日语文学作品赏析《麻畑の一夜》
A君は語る。
友人の高谷君は南洋視察から新しく帰って来た。日本でこのごろ流行する麻つなぎの内職に用いる麻は内地産でない。九分通りはマニラ麻である。フィリピン群島に産する麻のたぐいはすべてマニラ麻の名をもって世界に輸出されている。高谷君が南洋へ渡航したのも、この製麻事業に関係した用向きで、もっぱらこの方面の視察にふた月あまりを費して来たのであった。
フィリピン群島にはたくさんの小さい島があるので、高谷君も一々にその名を記憶していないが、なんでもソルゴという島に近い土地であるといった。高谷君が
「さあ、投げますよ。」と、男は明快な日本語で叫んだ。そうして、こっちの舟を目がけて長い麻縄を投げてくれた。無論、一度ではうまく届かなかったが、二度も三度も根よく投げるうちに、縄のはしは首尾よく舟のなかへ落ちた。高谷君はさらにそれを
「気をつけてください。流されますから。」と、男はまた注意した。
高谷君はその縄の端を立木の根へしっかりと縛りつけて、初めて堤の上に登った。
「よくお出でになりましたね。」と、男は笑いながら挨拶した。かれは三十ぐらいの、体格の逞ましい、元気のよさそうな男であった。
高谷君は自分の身分と目的とを説明すると、男は愉快らしくまた笑った。
「さようですか。まあ、こちらへいらっしゃい。この島にはそうたくさんもありませんが、それでも相当に麻畑があります。わたしがすぐに御案内します。わたしは丸山俊吉という者です。」
かれは日本の人で、三年ほど前からこっちへ来て、日本人と原住民とを合せて七十人ばかりの労働者の監督をしていると言った。高谷君は彼のあとについて堤から十町ほども行くと、広い麻畑が眼の前にひろがって、
「まあ、我れわれの小屋へいらっしゃい。お茶でもいれますから。」
それからまた二町ほども行くと、そこに大きい家があった。屋根はトタンでふいて、三方は日本風の板羽目になっていたが、そのひどく破損しているのが高谷君の眼についた。案内されて内へはいると、中は一面の土間になっていて、部屋の隅には寝台と毛布がみえた。棚の上には酒の
「おい、勇造、お客様だ。早く来い。」
丸山に呼ばれて、ひとりの青年が外からはいって来た。年のころは十八、九で、これもこういう南洋生活をしているにふさわしい、見るから頑丈らしい男であった。かれは茶っぽい
「なにしろ、よくお出でくだすった。」と、丸山はいかにも打解けたように言った。「内地の人も随分こっちへ来るようですけれども、大抵はおもな島々をひと廻りするだけで、こんなところまでは
実際、かれらは高谷君を歓迎しているらしく、大切にしまってあったらしい葡萄酒の口をぬいて高谷君にすすめた。缶詰の肉や魚なども皿に盛って出した。ここらの島に住んでいる人としては、出来るかぎりの歓待を尽くされて、高谷君も気の毒になって来た。はじめの予定ではほんの一時間ぐらい見廻ってすぐに帰るつもりであったが、あまりに人なつかしく
「この頃はここらに
「おかしなこと……。どんなことが始まったんです。」
「人間がなくなるんです。先月からもう五人ばかり行くえ不明になりました。」と、丸山は顔をしかめながら話した。
「どうしたんでしょう。」
「判りません。なんでも四、五年前にもそんなことが続いたので、今までここに在住していたオランダ人はみんな
「日本人が……。やっぱり夜のうちに見えなくなったんですか。」と、高谷君は
「そうです。いつでも夜なかから夜明けまでのうちに見えなくなるんです。今までは原住民に限られていたんですが、今度は日本人の方へもお鉢が廻って来たので、みんなはいよいよ騒ぎ出して、どうしても
丸山もよほど困っているらしく、その男らしい太い眉をくもらせて話した。高谷君も息をのみ込んでこの不思議な話を聞いていた。
「で、その行くえ不明になった人間というのは、その後になんの手がかりもないんですか。」
「ありません。」と、丸山はすぐに
「さあ。」と、高谷君も首をかしげた。「行くえ不明になった人間はひとりで寝ていたんですか。それとも誰かそのそばに寝ていたんですか。」
「いや、それがまた不思議なんです。ひとりで寝ていたのならば、まだしもの事ですけれども、日本人は大抵七、八人ずつ一軒の小屋に枕をならべて寝ているんです。まして原住民は十人も二十人も土間にアンペラを敷いて、一緒にかたまって
「ごもっともです。」
「あなたも御同感ですか。」
「私もそれよりほかに考えはありません。さっきからお話を聞いているうちに、私はドイルの小説を思い出しました。」
