日に木沢氏に会つて既に顔見知りの間柄になつているのだが、私はまだ改めて紹介して貰つた事がないので、一応ひろ子からひき合わせてもらつた。年の頃は卅七、八で、極くおだやかそうなお医者さんである。
「いろいろお骨折で大変です。御主人は少しはおちつかれましたか」
「ええ、今催眠薬のせいでずつと眠つておられます。大した事はないのですが、何分引きつづきの御不幸でショックを受けておられますから……」
「先生などの御立場から見ては、とても人には会わせられませんか」
「いや、そんな事はありませんが」
 木沢氏は一寸黙つたがやがて云いにくそうに口を開いた。
「しかし、今はお会いになつても無駄だと思います。一言で云えば、ここの御主人は、医者――それも私以外の人には全く会いたくないと云つておられるのです。無論お嬢さん方は別ですが、現に、大した事はないのですけれども、看護婦でもよばれたら、とおすすめしたのでしたが、それも好まれぬらしいのですよ。ノイラステニーの極く烈しい状態ですな。フィーベルはないようですが、アペテイートが全然ありません」
「本人自身についての警戒は心要ありませんか」と藤枝がきく。
「ガンツ、ニッヒとは云えませんな。これは私共の方と同時にあなた方の領分ですが、ゼルプスト……」
 ここまで云いかけたが木沢氏は流石に医者である。一方の本棚の中にドイツ語の本があるのを見てとると、ひろ子の前で次の言葉を発するのをさしひかえてしまつた。

      8

 木沢氏は、医師の癖でドイツ語をしきりと会話の中に入れたのかそれともひろ子の前をはばかつてわざとそうしていたのだか、私にはよく判らないけれども、ドイツ語が解し得られるらしいひろ子には充分わかつていたようである。
 藤枝が、駿三に自殺の危険はないか、と云つたのに対して木沢氏は絶対に危険なしとは云えない、と答えようとしたのに違いない。
 それに早くも気が付いたのか、それともわざと気を利かしたのか、ひろ子は、
「木沢先生がこちらにいらつしやる間、私、父の所にまいつておりますわ」
 といいながら、皆に軽く一礼すると廊下の方に出て行つた。
「ともかく今申した通り、秋川さんの容態はそれ自身としてはさして危いことはないのですが、興奮の結果、あるいは自殺などという事が全くないとは云えません。私は昨夜おそくよばれて、余り眠れないからというので、抱水クロラールを作つたのです。大体、此のクロラール、ヒドラートという薬は余り感心出来ぬ睡眠薬なのですが、何分、今までヴェロナールだのヌマールだの大抵な薬を連続してのんでおられるので、中々他のものではきかぬのでね」
 木沢氏は、弁解がましく語つた。
「成程、御主人の容態はそんななんですか」
 藤枝は頻りにM・C・Cの煙をたてて暫く何か考えていたが、ふとまた口をひらいた。
「これはあるいは、御専門――多分内科でいらつしやると思いますが、それ以外にわたるかも知れませんけれど先生はこの秋川の家族のようすが少々変つているとお考えにはなりませんか」
「というと?」
「つまり何ですな。精神的方面でです」
「左様、おつしやる通り、私は精神病の方面は余りよく知らんですが、この御家族がやや、アブノルムな状態にあるという事は考えられますね。しかし……」
「しかし、それはこんな惨劇がつづいて起れば誰だつてそこの家族にノルマルな状態を期待する方が無理でしよう。それにしても令嬢方の様子は著しいコントラストを形作つているようですが……」
「そうです。女の方々で斯様なショックをうけておられるのですから、多少どうもヒステリーの気味はあります。ひろ子さんは、わりにしつかりしておられますけれども、やはり大変興奮しているようです。さだ子さんはその反対に大変陰鬱になつていますがやはり余程神経を悩ましていられるようです。令嬢の中では初江さんがまず今一番健康のようです。私はかなり前からこちらの方々を診ていますが、元来初江さんが一番身体もがつしりしていて丈夫そうです。しかし先生も云われた通り、こんな事件があればどんな家の者だつて通常の状態ではいられませんよ。ひろ子さんにせよ、さだ子さんにせよ、むしろちやんとしておられる方でしよう。――時に藤枝先生の方の犯人のお見込みは如何なのです」
「さあ、まあ、今の所全く判らないと申し上げるより外ありません。もつとも昨夜、一人怪しい男が捕まつた事はつかまりましたがね」
「昨夜の事件はともかく、十七日の夜のは多少私も関係しているので気になりますよ。何しろ私の処方した薬が昇汞になつていたんですからな」
 これから、木沢氏と藤枝はまだいろいろと語つて二十分程ひろ子の部屋にいたが、別にここに記さねばならぬような話はなかつた。

      9

 暫くすると木沢氏は立ち上つた。
「では、また御主人が目をさますといけませんから私はあちらに行つて来ます。ひろ子さんと代りましよう」
 木沢氏が出て行くと間もなくひろ子が戻つて来た。
「如何でした。お父様は?」
「は、もうちよつと前目をさましましたが大分おちついております。しかし」
 と云つてちよつと微笑しながら、
「警察や探偵の方々は頼りにならないつてこぼしておりましたわ」
「いや全く恐縮。一言もありませんよ。すつかり信用をおとしてしまいました」
「でも先生は、まだいいんでございますわ。林田先生には、父が自分で頼んで安心していたのにこんな事になつてしまつたと云つてぶつぶついつていますの」
「さて、私たちもそろそろ失礼しますかね」
「あら、まだいいじやございませんの」
 藤枝は、しかし七本目のM・C・Cを灰皿にすてると立ち上つた。
「成程、あなたは、文学、美術以外に犯罪小説に興味をおもちのようですね」
 といいながら本棚の前に行つたが、
「ここに、ジェス・テニスンの『殺人及びその動機』という本がありますが、およみでしたか」
 とひろ子の方をちよいとむきながらきいた。
「はあ」
「恐ろしい殺人犯人が書いてあるでしよう。確か、コンスタンス・ケントの事が書いてあつたと思うが……」
「ああ、あの少女の殺人鬼のことですか」
「そう。そうです、中々おそろしい女性がいますよ。上べは虫も殺さぬような顔をしていながらね。尤も、ここにいる小川君なんか、美人と見れば誰でも尊敬するたちですがね」
 彼はこう云いながら私の方をからかうようにあごでさした。私は赤くならざるを得なかつた、それにしても一体藤枝は何のためにこんな変な事を、美しいひろ子の前でいい出したのだろう。
「ほんとでございますわ。外面如菩薩げめんによぼさつ内心如夜叉ないしんによやしやと申しますからね。きれいなやさしそうな女ほど恐ろしうございますわね。ほほほほ」
 ひろ子は、美しい目をみはつて笑つた。
「ではまた、明日にもうかがいましよう。お父様が来てはいけないとおつしやれば仕方ありませんが」
「あら、そんな事ございませんのよ。父はただ、警察も探偵もたよりにならないと云うだけで決して先生方をお断りする気ではございませんの」
「じやまた明日来ます。警察の方の事も判り次第おしらせしましよう」
 われわれがひろ子の部屋を出ると、すぐそばの部屋から、さだ子もおくりに出て来た。
 ひろ子はそれを見ると、われわれのさきに立つて歩き出した。さだ子は小声で藤枝に、
「先生、伊達さんの事をどうかよろしくお願いいたします」
 と歎願するように云つた。
「大丈夫ですよ。警察の方の工合も判り次第おしらせしますから」
 そのまま階段を下りて玄関にゆき、靴をはくと、藤枝は二人の令嬢に礼をしながら門を出た。
 出るや否や彼は煙草屋にはいつてエーアシップを二つ求めて早速うまそうにすいはじめた。しかし何となく元気がないように見える。
「じや君、僕は今日はこれで別れよう。用が出来たら電話で報知しらせるからね。何だか少し、疲れちまつたよ」
 われわれはそこで袂を別つたのである。
 これで四月廿一日は暮れた。

   第三の悲劇

      1

 あくれば四月二十二日である。
 十七日の夜の事件、すなわち第一回の悲劇以来、藤枝は割合に早起きで、私を電話で呼び出したり、またこつちからかけても、起きていると見えて直ぐ電話に出て来るので、今朝ももうかかつて来る時分だと思いながら、私は朝食を早くすましていた。殊に昨日秋川家を辞する時、主人に拒まれぬ限り、また来ると云つた所から考えてもきつと私をさそうに違いないので、私はいつでも出かけられる用意をしていた。
 十時頃になつても、しかし電話はかかつて来なかつた。さてはさすがの彼も、この大事件にぶつかつて頭を悩ましたため、とうとう元の大寝坊に戻り、正午ひるのサイレンと共に今日はおきるのかな、と心ひそかに焦れながら待つていると、十一時近くになつて電話のベルがなりはじめた。
「そら、こそ」
 とばかり私はいそいで受話器を手に取ると、意外にも女の声がきこえる。
「小川さんでいらつしやいますか。私藤枝の母でございますが……」
 藤枝が母と二人暮しでいることは、すでに諸君が知つておらるるところである。
 電話は藤枝の家からかかつているのだが、話しているのは彼の母である。私は思わずドキリとした。
 が、母の話はそう大して驚くほどのことではなかつた。今朝から藤枝が発熱していて起きられない。しかし、彼が私に至急何か重大な用件を話したいというのである。そこで甚だ恐縮だが、自宅に来て会つてくれということであつた。
 無論私はすぐに彼の家にかけつけた。
「今電話でうかがつたが、どうかしたのかい」
 私は彼の部屋に通されると、すぐ、つまらなそうな顔をしてベッドに身を横たえている藤枝に声をかけた。
「うん、大したことはないんだがここをやられちやつてね」
 こう云いながら彼は咽喉を指さしたが、成程、声が大変にかすれている。
「つまらん遠慮をしてひどい目にあつた。あのM・C・Cだよ。いつたい僕は君も知つてる通り、エジプト煙草を喫わないんだ。僕はいつも、エーアシップだのヴァージニヤンリーフの煙草ばかり喫つているので急に変つた煙草をやると必ずのどを悪くするんだ。以前にも一度こんな事があつたよ」
「じや、昨日秋川の処でエーアシップを女中にでも買わせればよかつたな」
「そうさ。それは知つていたんだが、暇をとるとかとらないとかいつている女中達に余計な用を云いつけて秋川家の人を困らすのもどうかと思つたので、あのエジプト煙草を、たてつづけに十本喫つちまつたんだ。つまり僕のいじきたなからおこつた事だから誰にも文句は云えないが、おかげで今朝からすつかり咽喉を腫らして熱があるんだ。大したことはないが八度ほどある。それで僕は今日出られないんだ」
「そりやひどい目にあつたね。して用事というのは」
「その事さ。僕のかわりに僕が起きられるまで秋川家の人々を――保護、というか、監視というか、ともかく怠けずに注意してもらいたいのだが」
「ふうん。というと、君は将来、まだあの家に何かおこると思つてるんだね」
「それは判らない。しかし起るかも知れない」
「しかし、主人は会わないつていう話だが」
「主人にあう必要はない。けれども、ひろ子とさだ子の二人の行動を出来るだけ注意していてもらいたいんだ」

      2

「じや、あの二人を保護するというんだね」
「うん。保護かあるいは監視だ」
「どつちだい」
「判らんね」
「という君は、彼ら二人の中に犯人がいるというのか。もしくは将来犯人たり得る……」
「それもはつきり云えない。ひろ子かさだ子が犯人になるか、被害者になるか、ともかく重大なことがおこるかも知れぬから注意していて貰いたい」
「注意してつて云つても僕には……」
「だから君は、毎日あの家に行つて二人の令嬢のお相手をしていりやいいんだよ。ずい分いい役じやないか」
「それだけならまあ僕でも出来るかも知れない」
かもじやないよ。願つてもないいい役目じやないか。そして少しでも変つた所があつたらすぐしらせて貰いたいんだ。それから警察の方にも君の事をよくたのんでおいたから、便宜をはかつてくれるだろう。早川辰吉の方の事も時々きいて貰いたい」
「よろしい。引き受けよう」
「ここで林田におくれるのは残念だけど、今はそんな事を云つてる場合でないから、林田にも電話で令嬢の事を一言云つておいた。彼はちよつと前僕を見まいに来てくれたが、僕と同意見らしいから充分二人に注意する筈だよ」
 彼はかなり苦しそうにこう云つたがしばらくしてまたつづけた。
「一番大切な事は、事態が切迫しているらしく思われるということだ。かりに早川が犯人だつたとすれば僕の心配は杞憂に終るわけだが、そうなりや幸さ。ともかくもし事がおこれば決して五月一日まではまたないよ。ここを充分気をつけてくれ給え」
 こう云う間も気にかかる、という様子なので、藤枝の所を辞するとすぐ私は秋川邸へといそいだ。
 時計を見ると、十一時ちよつと過ぎである。これからゆつくり保護だか監視だかしておれば無論正午ひるをすぎるわけだ。藤枝は秋川家で昼めしも食べろとは命令していない。今頃訪問するのはかなり気の利かぬ話だけれど、ともかく一応は行つて見なければならないので、私はまつすぐに秋川家の玄関に来た。
 笹田執事の案内で私は早速応接間に通された。丁度そこに林田がさだ子と何か話している所であつたがさだ子の顔は昨日よりいたましく見えた。
「ああ小川さん、今藤枝君の所へ寄つて来ました。御病気のようで、お気の毒です」
「いや、彼に仆れられて私の責任甚だ重大という事になつて困つていますよ」
 さだ子は私が部屋にはいると、まもなくドアから去つたが、ひろ子をよびにでも行つたのであろう。
「これは藤枝君と私と同じ考えなんですがね、用心の上にも用心するに越した事はありませんから、当分この家に毎日来て見ようと思うのですよ。あなたもそうなさるおつもりでしようが」
「ええ、今藤枝に云いつかつたんです。ただ令嬢のお相手をしていればいいんだそうです。悪い役目じやないが、しかし何だか重い責任を負わされたようでね」
「主人は、まだ床についたままで、今日も木沢氏が来ていますが、まあそのうちよくなるでしようから、そしたらゆつくり会つて見ましよう」
 こんな話をしている所へ、ひろ子がさだ子と一緒にはいつて来た。
「小川先生、藤枝先生がご病気なんですつてね」

      3

「ええ、風邪をひいちまつて困つてるんですよ」
 まさかお宅の煙草のおかげで咽喉を悪くしたとも云えない。
「でもあなたがおいで下さつてほんとに安心致しましたわ。それに林田先生もずつといて下さるつておつしやるので……」
「はあ、私なんかは役には立ちませんが、当分お淋しいだろうからお相手でもするように、と藤枝が云いますので」
 これも、まさか監視に来たとは云えないのである。
「父も実は大変喜んでおりますのよ」
「おや、御機嫌がなおりましたか」
 こう云つたのは林田であつた。
「はい、一時は大変力を落して、もうどなたにもお目にかからぬような事を申しておりましたのですが、昨日もああやつてお運びを願つた事をきいて今日はもうすつかり感謝しております」
 さだ子が云つた。
「ただ木沢先生が今日一日はどなたにも会わずに静かにしていた方がよい、と申されますので今日は失礼するから、私共からくれぐれもお礼を申し上げるようにつて只今云つておりました処でございます」
 ひろ子があとを引きとつて語つたが、ともかく、この家の主人公の気分がなおつてくれたのは何よりである。
「あの、林田先生、只今妹からききましたんですが、伊達さんが警察から帰らないとか……」
「ええ、どうも警察では一応伊達君をも留置したらしいのです。さだ子さんからのお頼みもありますし、またあとでもう一度行つて見るつもりですが。ただ此の事は非常に秘密になつているのですからそのおつもりで……」
 こうやつて四人は暫く応接間で語り合つていた。伊達がどうして戻つて来ないのだろう。彼がとめられたとは初耳である。
 さだ子が、憂わしげに見えるのも無理はない。
 ひろ子達の好意で、昼食は秋川家で食べる事になつた。下の日本座敷でひろ子、さだ子、初江、林田、私が一緒に卓をかこんだ。
 主人は、まだベッドを離れられぬので、久という女中が二階に食事を運んで行つたらしい。
 食事中は初江が女中の代りに給仕をしてくれたが、よく見ると成程、昨日木沢氏が云つた通り、このお嬢さんが、一番、発達した健康そうな肉体をもつている。
 夕方までいたけれども、別にこれと云つて、変つた事もないので、林田と私は六時頃、秋川邸を辞して警察に行つた。
 この夕方伊達は帰宅を許されたが、また明日呼び出されるという事である。
 早川辰吉の方は、藤枝が云つた通り、邸宅侵入罪で拘留されて、なお殺人の方を盛んにつつこまれたらしいが、まだ自白とまではいかぬらしい。
「夢中で、やす子の首をしめたのかも知れぬ、という所までこぎつけたんですがね。……駿太郎の方は断じて知らんと云つています。なお私の方では、今までの彼の経歴を調べるために刑事が、ゆうべ大阪に行きましたから、じき素性は判るでしよう。前の情婦の岡田かつ、という女との関係も調べる筈になつています」
 高橋警部はこう私達に説明した。
 その夜、私はまた藤枝を訪ねた。あいかわらずまだ熱は下らぬようだ。
 ベッドのかたわらには、今朝の新聞と今夕の夕刊とがたくさんおいてある。いずれも大見出しで「秋川家の怪事件」「犯人(?)捕わる」というような事が書かれ、家族一同と、早川の写真が掲載されてある。

      4

 しかし、伊達が警察にとめられた事は、成程、余程秘密になつていると見えてどこにも出ていなかつた。これはけさ藤枝が警察と電話で話した時も、警察の方で云わなかつたらしい。無論藤枝自身が電話に出れば、警察でも語つたのだろうが母が代つて会話をしたために云わなかつたらしい。警察の用心のほどが思いやられる。
 だから、伊達がとめられた一件と、駿三の機嫌がなおつて来た事とは、この日私が藤枝に伝えることのできたニュースであつた。
 四月二十二日は斯くしてあけ、斯くしてくれた。
 翌二十三日の朝、わりに早く、私は藤枝に電話でよばれていそいでかけつけた。
 私が藤枝のところに着いた時は、丁度、かかりつけの医師が来ていて、何か薬をしきりと彼の咽頭部に塗つてやつているところだつた。
「先生に、しやべるのと煙草を喫うのはいかんて、今叱られたばかりなんだがね。どうしても君に云わなきやならぬ事があるので、君をよんだんだよ」
 私が医師に挨拶してしまうと、半ば弁解がましく藤枝が云つた。
「しかし君、どうなんだい。身体は。……如何です。昨日よりはいくらかよろしいでしようか」
 私は医師の方に向いた。
「余り変りませんな。熱もまだあるし、まあ四、五日は静養される必要がありましよう」
 医師は無論藤枝の職業を知つているので、何か私と秘密の話があると推察したと見え、一応、手当を説明して直ぐに帰つて行つた。
「実はね」
 こう云つたが、苦しそうに彼はゴホンゴホンと二つ三つ咳をしながらつづけた。
「昨夜熱でよく眠れないんで、例の事件をいろいろに考えて見たよ」
「うん、うん」
「事件は依然として謎だ。いろいろに考えられる。警察の方も余りはかどつていないらしい。そこで僕は、ある考え方を進めて見たんだ。その結果、僕は三つの大切な結論に達した。昨日君に頼んだ事と少し変つてくるからよくきいてくれ。もし、将来、警戒すべき事件が起るとすればだ第一一番危険な場所は秋川邸内だ。従つてその家族を保護するには、彼らを家から外に出す工夫をしなければならぬ。第二、昨日は君にひろ子とさだ子に注意してくれと頼んだが、これを今改める。君は、将来、あの家族は勿論、あの家にいる者、来る者全部の行動に注意してくれ給え。たとえそれが警官であろうと医師であろうと同じ事だ。勿論君一人でこれら全部を一眸の中におさめる事は不可能だろうし、君があの家にいない時にはどうする事も出来ないわけだが、ともかく、それだけの事を心においてくれ給え。第三に、伊達正男が警察にとめられている限り、将来の事件は多分おこらない。しかし昨夜きけば、もう帰されたそうだから充分気をつけて……」
「じや君はやはり伊達正男を……?」
「いや、今は何もきかないでくれ給え。今いつた三つの事だけを充分注意していてくれないか」
 私は少々呆れて彼の顔を見つめた。
「ところで早速今いつた重大な点の第一の応用問題だが、今日は君、秋川邸へ行つたら、誰でもいいからできるだけあの家の人をつれて、芝居でも活動へでも出かけ給え。できるだけ長く外にいるんだよ」
「しかし僕一人で、そう一人以上の保護はできないよ。何か外で起つた場合は」
「その危険は断じてない。荒唐無稽な探偵小説か何かでなければ自動車でさらわれたりなんか決してないよ。殊に今度のようなえらい犯人がそんな事をするものかね」

      5

「でも……僕一人で大丈夫かな」
「大丈夫だ。秋川邸の外に出ている限り、おそらく君が附いていないでも大丈夫だと思う」
「じや、君の指図に従うとするが……すると秋川邸内の方は僕は一日留守にするから何も判らないよ」
「無論それは仕方がない」
「では失敬」
 私はよく判らぬけれども、藤枝の命令に従つて、ともかく秋川家の令嬢を連れ出すべく、邸にいそいだ。
 私が同家に着いた時は、未だ林田も木沢医師も来ていなかつた。知り合いになつた関係上、やはりひろ子をたずねるのが自然なので、笹田執事にその旨を頼むと、ひろ子がすぐ出て来てくれた。
 自分の部屋に来てくれという事だつたので私も余程それに応じて行こうかと思つたのだが、藤枝か林田ならばともかく、私は藤枝の代理とはいうものの事件に対する観察力などというものはまるでないのだし、云わばひろ子達のお相手役なのだから、一人でひろ子の部屋で差し向いになるのはちよつと礼を失するように思われる。
 それで応接間で話すことにした。
「あの、藤枝先生は如何でございますの」
「あいかわらずですよ。まだ熱があつて床についています」
「まあ、いけませんことね。生憎な時に」
 ひろ子はうれわしげな表情をした。
「お父様の御様子は如何です」
「ありがとうございます。もう大分よろしいので。けさからおきておりますの。午後になつたら、部屋から出て庭ぐらいあるいてもいいだろうということでございます。先生方にもお目にかかつてお礼申し上げると申しております」
「じや、ずつと御機嫌はいいんですな」
「ええ、そりやもう……」
「ねえ、ひろ子さん、突然ですが、今日どこかに出かけて見ませんか」
 さすがにひろ子はちよつとおどろいたらしい。
「これは藤枝がいうんですよ。私に是非あなた方に申してくれということだつたんです。ああいういろんないやな事があつた後だから、こうやつてうちにばかりひつこんでいらしつてはいけない。ますます気がめいるばかりだから、少し陽気に外に出かけなすつた方がいいだろうというのですよ。無論あなたお一人でなく、出来るなら、さだ子さんも初江さんも御一緒にね」
「藤枝先生がそうおつしやつて下さつたのでございますの」
「ええ、だから出かけようじやありませんか。尤もこれが普通だとお母さんがなくなられ、弟さんも死なれた直ぐ後で、むやみに外に出歩くというのはいけないかも知れませんが……何分、藤枝が、あとの方のために出来るだけ陽気にした方がいいというのでね」
 私は一生懸命になつて藤枝の名を呪文のやうに口に出しながら令嬢をくどきおとしにかかつた。
 果して藤枝という名は偉大なる効果をもたらした。ひろ子もかなり心が動いたらしい。こんな陰気なところに終日いることは自分達も相当つらいのだろう。
「どうです。ドライヴでもいいし芝居でもいいし、出かけて見ませんか。妹さん方をおさそいになつてはどうです」
「じや、相談してまいりますから、ちよつとお待ち遊ばして」
 ひろ子は応接間を出て行つた。

      6

 まもなく彼女は初江と一緒に室にはいつて来た。
「今のお話、妹にも話しましたら大変よろこんでおります。是非どこかにお伴したいつて申しておりますのよ。さだ子にも話しましたが、さだ子は今日もう少したつと伊達さんが見えるので出られないつていうことでございます。出られない人は仕方がございませんわね」
「ああそうそう、伊達さんは今日も警察によばれているんですつてね」
「はい。何でもそのちよつと前に来るんでございますつて。それで、私と初江とがお伴いたしますわ。それから女中を一人つれて行つてやりたいと存じますのですがよろしゆうございましようか」
「そりや結構です。喜ぶでしよう。是非つれてつておやりなさい」
 ひろ子と初江とは何かひそひそ話していたが、相談がまとまつたとみえて、
「じや久やをつれて行つてやりますわ」
 とひろ子が云つた。
「お父様には無論おつしやつたのでしようね。お許しが出なければだめですよ」
「ええ、そりやもうちやんと申しましたわ。父もはじめは、不幸のあつたすぐあとで、出歩くのはどうかと云つておりましたんですが、藤枝先生からわざわざそう云つて下さつたという事を聞いて、じや矢張りご好意に甘えて連れてつて頂いたがよかろうつて申しておりますの。父もお目にかかつてお礼を申し上げたいつて云つております」
 それから二人はまた部屋を去つたが外出の支度でもしているのであろう。
 ちようどそこへ、駿三がやつれた顔をして現れた。
「どうも大変な事でさぞお疲れでいらつしやいましよう。如何です、お工合は?」
「いや、全く弱つております。先日は頭がへんになつておりましたので、藤枝先生にもとんだ失礼な事を申し上げてしまいました。どうかあなた様からよろしくおつしやつて……お気にさわつてなさることと思いますから」
「なに、何でもありませんよ。今日も彼が来るといいんですが、生憎身体を悪くしてしまいましてね。それでお役には立ちませんが、私にお嬢さん方のお相手をしろと命令したわけです」
「ああ、今うけたまわつたんですが、うちの娘達をどこかへお連れ下さるそうで、喜んでおります。実さいこんな事がおこつて娘たちに気の毒なんですが、一つどこか気のはれるところにでもつれて行つてやつて下さいませんか」
 主人の気分がすつかりこつちと合つて来たので、私は心ひそかに喜んだ。
 まもなく、二人の令嬢は外出の用意ができたと見えて、また応接間にあらわれた。さすがに、金のかかつた服装だけれども、折が折とて、余り人目に立たぬみなりであつた。
 私には、実はひろ子、初江、久の三人を私一人で連れ出すことは相当心配なのである。しかし当人連は一向にそんな不安な様子はない。久し振りで、ほがらかな[#「ほがらかな」は底本では「ほがらなかな」]外気にあたれるつもりですつかりよろこんでいる。
 どこへ行くか、という事で、暫く話し合つたが、結局、とりあえずホテルへでも行つて食事をすませ、それから映画か芝居でも見ようということになつた。
「では行つてまいります」
 令嬢達はやさしく父親にあいさつした。
 玄関には、泉タクシーからまわされた、ハドソンのセダン・リムージンが、スマートな形を横たえている。
 私も、ドアに手をかけながら主人にあいさつした。
 ほがらかに晴れ渡つた春の空の下を、車は美しき人々をのせて軽快に走り出した。

      7

 久し振りの外出なので、ひろ子も初江もほんとうに楽しそうに見えた。女中の久は、はしやいではいないが無論これも心から喜んで令嬢達のお伴をしているに違いない。
 ひるめしには未だ間があるので横浜のニューグランドまでドライヴしようじやないかと、令嬢達が云い出した。
 藤枝は外出中は絶対に安全だと断言したけれども、どうも私は余り安心が出来ず、運転手の様子などを神経質に観察したが、別に悪漢が変装している様子もないのでついに私もそれに同意した。
 でも、川崎位までの間は、私は妙におちつけなかつたが、何ら怪しい事もないので、車が勢よく横浜に走りこんだ時にはもうすつかり安心しきつて、二人のお嬢さんといろいろなおしやべりをしていたのである。
 ニューグランドについてからも別にあやしい人間は見当らなかつた。
 食堂で、久し振りでうまいコールドラブスターをつつきながら私はすつかり安心して藤枝の先見に感服してしまつた。
 食事はひるちよつとすぎ終つた。ではこれから邦楽座でも見ようというのでわれわれは再び車を東京に向けた。
 邦楽座の二階に席をとつた時はちようど、パラマウント・ニュースが映写されはじめた時で、極く工合がよかつた。映写の間の休み時間には誰にも知つた人に会わず、われわれは心ゆくまで映画を鑑賞することが出来た。
 しかし最後の、呼物の写真がうつりはじめた時、私はこれはとんだ事になつたと感じた。
 その映画は、有名な探偵小説を映画化したもので、アメリカの映画スタディオで殺人が行われるという筋、はじめの出からして物凄いものであつた。
 折角外出して陽気になつたばかりの所へ、こんな殺人映画を見せられては、令嬢達も堪まるまい。私はプログラムをあらかじめ調べないで、とび込んだ事を心ひそかに後悔しはじめたが、はたして初江が写真の途中で、
「私、何だか気味が悪いわ、もう出ない?」
 と云い出した。
 しかしひろ子の方は、いつこうこわがつている様子がない。否、大変熱心にフイルムに見入つている。久の様子をちらと見ると、これは西洋映画の筋がよくのみこめないと見えて、余りこわがつていないようだけれども、また余り面白がつてもいないらしい。
 ともかく、ここに長くいるべきでないと思つたから、私はひろ子に、
「何だか、こんな時にこんな写真を見るのはいい気持がしませんから、芝居にでもいつて見ませんか」
 と切り出した。
 ひろ子は、もつと見ていたかつたらしいが、初江がしきりに出たがるので、仕方がないという形でコンパクトを出して顔をなおしながら、
「じや、東劇へでも行つて見ましようよ」
 とやつと同意した。
 またもや御意のかわらぬうち、と私は早速三人を促して廊下に出て、電話で東劇の切符を問い合わせると幸にもならんで四枚とることが出来たのでいそいで、邦楽座から、東劇までかけつけた。
 華かな劇場に足をふみ入れた途端、私は、今まで予期しなかつた危険がせまつていることに気がついた。
 これは藤枝も考えていなかつたことだつた。
 しかしあとから思えば当然考えるべかりしことである。ここに思い至らなかつたのは、全く藤枝にも似合わしからぬ手おちというべきであつた。

      8

 藤枝も私も、これまでただ生命、身体に対する危険のみを考えて名誉に関する危険ということを全く忘れていたのだ。
 劇場にはいつて一旦席をとり、幕のあくまで廊下を散歩していた時、早くも数名の男女が一斉にわれわれを見て何かひそひそ云つているのに私は気がついた。
 はじめ私は、ひろ子と初江が余り美しいので人々が目を見はつているのだと思つていたが、どうもちよつと様子がおかしい。しかし、幕があくまで私はおろかにもその意味を充分に解していなかつた。
 一番目の幕があいて、金襖を背景に梅幸が、あの古典的な端麗な姿をあらわした時、私の耳についたのは、
「音羽屋!」
 という大向うのかけ声よりもすぐ後の椅子で、無遠慮な男が二人で話している声だつた。
「おい、ありや秋川駿三の令嬢じやないか」
「うんそうそう、新聞に写真が出ていたが、まさにあれだよ」
「驚いたね、平気で芝居に来ているとは!」
 私は、邦楽座で感じた以上の、不愉快さを感じはじめた、こりやいかん。とんでもないことになつたぞ。こう思いながら、そつと二人の令嬢の方を見ると、幸い二人とも舞台に気をとられていて後の話には気がつかないらしい。
 けれども、私はもはや芝居どころではない。気が気でないのである。
 五分間の幕間には、ひろ子も初江も席をはなれなかつたから、ここは無事に通過したが、次の十五分間の休みの時には、二人とも廊下で全く人にかこまれてしまつた。
 二人とも、もうその意味が判つたらしく、すつかり心で後悔しているようだつたが、ひろ子は、これを感じると、心で何くそ、と決心したらしく、昂然として、平気で美しい顔を人々の前にさらしていた。初江のほうはこれに反してしよげ切つて、いそいで久と共に席にもどつたが、ひろ子は中々席にもどらず私にしきりと芝居の批評などをするのである。
 しかし、次の食事時間に至つて、周囲の人達の態度はますます露骨になつてしまつた。
 食堂では、私は無論気をきかして私の名で席をとつておいたのだが、まわりの人達の視線はひとしくわれわれの上に注がれている。
 初江はもうひどくまいつてしまつて一言も発しない。
「いやねえ、ほんとに。馬鹿らしいじやないの!」
 ひろ子はたまりかねて初江にこんなことを云い出した。
 まるで周囲から圧迫されるような気持なので私は一刻も早くここを逃げ出したかつた。が、ひろ子は折角今までいたのだから、どうしても次の、梅幸、羽左衛門の『かさね』を見て行く、と云つて頑張つた。それは明らかに負けおしみだつた。彼女は今ここを逃げ出せば自分の負けだ。もう少し頑張ろう、という気らしい。けれども心の中では私以上に苦しんでいるにちがいないのだ。
 しかし何と云つても矢張り女である。
 物凄い木下川きねがわ堤で、与右衛門が鎌を振りあげてかさねを殺しにかかつた時は、ひろ子ももはや堪まらなくなつたらしい。幸い、舞台の照明がひどく暗いので今立つても人目にわりにつかない時である。
 私は、かさねが『のう情けなやうらめしや……』とかきくどいているのを後に、三人を促して逃げるように劇場を出てしまつた。
 こうして二十三日の外出はさんざんの失敗に終つた。
 令嬢達は帰りの自動車の中で、一言も口をきかなかつた。私はただひたすらに恐縮し切つて、だまり込んでいた。この二人の美しい令嬢の一人が数日後に無残な死体となるだろうとは露ほども考えずにただ自分の失敗を韮をかむような思いで心の中でかみしめていた。

      9

 四月二十四日の午前、まだ病床にいる藤枝を訪問して、私は昨日の失敗をくわしく物語つた。
「そいつはしくじつたな。成程僕がそこに気がつかなかつたのは大失敗だつた。じや、こうしたまえ。もうお嬢さん方もああいう所へ行くのはこりこりだろうから、郊外をドライヴさせるんだ。ともかく外出することをすすめたまえ。それから今日は君は必ずしもついて出ないでもいい。ついて行つても無論かまわないが……」
「何にしても、早く君になおつてもらわんと困るね」
 こんな会話をした後、また私は秋川家を訪問した。果してひろ子も初江もすつかり昨日の事でこりて、もう一歩も外出しないというのである。
 私は、藤枝がなおるまで――それはもう二日位のことだから、それまで私のいうことをきいてくれということを切に述べた。丁度林田も来合わせていたので、林田にもそのことを伝えると(但し藤枝の真意は私はのべなかつた。ただ気の晴れるように出かけたらよかろうと藤枝が云つている、ということにしておいた)彼も同意なので二十四日の日は、私は秋川邸に残り、ひろ子、さだ子、初江、それに林田と伊達が加わつて、郊外に出かけて行つた。
 令嬢達が出かけてしまつたので、私はどうしようか、と考えていると、突然、来合わせていた木沢氏が私のいる応接間にやつて来た。
「いや、先日は失礼しました。もう御主人も大変いいようです。もうおきていられますよ。今ここへ来てあなたに何かお話があるそうですから、ちよつとお待ち下さるようにとの事です。私は今日は失礼します」
 木沢医師と入れちがいに駿三が現れた。
「昨日はどうも御厄介でした」
「とんでもないことで。とんだ失敗をしましてね」
「しかし、今日はあなたの御注意で、郊外に出て行きましたから皆よろこんでいることと存じます。藤枝先生は如何ですか」
「もう大分いいんですよ。あしたかあさつてはおきて来るでしよう」
「時に、ちよつと私から申し上げたいことがあります。実は、先日からお話しようと思つていたのですが……」
「はあ」
「伊達正男の事ですがね、藤枝先生は大層あの男のことを気にしていられるようで、ひろ子にも、しきりに御注意なされたそうですが、あれは決して怪しいものではないのですよ。私とは親戚の関係は全くありません。ただあれは私の恩人の子なんです。私が若い時に大変世話になつた人があるのですが、それが、不幸にも、夫婦とも短い間に死んでしまつて、あの子は、可哀相に孤児になつてしまつたんです。それで私は恩人に対するせめてもの恩返しとして、あれを立派な男に育ててやつたのです。あるいはもうおききかも知れませんが、私はあの男がさだ子と結婚したら相当の財産をわけてやる気でいます。ただ妻は反対しました。しかしこれも恩人に対する私の恩返しのつもりなのです。今まではつきり申さなかつたので変にお考えのようですが実はそう云うわけなのですから、この点をどうか藤枝先生に充分お伝え願いたいと思います」
「ほほう、そういうわけだつたのですか。して伊達君はそのわけを充分知つているのでしようねえ」
 何故か、この時、駿三の顔にちよつと暗い影がさした。
「さあ知つておりますかも知れません。しかし、恩返しにあれを育てたなどというのは、またこつちから恩を売るようなものですから、私自身からは一度も申したことはありません」

      10

 駿三と私とはなお暫くいろいろな話をしたが、別にとり立てていうべき程のこともなく、午後私は秋川邸を辞して再び藤枝を訪問した。
 そうして駿三が伝えてくれといつた伊達の素性を一応藤枝に語つたのである。
「うん、とうとう君に白状したのかい。そりやほんとだよ、伊達正男の父は伊達捷平といつてね、丁度今から二十年前に山口県で死んでいる。当時正男は五才だつたから、今二十五才だよ。身体ががつちりしているのでもつとふけて見えるがね」
「おや、どうして君はそんなに詳しく知つてるんだい」
「先日いつた通り、僕もあつちの警察に照会して彼の素性を調べてもらつたんだが、こつちの警察からも最近調べたのだ。さつき電話で、詳しくきいておいたぜ」
「伊達の父というのは秋川駿三の恩人だそうだぜ」
「さあ恩人だつたかどうだかともかく二人は大変親しかつたらしいな。捷平の死んだのが三十五で、その当時駿三は二十五の筈だから向うの方がずつと先輩だがね、駿三が山田家から秋川家に入つて徳子と結婚したのがそれより二年前、すなはち駿三も徳子も二十三才の時だ。当時秋川一家は岡山にいた筈だが、駿三ら若夫婦は山口県で伊達捷平と一緒に事業をしていたらしい。そうして大へん親しかつたんだ。結婚の翌年ひろ子が生れ、その翌年、伊達捷平夫婦が死亡したので、駿三が正男をひきとつてやつたんだよ」
「成程。すると、駿三の云うことはうそじやないんだね」
「そうさ。ところで君はそれで満足したかね」
「そうだね。話がまあよくわかつたよ」
「そうかね。よく判つたかい。何かおかしな所に気がつかないかい」
 藤枝は、ちよいとからかうような表情をした。
「ねえ小川。成程、駿三のいう所はよく判つている。しかし、それならだ。何故今まではつきりとその事をわれわれに話さなかつたのだろう。僕が、伊達正男の素性を怪しんでいたことは、あの二十日の夜にはつきり口に出すまでにだつて判つている筈だ。況んや、二十日のあの時以後はなおはつきりと知れている筈ではないか。のみならず、駿三は僕ばかりにではない、ひろ子達にも伊達の素性をはつきりといつていないぜ」
「彼の弁解によれば、恩返しをしているということは、こつちから恩を売ることになるから……」
「君はそんな弁解を信じているのか。冗談ではないよ。駿三はできるだけ伊達の素性をかくしていたかつたのだ」
「何故?」
「そこだ。何故彼がそれをかくしているか。せつぱつまつて今日になつてしやべるまで悪いことでもないのに――否、立派な美事をどうして彼はかくそうとしたか、これが謎だよ」
「ふうん」
 私は今更感心して考えこんでしまつた。
「うん、素性と云えば、早川辰吉の性質がよく判つて来たよ。これはさつき警察から電話でしらせてくれたのだがね、牛込署の刑事が二十一日の夜、大阪に立つて、辰吉の前の情婦の岡田かつに当つて来たんだ。その結果、妙な事が知れたよ。岡田かつは辰吉を嫌つて別れたそうじやないんだそうだ。ただ同居に堪えられなくなつたんだね。つまり一口に云うと早川辰吉という男は変態性慾患者なのだ、すきな女を肉体的に苦しめるのがむしようにうれしいんだ。不幸にも、かつがマゾヒストでなかつたので別れちまつたんだな。そうして佐田やす子の場合もそうだつたらしいんだ。つまり、やす子も辰吉をすいてはいるのだが、どうも一緒におられなくなつたのだろう」

      11

「そうすると、どういう事になるんだい」
「彼に惨虐性がある、ということが判つた事は、彼の為には決して利益ではない。現に警察では、この点で二十日の夜のあの殺人事件について早川をますます疑つているよ。駿太郎の死にざまを思い出して見たまえ」
 藤枝は暫く何か考えていたがまたつづけた。
「しかし、彼が変態性慾患者だということは、僕には、他の点で非常に興味があるな。つまり佐田やす子が全く情夫と逃げたわけでなく、また辰吉を嫌つてにげたわけでないとすれば、非常に面白いなあ」
「どうして?」
 藤枝は、しかしこれには答えずに、一人でしきりに面白がつているようすである。
 それから後は、私がいろいろに水を向けてもいつこうに、気がのらぬ風なので、私も余り長居をするのもどうかと、そのままうちに帰つてしまつた。
 かくて二十日の事件後、二十一、二十二、二十三、二十四と四日は何事もなく無事にくれた。此の四日間の、出来事及び人の行動を簡単にしるすと、二十一日に極くひそかに駿太郎とやす子の埋葬が行われた。二十一日朝から早川辰吉は邸宅侵入罪でずつと警察に拘束されている。伊達は一晩とめられて帰されたが、その後毎日よばれて何か調べられているようすだ。駿三はすでにのべた如く、ようやくショックからなおつて床をはなれたが、藤枝はまだ多少の熱の為に床についたままである。
 そうして、とうとう恐るべき四月二十五日がやつて来たのであつた。
 例によつて私は、四月二十五日の朝早く藤枝を訪問した。もう余程よくなつているのだが、まだ二日程は外出を医者から禁じられているというので、私はまた一人で秋川家を訪問した。
 私が同家に着くと直ぐ、主人がまた身体の調子が悪いという事を丁度来合わせた木沢氏から聞かされた。
「どうもまだ神経がたかぶつておられるようです、どこも他にこれと云つて悪い所もないのですがね。昨夜一睡もできないと云つて大変不機嫌ですよ。なるべく弱い鎮静剤をやつておくがいいと思うので今処方しました。午後もう一度来て見ますが、午後になつてもあんな調子ではちよつと困りますからその時はまたその時でなんとか考えて見るつもりです」
 私が木沢氏と応接間で話している所へ、林田もやつて来た。無論木沢氏は林田にも主人の容態を語つてきかせたのである。
「そりや困りましたね、ねえ小川さん、令嬢達は大分ドライヴを楽しみにしているようだが、御主人が病気じや出るのは具合が悪いでしような」
「いや、そんな御心配はありません。今申したようにただ神経が少々たかぶつているだけなのですからかえつてお嬢さん方をどこかへおつれになつた方がお宅が静かになつていいかも知れませんよ」
 三人で話している所へひろ子、さだ子、初江が姿をあらわした。
 木沢氏が初江に向つて云う。
「昨日から胃が悪くて食慾がないということでしたね。丁度いいです。今日ドライヴでもなさつたらかえつてよくなると思います。私今帰つて午後に健胃剤をもつて来ますから、それまで運動していらつしやい」
 木沢氏がこういうのであるから無論今日もまたドライヴすることに決つた。たださだ子は父の様子を注意するために家に残るというのである。木沢氏が先ず秋川邸を辞した[#「秋川邸を辞した」は底本では「秋川郊を邸した」]
 用意が出来て、林田、ひろ子、初江、それから私が車に乗るとひろ子が私にささやいた。
「さだ子はね。伊達さんが今朝早くからまた警察によばれているので心配で出られないんですよ」

