他人の目が気になって仕方ない…その窮屈 な生き方の根底にあるのは、日本人特有の「他人に迷惑をかけてはいけない」という価値観ではないでしょうか。

在意别人的目光也是没办法的事……这样死板的生活方式归根结底就是日本人特有的“不能给别人添麻烦”的价值观。

多くの日本人が、「人様に迷惑はかけるな」という教育を受けてきたのではないでしょうか。「他人に迷惑をかけない人になって欲しい」子どもにどんな人になって欲しいかと尋ねると、上のような言葉を言う親が最近多い気がします。「他人に迷惑をかけてはいけない」これは日本人の共通の価値観だったのではないでしょうか。他人に迷惑をかけないようにすることは、社会生活の最も基本的なことのひとつですから。そういえば日本には「見て見ぬ振り」「長い物に巻かれろ」「波風を立てるな」「仕方がない」など、社会や人に迷惑をかけないための慣用句が多い。

多数的日本人都是接受“不要给别人添麻烦”这样的教育成长起来的。最近当被问到想让孩子成为什么样的人时,“想让孩子成为不给别人添麻烦的人”那样回答的家长非常多。“不能给别人添麻烦”这是日本人共同的价值观。这是因为不给别人添麻烦是社会生活中最基本的东西之一。如此说来,“看见了假装没看见”、“识时务者为俊杰”、“不要引风波”、“这也是没办法的事”等,为了不给社会或别人添麻烦而衍生的惯用语其实非常多。

「他人に迷惑をかけずに生きる」というのは正しいのだろうか?

“不给别人添麻烦地生活”究竟是不是正确的?

人と関わっていかなければ生きられない社会なら、必ず迷惑はかけてしまうものであり、また必ず他人にかけられるものでもあります。そもそも人間は「他者に迷惑をかけずに生きることなどできるのだろうか」。実際には人様に迷惑をかけずに生涯を全うすることはほぼ不可能であり、人間は赤ん坊のときは泣いてわめいて迷惑をかけ、子どものときにはいたずら 、いじめ、授業の怠慢、反抗期で迷惑をかけ、社会人になっても仕事に失敗したり、飲みつぶれて迷惑をかけ、親になったら子どものことで周りに迷惑をかけ、やがて歳をとれば皆が誰かの世話になるわけで、人間なんて意図せずとも人様に迷惑をかけながらお互い様で生きてるんじゃないだろうか。

若是不得不和别人有所联系才能生存的社会,那么一定会(给别人)添麻烦,而且也一定会被别人麻烦。那么究竟人类“能不能不给别人添麻烦地生活呢?”。实际上不给别人添麻烦地走完一生基本上是不可能的,人们从婴儿时期的哭喊开始就给别人带来了麻烦;孩童时代的恶作剧、欺凌、上课的怠慢、反抗期也给人带来麻烦;成为社会一员后,工作上的失败、或是喝到烂醉如泥也给人带来麻烦;成为了父母,也会因为孩子的事麻烦周围的人,归根结底在年龄不断增加的过程中,大家都是受着某些人照顾的,人类就是无意识地在麻烦别人的过程中彼此照应着这样生存的。

人間は、人と人との繋がりの中で生きなければならない以上、“他人に迷惑をかけずに生きる”ことなどあり得ません。他人に迷惑をかけずに生きるということが無理である以上、日本人の多くが正しい価値観だと思い込んでいる「他人に迷惑をかけるな」という教育は本当に正しいことなのでしょうか。

人类,必须在人与人的联系中生存,因此“不给别人添麻烦地生存”是不可能的。在“不给别人添麻烦地生活”这件事是不可能的的基础上,多数日本人认为正确的“不要给别人添麻烦”价值观教育究竟是不是正确的呢。