「はあ、それはどんなことです。」と、丸山はテーブルの上に
隅の方の椅子によりかかっている勇造も、眼をかがやかして聞き澄ましていた。
二
「無論に作り話でしょうが、ドイルの小説にはこういうことが書いてあるんです。大西洋のある島の耕作地でやはり人間が紛失する。骨も残らない、血のあともない。よく
「なるほど。」と、丸山もうなずいた。「そこらが好い御鑑定です。ただ少し腑に落ちないのは、もしそんな怪物が来て人間を引っ担いで行くとしたら、なにか声でも立てそうなものだと思うんですが……。すこしでも声を立てれば、そばに寝ている者のうちで誰か眼をさます者もある筈ですが……。」
「ドイルの小説によると、その猿は恐ろしい力で、まず寝ている人間の胸の骨をぐっと押すと、骨は砕けてひと息に死んでしまう。それを
「そうでしょう。しかし……。」と、丸山はまだ疑うように勇造の方を見返った。「我れわれもそう思ったもんですから、毎晩代るがわるに小屋の周囲を見廻って、
こうなると、高谷君の議論もよほど影の薄いものになって来た。麻畑へ忍んでくる怪物は、野蛮人でも猿でもないらしかった。その次の問題は
「もしここらの森や山の蔭に、我れわれの知らない野蛮人が棲んでいるとしても、原住民もかつてそんな人間らしいものを認めたことがないというんです。とにかく私も余り残念ですから、ほかの者だけを隣りの島へ泊りにやって、私とこの勇造のふたりだけは毎晩強情にこの小屋に残っているんですが、この二、三日はなんにも怪しい形跡も見えません。敵もこっちの油断を狙って来るらしいんですから、一度いたずらをすると当分はやって来ないようです。そこで、こっちが少し安心すると、その油断を見て不意に襲って来る。いつもその手でやられるのですから、今夜あたりはもう油断ができませんよ。」
高谷君も一種の好奇心にそそられて、自分も今夜はこの小屋に泊って、その怪物の正体を見届けたいと思った。その話をすると、丸山も非常に喜んだ。
「どうかそうしてください。あなたも一緒にいて下されば、我れわれも大いに気丈夫です。あなたの御助力で、どうかこの怪物の正体を確かめたいものです。どうでお構い申すことは出来ませんが、あなたの
「どうで徹夜の考えですから、寝道具などはいりません。夜がふけると冷えるでしょうから、毛布が一枚あれば結構です。しかし私がいつまでも帰らないと、船の者が心配するでしょうから、誰か私の手紙をとどけてくれる者はありますまいか。」
「ええ、
手帳の紙片をひき裂いて、高谷君は万年筆でその用向きを書いた。原住民はそれを受取って、すぐに小舟に乗って使いに行くといった。今夜ここに泊ると決定した以上、高谷君はその附近の地理をよく見さだめて置く必要があるので、もう一度そこらを案内してくれまいかというと、丸山はこころよく承知して一緒に出た。
空はまだ明るかった。貝殻の裏を
「もう一つ判らないことがあるんですよ。」と、丸山は麻畑をぬけた時に言った。
三人の眼の前には大きい河が流れていた。その濁った水が海へそそぐであろうと、高谷君は想像した。低い堤に立って見おろすと、流れはずいぶん急で、堤の
丸山はステッキでその水を指さした。
「ごらんください。この河が境になって、河むこうはあの通りの
「さあ、なにしろ急流ですからね。」と、高谷君は怖ろしい秘密を包んでいるような、濁った水の流れを見つめていた。
三人はまた黙って河上の方へ
「ここから上流の方は水勢がよほど
ここらへ来ると、河底から大きい岩が突出していた。何百年来河上から流れてくる大木の幹や枝がその岩にせかれて重なり合って、自然の堤を築いているので、そこには大きい
「この通り、ここらは流れが緩いもんですから、みんなここへ来て水を汲んだり、洗濯物をしたりするのです。遠い昔から自然にこうなっているんでしょうが、まことに都合よく出来ていますよ。」と、丸山は笑った。「第一、下流の方は水が濁っていて、とても飲料にはなりませんからね。」
勇造は如才なくバケツを用意して来ていた。かれは灌木をくぐり水ぎわへ降りて、比較的に清い水を一杯くんで来た。水の上はいよいよ薄暗くなって、一種の霧のような冷たい空気が芦の茂みから湧き出して来た。
「今夜も降るかも知れませんね。」と、勇造はバケツをさげながら空を仰いだ。三人の頭の上には、紫がかった薄黒い雲の影がいつの間にか浮かんでいた。
「むむ、今夜も
それにしても驟雨が近づいたと聞いては、ここらにうろうろして居るわけにもいかないので、高谷君はもう小屋へ帰ろうと言った。