      12

 別にどこに行くというあてもない。私はただ藤枝の命令に従つて令嬢達を外に連れ出せばいい事になつているので、ドライヴのプランをきめていたわけではない。林田は何と思つているか判らぬが、これも別にはつきりした目的地はないらしく、結局、運転手の発議で、東海道をいいかげんに走つて見ようじやないかということになつた。
 おとといと同じく京浜街道を疾駆して横浜にはいつた。ひるにはまだ少し早いのだが、ここで腹を作ろうという事になり、またニューグランド・ホテルに入つたが、初江一人は全く食慾がなく、僅かにスープとパンを少し取つたばかりだつた。
「どうかなさつたのですか、余程おなかがお悪いようですが……」
 私は少し心配になり出してたずねた。
「いいえ、別にたいして……いつこう何もいただきたくございませんの」
 でも食事中は、彼女も、ひろ子や林田の話に加わつて快活に談笑していた。
 食後、車首を更に西に向けて保土ヶ谷、戸塚をすぎ、藤沢の松並木を通つて平塚に出た。
 ここらまで来ると皆、さすがに都の塵をすつかり離れて、いい気もちになつたのだが、初江のようすはだんだんおかしくなつて来た。さつきから一言も云わずに、胸を押えている。
「初江さん、あんたどうしたの。おなかが痛いんじやない?」
「え、たいした事はないの。ただ少し……」
「どう? 痛いの」
「少しね。おなかが痛いような気がするんですの」
 こう云つた途端、胃から何か液がこみ上げて来たらしく初江は顔をしかめた。
「おい、ストップ、ストップ」
 林田が運転手に声をかけた。
 声に応じて車が止ると、初江は口にふくんでいた生唾をかたわらの砂の上にはいてほつとしたようだつたが、まだ苦しそうに下をむいている。
「帰りましよう。だんだん悪くなるといけません。ねえ小川君」
「ええ、僕も帰つた方がいいと思います」
 初江は自分の為に折角のドライヴがおじやんになるのをひどく恐縮しているようだつたが、やはり一刻も早く帰宅したいように見えた。
 ひろ子も無論不賛成をとなえるべき所でないので、再び車首を転じて東京の方に向けた。
 私には初江のようすはよく判らないけれども、藤枝真太郎がいつも過度の喫煙で、胃酸過多症にかかつている有様を思い合わせ、初江のようすがやはりどうもそうらしく思われるので、この際、何か制酸剤を与える事はわるくないと思い、林田にひそかに自分の考えを物語つた。
 彼もそれは悪くはないだろうと賛成したので、保土ヶ谷の町でちよつと車をとめ、薬屋で重曹を少々求めて冷水で初江にのましたが、幾分かおちついたようにみえた。
 その後、特にしるすべきこともなく、車は午後、一気に牛込の秋川邸へとちやくしたのであつた。
 丁度午後四時半すぎであつた。
 さだ子がいきなり玄関に出て来た。今朝出た笹田が見えない。
「只今帰りました。笹田君はどこかに出たんですか」と林田がきく。
「はい、なんでも息子の家にとりこみがおこつて今日午後から一晩ひまをもらいたいつて申して帰りました」
「ああそうですか。お父様は?」
「まだ床にはいつております。今、木沢先生がまた見えていらつしやいますが」
「そりや丁度よかつた。初江さんが少々おわるいので早速薬をもらいましよう」

   風呂場の花嫁

      1

 一同が応接間に通ると、木沢氏がやがてやつて来た、早速初江の容体を本人から語ると、
「そうですか。矢張り余りよくなりませんでしたか」
 と云いながら、ポケットから薬の袋を一つ取り出した。
「ここに散薬が三包はいつていますが……今苦しくありませんか? あ、そうですか。じやこれを、今日のお夕食前三十分前に一つのんで下さい。夕食は六時ですか。じや、まあ五時半位に一つのんで見て下さい」
 それからひろ子のほうを見ながら、
「さだ子さんにも申し上げてありますが、お父様はもう大分およろしいようで、うとうとしていられますからあのままにしておおきになつたら、よろしいでしよう。さてと」
 木沢氏は金側の懐中時計をとり出して、
「お父様も初江さんも大したことはないと思いますから、じや私は失礼します」
「おやそうですか、僕もちよつと用事があるんです。何、すぐ戻つて来ますよ」
 林田はこういいながら、木沢氏と一緒に玄関から出て行つた。
 初江はもうすつかり気もちがなおつたらしく、別に自分の居間にひきとつて休もうというようすもない。
 ひろ子が父のようすを見に応接間を出て行つた。室にはさだ子、初江、私の三人が残された。
「伊達君はまだ今日は見えませんか」
「はい、今朝からまた警察によばれているのでございますつて。まだ帰されないのでございます。私ほんとに心配で……」
「お察しします」
 こうは云つたものの、さて、それからなんと云つてこの人をなぐさめてやつてよいものか、私はいささか困惑してしまつた。
 初江も思いは同じと見え、多くを語らない。
 折よくこの時ひろ子が戻つて来た。
さださん、伊達さんがいらしつてよ。早く行つておあげなさい」
「まあ、そう、ありがとう」
 さだ子はおちついて椅子から立ち上つたが、さすがに喜びの色はかくせなかつた。
 ひろ子が室に入ると入れちがいにさだ子は出て行つたが、伊達と自分の部屋ででも話すつもりなのだろう。二十分程私はひろ子、初江ととりとめのない話をしている所へ、林田がいそいで戻つて来た。
「失敬しました。ちよつと用があつたのでね」
 人が一人ふえたので話もいろいろにはずんで大分愉快な気もちになつて来た。
 ふと、腕時計を見ると、五時二十分すぎである。どうしようか、帰ろうかなと思つていると、不意に女中の久が室の戸口に姿をあらわした。
「初江様、お電話でございます」
「電話? どこから?」
「あの、よく判りませんが女の人の声でございますの」
 初江はちよつと迷つたような表情をしたが直ぐに女中について出て行つた。
 五分位たつと彼女はまた室にあらわれたが、なんとなくあわてたようすだ。
「どんな電話でした?」
 林田が立ち上つて初江の方に行つた。初江は、私達を見ながら何かいいかねている形である。
 林田は初江に近づいて小さな声で何かささやいたが、初江もこの人ならば、と思つたか今の電話の事をひそひそ話しているらしい。
 私は自分が探偵でないことを心から残念に思つた。もし藤枝がここにいたならば、きつと初江は藤枝にも今の電話の秘密を語つたであろう。

      2

 こう思うと、ここで一人勢力をもつている林田に対して私はいささか反感らしいものを感ぜざるを得ないのである。ひろ子も余りいい気もちはしないと見え、誰がお前達の話をききたがるものか、と云つた風でことさらに私に話題を出してしやべりはじめた。
 戸口で話していた初江と林田はまもなく、用事がすんだと見え、また室に入つて腰をおろしたがなんとなく、気まずい空気がただよいはじめた。
 しかし、この気まずさは次の事によつてすぐ救われた。
 女中のしまやが戸口にやつて来て、ひろ子の方を向きながら、
「お風呂が出来ておりますのですが」
 と云つた。
 ひろ子はちらと私の方を見ながら、
「ああそう、ありがとう」
 と云つてしまやの方を見返したので、しまやはそのまま引き取つて行つた。
「お姉様、お風呂におはいりにならない?」
「ええありがとう。だけど私、今小川さんとお話しているのよ」
「かまいませんよ、どうかおはいり下さい。私も失礼します」
 私はこう云つて、ちよいと腰を浮したが、すぐひろ子にとめられた。
「あらまだいいじやございませんの、食事をしていらつしやいましな。初江さん、あなたかまわないから先にはいつて頂戴よ。さださんは今伊達さんが来ているしねえ、初江さん、林田先生にごめん蒙つてお風呂にいらつしやいよ」
「そうですとも。姉さんがああおつしやるんだから、どうか私にかまわず、おはいりなさい」
 初江は、姉の不機嫌なのを早くも見てとつて、ここで自然に場をはずすのがいいと決心したと見え、
「じや、おさきにごめんこうむりますわ」
 と云つて立ち上つた。
「どうぞ」
 ひろ子は、はつきりと口で云つたが顔は私の方に向けたままだつた。
 初江は立ち上つて、また何か林田に云いたいらしい。林田はやはり立つて戸口で何か云つている。
「また、初江の秘密主義よ」
 ひろ子は不愉快そうな顔をして私に笑いながら云い出した。
「何かへんな電話でもかかつて心配なんでしよう」
「それだつたら私達の前で云い出してよさそうなものですわね。初江は私達を疑つているのかも知れませんわ」
「まさか」
 私はこう云つたが、ひろ子が『私達』という言葉で、自分と私をさしてくれたのを心ひそかに喜んだのであつた。
「ではおさきに」
 初江はそう云うとすぐ姿を消してしまつた。
 林田はシガレットをくわえたまま、窓の所に立つて外を見ながら何か考えている。
「林田さん、何か重大な事がおこつたと見えますな」
「今ね、あのお嬢さんの所にかかつて来た電話がいつこうわからないんだ。第一誰からかかつたかも判らないんだ」
「女だつてね」
「そう、たしかに女だそうですがね」
 私はこの時、十七日の午後、藤枝のオフィスの電話口できいたあの不気味な女の声を思い出して思わず戦慄したのである。

      3

「いつたいどんな話だつたのです」
 私は勿論こうききたかつたのだ。しかし今こんなことを訊ねた所で到底林田がその内容を云いそうもないのでこの質問はさしひかえた。
 ひろ子も私も黙つてしまつた。
 林田は林田で頻りに何か考えているようすで窓の所に立つてじつと庭の方を眺めている。
 妙な静かな十二、三分間であつた。
 私はこの間に藤枝の警告を心にくり返していた。彼は云つた。秋川邸にいるもの、来る者、全部に注意をせよ。と。
 しかしこれを実際問題に応用するとなると、到底不可能な事に属するではないか。
 今自分が注意できるのは林田とひろ子の様子だけである。
 さだ子と伊達は婚約者で二人が今二階のさだ子の部屋にいるのだ。まさかそこの戸口で二人の恋人のささやきを立ちぎきするわけにも行かない。
 主人は、鎮静剤のおかげで床の中でうとうとしているというのだ、これも二階にねているわけであるがこの一人の所に行くには第一医者に相談しなければなるまい。
 初江が一人になつているはずだが、初江は今風呂場にいる。若いお嬢さんの裸体姿の側に行くなんてことは思いもよらぬ事である。
 こう考えて来ると、藤枝の註文は全く無理と云わなければならない。
 私がいろいろと心の中で考え、結局藤枝の註文を批難している所へ、伊達とさだ子がはいつて来た。見ると、毎日の取調べで伊達は大分やつれているが、でも中々元気だ。
「お話はすんだのですか。どうでした、警察のほうは」
「はい、いろいろご心配下さつてありがとうございます。今やつと許されて来たんですが、どうも警察では私を疑つてるようで困つちまうのです」
「林田先生、伊達さんは今警察からすぐここに来たんだそうでございます。それで用があるから一旦うちに戻つて、また来るというのでちよつとごあいさつにまいつたので」
 さだ子がこう説明した。
「おや、もうお帰りですか。じや、またあとでお話を承りましよう、送りましよう」
「いえ、もうどうかおかまいなく」
「まあいいですよ」
 林田もわれわれの沈黙にはいささか閉口していたと見えてさだ子と二人で伊達を送り出て行つた。やはり伊達はいつものように裏口から来たらしく、玄関の方へ行かずに反対に裏口の方へ向つて行く足音がきこえる。
「小川さん、ここの家のものが二派に分れているとお思いになりません?」
「というのは?」
「さだ子と伊達さんは全く林田先生を信じて私を信じていないのです。それから私は藤枝先生を信じてさだ子と伊達さんを信じないのです」
「初江さんはどうです?」
「さあ、あれはどつちということはないでしようが……今日だつて藤枝先生が見えていればさつきの電話の話をしたと思いますわ」
 私も全く同感である。
 伊達を送り出したさだ子と林田は再び応接間に戻つて来た。
「あなた、詳しく警察のようすを伊達君にききましたか」と林田。
「はあ」
 さだ子は答えながらちらと私達の方を見て語りかねているらしい。
 このさだ子の有様は完全にひろ子を怒らしてしまつた。
「さださん。あんた林田先生とお部屋でお話にならないこと? 私、小川さんとここでお話していますから」

      4

 ひろ子はズバリとこう云つてツンと横を向いてしまつたが、さだ子もこの時は少しも驚かなかつた。
「では先生、私の部屋においでになりません? いろいろ申したいこともございますから」
 ひろ子とさだ子の憎み合いは、林田と私の前に全く露骨にさらけ出されて来た。
「そうですか。じやそうしましよう。ひろ子さんも小川さんとお話があるのではね」
 さすがに林田は巧みに二人のどつちにも花をもたせた調子で立ち上つた。
「どうぞごゆつくり」
 ひろ子は、林田にも冷やかに云いながら私の方をちらとながめた。
 さだ子はこれも珍しくツンとした様子で林田と共にドアから出て行つたが、やがて階段を上つて行く足音がきこえた。彼女は自分の部屋に林田を引きとめて恋人の取り調べられた有様を充分語るつもりなのだろう。
 私ははじめて応接間にひろ子とたつた二人、差し向いになつてやつとほつとした。十七日の午後、この令嬢と初対面をして、今日ようやくゆつくり二人で語れるのだ。私は内心の喜びをかくすことが出来なかつたのである。
 さだ子が林田を信頼すればする程、ひろ子は藤枝を信じている。その藤枝の代りに来ている私である。ひろ子がひどく打ちとけて語り始めてくれたのは、実は藤枝に対する好意かも知れないけれど、私にとつて決してめいわくなわけではなかつた。
 いやな事件を全く離れてわれわれは絵画のことや文学のことや音楽の話をはじめた。藤枝は、二十日の夜、レコードを見て『我が音楽趣味に感謝す!』と独り言を云つたが、今や私もその言葉を心の中で唱えないわけにはいかない。この芸術趣味のおかげで私は約二十分間ほど、ひろ子とたつた二人で語り合つたのであつた。
「ねえ、小川さん、庭に出てごらんになりませんか。ゆつくり私の花壇をまだ見ていただかないんですもの」
「結構ですね。拝見したいですね」
 ひろ子が案内をしてくれたので、私は彼女の後から庭に下りたつた。ひろ子がわざわざ玄関から私の靴を例のピヤノの部屋の隣のガラス戸口までもつて行つてくれようとするので、私は恐縮してあわてて自分で靴をはこんだ。ひろ子はそこの入口から庭下駄をつつかけて庭に出た。
 成程、花壇はその手入れをする令嬢にふさわしく美しかつた。
「小川さん、きれいでしよう。でもね、此の花の根には毒があるんだそうです。ほらいつか藤枝先生がおつしやつたでしよう。美しい女におそろしい犯罪人があるつて、あれと全く同じですわね。ほほほほほ」
 一体彼女は何を考え何を思いついたのだろう。
 つづいて彼女はしきりに犯罪に関する話をしはじめた。花のようなひろ子が美しい花壇を前にして春たけなわの庭園の夕ぐれに、犯罪物語をする、ということは全くこの時の情景にふさわしくない感じだつた。それだけに私には彼女の心もちがわからず、それだけにその物語は、一層物凄くひびいたのである。
 もし彼女がここで、自分の恋の物語をはじめたとしたら、私は時のたつのを知らずこの庭に立ちつくした事だろう。さつき音楽の話では充分にお相手をした私であるけれども、犯罪物語のお相手はこの場合つとまりかねる気もちになつた。
 私は、なんとかして話を転じようとして、さだ子の部屋の窓を下から見上げると、(さだ子の居間はひろ子のそれと反対の側、すなわち庭に面した南側にある)さだ子の横顔が見えたが、すぐそのかたわらにいる伊達正男の頭が目についた。

      5

「ひろ子さん、伊達君がまた帰つて来ましたよ」
「おや、ほんとですわね」
 私に注意されてひろ子は、二階の窓を見上げるとこう云つたが、ふと自分の腕時計に目をやつた。
「もう六時四十分ですわね。御はんの支度ができる時分なのに、どうしたのでしよう」
「いや、私は失礼します」
「まあ、そんな事おつしやらないで。用意がしてある筈でございますから……それに初江ももうお風呂から出た時分と思いますけれど。私ちよつと見てまいりますわ」
 彼女は私に会釈をしながら、そのままガラス戸の入口から家の中にはいつて行つた。
「林田さん、庭に出て見ませんか。きれいですよ」
 たつた一人になると、現金な私は早速二階の窓に向つて声をかけた。林田の姿は見えないけれども、無論上にいると思つたからだ。
 果して、声に応じて林田は窓の所に姿をあらわした。そして窓から顔を出してあたりを見廻した。
「成程、こりやいい景色だ」
 と云つたが思いついたように、
「ひろ子さんは?」
「今ご用で家の中へ行かれましたよ」
 私が答えた時、林田と並んでさだ子と伊達が顔を出した。
「小川さん、お姉様の花を見ていらつしやいますの? 其の隣が私の花壇ですのよ」
「そうですか。これも美しいですね」
「一つ僕も拝見しようかな」
 林田が云つた。
「いらつしやいよ。ほんとにいい景色だから」
 林田はちよつと考えているようだつたが、さだ子に何か云つてから、
「じや僕も下りましよう」
 と私に声をかけた。
「ああ直ぐ下りなさい。待つてるから」
 私のいうのに応じて、三人の顔が窓から消えた。正にその刹那だつた。
 突如家の中から、絹を裂くような女の叫び声がきこえた。
 私はこの時の恐ろしさを、おそらく墓場に入るまで忘れないであろう。全く裂帛れつぱくの叫びとはこの時私がきいたのをいうのだろうが私はその刹那全身が一時に凍つたかと思つたのである。
「誰か来て! 誰か! 先生! 小川さん」
 まぎれもなくそれはひろ子の悲鳴だ。
 瞬間、石のようになつていた私は、その言葉をはつきりきくと弾丸の如く――否、おそらくはそれ以上のスピードで、花壇を一とびにとび越えて、ガラス戸の入口から中におどりこんだ。
 夢中になつて靴のままおどり込み、そのまま真直ぐに進んで行くとまつさおになつて倒れかかつているひろ子に危くぶつかりそうになつた。
「ひろ子さん! どうしたんです? どうしたんです?」
 ささえるように私は彼女の肩に手をかけて叫んだ。
「初江が! 初江が!」
 気丈のひろ子も、余程恐ろしいものを見たらしく、これ以上口がきけぬようすでただ右手を延ばして風呂場の方をさすばかりである。
 ところへ、林田、さだ子、伊達が驚いてかけつけた。
「どうしました? ひろ子さん」
「初江が……あそこで……」
 ひろ子はこういつて私にぐつたりと倒れかかつた。あわててさだ子と伊達が抱きとめたが私はこの時ひろ子がつぶやくように云つた言葉を聞逃がさなかつた。
「風呂場の花嫁! おそろしい! 風呂場の花嫁!」

      6

 ここで、私は恐ろしい風呂場の惨劇を展開する前に読者に風呂場の位置を、はつきりとお伝えしたい。
 玄関を上つて左手が笹田執事の室、反対に右側が応接間であることは既述の通り。応接間のすぐさきがピヤノの部屋で、そのまたさきに、ガラス戸の入口がある。
 玄関からまつすぐ廊下があり、やや右に曲つてはいるがそのつきあたりが二階へ通ずる階段で、それまでに左手すなわち笹田執事の室の隣に一つ部屋があり、次が小さな物置(これには廊下を掃除する箒木などがつめこんである)その次が便所でその奥に化粧室があつてそれにとなつて浴場がある。
 風呂場へ通るには化粧部屋のドアをあけて一旦化粧室に入りそこから更に風呂場にゆくことになるのだ。
 たびたび申す通り、私は図を描くのは苦手なのだが、不正確ながらも大体の見取図を書くと丁度こんな風になる。
 私が、仆れかかつているひろ子にぶつかつたのは、●(黒点)で示してある所で、階段の下、便所の前である。

 ひろ子の言葉をきいた時、咄嗟のことなので、私には『風呂場の花嫁』がどんな恐ろしい意味を表わすのかちよつと解らなかつた。
 林田は早くもその意味を察したと見え、いきなり化粧室のドアから中におどり込んだ。此の戸は半ば開かれていた。私もひろ子をさだ子と伊達に托すと、つづいて林田のあとからそこにとび込んだのである。
 化粧室に入るとすぐ目に入つたのは、奥の壁にはめこみになつている等身大の立派な姿見[#「姿見」は底本では「姿身」]だつた。その他に色々な化粧品がおかれてあつたが、そんなものは今しるしている限りではない。注意すべきはただ一つ壁のところにさつきまで初江が着ていた着物がかかつている、着物の主は今正しく浴場にいるにちがいないのだ。
 林田もすぐ着物に目をつけたものと見え、ちよつと躊躇して私をかえりみた。
 初江がどんな状態で浴場にいるにせよ、彼女は無論裸体になつているにきまつている、如何なる場合も若いお嬢さんが真裸体まつぱだかでいる所に男がとびこむ事が許されるべきであろうか。
 しかしひろ子の悲鳴はわれわれに一瞬間以上の躊躇を許さなかつた。
 林田も私と同じ考えと見え、右手のガラス戸の外から、
「初江さん。初江さん」
 と二、三回よんでガラス戸を叩いたが、中から何の返事もないのをたしかめるや、
「おい、あけて見よう」
 と私に云つたがその声は異常な緊張味をおびていた。
 私は無論賛成した。
 戸をひきあけて、中をのぞいた瞬間、私と林田と顔を見合わせて、思わず、あつと叫んだのである。
 中はタイル張りの美しい広い浴場である。
 その奥に、洋式の立派な浴槽がおいてある。
 初江はどこにいたか? 彼女はたしかにその浴槽の中に! 八分目満されている湯に中に頭を沈ませ、そうして両脚を上にのばして! 仰向けになつて、沈んでいるではないか。
 私はこの時、林田が、口の中で、
「ジョセフ・スミスだ! 風呂場の花嫁!」
 というのをきいた。
 此の物凄い光景を見た刹那はじめて私もこの言葉をはつきりと思い出したのである。
 二人はただちに浴場にかけこんだ。
 既述の通り湯は浴槽に八分目位はいつている。
 浴槽の広い方を頭にして、初江は無論全裸体で仰向けになつている。身体は殆ど全部湯の中に在り、頭も、目も、鼻も、耳も、つまり顔全部が水面から約二、三寸下になつて水にひたつている。手は一方を胸に、一方を横に延ばし、そうして、両脚を狹い浴槽の端にニユツと突出しているのだ。

      7

 この恐ろしい、しかし不思議な初江の形を、私は再び下手ながら図に書いて明らかにしようと思う。かくする事によつて、この奇怪な事件が読者に一層はつきりわかると思うから。
 なお、序に検証の結果後に判明したところを記すと、浴槽の長さはAB、内側でこれが丁度五尺五寸(但しこれは一番上のひろい所で)底の部分すなわちCDの長さは三尺八寸、巾はEF(すなわち一番広い所)が二尺、底GHが一尺六寸、足の方に当る浴槽の上が(IJ)一尺七寸、底KLが一尺一寸五分であつた。
 高さはMNが一尺四寸、OPが一尺四寸二分。
 しかして初江の身の丈は五尺一寸あることがはつきりとわかつた。
 美しいお嬢さんが、この姿で風呂槽の中につかつており、周囲は全く静かで、時々栓からポタポタと音がして湯がたれている。この妙な不気味な静けさは我慢出来なかつた。

 正視するに忍びず、という感じで私はあわてて初江の身体を抱きあげようとしたが、それまでにさすがに心をしずめて初江の水の中の顔をじつと見ていた林田が、いそいで口を出した。
「多分もう駄目だろうが法律が何と云つたつてこの死体をここにほつておくわけにはいかない。すぐ木沢氏をよんで出来るだけ早く手当をしてもらわなけりやいかん。しかし、この状態を君ははつきりおぼえておいてくれ給え」
 私は、そう云われて改めてこの状態を充分頭に入れたが、いつのまにか林田は風呂場から出て電話の方に行つているらしく、あわてた声がきこえる。やがて彼は再び戻つて来た。
「木沢氏と警察へは今電話をかけた。君は早く藤枝君をよんでくれないか。ちよつとの病気ならとんで来るだろう。」
 私はそういわれて、林田と入れちがいに廊下にとび出し、いそいで藤枝をよび出した。
 彼はまだ病床にいる筈だが、今はそんな事を云つている場合でない。私は無理に電話に出てもらつた。そうして今私が見た所を手短かに話した。電話口で藤枝のあわてた声がきこえる。
「何だ。ジョセフ・スミスじやないか! よし、俺はすぐ行く。しかし君はそれまでに風呂場をも一度出来るだけ調べてくれ給え。そして少しでも妙なものがあつたら、よくおぼえておくんだ」
 藤枝がいよいよやつて来る。これで私も一安心と再び風呂場にもどつたのである。
 このときは、急をきいて、伊達もさだ子も中にやつて来た。ひろ子はもはや回復したらしく、あおい顔をしたままやはり中にはいつて来て、とりあえず初江の死体を日本間にうつすことにきまつた。
 木沢医師が来るまで、林田が人工呼吸をやつてしきりと水をはかせているようだつたが、初江の様子は素人の私が見ても全く絶望の状態であつた。
 正確な時間をはつきり記憶していないけれども、初江の死体発見はひろ子がさつき、
「もう六時四十分ですわね」
 といつて庭から去つてから三、四分後のことだから、多分六時四十分から五十分の間であろうと思う。
 それから約十五分後に木沢氏がいそいであらわれて、応急の手当に全力を注いでいるようだつたが全く努力は報いられなかつた。
「溺死ですな。浴槽の中で溺死されたわけです。不思議な現象です。私は、はじめてですよ、こんな場合に遭遇したのは」
 この木沢医師は、ジョセフ・スミスの事件を知らないと見え、不思議そうな顔をしていた。
「風呂場の中で、エピレブシーをおこしたとすれば、こういう状態がおこるかも知れませんがね。しかしこのお嬢さんを私は大分長く診ていますが、今まで発作をおこしたような事はないんですがねえ」

      8

 既に一度ならず、しかして一人ならず、
「ジョセフ・スミス。風呂場の花嫁」
 という言葉を云つているので探偵小説、犯罪実話に興味をもたれる読者は、あああれか、とあの有名な事件を思い出しておられるだろう。しかし、私はジョセフ・スミス事件を少しも知らぬ方々の為に一応この事件にふれておこう。
 Joseph Smith は最近の英国の殺人鬼である。彼は僅かの日月の間に三人の女と順次結婚し、これに生命保険をつけ、遺言を認めさせておいて、無残にも風呂場で三人とも溺死させてしまつたのである。
 一九一五年の五月二十三日、スミスは、殺人犯人として公判に附せられた。それは第一の妻エリザベス・アニー・コンスタンス・マンディーを浴槽の中で殺したという嫌疑であつた。彼に対して公訴を提起した王冠法曹(The Counsel bor the Crown)はボドキン氏、そうしてスミスの為に弁論を行つたのは有名なエドワード・マーシャル・ホール卿(当時ミスター)で、裁判長はスクラトン氏であつた。
 被告人は徹頭徹尾殺人を否認した。しかし結局、陪審員[#「陪審員」は底本では「陪審院」]は有罪の答申をなし、被告人にはただちに死刑の判決が下り、彼は同年八月十三日刑場の露と消えたのである。
 この事件は、当時『風呂場の花嫁事件』として喧伝されたもので、大戦乱最中のヨーロッパに異常なセンセーションを与え、当時の我国の新聞にも二、三回紹介されたこともある。
 如何なる方法で彼は妻を殺したか。
 被告人が最後まで否認しつづけて死刑台上に登つてしまつたので正確なことは判らないが、ここに当時の王冠法曹(我国の検事に当る者)のオープニング・スピーチの一節を紹介することによつて大体知り得らるると思う。
「同月十三日フレンチ(被告人の家の主治医)は被告人からのノートを受け取つた。『早く来て下さい。妻が死にました』とそれには書いてあつた。彼の所に駆けつけたフレンチは、マンディーが浴槽の中に既に死んでいるのを見出した。彼女は仰向きに倒れていたが殆ど全身が水にひたつていた口も顔も水の中に在り両脛は臀部が直ちに突出しただ足の先だけが浴槽の端に出ていた。(中略)被害者はよく発育して五フィート八インチの丈をもつていた。しかしてこのよく発育した女が両脚をのばしたまま浴槽の中で水に全く浸つていたのである。ここに甚だ簡単なしかも最も恐るべき殺人方法がある。これに依れば簡単に人を浴槽の中で溺らせることが出来るのだ。水のはいつている風呂は、人がはいつていれば無論、深くなるわけだが[#「だが」は底本では「だか」]今人がどつぷり湯につかつている時、その両足を急に引き上げるのであるかくすれば忽ちにして意識不明となり忽ちにして死は其人をおそうにちがいない。しかしてマンディー夫人の両脚も表たしかに浴槽の一方に立てかけられていたと発表されたのであつた」(以下略)
 そして、秋川初江の両脚も亦たしかに、浴槽の一方に立てかけられて発見されたのである。
 第一の発見者ひろ子が、
「風呂場の花嫁」
 と叫んで一時気を失つたのも、第二の発見者林田が、
「ジョセフ・スミスだ。風呂場の花嫁!」
 と叫んだのも、また藤枝が私の描写をきいて電話で、
「何だ。ジョセフ・スミスじやないか」
 と云つたのも初江の形が余りにもよく『風呂場の花嫁事件』に似ており、まるでその事件の引きうつしのように思われたからであろう。

      9

 木沢氏の登場におくれる事約十分にして高橋警部が刑事及び警察医の野原氏を従えて、緊張しきつた面持で立ち現れた。私の説明をきくと警部はただちに風呂場を実見した。そこは、すでにさつき電話で藤枝に注意されていたので、私自身充分に見ておいたのだが、別に不思議な物も目につかなかつた。
 警部は、そこにもう初江の死体がないのでいささか不平の形だつた。
「未だ見込みがあると思つたものですから、私達で風呂場から出したのです。絶望と知れば勿論手をつけずにおくつもりだつたのですが……」
「全くです。小川君のいう通りです。僕も一緒にあちらの部屋に運んで取りあえず僕が人工呼吸をほどこしたけれど駄目でした」
 林田が私達の立場をよく説明してくれたので警部もこれ以上、口に出して不平を云わなかつた。実際あの場合、万一にも初江が助かるかも知れぬ、という気があつたから私は林田らと彼女を風呂場から運び出したのだつたが、あとで考えれば変死体を動かしたので、たしかに捜査官は多少面喰つたらしい。
 このとき、ひろ子に助けられながら、驚いて駿三が二階から下りて来た。彼は事件当時、ベッドの中にはいつていたのだろう。さなきだに不幸つづきで弱り切つていた所へ、いままた、この惨劇の報を文字通り寝耳に水とうけたのである。彼はもはや泣声すらもあげ得ない。
 駿三、ひろ子、さだ子、伊達らは、皆下の日本座敷に集つた。
 高橋警部は風呂場を一応調べると一分も無駄にせず、日本座敷に運ばれた初江の死体を仔細に観察しはじめたが、木沢、野原両医師に対して、必死の様子で重要な質問を出しているらしい。
 今回の事件は必ずしも他殺とは限らず、現に木沢氏もさつき云つたように、初江の入浴中に、癲癇てんかんか何かの発作がおこつて、一時意識を失いそのまま溺死したのかも知れない状態にあるので、今や医師の供述、観察は非常に重大なものとなつて来た。警部は、ひそひそと二人の医師と話をつづけた。
 ところへ、待ちに待つた藤枝が来たということを女中の久がとりついだので私はいそいで玄関に出迎えた。
「驚いた! 電話でちよつときいたがもう一度詳しくききたいんだが……」
 誰もおらぬ応接間で、私は藤枝とさし向いになつて、今までの経緯をあらまし語つたのであつた。
 藤枝は、一言も洩らさずに黙つてきいていたが、風呂場の有様を語ると、彼は全く意外という表情を表わしたが、しかし何も云わぬ。
 ところへ林田がはいつて来た。
「藤枝君、大変なことがおこつたよ、ご病気中にね。まだ余り顔色がよくないがもういいのかい」
「うん、ありがとう、未だいけないんだが、病気どころじやなくなつちまつた」
「今、警部があちらで、ひろ子さんを調べているんだが」
「そうか、じや僕もきかして貰おう」
 私どもは日本座敷にはいつた。
 ひろ子が死体発見の有様を警部に語つている所だつた。
「小川さんと暫くお話していましたが、六時四十分頃になつても夕食のしらせがないので、気になるので私はうちにはいり、一旦台所にまいり二人の女中にただしますと、もうできていると申します。初江は一体どうしたのかと思いまして、台所からの戻りがけに、お風呂の外から声をかけましたが答えがありません。余り長いのでドアをあけて中を見ますと、妹は、足を湯の上に出し、全身を湯の中につけて……頭を全く湯の中につけて死んでいたのでございます」

      10

 それから彼女は悲鳴をあげて私達を呼んだ事を述べたが特に注意すべき事柄もなかつた。
 警部は、ひろ子が初江の死体を発見した時の有様を更に訊ねたが、ひろ子の供述は全く私自身が見た場合と同じで、林田も私も、警部に対して同じことをくり返して述べたのであつた。初江の死体が現場にそのまま残つていなかつたことについて、警部がかなりがつかりしたらしいのは既述の通りだけれども、この点については、藤枝も余程残念だつたらしい。
 風呂場の中で何か不思議なものを見出さなかつたか、という警部の問に対して、林田が口を出した。
「私は別に妙なものは発見しなかつたけれども、初江が入浴中、さきに木沢医師にもらつたらしい散薬をのんだ形跡を認めた。すなわち浴槽の外、流し場の横に濡れたパラフィン紙が捨てられてあつた。さつき木沢氏に渡して、その紙を調べてもらつたが、たしかに木沢氏が渡した健胃剤の一包らしい。なお彼女の着衣の中から残りの散薬が出て来たから全部(二包)木沢氏から野原医師に提出してもらつた」
 林田の供述はこんなものだつた。この薬の点は私の今まではつきり知らぬ所だつた。
 警部はそれから駿三、ひろ子、さだ子、伊達に対してかなりえんりよなく訊問をこころみた。事件当時の彼らの行動について調べたのである。
 ひろ子の行動は既に読者の知れる通りだ。
 さだ子はずつと二階で林田に警察の事を物語つていたと語つた。
 駿三はこの日気もちが悪く、午後は木沢氏の処方にかかる鎮静剤の効果で、ずつと床の中にいて、ひろ子によび起されるまで何も知らなかつたと述べた。
 伊達は一旦帰宅して用事をすませ――用事というのは二、三本手紙を書く為だと答えた――それから夕方六時半頃、裏口からはいつてすぐ二階に上つて林田、さだ子の二人と共にさだ子の部屋にいたと語つた。
 二人の女中しまやと久は当時台所にいたと一致して答えた。
 藤枝はこんな場合、必ず何か口を出して問を発するのだけれども、今日は病気の為かすつかり元気を失つてしまつてまるで黙りこんでいる。
 林田も、今日は私と共に警部に一応参考人として取り調べられる立場にいるので、これも多くを他の者に対してはきかなかつた。
 最後に、警部は二人の医師とひそひそとまた何か相談していたようだつたが、刑事が電話をかけに行つたようす、その緊張振りから察するに、事件は遂に検事局に報告されたらしい。高橋警部は、医師の説を詳しくきいた結果、他殺の嫌疑濃厚と見たのであろう。
 変死体がそのまま現場になかつたのがすつかり警部の機嫌を悪くしてしまつたらしく、警部は、藤枝とも林田とも余り口をきかなかつた。藤枝も林田も今日は余り語らない。
 八時すぎ、藤枝は私をかたわらに招いて、帰ろうというようすをした。私は直ぐ彼のあとに従つた。
 玄関を出る時、私は藤枝と高橋警部の会話をちらと耳に挿んだ。不機嫌な二人はこんなことを云い合つていた。
「高橋さん、あなたはまだ、早川辰吉を疑いますか」
「無論です。彼の無罪が明らかにならぬうちは」
「あなたは初江の死が過失死だと思うのですか」
「藤枝さん、必ずしもそうではありません。しかし私は、第二の事件と今度の事件が必ず同一人のやつたものだと思う必要はないという意見です」

   ひろ子の推理

      1

 秋川邸を出て、自動車に乗り自宅に着くまで藤枝は一言も発しなかつた。私は、急に彼が活動をはじめたため、せつかくなおりかかつていた彼の身体の工合が、また悪くなつたのじやないかと心配しながら藤枝の家まで一緒について行つた。
「暫くねていたので妙に疲れて困るよ」
「うん、身体を悪くしちや大変だ。かまわんから床にはいり給え」
「失敬して横になるよ」
 彼は遠慮なく床にはいつたがかたわらに坐している私に語りはじめた。
「今日の事件は全く意外だつた。殊にああいう形式で惨劇が起るとは、僕もまるで予想しなかつたことだよ。無論度々君に云つた通り、秋川の家に、第三の惨劇が起りはしまいか、ということは考えていた。しかし被害者が初江で、殺人方法がああいうやり方だとは! 全く意外だつた。これで僕の今までの考え方を根本的に改めなければならないかも知れん
 彼は思わずかたわらの煙草入に手を出したが気がついてまた手をひつこめた。
「根本的に考え方を改めるとは?」
「ねえ小川、君は今度の事件の特異性に気が附かないかい? ちようど第二の惨劇――あの四月二十日の事件がひどくある特色をもつていたと同じ位にね」
「さあ、ちよつと判らないな」
「駿太郎とやす子が同一人に殺されたとすれば――しかしてこの考えは正しいと信じるが、そうすれば共犯関係は別として、少くとも直接の犯人は男である、と考えるのが正しいだろう。君もそう思うだろうな」
「うん、そりやそうだ」
「ところが、きようの事件はどうだろう。全くその反対の結論を生み出してはいないかね……君はどうもまだ納得がいかないようだが、ジョセフ・スミスのことを思い出しているのじやないか」
「そうさ」
「ジョセフ・スミスは一体何者だい。被害者との関係を考えて見たまえ。ありや被害者の夫だぜ。いいかい。ここをよく考えるんだ。つまりジョセフ・スミスは、被害者の夫だつたから……あの犯罪が遂行出来たので、夫以外の者では決してあんなまねは出来なかつた筈なのだ」
「ふうん、成程」
「今初江の場合を考えて見よう。彼女には無論夫はなかつた。否婚約者さえもなかつた。しかして彼女は十八才の良家の令嬢である。この令嬢が全裸体で入浴している所へ、ヅカヅカとはいつて行つてあんなまねをなしうる者は一体何者だろう。犯人はまず化粧部屋の戸をあけ、つづいて浴場へやのガラス戸をあけ更に流し場を通つて、初江の浸つている浴槽のそばまで行つたのだ。しかしてあの乱暴極まる行動に出たのだが、この間、初江が一言も驚きの叫び声とか悲鳴をあげていない。いや、悲鳴をあげないでも、元来この犯罪は初江が浴槽の中で少しでも警戒して身がまえたなら、決して遂行のできぬところのものだつたに違いないのだ。ね、君、犯人が浴槽に近づくまで初江は少しも警戒しないでいたのだよ。とすればだ。犯人は一体何者だろうね」
「さあ、初江のよく知つた人、まず秋川家の家族か雇人だろうね」
「そうだよ。まさに君のいう通り、しかしてその外にもう一つ条件がある。すなわち犯人は女だということだ」
「成程ね。たとえば伊達だとして、初江が警戒しないわけはないからな」
「無論さ。さだ子が入浴中だつたとしても、婚約者の伊達が、あの浴槽までツカツカと平気で行き得るとは思われないじやないか」

      2

 私にはこの時、藤枝が今日何だか非常に面喰つた様子をしているわけが、いささかながら判つて来たような気がしはじめた。
 彼は第二の事件で犯人を男ときめたのじやなかろうか。その考えの上にいろいろな推理を積み重ねて来たのではないか。すると今度の事件で意外にも犯人は女性ということが推定されることになつたのでさすがの彼も全く当惑せざるを得ないのだろう。
「つまりこういうことになるんだね。少くも今度の事件では直接女が仕事をしている。しかしてこの女は初江に大へん親しくしている女だ。そうすると犯人は、秋川家の内部にいる女ということになる。ねえ藤枝、ちよつと妙じやないか。君があれ程賞讃した犯人に似合わないね。この僕にだつて犯人の捜査範囲がだんだん判つて来たぜ」
「うん、それだ。僕が考えていた犯人はそれほど愚かであるわけがないのだ。僕は今難問題にぶつかつたのだ。全く僕は弱つてるんだよ」
 藤枝はほんとに弱り切つた顔でかたわらにおいてあつた紅茶を一口のんだ。
「しかし小川、たつた一つ、犯人が女でなかつたとすると考え方もある。もつともこれによるとやはり、第二の事件とちよつとうまくしつくりしないが」
「え? じや犯人は?」
「あのおやじね。秋川駿三さ。あれが犯人だと仮定すれば、今日の事件の一応の説明はつくよ」
「だつて君、おやじはずつとねていたはずだぜ」
「君自身それが立証出来るか」
 藤枝は儼然と私に云つた。
「成程」
「君はただ彼がその寝室にねていた、ときかされたにすぎない。誰も知らぬまに彼がそつとおきて風呂場に行かなかつたか、誰が証明出来るか。娘が風呂場にいる時父がはいつて来る。我国の習慣では少しもふしぎな事じやない。そこで事は一瞬の間に決せられたという次第」
「じや君は、彼が犯人だと思うのか」
「いやこれは一つの仮説さ。ただこんどの事件の一応の説明さ。しかしおやじ犯人説は、この場合第一に心理上かなり困難な問題にぶつかるんだ」
 彼はとうとう我慢が出来なくなつたと見えて、一本のエーアシップを口にくわえた。
「じや一体われわれは誰を疑えばいいのかしら」
「その点について一つ考えて見ようじやないか。君のさつきの説明は、君が如何に正確に事件を記憶しているかを証明するもので、僕は大いに感謝しているんだ。それをたどつて問題をおつて見よう。今日、午前君は秋川邸に行つた。この時、あの家にいた人間は、主人、ひろ子、さだ子、初江、笹田執事、それから、二人の女中だ。それに一人木沢氏が来ている。木沢氏が君に云つた言葉は、主人が又病気であること、及び初江が胃を悪くしていたということだが、この二つはかなり重大なことだからおぼえていてくれ給え。さて、木沢氏はそう云つて帰つて行つた。君、林田、ひろ子、初江が出かけ、午後四時半頃に帰つて来た筈だね。この時笹田執事は用事で出かけてしまつた。君、林田、ひろ子、さだ子、初江が応接間で話している処へ、今まで主人の所へ来ていた木沢氏がやつて来て、初江に散薬を渡した筈だつたんだね。そして五時半頃にのめと云つて去つた。この事実は特に注意すべきである。木沢氏が帰つた時林田も一緒に出かけた。つまり応接間には君、ひろ子、さだ子、初江が残つたわけだが、伊達が来たというのをきいて、さだ子が去つた。故に残りは君、ひろ子、初江ということになる。これが、午後五時二十分頃の話だ。

