私の郷里は(宮城県玉造たまつくり一栗いちくり上野目天王寺かみのめてんのうじ)――奥羽山脈と北上山脈との余波に追い狭められた谷間たにあいの村落である。谷間の幅は僅かに二十町ばかり。ことごとく水田地帯で、陸羽国境の山巒さんらん地方から山襞やまひだ辿たどって流れ出して来た荒雄川が、南方の丘陵に沿うて耕地をうるおし去っている。
 南方の丘陵は、昔、田村麻呂将軍が玉造柵を築いたところ。荒雄川の急流を隔てて北方の蝦夷えぞに備えたのであろう。後に、伊達正宗の最初の居城、臥牛がぎゅうの城閣がこの丘の上に組まれ、当時の城閣を偲ばせる本丸の地形や城郭の跡が今でも残っている。
「栗駒おろし吹きなびく
 臥牛城下に生をうけ
 残されたりし英雄の
 ……」
 私達は子供の時分、そんな歌を歌った。
 併し、私の生まれた部落は、北方の丘陵に近く、南方の山脚を洗う荒雄の水音を、かすかに聞く地点なのである。
 南方の丘陵が武将の旧跡なら、北方の丘陵は宗教の丘である。即ち聖徳太子の四天王寺の一つが今の地名をなしている。豪壮な伽藍がらんは、幾度も兵火にあいながら、私達の子供の時分までは再建を続けられていたのだそうだが、坊主が養蚕で火を出してから、今では仮普請かりふしんの小さなものになってしまった。当時、聖徳太子が自ら刻んだという如意輪にょいりん観音の像だけは、寺院の近くに、今にその堂宇どううを残しているのであるが、最近、それが聖徳太子の作ではなく運慶うんけいの作であることが鑑定され、近く国宝に編入されるという噂である。もう一つ、ここには守屋大臣の碑が雨ざらしにされている。十五六年前、楠木正成の筆らしいと騒がれたこともあったが、それはそのまま立ち消えになってしまった。
 とにかく、私を十五の歳まで育てたこの部落は、背後に畑地の多い丘陵があり、前面に水田が開けていて、農民小説にはまことに都合のいい舞台を形成している。――私が農民小説を書き出した動機の一つは、この地形にあると思う。
――昭和五年(一九三〇年)『新文藝日記』(昭和六年版)――

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