三人はもと来た堤をつたって麻畑へ出て、小屋の前へもどってくると、大勢の労働者は仕事をしまって、そこに整列していた。
「今夜も隣りへ行くのか。」と、丸山は笑いながら言った。
大勢は挨拶して河下の方へ降りて行った。さっきも話した通り、かれらは小舟でとなりの島へ泊りに行くのであると、丸山は高谷君にまた説明した。そうして、勇造に命じて夕飯の支度にかからせた。
日が暮れると果たして激しい驟雨がおそって来た。その雨のひびきを聞きながら高谷君は夕飯を食った。
三
ここらの驟雨は内地人が想像するようなものではなかった。まるで大きい
となりの部屋では勇造が夕飯のあと片付けをしているらしく、
「随分ひどい。今夜はいつもより余ほど長いようだ。」と、暗いなかで丸山は言った。
高谷君はマッチをすって懐中時計を照らしてみると、今夜はもう九時を過ぎていた。この暗い風雨の夜、しかも恐ろしい怪物があらわれるとかいうこの小屋に、丸山と勇造と自分とたった三人が居残っただけで、小屋の内は愚か、この島じゅうに誰も人間らしいものは一人もいないのかと思うと、高谷君はいささか心寂しくなって来た。そのおびえた魂をいよいむ
「雷が鳴れば、もうやがて止みます。」と、丸山は言った。
「この雨では怪物も出られますまい。」
「そうです。ことに雷がこう激しく鳴っては、大抵の怪物も恐れて出ないかも知れません。」
雷はますます
「あ。」と、丸山は突然に叫んだ。そうして、大きい声でつづけて呼んだ。「おい、勇造、勇造……弥坂……弥坂……。どこへ行く。」
雷雨が激しいので、高谷君にはとても判らなかったが、風雨に
「この降るのに、どこかへ出たんですか。」と、高谷君は不安らしく訊いた。
「どうもそうらしい。」と、丸山は神経が
かれは突然に起ち上がってマッチの火をすりはじめた。高谷君も手伝って、ようようのことで蝋燭に火をともした。
土間はもう三寸以上も雨水に浸されていた。ふたりはその水を渡りながら、蝋燭の火を消さないように保護してあるき出した。となりの部屋とのあいだには四尺ばかりの入口があって、
「あ、やられたかな。」と、丸山は
言い知れない恐怖に襲われながら、高谷君はあわててマッチをすった。もう蝋燭をともすのももどかしいので、二人はあらん限りのマッチをすって、そこらじゅうを照らしてみたが、勇造の姿はどうしても見付からなかった。
「まだ遠くは行かない筈だ。」
丸山は
「弥坂君……勇造君……。」
「勇造……弥坂……。」
雷雨はそれから三十分ほどの後に晴れて、明るい月が水を照らした。ふたりは堤から麻畑を
夜があけてから労働者が戻って来た。かれらはゆうべの話をきいて蒼くなった。大勢が手分けをして捜索に出たが、勇造の行くえはどうしても判らなかった。いつまでもここに残っているわけにもいかないので、高谷君はその日の午後に麻畑の小屋を出た。別れるときに丸山は言った。
「もういけません。労働者たちはどうしても
「私もそんなことだろうと思います。ほかの者がそう言うなら、あなたももう諦めてここをお立退きなすった方が安全でしょう。」と、高谷君も彼に注意した。
「ありがとうございます。そんなら御機嫌よろしゅう。」
「あなたも御機嫌よろしゅう。」
大勢は河の入口まで送って来た。高谷君はもとのボートに乗って元船へ帰った。
この話のあとへ、高谷君は付け加えてこう言った。
「船へ帰ってからその話をすると、船員も他の乗客も、みんな不思議がっているばかりで、何がなんだか判らない。船に乗組んでいる医師の意見では、この怪物はむろん動物でもない、人間でもない、一種の病気――まあ、熱病のたぐい――だろうというんだ。さっきも話した通り、河上には流れのゆるい、
医師はまたそのうたがいに対してこういう解釈を加えている。その患者は非常に熱が高くなって、殆んどからだが焼けそうに熱くなるので、苦しまぎれに水に飛び込むのだろうと……。これも一つの理屈だが、理屈はまあどうにでも付くもので、なにしろ僕は南洋の麻畑に一夜をあかして、こんな怖ろしい目に逢ったということを話せばいいのだ。ドイルの小説の猩々ならば、またそれを退治する工夫もあるだろうが、眼にみえないものではどうにも仕方がない。果たしてそれが一種の病気であるとしても、僕はやはり怖ろしい。君も勇気があるなら一度あの島へ探検に出かけちゃあどうだね。」
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