      3

「つまり君らが応接間にいたあいだ、駿三は二階の寝室、伊達とさだ子は二階のさだ子の部屋にいたというわけだ。そこに林田が又戻つて来ているから四人が応接間にいた。すると、そこへ不思議な電話がかかつた。女の声だつたね。ただその内容は林田以外には遺憾ながら判らない。もつともこれについては林田が今日警部にもう話したかも知れないが、ともかくわれわれには判らん。五時半頃に君ら四人が一室にいる所へ女中が風呂をしらせて来た。ひろ子が初江に風呂にはいれとまず云つたんだね。そこで初江が林田と何か話して部屋から出て行つた。初江はちようどこの時すなわち五時半頃から以後、誰にも生きている所を見られていない。しかして五時半という時間は偶然にも木沢氏が彼女に薬をのめと指定した時間である。君はこれを忘れてはいかんよ。それから君はひろ子、林田と三人で一室にいた。だから初江が去つてすぐ殺されたとすれば、この三人の中には断じて犯人はいないことになる」
「おい君、この三人なんて僕まで嫌疑者の中にはいるのかい」
「そうさ。こんな妙な事件では僕は一おう誰でも疑うよ。疑わなけりやならない。ゆう六時頃伊達とさだ子がやつて来た。この時初江がいまだ生きていたかどうかそれは判らん。伊達を送つて林田とさだ子が外に出る。まもなく戻つて来たから君ら四人が又応接間にいたわけだ。この時伊達がどう帰つたかは判らない。次に林田とさだ子が二階に上つている。これは君の言によるとむしろひろ子が二人を追いやつたらしい。あとには二人差し向いで君とひろ子が音楽の話をしていた。これが約二十分かかつたというから、君がひろ子嬢と楽しい時間をすごした終りは六時二十分頃ということになる。それから君はひろ子と二人で庭に出ている。妙な話をし出して結局六時四十分まで君ら二人は庭にいた。するといつの間にか、伊達が二階に現れた。ひろ子が君の所を去つて約二、三分して、二階の三人は下りようとした。その途端だつたね、君がひろ子の叫び声をきいたのは」
「うん、その通りだ」
「するとだ、初江は五時半すぎから六時四十分頃の間に、ちようどこの一時間の間に何者かに殺されたことになるね。無論あれは他殺だが。して見ると、家の中で一体誰が彼女を殺すチャンスをもつていただろうな」
「まず第一は君の云つたように主人だね」
「そうだ。第一が主人だ。それから?」
 私は暫く考えて見たがどうもはつきり判らない。
「さだ子はどうだい? 小川、君どう思う?」
「うん、さだ子はずつと二階の部屋にいた筈だよ。初めは伊達と二人、あとでは林田と二人でね」
「重大なのはここだよ。彼女が伊達と二人でいた間に初江が殺されたか、彼女が林田と二人でいた間に初江が殺されたか。この一点は実にこの事件の中心なんだぜ。ところで彼女はいずれの場合にもずつと部屋にいたと云つているし、相手の伊達、林田もこれを認めている。ただこの中、伊達の言葉は決してあてにならん。さだ子と一番妥協しやすい立場にいる人間だからな。林田は自分でも、ずつとさだ子に警察の話をきいていたと云つているし、さだ子とは容易に妥協しそうもない男だから信じていいかも知れない」
 彼はこう云つたが、この時、急に緊張した顔をした。
「しかし君、さだ子を林田が調べていたということについて何か妙なことを思い出しはしないかね?」
「妙なこと?」
「うん、そうだよ」

      4

 私には藤枝のいう意味が判らなかつた。彼は私の当惑した顔を暫く黙つて見ていたが、やがて又つづけた。
「君には何も思い当ることがないらしいね。いや、判らなければそれでいいんだよ。そこで、駿三、さだ子、伊達の行動がまあはつきりしなかつたとして、ひろ子はどうかね」
「ひろ子はずつと僕と一緒にいたよ」
「初江が去つてから君とずつと話をしていたようだね。従つて僕は君を疑い得ないと同様に彼女を疑う事が出来ない。ただ最後の一番重要な所を除けばだね」
「というのは?」
「ごはんの支度を見てまいりましよう、と君に彼女が云つて庭から去つて、それから君が彼女の悲鳴をきくまでに、僕のきいた所によれば少くも二、三分のあいだがあつた筈だ。彼女は台所に行つたと云つている。成程これはほんとだろう。それから風呂場に行つている。しかし彼女が何分台所にいたかということは誰にも証明が出来ない。ともかく、彼女が一旦台所に現れ、すぐ風呂場にいき、いい気もちで寝風呂にはいつている妹のそばに何気なく近づき、スミスのような真似をする機会はたしかに恵まれていた筈なんだがね。君はどう思う?」
 そういわれれば藤枝のいう所も無理ではない。
「くり返していうが、木沢氏が五時半頃に薬を呑めと云つたことと、丁度五時半頃に初江が風呂に行つたということは注意に値するね」
 彼はここまで語つて来て、口をつぐんでしまつた。
 もうかなりおそいし、病後の彼は平生よりも一層疲れているらしいので、私はこれ以上彼を追及せず、この夜はこのまま家に帰つた。
 これが四月二十五日の出来事である。
 四月二十六日の午前、私は藤枝からの電話を受け取つた。
「どうだい身体は。昨日は大分無理をしていたようだが」
「うん、ありがとう。もう大分いいよ。時にね、今ひろ子から電話がかかつて急に僕に話したいことがあるというんだ。それでともかくオフィスの方に来てもらうように云つたのだが、君もすぐに事務所の方に行つてくれないか」
 無論私は喜んで出かけることにした。
 新聞を見ると、いよいよ秋川邸の惨劇は社会欄の大呼物となつている。警視庁はじめ、当局に対する一般の非難は中々峻烈を極めている。ある人達からは、誰でもいいから少しでも怪しい者は片ッ端から引つくくつてしまえ、その方が今後の惨劇を惹起じやつきするよりはまだましではないか、というようなもつとものような又そうでもないような提言が盛んに出ている。しかし一番非難の的となつたのは藤枝と林田で、彼らの過去の行跡が偉大なれば偉大である程、今回の失敗は目立つわけなのだ。
 オフィスにつくと藤枝はもうやつて来ている。
 昨日よりは大分元気だが、いつもの元気さはまだない。
 いろいろな話をしている所へ、ひろ子が現れた。一通りの挨拶がすむと彼女はただちに用件を語りはじめた。
「先生、こんにち私は法律のことを少しうけたまわりにまいりましたのですが……」
「はあ、どうか、僕で判ることでしたら」
「はじめにうけたまわりたいのは、一体法律というものは、犯人が重大な犯罪を行い、しかも更に将来にも充分大犯罪を行うに違いない場合でも、直接の確たる証拠がなければ、どうすることも出来ないのでございましようか」
 ひろ子の言葉には冒し難い詰問の調子がきこえた。
 藤枝はさすがにちよつと驚いた表情を示した。

      5

 藤枝が、ひろ子の気持をちよつとはかりかねてか、何も答えずにいると、ひろ子は更にたたみかけるように質問を発した。
「あの、誣告罪ぶこくざいということについてうけたまわりたいのでございますが……ここに私がたしかに殺人犯人と信ずる人がいると致します。それで私がその人を訴えた結果、万一後にその人が人殺しでないと明らかになつた場合、私は誣告の責任を負わなければならないでございましようか」
「そうは云えませんな。あなたが故意にその人を陷れたのでなければ。そしてあなたが、どうしてもその人が犯人であると考えるべき理由を十分もつていらつしやればそれは誣告とは云えないでしよう。たとえその人が後に無罪と判つても」
 ひろ子は暫く黙つた。彼女はこの沈黙の間に何か余程の決心をしたらしい。
「先生、では私は、私の家におこつた数々の殺人事件の犯人として、妹秋川さだ子と、その婚約者伊達正男を訴えたいと存じます」
「さだ子さんと伊達?」
 藤枝が愕然として云つた。
「はい、そうして過去のことばかりでなく、この二人が将来においても殺人事件をおこすことの出来る人だということを断言致します。先生、私の生命も脅かされているのでございます」
 今までしつかりしていたひろ子の面上にはこの時、はじめてほんとうに恐怖の色がさつと浮んだ。
「さだ子さんと伊達ですか」
 藤枝は非常な緊張した様子でひろ子を見つめた。私は彼が次に何と云うかと思つて息をつめて彼の顔に注意した。
「そうですか。私は必ずしもあなたの訴えをおとどめするつもりはありません。しかし、あなたがそれだけの確信を以て断言なさる以上、二人を殺人犯人と断ずるだけの理由を充分おもちのことと思います。一応それをきかして下さいませんか」
「それはもう充分にもつているつもりでございます。先生、私は、二人が犯人でないという理由をうけたまわりたい位のものでございます」
 藤枝はエーアシップを口にくわえると手早くそれに火を点じた。
「十七日の事件が起るまで、父の所に脅迫状がまいりました。そうしてその中一つさだ子の所にも来たと妹は申しております。先生、これは少しおかしくはございません? 十七日の午後、母に薬をすすめたのはたしかにさだ子でした。そしてあの夜、さだ子と伊達さんが母と烈しく争つていたのでございます。その結果、夜中に母が苦しみはじめました。この時、さだ子は着物をきたままでかけつけました。これは私がはつきりとおぼえております。あんなにおそく妹はどうして着物のままでおりましたでしようか。母は死ぬ時にさだ子にとひとこと申しました。これはこの前も申上げた通り、母はとり返しがつかなくなつてから自分のかたきを知つたのでございましよう。あの日西郷へ薬をとりにまいりましたのはやすやですが、やすやが帰つてから薬はさだ子が受け取り、それから夜まで薬はさだ子の部屋にあつたのです。そしてさだ子の部屋には、さだ子は勿論、伊達さんもおりましたことは、いつか私が申し上げた通りでございます」
 ひろ子はここまで語つて、自分の言葉が相手にどんな効果を与えたかと、しばらく観察しているようであつた。
「次に二十日の夜の事件でございます。先生は如何お考えか存じませんが、十七日の事件の犯人と二十日の事件の犯人とが、全く別だというのは、私には考えられませぬ。私は断じて同一人であると存じます」

      6

「ほほう、それはどういうわけですか」
 藤枝が、非常に興味をもつた調子で訊ねた。
やすやが殺されたからでございます。早川辰吉がやすやを殺したとすれば余りに偶然すぎます。やすやを殺すことは十七日の犯人の為に大へんな利益があつた筈ではございませんか。何故つてやすやは薬をとりに行つた女でございます。犯人が何かの計略を用いてやすやを買収したか、またはやすやが犯人を知つていながら、何かの理由で黙つていたのでございます。ところが、やすやは先生や林田先生のはげしい訊問にあつて、危く口を割りそうになつた。犯人はこの状態に気がついていたにちがいはございません。この状態に気のつき得るものはあの当時、私の家の中にいた人間と申さなければなりません」
「そうです。その通りです」
 藤枝が感心したようにつぶやいた。
「二十日の事件では直接の犯人はどう考えても男と思わねばなりませぬ。あんな乱暴なまねは決して女には出来るはずがありませぬ。伊達さんが、まずやすやを庭で殺したのです。そう思うより外ありません」
「すると駿太郎君は?」
「やはり伊達さんにさそわれたのでございます。妹と伊達さんは十七日の犯罪の発覚を防ぐためにやすやを殺すと同時に、更に自分の目的に一歩近づいたわけなのでございます」
「自分達の目的?」
「さようです。あの二人には、大へんな目的があると存じますの。それについては後で申し上げたいと存じます。そこで昨日の事件ですが、これは不思議にも二十日の事件と正反対で、犯人はどうしても女であるとより考えられませぬ。ジョセフ・スミスは夫でございました。初江には夫はございませんでしたから……」
「全くです。それは私も同感ですよ」
 藤枝がほんとに感服したような声を出した。彼は半分ほど灰になつたシガレットを皿にすてると更に一本口にくわえて火をつけた。大変にひろ子の話に興味をもちはじめたと見え、両手をしきりとこすり合わせている。
「私が、さだ子と伊達さんが犯人にちがいないと考えましたのは、いよいよ昨日の事件があつたからでございます。第一の事件の場合は犯人が男か女か判りませんが、第二の事件では明らかに男が活動しております。ところが第三の事件では今申し上げた通り、たしかに女が働いております。第一、第二、第三の事件が仮りに同一犯人によつて行われたとして、一つには男が働き、一つには女が働いている。こう結論をたててまいりますと、さだ子と伊達さんを疑うより外仕方がないのではございませんか」
「ひろ子さん、しかし昨日はさだ子さんはずつと二階にいた筈ですよ」
「はい。はじめは伊達さんと、後では林田先生と」
「伊達君と話していたという場合が疑わしいと云われるのですな」
「無論でございます。しかし、ねえ先生、林田先生と妹が話していたということについて、何か妙なことにお気がつきません」
 私は愕然とした。昨日同じようなことを藤枝が私に云つたではないか、私は彼が何と考えるか、全身を耳にして待ちもうけた。
「妙なこと? さあ……」
「こういうことでございますの。第二の事件がおこりました時、あの二十日の夜、やはり妹は林田先生と二人で二階におりました。そうして昨日やはりまた二人で二階に居りました。いいかえればあの二人がさだ子の部屋にいる時、いつも恐ろしい事件が起つているではございませんか」

      7

「そうです。そうです。その通りです」
 藤枝が突然大きな声で云つた。
「ねえ先生、これはどう考えたらよいでございましよう」
「ひろ子さん、あなたはどう思いますか」
 藤枝は、非常にムキになつて訊ねている。
「一言で申せば、林田先生が何かの理由でさだ子をかばつていらつしやるのではございませんかしら。何かの理由で、さだ子の為にアリバイを立ててやつていらつしやるのではないかと存じますの」
「林田がさだ子さんを庇つている? 不可能です。断じて!」
「いえ、勿論、林田先生はさだ子達の犯罪には気がついておられぬのです。犯罪をかばつてやつてらつしやるわけではないのでしようが……」
 ひろ子は、やや弁解するような調子で云つた。
「ねえひろ子さん、あなたはいい所に気がついてはいらつしやるが……それで一体、さだ子さんと伊達君は、どういうわけでこんな恐ろしいことをはじめたのでしようね」
「それでございます。勿論殺人の動機などというものは、無暗に判るものではございません。けれど私にはこんな気が致しますの。あの二人を動かしている根強い力はこの秋川一家に対する恨みでございます。それから直接の動機は無論金銭上の問題だと存じます」
「うらみ? あとの方はよく判つていますが、うらみとは?」
「先生、これがお判りになりません? 伊達さんは、一体何者でございましよう。全く当家にとつては他人ではございませんか。その人に私の家の財産の三分の一を与えるなどということは父が気でもちがつているのでなければ云えた話ではございません。父にきけばいずれ伊達さんのお父さんと同郷だつたとか、世話になつたとか申すに違いございませんが、それならば、父は何故はつきりそれを云わぬのでございましよう――仇です。きつと敵です。伊達さんの父は、私の父のきつと仇だつたにちがいありません」
 この一言をひろ子は、はつきりと云い切つたが、この言葉をきいた時、藤枝の右手からエーアシップが床にポットリとおちたのを私は見のがさなかつた。彼はあわててシガレットを取り上げたが、こんなに彼が驚いたところを、私は今まで見たことはない。このひろ子の言葉が如何に藤枝をおどろかしたか。何故、こんなに藤枝がおどろいたのだろう。
「仇でございますとも。あの人の父はきつと私の父を恨みながら死んだのにちがいありませぬ。それでなければ何故父がああいう風にずつと恐怖しつづけているのでしよう。伊達さんがおそらくは父の過去の秘密をかぎつけて脅迫状を父に送つていたに相違ありませぬ。父は誰か終生の敵をもつているのでございます」
「では、その終生のかたきの子を育てているのは?」
 藤枝の声はかすかに慄えている。彼は何か非常な興奮を抑えているらしい。
「父の罪亡ぼしでございます。私は父の過去も伊達さんの過去も存じません。ただ女の直観としてそう思うのでございます。父は過去に、伊達一家に対してなした何かの罪のつぐないをしているのでございます。私は自分の本能を信ずると同時に、この事実が論理的にもよくこの状態を説明することが出来ると信ずるものでございます。もしそうでなければ、何度もくり返す通り、何故父があんな馬鹿げた婚約の条件を出したのでございましよう」
 藤枝が、全く興奮した表情で思わず何か云おうとした途端、口にくわえたシガレットが床に落ちたが、今度は彼はそれに気がつかなかつた位、ひろ子の話に夢中になつていたのである。

      8

 この藤枝の様子に気がついたかどうか判らぬが、ひろ子は更に話をつづけた。
「ねえ先生、それに伊達さんの相手がさだ子ではございませんか。さだ子は母が死ぬ前の日に申した通り、たしかに母のほんとうの子ではございません――おお、そういえば、先生は、あれはしかしたしかに父の子だといつかおつしやいましたね」
「そうです。今でもそれは信じています。ひろ子さん、あの方の横顔をよくごらんなさい。争われぬものですよ。お父さんに実によく似ているじやありませんか。どんなにかくしても真実の肉親は必ず横から見ると判るものですよ」
「そうでございますか……と致しますとなおさら二人を疑わねばなりませぬ」
「とはまたどういうわけで?」
 ひろ子はちよつと何か考えていたがやがてまたつづけた。
「これは子として父を非難することになりますので、大変申し上げにくいのでございますけれど……事がこう切迫した以上、それに父がどうしても口にはつきり出さない以上、おまけに私がすでに犯人と思われる人の名をはつきり申し上げた以上、かくしておくわけに参りませんからお話致しますが、さだ子が母の子でなくてしかも父の子であると致せば、さだ子の母は何者でございましよう。勿論私には判りかねます。けれど、父が再婚したという話はきいておりませぬから、きつとさだ子の母というのは私の母以外の者で、何と申しますか、まあかくれた女だつたと思うより外仕方がございますまい。母が死ぬ前にちよつと口を開いた当時の口ぶりによつても、そう考えるのが一番真相に近いと存じます。母のことですから、さだ子の生母の事を知つても、烈しく父と争わなかつたにちがいありませぬ。心の中ではさぞ悩んだことと思いますけれど。……つまり父は一方に妻以外の人との間につくつたさだ子を育て、一方には罪亡ぼしとして伊達さんを育てていたのです。そうして、この二人を結婚させることによつて父は自分の過去をつぐなおうとしたに相違ないのです」
「成程。……」
「しかしこれは父一個の理想でございました。一人で描いた勝手なプランだつたのです。事実はそううまくはまいりませんでした。父の過去はそんな勝手な方法では清算されなかつたのでございます」
 私はひろ子が、そのようすにふさわしくない清算という言葉を口に出したのでいささか意外に感じた。
「成程、そうですか。……ではどうしてその方法で清算しきれなかつたのでしよう」
「伊達さんが自分の過去を知つたからです。何かの方法か、機会によつて過去の秘密を知つたのです」
「ひろ子さん」
 と藤枝がちよつと間をおいて云つた。
「あなた、伊達君が誰かを通じてそれをきいた、とは思いませんか」
「さあ――」
 ひろ子は困つた顔をしたが、
「別に思い当る人もございません」
 二人ともしばらく沈黙してしまつた。
 藤枝は新しいシガレットの紫煙を天井に向つて吹きながらじつと何か考えている。
 しばらくして彼は、きつとひろ子の顔をながめながら云つた。
「よろしい。お訴えなさい。私はとめません。ただ私があなたの Theorie に全く同感であるか否かは別ですが……」
 ひろ子の顔に決然たる色が浮んだ。
 彼女は藤枝が積極的な説を少しも述べなかつたのを多少不満に感じたらしかつたが、間もなくオフィスを辞した。

   警部の論理

      1

「素敵だ! 素晴らしい! 実に恐るべき頭脳だ!」
 ひろ子の姿がオフィスから消えると、不意に藤枝が大きな声でつぶやいた。
「小川、何と云う推理力だ! 常人のなし得る所ではない。しかも僅か二十一歳の令嬢にして、あの頭脳の所有者なんだぜ。僕は無論はじめからあのお嬢さんの頭が並み並みでないとは感じていた。しかしかくまでに明瞭に、かくまでに整然とした理論をもつているとは! 驚いたね。全く驚いた」
 彼はほんとうに驚嘆したように大きな目を見はつて私に話しかけた。
「僕もそばにいて全く恐れ入つちやつたよ、あの人の論理の確実なことは。ねえ藤枝、君はしかし自分の意見を少しも云わなかつたじやないか」
 こう云うと、彼は夢からさめたような顔付をした。
「うん、如何にも。ねえ、今の堂々たる論理、君は恐れいつたかい」
「徹頭徹尾!」
「小川、僕はひろ子のあのずばぬけた推理力を賞讃しかつ尊敬する。更にあの女性の直観力に無限の敬意を払うのに決してやぶさかではない。しかし、僕が彼女のテオリーに徹頭徹尾賛成かどうか、ということになると、多少そこに考慮の余地が出てくる」
「ほほう」
「君は気がついたかどうか知らぬが、ひろ子の説すなわち伊達正男、秋川さだ子共犯説には、見逃し難き二つの欠陷があるよ。第一は、四月十七日の犯罪についての点だが。徳子が昇汞を呑んで死んだことが判つた。そこでこの昇汞を彼らが如何にして手に入れたかという問題である。君も知つている通り、我国では特に毒薬劇薬を手に入れることがむずかしい。普通毒殺事件が行われた場合は、だから捜査官はまずかくの如き薬を比較的手に入れやすい人間に目星をつけることになつている。たとえば医師、薬剤師、それから化学者、その他、われわれ犯罪に関係ある職業をもつている者などだ。伊達、さだ子いずれかが昇汞を手に入れたとすれば、必ず警察の手で知れる筈なんだがね。これをひろ子はどう説明するかしら。勿論、この点が説明出来ぬからと云つて彼女のテオリー全部の価値を認めないわけではないがな。第二に佐田やす子が殺された理由については、僕も全くひろ子の説に同感だよ。感服の外はない。しかし、犯人すなわち伊達又はさだ子が、如何なる方法でそれまでやす子を沈黙させていたか、この点が明らかでない」
「そりや買収したんだろうよ」
「不可能だ。君はあの位の若い女の心理を知らぬと見えるね。ひろ子もそう思つているらしいけれども、しかして恐らくは犯人自身もやす子の心理を誤算したのだ。ともかく買収ではない。この方法は、説明出来ぬというよりは、むしろ不可能なことに属すると思う」
「では伊達が脅迫して沈黙させたのではないかしら?」
「脅迫? うん、君の考えは多少いい。しかしね、伊達が佐田やす子を脅かす程の力をもつていると君は信ずるのかい」
 藤枝はエーアシップの煙を室一杯に漂わすのだつた。思えば彼も人がわるい。私にさんざんしやべらせておいて自分のシーオリーを少しも云わないのだから。
 私はこの時ふと心に浮んだことがあつたので口を開いた。
「昨日君が妙なことを思い出さぬかと云つたね。あれと同じことをさつきひろ子がやはり、云つたね。どういうんだい、あの意味は?」
 彼はピシャリと机を叩いた。
「うん、えらいよあのお嬢さんは。第二の事件の時も第三の事件の時にも、さだ子が林田に調べられていた。これを変に思わないか、と来たね」

      2

「そうさ。つまり、仮りにさだ子があの間にどこかへ行つたかも知れないとして、林田が何かの理由で彼女をかばつているのではないか、というのがひろ子の推理なんだ」
「うん。観察点は実にいい。しかしその推理に僕は賛成しかねるのだ」
「どうして? もつとも君はあの時、林田がさだ子をかばうなどは断じて不可能だと云つたつけな」
「そう思う理由があるよ。君、林田ははじめからさだ子に好意をもつてはいないんだぜ」
「だつてさだ子は君より林田の方をずつと信用しているが」
「そりやそこがわれわれ探偵の腕前さ。林田はその実、決してさだ子の味方ではない――いや、むしろさだ子を疑つてる一人かもしれないが――それにもかかわらず、君の云う通り、さだ子の絶大の信用を博しているということはすなわち彼が探偵の資格を充分にもつていることを証明しているわけさ」
「でも君は林田がさだ子に好意をもつておらんということをどうして知つたんだい。林田が何か君に喋舌つたのか」
「どうして、そんなことを競争者たる僕にもらすものか、僕だつて同じことだ。ひろ子はすつかり僕を信じているし、林田もそう思つてるらしいが、僕が心の中で、どの程度に彼女を……いや僕のことより林田の話だがね。彼がさだ子に大して親切でないことの一つの証拠を挙げて見ようか」
 藤枝はここでちよつと口をつぐんで私を見た。
「四月二十一日の午前、すなわち、あの第二の惨劇のあつた翌日、僕らが秋川邸に行つた時のことを思い出して見給え。僕らは笹田執事にあつた後すぐひろ子に会つた筈だ。その時彼女はいきなり『昨夜犯人が捕まつたそうでございますね』ときいた。僕がどうしてそれを知つているか、と反問すると『さつき林田先生がおいでになつた時、そんな事を承わりました』と答えた事実を君はおぼえているだろう。ところですぐその後でさだ子に会つた。僕は林田が無論彼女に早川のことを喋舌つてると思つたから『実は私は今警察に寄つて来たのです。昨夜の事件の犯人らしい男が捕まつたというのでね……あなた林田君にききませんでしたか』と訊ねた。するとさだ子は意外にも『いえ、ちよつとさきに林田さまにお目にかかりましたけれどもその話は……』と答えたぜ。ねえ君、さだ子はあの時伊達が警察に連れて行かれたときいて非常に心配していた筈なのだ。もし林田に好意があれば『実は昨夜の犯人らしい者が捕まつたから安心していいだろう』と、気やすめにでも云つたらよさそうなものじやないか。林田はひろ子には云つた。しかも肝心のさだ子には故意かどうかともかく、語つていない。これは一体どう考えるべきだろうね」
「成程、して見ると林田はさだ子を疑つているのかしら……」
「疑つているにしてもその位のことは云つてもよさそうだがね。ともかく林田がさだ子をかばつたとは思えない。……そうそう、そう云えばあの時僕が心配しているさだ子に『たとえばその後伊達君が邸内をうろうろしているのを誰かに見つかつたなんていうことはないのでしよう』と云つたら『そ、それは勿論でございます』と答えたが、あの時のさだ子の不思議な表情に気がつかなかつたかい。この点だよ、重大なところは」
 彼はこう云つたまま沈黙してしまつた。
 それからの彼はプカリプカリと煙草を吐くばかりで、一言も発しない。
 私はまた彼の黙想を破つてはならないと思つたのでブラリと銀座に出かけ、社に寄つてたまつていた用事をすませて午後三時半頃オフィスに戻ると、藤枝は、妙に、にこにこしながら私を迎えた。

      3

「君の留守に僕は大分活動して来たよ。第一にこういうニュースがある。秋川初江の死体解剖の結果、彼女の胃の中から多量の睡眠剤ヴェロナールが発見された。腸の中からも見出された。死因は窒息死すなわち溺死である。どうだい。非常な事実じやないか。これで僕もいくらか安心したよ」
 私には胃の中のヴェロナールがどういう重大な意味をもつているのかちよつと判らなかつたので何も云わずポカンとしていた。
「何だ、君には何の感じもおこらないのかい。僕の悩みぬいた謎がヴェロナールのおかげで、はつきり解決したじやないか。困つた人だね、君は。余りよく判つたようじやないな。第二のニュース。これは当然の話だが、林田は昨夜あれから検事や警部にあの怪しい電話の話をしたそうだ。何でも、女の声で初江がよび出されたそうだが、その電話は一種の警告だつたそうだ。『木沢氏の薬をのんではいけない。危険だから。必ずのんではいけない』というようなことだつたという。初江は気味がわるいので、このことをひそかに林田に伝えた。林田は『そんなことをおそれる必要はない。しかし気味が悪かつたらよした方がいいかも知れない』と答えたそうだ。これはごく常識的な答えで僕にしてもそうきかれればこうでも答えるよりほかに仕方があるまい。風呂にはいる前に初江は気になると見えてまた同じ質問を林田にしたので、林田も同じように答えたと云うことだ」
「成程、それで事件直後林田は気になるので第一にパラフィン紙を探したんだな。その結果、初江は、気味の悪い警告にもかかわらず、木沢氏の薬を一包のんだことが判つたんだな」
「そうさ。しかも検査の結果木沢氏の薬には絶対に間違いがなかつたことが判つた。残りの二包には皆無害な健胃剤がはいつていることが立証された」
「ふうん、して見ると誰がヴェロナールにすりかえたろう」
「そこだ。そうして誰が木沢氏の健胃剤一包をかくしたか。曲者は一応木沢氏の一包を、初江がのんだように見せかけたのだ。それから……」
「電話の主は誰だろうね。女だそうだが……」
「それよりも、もつと大切なことがある。その電話の主は、どうして初江が木沢氏に薬を作つてもらつたのを知つたかということだよ
 暫く沈黙がつづいたが、私はふと、さつきのひろ子との話を思い出した。
「ねえ君、ひろ子は警察へ訴えに出たかしら……」
「行つたろう。そうしてあの素晴らしいテオリーで高橋警部を煙にまいていることだろう。高橋警部がひろ子の説に対して如何なる意見をたてるか、それが見物じやないか」
 こんな話をしているところへ、電話のベルがあわただしく鳴つた。
 私がいそいで出ると、男の太い声がする。
「もしもし、藤枝真太郎さんの事務所ですか。藤枝さんはおられますか。こちらは牛込警察署です」
 私は驚いて藤枝をさしまねいた。
「ああ僕、藤枝ですが……高橋さんですか……何、とうとう行きましたか……ええ……腑におちない? そうですか……ふん、ふん……さあ、それはどうもね……僕ですか、今行かれますよ、じやすぐ行きます」
 彼はガチャリと受話機をおくと私の方に向きなおつた。
「おい、とうとうひろ子嬢が訴えに出たそうだ。午前中だつたそうだが。それで高橋警部は僕に来てくれというんだがね。これから行つてくる。……ところで君は夜は自宅にいてくれよ。いずれ何とか面白いことになるだろうからな」

      4

 藤枝の命令通り私はその夕方ただちにうちに帰つて彼からの電話を待つていた。七時すぎになつて果して彼から電話がかかつて来た。
 甚だ恐縮だが、急いで来てくれというのだ。
 私はとるものも取りあえずいそいで彼の宅につくと、これはしたり、意外にも彼は旅行でもするつもりと見え、スーツケースのそばでしきりと何か片づけている。
「や、お呼び立てして失敬。時に足元から鳥が立つようでちよつと急だが、僕はこれから関西の方に二、三日旅行して来るよ。今夜から立つ。しかしその前に君に高橋警部にあつたてんまつを物語ろう。実はさつき警部から電話がかかつて、どうもひろ子のいう所が、腑におちなくて困るから、すぐ来てくれということだつた。で、僕は、ひろ子が例の論理でするどく攻めよるので警部がタジタジの形なんだろうと思つて行つて見たのさ。するとどうだ君、警部は困つていると思いの外、さすがは彼だよ。彼はひろ子の説からしてある確信を得たんだ。その彼の確信によれば、犯人はさだ子と伊達に非ずしてひろ子だということになる」
「何、ひろ子が犯人?」
 私はとび上らんばかりに驚いた。
「そうさ。警部の論理に従えば、どうしても今回の殺人犯人はひろ子以外の者ではない、ということになるのだ。警部はすでに前からひろ子に目をつけていたそうだ。それで今日ひろ子の説をきくに至つていよいよ確信を得たと云う。彼は僕をよんで自分の説を一応述べた。実に自信に満ちた調子でしやべつたがそのテオリーはまずこうなんだよ。
「警部の説に従えば、ひろ子に第一の母殺しの動機を与えたものは、さだ子、伊達二人と母との論争にあつた。母はどちらかというとひろ子にとつて味方である筈で、敵ではない。父親こそ、さだ子、伊達の味方なのだ。だからひろ子が母を殺すなどということはありそうもない。しかしこれは通常の犯人に対していうことで、ひろ子のように素晴らしい頭のもち主にはあてはまらない。ひろ子の最終の目的は財産を自己一人の手に入れることと異母妹さだ子らに対する烈しい嫉妬をはらすことである。彼女はまず駿太郎の死亡によつて自分が相続人になることを知つている。さだ子、伊達を失うことによつて財産の損失を防ぎ得るばかりでなく、日頃の嫉妬のうらみをはらすことができる。そこで彼女はまずその機会の来るのを待つていた。自分で作つた脅迫状を父に送つたり、それから僕のオフィスへわざとどこかの女から電話をかけさせたりした。しかしチャンスはついに来た。財産の問題についての母とさだ子、伊達の烈しい口論である。ひろ子はこのチャンスを見逃さなかつた。彼女は母を殺すことによつてさだ子と伊達に嫌疑をかけることを考えた。その結果はごらんの如く十七日の夜に母が苦悶の結果死んだということになる。訊問されて母が最後に、さだ子にと云つたというような嘘をつく。これは度々云つた通りひろ子以外のものは誰もきいていない。警部がまずひろ子を疑い出した動機は、彼女が僕の所に来ておどろいて帰つたあの夜(彼女があの日は僕の処に来たことは僕から警部にあの当時話しておいたことだが)探偵小説をよんでいた、という考え得べからざるふしぎな供述からだつたという」
 藤枝にこう云われて、私はまたあの呪わしいグリーン・マーダー・ケースのことを思い出した。
「だつてそれにしても、二十日の夜の事件でひろ子はたしかに無罪だぜ」
「ところが警部のテオリーに従えば、二十日の事件の犯人はすなわち早川辰吉で、あの事件は全く十七日及び二十五日の事件に関係がないとかいうわけなんだ」

      5

「だから二十日の事件にひろ子が関係がないと判つても何の役にも立たぬということになる。
「さて彼女の目的通り母が死んだ。ついで偶然にも駿太郎が早川に殺された。秋川家の財産を分けらるべき人はひろ子、さだ子、初江の三人ということになる。そこでひろ子は、ついに初江を殺すことを決心する。すなわち昨日、彼女は、実に巧みにチャンスを捕えた。午後六時四十分頃、父は二階にねている。さだ子と林田と伊達は二階のさだ子の部屋にいる。現に彼女は庭からこれを見ている。それから君は庭に立つている。笹田執事は留守と来ている。家の中には、初江が風呂の中に、女中が台所に二人いるきりなのだ。しかも初江は、ひろ子にすすめられてさきに風呂に入つたという事実を忘れてはいけない。彼女はまず女中の所に行つて二人がたしかにそこにいるかどうかとたしかめる。それからそつと風呂場にしのびよつた」
「もし初江がもう出ていたらどうするつもりだつたろう」
「出ていれば無論手を下しようがないさ。彼女は無論またのチャンスを待つばかりだ。ところが、うまく初江が風呂につかつている所にぶつかつた。彼女は何気なくそのそばに寄つて、相手の隙をうかがつてジョセフ・スミスのまねをすればよかつたわけだ。ただ彼女の、フェータルな失策は――警部の説に従えば『風呂場の花嫁』という言葉を思わず洩らしたことである。ジョセフ・スミスの犯罪を余りはつきりまねたためついうかとそういういいあらわしをしてしまつたのだろう。通常のお嬢さんの思いつく言葉ではないからね[#「からね」は底本では「からね。」]
「しかるに、第一、第三の犯行の間に意外にも早川辰吉の犯罪が加わつた。脅迫状をあらかじめ出しておいたので、当局は同一犯人と思う。そうすると第二の事件でひろ子自身のアリバイが完全に立つているため、事は彼女の思いもうけていなかつた位、安全にはこんでしまつたのだ。しかし一方彼女は焦慮した。それは、さだ子、伊達の二人にはつきりした嫌疑がかからないということだ。目的のなかばは成就しても、この憎い二人が捕まらなければ何にもならぬ。それでとうとう堪りかねて今日まず僕の所に来て二人のことを訴え、しかる後、自身警察に出頭してさだ子と伊達を訴えたとこういうわけなのだ。警部は最後にこういつている。ひろ子のような智慧のある少女にでつくわしたことはまだかつて一度もない。実におそるべき天才だとね」
 藤枝はいい終ると、一向感情を動かしたようすもなくすまして天井に向つてプカリと煙を吐いた。
「ふうん」
 私はさすが警部というものは頭がいいものだとしばらくは感心していたが、ひろ子が犯人だなんてどうして信じられるものか。
「どうだね、小川、[#「小川、」は底本では「小川」]警部の論理もひろ子のテオリー同様中々頭がいいじやないか」
「うん、しかし腑におちない点があるな」
「そうかね。じや云つて見給え」
「第一、母を殺す原因が薄弱じやないか。成程、二人に嫌疑をかけるのもよかろう。しかし恨みもない母を殺すとは」
「さあ、その点は僕も念のために警部にきいて見たんだ。すると警部の曰くさ。確証はないが、あるいは母がひろ子の性質か目的をみぬいたのじやないか、というんだ。つまりひろ子にとつて、目的をとげるのに一番邪魔でうるさかつたのが実は母だつたんだ。そうすれば母を殺すことは一石二鳥だからね」
「成程、説明というものはどうにでもつくものだね。……第二のあのタイプライターの脅迫状ね、あれをひろ子が勝手に作つたとするのは妙じやないか。おまけに父があんなに何かを恐れているのだぜ。して見れば、駿三に脅迫状を送つた人間はたしかに駿三の秘密を知つていたと見なければならぬし、駿三には立派な秘密があつたと思わなければならんじやないか」

      6

 私は夢中になつてひろ子を弁護しはじめた。
「警部の論理に従えば、ひろ子がさつき直観と云つた奴が、実はひろ子が探り出した父の秘密だというのだ。ひろ子は如何したかしらぬが何かの方法でもつて父の秘密を知つた。そこで自分であらかじめ脅迫状を出したというんだがね」
「そうすると何かい。ひろ子は犯人が外部に在りと思わせたかつたのかい」
「警部はまあそうと思うんだろうね」
「それじや矛盾じやないか。警部の論理によれば、ひろ子はさだ子と伊達を疑わせようとしているというのぢやないか。それなのに彼女が、犯人外部に在りというようなトリックをしたというのは!」
 私は鬼の首でもとつたようにこの自分ながらすばらしいと思われるロジックにかじりついた。
 藤枝は何と思つたか、にやにやしながら、
「警部の説に従えば……」
「オイ、又しても警部の説に従えばかい。一体君自身はどう思つてるんだい」
「まあそう興奮し給うな」
「いや興奮せずにはいられない。そんなインチキ論理でひろ子を疑うなんて」
「あははは。インチキ論理はよかつたな。警部の論理に従えば、そこがひろ子の腕のあるところだというわけさ」
「どこがだ」
「つまり一応外部にありと見せて、だんだん探つて行くとさだ子と伊達に嫌疑がかかるという寸法」
「だつておかしいじやないか」
「僕の論理に従えば、この点は実に君のロジックに賛成なんだよ。仮りにひろ子が犯人だとしても、脅迫状は他の人から送られたと見るのが正しい。今月の十八日の日に君に僕はたしかに云つた筈だ。脅迫状が来てから殺人が行われる。この場合、脅迫状をよこした奴を殺人犯人と見るのは一応常識だ。しかしそりや絶対にまちがいないとは云えない、とね。そうすれば、わがひろ子嬢は、誰とも知れない人の脅迫状を、巧みに利用した事になる。いいチャンスをつかんだ事になる。ねえ小川、君は鬼の首でもとつたように論じるが、ひろ子が脅迫状を送つたのでない事が立証出来たつて、それは、彼女に脅迫罪が成立しないというだけで、殺人事件とは別問題だよ。そんなに青筋をたててさわぐほどの事でもなかろうよ。……それに、脅迫状を送つた人間が外部に存在するという事は、昨日の怪しい電話でも立証することが出来る。昨日あの際、ひろ子が誰か外部の人に、通信するひまはなかつた筈だ。従つてひろ子が外部の人に電話をかけさせるひまはどう考えてもなかつたわけだからな。僕はその外部の奴はたしかに女だと思つた。女の声だつたというし十七日に僕のオフィスに電話をかけたのも、それから、同じ日の午後敷島ガレーヂに電話をかけたのも女だつたというから、まず素直にそう解釈した方がいいよ。ところで君は、警部の論理にその他に不満はないかね」
「不満と云えば全部不満だよ」
 私は不機嫌そうに云つた。
「ねえ君、ひろ子の論理に見逃し難き欠点があつたように、警部のそれにも重大な欠陷があるのに気がつかないかい」
「え?」
 私は救われたように藤枝を見た。
「僕は警部が並み並みの人でないことは認める。ひろ子に嫌疑をかけたのはさすがた。しかし、次の四つの点について僕は大いに疑問をもつているよ」

      7

 藤枝は新しいシガレットに火をつけながらおもむろに語りはじめた。
「第一の欠陷、しかして同時に僕の考えに従えば警部のテオリーの根本的の欠陷は、第一、第三の犯罪と第二のそれとを全く別に見ているという事だ。十七日の犯罪と二十日の犯罪とが全然関係なく偶然だと考えることがこの際甚だしく不自然だという事は、僕は充分な自信を以て云い得ると思う。第一の犯罪と第二の犯罪とは著しくやり方が違つている。これはかつて君にはつきり述べた筈だ。つまり犯罪に表われた個人の個性がはなはだしくちがつている。この点に目をつけたのは高橋警部の賢明な所だと云えるが、彼の着眼点はいいけれども推理の方法を誤つている。犯罪のやり方が余りちがうので彼は犯罪の主体、すなわち犯人が異つていると推断した。しかしこれはあの時も云つた通り、そうではない。主体は違わないのだ。主体は違わないのだが犯行当時の犯人の心理状態が著しく変化したことを表わすにすぎないのだ。度々云つた通り、僕らは第一と第二の犯罪の間に、佐田やす子という主要なリンクをもつている。これがあるのに二つの犯罪に関係が全くないとは誰が云えるか。第一の犯罪で主要なやす子が偶然にも第二の事件で、被害者となつている。けだし、プロバビリティーの計算に於いては、極めて考え難い偶然ではないか」
「しかし警部は云うだろう。プロバブルではない。が、ポシブルだとね」
 私は、内心藤枝の説を喜びながらもちよつと、抗議を出して見た。
「無論そうだ。この偶然は決して、ありそうもない、めつたにあることじやない。けれどあり得ることであつて無しとは云えない。しかし小川、このめつたにない偶然が起つたとしてもどうしても説明できないのは駿太郎の死だよ。早川辰吉が偶然にも佐田やす子を殺したと仮定する。しかし彼はどうやつて駿太郎を殺したか。――ひろ子が賢くも断言した通り、唖でない駿太郎が黙つておびき出されて殺される筈はない。彼は誰かよく知つている人に必ずさそい出されたのに相違ないのだ。以上が高橋警部の第一の誤謬だと僕は思う。しかしてこの第二の犯罪でひろ子は立派にアリバイが立つている。強いて彼女を疑えばその共犯者だが、今はもう彼女の共犯者というものは考えられない。僕はかつて君に伊達がひろ子と妥協し得ることを述べた。けれどもあれから度々の観察でそれは不可能だということがはつきりと判つた。二十一日の朝、僕らは警察に行つた後、秋川家を訪問した。その時、ひろ子に伊達の事を父によくきいてくれと僕が頼んだ事を君はおぼえているだろう。実はあの時まではまだ多少の疑いがあつたので、僕はひろ子を全く信用しているらしい風をしつつも一方で、何気なく『勿論私自身の方でも伊達という人の素性を調べ中だ』ということを云つて鋭く彼女の表情に注意していたんだ。もし彼女が少しでも伊達と妥協しているとすれば、ああいう問題の際に、ちよつとでも顔色をかえて尻尾を出すものだが、そのようすはすこしもなかつた。だから、彼女に男の共犯者があるとするのは当らない。しかして第二の事件と第一のそれと全く別にした推理の上に立つひろ子犯人説には、僕はまずこの点で賛成できないのさ」
「うん、うん、それから次は」
「第二はこれは、さつきひろ子の、さだ子伊達共犯説に対して云つたのと同じことで、徳子にのませた昇汞を、ひろ子は一体どうして手に入れたかという問題だ。成程ひろ子はなみなみのお嬢さんではない。さだ子その他とはダンチに頭がいい。芸術家であると同時に犯罪研究家である。君は彼女の書斎に犯罪の本以外に芸術の本がたくさんあつた事を知つてるだろう」