日本社会で感じる“生き辛さ”の原因

在日本社会中感到“生活的艰辛”的原因

「電車でベビーカーは迷惑」
「公共の場で泣き叫ぶ子供は迷惑」
「泣き叫ぶ赤ん坊は外に連れ出すな」
「迷惑をかける子供は睡眠薬を使ってでも眠らせろ」

…人様に迷惑をかけてはいけない、という価値観は、こうした寛容ではない社会を作ってしまっています。

“在电车中使用婴儿车是给别人添麻烦”
“在公共场所哭闹的孩子是给别人添麻烦”
“不要带着哭闹的婴儿出门”
“对于给别人添麻烦的孩子就算使用安眠药也得让他睡着”

……正是这样的“不能给别人带来麻烦”的价值观,创造了这样一个毫不宽容的社会。

「本当はこうしたい。でも迷惑がかかるかもしれないから止めておこう。」このような考え方は日本人にとても多い。自分がやりたい行動が、他人にとって迷惑になるのではないか…そう考え自制する人が多いのではないでしょうか。日本では子供のころから、「人さまに迷惑をかけるんじゃありません」などと言われて育つから、他人の思惑か視線が行動の基準になったりする。

“实际上想这样做。但也许会给别人添麻烦还是算了吧。”有这样想法的日本人非常多。“自己想做的事情,对别人来说会不会是个麻烦呢”这样想着然后控制自己行为的人有很多。因为在日本,从孩童时代开始,就受到“不给别人添麻烦”的教育,因此他人的想法和看法就成为了行动的标准。

何かをするときに「これをすると迷惑が掛かるかも……」といちいち気にしていると、本当に何もできません。この社会の中で何かをしようとすれば、必ず誰かに何かしらの影響を与えています。人さまに迷惑をかけないように努力するのは大事だが、逆にいうと、迷惑をかけられた時はひどく立腹して、相手の人間性を否定してしまうこともある。「他人に迷惑をかけてはいけない」という考え方こそが日本人全体を萎縮させ、ダメにしている原因ではないのか。人に迷惑をかけない。という拘束が、結果として相手の迷惑を受入れられない器の小ささを生み出してしまうのである。「人に迷惑をかけない」のを目標とした教育を20世紀に受けて成人したんだけど、その後いろいろあって親になってみて「迷惑をかけない人間は空気」なので、相手の器や状況にもよるが、頼り頼られるごとは大事なのかなと思うようになった。

在打算做什么的时候,一样一样地考虑“做这件事也许会给别人带来麻烦”的话,就什么也做不了了。在这个社会当中,想要做什么的话,一定会给谁带来什么影响的。虽然努力做到不要给别人添麻烦很重要,但是相反的,当自己被带来麻烦的时候就会超级火大,而且还会否定对方的人品。难道不正是因为“不能给别人添麻烦”的这种想法让全体日本人(的心胸)都不断萎缩,变得糟糕吗?在“不给别人添麻烦”这样的拘束下,结果也让人无法接受对方给自己带来的麻烦,生出这样的小气度。虽然在20世纪接受了将“不要给别人添麻烦”作为目标的教育,而长大成人,在之后经历了很多事情,在成为了家长之后,就会想“因为‘不给别人添麻烦的人就像空气(一样透明,没人在意)’,所以根据对方的气度和状况,依赖别人以及被人依赖也都很重要。”

迷惑をかけずに生き方が実は迷惑をかけてたんだ

不给别人添麻烦的生活方式实际上就是在给别人添麻烦

1.「仕事に迷惑がかかるから休みが取れない。」責任感がめちゃある人がよく言うフレーズ。わかる、わかる、私も言ってたときある。多くの日本国民に「大丈夫、あなたが休んでも仕事の代わりはそれなりにいる。しんどいなら、遠慮なく休みなさい。」と言ってあげたい。あなたが思うほど迷惑じゃないし、悲しいが、あなたがいなくても、仕事はそれなりに回る。それが現実。しんどいなら休んでリフレッシュしたほうが、結果仕事の効率もよい。