      8

 私は、ムーターの絵画史やベッカアのベートホーヴェン伝その他を思い出した。
「この点はやや注意に値すると思うね。彼女は一方に於いてクリミノロオグであるが、同時に芸術家なのだ。ね、芸術家でしかも大犯罪人というものをわれわれは考えることが出来る。しかしここにもう一つ彼女は二十一の女性だというデーターがある。一言にして彼女を批評すると、彼女はめずらしく理性に富んだいい頭をもつてはいるけれども、彼女のクリミノロギーは結局机上の空論の外を出ない。若い女の陷りやすいロマンシングに浸つているにすぎないのさ。彼女のさんざん頭を絞つて考え出した理論がさつきの伊達さだ子共犯説さ」
「どうも少し話がむずかしくなつて来たが……」
「判らないかい。つまりね、高橋警部も案外ロマンティーケルだというんだよ。警部は少々彼女を買いかぶりすぎているのさ、警部のテオリーのような整然たる犯罪は心理上ひろ子に出来るはずはない。彼女は理想家であつて実際家ではない。彼女のクリミノロギーは失礼だけれどもたかだかグリーン・マーダー・ケースを出ないんだ。そのひろ子には、他人に知られずに昇汞を手に入れるというようなごく実際的なまねは断じて出来ないと思う。第三、昨日の事件のヴェロナールもまた然り。ひろ子がどうして初江にヴェロナールをのませたか。ヴェロナールの方が昇汞よりは彼女の手に入る可能性があつた筈だが、初江にのませる手段がわからない。しかして最後に、初江にかかつたあの不思議な電話。あれは明らかに外からかかつたものだが、もしひろ子がその電話の主の共犯者であるとすれば、ひろ子はいつその女に、ああも都合よく時間をはかつて電話をかけるように合図をすることが出来たか。この点がはつきり説明が出来ない限り、僕は警部のテオリーに賛同するわけにはいかんな」
 なかば灰になつたシガレットをポンとすてると藤枝は、かたわらにおいてあつた旅行案内をとりあげた。
「ところで、僕は今云つた通りこれからすぐ旅行しなくちやならん。目的は例によつて今は云えない。しかし、今月末には必ず帰るからよろしくたのむよ」
「どうも折角なおつてくれたと思つたら、もう又旅行か。そりや仕方がない。じやともかく東京駅まで送つて行こう」
 時計を見ると、彼の乗る下関行の発車まで三十分しかないので、すぐ自動車に乗つて私は彼と共に駅までかけつけた。
「ねえ、留守中が心配だね。また何かおこりやしないか」
「うん、わからない。僕はわれわれ法律家の無力をしみじみと感じるよ。ここに将来何か危険なことが起り得ることが判つている。しかし犯人に対して確証がない。こういう場合、われわれ法律家には将来に対してはただ手をつかねていることが正しい道として与えられているばかりだ」
 改札口をはいりながら彼はこんなことを云つて、暗い顔をした。
 彼が、二等車の中におさまつた時、私は彼の留守中の事が気になるので、
「ところでお嬢さんのおもりは又やるんだろうね」
「うん、やつてくれ給え。もつともひろ子には君はあえないかも知れんよ」
「え? 何故?」
「警部が彼女を疑つていることは今云つた通りだ。まさか拘留はしないかも知れないが、当分毎日よばれるだろうからね」
「何だ君! じや君はあんなに反対説をもつていながら、警部にそれを云わなかつたのかい」
「無論だよ。それどころか、大いに警部の説をほめてけしかけて来たよ」

      9

 一度でも美しい女性に恋をしたことのある――否、恋まで行かなくてもよい。好意をもつただけでも結構だ――そういう経験のある読者ならば、私が藤枝の言葉をきいて此の時どの位腹立たしく感じたかおそらく推察して下さるに違いない。
 探偵小説に出て来る名探偵はシャーロック・ホームズでもフィロ・ヴァンスでもソーンダイクでもポワロでも、思わせ振りな言葉を時々出すばかりで最終の章まで自己のシーオリーを少しも云わないのが通例である。しかしそれは読者を最後まで引きつけておく一つの手段にすぎないのだ。
 今、藤枝の場合はそうではない。彼の一言によつて我が愛する――読者よ、思わずはつきり自分の気持を云つてしまつた事を許されよ――あの美しいひろ子が恐ろしい殺人の嫌疑から免れる事ができる所なのではないか。藤枝は明日にも明後日にも可憐なひろ子が警察に引つぱられて残酷な取調べを受けるだろう事を予言している、いなあるいはそのまま警察にとめられるかも知れないのじやないか。
 明らかに警察が誤つた疑いをもつているのを知りながら、それを指摘せず、反対にけしかけるとは!
 成程藤枝は弁護士ではない。しかし彼はかつて検事を勤めていた事がある。しかも平生正義という事をうるさい程口にしている彼である。たしかにひろ子が犯人でないと信じていながら、(少くも私にはそういう風に彼は云つた)一言も弁解してやらぬとは何たる醜態だ。
 私の前で、いや御大層に大きな事を長々と述べたが、それは結局警察では一言も取り上げられなかつたのではないか。
 私は余りの腹立たしさに暫く文句もいえず、思わず外から車の中に手をのばして彼の腕をつかんだ。
「おい藤枝? けしかけたとは何事だ。君、君は何故彼女の為に弁解してやらないんだ!」
 生憎この時発車を知らせる警鈴が鳴つて、私は駅員に注意されて残念ながら車からはなれなければならなかつた。
「あははは。まあそう怒るなよ。ね、よく考えて見給え。よく! じや御機嫌よう」
 一瞬の後ムキになつている私を残して汽車は悠々と行つて了つた。
 プラットホームを歩きながら、私は、すぐにこのまま警察にかけつけて、警部に直接面会し、藤枝の吹いた同じ論理で警部をとき伏せ、是が非でもひろ子の為に弁じてやろうと勢こんでかけ出し、駅の階段から歩を地面にうつした途端、何故か私は今云つた藤枝の言葉をおもい出した。
「よく考えて見給え。よく!」
 はて、どういう意味かしら。
 後から考えて見れば――いや、あとからでなくても、賢明なる読者には私が今まで展開した事実から推して、藤枝が何故ひろ子の為に弁解してやらなかつたか、という事は充分お察しがついたろうと思うがおろかにもその時の私には全然意味が判らなかつたのである。
 しかし、自分が警察にかけこむ事だけは非常な克己心をもつて我慢した。今まで藤枝のやる事には必ず何か理由があつたから。
 私はあえて克己心という。何故ならば、はたして藤枝の予言通り、ひろ子は留置こそされなかつたけれども、この日おそくまでとめられ、翌日すなわち四月二十七日から四日間連続して厳重に取り調べられていたらしいからである。
 私は長いこの物語りの中で、たつた一個所此処でわがセンチメンタリズムに触れるのを許して頂きたいと思う。
 読者よ、愛する美しき女性が無実の罪になやめるのをだまつて見ているその私のこの気もちは一体何にたとえたらよかろう。

   第四の惨劇

      1

 思えばこの四日間はひろ子にとつてはおそらく、私にとつては勿論、堪え難い苦悩の時であつた。
 しかし、この苦悩の四日はあとから思えばおそるべき惨劇のプレリュードでしかなかつたのである。
 あのいまわしい警告の通り五月一日の夕方秋川邸でとうとう第四番目の惨劇が行われてしまつた。
 が、順序として私は、藤枝が出発してからの出来事を一通り述べておこう。ただし日記ていに記すことは正確なかわりに、読者にとつて煩わしいと信ずるから、大体のことを大づかみに述べておく。
 藤枝の予言通り、ひろ子はすでに二十六日の日大分おそくまでとめられていたらしいが、引きつづいて毎日早くから長時間に渉つて取り調べられるようになつた。
 無論、秋川駿三は全力をつくして我が子の名誉を護ろうとしたが、この大家の令嬢が連続して警察に呼ばれたことが新聞社の人に知れぬ筈はなく、諸新聞は大々的にひろ子のことを写真入りで書き立てた。
 私は毎朝新聞を見るに堪えなかつたのである。
 早川辰吉は依然として警察にいる。
 秋川駿三は、二十五日の惨劇当時、すでに健康がおもわしくなかつたのに、あの事件が更に起つたのでますます身体の工合悪くずつと臥床のままであつた。
 新しい事件といえば伊達正男の病気である。
 彼は二十六日までさんざん警察によばれて取り調べられていたのだが、高橋警部が急にひろ子に目をつけるようになつてから当分呼ばれぬようになつて、ほつと安心して気がゆるんだせいか、風邪気味で二十七日から床についてしまつた。
 私が、彼の病気を知つたのは二十七日であつた。この日、一人でひろ子のいない淋しい秋川邸に私が行くと、木沢氏に会つた。木沢氏から伊達のことをきいたのである。
 伊達が病気ときいてさだ子が大変心配して木沢氏に頼んだので、木沢氏が診てやつたらしく、大した事はないけれども、熱がある、という事だつた。
 私はひろ子が警察によばれている間、さだ子が一体どんな様子でいるか知りたかつたので、会おうと思つたのだが、彼女は毎日の新聞紙及び周囲の評判で秋川家が今社会の問題の中心となつていることを知りすつかり気をくさらしていて、伊達を見舞いに行くことすらさけているというわけで、彼女に会う事は遠慮してその足ですぐに伊達を見舞いに行つて見た。
 伊達は思つたより元気でいろいろ物語つたけれども見た所ひどくやつれている。
 私は彼が警察によばれて以来、まだゆつくりと話したことはなかつたのだが、今見ると急にやつれてふけてしまつている。病気とはいいながら、あの颯爽たる面影は失せて衰え切つている。
 罪のあるなしにかかわらず、警察に毎日よばれるということが一人の人間にどんなに精神的な苦痛を与えるかということをまざまざと見せつけられて、私は今更ひろ子の身の上を思い黯然たらざるを得なかつた。
 しかし伊達との会見は決して愉快なものではなかつた。無論彼本人にとつては人情として無理はないのだが、誰からきいたか彼は、自分の嫌疑がひろ子にうつつて行つた事を知つたらしく、大へん、楽しそうに見えた。
 自分の嫌疑がはれた、という単純な喜びか、あるいはひろ子に嫌疑がかかつたということについての喜びか私にはよく判らなかつたけれども、ともかく私にとつては決してうれしいものではなかつたのである。それで私はまもなく彼の所を辞したのであつた。

      2

 新聞紙は、ひろ子が警察で取り調べられはじめてから、まるで彼女が真犯人であるかのように書き立てた。これは無論、司法主任の態度なり、様子から推察したものらしく(私は責任のある位置にいる高橋警部自身が軽率にも、記者に詳しい考えを述べたとは信じない)相当つつこんだシーオリーが立てられている。二十七、二十八両日の諸新聞は殊に猛烈に諸名士の推測を書き立てた。
 よく迷宮入りの事件があると、犯罪捜査官、司法当局高官、法医学者、さては探偵小説家などの推理、空想、憶測が盛んに紙上に掲載されるものであるが、私はこの秋川家の奇々怪々な事件ほど世にセンセーションを起したものを知らない。と同時に、このセンセーション位不愉快なものには私は未だかつて出会わなかつた。というのは、それ程多数の説がひろ子を疑つていたからである。
 私は少しでも彼女の味方になつている論評は今でも悉く暗記している。法医学者の某氏、探偵小説家の某氏、しかして林田英三の説が新聞に出た時、私は心の中でこの三人にどれ位感謝したか判らない。
 林田は自分が、藤枝と共にかなり非難される立場にいる男だけれども、二十八日の夕刊に彼の説というのが出たが、それによると必ずしもひろ子を疑うのは正しくないことになる。
 外の二人は、勿論知合の間柄でもないし、それに写真を見ると、どちらもいやにむずかしそうな顔付をしていてうつかり近付きにくいので、私は早速まず林田のところにその夜かけつけた。
「小川さん、今秋川家から戻つたところです。今日、初江さんの埋葬があつたものだからね」
「そうでしたか、僕も行けばよかつた」
「藤枝君は留守のようですが、どこに行つたんです?」
「藤枝の旅行を知つてるんですか」
「昨日用があつて電話をかけたら留守だつて云うことだつたんでね」
「どこへ行つたか、あいかわらず例の調子でぶらりと出て行つちやつたんですが」
 私は、藤枝に、特に自分の行動を秘密にしてくれとは云われていなかつたけれど、これより詳しいことを云う必要はないと思つたからこう答えた。
「ねえ林田さん、今日来たのは実はあなたに感謝する為なのですよ」
「とおつしやるのは?」
「あの夕刊に出ていた記事です。あなたはひろ子を犯人ときめるのは早計だと云われた筈です。たしかに……」
「ああ、あれですか」
 林田はしばらく私をじつと見ていたが、やがて、
「ありやね、あんまり記者にうるさくつけまわされて仕方がないのでつい口をすべらしてしまつたんですがね。僕も藤枝君のように、どつかに逃げればよかつた」
「藤枝も記者をまくつもりで旅に出たんでしよう。僕にも行先を告げずに行つてしまいましたから……ねえ林田さん、あなたはひろ子の為に弁じて見て下さる、それがうれしいのです」
「じや何ですか。小川さんはひろ子さんがすきなんですね」
 私は嬉しさの余り、感謝をはつきり云いすぎて年がいもなく赫くなつた。
「すきというのは別として、僕にはあの人が犯人だとは信じられんのです。ところが、藤枝の考えはどうも近頃そうでないらしいですが」
「藤枝君が?……すると氏の説ではひろ子が怪しいという……?」
 何故か林田は非常に驚いた様子をしたが、急に笑い出して、
「小川さん、うそを云つちやいけませんよ」

      3

「嘘? いや断じて……藤枝は真面目で云つたのです」
「じや小川さん、あなたが藤枝君に欺されているんですよ」
 それ見ろ、林田だつて藤枝がまじめでひろ子を疑つているということを信じはしない。実際藤枝の最近の言動はノンセンスだ。
「彼は私には高橋警部のシーオリーに欠点があるなんて云つてるんですぜ。それでいていざとなると本人には反駁もせず、いやかえつて賛成したつていうんです」
 私はそれからくどくどと藤枝の態度を難じはじめた。
 林田は、眉をひそめてむずかしい顔をしてきいていたが、ややしばらくたつてから、
「そりや妙ですね。しかし藤枝君のことだ。例によつて何か深い考えがあるのでしよう……それにしても僕は、ひろ子さんの弁護をしておいてよかつた。そうでないとあなたにひどく恨まれる所でしたね」
 と云つて朗かに笑つた。
 私が林田のところを辞して帰ると、藤枝から電報が来ている。発信局はどこだかはつきり判らない。
 ヒロコノコトカナラズ ホツテオケ ダテノヨウスニチュウイセヨ
 ひろ子の事はほつておけ! ははあ、彼はひろ子が拘留でもされてると思つているのかな。
 伊達の様子に注意せよとあるが、さすがの名探偵も彼が病床に呻吟しているとは御承知ないものと見える。
 翌二十九日は無事にくれた。私はひろ子のいない秋川家に行く気もないので、自分の社に出て用事をした。ただ藤枝からの電報によつて伊達の様子を木沢氏に電話でたずねたが依然として床についているらしい。
 四月三十日、この日も前日同様に平凡に終つた。ひろ子はこの日も警察によばれているが、無論高橋警部は、はじめの日から一歩も進歩していなかつたらしい。
 諸新聞はしきりと彼女のことを書き立てているけれども、彼女が自白したなんていうことはどれにも出ていなかつた。
 こうしてとうとう運命の日、五月一日はやつて来たのである。
 朝起きた時、今日は五月一日だなと思つたけれども、私は実は例の妙な予告のことはすつかり忘れていた。
 一体、藤枝はいつ帰つて来るのか、それも全く判らないので、私は前日と同様に雑誌社に出ることにした。もつとも例の藤枝の電報のことは決して忘れずにいたので、ひる頃木沢氏へ電話をかけて、伊達の様子をきくとまだよくないということだつた。
 メーデーなので方々でいろんな行列が行進する。社内でもそれを見物に出たものなど大分あつたらしい。
 午後三時半頃林田から電話がかかつた。
「小川さん、あなた大変御心配のようだつたからおしらせしますがね、ひろ子さんの取調べは今日ですんだようですよ」
「え? 今日で? それで結果は」
「勿論許されて帰つたようです。私もさつき警察へ行つて来ました。ともかくおしらせしておきます」
「どうもありがとう」
 私は電話をきると、そのまま社をとび出した。すぐにも行つて祝いをのべてやろう。しかし一旦帰つて着物でもかえて行かねば、と、私はタクシーをつかまえるとすぐうちに引かえした。
 玄関を上るか上らぬところへ電話のベル。あわてて出て見ると、はつきりした藤枝の声がする。
「小川か。今帰つた。すぐ事務所に来てくれ」

      4

 ひろ子の顔も見たいが、長途の旅――藤枝は旅先を私に告げなかつたけれども、多分遠い所まで行つたことと思われる――から今着いたという彼が、しかもすぐ来てくれというのだから、すげなくこれを断るわけにも行かない。私はすぐにオフィスにかけつけた。
「やあ早速ありがとう。今着いたばかりなんだ」
 成程、着いたばかりらしく、室の中にはスーツケースがおいてあるし、旅に出た時と同じ軽装だが、二、三日顔の手入れをしないと見えて、無精ひげが大分のびている。
「一体君、どこをどうしていたんだい。何とか便りをしてくれなくちや、全くたよりなかつたよ」
「うん、失敬、失敬、時に留守中かわりはなかつたかい」
「ああ、まあね。大して事件はない。君の電報通りひろ子のことはほつておいたが、君も新聞で読んだろうが、彼女は毎日よばれて可哀そうだつたよ」
「そうか。まあうらめしそうに云い給うな。伊達はそれじや嫌疑がはれたわけだね」
「まあそうさ。時に彼は病気でねているぜ」
「え? 誰が?」
「伊達がさ」
「いつから?」
「君が出発した翌日からだ。つまり二十七日から」
「ふうん、そうしてそれからずつと」
「うん、今日もまだ床についているそうだ」
「成程、これは思いがけないことだつた。しかし外のことは大抵僕の想像した通りだ」
「ところが、君は、ひろ子がいつまで疑われていると思う? たつた今、嫌疑がはれて帰宅したそうだよ」
 私の言葉をきくと藤枝は何故か緊張した顔になつた。
「君はどうしてそれを知つてるんだ? 秋川邸へ行つて来たのかい」
「いや、ちがう。もうちよつと前林田からしらせてくれた。林田は警察できいたそうだ」
「何だ君、君は自分の情緒をあの男にしやべつたんだな」
 藤枝はこういうとニヤリと冷やかすように私を見た。私も、彼がこの時、恋とか愛とかいう言葉の代りに情緒という妙な字を使用したのを多少おかしく感じてニヤリと笑つてやつた。
「もう四時すぎだね。よしこれからすぐ秋川家に行くんだ。旅の報告をせにやならん」
「じや車を云おうじやないか」
 十分程たつてからわれわれ二人は車上の人となつていた。
 この日は小雨が朝から降りつづいて、至極陰気な暗い日だつた。
 メーデーの行列を閉口させない程度の雨が一日降りつづいて、四時半頃には、もうあたりはかなり暗くなつていた。
 この日の天候は、この日行われた惨劇に大へん関係があるのだから、読者ははつきりおぼえていて頂きたい。
 秋川邸に着いたのは四時半すぎだつた。
 笹田執事が取りついで、われわれは応接間に通された。
 木沢氏がちようど来ている所だつたので、藤枝はまず木沢氏に面会を求めた。
「藤枝さん、御旅行だつたそうで、小川さんからききました」
「え、急用で出かけました。それで今帰つたのですが、大変切迫した用で、ここの主人に是非会いたいのですが如何でしよう」
「さあ、御主人はずつと病気ですが」

      5

「それは小川から聞いています。しかし大病という程ではないのでしよう」
「この前と同じ神経の興奮です」
「どうでしよう。会えませんかしら」
「お話の工合によります。つまり神経をたかぶらせるような話はこの際絶対にさけて頂きたいと思います。これは医師の立場として、はつきり申し上げておきます」
 彼の言葉には科学を信奉するものの冒しがたき調子があつた。
 一方藤枝の態度は、しかし極度に緊張していた。
「木沢さん、よく判りました。しかし私の云うこともよくきいて頂きたい。私は切迫した事件の為に非常に忙しい旅行をして来ました。そしてその結果を一刻も早く――そうです、一刻も早くここの主人に告げる義務を感じるのです。これは私の職業的良心が命ずるのです。ちようどあなたが医師としての立場から云つておられるようにね。木沢さん、あなたは、このうちの不思議な事件を御承知でしよう。何者とも判らぬ犯人の為に、この一家は一人一人死んで行くようになつてしまつているのです。そうして、あとに残つている三人の生命をわれわれは全力をつくして保護しなければならない。これは私のつとめです。不幸にして、われわれの努力は空しかつた。そうして危険は一刻一刻と迫つている。私はこの室の空気の中にそれを感じます。私がこの家の主人に会うことはこの危険を少しでも早く取り去り得ると信ずるのです。云いかえれば、今私が主人に会わずに行つては、今日にも誰かがまたやられるかも知れません。木沢さん、あなたの立場もよく判ります。しかし危険の迫つていることはたしかです。しかも人の生命は絶対です。どうでしよう、死ぬような病気でないなら強いて会わしてくれませんか」
 木沢氏の顔には困惑の表情が浮んだ。
「ねえ木沢さん、あなたのお説はごもつともです。この場合、私があなたの立場に立てばやはりあなたと同様の用心はするでしよう。それは医師としての当然の態度ですから。しかしくり返して云いますが、あなたは今日はじめてここに来られた方ではない。成程この家との関係においては主治医だ。が、あなたは私のいうことが決して出鱈目でないということを充分信じ得られる位、あの殺人事件をよく知つておられる。人間としてあなただつて私が残つた三人の生命を保護することの急務なることを認めないわけにはいかぬでしよう」
 木沢氏は明らかにディレンマに陷つていた。彼は医師としては駿三を今誰にも会わしたくない、殊に藤枝がおそらく出すであろう話題は必ず駿三を興奮させるにきまつている。けれど彼は今も藤枝が云つた通り、あいついでおこつたあの物凄い惨劇を知りすぎる程知つているのだ。
 しかして、かかる殺人事件に関する限り、木沢氏が藤枝の言を信じない理由は一つもないのである。
 けれど医師としての彼の立場はこの場合でも容易に動かされなかつた。
「藤枝さん、はつきり承わりますが、あなたが今御主人に会おうという要求は絶対的なのですか」
「はあ、絶対的です」
「一刻も猶予はできませんか」
「一刻もできません」
「そうですか」
 木沢氏はますます困つたようすを表わした。
「どういうわけで一刻を争うか云いましよう。私は今日、主人に私の取り調べた事実を話し、彼にもはや秘密を守るの愚かなるを告げてその秘密をしやべらそうと思うのです。この秘密こそ、今回の惨劇の原因と信じられるものなのです」

      6

「惨劇の原因?」
「そうです。それが唯一の原因とは必ずしも云えないかもしれません。しかし少くもその重要な一つです。あなたは当家の主人の奇々怪々な沈黙ぶりを知つておらるる筈です。あれです、解くべき謎は正にあれです。私はあの謎を解きかかつているのです。けれども最後の鍵は主人がもつている。私はその鍵をもつて事件を解決したいのです」
 藤枝はきつぱりと云い切つた。
 話が具体的になつて来たので木沢氏も藤枝の言に動かされぬわけにはいかなくなつた。
「どうしても今でなくてはいけないのですね」
「そうです。早ければ早い程いいのです。一刻でもおそいとどんなことが起るか判りませんよ」
 木沢氏は暫く心の中でじつと考えている様子だつたがやがて決心がついたと見え、
「ではともかく御主人の様子をもう一度見て来ましよう。御主人の方でも会うという意思があつたらちよつと位話をなさつてもいいかも知れません。これは無理な注文ですが、なるべく興奮させないようにして頂きたいですね」
「それは充分注意します」
 木沢氏は応接間を出て行つたがしばらくたつとまた戻つて来た。
「会うといつておられます。大変失礼だが、自分のへやに来てくれろということですが……」
「そちらがかまわなければ無論うかがいましよう」
 木沢氏が先に立つて、われわれは階段を上つた。
 とつつきの右側が主人の寝室である。
 木沢氏はノックをしながら、
「藤枝さんが見えました」
 と軽くいうと中から、
「どうぞこちらへ」
 という主人の声がきこえた。
 次の瞬間にドアが開いて藤枝と私は、木沢氏にみちびかれて秋川駿三の寝室にはいつた。
「どうか、そのまま、そのままで、どうか」
 おき上ろうとしている駿三を見て、藤枝があわてて手を出してとめたが、駿三はちやんとベッドの上にすわつてしまつた。
「こんな所で大変失礼ですが、木沢先生が余り動かぬ方がいいと云われるので」
「結構です。私こそ無理にお願いして申し訳ありません。時にいかがですか、御容態は?」
「いろんなことがひきつづいておこるので、とてもおちつけません。これが一番、いけないんだそうですが」
「お察しします」
「早速ですが何か御用件がおありになるとのことでしたが」
「はあ、そのことです」
 藤枝はこう云つて何か重大なことをこれから話そうとするらしく、きつと駿三の顔を見た。
「私は最近一人で旅行をして来ました。そして今帰つたばかりです。私の行つたさきは山口県の今泉という町です。すなわちあなたが今から約二十年前に住んでおられた所です」
「山口県の今泉町?」
 駿三は愕然としたらしい。驚き方がかなりひどかつたので、木沢氏が心配そうに腰をうかした。
「そうです。そこは今から二十年前にあなたが住んでおられた所で、そうして同時に伊達正男の父母捷平しようへい夫婦が住んでいた所です。秋川さん、私はあそこで数日かかつていろいろなことを調べて来ました。伊達家と秋川家のあいだのことをくわしく研究しました。その結果、秋川家と伊達家とが宿命的な関係に立つていたことを知つたのです

      7

 藤枝がここまで語つて来ると、ベッドの上に坐つていた秋川駿三は、もはやきくに堪えぬというように、手を振つて藤枝を黙らせようとした。はたで見ていても、ほんとうに気の毒らしいあわて方であつた。
 木沢氏は、なりゆきが余り面白くないのでこれもちようど藤枝に注意しようとしているところであつた。
 この様子を早くも見てとつて藤枝は制するように語りつづけた。
「秋川さん、御安心なさい。私はこれ以上、何も申し上げませんから。あんな惨劇、あれだけの犠牲を払つてもなおあなたが守ろうとする秘密を、私は決して軽率にも口に出すようなことはしますまい。ただ一言申し上げておきたいのは、この藤枝真太郎だけはこの秘密を十中八九完全に知り得たということです。そうして、私の知り得た所にして誤りなくんば、あなたは脅迫状が誰人だれびとによつて、何故にあなたに送られたかを知つていらつしやるはずである。そこです、私が今うかがつた用件は。ねえ秋川さん、あなたには脅迫状が誰から送られたか、全くあてがつきませんか」
 駿三は一言も発しない。自信に富んだ藤枝の前で、一体どう答えたらよいのか迷つているように見える。二十日の夜藤枝が駿三にせまつた時とは大分事情をことにしている。藤枝は今や秋川家の秘密を探り出してしまつたのである。少くも探り出したと称している。
「秋川さん、どうか周囲の事情をよく考えて下さい。警察ではひろ子さんを疑つているようです。令嬢方のことをお考えになつてどうしてもそれを云つて頂かぬと困ると思うのですが」
「判りました」
 はじめて駿三が力なく云つた。
「しかし私にもほんとうは誰が送つて来たかわからないのですが」
「ではどうでしよう。こう考えて見ましよう。あなたと私二人だけが知つている秘密から察すれば、あなたにああいう脅迫状を送りそうな人間は、伊達捷平すなわち正男の父の兄弟から、でなければその夫人かよ子の兄弟たちだということになります
「…………」
 駿三は無言だつたが、仕方がないというようすで首をたてにふつた。
「ところが、捷平には御承知の通り、まるで親類というものがなかつた。して見るとこれはどうしても夫人の方の関係と思わねばならない、ところで伊達かよ子の親戚のものですが、私の調べたところによると、その妹で一人今どこにいるか判らない女がいます。例の電話の一件といい、いろいろな事から考えて、今度の事件には女がかくれていると思われるのですが、伊達捷平の妻かよの妹が、姉の秘密を知つているとすれば、この女がまず怪しい」
「そうです。私にもそう思われぬことはありません」
 駿三は、藤枝がほんとうに自分の秘密を知りつくしているらしいようすを見て、もはやこれ以上かくしているのは無駄と思つたか、今度ははつきりと云つた。
「あなた、その女がどこにいるか判りませんか?」
 しかし駿三はこれには答えようともせず、急に坐りなおつた。
「藤枝先生、恐れ入りました。すべてが先生に判つている以上、もうかくしているのは、無駄だと思います。私の過去の秘密をここで全部物語りましよう。それについては是非お目にかけるべき品がありますから、それを取つて来ます。重要な書類があるのです」
「あなた自身でわざわざ行かれぬでも私が」
 木沢氏が、心配そうに口を出した。

      8

「いえ、私でなければ判らぬ所に入れてあるのです」
「秋川さん、あなたはその重要な書類をこのうちの中にしまつておいたのですか」
 藤枝が意外だという表情で訊ねた。
 駿三はベッドから足を出してスリッパをつつかけながら、
「私もどこかの銀行の保護箱にでも入れておく方が安全だと思つてはいたのですけれど」
「いや、安全危険というより、私はあなたが、そんな過去の秘密に関する書類を今まで取つておいたのが意外だというのです」
 駿三はよろめきながら、驚いている木沢氏その他をあとにしてドアの所まで行つた。
「何故それを今までとつておいたか、今出す書類でお判りになります。あ、木沢先生、御親切は感謝しますが、その書類はごく秘密なかくし場所に入れてあるので、勝手ですが私一人で行つて来ます。しばらく皆さんどこにも出ずにここでお待ち下さい」
 駿三はこういうとドシンとドアをしめて出て行つた。
 肉体的には大病人ではないとは云え、今までずつとねていた駿三が急に一人で立ち上つたので、木沢氏も大分おどろいたらしいのだが、駿三の言葉は極めて厳かで、一人でもあとからついて来るもののあるのを禁じているようだつたから、われわれ三人は黙つて室の中に残つた。
 午後五時前であるが、先にも述べた通り、この日はひどく陰気な暗い日だつたので、室内はもうお互いにはつきり顔が見えない程のくらさである。
「案外、うまく目的に達した。いや目的以上のものに達しそうだ」
 藤枝が、かたわらの電気スタンドのスイッチをひねつてあかりをつけながら私に云つた。
「あの程度ですめば、私もまあ安心です」
 木沢氏もほつとして藤枝に云つたのである。
「しかし、忘れよう忘れようとしている過去の秘密に関する書類をとつておくとは……ちよつと変つてるな。それを見ればまあ万事解決するんだろうが……もう一つきき訊したいのはこの秘密を知つてるものが、本人と僕の外に誰かいるかどうかということだ。無論脅迫状の送り手以外にだね」
 藤枝がこう云つたが、ふと不安そうに、われわれ二人を見た。木沢氏も何となく心もとなさそうに見える。
 実を云うと私は、駿三がこの室を出るとおそらく向い側の書斎(第一回の悲劇の直後、検事が家族を調べた室)にでも行つたのだろうと考えていた。出来るだけひそかに、ぬすむような足音をたてて彼が去つたので、一体どこへ行つてしまつたのか、はつきり判らない。
「君、御主人がここを出てからちよつと五分になるが、一体どこへ行つたのかしら」
 藤枝が腕時計に目をやりながら私に云つた。
「うん、少し永いようだが」
「私行つて見ましようかしら。……しかし、あとからつけて行くのもおかしい、御主人も好まれぬようでしたが」
 木沢氏も不安な顔つきで二人を見た。
「あと三分待ちましよう。何分御主人がわれわれをここにしめこんでしまつてるのですから」
 藤枝は二人にそう云つたが、何を思い出したか小さい声で木沢氏に、
「伊達君はまだ病気ですね」
 と訊ねると木沢氏はこの不意の問におどろいたらしいが、すぐ答えた。
「ええ、床についています」
「今日私達以外にここにお客がありますか」
「いやありません。林田さんが私が来るといれちがいに帰られました。あとここの家には家族だけです」

      9

「伊達は病気、林田は帰つた。あとはひろ子さんとさだ子さんだけですね。ふん……」
 藤枝はじつと考えては時計を見ている。
 とうとう私が堪りかねて云つた。
「もうさつきから約七分たつちまつてるぜ。おかしいじやないか」
「うん、どうも変だ。木沢さん、出ましよう」
 藤枝が第一にドアをあけた。三人は一度に廊下に出た。
 出るとすぐ向いの書斎のドアを藤枝が叩いたが返事がない。なんと思つたか藤枝はいきなり把手に手をかけてグイと押してあけて見たが誰もおらぬと見えてすぐしめてしまつた。
「ここじやないな」
 藤枝はちよつと途方にくれた様子をした。
 木沢氏がこの時、廊下を歩いて行つて左側のひろ子のへやの戸を叩いた。
「ひろ子さん、ちよつと失礼します。あのお父様を御存じありませんか」
 中からひろ子が美しい姿を現したが私は、彼女がかなりいたましくやつれているのを見ると、思わずかけよつた。
「あなたにはいろいろ申し上げることがあります。しかし今うけたまわりたいのは、もしやこの廊下でお父様におあいになりはしなかつたかということです」
 ひろ子は何のことやら判らないのでひどく驚いたらしいが、
「いえ、今木沢先生がいらつしやるまでずつとこの部屋におりましたので……」
 ちようどこの時、さだ子の部屋の戸があいて、さだ子が顔を出した。外の物音で、おどろいたものであろう。
 二人の令嬢達とわれわれ三人はちよつとの間、廊下で話したが誰も駿三のようすを知らない。
 藤枝は階段をかけおりて、
「秋川さん、秋川さん」
 とどなつている。
 われわれがあとからついて降りると、笹田執事が驚いて部屋からとび出して来た。
「君、御主人がおりて来られなかつたかね」
 藤枝がせわしく問う。
「いや、私はただ今先生が主人をよんでいらつしやるので出てまいりましたので」
 藤枝の顔色にこの時、云いようのない妙な表情が浮んだが、
「さ、みんなで、いそいで探すんだ。僕はこの応接間を見るから」
 藤枝と私とはいそいで戸をあけたけれども中には誰もいない。
 戸をしめて再び外に出た時、さだ子がピヤノの部屋の戸をあけるのが見えたが、次の瞬間に、
「あれえ」
 という悲鳴がきこえると同時に彼女は戸口に仆れてしまつた。
 そばにいた木沢氏がとんで行つて抱きおこしている。
 と見るより、藤枝は脱兎の如くひろ子と私をつきのけてピヤノの部屋にとび込んだ。
 つづいて私も飛鳥のようにピヤノの部屋におどりこんだが、この時ここで遭遇した有様ほど、物凄い光景に私は今まで出会つたことはなかつた。
 戸をあけた瞬間、私の目を射たのは仰向けに仆れている駿三の身体であつた。
 彼の両足は、戸口の壁に沿うた鏡面のその下にある衝立にむけて大の字にひらかれている。目でもまわしたのか、と思つて近よつたが私は思わず顔をそむけてしまつた。
 恐ろしい顔。物凄い顔。この時の駿三の顔ほどものすごい顔が世にまたとあろうか。

      10

 両眼は開いたまま眼球がとび出したようになつている。眉と目のあたりが、妙にゆがんで引きつつている。もしこれが顔だと云えばそれは人間の顔ではない。鬼の顔だ。魔の顔だ。私は一見した時すでに駿三は死んでいる、と感じた。
 私がしかしこの時、恐怖とおどろきでしばらく物も云えなかつたのは、一つには藤枝の態度が余りにあわてていたからである。ひきつづく秋川邸の怪事件でも、彼がこの時表わした位あわてた様子を見たことはない。いな、今までいろんな事件にかかりあつている間、彼がこんなに周章狼狽したところを見たことがない。
 彼は、私と共に室にとびこむやいなや、
「あつ、こりや……」
 とおどろきの声を発して駿三の死体にかけよつた。
 じつとその恐ろしい顔を見ていたが、
「木沢さん、大変です、大変です」
 と叫んで木沢氏をしきりに呼んだ。
 さだ子の介抱をしていたらしい木沢氏はすぐはいつて来たが、木沢氏も一時そのまま棒立ちになつてしまつた。いろいろな病人に出会しゆつかいした木沢氏が、こんなに驚いた位だから、如何に駿三の死体が恐ろしい顔をしていたか判るだろう。
 さすがに木沢氏はすぐに気をとりなおして駿三の胸の所をあけて耳をつけていたが、
「駄目です。心臓がとまつています」
 と云つて藤枝の顔を見上げた。
 藤枝は心もち青くなつた顔を私に向けると、
「小川、すぐ林田にしらせてやれ。林田にしらせてすぐ来てもらつてくれ」
 と叫んだ。
 こんな事件の場合に、競争者たる林田の助けをかりるとは、藤枝もずいぶん衰えたものだがそれは後になつていう話で、当時は私もまつたく気が顛倒していたのでそんなことを考えるひまもなく、あわてて室外にとび出し、そこに青くなつて慄えているひろ子と笹田執事にあやうくぶつかりかけながら電話室にといそいだ。
 林田の所にかけるとすぐ彼は電話に出て来た。
「小川さんですか」
「林田さん、大変です。秋川駿三が殺されました」
「何? 秋川駿三が。ほんとですか。ど、どこでやられたんです。誰にです?」
 どういうわけだが今回の事件に限つてこの名探偵もひどくあわてている。そのあわて方が電話を通してこちらにもよく判る位だ。
「小川さん、もつと大きな声で! 駿三が殺された? 誰に? どこで?」
 藤枝といい林田といい、どうも今日はあんまりあわてすぎるじやないか。
 藤枝は藤枝でいきなり林田に来てもらおうというし、林田はおちついていると思いの外、誰に殺された、なんて愚にもつかぬ質問をしている。誰に殺された? そんなことが判つてる位なら今までの犯人だつてもうちやんと判つてる筈じやないか。ひろ子がいじめられていたのは、それが判らないからじやないか。
 しかしこれもあとで思い出したことだ。
「秋川の家でです。今僕も藤枝も来ています」
「そうですか。すぐ行きます」
 林田はあわてて電話を切つた。
 私がいそいでピヤノの部屋に戻ると、
「どうした。先生、いたかい」
 と藤枝がせわしそうにきく。
「うんいたよ。いたよ。すぐ来るつて云つてた」
「何、すぐ来るつて?」
 何と云うことだ、藤枝はよほどどうかしている。自分で来てくれとたのんでおきながら、私の今の答をきいて全く驚いた顔付をした。

      11

 私は「第二の悲劇」という章で、このピヤノの部屋の図取りを読者に御紹介しておいたのであるが、もう一度記憶をあらたにする為にはつきり云つておく。
 ドアからはいつて左手の壁に沿うてかなり大きなピヤノが置いてあり、右手の壁には西洋画がかけてある。ドアに沿うた壁の下の方にはストーブが冬中おかれてあるものと見え、そこがくり抜いてあるが、今は洋風の衝立でかくしてある。そのすぐ上に四尺に三尺位の鏡が壁にはめこんであつた。
 われわれがはいつて来たドアと反対の側には三つの大きな窓があつてその向うが庭である。庭に面した窓と右手の洋画のかかつている壁と直角に交つている隅に立派なヴィクトローラが一台おいてある。
 秋川駿三の死体は、さきにも云つた通り、ドアに沿うた壁、すなわちストーブの前にある洋画の衝立を足の方にして、仰向けに大の字なりに仆れていた。両手は、苦しそうに、堅く握つて、顔面は度々書いたようにひつつり歪んでいる。血も何も出ておらず、一見、外傷のようなものは少しも見えない。
「林田がすぐ来る」
 と私が伝えたのに対して、藤枝はまたおどろいたような様子を示したが、それがまもなく消えると、もういつの間にか元気を取りなおしたと見えて、いつもの頼もしい藤枝になつていた。
「木沢さん、死体を余りいじらぬように、傷を調べて下さい」
 木沢氏は、すでに藤枝にいわれるより早く、その方に取りかかつていたらしい。
「けがはたつた一つです。後頭部に大分烈しい傷があります。ほれ、ちよつと頭を上げるとすぐ判ります」
 木沢氏はこう云いながら、死体の頭をちよつと上に上げた。
「成程、駿三氏は、立つているところを後からがンとやられたんですがね。……しかし、この頭のそばに椅子が仆れていますね。あるいは仰向けに仆れる時に、この椅子の背で打つたのかも知れませんな」
「そうです。藤枝さん、私はむしろその考えを取りたいです。解剖の行われぬ前にこう断定するのは軽卒ですが私には、この後頭部の傷の為に、こう早く死ぬということはちよつと考えられませんよ」
 木沢氏が内心確信あるもののように云つた。
 藤枝は、しやがんで駿三の両手をしきりに見ていたが、それから懐中にちよつと手を入れた。
「ねえ小川、駿三氏は重要書類をとりに行くと行つてこの部屋に来たはずだつたね」
 さすがは藤枝だ。私があわて切つてまつたく忘れていたことをすぐ考えはじめていたらしい。
「そうだ。そうだつたよ」
「もし駿三氏がわれわれに嘘を言つたのでないとしたら――しかしてこの場合嘘を言つたとは考えられないが、そうすればその書類はこの部屋にかくしてあつたか又はまだかくされてある筈なんだ」
「うん、そういうわけになる」
「僕は死体を今調べて見たが、死体にはそんなものは一つもない。して見ると書類は、駿三氏がまだ出さないかも知れない。もしこの室にないとすれば犯人の手にもう入つているかも知れない。……ところで、そのかくしてある場所というのは、一体どこだろう」

      12

 藤枝はこの時、全身の精力を一時に脳に集中したように見えた。彼は黙つて室内を見廻した。この室の中で一番目につくものは何と云つても立派なピヤノである。彼はしばらくピヤノの方を見ていたが、やがて目をそらすと、はめこみの鏡をじつとのぞきこんだ。
 しばらくすると、彼は、駿三が仆れている両足の間に自分の足をもつて行つて、鏡の方を向いて立つたが、藤枝が立つと、彼の頭が、ちようど鏡の上のふちの所に来る。彼がかなりせいの高い男であることはこの物語の冒頭に記したはずである。彼は、二、三分そうやつて鏡と向きあいに立つていたが、やがて左右の両縁りようふちをしきりに指さきでいじつていたが不意に、
「しめた。これだ」
 と小児こどもがなくしたおもちやを発見した時のような喜ばしそうな声を出した。
 見ると、驚くべし、向つて右の鏡のふちがどういう仕かけか、一寸ほどあいて、藤枝は今や左の手をかけてあけようとしているではないか。
 私と木沢氏は驚いて思わずはしりよつた。藤枝の左手ゆんでがさつと左に開くと、はめこみになつた鏡はそのまま左の縁を中心にしてあたかも箱の蓋のように前にとび出して来た。
「うん、そん中だな。書類があるのは!」
 私が叫んだのと、
「おや、何もないぞ」
 と藤枝が叫んだのと殆ど同時だつた。
 藤枝は、鏡のうしろをのぞきながら、右手を入れてかき廻していたが、やがてバタンとまた鏡をもとにかえした。
「フン、何もない。しかし何か書類らしいものが入れてあつたことは確かだ。して見ると……」
 彼は次の言葉を発せず、そのまま考えこんでしまつた。
 私はその間に床の上などを注意深く調べて見たが別段泥足のあとのようなものも見えぬし、格闘の跡とてもない。
 ふと気がついたので一番ピヤノに近い窓の所に行つて庭の方をながめた。庭の方にも別に変つたものは見えなかつたが、ちようど窓の下に偶然目をやると私はそこに明らかに最近つけられたらしい靴の跡を見出した。
「おい藤枝、ちよつとちよつと。この窓のところを見たまえ」
 彼はいそいで立ち寄つたが、
「うん、たしかに曲者はここから来たんだ。ここで靴をぬいで、駿三を殺し、再び窓からとび出して靴のまま逃走したんだ。それにしても咄嗟の間に、用心深いことをやりやがつたよ」
 私は今度の事件で藤枝がいつにもなくあわてた態度を表わしたことを記したが、どうもおちついてからも彼の様子が全く変であることに気が付いた。
 彼は私をそばによんで小声で云つた。
「小川、われわれは今までで一番の難問題にぶつかつたんだ。どうも判らん、どうも判らん」
「藤枝、とうとう犯人は今日やつつけたね。約束通り」
「え?」
 彼はこの時非常な驚きの様子をまた表わした。
「うん、そうそう、今日は五月一日だつたな」
「だから約束通りじやないか。つまり君の云つたように犯人は紳士協約を守つたことになる」
「そうさ。だから俺にはいよいよ判らなくなつたんだ」
 藤枝の云うことの方が余程わからない。
 この時、笹田執事の案内で林田があたふたとしてはいつて来た。

   意外の事実

      1

「藤枝君」
「林田君」
 両雄はこう云つたきり、しばらくは一言も発しなかつた。
「林田君、実に意外なことが起つた。全くおどろいた。君も驚いたろう」
「うん、全く意外だ。主人がやられるとは! ほんとうに驚いたよ」
 林田の顔色にも、包みかくせぬ驚愕の色が浮んでいた。
「一体どうしたつてんだい」
 林田の問に対して藤枝は今までのいきさつを少しも包みかくさずに物語つた。
「ふうん、すると、主人がベッドを出てから、僅か六、七分のうちの出来事なんだな」
「そうさ。そうして犯人は確かに庭から来たものらしい。ほれ、この窓の下に足跡がある」
「犯人は、窓から忍び入つて、一撃を主人の後頭部に加えたということになるのかな。ねえ、木沢さん」
「さよう。しかし解剖して見ないことにははつきり判らんですが」
「ただ死体の著しい特徴であるこの顔面の恐怖ね。これを何と解釈するかね。林田君」
 林田は暫く死体の位置と鏡と見比べていたが、
「君も考えただろうが、駿三は最後の瞬間に犯人の姿を見た――いやもつと正確に云えば、鏡中にうつつた犯人の姿を見たのじやないかな」
「そうだ。僕もまさしくそうだと思う。それにしても、駿三は余程恐ろしい相手を見たに相違ない」
「して見ると彼は自分をつけ狙つている相手の顔を知つていたのかしら」
「彼が死の直前に僕に云つた言葉を真実とすれば、彼ははつきりそれを知らんということだつたよ」
「いずれにせよ、駿三には犯人の顔が判つていたのだ。この表情は、単に今殺されかかつているという表情じやない。もつともつと深刻なものだ」
「そうだ。例えば、平生自分のよく知つている人間が意外にも犯人だつたというような場合」
 林田は、暫くまた死体の位置に注意していたが突然藤枝に云つた。
「今君の話によると、駿三は、重大な書類を探しに……」
「うん、僕もすぐそれを思い出して探したがもうないんだ」
「何、ない?」
 林田は驚いて藤枝の顔を見返したがやがて、
「やつぱりこの鏡の後にでもあつたのかね。死体の位置から考えると駿三は鏡の前に立つていたことになるが」
 と云つた。さすがは彼、藤枝と同じ推理の上を行つている。
 この時、笹田執事がまた室にはいつて来て、
「只今警察の方々が見えました」
 と云いながら、あとからつづいて来た高橋警部、野原医師らに軽く会釈した。
「いよいよほつておけん。片つ端から拘束しなくては……藤枝さん、林田さん、一体これはどうしたのです」
 警部はひどく機嫌が悪い。
「林田君は全く知らないんですよ、当時うちにいましたから。僕と木沢氏と小川君がこの家にいたのです」
 藤枝は手短かにまた今までの話をくり返したが、面倒くさいと思つたのか、駿三の過去の秘密については余りふれず、何か駿三が重要な用を思い出して書類をとりに来たものと説明した。

      2

 藤枝の話を黙つて聞いていた警部の顔にはいまだかつて見たことのない儼然たる色が浮んでいた。
「そうですか。よく判りました。しかし私は今はつきり御両君に申し上げておきます。第一回の殺人事件の時は別として、その後連続して起つた惨劇はいつも必ずわれわれ皆が、または少くも誰かその一人がいる時に行われている。第二回目の場合は御両君はじめ私自身もこのうちにいた。第三回目の時は林田さん、今回は藤枝さんのいる時に行われた。もしこのままで行く時にはわれわれの信用は全く地に墜ちねばならん。いや、もうすでに落ちているかも知れない。御両君はともかく、私自身は今回の犯人が捕まらぬ時は断然辞職する覚悟です。従来は御両君の今までの功績に敬意を払い、自由に行動をとつていただいたが、今後は私は御両君を全く普通の人同様に取り扱いますから左様おふくみを願い度い。御両君を疑わぬのが私のせめてもの好意と思つて頂きたい」
 この最後の言葉はかなり失礼な言といわねばならぬ。しかし今や職をしてかかつている警部の言としては当然でもあり、また一面甚だ悲痛にもきこえた。
 藤枝も林田もどう思つたか判らぬが、表向は全く恐れ入つているように見えた。
「私は今日ここにいた者全部に警察に出頭して貰い度いと思う。失礼だが藤枝さんも小川さんも、それから木沢さんにもおいでを願いたい。林田さんはここにおられなかつたけれども……」
「いや、私も無論行きましよう」
「ではそう願いましよう。家族は勿論です。雇人の二人の女中は今刑事に調べさせていますが……」
 この時一人の刑事がいそいではいつて来て警部の耳に何かささやいた。
 警部の顔色にはちよつと驚きの表情が現れたが、
「すぐ署の方に引つぱつてくれ給え」
 と云つて刑事をまた室から送り出してしまつた。
 警部の言葉に従つてわれわれは一応警察に行くことになつた。警部はああ云つたものの勿論藤枝や林田を疑つているわけではないので、一足さきにひろ子とさだ子を連れて帰ることになり、あとから両探偵、木沢氏及び私に出頭するように命じた。
 秋川家には、野原医師その他刑事が残り判事検事の一行を待つことになつた。
「どうもひどく立腹されちやつて閉口したよ」
 と藤枝。
「うん全く。まあ参考人となつて警察へよばれる経験もやつて見るさ」
 と林田は笑いながらいう。
「一体誰を警察に引張つたか君知つてるかい」
「うん、僕はさつきちらときいた。伊達だよ。刑事が女中の久を訊問したら、さつき夕方伊達らしい男がいそいで台所の窓の外を通つた、というんだ。どうもあの男が夕方ひそかに来たらしい」
「何? 伊達?」
 藤枝は思わず叫んだが、しばらくして何を思いついたか、
「うん、なるほど」
 と一言云つた。
 伊達が、牛込警察署に着いたのは七時頃だつた。
 無論、参考人だし、いかに警部がああ云つても、どうしても普通の人に対するときとはちがうので、かなり鄭重に取り扱われた。
 藤枝、木沢氏、私は一緒に事件当時の模様をきかれたが、誰の言にも矛盾のなかつたこと云うまでもない。
 しばらくすると、警部が、さつきとはうつてかわつたいい機嫌で室にあらわれた。

      3

「藤枝さん、木沢さん、いろいろ御厄介をかけましたが、今日の犯人が捕まりましたよ」
「え、犯人が捕まつた」
 藤枝がきく。
「そうです。今日あの家に侵入したのは伊達正男です。あの男が夕方、ひそかにうら門からはいり台所のそばを通つて庭に行つたのです。それからあのピヤノの部屋の窓のところに来ると、駿三がうしろをむいているのに出会したのです」
「それで?」
 藤枝がきく。
「それからあとの殺人については無論未だ自白はしません。しかし、彼が秋川邸に行つた事実はようやく認めましたよ」
「高橋さん。ではあなたは今回の犯人を伊達だと思うのですね」
「無論です」
「では第二回目の事件では早川辰吉を、第一回と第三回の事件ではひろ子を、しかして今度は伊達を犯人だときめられるのですな」
「藤枝さん。つまらぬ理窟はやめましようよ。いくらむずかしいことを云つたつて、犯人を捕えなければ何にもならんのですからね」
 これには藤枝も一言もないらしかつた。
「伊達が夕方出かけたということはたしかなのですね」
 木沢氏はおずおずしながらたずねた。
「ああ、あなたは、今朝も伊達の容態をごらんになつたんださうですね」
「はあ、床にはいつていました」
「しかし起きられぬことはなかつたのでしよう」
「そりやそうです。起きようと思えば立つてあるくことが出来た筈です」
「伊達が夕方出かけたということは、本人もはじめは中々云わなかつたんですよ。雇婆さんも、伊達から口どめされたと見えて、はじめは中々口を割らなかつたんですが、とうとうこの方から落してしまつたんです。その婆さんの言によると伊達は夕方、林田さんの見まいをうけるとまもなく、にわかに床から出て制服をつけたがちよつと出て来るからと婆さんに云いおいて、家を出たというのです。それから十二、三分ほどたつと、顔色をかえて戻つて来たが、急に婆さんをよんで、誰が来ても何も云つてはいかん、と云つたというのですよ。今、伊達に婆さんを対決させて取り調べたのですが、とうとう伊達もこの事実を認めました。おまけに秋川家の雇人で久という女中が伊達の逃げさる時の姿を見ていますから、これはもはや疑う余地はありますまい」
「それで、伊達は殺人の点を否認しているとすると、何の為に秋川家に行つたというのですか。さだ子にでも会いに行つたというわけなんですかね」
 今まで黙つて問答をきいていた林田が口を出した。
「そうです。その通りです」
「それにしちや病人が急にとび出すというのはおかしいですな」
 藤枝が云つた。
「そうです。だから私も無論そこを突いて見た。すると彼のいうには、実は今まで警察ではひろ子を疑つているようだつたから安心していた。すると夕方林田さんが見まいに来てくれた時、警察ではひろ子の疑いが全く晴れたという事をきかされたというのです。林田さん、ほんとうですか」
「そうですね。私が見まいに行つてやつた時、その話も出たかも知れませんよ。……ほら、小川君、君に電話をかけてから私は伊達を見まいに行つたのでね」
「それで、こりやまた自分とさだ子に疑いがかかるかも知れぬから少しも早くさだ子にこのことを告げようというので病をおして出かけた、というわけです」

      4

「成程、無理はないな」
 と藤枝がつぶやいた。
「ところがそれならばいつもの通り裏門からはいつて裏口から上り、二階のさだ子の部屋に行けばいいわけなのです。何故彼は庭へまわつたか、しかも雨の中をね。私はここが怪しいとにらんだから早速この点を突つこみました。伊達の弁解によれば、左様な次第で行つたのだから、なるべくさだ子以外の者には会いたくない。殊にひろ子には顔を合わせたくない。二階に行けばきつとひろ子に偶然会うことになるから、なるべくならば庭からさだ子の部屋に声をかけたかつたとこういうのです。これからが肝心のところで面白いのですよ。伊達の供述に従うと、彼は裏門から庭に廻つた。そうしてさだ子の部屋のすぐ下に来て上を見たが、成程、すぐ下からは窓は見えない。それで、うしろむきに七、八歩あるいた、とこういうのです。その時、ふと見ると、ピヤノの部屋に人かげがする、ことによるとさだ子ではないか。さだ子なら極く都合がいい、とこう思つて彼はあの部屋に近づいたのです。部屋の中が暗いので、彼は向つて右の窓の所に行き、窓に手をかけてひよいと顔を出すと、その途端に中で、ウンという妙な声がすると共に、駿三が仰向きに仆れるのが見えた。それで何事か判らないが、おどろいて、そのまま逃走した、とまあこういうのです」
 警部は語り続けて、プカリと朝日の煙を吐いた。
 私は藤枝か林田が何かいうかと思つたが二人とも一言も発しない。
「ところがこの供述は無論全部がほんとうではない。あの窓の所の足跡の工合から見ても、それから被害者が書類をもつていなかつた点からいつても、伊達はあの室の中に侵入していなければならない筈です。この点をどうしても未だ自白しませんけれども、ナニもう直ぐですよ、あそこまで行つていれば。それに、あの倒れていた椅子の足や腕から現場に残されている指紋を悉くとらせてありますから、彼が部屋に侵入した事実は判るでしよう。それから伊達の家を捜索させていますから、書類というのも間もなく探せることと思います。あなた方には大変お手数でした。もういつでもお引取り下さつてよろしい。二人の令嬢はもう暫く調べて一応帰すつもりです。もつともさだ子の方は、伊達との関係上、多少おくれるかも知れませんが。雇人は関係なしと認めたので全部帰してやりました。笹田という老人ももう帰つている筈です」
 帰つていいというお許しは出たものの、とり方によつては、もうお前に用はないからさつさと邪魔にならぬように帰つてしまえ、というようにもきこえる。藤枝と林田はこれを何ときいたか知らぬが素直に立ち上つた。
 警部の室を出ると、私は不意に大勢の人に取り囲まれた。思いがけない所から、フラッシュがパツとたつ。
 新聞社だな、私はこう感じたがすぐ藤枝が例の要領のよい手際でこの連中を巧みに切りぬけることと信じて安心していた。
 はたして、林田は、巧みにこの一群を切りぬけてさつさと出て行つてしまう。藤枝はどうするか、と見ていると、彼は何と思つたか、新聞社の連中を見ると、あわてて高橋警部の室にとつてかえした。オヤ、どうしたのだろう、と思つているとすぐまた出て来たが、おどろいたことには、夢中になつて鉛筆をなめずつている記者たちの群のまつただ中にとび込んで、しきりに何かしやべつている。
 彼が新聞記者に自ら考えを積極的に述べるなんてことは未曾有の椿事なので、記者達はムキになつて云われるままに書き取つていた。

      5

 藤枝の、いつに似あわぬ態度にめんくらいながら、私はだまつて様子を見ていた。
 しかし彼は一向平気で、やがて記者連中に別れをつげるとさつさと私のそばにやつて来た。
「どうしたんだい。すつかり社の人達につかまつてしまつたじやないか。おまけに君、大分しやべつていたね」
「なあに、そう驚くことはないよ。あしたの朝、高橋警部が少々機嫌を悪くするかも知れないがね、怒らせついでにもう少し怒つてもらうかな」
「何だ君、そんなにしやべつちまつたのかい」
「うん、まあ明朝の新聞を見るんだね、そうすりや、よく判るよ……さて今日は警部に怒られて大分器量を下げたが、これ位でお別れしよう」
 こういうと藤枝は、プイと流して来た円タクを掴まえるとその儘、
「じや失敬」
と中から声をかけるかと思うともうやみの中に消えてしまつた。あつけにとられている私は、一人になつては仕方がないので、藤枝のふしぎな態度を訝りながらそのままうちに帰つたのであつた。
 これで、あの呪わしい五月一日は終つたのである。
 五月二日の早朝、私は床の中で三、四種の新聞をよんでいた。
 出ている、出ている! 「秋川家の怪事件」「第四番目」などという見出しで昨日の惨劇が大々的に書いてあるが、いずれもその中に「藤枝真太郎氏の談」というのを掲載している。
 それによると、犯人は伊達正男で昨夜の中にただちに捕まえられ、厳重なる訊問の結果、包みきれず全部昨日の殺人を自白したという事になつている。しかも駿三殺害の動機は遠く過去に遡つて、今より二十年前、伊達家と秋川家とが悪縁に絡まれたところに端を発しているのだ、というようなことがまことしやかに記されている。
 もつともその悪縁物語というのが何であるかということは詳しく書いてはなかつたが、これで見ると、昨夜藤枝は軽卒にも、記者達に対しておしやべりを敢てしたらしい。
 記事はいずれも確定的で伊達正男が自白したということを記してあること既述の通りである。
 私はしばらくあつけにとられて床の中で煙草をくゆらしながら天井を見つめていた。
 ところへ、あわただしい電話のベルだ。いそいで出て見ると、高橋警部の緊張しきつた声がきこえる。
「小川さんですか。あなた藤枝君が今どこにいるか知りませんか。いいえ、うちにはもういないんですよ。オフィスの方にもいないらしいですが。そうですか。そちらに見えないとすれば……では仕方がありません。もしか来たら私が会いたがつているとしらせて下さい」
 高橋警部は、藤枝の余計なおしやべりにかなり腹を立てているらしい。会つて何とかとつちめるつもりなのだろう。
 ところが、警部の電話がすんで五分ほどすると今度は藤枝からかかつて来た。
「オイ、君どこにいるんだ。今警部から電話がかかつて、君の行方をつきとめてくれつていうことだつたぜ。先生ひどくおこつてるよ」
「うん、そうだろう。そんなことだろうと思つたから早くからうちを逃げ出していたんだよ。しかしいつまでも、姿をくらましているわけには行くまいから、ひる頃には警部を訪問するつもりだ。君にも一緒に行つてもらいたいからずつとうちにいてくれ給え」
 彼はこういうと、さつさと電話を切つてしまつた。

      6

 ちようどひるのサイレンが鳴つてまもなくのこと、私は再び藤枝から電話をうけた。
「これからすぐ警部にあいに行く。君はすぐ自動車で牛込署の前まで行つてくれ」
 というのだ。私はただちに彼の云う通り、車を捕えて指定の場所にといそいだ。
 私が下車すると二分程おくれて藤枝がやつて来た。
「さあ、警部に謝まりに行こう、大分怒つているらしいから」
 二人が主任の部屋にはいると高橋警部は苦り切つた面持で現れたが、さすがにいきなり藤枝を叱りとばすわけにもいかぬらしく、だまつて椅子に腰かけた。
「昨夜はどうも失礼しました。今日の新聞記事でお怒りのことと思いますが……」
 藤枝の方が先手を打つた。
「きのうあなたが帰りがけに私に相談されたので云つていいことだけは申したつもりだ。私もまさかあれ全部をあなたがしやべつたとは云いませんがね。しかしあなたからより外洩れぬようなことが出ているのでね」
「高橋さん。今日一日待つて下さい。いや一日でなくてもいい、もう数時間たてば私がなぜあんなおしやべりをしたか、ということがはつきり判りますよ」
 藤枝のこの謎のような言葉は、しかし高橋警部の機嫌をよくする役には立たなかつた。
「何のことか私には判らんが」
「いや、必ず判るのです。きつとですよ」
 けれども、われわれは一日も、いや数時間も待つ必要はなかつた。
 藤枝のこの言葉に対して警部が何か云おうとした途端、ドアがあいて一人の制服を着た[#「着た」は底本では「来た」]巡査があわただしくはいつて来た。
「警部殿、今へんな女が一人とび込んで来ました。警部殿に是非お目にかかりたいというんです」
 これをきくと藤枝は、すつくと立ち上つた。
「犯人は伊達正男でない! というんだろう。そして自分が犯人だ、というんだろう」
 巡査が驚いて藤枝を見ながら、
「そうです。その通りです」
 と答えた。
「それだ。それを俺は待つてたんだ。さ、高橋さん、すぐあいなさい。すぐです。その女が何と云うか早くきくのです」
 高橋警部は事の意外に少し面喰つたようだつたが、さすがにあわてずそのままだまつて立ち上ると、ドアのかなたに姿を消した。
「一体、どうしたんだ。君はその女が出て来るのを予期していたのか」
「無論だ、僕のテオリーがまちがつていないとすれば、その女が死んでいるか、病気でない限り、必ずここか検事局に登場しなければならないはずだつたのだ。今日の新聞記事を見た以上はね」
 私がつづいて話をきこうとした刹那、隣室で、何だか騒がしい音がしたと思うと高橋警部のあわて切つた声がきこえて来た。
 彼はしきりに野原医師をよんでいる。
「しまつた。今殺してしまつてはいけない」
 藤枝がいきなり私の腕をつかむと許しも乞わずに隣りの室にとびこんだ。
 私はその室に二人の人間を見た。一人は高橋警部で、もう一人は四十四、五の婦人である。女は、警部の腕にもたれかかつているが苦しそうに身体をもがいている。
 不意の闖入者を見て、警部は怒るかと思いの外、助かつたという色をした。
「藤枝君、早く病院につれていかなけりやいかん」
「毒をのんだんだな。よろしい」
 藤枝の活躍振りは目ざましかつた。野原医師と共に女に手当をする一方、女を肩にかけて自動車にはこぶと、警部やその他の者と共に一散に近くの蘆田病院にかけこんだ。

      7

 嚥下した毒を吐かせたり、注射をしたり、あらゆる手当が行われた。女はベッドの中にねかされてようやく落ちついたが、それは、われわれが警察をとび出してから二時間位後のことであつた。
「どうです。助かりましようか」
 と警部が院長の蘆田博士にきく。
「のんだのは××××です。手当が早かつたからあるいは助かるかも知れませんが、しかし、大分ひどくのんでいるらしいので、あるいは……」
 と云つて博士はしばらく考えていたが、
「もしお訊ねになる必要があるのでしたら、早い方がいいかも知れませんね、けれどおそらく充分には答えられないでしよう」
 そういううちにも、博士は看護婦達を指揮してしきりに手当につとめている。
「とにかくわれわれは別室ですこし待ちます」
 警部をはじめ藤枝、私は隣の室に退いた。
「驚いたね、どうも。『私が犯人です。伊達ではありません。あの子は何も知らないのです』と叫ぶと同時に毒をのんでくるしみはじめたのでね」
 警部はこの意外な女の出現にすつかりおどろかされたらしいが、同時に、藤枝に対する信用を全く回復したらしい。
「一体、名は何と云つていました? 何とか千代子と名乗つていたでしよう?」
 藤枝が自信ありげに警部に訊ねた。
「うん、里村千代というんだ」
「そうだ。あれは伊達正男の叔母にあたる人ですよ」
「へえ? 君よく知つているね」
「そこまでは判つているのだ。ただ彼女の行方が判らなかつたのだ。伊達正男が犯人だということが新聞に出れば、彼女はどうしても登場して来なくちやならないんだ。彼女は今回の秋川家の惨劇の口火をつけた女なんだから……」
 警部も私も目をまるくして藤枝の顔をながめた。
 蘆田博士がこの時室に現れた。
「患者は同じような状態で苦しんでいます。しかし本人がしきりとあなた方にあいたがつていますから話をきいてやつてはどうですか。私の立場としてはもう少し安静にさせたいのだけれど、あああせつていては却つて本人のためにもよくないし、それに……それにあのままになつてしまうかも知れませんから」
「じや行つてきこうじやありませんか」
 藤枝が警部を促がした。
 里村千代はベッドの中にはいつていたが、ひどく苦しそうだつた。何かしきりにいいたがつているが充分にききとれない。
 警部も、もて余し気味で、相談するように藤枝の方を見た。
「じや、君のいいたいことを僕が云つてやろう。君は耳を働かしてよく僕のいうことをきいていてくれ給え。そうしてまちがつていることがあつたら、そういつてくれ給え」
 藤枝は、千代の枕辺に椅子を持ち出してそれに腰かけた。
「里村千代子、といつたね、君は」
 女は首をたてにふつた。
「里村千代子、結婚する前の名前は村井千代子、君の姉は村井かよ、これが後に伊達かよ子となつた、すなわち伊達捷平の妻である。だから君は、伊達かよ子の妹で、正男の叔母に当るわけだね。君は今日の新聞を見て二つの決心をした。一つは無実の甥を救わねばならぬ、という決心。一つはそれを言つて自殺しようという決心。後の決心は、君が呪いの余り行つたことが意外な恐ろしい結果を生んだので今更我身が恐ろしくなつたからだ」
 さては、この女が犯人だつたのか。

      8

「君は警部に云つた。『伊達正男は犯人ではない。あの子は何も知らないのだ』と。よろしい。これは私は無条件で承知しよう。しかし、『私が犯人です』という一言を僕は信用することは出来ない。ねえ君、君自身ですら、あの秋川家の殺人事件を知らないのじやないのかね」
 藤枝はこう云つてじつと千代子の顔を見つめた。千代子は驚いた顔をしたが、すぐにそれはあきらめの表情とかわつた。
「君は秋川家を呪うの余り、とんでもない事件を惹起してしまつた。けれど君はその犯人ではない。そう、僕は君が、犯人にあの殺人の動機を与えた点と、ヒステリーの極知らぬまに犯人の機械となつていた点とを責めることは出来る。君は秋川家に、タイプライターで脅迫状を送つた。そうしてこれを郵送した。君は先月の十七日に藤枝真太郎という男のオフィスに電話をかけた。同じ日に敷島ガレーヂという自動車屋に電話をかけてひろ子の足取りをきいている。ところが、第一、第二の事件が起つたので君は痛快を感じながらも驚いてしばらくなり行きを傍観していた、ところが二十五日の午後になつて、また秋川家に電話をかけて、初江という令嬢を呼出している。われわれが君を責めることができるのはこの点なんだ。これについてはおそらく君も一言もあるまい。けれど自分が犯人だなんてそんな馬鹿な自白に僕は乗るわけには行かん。
「で、右の場合に、どうして君が電話をかけたか。ここをはつきりききたいんだが、いずれも、ある男から電話がかかつて来たんだろう? そうして君はその命令に従つていたんだね」
 千代子は再びうなずいた。彼女は藤枝を一体何人と思つているかしらぬが、ともかく、非常におどろいているらしい。
「ところで、では、何故君が秋川一家をそれほど呪つているか、という問題だ。事は今から二十年前に遡らなければならん」
 藤枝はここでちよつとだまつてしばらく何か考えているようであつた。
「君の姉夫婦、すなわち伊達捷平夫婦と、秋川駿三夫婦が今から二十年前に、山口県の今泉という町に住んでいた頃、両家の間にあるいまわしい関係が取りむすばれた。一言で云えば秋川駿三は、不らちにも先輩であり親友である伊達捷平の妻をぬすんだのだ。当時自分の妻の不義を知つていた捷平は重病のため、目の前に不義者らをながめながら、制裁をすることが出来ず、呪いをあびせながら憤死してしまつた。姦婦かよ子はどうしたか。彼女はおそらくは、夫の死後自分の罪のおそろしさに気がついたのだろう。まもなく夫のあとを追つたが、これは実は自殺であつた。かよ子が自殺をした。この時おそらくは彼女は自分の罪をほんとうに懺悔したにちがいない。と同時に、多分、彼女は自分の罪を何らかの方法で書き残した。誰に? これが問題なのだ。誰にのこしたか。今にして僕にやつと判るのは一つは君に、しかして今一つは多分相手の秋川駿三にだつたろうと思う」
「悪魔です! 悪魔です! 駿三は悪魔です!」
 突然、今まで苦しんでいた千代子が苦痛の声をしぼりながら叫んだので、皆思わずはつとした。
「そうだ。無論そう云つて捷平も死に、君の姉も死んだろう。もつとも君の姉はわが身をも恨んで死んだかも知れん。そこで彼女は、過去の罪のつぐないとして、我子正男の一生を秋川駿三の両肩に托したのだ。これは今から思うと実に適当な復讐だつたよ。この時、かよ子は二十八才、正男が五才、君はまだ二十三才の婦人だつた筈だ」

      9

「二十三才と云えば人生の花だ。ことに女の身で処女時代であつた君は、秋川駿三を悪魔と呪つたところで、彼を一生の敵として自分の一生をついやす気にならなかつたのは無理もない。君が心の底で呪いながらも、だまつて秋川駿三が伊達正男を育てて行くのを見ていた。そうして君は里村という男に嫁し、おそらく二、三年までは幸福に暮していたにちがいないのだ。何故僕が、そう思うか、と云えば、この二、三年前までは秋川駿三は脅迫状を君から受けていないからだ。云い換えれば、君は自分の生活に満足して、他人の不幸を望むひまがなかつたと思わなければならぬ。ところが、これは全く僕の想像だが、多分二、三年前に君をある不幸がおそつた。夫が死んだか、あるいは夫が失敗してひどく食うに困るようになつた。いやおそらくは、両方だろう。君は夫の死後、かなり苦しいのじやないかね」
 藤枝に今更云われないでも、彼女のようすを見れば、彼女が決して富裕な生活をしているのでないことがはつきり判るのである。彼女はだまつて肯定した。
「これはいささか空想に近いが、君が脅迫状にタイプライターを用いたところを見ると、君自身タイピストとして働いているか、または娘をタイピストにしていると思われるんだがね」
 彼女のおどろきの表情は、図星をあてられたことを現していた。
「君自身の指はタイピストの指ではない。とすると、娘さんが働いているということになる。ここに夫に死に別れた後家さんが娘をタイピストに出しているとする。彼女は貧しい。娘も貧しい。世の中は渡りにくい。世の中の人が憎くなつた。こうなつた時この婦人は過去の深いうらみを又かみしめはじめ、味わいはじめたのだ。その悪魔のような男はいつのまにか非常な金持になつている。すべての金持が憎いこの女にとつてこの秋川駿三は一層にくい。そこへもつて来てこの女がヒステリー性の人だとすれば、脅迫状を送る位は何でもないのだ。君はそこで昨年から丹念にタイプライターで脅迫状を送つた。君がどうしてあれを打つたか、それは判らない。何も知らぬ娘に打たせたか、何かの機会に自身で打つたか、判らぬがおそらくは娘に打たせたのだろう。娘は母のヒステリーを心配しながらその命令に従つたのだ。すると、君の全く予期しない出来事が起つた。おどかしはいつのまにか現実となつてあらわれた。四月十七日に秋川駿三の妻がまず死に、次に駿太郎と女中とが殺された。君は全く驚いたが心の中では手を打つてよろこんだ、しかし脅迫状はそれから送られなくなつた、この点から僕は君が娘に打たせていたものだと考える。君の娘は、母の命令で打つたタイプライターが意外にも現実となつたので、極度におそれて何と云つても打つことを肯んじなくなつたのだ。第一の事件以後、秋川家に脅迫状が送られているが」、無論あれは君の手から送られたものではない
 この言葉は、ふしぎそうな顔をしている私に対する説明のようにきかれた。
「ところが、昨日の事件がおこると同時に、伊達正男が捕えられておまけに自白したということになつた。伊達正男は君にとつて可愛い甥だ。これを殺しては大変だ。秋川家に不幸が来るのはさいわいだろうけれど、伊達が疑われようとは君は思わなかつたのだ。それで思いあまつて君は警察にとび込み、伊達の無罪を主張する。一方、自分ののろいの目的はもう達したし、今からかえりみれば今までの罪が余りにおそろしいので、死ぬ気になつたのだ。どうだ君、僕の云つたことは大体に於いてまちがいはないつもりだが」

      10

 里村千代子は、藤枝がしやべつている間、身体をもがいて苦しがつていたが、さつき、秋川駿三を悪魔! とののしつたきり一語も発し得ず、だんだんようすが悪くなつて行つた。
 蘆田博士は、眉をよせながら見ていたが小声で、
「どうも思わしくない。いけないかも知れん」
 と警部にささやいていたが、はたしてその夕方息を引取つてしまつた。彼女の帯の間に遺書らしいものがあつたが、それには藤枝が述べたと全く同じ事情が書いてあつた。
 ただこれによつて新しく判つたのは彼女が最近、赤坂の今井病院という婦人科の看護婦としてつとめていたこと、さと子という十七才になる娘が丸ビルのオフィスにタイピストとしてつとめているが、その娘は何も知らずに母の命令で脅迫状をしたためたこと、決して彼女には罪のないこと、それから伊達正男には一回もあつたこともなく、手紙を出したこともないということを記されてあつた。
「なるほど、看護婦をしているのか。それで判つた。犯人が千代子とどこで電話で連絡していたのかということが今までよく判らなかつたのだよ。貧乏人が電話をもつているわけがないからな」
 なお、秋川家の殺人事件に関しては、さすがにはつきりしたことは記していない。自分が犯人だ、と口では云つたものの、全然でたらめを書くことは出来なかつたと見え、遺書には自分が犯人だとは書いてなかつた。ただ何者とも知れぬ男から時々電話がかかり、その男も秋川家を呪つているときいて一緒にやる気だつた、しかしその男に一目も会つたことはないと記してあつた。
 これは、彼女が死んでから、すなわち五月二日の夕方に判つたことであるが、警部はそれまでずつと病院にいたわけではないのだ。
 警部は藤枝が千代子に自分の確信を述べて彼女が一応それを肯定すると、ただちに警察に引かえして、伊達正男を取り調べた。
 警部は、伊達正男に改めて、里村千代子の出現を語り、合わせて藤枝の調査して来た事実を物語つたのである。
「僕も昨日それをはじめて知つたのです。恐ろしい過去です。僕の過去にそんな恐ろしい事実があろうとは全く思いがけませんでした。あの親切なおじさんがそういうお方とは……もう叔母さんて方は駄目なのですか。一目会いたいような気がします……」
 伊達の顔はいいようのない複雑な表情でいろどられていた。
「僕には大体のことがもうはつきりして来たような気がするんだ。ねえ伊達君、手数をかけないで男らしく事実を云つてくれないか」
 藤枝がきびきびした調子で云つた。
「勿論こうなれば云つてしまいます」
「君のお母さんの遺書という奴ね。一体君はどこにかくしたんだい。家宅捜索で判らなかつたそうじやないか」
「あれですか。ありや僕わざと読みさしの雑誌の間にはさんであつた本屋の広告の間に入れておいたんですよ」
「あはははは。エドガー・ポーの知慧だな。パーロインドレターか。うまいかくし場所だ。ところでそれにはどういうことが書いてあつたかね」
「余程古いもので字もはつきりしていませんが、母の名が記してあつて相手は秋川のおじさんです。自殺する前に一生の願いとして自分の子をあなたに托す。あなたもすべての罪のつぐないとして立派な男に育ててくれというのです」
 さすがに伊達の声音には沈痛な調子があつた。
「ところで昨日君があのピヤノの部屋に入つた時、秋川駿三はもう死んでいたのかね。それともまだ生きていたかね」

   最終の悲劇

      1

「それが僕にはどうもはつきり判らないのです」
 伊達正男は、ほんとうに困つたという顔をしながら語りはじめた。
「ゆうべ警部さんに申し上げたことは大抵まちがいはないのです。ただ今おつしやつた母の遺書についての点だけを申し上げなかつたのですが、こうなればもうすべてをかくさず申し上げてしまうつもりです。昨日、僕が秋川家に参つた理由は全くゆうべ申し上げた通り、さだ子さんに会いに行つたのです。いつものように裏の階段を通つて二階に上ればこんな間違いはなかつたのですが、ゆうべも申し上げた通りもしひろ子さんに会つたりしてはいやだと思つたのでわざと庭からまわつたのです。庭の花壇のところからさだ子さんの窓が見えるのでそこから声をかけてさだ子を呼ぶことにきめたのであります。
「それで花壇の所に行つて家の方を見ますと、窓にさだ子さんの姿は見えません。ふと下のピヤノの部屋を見ますと誰か人かげがします。ことによるとさだ子さんではないか、と思つて私はそつと窓の方に歩いてまいりました。まえにも一度さだ子さんがピヤノの部屋にいるのに出会つたこともあるのです。窓の外までまいりましたが中がよく見えませぬ。おぼえていらつしやるでしようが、昨日僕があの家に行つた頃はもうかなり暗くて、庭ですら少々くらい位でした。ですから外から部屋の中を見るということはかなり困難だつたのです。そこで僕はえんりよなく窓の所にまいり、両手を窓のふちにかけてのび上りました。つまり、自分の顔だけ、窓から上に出して中を覗いてたわけなのです。すると、どうでしよう。その刹那、今まで中に立つていた人が、アツと叫んだかと思うと、ドタリと仰向けに仆れてしまつたのです。僕ははじめてその瞬間にそれが秋川のおじさんである、と知つたのでした。無論、このまま逃げ出すべきところではありません。僕はおじさんが急病にでもかかつたのだと思つて、すばやく窓から中にとび込みました。靴は短靴でしたのですぐぬぐことが出来たのです。仰向けに仆れているおじさんのかたわらにかけよつて介抱しようとしてその顔をのぞきこんだ時、僕は再び驚きました。僕は生れて今まであんな物凄いおそろしい顔を見たことがありません。介抱しようと思つてかけよつた僕は余りの恐ろしさに思わずそこに立ちすくんでしまつたのです。ところが、この時、僕は妙なことに気がつきました。それは、僕が立ちすくんだちようど目の前にあるはめこみになつている鏡が一、二寸前につき出して、戸びらのように開きかかつているという事実です。僕は、人をよぶことなどは全く忘れて、思わずそこにかけより、鏡に手をかけてぐつとあけると、中に、手紙のようなものがあるのです。妙だな、と思つて見ると、封筒の表には、秋川駿三殿とあり、裏には、伊達かよ子という名が記してあります。この名を見て僕はハツと思いました。これこそかねておじさんからきかされていた僕のなつかしい母の名ではありませんか。僕は夢中でその手紙をとり出しました。と同時に自分の立場の危険さにも気がついたのです。度々おこなわれている当家の怪事件、しかも自分はその嫌疑者の一人である、その自分が今おじさんの死体(?)の側にいるということはどう考えたつていいことじやありません。僕は、こう考えつくと、一刻も早くここにいてはいかん、と思い、その手紙を懐中に入れたまま一散に逃げ帰つたのでした。そして雇人にもだまつてろと口どめしました。逃げ帰つてからはじめて母の遺書というのに目を通したのです。可哀そうな母は、今死ぬという間ぎわに、私のことを、秋川のおじさんに頼んでいます。気の毒な母です。どんな罪を作つた母でも、実に――実に、気の毒です」
 伊達は、語り終つて、目を伏せた。

      2

「君は手紙を取り出すとすぐまた鏡をもとのようにして戻つたのだね」
 藤枝がきく。
「そうです。そうしておかなければ僕がはいつたことがすぐ知れると思つたのです」
「秋川駿三がそういう過去をもつた人間である、ということを、お前はほんとに昨日になつてはじめて知つたのかね」と警部。
「無論です。それまではほんとに何も知らなかつたんです」
「そうかね。たしかに」
 警部はやや疑わしそうな顔をしながら藤枝の方を見た。
「お前は気がついているかどうか知らぬが、駿三がお前の父の仇だということが判つたと云うことは、お前の為には決して利益にはならんのだぜ」
「どうしてですか」
 伊達はほんとうに気がつかぬというようすでせき込んでたずねた。
「判り切つているじやないか。秋川一家はお前の仇だ。この仇の家の者がだんだんと殺されて行くとすれば、一体誰がまず第一に疑われるのだ。ねえ。もう一つ、この事件はお前が警察に捕まつている間は決して起つていないのだ」
 最後の警部のひとことで、私はかつて藤枝が私に「伊達が警察にいる限り、事件はおこらない」と云つたことを思い出した。
「嘘です。嘘です。断じてそんなことはありません。僕が、秋川家の者を恨む理由は何もないじやありませんか」
「ないどころか、大ありさ。秋川駿三はお前の仇だ」
「だつてそりや、おじさんが死んでからやつと昨日知つた事実なんです。それまでは僕何にも知つていなかつたんです」
「それなら、お前は昨日はじめて知つた、という証拠があげられるかね」
「母の遺書です。あれは昨日まで、たしかにあの秘密の戸棚にはいつていました」
「冗談云つちやいけない。母の遺書なんか見なくたつて誰からだつてあんな話はきけた筈じやないか。お前は里村千代という叔母に会つたことはないのか」
「会つたどころか、名をきくのさえはじめてです」
「そうか」
 高橋警部はまだ中々満足しそうもないようだつたが、ちようどこの時刑事が、
「検事殿が見えました」
 と云つてはいつて来たので目くばせで、一旦伊達をまた留置場に戻した。
 そこへ、現れたのは奥山検事だつた。
「高橋君、里村千代という女のようすはどうだい。何だか大分新しい事実が判つたそうだね」
「はあ、大分新事実が現れました。しかしいずれも被疑者には不利なものです。が、ともかく、藤枝君の調査には感服しましたよ」
「やあ君、御苦労様、秋川殺人事件もどうやら大詰に近づいたようだが、君のお骨折りに感謝しなければならんね」
「うん、大詰に近づいたことはたしかだ。たしかに大詰に近づいてはいる。しかしはたしてあなた方の考えている通りの大団円にいくかどうかはまだ判らん……時に奥山君、君は、今日駿三の解剖に立ち会つたかい」
「うん、行つて来た。解剖の結果彼の死の直接の原因は、心臓麻痺だということが判つた。後頭部の外傷が致命傷ではないそうだ」
「そうか」
 藤枝は何故か急に晴れ晴れとした顔色になりながら云つた。
「そうか。ではやつぱり僕のテオリーは、まちがつていなかつたんだ」

      3

 夕方の五時頃、蘆田病院から千代が今息を引取つたという報告があつた。行つていた刑事が、千代の遺書というものをもつて来た。これに書いてあつた内容は既述の通りである。
 われわれは、その遺書を見てから、警察を出た。
「藤枝、里村千代が死を以て争つたにもかかわらず、警部は依然として伊達を疑つているらしいじやないか」
「うん、そうさ。里村千代はいつ登場するか全く判らなかつたからな。いつ出て来てもいいように用意がしてあつたのさ
「誰が」
犯人がさ
 私には藤枝のいうことが何のことかさつぱり判らなかつた。
「ところで一旦僕らはここで別れるとしよう。君はどこかで夕めしでも食べて、七時半頃に――いや八時でもいいが僕のオフィスまで来てくれないか。その時分に僕は待つているから」
「そうかい。用があるのかい、じやそうしよう」
 私は何となく心残りがしたが、藤枝がこういうので、やむなく彼に別れ、銀座に出た。
 銀座で夕食を食べてブラブラしながら時を費した。
 その間私は事件をいろいろに考えていた。
 藤枝のこの間の急な旅行の意味も大ていわかつた。それにしても彼の腕には驚くの外はない。しかし一体彼は誰を疑つているのだろう。それからあの昨日の彼のあわて方。いやあわて方といえばあの時の林田のあわて方も著しかつた。駿三が死んだ時、どうしてこの二人がああもひどくおどろいたのだろう。
 こんなことを考えているうちに時計はちようど七時半になつた。
 私はいそいで彼のオフィスに行つた。
 彼は何か書きものをし終つたところだつた。
「うん、ちようどよかつた。今用事がすんだところだよ。さて、いよいよ秋川家の殺人事件も終りに近づいて来た。僕にも大てい犯人の見当はついて来たのだ。それについてこれから是非会つておかねばならぬ人があるのだ」
「一体誰だい、そりや」
「僕の競争者さ。林田英三だよ。奴は一体どこまで真相を掴んだか、というのだ。これから行つて僕の考えを述べようと思うんだ。僕が勝つか、彼が勝つか、両方かつか、または両方とも失敗するかだ」
「彼も昨日は大分あわてていたらしいが」
「そうだ。昨日は僕も彼も大あわてだつた。そのあわて方がはたして同じ理由だつたかどうかを知りたいものだね
 われわれはまもなく車上の人となつた。
 あらかじめ藤枝から林田に電話で通告がしてあつたと見え、二人はすぐ小ぢんまりした洋風の応接間に通された。
「や、昨日は失敬、今日はまたとんでもない女が出て来たつていうじやないか」
 林田は出て来るとすぐにそう云つた。
「うん、しかし自殺しちまつたよ。だから、充分なことが判らないんだ。しかしね林田君、今度こそ僕はあの事件の真相を捕えることができたと思うのだがね。君にはどうだい、多少はあてがついたかい」
「つかぬこともないさ」
「かつて君に云つた通り、今やわれわれは同盟するか、争うかだ。いずれにしても僕は自分の手にあるトランプを君に示す方がいいと思う。ね、君、ききたまえ。僕は秋川殺人事件の原因をまずはつきりとつかんだよ。

      4

「犯人の殺人の動機が何であろうとも、今まで展開された事実でわれわれはもつと早く犯人を名指すことができた筈だつたのだ。それに気がつかなかつたのは、全く僕の力が足りなかつたのだが、今や僕は犯人のあの恐ろしい犯罪の動機を知り得たのだよ」
 勝ち誇つたように藤枝は競争者林田英三の前に胸を突き出して云い切つたのである。
「うん、御同様だ。この僕にもその動機ははつきり判つている」
 案外にも林田は少しもおどろかずに答えた。
 藤枝は、これを見て何と思つたかいささかあわて気味にたずねた。
「では君もまたあの殺人の動機を知つているのか」
「うん、やはりそれを知つたのは最近のことだが……そうだ、ちようど君がどこかに旅行している時……あの頃になつてやつと判つた」
「ではきく、僕も云うから君も云つて見たまえ。秋川一家に対する犯人の呪いは……」
遠き過去に因縁話をもつ宿命的な呪いだよ。そのはじめは姦通劇さ」
 林田はズバリと云つて藤枝の顔を見た。
 藤枝はしばらくあつけにとられたように林田の顔を見詰めた。
「そうか。君も知つていたのか。その通り、姦通劇にもとを発した恐るべき呪いだ。犯人はその呪いから秋川一家に烈しい復讐を試みたのだ」
「犯人はしかも極めて頭がよく働いた。藤枝君、われわれが出会つた人間の中で今度の犯人位悪魔のような働きのある奴に出くわしたことはない」
「その点は僕も同感だ。全く! しかしだ。かの悪魔の如き天才にもかかわらず、犯人はスタートからして全く錯誤に陷つているのだ。林田君、君にはその点に気がついているのかい」
 藤枝と林田は今や心の中でしのぎを削つているのだろう。二人は殆どにらみ合わんばかりである。今度は林田が驚愕の色を表わした。
 藤枝はどうだ、判つたか、というような調子でたたみかけた。
「いいか。君も知つている通り、この惨劇の遠い源はあるいまわしい姦通劇なのだ。ここにある一家の主人があつて不倫にも人妻に恋をした、その人妻は不らちにもこの汚れた恋を許した。姦夫姦婦はこうやつて不義の快楽にふけつていたのだ。けれどもこの恋は恐ろしい結果を生んでしまつた。妻をとられた夫はとうとうこの関係を探知したのだ。彼は呪つた。恨んだ。しかし結局彼はどうすることも出来なかつた。この不幸な夫婦にはまもなく死という運命が来た。その時、彼らの間にはたつた一人の幼児が残つていた。彼らはおそらくこの子に向つて永遠の復讐と呪いを吹きこんだに違いない」
「そうだ。かかるが故にその子はまず第一に、相手の妻を殺し、次いで息子を殺し、更にその娘を屠り、最後にめざす相手を殺した、ということになるのだ」
「うん、それはそれでいい。しかし彼ははたして、何人に対して復讐したことになるのだろう」
「いうまでもなく、自分の亡き父の為に」
「父の為に誰をやつつけたんだ」
「無論その仇をさ、秋川一家さ」
「林田君、僕はそこにおそろしい錯誤がある、というのだ。いや、おそろしい……全く世にも恐ろしい錯誤があると断言するのだ」
「とは一体何のことだい」
 林田の言葉は緊張の為にいささか慄えをおびている。答える藤枝の言葉も同様だ。
「妻をとられた夫が、わが子に復讐をふきこむとき、とるべき最も深刻な方法は一体何だろう」

      5

 林田にはこの問はちよつと判らなかつたらしい。
「ねえ林田君、ここに一人の病身な男がある。彼は自分の妻の不義をだまつて見ていなければならなかつた。彼は相手を呪つた。呪つて呪つて呪いぬいた末に、ここに絶好な深刻な復讐を思いついたのだ。その復讐とは何か。子を父に、弟を姉妹兄弟に、肉身に対して肉身の復讐をすることなんだ。君、彼がわが子わが子と云つて最後まで愛撫し、最後まで仇討をたのんだその幼児は、一体誰の子だと思う? それこそすなわち不義の相手の子だつたのだ。正しくそれは自分の子ではない。自分の妻の子ではある、が、しかし断じて自分の子ではない。不義の相手の子である。彼はそれをよく知つていたのだ。それをよく知つていてその子に、全く自分が父であると信じさせ、そうして他人のつもりで相手の名を幼児の頭にふかくほりこんだのだ。可哀相に、その幼児は大きくなつて、父の仇を討つつもりである一家の人々を鏖殺おうさつせんとした。彼は亡き父の為に他人を殺したつもりでいた。ところが実はそうでない。他人と思つたのが実は肉親なのだ。血族なのだ。血に狂つた彼は、肉親だと思つていた父が実は赤の他人だとは全く気がつかなかつたのだ。殺人鬼! そうだ。彼は殺人鬼だ。しかしこの殺人鬼はあわれにも、地獄からの呪いのおもちやにすぎない。彼は、父の仇をうつつもりで全く他人につかわれていたのだ」
 この物凄い物語りを藤枝は何故か必死になつて語つた。
 林田は物語の間、全く驚いたようすをしていたがしばらくして急に、爆発したような声で笑いはじめた。
「あはははは、君もずい分空想家だね。どこからそんな空想を考え出したのだい」
「空想じやない。僕はこの事実を知るためにわざわざこの間旅行して来たんだ」
「そんな馬鹿げた話があるものか」
「いや、断じて馬鹿げた話ではない」
「ノンセンスだ」
「断じてノンセンスではない」
 二人は掴み合わぬばかりにムキになつている。私には一体何で二人がこの問題にこだわつているのか、さつぱりわけが判らぬ。
 彼らの話は、どうしても伊達正男のことを云つているとしか思われない。やつぱり真犯人は彼だつたのか。それにしても、藤枝の説によれば、伊達の実の父は秋川駿三となり、林田に従えばやはり捷平になるのだ。なるほど、事件の暗さには関係するが、犯罪そのものにはまるで関係のないことではないか。
 私には、名探偵ともあろう二人が、こんな些細なことをムキになつて論じ合つている理由が少しもわからなかつた。
「君は今そう云つているがあとでよく考えて見給え。ゆつくりと一人で考えて見給え。僕の云つたことが正しいということが判るよ」
「何を馬鹿なことを云つているんだい、君は、君こそそのまちがいをさとるよ」
 二人はまだ同じことを云い合つている。
 気まずい沈黙がしばらくつづいた。
「では、これ以上、君に云うことはない。君が僕の説をどうしても容れない以上、僕は僕の勝手な行動をとるよ」
 藤枝は立ち上つたがやがてポケットから一つの封書をとり出した。
「ここの中に僕の云つたことを立証すべき書類がすつかりはいつている。ゆつくりとよんでくれ給え。ではこれで失敬する」
 林田はだまつてこれを受け取つた。
 二人は不機嫌のままで袂を別つた。
 一体、二人はいらざる口論をしていて、いつになつたら真犯人を捕える気なのだろう。
 われわれは林田の家を出るとすぐ別れた。
 これで五月二日の事件は終つた。

      6

 五月三日の朝早く私は藤枝にねこみをおそわれた。と云つてもこの朝、私はめずらしくね坊をしたのでおきて見ると七時だつた。
「おい、これからもう一度林田を訪問するんだ。君一緒に来いよ」
 藤枝[#「藤枝」は底本では「林田」]はただならず興奮している。
「何だ。また議論かい。昨日の議論のつづきかい。ノンセンスだ。いや断じてノンセンスではない! のおさらいかい」
「馬鹿なことを云わずに早く出て来たまえ。さつきから林田の家に電話をかけているんだがどうしても向うが出ないんだ。秋川の家にでも行つてるかと思つて今かけたが、そつちにもいないらしい。ともかく一緒に来い」
「だつて留守じや……」
「留守だか何だか判らないんだよ、電話に家人が出ないというだけなんだ。さあさあ、さつさと出かけるんだ」
 何のことやらわけが判らないがむやみと藤枝がせき立てるので私も手早く支度をしてタクシーをよびすぐに林田の家へといそいだ。
 田舎まる出しの女中が出たが、主人はちよつとまえに出かけたということ、電話は書斎の方につなぎつぱなしになつているが一向ベルがならなかつた、というようなことを語つた。
 藤枝はこれをきくと、すぐ林田の家を出たが、あわてて流して来た円タクをよびとめて秋川邸へといそがせた。
「奴、受話器をはずしつぱなしにして出やがつたな」
 彼は車中でたつた一言こう言つた切り、何も云わない。
 秋川邸につくとすぐ笹田執事が出て来た。
「林田君が来たでしよう」
「はい、ちよつと前に見えました」
「どこにいます」
「お二階のさだ子様のお部屋に……」
「何、二階のさだ子さんの部屋?」
 彼はこういうと、紐をほどきにかかつていた靴をぬごうともせず、そのまま中にとび上るといきなり私の腕をつかみながら驚く笹田執事をつきのけてまつしぐらに階段をかけ上つた。
 さだ子の部屋の前まで行くと、藤枝はノックもしないでドアのハンドルに手をかけて開けようとしたが、鍵がかかつているのか、ビクともしない。
 瞬間、藤枝の顔にサット不安の色がみなぎつた。その途端中からさだ子とおぼしき叫び声がきこえて来た。
「あれえ、誰か、誰か来て」
 つづいて部屋の中で取組合でもはじまつているような音がきこえる。
 藤枝の顔はもう全く死人の色だつた。
「小川、小川、たたつこわすんだ、この戸を! この戸を」
 こういいながら彼は満身の力をあつめて戸に身をぶつけている。
 腕力にかけては憚りながら自信のある私だ。柔道剣道できたえた身体の、骨もくだけよ、とばかり体は戸にぶつかつた。
 物音をきいてひろ子が向うの部屋からとび出して来る。笹田執事もつづいて下から上つて来た。
 必死の奮闘で、戸はめりめりとこわれはじめた。そのすきまから藤枝はちよつと中をのぞいたが、いきなりそこから手をつつこんでドアの鍵をはずすと戸はサット開かれて、われわれはころがるように中にとびこんだ。
 その刹那、向うの窓ぎわに立つていた林田の身体がふらふらとしたと見るまにくずれるように床の上に仆れてしまつた。
 テーブルのそばの椅子から半分おちかかつてさだ子が死んでいる。

      7

 藤枝はいきなりさだ子のそばにかけよつたが大きな声で叫んだ。
「間にあつた。大丈夫だ。ショックだよ。ショックだ。大丈夫回復する。早く医者を、医者を! それから警察へすぐ電話をかけるんだ」
 なるほど、ここの家で人が仆れていれば、大抵皆死体だつたので私はさだ子も死んだのかと早合点したが、彼女はただ気を失つているだけのようである。
「ここをしめられたんだが、大丈夫助かるよ」
 藤枝はさだ子を抱きながら彼女の咽喉部を指した。
「君、林田はどうしたんだ」
「うん、毒をのんだらしいがもう駄目だろう。手をつけないでほつておき給え」
 藤枝が、冷淡にそういいながらさだ子をしきりと介抱している。
 急をきいてかけつけた木沢医師はただちにさだ子をその寝室のベッドにうつして応急の手当を施したが、藤枝の予言通り、まもなく意識を回復したらしい。ここへかけつけたのが高橋警部の一行である。警部は引きつづく事件に、八ツ当りのきみで、さだ子の書斎にはいりながら、
「藤枝さん、どうしたのです。今度はさだ子と林田君がやられたんですか」
「高橋さん」
 藤枝がにやにやとしながら云い出した。
「しかし御安心なさい。これが秋川家に於ける最終の悲劇ですから」
「最終?」
「そうです。以後こんな事件は断じておこりません。何故ならば犯人が死んだからです。高橋さん、私は秋川一家を呪う殺人鬼稀世の天才犯人林田英三の死顔を改めてあなたに御紹介するの光栄を有することを喜びます
 藤枝の声は魔法のようにひびき渡つた。
 いあわす人々、高橋警部をはじめ、ひろ子も笹田執事も刑事たちもしばらくポカンとして一言も発し得ない。
「私には何のことかさつぱり判らん」
 やつと警部が一言云つた。
「今すぐ判るようになりますよ。ああ、さだ子さんはもう回復したでしよう。木沢さんがついておられる筈ですから一緒に行つて見ましよう。さだ子さんにきけばさし当り、今日の始末は判ります」
 云わるるままに、一同はさだ子の寝室へとはいつた。
 木沢氏の説でも、もうさだ子は全く回復して、訊問に堪えるということだつたのでわれわれはすぐに彼女の枕辺にあつまつた。
「あぶない所でした。しかしちようど間にあつて幸でした。御気分は」
「はあ、もう大抵」
「驚きはお察しします。何しろ林田が、いきなりとびかかるとはお思いにならなかつたでしようからね」
「はい、ほんとうにもうびつくり致しましたわ。ではあの方が……」
「そうです。お母さんをはじめ弟さん、妹さんを殺したのは皆あの男です。ただお父さんの死は全く別ですが」
 さだ子は、今更おそろしさに身をふるわせたのであつた。
「ともかく、今日の始末をきかせていただきましようか」
 はじめて、警部が口を出した。
「はい、今しがたでございます、林田さんが見えまして、警察のことで話があるとおつしやいますのです。私も伊達さんのことが気になりますし、林田先生(といいかけて)あの人を全く信じておりましたものですから自分の部屋にお通し申しました」

      8

「今から考えますと、林田さん(彼女はもはや先生とは云わない)の顔色がいつもとは大変違つていたように思われます。テーブルを隔てて腰かけ、女中がお紅茶を二つもつて来て、ドアから出て行つてしまいますと、林田さんは、形を改めて、今日は大変秘密なことを話したいと云い出しました。そうして、ふと、ドアの外のようすをうかがつていられるようでしたが、私に『誰か外にいるのじやないかしら。もしや姉さんが立ち聞きしてはいないかしら』と心配そうにいわれました」
「彼は腰かけたままでしたか」と藤枝がきく。
「はあ、それで私が念の為に、立つてドアをあけましたが、別に誰もおりませんでした」
「ははあ、先生、そのひまにあなたの茶碗に毒薬を入れたんですよ。ねえ高橋さん、あとであそこにある紅茶を調べてごらんなさい。何か判らないが、劇薬がはいつているにちがいありません。……さだ子さん、あなた少しも呑まなかつたでしようね」
「はい、私別にのどがかわいておりませんでしたので」
「林田があなたにすすめやしませんでしたか」
 高橋警部が熱心にきいた。
「いくらあいつがあわてたつて、それ程へまなことはやりますまい。それに第一、そんなひまがなかつたろう」
「ほんとにさうでございます。まだいくらもお話しない間に外がさわがしくなつたものですから」
「それにしてもあいつ、いつの間に鍵をかけたのかしらん」
「さあそれでございます。私が林田さんとお話をしようとしていると、その時、今からおもえば先生方なのでしたが、俄かに階段を上つて来る人の足音が聞えたのでございます。それをきくと、林田さんは、サッと顔色をかえて、ドアの所に走りより、中から鍵をかけてしまいました。鍵はいつもドアの内側に附いているのでございます、私は、まさかあんなことになるとは思わず何か余程重大な話がある為に、そういうことをしたのかと思つておりました。するとドアに鍵をかけてもどるやいなや恐ろしい形相になつて(ほんとうにあの恐ろしい顔は今でも目さきにちらついておりますが)いきなり私にとびかかつて両手で私ののどをしめたのでございます。私は余りのおそろしさに、悲鳴をあげたことまではおぼえておりますけれども、あとは全くおぼえがありませぬ」
 語り終つて、彼女はほんとうに恐ろしかつた、という様子をした。
 きく者一同、ただ固唾をのんでじつと耳をすましていた。
「そうですか。それで大抵わかりました。つまり僕らの来方が間に合つてよかつたのです。彼はわれわれの足音をきいて最早万事休したことをさとり、かねて用意の毒をのんだのでしよう。首をしめられて未だ幸いでしたよ。あの紅茶をのんだら、今頃はもう死体となつているところだつたでしよう。さてと、僕はもう少しさだ子さんとお話したい。木沢さんにはそばにいていただきましよう。高橋さん、あなた方はどうか御遠慮なく、林田の死体の方の始末をなさつて下さい」
 今度は藤枝の方で高橋警部らにさつさとこの室を出てくれという勢なので、警部も素直に引下つて現場の取調べに着手した。私も邪魔になるといけないと思つて、さだ子の室を出て警部らの活動に見入つていた。
 間もなく検事がやつて来て藤枝と暫く話をして行つた。
 夕方、六時に一同警察に集つてくれ、そこですべてを説明する、という藤枝の言をたのしみに、私はその時間に警察へ行つたのであつた。

   藤枝の説明

      1

「余りに複雑で、余りに深刻で一体何からお話したらいいか、僕にもちよつと判らないんだが……」
 五月三日午後六時すぎ、牛込警察署の一室で、奥山検事、高橋警部、木沢、野原両医師及び私を前にして、藤枝真太郎は、得意そうにエーアシップの煙をゆるやかに吐き出しながら語りはじめた。
「事件の原因、何故に林田英三が秋川一家をあんなに呪つていたか、ということ、及び事件進行中のあの一家族の者の心理状態、更に如何にして僕が、犯人は林田であるとつきとめたか、左様なことは全部あとまわしにして、まず第一に林田英三が如何なる方法であの恐ろしい犯罪を行つたか、ということを述べて見ようと思う。
「彼に、あの殺人を行わせた直接のきつかけは云うまでもなく里村千代の秋川駿三宛の脅迫状である。しかしてその犯行のもう一つの直接の動機は、秋川一家族の、あのいかにも複雑した暗い状態なのだ。
「ひろ子の語るところによれば秋川駿三が無名の脅迫状を受け取つたのは昨年の八月だつた、というが、(ひろ子の話第二回参照)それはひろ子がそれを発見したのがその頃だということを示すにすぎない。だから僕は、もつとそれ以前から千代があの脅迫状を送つていたと考えていいと思う。千代は昨日からの調査によると一昨年夫に死に別れて貧困になげこまれて苦しんでおり、娘がタイピストに出たのも一昨年だというから、少くも昨年のはじめにはもうあの三角印の封筒が駿三宛に送られたと思つていいだろう。
「駿三には千代の遺書にある通り過去がある。彼はこの脅迫状を度々受けとつてどうしたか。警察に訴え出る気にはなれなかつた。それをするにはたとえ時効にかかつているとは云え、浅ましい過去の犯罪――しかも姦通といういまわしい犯罪を云わなければならないのだ。そこで彼はどうしたか。最初のうちこそ一人で悶々としていたかも知れないが、ついに思い余つてこれを世界中でたつた一人の人間につげた。おそらく彼は万事をその男に自白してしまつたのだろうと思う。そうしてその男の助けを求めたのだ。その一人というのがすなわち林田名探偵だつたのだ。僕の想像によれば、脅迫状は全部林田の手に渡つている。従つて駿三の身辺からは決して発見されないわけなのだ。(ひろ子の話第二回参照)
「しかして、駿三には里村千代という存在は必ずしもはつきりしてはいなかつたろうと思う。ともかくも、伊達捷平夫婦に関係のある者にちがいないと信じ、ほんとうに恐怖していたに相違ない。ところで、彼が万事を打ちあけてたのんだ探偵林田英三という男が、また運悪くも、秋川一家に深い恨みをもつている人間なのだ。この恨みについてはあとで述べる。
「林田は、自分以外に秋川一家を呪つている者があるということを知つてチャンス至れりと感じたのだろう。彼はまずその人間を、巧みにあやつるべく考え、ただちにこれが誰人なりやを捜査した。彼の腕をもつてすれば里村千代をつきとめることは何でもなかつた筈だ。おまけに、材料は駿三の自白によつて、全部手にあつたわけだから。
「彼は少くも昨年の十月には里村千代に電話の通信をしている。用心深い彼のことだ。決して会つたり、手紙を出したりはしなかつたろう。千代の自白の如く、何人とも知れぬ男が、ああしろこうしろと命令したにちがいない。無論『僕も秋川一家を恨んでいる人だ』位のことは云つている。こうやつて、あのヒステリーの女をけしかけたのだ」

      2

「ちよつと待つて。成程、そうすると秋川駿三は世界中で一番危険な人物を、よりによつて頼りにしたわけになるのだね。それにしても、昨年の十月に林田が里村千代に通信した、ということがどうして君に判るのだい」
 今までだまつて聞いていた検事が突然口を出した。
「それは例の、さだ子宛の脅迫状さ(ひろ子の話第三回参照)長女ひろ子に来ずに、次女のさだ子――このさだ子は後にもいうがおそらく駿三がよその女との間に作つたというちよつといわれのあるさだ子に、十月に脅迫状が来ている。これは決して偶然ではない。またもし里村千代ならこんなまねはしない。あの女の自発的な考えなら、三人の娘に一度によこす筈だ。何故里村千代が特に腹のちがう次女に脅迫状を送つたろう。云うまでもなくこれは林田の智慧なのだ。つまり林田が里村千代に特に次女にあててのみ脅迫状を送れ、と命じたのさ。ここに林田の殺人シンフォニーのまず第一絃が弾ぜられている。特に次女に来たということで、僕らは、すでに妙な疑いをもち、危く迷路にみちびかれるところだつたじやないか。用意周到な林田はわれわれのすべてが経験した如く、あの一家族のすべての者に嫌疑を向けさせている。これは無論、秋川家の状態がノルマルでないということによるけれど、あの男のすばらしい頭脳によるに非ずんばああはいかなかつたろうよ」
「では一体第一の殺人事件を彼はどう行つたろう」
 私は早く藤枝の説がききたくて堪らず思わずこう云つてしまつた。
「じやまず四月十七日の事件から話そう。この日の林田の活動振りはこうだ。あの日、秋川徳子は頭痛が烈しくて休んでいた。ひろ子は僕宛の手紙を書いてそれから、午後いつか小川君に話したような自動車のえらび方をやつて僕のオフィスに来た。(藤枝の観察第四回参照)ちようどあの午後秋川駿三が林田を訪問している。これはいつか小川君に云つた通りだ。駿三はそこで一体何を物語つたか、二人共今は死んでいるのでまるで判らないけれど、恐らく家庭の話をしたに相違ない。この時、徳子が頭痛で苦しんでいると駿三が告げたことだけは確かだ。
「そこで林田はチャンス来れりと思つたのだ。徳子の薬を西郷薬局に必ず注文する。それにチャンスがあつたら、手早く劇薬とすりかえようという魂胆さ」
「しかしあの時、駿三は、徳子の薬を、さだ子がすすめた事を知つていたかね。彼は全く知らなかつた、と供述したようだが」
 検事が云つた。
「うん、そうかも知れない。ただ林田が、ことによるとそういうことになる、西郷に薬をとりに行くことになりやしないか、と感じたんだ。無論さだ子がすすめたことは知らなかつたろうね。云うまでもないことだが、彼は何もあの日殺人を行う必要はなかつたんだ。ただチャンスさえあればいつでもやろうと考えていたのさ。駿三の物語がことによるといいチャンスが来るぞと思わしたにちがいない」
「それで駿三が帰るとすぐ出かけたわけかね」
 警部が口を入れた。
「いや、出かける前に面白いことをやつている。すなわちひろ子をおどかしたのだ。ひろ子は一体どこへ行つたか、これが知りたかつたのさ」
 私はこの時、あの日ひろ子の所へ来た脅迫状とあの電話を思い出した。
「では彼は如何にしてひろ子が僕のオフィスに来たということをつきとめたか」
 藤枝はおもむろに云つて、煙草の灰を落した。

      3

「これには二つの解決がある。一つは、ひろ子が朝僕にあてて手紙を書いていた所へ、さだ子が来た。さだ子に見られてはいかんというのでひろ子は不注意にもその封筒の上に吸取紙をかぶせたと云うことだ。ねえ小川君、そうだつたろう」(第一の悲劇第四回参照)
「うん、うん」
「これは全く犯罪学者ひろ子にも似合わぬうかつ千万な話だつた。吸取紙位、たしかに宛名を他人に暴露するものはないからな。そこでさだ子とひろ子が仲が悪くて、さだ子も姉の秘密を知りたがつていたとすれば、さだ子があとで姉の室に入り吸取紙を見て、父にそれを告げ、駿三が今度林田にそれを語つたとする。午後ひろ子が出かけたと云つたのでそこは林田のことだ。僕の名を知つているのだからひろ子が何か頼みに行つたと見たのだ。
「そこで、泉タクシーに電話をかけて念をおした。同時に彼はかねて探り出していた里村千代に電話で通信して、敷島ガレーヂにさぐりを入れさせ、たしかに僕のオフィスのそばに来た事をたしかめると、ひろ子の来ている頃に千代にあの妙な電話を僕の所にかけさせたのさ。里村千代は僕が何者だか判らないから、すぐ出た小川君を僕とまちがえてからかつたわけだよ。これが一つの考え方。もう一つの考え方は、さだ子は全然関係がなかつたという見方で、ひろ子が出かけたと知るやいきなり、彼が泉タクシーへ電話をかけ、次いで敷島ガレーヂへあたりをつけてきかせ、僕のオフィスの近所で車がとまつたときくとすぐに僕のことを思い出して、ハハァ、とひろ子の行先をたしかめたというのだ。ともかく妹が姉の部屋にはいつてそつと吸取紙を見るということはかなりはしたないことだから、さつきさだ子に詰問することは出来なかつたが、以上いずれにせよ、林田は間に里村千代を使つて、ひろ子の行先をたしかめたのさ。そこでいよいよお出かけという段取りなのだが、その前にもう一つあくどいまねをしている。カカルトコロニイルベカラズ云々というあの拙い文章の脅迫状ね。あれを御自身でタイプライターで打つて往来から僕のオフィスに使をよこしたんだよ。彼がことさら下手な文章を書いたのは里村千代らしく見せたのさ」
「ではあの脅迫状は千代が書いたのではなかつたのか」と私が思わず云つた。
「無論だよ。あればかりじやない。僕らが現認した脅迫状は全部林田がよこしたものだよ。千代が娘に打たしたのは十七日以前までのもので、これは皆駿三から林田の手に渡つている。
「で、いよいよ劇薬すりかえの一幕だ。林田はみずから昇汞を包み入れて出かけた。この薬は無論自分でもつていたものだろう。ちようど僕がうちに毒薬劇薬をもつているように、こういう職業の者には決して不思議でない所有品だ。林田はそれをもつてブラリと出かけた。何処へ出かけたか。云うまでもなく西郷薬局の附近だよ。彼はもしチャンスがあつたら何とかしようと思つていたのだ。これは度々くどく云うけれど大切な所だよ。彼の犯罪は何もあの日に限つたことじやないのだ。ここに彼の強味がある。彼はそうしておそらく秋川邸か薬局の附近に目立たぬように見張りをしていたのだ。
「するとここに彼の予算に入れてないことがおこつた。それは女中が薬局に入ると、彼は自分以外に妙な男がやはり女中を尾行しているということに気がついたのだね。云うまでもなくこれは早川辰吉という青年さ。辰吉と女中すなわち佐田やすは二人で公園のような所へ行つてひそひそと語り合つていたがまもなく去つた。彼はここでチャンスが来た、と感じた。林田はそこですぐ佐田やすを捕えたのだよ。

      4

「さて、この二人が今死んでしまつているから正確なことは判らないけれども、後に起つたことから大体こういう会見だつたと推理するのが正しいと思う。林田はいきなり佐田やすをおどかしたに違いない。今の男は一体何者か、とやつたんだね。ところでやすはこれに対して何と答えたろう。……ねえ、やすは一体辰吉をすいていたのかね、嫌つていたのかね」
「無論、嫌つていたさ。判り切つてるじやないか」と高橋警部が云う。
「いや、僕は必ずしもそうは思わない。むしろあの男に惚れてたんじやないか、と思うよ」
 と私が云つた。
「そこだて、この点が面白いのさ。御両所の説は共に正しく同時に正しくないのだ。かつて小川君にこの所が面白いのだと云つたことがある。やすは辰吉を嫌いながら好いていたんだよ」
「そんな事があるかしら」
 警部と私は異口同音に云つた。
「そうとも。世界中に夫婦は何組あるかしらぬが世界中の妻にきいて見給え、三分の一は夫を全く好いているし三分の一は全く嫌つている。残りの三分の一は好いて同時に嫌つているよ。いや、このパーセンテージはもつと多いかも知れない。
「辰吉の先の情婦岡田かつの取り調べによつて、辰吉が変態性慾者だということがわれわれには判つているはずだつたね。(第三の悲劇第十回参照)やすはつまりそこがいやだつたのだけれども、実は辰吉を好いてはいたんだよ。だからこそ、がまんできなくなるまで一緒に暮していたのだが、逃げる時別に男を作つて出たわけではなかつたんだ。そこで彼女が林田に訊かれて何と答えたかというと、これは無論『もとの夫だが嫌つて逃げて来たのに追いかけられている』位に云つたにちがいない。女というものはこの場合全然惚れていても、惚れている男だとは云いにくいものだ。殊にいやな一面がある以上、彼女はこの方面の感情だけを洩らしたにちがいない。無論変態性慾者などとは云わなかつたのだ。
「ところで林田の立場だ。彼はやすと話をしているうちに、時乗ずべしと感じたんだ。あの男のことだ。やすが口できらつている、と主張したにもかかわらず、彼女が辰吉に惚れている点を見ぬいてしまつた。そこでこの点が大変デリケートで同時に重要なんだが、いいかね、やすは口できらつていると云つたけれども実は惚れている。しかし、口できらつていると云つたのも嘘ではなかつたのだ。さすがの林田先生も僅か五分か十分の立話中、彼女の真意を観破し得なかつたのは無理もない。ここに彼の重大の失策がある。彼は『こいつ口であんなことを云つていながら実は惚れてるな』と思つちまつたんだ。実は口で云つたこともほんとだつたんだがね。そこでいよいよ時こそ至れりと感じたのさ。
「林田は、佐田やすがひそかに人目を憚つて情夫に会見し、かつ充分惚れているのを知ると(彼のこの観察が必ずしも正しくなかつたことは今いつた通りだが)よし、この機会を利用してやれ、と思い付いたのだ。彼はここで恋をしている女が如何に利用し易いかを考えたのだ。彼は、チャンスを逃がさず、やすのもつている薬を、自分のとすりかえたのだ」
「どうやつてかえたのだい」
 きいたのは検事である。
「事は極めて簡単に、しかして公然と行われた筈だ。『お前がそこにもつている薬には怪しい点があるからちよつと見せろ』位なことをいつて受け取り中を改める、そのとたんにもつていた劇薬とすりかえたのさ。やすの目の前で行われたつて巧にやれば判りつこはない。第一やすが目を離さず見ていたかどうかも甚だ疑わしいよ。

      5

「薬がどうしてもこの時にすりかえられていなければならぬと考える理由は、後のやすの態度でも判るけれども、それ以外に、この時より外にはあの薬がすりかえられることは不可能だつたと思う理由がある。というのはあの完全に貼り付けられている封緘紙[#「封緘紙」は底本では「封縅紙」]さ。あれは完全で中味がかわつていた。これは何を意味するか。すなわち、封緘紙[#「封緘紙」は底本では「封縅紙」]はまだ糊の乾き切らぬうちに一旦はがされ、そのまま又上から貼り直されたのである。すなわち、それは西郷薬局の主人が貼りつけてからいくらも時が経つていなかつたという証拠だ。」
「だつて、それじやあとでやすが誰かに林田のことを話すかも知れないじやないか。第一やすは林田を一体何だと思つたろう」
 私は疑わしい点と思われる所をはつきりときいて見た。
「やすは林田を何と思つたか判らない。無論林田はそれまでに秋川家に行つていないからやすとは初対面だつたろう。そこで彼はまず自分は探偵だとまともに名乗つて脅かしただろうと思う。君は偽刑事が世に横行することを知つてるだろう。丁度やすの場合のように人に見られて悪い所を見つかつた女は、こんな場合、相手が刑事とか探偵とか云えばすぐ信用してしまうものなんだよ。ことに林田は偽どころか立派な探偵だからすぐ信じるのは当然さ。そこで彼はいきなり彼女の情緒に訴えたのだ。ねえ、判るかい。『この薬はどうも怪しいが一旦お前に返しておく。ところであの男、すなわちお前の情夫はかねて怪しいとにらまれている者だ。もし万一のことがあればあの男にすぐ嫌疑がかかる。ひいてはお前の身にも悪いことがあるに違いない。だから俺がお前たちの為に、黙つていてやるから俺に会つたことも決して人に云つてはいかん』と充分おどかしておいたのだ。その夜、主人の妻が殺される。薬が毒にかわつていた。とすれば佐田やすは林田を疑わずしてまず辰吉を疑うのだ。彼女は、辰吉と二人で話していた間に帯の間の薬をとりかえられたかも知れぬと考えはじめたわけさ。手にもつて帰つたなんて大嘘だよ。あれは誰にもすりかえられなかつた、という意味だ。見給え、早川辰吉はちやんと『帯の間から薬を出して私に見せたのです』といつたのだつたか僕に自白したじやないか。(被疑者第五回参照)女が恋人を犯人と信じた場合、死んでも彼女は恋人を裏切るものじやない。林田はこの心理をちやんと知つていたんだ。実さい、あいつ程女性の心理をよくつかんでいた男はないよ。余りつかみすぎたためにその色彩が強くなつた恨みはあるがね。彼こそ全く、マクベス夫人が何故夫にダンカン王を殺させたか、ということをよく知つていた男なのだ。小川君にはかつて云つたことがあるが(殺人交響楽の項参照)犯罪には必ずその犯人の心理が出る。個性が出る。秋川殺人事件の中で見逃し難いのは恋する若き女性の心理を利用するというテーマがその第一楽章に出ているが、すぐつづいて第二楽章にも現れている。すなわちさだ子が……」
「まあそんな理窟はいいから、林田の犯行を説明したまえ」
 藤枝のペタンテイックなおしやべりに堪りかねて検事が口を出した。
「うん、そうさ。そこで十七日に林田は薬をすりかえてさつさと帰つてしまう。それからあと、秋川家で起つた事件は御承知の通りだ。偶然にも夜になつて母とさだ子が争いはじめて、林田の予期しなかつた位うまくことがはこんだ。あの夜の事についてはひろ子の供述が一番信頼出来ると思うよ。

      6

「彼女が何故あんなにおそくヴァン・ダインを読んでいたかは後に説明する。が、これは不思議なことだが、にもかかわらず事実だ。さだ子も、夜ねついた時の事は真実と云つている。それからあとの出来事は御承知の通りさ。
「十八日になつて林田はことがうまく行つたことを笹田執事の迎えで知つた。すると彼はダイ一カイノヒゲキハオコナワレタリ、云々という手紙を三通タイプライターで打つて持参し、同時に一方僕に『五月一日を警戒せよ』というあの手紙を郵送しておいて秋川邸にかけつけた。門の所で、執事をさきに中に行かせ、郵便受箱に、自分宛、僕宛、秋川駿三宛のさつきの脅迫状を投げこんだのだ。これで、あの日、僕らの所に脅迫状が来たわけが判つたろう。児戯にひとしきことだよ。(秋川一家の惨劇の項参照)ただ偶然にも彼はこの日二個のタイプライターを使つた。
「ところで十八日にかけつけた林田が何故すぐ僕らの所に来ず下で主人を調べはじめたか。これは今から思うと非常に重大な点なのだ。(悲劇を繞る人々第十六回参照)実は彼、何より先に佐田やすの様子が知りたかつたのだよ。つまり、自分のいつた言葉の効果を見極めるのみならず、自分の言葉を更に強調したんだ。林田はあの日、下でやすを訊問すると称して、また一そうおどかしたのだろう。十七日の彼の言葉の力で、われわれがいきなりやすを調べた時にやすは既に嘘をいつた。そこへもつて来て林田が又うんとおどかしたんだ。貴様がうつかりしたことをいえば早川という男が捕まるぞ。しかしお前がだまつていれば俺がかばつていてやる、というようにもちかけたのさ。君らは、早川辰吉の供述中四月二十日にやすに秋川邸の庭で会つた時、やすが辰吉に自分にたつた一人親切にしてくれる人があつて自分をかばつてくれるという言葉があつたのをはつきり思い出すだろう。(被疑者第八回参照)可哀想にやすは、林田が自分を利用しているとは思わず、ひたすら彼の親切に頼つていたのさ。思いは同じさだ子もまた……ということになるのだがこれは後の話だ。
「さて、林田の魔術ですつかりやすはおびえてしまつて、絶対に誰にも会わなかつたと主張していたことは諸君の御承知の通り。いや高橋さんや僕が手古摺つた通りだ。
「ところが、林田の魔術が段々ときかなくなる時が来たのだ。彼ははじめは女性の心理を捕えて安心していた。それ故にこそ五月一日に第二回の犯罪をやる気でいた。それが急に二十日に行われた。何故だろう。いうまでもなく、五月一日までは待てぬ事情が起つたのだ。どこかに彼の計算のまちがいがあつたというわけなんだ。(殺人交響楽第七回参照)それはすなわちやすの心理の動揺だ。元来、彼女は辰吉をただひたすらに恋してのみいたのでないこと、くどくも云つた通りだ。もし彼女が林田の信じた通り、絶対に辰吉に恋をしていたとすれば、ことは彼の思う通りとなり、五月一日まで犯罪がまたれていたはずなんだ。ところが、彼女は一方に於いて辰吉を嫌つていた。そこへもつて来て、警察だの僕だのにきびしく責められて来る。何もそれほど苦しんで、自分が犠牲になる必要はあるまい。いつそ、一思いに事実をぶちまけてしまおうか、とこう思いはじめたんだ。この心理の変化を、林田は早くも見てとつた。しまつた、これは自分の思つていたのと少し勝手がちがうぞ、こりやいかんとこう彼が決心したのが、丁度四月二十日の夜なんだ。いよいよ第二の悲劇の説明にとりかかるわけだが、今までの話はよく判つたろうね。佐田やすの心理はよくおぼえていてくれ給えよ」
 藤枝はこう云うとかたわらの茶を一口のんで、またうまそうに煙草の煙を天井に吹いた。

      7

「四月二十日の夜、僕と小川君とが秋川邸に行つた時、そしてピヤノの部屋に行つた時、あそこでは林田がやすを訊問していた。いやもつと正確に云えばやすを訊問している如く見えた。僕は当時無論真相を掴んでいたわけではなかつたが、ともかく、やすを落すのが切迫した必要条件だと感じていたのだ。だからこそ、あの日、林田がすでに来てやすを調べているときかされて、あわてたんだ。白状するがあの時は全く功名争いからあわてたんだよ。部屋にはいると、やすは泣き顔をしていた。林田は、実に剛情な女だと云つて怒つた顔をしていたが、それは実は咄嗟のごまかしで、彼はやすを訊問すると称してあの部屋でさし向いになり、厳重にくり返しくり返し十七日の午後の警告を説いたにちがいない。そうして彼女から、彼女があの夜、草笛の合図で辰吉に会うはずであることを探り出した。そこで彼はこう命じたのだ。合図がきこえたら誰にも知れぬように庭の隅に行つてそこから紙ツブテを投げろ、ポストの所で待つていろと書いてやれ、という命令だ。それがすんだ頃、ちようどわれわれがあの部屋にとび込んだんだよ」
「だつてあの時、林田は、君に、一つ君の腕で充分調べて見給え、何なら僕は遠慮しようかと云つたぜ。もし彼にえんりよさせて君がやすをほんとに白状させたらどうするつもりだろう」(第二の惨劇の項参照)
 私はあの時のことを思い出してたずねた。
「うん、林田には二つの自信があつたのだ。第一は、彼がさんざんおどかした直後、いくら僕が調べたつて彼女が真実を云いはしまいという自信。もう一つは、ああ云つてもまさか僕が、じや、えんりよしてくれ、と云うはずがないと考えたんだ。これは今までの例によつて彼には充分判つていた筈だ」
「それはいいとして一体林田はそこでどうしようとしたんだね」
 今度は検事が口を出す。
「そうさ。まず僕の考えは、やすを庭に出しておいて一刻も早く片付けてしまおうというわけだつたのだろう。おそらく、駿太郎殺害は偶然のチャンスをつかんだのにすぎない。すなわち、僕らがあの室から出て来るといきなりひろ子と駿太郎にぶつかつた。ひろ子は僕がつれて応接間に行く。駿太郎はピヤノの部屋でレコードをかけている。さだ子は二階の自分の部屋にいる。とこう判つているのだ。いいかい、これからがまた大切な点だよ。林田は草笛をきいているから――彼は何も気が付かぬふりをしていたが無論知つていた筈なんだ。――やすが庭の森の中に行つたことをすぐさとつた。一刻も早く彼女を片付けなければらならない、自分があとから森の中に行かねばならぬ。それには自分のアリバイを立てておくことが絶対に必要となつたのだ。そこで、彼は実に適当な人間を自分のアリバイの証人にみこんだんだよ。この点さすがは彼だと僕は感服していたのさ」
「君は無論さだ子のことを云つているのだろうが、では一体彼如何なる力をもつてさだ子に、アリバイを立てさせたんだろう」
 検事がつつこむ。
「そこだよ。さつきの僕のおしやべりを君はいやな顔をしてきいていたがね。やつぱり君にも判つていないじやないか。僕は云つたろう。第一楽章に恋する女性の心理を利用するというテーマがひびいていると同様に、第二楽章に同じテーマが現れているとね。つまり、この時、林田の用いた方法は、対佐田やすと同じテーマのヴァリエーションに過ぎないよ。彼は、さだ子の伊達に対する恋愛を利用したのさ。

      8

「判らないかい。ではまず事実の進行をさきへ物語ろう。林田はおそらく一度二階に上つたに相違ない。そうして多分彼の云つた通り、そこで彼はさだ子と伊達が話している所にぶつかつた。さだ子に用があるから、と云つて伊達にすぐに帰るように云い、林田はさだ子と共に部屋にはいつた。ここまでは林田の云う通りに違いない。(惨死体の項参照)ただそれからが大分違うのだ。一旦部屋にはいつた林田は、何とか用事にかこつけて、さだ子にはそこにいるように命じて素早く誰にも見られずに下りて来た。さだ子には多分伊達に用があるように云つたと思う。それから例のガラス戸の入口から庭にスリッパのまま外に出た。途端に、駿太郎に見付かつたんだ、無論林田を見て駿太郎が驚く筈はない。しかしこのままほつておけば林田は万事きゆうすだ。そこで窓の下から声をかけて面白いことがあるからいらつしやい位の事でさそい出したんだよ。その時レコードをそのままにしておくこと、ドアをちやんとしめて来ることを注意した。駿太郎はこの注意を忠実に守つたわけなのだ。駿太郎が出て来ると彼は東側にやすがいることを知つているので駿太郎をつれて西の側に行つた。森の中にはいるや否やいきなり石をとつて不意打を食わしたんだよ。駿太郎はウンともスンとも云わず昏倒する。これを見て彼はいなづまのようにやすの所にかけつけた。この時やすは早川辰吉に別れたばかりで多分林田が駿太郎をつれてこつちに来るのを見ていたかも知れない。しかし無論自分の危険に気がつかなかつた。駿太郎の殺されたのだつて暗い森の中だから気がつかない。林田が来たのでむしろ安心してヌッと顔を出した所を、いきなり首をしめたのだ。やすはもがきながら死んだわけだ。彼がレコードをかけつぱなしにし、ドアをしめさせておいたのはできるだけ長く駿太郎が部屋の中にいると思わせ、従つて犯罪の発覚をおくらせるつもりだつたのだろうと思う。ところが意外に駿太郎消失の発覚が早かつた。やすを殺した後で、彼は森の中ですぐ駿太郎の所にもどり死体に細工をしている間に、家の中でわれわれがさわぎ出したのさ。彼は非常な危険に身を曝露したわけだ。われわれが一体どつちに行くか見ていて、一同が玄関にまわつたと見るや否や彼は全速力で反対の側すなわち台所の方にまわりあそこから上つた。その時、土のついたスリッパを脱いで別なのにはきかえ、いそいで二階のさだ子の部屋に戻つた。でここで彼は重大なせりふを云つた。これはさつきさだ子にもきいてたしかめたのだが。僕の察した通りだ。『さつき伊達に思い出した用があつてあとから下に下りたが見付からない。それで戻ろうとして家の中から庭を見ると、伊達らしい怪しい男が庭の方に歩いて行く。あとをつけようとしたが暗くてわからぬので断念したが、どうも伊達のようすがおかしい。しかし、私はあなた方に好意をもつているのだからこれは秘密にしておいてあげる。またあなたも知らぬ振りをしていらつしやい』こういうことを云つたんだ。その途端、僕が庭から声をかけたので、彼は何くわぬ顔をして二階から顔を出したのさ。そうして今度はまつすぐに下りてまたスリッパのまま庭に出て来た。この騒ぎをきいて、さだ子はぎよつとする。もしや……伊達が……と疑う。この疑いはすでに第一回の事件の時に、さだ子の心には多少あつた。彼女が、十七日の夜、自分の書斎に伊達が一人でいたことをかくしていたのは無論、多少ともこの疑惑があつたからさ。今度の第二回目の事件でいよいよさだ子は伊達を疑い出した。ここで、順序がちよつととぶが、林田のアリバイをもうすこし説明しておく。

      9

「彼は、僕が死体を発見して庭からどなつた途端、二階のさだ子の部屋の窓から首を出している。これで外見では立派にアリバイが立つたわけだ。実は彼は一度危機に迫つている。それは小川君とひろ子が駿太郎の行方を探して、階段の中途まで上つて駿太郎の名を呼んだ時だ、(第二の惨劇第七回参照)もしあの時二人がほんとに二階に上つてさだ子の部屋まで行つたらそこに林田のいないことが判つたはずだからな。が、あの際二人が二階まで上らなかつたことは極く自然なことで手おちとは云えまい。さて林田は、惨劇がおこつた後、如何にしてさだ子に沈黙を守らせるべきか、ということを考えた。しかして彼は実にこれを巧みに遂行してしまつたんだ。君はおぼえているだろう。第二の惨劇の直後われわれは日本座敷に集つている秋川家の家族に会つた。
「その時僕はあの当時の家族の行動をきいた。『さだ子さんは、この騒ぎの時上の部屋にたしかにずつといたんだね』と僕がかなり無遠慮に質問をした。すると、その刹那さだ子が赤くなつて下を向いたことを君はおぼえているかい。しかしてその時、林田が『ああ、さだ子さんは、僕と話をしていた。さだ子さんの部屋でいろいろ質問をしていたんだよ』とあつさり答えたものだ。(惨死体第五回参照)ねえ、この一ことは非常に重大な役割を演じたのだぜ。林田はこの一言でさだ子のアリバイを証明してやつたと同時に実は自分のアリバイを証明し証人としてさだ子を暗にあげているわけなのだ。これに対してさだ子が『いいえ』というようなことは絶対にあり得ない。敏感な彼女は、この一ことで早くも、ははあ、ほんとに林田は自分達を庇つていてくれる。伊達のことを云い出して伊達が疑われれば無論自分も疑われるに違いない。それで林田は自分のアリバイを証明してくれているんだ。とこう考え、全く林田の術中に陷つてしまつたのだ。その効力は早速、すぐあらわれて、彼女は全然沈黙を守り、林田を疑うどころか全く信頼し、心ひそかに伊達を疑い出したのだ。そうして皆のようすが伊達を疑い出したらしいので、堪りかねて『皆さんは伊達さんを疑つていらつしやるのでしようか』ときいた。しかもこの質問は、彼女のすぐそばにいた僕に対して発せられず、一番はなれていた林田に向つてなされた。(藤枝の観察第二回参照)あの信頼や恐るべしだね。ちよつと嫉きたくなる位だつたよ」
 藤枝はちよつと冗談を云つて笑つた。
「ふん、君の説明で大体よく判つた。しかし林田ともあろう者がしたことにしては大分手ぬかりがあるね。君はさつき、レコードをかけつぱなしにさせたのは駿太郎の消失の発見を少しでも長びかせるつもりだつたと云つたのに、事実は予期に反して、逆な結果を生んだが、あんなのは林田にも似合わぬ手おちじやないか」
 高橋警部がきき出した。
「うん、それについてはかつて大凡の意味を小川君には云つてある。林田は第一の犯罪を完全に行つた。しかし第二の犯罪は派手にはやつたが、大分不完全に行つている。いや手ぬかりだらけだ。これは林田の心理上の問題だよ。(殺人交響楽の項参照)彼はやすの心理状態を誤解した。その結果、急に第二の殺人を行うことになつた。その必然の結果として第二の殺人は不用意だつたのだよ。君に云われるまでもなく、林田はもつと、とんでもない危機にぶつかつている。全く偶然に逃れたのだが彼は早川辰吉が庭の中にはいりこんで来るとは想像しなかつたのだ。僕の考えに従えば、彼は辰吉がやすの紙ツブテに従つてポストのかげにかくれていることを予期していたのだよ。

      10

「林田のプランはこうだつた筈だ。まず草笛のサインでやすが庭の暗い所に行く。それをあとから行つて、ただちに扼殺する。この間早川辰吉は馬鹿な顔をしてポストのかげにかくれて待つている。そのうち、家の中で事件が発覚すれば、ただちに周囲が警戒され、従つてこの際、辰吉が怪まれて捕まる。いや辰吉が捕まらないでもともかく、自分には危険が来ない。とこういうのが彼の計算だつたのだ。ところがこの計算が外れて辰吉が邸内に侵入した。それが為林田は、早川辰吉に、自分が庭に出る所を見られている。ただ辰吉が狼狽していたために彼をはつきり認めなかつただけで、実は林田に取つては、興廃この一挙にありという所だつたんだ。しかるに全く偶然にも彼はこの危険を脱出した。と同時に、危険が一変して安全となつちまつたんだ。見給え、高橋警部は、侵入した早川辰吉を今まで怪しんでいるじやないか。実際あのきわどい所をうまく逃れたのは全く林田の悪運の強い所だつたんだ。さてそこで、元に返つて林田の行動を話そう。彼はさだ子の部屋で、僕の呼ぶ声を聞くとあわてて飛び出して来て、二つの死体を調べはじめた。それから警部刑事が来てからずつとガラス戸の入口からはいつて行つた。この時、警察の人々は庭、僕と小川君は裏門の方を廻つていた。林田は誰にも見られぬようにピヤノの部屋にはいる。はいつて見ると幸にも庭に面した窓のブラインドがかかつていて外から中が見られぬようになつている。これは、ひろ子が何の意味もなくやつたことだつたが(藤枝の観察第三回参照)彼にとつては中々有意義だつた。彼はそこでパデレヴスキーのレコードを取つてハンカチか何かで、はじめの方を極く僅かきれいに拭い、そこまでしか針が進んでいなかつたように見せた。だからあとになつてからあのレコードから僕と林田の指紋が出て来たはずなんだよ。(殺人交響楽の項参照)そうしておいて、日本座敷に来り、今云つたさだ子のためにアリバイを立証して、自身を守つた後、ひろ子に土のついたスリッパの話をして(藤枝の観察第四回参照)さつさと秋川邸を出て行つたのだ。どうだい。これで、第二の惨劇の説明ができたつもりなんだが」
 プカリと煙を吹いて藤枝は一座を見廻した。
「うん、よく判つた。それにしても腑におちない所が三つある。第一に何故林田は駿太郎の死体にあんな細工を加えたか。第二、レコードのトリックは何を意味するのか。第三、何のために一見自分に不利に見えるスリッパのことをひろ子に敢て告げたか、この三つが判らない」
 と検事がきく。
「成程。君の質問の第一と第二とは共に同じテーマの上に行われたんだ。つまりありや、林田が、われわれに時間的の錯覚をおこさせようとしたのさ。もつと進んで云えば、かくの如き短時間の中に家の中にいる者があんな犯罪は行えるものではない。という結論に達せしめようとしたんだ。僕小川君があの部屋にとび込んだ時に、レコードははじまつてから少くも一分二十秒廻転したことが実験によつて判つた。しかるに林田のトリックに従うと、あれが僅か、二十四秒しかかかつていないことになつている。(殺人交響楽第十一回参照)自惚れだけれども、林田は自分の敵の中に、この藤枝真太郎を計算していたに相違ない。しかして彼は藤枝真太郎は必ずレコードを注意してその時までの時間を計算するということを察していたに違いない。そこで林田のトリックに引つかかると、少くも僕らは、一分間という時間を誤算するわけになるのだつた。

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「一分間といえば僅かだけれどもあの際の一分間は甚だ重大である。結局、あれつぱかりの僅かの間に、家の中にいる人間が庭に出て駿太郎にあんな残酷な真似をして、何くわぬ顔して家の中に戻つてくるなんてことは全く不可能だという信念をおこさせることになるのだ。僕が林田のこの巧妙なトリックに引つかからなかつたのは、全く西洋音楽趣味のおかげだよ。僕は今まで探偵には音楽の趣味は大して必要でないと思つていたがそうでもないな。『コプラの燭台』という探偵小説の中に、ワルトシュタインソナタのことが出ていたが、あんなのは小説だと思つて馬鹿にしてたけれど、決してそうではない。駿太郎に対しては、仇の片割れで無論憎念も手伝つていてあんな残酷な真似をしたんだろうが、主たる目的は今の時間の点さ。つまり彼は非常に巧みに、素早く失神している駿太郎をはだかにして縛つたのだ。斯様なスマートさは俺でなけりやもつまい、と彼は心ひそかに笑つていたわけさ。次にスリッパの話は君の云うように如何にも彼としては失敗だつた。あれは君の云う通り云わなかつた方がいい。ところが君、林田はあれだけの天才犯人なるにもかかわらず、やはり、犯罪人の愚挙をここでやつてるから面白い。彼は自分が家の中から出て、又はいつたものだから、僕がいきなり家の中の人を疑うと思つたんだね。従つてスリッパを一つ一つ調べるとこう考えたのだよ。彼は僕の頭脳をはかるのに二度失敗している。一回は馬鹿にしすぎた。一回は買いかぶり過ぎたんだ。レコードのトリックね。あれは少々僕の耳を無視した話さね。自分に音楽が判らないからと云つて僕にまで判らぬと思われちや困るよ。ショパンの葬送行進曲位は僕だつて知つている。レコードを調べなくたつてちやんと耳できいているんだ。所がスリッパの点では少々買被られちやつたよ。成程、僕としてはあの時すぐスリッパを調べるのが賢明だつたかも知れぬ。しかし探偵小説に出て来る名探偵でない限り、そんなに頭が働くものではない。君も知つてる通り、あのスリッパの件は全く偶然のきつかけで発見したんだ。(惨死体第五回参照)林田先生はこの偶然を知らなかつたのだよ」
「そうか。それでまず第二の惨劇はわかつた気がする」
 私がこう云つた時、検事も警部も同感という顔をした。
「では次に第三の事件にとりかかろう。第三の事件は四月二十五日の夕方行われた。二十日から五日ある。此の間の秋川邸の人々の心の動きがまた中々興味があるけれどその辺は長くなるからとばすとして当日の模様から説明する。御承知の通り、あの頃、僕は熱を出して床についていたため、実際自分で前後の事情を見ていたわけではないが、幸い小川君が非常に詳しくその有様をおぼえていてくれたので大いに助かつた。
「あの日、林田、ひろ子、初江、小川がドライヴをした。この日、初江の胃が悪かつたという事実を木沢医師が、小川、林田の前ではつきりいつている。林田はこれをきいて又チャンスあらば、と心ひそかに考えたのだ。ドライヴは初江の胃痛の為きり上げられて、夕方四時半に四人とも帰宅した。いつも出て来る筈の笹田が出て来なかつたので、笹田はどうしたのかと林田が先ずきいた。(第三の悲劇第十二回参照)これはこの家の中で犯罪を行う以上、家の中の人々の動静を知る必要があつたからだ。ところが林田の為には幸いにも笹田はその日の午後からずつといなくなつていることが判つた。ここでいよいよ彼は決心を堅めたのだろう。

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「さてここでまた奥山君にはいやがられるが、犯罪人の個性の具体的の表現に就いて一瞥を与えて見る。さきにも云つた通りこの殺人交響楽の第一テーマが『恋する女性の心理を利用する』というものとすれば、第二の主題は『劇薬すりかえ』なんだ。第一の殺人で鮮かにこれが行われたが、林田は第三楽章でまた同じテーマのヴァリエーションを弾じている。予め心得ていてもらいたいのは林田のような男は常にその身辺に毒薬か劇薬をもつていたと考えていいということである。では彼は如何なるチャンスにこれを犠牲者にのますべきか。初江の胃がわるい、ということを知つてまず林田の心の中には犠牲者のあてがついた。勿論相手は秋川駿三以外の者ならば誰でもいい、駿三だけはできるだけ苦しめたいから、最後に殺すとして、他の家族は誰からやつつけてもいいのだが、ひろ子とさだ子を駿三の次には、あとに控えておきたい。というのは、この二人には出来るだけ嫌疑を蒙らしておかなければならぬ。見給え、その結果、彼の考えはまんまと図に当り、ひろ子はさだ子と伊達を疑い(ひろ子の推理の項参照)また警部はひろ子を疑つていた。(警部の論理の項参照)いや、彼らばかりではない、林田の創作は、もしこれが小説ならば、読者は恐らく、一応ひろ子、さだ子を疑つたに相違ないのだ。この点から云つても、初江が次の被害者になつた理由が理解出来る。そこでもとに戻つて殺人の順序をいうと、四時半に四人が戻つて来た。そこへ木沢氏がやつて来て、ポケットから散薬を取り出し、皆の前で――すなわち林田の面前で『じやこれを夕食前三十分にのんで下さい。夕食は六時ですか。じや、五時半位に一つのんで下さい』と云つた。(風呂場の花嫁第一回参照)これを林田はちやんときいていたのだ。つまり五時半に初江という人が木沢氏からもらつた薬を呑む、ということをよく心におぼえておいたに相違ない。ところで木沢氏が秋川邸を引取ると、同時に、林田が『ちよつと用があるんです、すぐ戻つて来ますよ』といつて一緒に出て行つた筈だそうですね。木沢さん」(風呂場の花嫁第一回参照)
 今まで黙つてきいていた木沢氏はこの突然の質問にいささか面喰つたようだつたが、すぐ当時を思い出したと見え、はつきり答えた。
「そうでした。私がお邸を出ると一緒に林田さんも出て来ましたよ」
「どこまで一緒においででしたか」
「何、すぐ別れてしまつたんです。私はブラブラ歩いて帰りましたが、林田さんは流して来た円タクを掴えるとどこかに行きましたよ」
「さあそこだ。林田は一体どこへ行つたか」
 藤枝はそういつて一座を見渡した。
「電話だ。電話のある所だ。なるべく人に聞かれないような工合にできている電話さ」
 答えたのは検事だつた。
「そうだ。君の云う通りだ」
「藤枝君、今君に云われてやつと考えついたんだよ。林田はどこからか、里村千代に電話をかけて何か云わせたんだ。それでほら、初江に怪しい電話がかかつて来たわけだね」(風呂場の花嫁第一回参照)
「そうさ。その通り。五時二十分頃に、初江をよび出して彼女に次のように警告せよと云つたんだ。『木沢氏の薬をのんではいけない、危険だから。必ずのんではいけない』と。これは林田があとで検事や警部に話した通りだ。(警部の論理第三回参照)ここまでは林田はほんとうのことを云つてる。しかし彼が千代につけた智慧はこれだけではなかつたんだ。まだあとがある。『ひろ子さんの机の上に一包薬がおいてあるがあれをおのみなさい』と、これは一つの仮説だがたとえばこんな事を云つたのだろうよ。

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「そこで僕は、かねて林田の所持して懐中していた薬にはいろいろ種類があつたと考えるんだ。もし、初江が偶然にも、あの時風呂にはいらなかつたら、林田は第一の事件の如く今云つたような電話を利用して、初江に昇汞か何かを呑ませたろうと思う。ひろ子はずつと下にいたから、その間にそつと薬を机の上におけたに違いない。ところが、ひろ子と小川君がしやべり、さだ子は伊達と会つていたために、初江が偶然五時半、すなわち彼女が薬をのむ時間に、風呂にはいることになつたんだ。ここに於いて、林田はいかにも林田らしい方法を考えついた、彼はできるだけ派手に犯罪を行おうと決心した。初江はいよいよ風呂にはいることになつたが、この時不安なのでもう一度林田に相談した。この時林田は初江に『それは電話の忠告通りにした方がよろしい。そしてその薬は風呂の中ですぐのんだ方がいいでしよう』と云つたのだ。絶対に林田を信頼している初江はすぐこのトリックにひつかかつて、ひろ子の室においてあつたかどこにおいてあつたか知らぬがともかく、林田のもつて来たヴェロナールを風呂場にもつて行つてすぐ湯の中でのんだんだよ。これが五時半のこと。そこで僕は犯行はおそらく六時前後におこなわれたのだろうと思うのだ。というのは、ヴェロナールは風呂の中でのめば普通よりもききめが早い。それにしても十五分や二十分かからなければ、前後を忘れて眠つてしまうことにはならないと思う。だから林田は初江が風呂の中でヴェロナールをのんでから誰にも知れずに風呂場にとび込むチャンスをまつていたわけなのだ。ところで六時という時を中心にして見ると、人物の出入りはこうだ。伊達とさだ子が応接間にやつて来た。伊達を送つてさだ子と林田が外に出た。まもなく二人で戻つて来ている。この間には犯行は断じて行われていない。肝心なのはその直後だよ。小川君とひろ子が話していて、ひろ子がさだ子を追いやつた時こそまさに林田にとつてはチャンスだつたんだ。さだ子も二階に上ろうとする。林田は無論巧みに同意する。(風呂場の花嫁第四回参照)そうして二人が二階に上つて行つたとこう君らは思つている。僕もはじめはそうかと思つた。ところが事実はそうではない。二人二階に上つたことは上つた。しかし林田は、巧みにさだ子をさきへ室にやつて、自分がおくれた。この点についてはさだ子が少しも林田を疑つていないのみか、また林田が例の手を用いてさだ子を沈黙さしたのだ。さつきその点をさだ子にきくとやつと語つたがやはり女性の心理利用だよ。林田はさだ子をさきに上らせると『おや、伊達君が戻つて来たようだ。僕会つて来ます。あなたは先へ行つてらつしやい』と云つたそうだ。そして六、七分たつと上つて来て『伊達が用もないのに廊下の所をブラブラしている。変な調子だつた』といぶかしげに語つたそうだ。で、あとで初江が死ぬと又々林田はさだ子に伊達を疑わせて沈黙させてしまつたのだ」
「ねえ藤枝君、君はしきりと女性心理云々というけれどね。伊達とさだ子は毎日会つてるんだぜ。さだ子だつて伊達を疑えば黙つてる筈はないからきつと伊達にはつきりと訊ねるよ。そうすれば、林田の嘘はすぐばれるにきまつてるじやないか」
 今度は警部がきいた。
「じや君にはまだほんとに恋をしている女性の気もちが判らないんだ。さだ子のような立場に立つものは伊達を愛してはいるが、こんなことでは林田のような奴につつかれるとかえつて林田の方を信じて恋人を疑うものだぜ。伊達と林田の云うことがちがえば、伊達の方をますます怪しむのだよ、怪しんだからつてやはり惚れてはいるがね。女が『私はあなたを愛しています』ということは『私はあなたを信じています』というのとは大いに違うんだよ。いや愛すればこそ、ますます疑うというのが女の気もちなんだ。

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「もし恋と信頼とが平行するか比例するものならば、世にこれほど幸福なことはない。しかし恋は多くの場合、疑いを生むものだ」
「だつて男を絶対に恋して信じている女があるじやないか」
「それは、恋の範囲に於いてのみ男を信じるのだ。つまり自分以外の女を愛さぬということを信じるのみで、その他の Norm を犯さぬということを信ずるのではない。又実際世の中には、恋する女の為に犯罪を行う青年が多いじやないか。君だつて恋女房のために窃盗をした男をずい分知つてるじやないか。だからそれだけ男をその方面で疑つてもいいわけじやないかね」
「藤枝君から恋愛論をきかされるとは思わなかつたね。まあその恋の気持は判つたとして林田の犯行の方はどうなつたんだい」
 検事が口を出した。
「すなわち、さだ子が一人で二階にいる五、六分の間に敢行されたのさ。彼はヴェロナールがきき目をあらわした時分にそつと風呂場にはいつた。彼はまず外から声をかけたろう。これはヴェロナールのきき目がもし未だ現れておらぬといけないからだ。中から返事がない。そこでそつと戸をあけて見ると、ヴェロナールは全く効力を表わして初江は湯につかつたままぐつすりと眠つている。まさにチャンスだ。無論林田がはいつて行こうが誰がはいつて行こうが全く気のつかぬ状態である。ここでわがジョセフ・スミス・メード・イン・ジャパンはあの The Counsel the Crown のボドキン氏の論告にあつた通りのまねをする。いきなり初江の両脚を両手で引上げたのだ。事は一瞬にして決した。(風呂場の花嫁第八回参照)彼はそれから何くわぬ顔をして二階に上り、さつき云つたようなことをさだ子にしやべつたという次第。それから、ひろ子が初江の死体を発見して大騒ぎとなつた。小川君と林田が風呂場に行く。小川君が僕に電話をかけている間に林田はヴェロナールのパラフィン紙をかくして、健胃剤を流してそのパラフィン紙を浴場でひろつたと称して警察に出し、初江の着衣の中から残りの健胃剤を探し出したということになる。どうだね。これで、第三回の悲劇の説明はついたつもりだが……」
 藤枝はいささか得意の面持で一座を見渡した。
「ねえ君、あの日僕が君と一緒に君の家に行つたら『これで僕は今までの考え方を根本的に改めなければならないかも知れん』と云つていたがありやどういうわけだい」(ひろ子の推理第一回参照)
 私は思い出して聞いて見た。
「うん、あれか。あれはあの日一日だけ僕の頭にあつた考えなんだ。これは後にいうが、僕はあの日まで、犯人は男だと確信していたんだ。ところが、あの犯罪は断じて女の犯罪だと思つたんだ。あの時云つた通りのわけでね。(同上参照)しかし、翌二十六日に、初江の胃から健胃剤のかわりにヴェロナールが発見されたときいて僕は再び元のテオリーに戻つたんだ。だつてあんなものをのまされていては、女でなくたつて男だつて初江のそばに近づけたはずだからね。だから僕は非常な事実だと云つたんだよ」(警部の論理第三回参照)
「それにしても林田がわざわざそんな危険なスミスのまねなんかしたのは妙だね。第一回の時のようにだまつて昇汞でものませた方がたしかだつたろうがね」私がきいた。
「君は犯罪人のもつ虚栄心を知らないかい。彼には僕らがめんくらつて五里霧中でいるのが面白かつたんだよ。すばらしい殺人がやつて見たかつたのさ」

   運命の相似三角形

      1

 藤枝はちよつと黙つて茶をぐつと呑みほしたがすぐ続けてしやべりはじめた。
「さて次は五月一日の事件、第四の悲劇の説明に取りかかるはずなんだが、ここで僕は順序として何故林田があんな犯罪を行つたか。すなわち今回の連続した殺人の動機を説明しようと思う」
「そうそう、それだ。まずそれを充分に承りたいものだね」
 奥山検事が朝日をプカリプカリとふかしながら、勢いのいい声で云つた。
「恐ろしい運命のいたずらだ。宿命の三角形だ。幾世の前からさだめられた深刻な運命だ。と云えばいささか文学的になるが、科学的に説明すれば、僕らは今度の惨劇から遺伝というものの強さをしみじみと感じたのだよ。人間に自由意志なんてものはないよ。僕らはまさにデテルミニストに左袒しなければならぬ。シェークスピヤは人間に自由意志のないことをその戯曲で示した。わが大近松もまた……」
「というと、林田の父が犯罪者だつたとでもいうのかい」
 危く藤枝がまた脱線しかけたので検事が我慢しきれずに口を出した。
「そうではない。そんな意味ではない。被害者の側だよ。林田家対秋川家の問題なのさ。ねえ、僕らは秋川駿三という名を余りに考え過ぎていた。秋川駿三の血統ということを少々無視しすぎていたのだ。この問題が秋川対林田である限り、真理は永久に表面に浮んでは来ないよ。君らは秋川駿三が養子であることを御承知の筈だ。小川君、君はいつか僕のオフィスで秋川駿三が何という家から秋川家に入つたか、ということを興信録で読んだはずだつたね」
 こういわれて私ははじめてそのことを思い出したのである。(美しき依頼人第六回参照)
「秋川駿三は二十三才の時、徳子と結婚し、同時に秋川の姓を名乗つた。その以前、彼は山田駿三と云つていたのだ。(同上参照)事は今から約四十年以前、中国地方のある一寒村に於ける二つの家の悪因縁話からはじまる。ああ、君らは、あの伊達、秋川両家の話を思い出したのだね。そうだ。ちようどそれと同じようなこと、いや全く同じことが今から四十年前、伊達、秋川両家の事件から更に遡ること二十年前に、行われたのだ。所は中国の一寒村、二つの家というのは林田文次すなわち英三の父の一家と、山田信之助すなわち駿三の父の一家との間に、恐ろしい運命がいたずらをしたのだよ。宿命の三角形が形づくられたのだ。山田信之助という男は、たけし、駿三という八才と五才になる男子まであるにかかわらず、林田文次の妻満子と関係してしまつたのだ。いいか。ここでも姦通劇が行われたのだぜ。そうして、二十年後の伊達捷平と同じく、この林田文次という男は当時病気で床についていたために、彼は妻の不貞を知りながらも、悲憤の涙を呑んでそれを見ていなければならなかつたのだ。しかしその結果は伊達の場合とは多少趣きをことにしている。満子が先に死んだ。自殺だと伝えられているが、あるいは夫文次にひそかに殺されたのかも知れない。何分四十年以前のでき事なので、この辺の調査は充分にできない。この点は伊達捷平の場合よりずつと調べが困難である。自殺とすれば彼女は、伊達かよ子と同じく自分の罪を悔いたのであろう。そこで残された文次はどうしたか。彼は今云つた通り当時から病身だつた。そうして妻が死んでから七年生きていたけれどもその間妻と山田信之助とを呪いつづけた。満子が死んだ時、二人の間には一才になる子があつた。これがすなわち林田英三である。

      2

「秋川一家にかかる殺人事件を惹起した呪いは決して二十年前の伊達捷平の呪いではない。
「彼の呪いは里村千代を通じて脅迫状となつて表われた。しかし、この多くの生命を犠牲にした呪詛は実に四十年以前の林田文次が山田信之助に対するものだつたのだよ。彼は妻に死なれ、もしくは妻を殺してから、一才になる英三が八才になるまで、山田信之助を呪いつづけた。すなわち自分が死ぬまで呪いつづけたのだ。幼き英三は、哀れにも幼年時代を悪魔のような呪いをふきこまれ通して育つたのだ。彼にはだから天が下に山田信之助程憎いものはなかつたのだよ」
 藤枝はチラリと私の方を見たが、私はこの時、昨日の林田と藤枝の話を思い出したのである。(最終の悲劇第四回参照)
「文次が死ぬ時に、永久に山田信之助及びその一族を呪えという遺書を残したかどうか遺憾ながら判らない。しかしそういう遺書を残すということは、あり得ることでもあり又ありそうなことだね。孤児になつた英三は親戚の手で育てられ、一方山田一家は、気もちが悪くなつたのか、まもなく岡山県に移つてしまつたんだ。英三は無事に育つて学校に入りやがて卒業した。彼はその間中、心では山田一家を呪つていたかも知れないが、ともかく自分の人生のコースをわり合にしつかりと進んで行つた。封建時代の息子なら父の仇を討つのに一生を捧げたかも知れぬが、明治に生れた彼にはそんな気もちはなかつたのだろう。しかし幼時に吹きこまれた呪いは、根強く彼の頭の中で生長して行つた。
「ところが、山田信之助は林田文次が死んでから八年程たつて病死している。当時英三は十六、七だから、彼の手がのびたわけではない。ここにおいて、恨みはその子のたけしと駿三にうつつたわけだ。ところが健は、結婚して間もなく僅か二十七で一人の息子を残して死んでしまつている。これは正しく病死だ。健は駿三より三つ上だつたから健が死んだ時に駿三は二十四才、しかして英三はそれより四つ下だから二十才である。健の残した小太郎という子はどうしたかというと、十二才の時に、近所に蝉を取りに行くと云つて出たまま行方不明となり、間もなく古池の中からその死体が出たが、他殺の嫌疑なく、誤つて足を踏みはずして死んだものと認定された。何分中国の一寒村での出来事だから誰にも大した注意をひかれずにすんでしまつた。しかし今から思うと、当時私立大学を出た頃だつたからあるいは彼の手がのびたのかも判らぬ。が、これは永久に解けぬ謎さ。そこでいよいよ英三の仇は秋川家に入つた駿三及びその家族ということになつたわけだ」
「そんなら、何故もつと早く仇討に着手しなかつたのかね。まるで探偵小説みたいじやないか。ある一家を呪う犯罪人は、探偵小説の中でも一番まずい時にいつも出て来るじやないか。シャーロック・ホームズだの、フィロ・ヴァンスなんかが登場してからやり出すからいけないんだよ。林田英三だつて君のような名探偵が出て来る前にやつつけりやよかつたのに」
 検事が好い質問をした。これは私もこの時、胸にいだいた疑問であつた。
「名探偵はおそれ入るね。シャーロック・ホームズやフィロ・ヴァンスの場合はいざ知らず、我が林田英三君は現れるにはちやんと現れるべき時をえらんでいるよ。決してその点は不用意じやないよ」
「というのは、例の脅迫状の一件かい」
「そうさ。これには林田英三の心理に立ち入つて見る必要があるんだ。彼は、学校を無事に出て名探偵になつて安楽にくらしている。何もすきこのんでこんなさわぎをする必要はなかつたんだ。では何故こんなまねをはじめたか。

      3

「直接の動機は今も云つたように里村千代の脅迫状だつたんだ。これを受け取つた駿三が、この世の中でたつた一人の頼りとして林田をえらんだ。これは無論、駿三が、私立探偵として林田の功績と声名をよく知つていたからだ。そこで駿三は林田だけには過去の罪を悉く述べたのだ。駿三の白状を聞いた林田は運命の相似形をしばらく驚嘆して見つめていたにちがいない。しかも頼つて来た相手は、四十年前の宿命の三角形の一角にいるべき山田家の息子だ。この三角形の相似がどれほど彼をおびやかしたかは蓋し想像するに難くない。幼少の頃、深くほりこまれた呪いが、成人した林田の頭の中で再び息をしはじめる。彼は何者だ。私立探偵である。犯罪人を追うことによつて、犯罪を研究することによつて、彼は完全なクリミノローグになつている。しかも、自分の過去をめぐる宿命の三角形の中に、相似形が又ここに一つあらわれている。もし犯罪が行われればフレッシュな内側の三角形が無論問題になるべきで、それがため林田が関係している四十年前の三角形は巧みにかげにかくれていることが出来る。
「永年の間、眠つていた呪いが頭をもたげはじめた。加うるに犯罪学者としての彼の自信が彼をけしかけた。いざという場合にはことごとく嫌疑は脅迫状の送り主にかかる。更に加うるに秋川家のあのふしぎな家庭内の空気がある。時正に乗ずべしというわけさ」
「それにしても藤枝君、君が登場する前にやらなかつたのは全く失策だつたね」と検事。
「そりや結果から見ての話さ。むしろ僕が登場してから彼はほん気になり出したのかも知れないよ。彼は今まで僕の好敵手だつた。彼は相手にとつて不足のないと思われる僕が登場したからこそ一層腕を振いはじめたという風に考えてもいいと思うよ」
「成程ねえ、僕じや不足だつたのかね」
 警部がちよいといやみらしく云つたがすぐ話をかえて、
「相似三角形か。成程。して見るとあの脅迫状の赤い三角形はそのシンボルだつたのかね」
「そうだ。無論千代はただあんな印をつけたのさ。しかし林田先生の三角はもつと深刻な意味をもつていると思つていい。よく探偵小説に三角形の脅迫の印というのが出て来るが、一体なら何も三角形でなくても、四角でも五角でもいいわけなんだ。しかるに、この秋川家の場合には特に三角形が意味をなしたわけだ。林田先生は犯罪人として天才であると同時に中々詩人だね。かなり茶気満ちやきまんな所がある」
「では、秋川駿三は、君の所謂新しき三角形のみを知つていて古い四十年前のその相似形を知らなかつたんだね」とこれは私。
「そうだよ。可哀相に。だからかりに彼が林田に殺されたとしても、何故林田に殺されなければならないか、ということはわからなかつたはずだ」
かりに殺されたとする?」
 警部が驚いて云つた。
「かりじやない、現に殺されたじやないか」
 今度は私がきいた。
「うん、君らは第四の事件もやはり林田のやつたことだと思つているのかい」
「林田でないとすれば犯人は一体誰だ。伊達かい」
 検事がおどろいてきく。
あれには犯人がないんだよあれは殺人事件ではないよ。では諸君、五月一日の事件の説明にとりかかろうか」

      4

「ねえ小川君、あの日、すなわち五月一日にわれわれが駿三の死体を見た時、僕はすぐ君に林田の家に電話をかけて貰つたはずだね」(第四の惨劇第十回参照)
「うん、そうだつた」
「そしたら確かに林田は自分で電話に出たろう」
「うん、うん」
「ところで林田の家と秋川家との距離は、自動車をかなり早くとばしても相当な時間がかかる。かりに駿三があの部屋にはいつた途端に殺されたとしてもわれわれがあそこに行くまで五、六分しかたつていない。この間に林田が、犯行を行つてすぐ家に帰つているという事は絶対に不可能だ」
「成程」
「君はあの時僕が何故、林田をいきなりよんだか、その理由が判るかい」
 私には、ただ藤枝がいつにもなく大あわてにあわてた光景しか思い出せなかつた。
「僕は第三の事件の時、犯人は林田だと確信したんだ。これに就いては今いうが、ともかく確信した。ところが駿三がやられた。君にきかせて見るとちやんと彼はうちにいる。驚かざるを得ないじやないか。さては今までの確信は誤りだつたか、と思つて僕はほんとにあの時あわてたんだよ」
「そうだつたのか。しかしあの時林田もあわてていたぜ」
「それさ。死体解剖の結果と、あの時の林田のあわて方で再び僕は自分の推理が正しかつたという確信をとりかえしたんだ。林田だつて驚くのは当然さ。彼のプログラムに従えば駿三を最後にやつつけるつもりだつたのだ。ところがその駿三が彼が家にいた間に、誰かに殺されてしまつた。しかも、それが偶然にも彼の予言した五月一日に行われたのだ。(秋川一家と惨劇第四回参照)林田たるもの驚かざるを得ない。あわてざるを得ないじやないか。(第四の惨劇第十二回、意外な事実第一回参照)では一体駿三は誰に殺されたか、曰く、伊達捷平の幽霊にだよ。君らはあの時駿三の心理状態をはつきり知つていなければいかんよ。秋川駿三は今君にも云つたように、自分の作つた三角形だけしか知らない。そこで自分は伊達一家に永久に恨まれていると考えている。里村千代の存在ははつきり知らない。林田は彼女をつきとめているけれど無論沈黙している。そこで彼はすまないすまないと思いながら伊達捷平の幽霊にばかり悩まされていたんだ。加うるに四月十七日以来ひきつづきおこる惨劇で神経は極度に鋭くなり、心臓も弱つていたんだ。ねえ木沢さん、そうでしよう」
「全くその通りです」
「彼が実に気の小さい正直者だということは判つているが、特にこれを証拠立てるのはあの鏡の中の遺書さ、僕はまさか彼自身あれを保存しておくとは思わなかつたよ。(第四の惨劇第八回参照)きつと伊達に見せるつもりで保存しておいたのだろうが、それにしても外に預けておけばいい。彼は、自分の家において、いつも自分の良心のいいわけをしていたんだろう。まつたく正直者さ。そこでそういう気持でいた彼が、二階から下りて来て、鏡の前に立つた。あけようとする途端、鏡に伊達捷平がうつつたんだ」
「え? 伊達捷平が?」
 われわれは一度に驚きの声を発した。
「もつと正しく云えば、伊達捷平の幽霊が鏡の中にあらわれたんだよ」
 私には一体彼が何を云つてるのかわからなかつた。
「君らはあの日の天候をおぼえているだろう。それから、非常に暗かつたという伊達正男の供述を知つているだろうね」(第四の慘劇第三回、第八回及び最終の悲劇参照)

      5

「うん、よくおぼえているよ」
 と警部。
「それから、ちようどあの日の前後伊達正男が病床にいて、ひげもあたらず、ひどく老けて見えた事実を思い出すだろう、ねえ、これらの事実を思い出して綜合して見給え」
 しかし私にはまだ判らぬ。
「つまりこうさ、駿三が鏡の前でその戸をあけようとした途端に、伊達正男が窓から上半身をぬつと出したんだ。ちようどそれが、まつすぐ前の鏡にうつつた。あの日は暗くてはつきりものがうつらぬ。そこへもつて来て伊達がいつもよりずつとやつれてふけて見えたのだ。ねえ、伊達正男は誰かによく似ていたんだよ。判つたろう」
 そうか、では駿三はあの時、鏡にうつつた伊達正男の姿をチラと見て、父の捷平の顔とまちがえたのだ。そして恐怖の余り心臓麻痺を起してそのまま倒れてしまつたのだつたか。
「ああいう例は決してないことはない。あの恐ろしい死顔も、これで充分説明が出来るはずだ」
「成程、では伊達正男はほんとうのことを云つたのだね」
と警部が云う。
「そうだ。伊達正男の供述は徹頭徹尾信じていいだろうと思う。いや、彼のばかりではない。早川辰吉の供述もほんとうだ。だから他の点に就いてはともかくも、殺人罪ということからはこの二人を疑わないでほしいね。これは僕からはつきりお願いしておく。……そうだ、僕はここで自分の手柄話に長広舌をふるつてばかりいてはいけない。高橋さん、早速伊達と早川とをもう一度調べて下さい。殺人の嫌疑はすぐ晴れますよ。早川に対する邸宅侵入罪、それから伊達の遺書に対する窃盗罪、これらはまあ適当にお手心があると信じます。では、奥山君、高橋さん、失礼します。小川君、一緒に出かけようじやないか。僕らは高橋警部の賢明なる判断によつて伊達と早川が釈放されるのを待つてればいいのだ」
「ちよつとちよつと。藤枝さんちよつと待つてくれたまえ。君の秋川事件についての全説明はまずあとできくとして、一体今日の事件の説明はどうなるのです」
 警部がいそいで藤枝をよびとめた。
「さつきさだ子からおききの通り。あの通りですよ」
「と云うのは」
「ああ成程。充分判つておられぬのですな、実は昨日林田を訪問したのです。そしてある方法を用いて林田に自己の策戦が全く誤つていることを信じさせた。同時に僕が奴をすでに心の中で捕えていることをはつきりしてやつたんですよ。それで彼は自殺する決心をしたんだ。その道づれにさだ子をえらぼうとしたのです。小川君失礼しようじやないか」
 彼はこういうと、私を手で招きながらさつさと室を出た。検事も警部もいささか呆気に取られた形で、われわれの方を見ていたが、藤枝は一向かまわず、そのまま外に出てしまつた。
 タクシーを捕えると、彼は、上機嫌で銀座へといそがせた。
 四月十七日の事件以来、私ははじめてはればれとした気もちで宵の銀座を歩いた。
「めし時に、演説しちやつて大分腹がへつたよ。どこかでめしを食おう」
 藤枝は、いつも彼の行くある洋食屋へ私を案内した。ボーイばかりで女ッ気のない店で客もあまりいない。
 藤枝と私はほんとうにくつろいだ気もちでコンソメのスプーンを取つた。

   終局

      1

「ねえ藤枝。いよいよ事件は大団円だが、僕にはまだ大分判らない点がある。第一君は一体如何して林田が犯人であるとつきとめたか、これを説明していない。それから林田が犯人と判つているのに何故君はだまつていたか、自殺をする事を知りながら何故ほつておいたか。何故警察に訴えなかつたか、これらがききたいね」
「あははは。大分聞きたいんだね。しかし君の質問は多くて一時には答え切れない。まず第一の質問に答えよう。では僕がどうして犯人をつきとめたか、これは今警察でしやべつたばかりだが、僕は初江が殺されるまでははつきりあてがつかなかつたんだ。第一回の慘劇の後では全く五里霧中で誰が犯人だかさつぱり判らなかつた。実は林田の手にウカと乗つて家族の中に怪しい者があるとにらんだのだよ。ただたつた一つ確信したことは、あの劇薬が秋川家に来るまでにすりかえられていたということだ。この考え方はさつき云つた理由からだが、さし当り佐田やすがおかしい。しかしやすは君も知つている通り、あくまでも否認した。やすが自身ですりかえたか、そうでなければ彼女は必ず誰かに途中で会つている、とにらんだのだけれども、やすが自身でやつたとはどうも思われない。一方秋川家の人々の様子はかなりおかしい。さだ子はトマス・ハーデイを読んでいて着物のままかけつけたというし、ひろ子はヴァン・ダインを読んでいたと云う。とにかく普通でない所へもつて来て伊達、さだ子が母と喧嘩をしたという事実がある。おまけに訊問に際してさだ子はヒステリカルな悲鳴をあげたし(悲劇を繞る人々第八回参照)伊達の事についてうそを云つている。こんな点から実は僕も、第一にさだ子と伊達、第二にひろ子を疑つて見たのだ。ところでここに偶然が非常な働きを見せている」
 藤枝は手早くコンソメを片付けて次に出て来た伊勢海老をほほばりながらつづけた。
「君は僕が脅迫状を比較して二個のタイプライターが使用されていると云つたのをおぼえているかい。(誰を疑う? 第一回参照)あの時、僕がふと心に思い浮べたことがあるのだ。それは、同一の犯人が二個のタイプライターを使用しているのではなく、人間が二人いるのじやないか、ということだ。これはあとで考えると誤りで、打つたのは林田一人で全く二個のタイプライターを偶然使用したのだつたが、偶然にも僕の思いちがいは、かえつて発覚を早くしたのだ。僕は、一つの方を、はじめからの脅迫犯人のもの、他の一つを秋川徳子の殺害犯人のものと考えた。その時分は里村千代の事件なんか全く知らなかつたのだから、はじめのオフィスへ来た奴と五月一日云々のそれとは発信人が全くちがうと考えたんだが、今から思うとうまいスタートだつたよ。コナン・ドイルはかつてオスカー・スレーター事件を論じた説の中で『誤まれるスタートを切つた捜査が真犯人を捕え得るプロバビリティは殆どない』という事を主張しているが今度の事件はそのはなはだ少い例外の一つだつた。
「ところが僕らが迷宮に入つている所へ、四月二十日の事件が起つた。あの事件の直後、僕は次の確信を得たのだ。
一、犯人は四月十七日の殺人犯人と同じだ。
二、犯人は男である。
三、犯人は佐田やすを生かしておいては危険だと感じたのだ。
四、犯人は駿太郎を誘い出し得る位よく顔を知つている男だ。
五、殺人直後に発見されても人から怪まれぬ条件をもつている人だ。
六、レコードのトリックから考え、その他から考えて、犯人は非常ないい頭の持主である。

      2

「しかし、何故、僕がこれだけの点を確信したかということは今更いうまでもなく、今までの僕の言論で判るだろう。そして、ここに重大な疑問が一つ残つている。それは、犯人は如何なる力をもつてあれまでやす沈黙を守らせていたか、ということである。この点は僕にどうしても判らなかつた。しかし、意外にも早川辰吉が出現した。そして十七日に彼女に会つたことが判つたのだ」
「うん、そうそう、そう云えば君は辰吉が捕まつた日にすぐあいつに十七日にやすにあつたろうときいたがあれは出たらめじやなかつたのかい」(被疑者第四回参照)
「無論出たら目ではない、やすはあの日誰かに会つていたにちがいないと僕は考えていたのだ。だから辰吉の供述をきいてるうち、彼だとさとつたのさ。しかし辰吉があの犯人でないことはよく判つていた。とするとだ、佐田やすはあの日に辰吉以外にもう一人誰かに会つていたことになる、それは誰だろう、ここで僕は第一に伊達を考えたんだ。しかし、彼に何の力があつてやすを沈黙せしめていたかということが判らぬ、結局これは出来ないことだという結論を得たんだ。のみならず、彼にレコードのトリックが思いつくか。あの時あのトリックを思いつき得る人間は、ひろ子か、林田か、僕自身なのだ。そこで僕はひろ子伊達共犯説をちよつと考えて見たのだがこれは後になつてそうでないことが判つた。(あらしの前第三回及び警部の論理第七回参照)こうやつて考えて行くと結局あとには林田という人間が一人残る。彼には今あげた六つの条件は全部当てはまるのみならず、大変な事を一つ思い出したのだ。それは二十日の夜秋川邸を辞する時、彼がやはりスリッパのことを云つたというのさ、さつきも云つた通りあのスリッパの一件は僕は全くの偶然から発見したんだぜ、それを林田はどうして知つたろう。僕はここでいかなる天才犯人にも盲点ということのあるのに今更気がついたのだよ。彼は自分の頭から考えてウカとあの点が僕にも判つていると思いちがえてしまつたんだ。ちようど探偵小説の作家と同じだ、自分に全部の事実が判つているものだから、読者にももう判つていると思つて肝心の説明をとばして平気で進んで行き勝ちになる。それとまるで同じ事よ。
「さて、林田が犯人ではないかなと考えて来るとどうだい、万事都合よく説明がついて来るじやないか。やす子が早川辰吉と会つた後、林田がやすに会つたとすれば彼ならば確かに沈黙させる方法をもつている。すなわち、さつき云つた第一テーマさ。それから彼なら従来、駿三に送られた脅迫状を見ているからそのまねをして自分で書き得る。十七日の午後に駿三が彼の所に行つているから、第二のテーマすなわち薬のすりかえも思い付く。それに彼ならば秋川家の状態が如何に犯罪に利用し易いか観てとれるだろう。しかし第二の事件の時に彼はたしかにさだ子と二階にいた筈だが。……これはかなり重大な疑問だつた。しかしこれは、考えた末、やつと解けた。あいつさだ子のアリバイを立てて実は自分のアリバイを立てているのだ。ではどうしてさだ子を沈黙させたか。さだ子が彼を充分信頼しているのは何故か。こう思つて来るとここに第一テーマが又ひびいて来たんだ。早川辰吉の供述中に、やすが自分に大変親切な方があると云つたというのがあつた、それと同じ手だとやつと悟つたのだ。君は四月二十一日に僕が秋川邸でさだ子に『それ以外に何か御心配なことがあなた御自身でも何もないのでしよう。たとえば、その後伊達君が邸内でうろうろしているのを誰かに見られたなんていうことはないんでしよう』とやつたら『そ、それは勿論でございます』とあわてて云つたけれど、明らかにあれはうそだという表情だつたが、あれをおぼえているだろうね。(あらしの前第五回参照)これで僕は一層確信を強めたんだ。

      3

「林田としてはあのレコードのことを僕にきいて来たのも大失策さ。あいつ俺の音楽青年だつたことを知らないのだ」
「やはりあれも盲点の一つかね」
「うん、ともかく失敗だつたよ。さあこう考えて来ると林田が正しく犯人だ。皮肉にも彼は僕らと共に犯人を探しまわつている。ただ判らないのは、一体何のために彼が秋川一家を恨んでいるのか、ということだ。伊達の素性の方は、さきに手がまわしてあつたから大ていあの時分に判つた。駿三が君に語つた以上に僕にはあの頃になつては判つていた、ことに今から二十年前の出来事だつたから、姦通事件もほぼ今泉町の人々の口から知ることが出来たが、林田の方はさつぱり判らぬ、そこで僕はあの病気の間を利用して出来るだけ彼の素性を探らして見たけれども、東京に出てからの事は判つたが、その前の事はどうしてもはつきりしない」
「そうそう、君が病気の時に僕に三ヶ条の問題を出したつけね。第一、一番危険な場所は秋川邸内だ、と云つたね。あれはどういうんだい」(第三の悲劇第四回参照)
「もし犯人が林田だとすれば、必ずやつは秋川邸内をえらぶに違いないのだ。それはあの位えらい奴の考えそうな事なんだよ。事件を深刻にする為。ミステリーを深くする為。つまり彼の虚栄心さ。同一の邸内で殺人をつづけて行くことは極めて難しい。しかし俺はやるぞ! というつもりなんだ。ちようど自惚れの強い探偵小説家が、同一の場所で度々人を殺すのと同じさ。極めて困難な仕事だし、読者からは動きがないと批難されるだろうが、でも作者はこの一番困難な作を完成しようとするつもりなのさ。外でやればほんとの犯人にとつても作者にとつてもわけはないのだがね。林田にはやはり自信と自惚れと、しかして稚気とがあつた。林田ならきつとわざと困難な方を選ぶと僕は思つたんだ。のみならず、秋川の家族に嫌疑を蒙らせるのにも都合がいいからな」
「では第二、誰でも一応疑えというのは、君は林田をも疑つていたということだね」(同上参照)
「そうさ。しかして第三の伊達が警察にとめられている限り殺人事件はおこらぬ、というのは、伊達が犯人だという意味ではない。林田が犯人だからさ。林田はすべての殺人の嫌疑を伊達にかぶらせようとしているのだ。従つて彼が警察にとめられている間は、林田は手を下さない。伊達の行動があいまいな時をえらんで必ずあいつ、ことをするのだよ」
「僕にはどうしても判らぬことがある。君がそれだけ林田を疑つていたならば、何故、早く警察に訴え出なかつたのだ。そうすれば初江は少くも助かつたかも知れないじやないか」
「ああ、君の批難は一応もつともだけれども、二つの理由からして僕は弁解するね。第一は、今となつてこそ僕ははつきりいつているがあの当時は今思う程の自信がなかつたのだ。というのは、何故彼があんなまねをするかということが判らなかつたしすべてが一つの推理の上に立つていたからね、他のもう一つの重大な理由は僕が法律家だからさ。いいかえれば僕は法律というものがどの位力のないものかをよく知つているからだ。かりにあの時僕が彼を訴える。しかし、一体どこに彼を犯人だと名指す証拠があるか? そもそも何を証拠に彼を弾劾できるか、なるほどさだ子は林田のアリバイをこわすかも知れない。しかし林田の二十日の夜のアリバイが立たぬとなつても彼が殺人犯人だといえぬことは、伊達の場合と全く同じさ。(あらしの前第一回参照)

      4

「一にも証拠、二にも証拠だ。林田の犯罪には一つも直接証拠がないんだ。ねえ君、君は刑事がどうやつてすりを捕えるか知つているかい。たしかにあいつが怪しい、ホラ今あの男にあたつた、と思つてそれだけでは捕えてもだめなんだ。刑事はひそかにすりの後を尾行するんだぜ。そうして確かな証拠を握れるまでいつまでもいつまでもあとを追う。云いかえれば被害者が、ほんとに物をとられるまで、待つているんだ。僕が検事をしていた時にも、刑事が余り早くすりを捕えすぎたんで、どうしても証拠があがらず、起訴することが出来なかつた場合がいくらもある。林田はたしかに犯人に相違ない。しかも、将来に於いても誰かを殺すだろう、しかしこれだけでは、あいつを捕えることはできない。いや、あるいはあの辺で捕まれば、彼としては『待つてました』かも知れない。『では私が犯人だという証拠をあげて下さい』と来る。そうすれば警察も検事も一遍にダアだからな。それも通常の犯人ならいざ知らず、林田程の者ならばどうにでもして嫌疑から逃れることを知つているよ。証拠のない殺人! この位始末の悪いものはないんだ。」
「成程、訴え出ない理由は判つた。それにしてもそれならばせめて警部にでもその話をしておく方がよかつたのじやないかな。でなければ将来被害者たり得べき三人の娘にでも警告しておくのが正当だつたじやないか」
「君は警部のあの頃の考え方を思い出していない。のみならず警部をして確信せしめるためにはやはり確たる証拠を必要とするのだよ。警部はすなわち法律家の一人だからな。それを見せない限り、僕の云うことは寝言とより外考えられなかつたに違いない。現に今日、さだ子の首をしめたのが林田と判つていてすら警部は未だ信じ切れぬようすだつたじやないか」
「それじや娘に警告するという方は?」
「なおいけない。娘にばかりじやない、君にもかくしておかねばならなかつたんだ。君でも三人のお嬢さんたちでも皆正直すぎる。もし林田が犯人だという事を聞かされれば、君らは必ずその様子を顔色で表わしてしまう。さだ子の如きは、僕より林田を信用している関係から、あるいは僕の考えを林田に告げるかも知れない。そうすれば事はますます危険になる」
「というのは?」
「君は佐田やすが何故殺されたか知つているだろう。もしあの頃林田が自分に嫌疑がかかつていると悟れば、彼はまず第一に、あの二十日の夜、アリバイを立てさせたさだ子を殺すにちがいないんだ。さだ子がまず早速危険に陷る。だから林田を疑つていることは決して本人に悟らせてはいかん。実に秘中の秘なんだ。これで僕が自分の考えを誰にも洩らさなかつた理由が判つたろう」
「では君は怪しいと信じただけでいかんともすることが出来ず、ちようど刑事がすりを捕えるのと同じように次の被害者の出来るまで待つていたわけかい」
「じようだんじやない。人の生命は蟇口とは違うよ。いくら何でも僕は第三回の殺人を待つていたわけじやないんだ。しかし、現今の法律の立て前として、あの智力優秀な林田に対してあれ以上何が出来るか考えて見給え。僕はただ心配して最後の謎を解こうとしていたのだ。最後の謎というのは、脅迫状は一体誰から最初来たか、伊達夫婦の身寄りの者とすればその者は何処に今いるか。しかして一体林田が何故秋川家をあんなに呪つているのか、ということだ。それを明らかにすればあるいは何か確たる証拠を掴むことが出来るかも知れないと思つていたのだ。

      5

「僕は一刻も早く自分で林田の故郷へ行かなくちやならんと決心した。ところへあの発熱で床につかなければならなかつた。この間に、しかし面白いことが判つた。それは早川辰吉の性質だよ。彼が変態性慾患者だということだ。(第三の悲劇第十回参照)あれで僕はますます林田犯人説のたしかな事を信じた。そうだ。林田ともあろうものが、どうしてやすを殺すのにあんなにあわてたか。必ず彼の計算のどこかに誤りがあつたに相違ない。とすればどこだろう。ここにやつと解決が与えられた。すなわち林田はやすの辰吉に対する気もちを誤解したのだ。しかし相変らず証拠はなく僕はただ君に注意するより外仕方がなかつたのさ」伊勢海老の皿がさがると、大きなビーフステーキが出て来たのでわれわれはしばらくその方を片付けにかかつたが、やがて藤枝は語りつづけた。
「二十五日にとうとう初江が殺されてしまつた。最初あれを聞いた時は、全く驚いた。度々云つた通りあの犯罪は一見女でなければ出来ぬものだ。とすれば僕の推理は誤つていたことになるのかな。けれども一方他の事実はやはり林田を指している。さだ子と二人で二階にいた時犯罪が行われたこと、のみならず彼は変な電話がかかるちよつと前にどこかに出ている。ここで僕は頭を悩ましている所へ、翌日解剖の結果ヴェロナールが発見された。これで疑問はやつと氷解して僕は万難を排しても早く中国地方まで行かなければならぬということになつた。そこへちようどひろ子がとび込んで来たのだよ。ひろ子は君もきいた通り中々頭がいい。犯罪のおこる度にさだ子は林田と二人になつている。と気がついた所は実によかつたが、折角そこまで行つていながら、林田の方を疑わずにさだ子の方を疑つてしまつた。(ひろ子の推理第六回及び第七回参照)林田がさだ子を庇つている、と見たのは無理もないがもう一歩という所だ。林田はしかし全く成功してひろ子の目をごまかしている。ただ君にあとでひろ子の欠点を指摘した時に云つたあの二十一日の午前の会話(警部の論理第二回参照)あれは林田として少々くどすぎた。失敗だよ。彼は何でもさだ子の心配を伊達の上におこうとあせつてわざと伊達のことや早川のことをさだ子に告げなかつたのだが、あれはあの際極めて不自然に見えるじやないか。僕が林田を疑つた理由の一つにもなるものだ。ただ僕は女の直観というものをほんとうに見せつけられて驚嘆したんだよ。見給え。ひろ子は何の証拠もないのに伊達の父母は自分の父母の仇だと断じたではないか。しかも父の罪亡ぼしまでに言及している。僕は全くおどろいたよ」
 私はこの時、藤枝がひろ子のあの説をきいて二度シガレットを床に落す位おどろいたのを思い出したのである。(ひろ子の推理第七回参照)
「うん、そうそう、君は驚嘆の余り二度もシガレットをおとしたぜ。殊に二度目には口にくわえていた奴を床に落しちまつたんだぜ」
「あの時は全くおどろいたんだ。彼女の Intuition に感じたのだが、二度目に僕がそんな醜態を演じたとすればそれは驚きではない。あれこそ全く Inspiration の為なんだ」
「何。インスピレーション」
「しかり、正に神の啓示! 僕はあのひろ子の断言をきいた途端、林田のことを考えたんだ。と同時に、こりや林田の父母が秋川家の仇じやないのかな、と心に思つたんだよ。そこで旅行は一刻ものばせぬ急務となつた。その留守をどうするか。僕の留守がかなり心配なのさ。

      6

「しかし、僕が旅行のできない程心配ではなかつたんだ。この理窟が判るかい」
「さつぱり判らないな」
「相手が林田だからだよ。さつき警察ではちよつと云いにくかつたがね、林田は検事や警部なんか眼中においていないんだぜ。彼が好敵手と見ているのは、藤枝真太郎[#「真太郎」は底本では「信太郎」]一人だけなんだ。彼は僕の目の前で殺人をやろうという気なのだ。従つて僕の旅行の留守に殺人をやる気にはおそらくなるまいと思つたのだが、果してその通りだつた。それにしてもこの安心は絶対的のものではない。どうしようかと思つている所に警部がひろ子を疑つていることが判つた。これで僕はひろ子一人は大丈夫保護してもらえると思つたんだよ。君は僕が警部に彼の説の欠陷にもかかわらず大いにけしかけたのをひどく恨んでいるようだけれども、あれには深い仔細がある。もし警部がひろ子を拘留してしまつたらどうだい。さすがの林田もあの女には手を出せないじやないか」
 成程、これではじめて藤枝のあの時の言葉が判つた。何も知らずに憤慨した私はいささか軽率だつたかも知れない。
「警部がひろ子を拘留しない迄も、朝から晩迄ひつぱつていれば林田の乗ずるチャンスは非常に少ないことになるからね。その動機の如何を問わず林田は一番駿三を憎んでいる。従つて駿三は最後に殺される筈だ。して見れば次の被害者はひろ子かさだ子さ。だからともかくひろ子だけでも危険から離しておくつもりだつたのだ」
 彼はこう云つてちよつとだまつて私を妙な目つきでながめた。私は今更、あの時、藤枝をうらんだことを後悔せざるを得なかつた。
「旅行は全く予期以外の成功だつた。さつき僕が述べた事実がだんだん判つて来た。勿論詳しいことは判らん。何分四十年前のことで戸籍その他も不完全だから、結局村の故老にでもきくより他なかつたけれども、ほぼ僕のいつたことが判つて来たんだ。あの短時日の間にあれだけ調べることはどうして容易なものではなかつた。しかし林田がどうして秋川駿三を恨んでいるかだけはよく知れた。それから僕は伊達の方をもつとくわしく調べた。その結果、あの女の存在が判つたけれども、現在どこにいるかそれがどうしても判らん。それをたしかめている間もなかつたので急いで帰つて来た。もしや駿三が実は知つているのではないかと感じていたので、帰るや否や秋川邸に行つて駿三を調べるとあの始末。林田のいない所で駿三が死んだ。だからほんとに僕は驚いたんだが、これは殺人事件ではないと判つた」
「で、君は林田が犯人だという証拠を捕えて来たのかい」
「ところが残念ながらそれがどうしても無いんだ。そこへもつて来て林田の最後の、しかしながら最大の目的たる駿三が死んだ。さあこうなれば彼何を仕出すか判らない。では一体僕はどうすればよいか。――差し当り、あらゆる策を講じて伊達かよの妹を捕まえなければならぬ。もしこの女が捕まればたとえ林田に会つたことはなくとも、声位おぼえているだろう。また脅迫状を送れ、とか電話を秋川邸へかけろとかいう命令を受けたことはたしかに明らかになるわけだ。そこでふと考えついたのは今まで偶然にも、伊達の嫌疑が余り新聞に出なかつたことなんだ。ねえ君、脅迫状を送つた奴はたしかに秋川駿三の仇であるに違いない。しかし正男にとつては必ず味方であるはずなんだ。

      7

「とすればだ。もし今殺人事件の為に伊達が非常に危険な状態に陷るとすれば、彼女は必ず黙視してはおられない。少くも自分が脅迫状を送つた、という事実を云わなければ伊達正男の身がいよいよ危い。だからもしこの女が死んだか、大病でない限りどうしても自分から名乗り出るだろう、とこう思いついたのだよ。それで窮余の一策として、君も御承知の通り、いつもの例に似合わずわざと新聞記者をあつめて、しやべりちらしたのだ。まさか伊達が殺人の自白をした、とはつきり僕は云わなかつたけれど、暗にそれを匂わしたんだ。新聞記者なんてものはひどく敏感でツーと云えばカーだからね。その結果、警部が立腹して僕をなじりたくなるような記事が出たんだ」
「ふん。成程。君はしかし、昨日、もう暫く待つてくれ、と云つたけれども、午後にはあの女がとび込んで来ると当りをつけたのかい」
「無論、時間なんか判らぬ。しかし今までの怪しい電話から考えて、女が東京市の内外にともかくいることが判つている。そうすれば、おそくも昨日のひるすぎには、狼狽してとび出して来ると信じていたのだ。この見込みは、正に当つて君も知つている通り、里村千代は姿を現した。しかし、残念なことに林田に対決させるひまもなく、自殺してしまつた。これで、今までのいきさつはすつかり判つたが、肝心の林田に対する証拠というものが、全くなくなつてしまつた。では一体われわれはどうすればよいか。
「蓋しこれは今まで提供された中で最大の難問題である。どの角度からながめても、林田をとつちめる方法が見つからない。目の前に犯人を見ながら手をつかねていなければならない。一方彼は非常に危険性を増している。ここで僕が最後に思いついたのが、彼を自滅させる、という一手だ。結局、僕らは彼に自殺してもらうより外に方法をもたないのだ。情無いけれどこれが法律の力の限りだよ」
 ビーフステーキの残骸をボーイが取り片付けると、藤枝は次に出て来た果物には手をつけず、すぐ紅茶を口にしつつ、つづけた。
「自殺させるたつて、これが決して生やさしい仕事じやない。まして僕自身が法律家である以上、自殺教唆を公然とやるわけにはいかん。その結果、僕の用いた手段は君が親しく見た通りだ。昨日、君と夕方別れてからの時間を利用して僕はまず僕の推理を余す所なく書き記して見た。つまり林田英三の犯罪なるものを全部書きつけてこれを封入し、君と一緒に彼の家に出かけたわけだ」
「じや、あのノンセンスだ、いやノンセンスじやない、という問題は、林田自身のことだつたのかね。僕は又伊達のことかと思つたんだが」
「そんなことはない。年を数えて見たまえ。そんなことがあり得るはずがないじやないか。正男の生れた頃には、駿三は未だ山口県にはいなかつた筈だよ」
「ふうん、成程。では林田は、君の言葉をきいて、はじめて自分の錯誤に気がついたのだろうか」
 藤枝はニヤリと笑つて私の顔をながめた。
「ねえ君、君はあの時僕がいつたことを、事実だと信じているのかい」
「だつて君は非常な自信をもつて林田にくつてかかつていたじやないか」
「しかし、あれには何の証拠もないんだよ」
 私はしばらく言葉もなかつた。
 ようやく私はいつた。
「じや、まるで君の空想なのかい。林田がいつた通り?」

      8

「空想?――空想と云えば空想かも知れない。しかし、空想が真理を云い当てていないと誰が断言できるか。僕には、あの方がほんとうだつたのじやないか、とも思われるね。証拠なんてものはつまらぬものさ。法律家が事件を裁く時に必要なものだ、議論の相手を屈伏させる時にのみ必要なものだ。それがはたして真理にあてはまつているかどうかは証拠の問題ではない。成程、僕の云つた『断じてノンセンスではない』ということには証拠はない。けれど林田の云う『ノンセンスだ』という言葉にも何も証拠はない筈だよ。何故つて君、林田自身に自分の真の父親が判るわけがないじやないか」
 藤枝はこの時妙にしんみりした口調になつて語りつづけた。
「父子、肉親! 世にこれほど大切な神秘的な重大なものでいて一方これほどたよりないものはない。君はストリンドベルクの『父』という戯曲を知つているだろう。あの父は『父親には自分の子はほんとうは判らない、父親には子はないんだ』と叫んでいる。しかし子の立場から云えば、もつと情ないものじやないかな。子にはほんとうは母親すら判らないのじやないか。況んや父をやだ。君だつて、僕だつて林田だつて――否世界中の人間は、ただ父だ、母だ、と自ら名乗つてくれる人々を父と信じ母と思つている。または周囲の人々が『あれがお前の母だ、あれがお前の父だ』と云つているのを信じているばかりじやないか。『人の子には父母あり。然れどもその父母を知るよしもなし』と云いたいね。もし天一坊という人間が徳川時代にかりに存在していたとしても、だから僕はああいう悪人だつたとは思わないな。彼は人の子の代表的な不孝者だよ。彼はきつと将軍を自分の父親だと信じていたにちがいないのだ。信じていたからこそ、ああやつて名乗り出たんだろう。越前守には、それがほん物だつて偽物だつて同じことだ。どうでもよかつたのだ。……そこで林田の問題にもどる。僕は実際ああいう空想を描いた。しかし同時にそれが空想でなくほんとうであるような気がして来たんだ。林田に対してしやべつている中に、だんだん自分のいつていることが真実らしく思われて、恐ろしくなつて来た、と同時に林田英三という男が、運命という浪の中に弄ばれている気の毒な木片のように思われて来たのだ」
「でも、林田は君の意見を正しいと考え、自分がとんでもない誤りをしたからこそ自殺の決心をしたんじやないかしら」
「うん」
 藤枝の顔にはちよつと暗い影が通つたが、すぐまた明るい色に変つた。
「そう考えることは恐ろしくもあり、また満足でもある。けれどもそう思うのはいやな気がすると同時に、自惚れというものではないかという気がするよ」
「だつて彼がそう信じなけりや死のうと決心するはずがないじやないか、もし信じていないとすれば、たとえ君が検事の前で彼の犯罪を列挙したところで、君もいう通り証拠がないんだから否認すればそれまでの事だし何でもないじやないか」
 藤枝はこの時、食後の煙草をうまそうに一服すつた。
「君はあのナポレオンの気持を知らないから困るよ。林田は犯罪界のナポレオンだぜ。犯罪界のベートホーヴェンだ。少くも自分ではそう信じているのだ。俺はえらい、俺のやる犯罪は人智では決して観破されない。しかり、たとえこの藤枝真太郎にですらもね。

      9

「すなわち彼はナポレオンにもウォータールーのあつた事を忘れていたのだ。しかしてこの藤枝真太郎がウエリントンたりブリューヘルたることを忘れていたんだよ」
 林田のことをナポレオンに祭り上げた藤枝は俄然自身をウォータールーの将軍に擬している。こんな時、私はいつも藤枝の自惚れを子供が得意になつて威張つてる時のようにながめるのだつた。
「こういう自惚れをもつていた彼林田先生が、この僕から自分の犯罪を手にとるように指摘されては到底堪えられなかつたんだよ。ねえ君、君はよく大富豪が一朝にして没落し、その結果自殺した、という例をきくだろう。しかし、あの人たちの所謂一文なしに成り下つたというのは、プロレタリヤートの文字通りの一文なしとは大いに違うんだぜ。五十や百の金はまだ持つてるんだ。いや五百や千またはもつともつているかも知れないぜ。決して餓え死にするような状態ではない。では何故自殺するか。すなわち彼らは天下の富豪だと自ら信じ、その信仰の中に生きて来たんだ。その意識をひそかに、あるいは公に誇つていた。この唯一の誇りが一朝にしてなくなつたんだ。信仰が俄然姿を消した。彼らは、もはや一日たりとも生きてはいられないのだ。林田の心理だつて全くこれと同じ事さ。自分は日本一、否世界一の犯罪王だと信じていたんだ。そこへこの僕が現れてその誇りと自信をぶちこわしてしまつたのだ。彼たるもの、失望落胆せざるを得ないじやないか。誇りだよ。自信だよ。そして信仰だよ。これが一時に失われたのだから彼は死をえらぶより外に道はなかつたのさ。法律的には勿論自分が安全なことを知つていたろう。しかしこれはあの場合では彼を失望の淵からは救つてくれなかつたのだ」
 なるほど、藤枝のいうことは一応もつともではある。しかしそれなら何故もつと早くその手を用いなかつたのだろう。
「では君、何故もと早くそれをやらなかつたんだい。君は第二の事件のあとですでに林田を疑つている。少くも第三の事件の後には君は相当の確信を得ているではないか。あの時君の推理を書いて彼につきつけてやつたら、林田はあの時自殺していただろうにね」
「そうは云えない、そう簡単には行かんよ。第一あの頃には、動機が判らなかつたために僕の方に自信がなかつた。第二、これは重大なことだが林田の心理状態を考えに入れなければならぬ。彼の心理状態はあの頃と今ではまるで違つているぜ。あの頃は終生の仇たる駿三がピンピンしていた。――もつとも弱つてはいたがともかく生きていた。だからもしあの時に僕が彼の犯罪をあばいてつきつければ、たとえ誇りを失つても、彼はヤケになつてあばれる勇気が残つている。しかるに今はどうだ。最後の目的たる駿三は一足おさきに死んでしまつた。彼は少からず力抜けているのみか、一体駿三は誰に殺されたのか、という疑惑の中にさえいる。僕はそこを狙つたんだよ。それですらあいつ、死に際に悪あがきをしやがつた。僕は実は昨夜の中に彼はおとなしく……そうだ、英雄らしく従容として死をえらぶと信じていたのだ。だから今朝電話で探りを入れたんだが、奴、自殺する道連れをえらんだんだよ。無理心中の相手にさだ子をえらんだつていうわけさ。それに、僕が昨日になつてはじめてこの手段に出たことには決して手ぬかりはないつもりだ。第三の事件以後、僕が彼を犯人なりと信じてからは、確実に秋川一家の人達を守つたつもりだ。今朝のさわぎをのぞけばね」
 成程そういわれて見れば、第四の事件は殺人事件ではなし、結局、殺されたのは初江が最後ということになる。

      10

「これで秋川家の怪事件の物語は一通り君に説明したつもりだが、どこか判らない所があるかい」
 藤枝はシガレットを立てつづけにくゆらしながらにつこりして私を見た。
「何だか、まだはつきりしないというような様子をしているね。そうそう、あれだろう、ひろ子がグリーン・マーダー・ケースをどうしてあんな時に読んでいたか、ということが不思議なんだろう」
「うん」
「それに就いては、一応あの家の人々の心理状態を説明しておかなくてはならん。僕はさつき遺伝[#「遺伝」は底本では「遣伝」]という事の恐ろしさを警察でちよつと口に出した筈だ。ほんとに恐るべきは秋川駿三に伝わつた血統だ。もつとはつきり云えば山田家のいやな血統だ。山田信之助はあの宿命的な三角形を形造ることによつて非常な不幸を生んだ。駿三はその子である。青年時代に見込まれて秋川家に入つただけあつて彼は相当な手腕家となつた。一代にして巨富を積んだ。しかも彼はやはり山田家の不幸な血をうけていたのだ。それは何というか、いわば好色とでもいうか、ともかく異性との問題については父同様の弱者であつたという事である。彼はすでに述べた通り、伊達捷平の妻と不義を働くようになつた。しかもまもなく、また他の女との間にさだ子という娘を作つてしまつたのだ。僕は、最初、三人の娘の顔を見た時に、さだ子はことによると徳子の娘ではないのじやないかとちよつと感じた。この疑いは、初江とさだ子だけがたつた一つ違いだという点で一層はつきりするが、後にひろ子の話によつて全く明らかになつた」
「ねえ藤枝、一体さだ子の母親は誰だろう」
「さあ、それは判らない。芸者かも知れない。あるいは素人かも知れない。僕には全く見当がつかない。しかしこれを知る必要がないではないか。いずれにしても駿三の過去の秘密だ。彼がかくしおおせてこの世を去つたのだ。今さら用もないのにこれをあばく必要はあるまい。そこで駿三という男はまた大体こうした男だつたんだね。一言で云えば社会的には立派な一人前の男だつた。しかし家庭の人としては全く成つていなかつたんだ、といえる。
「さて、こういう駿三が陽気な家庭を作れないということは明らかなことだ。さだ子を自分の家に入れた時、伊達正男を養育しはじめた時、必ずや夫人との間にトラブルがあつたにちがいない。もつとも、伊達正男を養育するについては無論事の真相は徳子にはいわなかつたろうが、さだ子の場合には多分事実をばらしたろう。こうやつて表向きは立派だが、駿三の家は、内面的には極めて暗い、じめじめした家庭を作つていたわけなのだ。
「駿三は、しかし過去のあの秘密におびやかされつづけて段々衰えて来た。ことに、脅迫状を受け取つてからは一層それがひどくなつてついには職を抛つようにさえなつた。ところで一番賢明で元気だつたひろ子が、家庭の秘密を嗅ぎ出したのだ。彼女は、かねてからクリミノロギーや探偵小説に興味をもつていた。自分の家の状態を考えてから彼女は今までの趣味をそのまま実地に応用して考えはじめたのだ。今までの蘊蓄を傾けて、自分の家の秘密を観破しようとしはじめたんだ。彼女の頭がどの程度に実際的であるかは、かつて僕が旅行に立つ前に君に説明したはずだ。彼女はけなげにも一つのテオリーを思いついていた。それは、脅迫状は妹さだ子によつて父に送られたものである、と。それ以来、彼女は僕の所に来るまで全然さだ子を疑い怪しんでいたんだ。

      11

「彼女は、そこでおよそ女の犯罪人というものについて種々の研究をはじめた。グリーン・マーダー・ケースは探偵小説ではあるが、それがいかにも自分の家とコンディションが似ている。彼女は、だから夢中になつてあの小説に読み耽り、可憐な少女の犯す殺人方法を研究していたんだよ。しかして、一度僕に釣り出されてヴァン・ダインの話をもち出すや、賢明なひろ子は逆に犯罪小説、探偵小説を自分が読んでいるという話から、妹が怪しいということを僕に暗示したのだ。君は、コンスタンス・ケントの話や、外面如菩薩内心如夜叉という言葉が彼女の口から出たのをおぼえているだろうね。更に、第三回の事件の直前、君と花壇の所で話していたことに至つては暗示でなくて明示だといつてもいい。
「第一の事件の直前、すなわち四月十七日の夜彼女はヴァン・ダインを読んでいた。何故だろう。彼女はあの日の午後、オフィスで脅迫状とそれからあの妙な電話で脅かされている。あの電話には君が出たが彼女はかたわらにいてきつと怪しんだに相違ない。そこで彼女は、一体彼女があの午後あそこにいたことを、何人が如何なる方法で知つたか、を考えていたのだ。すなわち彼女は、一番自己の境遇に似たグリーン殺人事件の中からその解決を見出そうとしていたのさ」
「うん、それでひろ子の気もちは判つた。他の人は?」
「さだ子は極めて内気な女だ。これは君も見てよく知つているだろう。けれど内気な女だがどうして心の中は中々剛情な女だよ。彼女は、姉が自分を疑つていることを充分知つている。しかも自分は自分で姉を疑つていたのだ。自分の過去についても必ずや何か秘密のあることは察していたに相違ない。彼女はしかし殺人事件に関しては屡々恋人の伊達を疑つていたこと、君にすでに話した通りだ。さて、そろそろ出かけるかね」
 藤枝は、ボーイを招いて勘定をするとすぐ私を促して外に出た。
 天気がいいので銀座の舗道[#「舗道」は底本では「鋪道」]は銀ブラの人達で一杯である。われわれは、いつの間にか、この物語の冒頭に記したある喫茶店の前に来てしまつた。
「ちよつとお茶をのもうか」
 私はまだききたい所もあつたし、それにたつた今さんざん紅茶をのんで来ていても、藤枝がこうした場合必ずつき合う男である事を知つているので彼をさそつて見た。果して彼はすぐに私の申し出に応じた。
 四月十七日に腰かけたと同じボックスがあいていたのでわれわれはまた差し向いになつた。
「いや、君の説明でやつとこんどの事件がわかつたよ。まだしかし一つ判らんことがある」
「何だい」
「第一回の事件直後の家族の申し立てさ。例の夫婦の寝室の鍵ね、妻の室の方からしめてあつたというがありや本当かね」
「ふん、判らないね。しかし徳子がかけておいたと思つてもよくはないかな。駿三は自分の死は仕方がない、と思つていたかも知れない。しかし家族を防ぎたかつたのだよ。だから万一、自分の室に敵がとび込んで来てもすぐに妻の室に行かれぬように徳子に注意しておいたとも考えられる。あるいはあの夜、大いに激論して妻が憤慨の意をあそこにもらしたのかも知れない。夫をシャットアウトしたんだな。しかしこの戸の事は、今となつてはさだ子の生母のことと同様、判らないね。また知る必要もないじやないか」
 藤枝はエーアシップを吸いながらまた紅茶をガブガブとのんだ。

      12

「徳子の部屋の電気の事は?」
「うん、ありやスタンドも天井の燈も両方共ついていたと考えるべきだね。徳子は一旦床の中で薬をのんだ。そうしておもむろに電気を消そうと思つたんだろう。ところが薬のきき方が早くてどつちも消すひまがなかつたんだよ」
「それからまた一つ思い出した。里村千代だがね。あれまで伊達の捕まつたことが新聞に出なかつたのはきみも云つたように全く偶然だつたんだ。ところでもしだ、もつと早く伊達のことが出れば必ず里村ももつと早く登場したはずなんだ。それでも林田はかまわなかつたのだろうか」
「それについては僕はかつてはつきり云つたことがある筈だ。林田の方は、いつ里村が出て来てもいい用意をしていたんだよ。里村が出て来れば伊達にとつては不利だし、それに里村千代の供述なるものはちよつと当局には信用されないからね。名も知れない男から度々電話で指令が来るなんていうのはまず出たらめとしかきこえんからな。そこで君はいつこう疑問をおこしていないようだが、僕がきいて見ようか。ねえ君。あの第三回目の事件の時、里村が林田の指令をうけて初江に怪しい電話をかけたろう。この電話の内容は初江が死んでしまつている限り、林田以外の人には何も知れていないわけだ。ところが林田はあの事件の直後、千代の電話の内容を正直に云つてるが何故だろうね。もつと何とでも外のでたらめが云えたわけじやないか」
「うん成程。林田はあの際、正直にいうことが一番利益だと信じてたのじやないかな」
「そうだ。そこだよ。林田は当局にできるだけうそをいわずに事を運んでいる。これが彼のずるい所さ」
 それから約二十分程われわれは雑談を交して久し振りでのんびりと休息すべく尾張町で袂を別つたのである。この時藤枝は云つた。
「稀代の犯人が世に実在するね。探偵小説の悪人がえらすぎると云つたあの言葉は取り消した方がいいかも知れんね」
 私が答えた。
「いや、その必要はあるまい。結局わが藤枝真太郎の上に出ないということが判つたよ」
      ×      ×      ×
 さて、長々とつづいて来たこの物語もこの辺で読者とお別れしなくてはならなくなつた。
 ただこの日以後の事をいささか記して筆をおきたい。
 林田の死んだあとで、さだ子の部屋から警察に引上げられた紅茶の茶碗の中には果して劇毒が発見された。
 彼が自殺した翌日、藤枝は再び警察に現れて前日説明し残した点を充分明らかにし、その為、伊達正男、早川辰吉両名については殺人の嫌疑は全く晴れるに至つた。ただ両名とも他の罪名に触れる点はあつたらしいが、藤枝の尽力によつて二人共即日釈放された。
 これで対警察の問題は解決がついた。
 林田の家は完全に調べられたが一つとして後日の証拠になるものは発見されなかつた。
 殊に林田がはたして林田文次の胤であるか、山田信之助のそれであるか、というような点については何らの書類も残つていなかつた。また林田自身の遺書らしきものも発見されなかつた。
 従つて、彼が自殺の動機は、藤枝の説を信じたためか、それとも藤枝に観破された失望の極か、その辺が全く判らない。ある人は前者なりと信じ、ある者は後者なりといつている。
 二つの中いずれかだということは判つているけれども、さてどつちかということは判らない。

      13

 この問題と、さだ子の生母が何者なりや、ということは、永遠の謎である。
 里村千代から秋川駿三にあてて送られてあつた筈の多くの脅迫状も、林田の家からは発見されなかつた。無論、完全にいつのまにか焼きすてられてでもしまつたものだろう。
 里村千代の娘は一応取り調べられたけれども大したことはなくすぐ釈放された。彼女はただヒステリーの母に迫られて、心ならずもタイプライターを打つたにすぎなかつたからである。
 一番大切なのは、事件後に於ける、藤枝の秋川一家を朗かにする努力だつた。
 すでに度々記した通り秋川一家には、ひろ子とさだ子の二人しか生存しておらず、このたつた二人の姉妹がかたきの如くにらみ合つているので、まずこの気分をなごやかにさせることが、藤枝にとつては犯人捕縛以上の骨折だつた。
 彼はまず、事件の経過を姉妹の前に全部展開し、次に事件中の二人の心理をはつきりと指摘した。それから、ひろ子に対しては、その論理的な頭脳とクリミノロギーに関する知識を充分賞讃するのを忘れなかつたけれども同時に、そのさだ子に対する嫌疑の根拠なきを力説した。次いでさだ子に対しては、彼女が恋人と共に悩みぬいた労苦に満腔の同情を表わした後、如何に彼女が巧妙に林田の欺瞞にひつかかつていたかを説明した。
 こうやつてやつとのことで両者間の誤解を解いたのである。
 幸にして、好漢伊達正男の存在が、これが為には極めてよい効果を表した。
 彼は、あらぬ疑を身に受けてさんざん苦しみ抜いたが、さすがにスポーツマンらしく朗かさと明るさを失わなかつた。ただ自分のはじめて知り得た過去を思つては一時全く暗い気持になつたらしいけれども、それも間もなく回復したらしい。彼にして見れば、恋しているさだ子から疑われ、その姉のひろ子から怪まれたということは、償い難き傷手であつたろうが、すつかり姉妹の間がとけると彼は男らしくすべてを水に流してほんとうに心から明るくなり、はては自分から進んで姉妹の間を一層よりよくするようにさえ努力した。
 その結果、林田の死後三日目には、秋川家にはじめて明るい朗かな笑声がきこえるようになつたのである。
 ひろ子は、いつの間にか宏壮な邸宅と八十万の富の所有者となつてしまつた。しかし彼女はやがて間もなく実現すべき、伊達正男、秋川さだ子の結婚を機としてその富の半分を譲ることをわれわれに発表した。また里村千代の気の毒な娘に対しては、伊達が全責任を負つてやることが決定された。
 嵐の去つたあと数は減つたが、秋川家は、以前より決して不幸ではなくなつたのである。
 そこで私であるが――読者もすでに察せられるだろうけれど、実は私一人はいささか憂鬱ならざるを得ないのだ。
 大家の一令嬢としてのひろ子でさえ、ちよつとつり合えぬ私である。そのひろ子は今や数十万の巨富を擁する主人となつてしまつたではないか。
 私の心の奥にいつともなく湧いた恋心は、一たまりもなく打ち挫かれねばならぬ。
 私は彼女を、人生の一地点でクロスした美しき女性としてただ頭の中に残しておくつもりである。
 藤枝はこの事件の後、時々ぼんやり考えこんでいる私によくいうのであつた。
「そうくよくよするなよ。何が幸になり、何が不幸になるか、一寸さきはまつたくくらやみだ。また何か事件がきつと来るよ。美しいお嬢さんが持ちこんでね。そうして今度はあんなブルジョアでないのがね」と。

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