1.“因为会给工作带来麻烦所以无法休假。”这是特别有责任感的人经常说的一句话。明白、明白,我也有说这句话的时候。特别想对大多数的日本国民说“没关系,就算你休息了也有人代替你的工作。要是觉得辛苦,就毫无顾虑地去休息吧。”。并没有你所想的那么麻烦,虽然是个悲伤的事实,但是就算没有你,工作也会照样运行。这就是现实。要是觉得心累了就休息一下,重振精神比较好,这样反而让你的工作效率更高。

2.電車の人身事故(飛び込み自殺)は迷惑ですね。家は踏切の近くにありますが、何年かに1度飛び込みがあります。いつも通る道なので、夜帰る時なんかはしばらく気持ち悪くて通れないし、警笛が鳴るたびに心臓止まりそうになります。電車が止まったことで迷惑がかかるだけでなく、見てしまった人、片付ける人、現場の近くに住む人の心にも傷をつけます。

2.电车的人员伤亡事故(跳下去自杀)这件事真是给别人添麻烦。家在道口附近,几年就会有一起跳到列车面前自杀的事件。因为是一直以来都会走的路,在晚上回家的时候都会有一段时间觉得心里一阵恶心而不敢走那条路,警笛每次响起都会感觉心脏快要停止了。电车停止这件事不仅给人带来麻烦,也会给看到的人、整理现场的人、在现场附近居住的人造成心理方面的伤害。

「迷惑」に対する日本の海外の価値観の違い

对于“麻烦”在日本以外的国家价值观有所不同

「人様に迷惑をかけてはいけない」ではなく、「その行動は人として正しいか?」を考えよう。海外では「人に迷惑をかけないように」という子育ての方針は、ほとんど聞きません。インドでは、「あなたは人に迷惑をかけて生きているのだから、人のことも許してあげなさい。」と、教えられるそうです。より積極的に、「人の役に立つように」「どうしたら人の役に立てるのか」「困っている人を助けるにはどうしたら良いか」ということを学校でもテーマにしていますし、親も子どもに、ことあるごとに 言っている印象です。つまり社会全体が、これを求めている気さえします。日本の親は、「人に迷惑かけちゃダメですよ」と教えるが、インドでは、「お前は人に迷惑かけて生きているのだから、人のことも許してあげなさい」と教えるそう。前者は、息苦しさを、後者には、ホッとするものを感じる。

不是“不能给别人添麻烦”,而是思考“这个行为,作为一个人来说是正确的吗?”。在海外,基本没听说过“不要给别人添麻烦”这样的育儿方针。在印度,据说是“因为你是在给别人添麻烦的同时生存下来的,所以也原谅别人吧。”这样被教育的。更加积极地教育一些“成为一个对别人有帮助的人”、“怎样才能对别人有所帮助呢”、“怎么才能帮助有困难的人呢”这样东西,不仅在学校中是一个教育的课题,家长对孩子也是屡屡教诲,这一点令人印象深刻。也就是说,社会全体都在追求这个。日本的父母教育子女“绝对不能给别人添麻烦哦”,在印度父母则是教育孩子“因为你是在给别人添麻烦的同时生存下来的,所以也原谅别人吧。”。前者只能感到痛苦,后者却能感受到些许安心。

日本人の価値観は変われるか?

日本人的价值观能改变吗?

“他人に迷惑をかけない”人生などあり得ないという前提に立ち返り、正しいこととそうでないことを学び、誰もが自分も他人も認め、寛容な社会で生きられることを私は望みます。迷惑をかけたり、かけられたりすることの中から人間としての知恵が身に付いていくのです。それなのに子供に経験をさせないから、あるいは経験する機会が少ないからいつまで経っても子供は成長できないし、親離れができなくなり、必然的に親も子どものことが心配で子離れができなくなるのです。

回到“不给别人添麻烦”的人生是不可能的这个前提,我所希望的是学习正确的和不正确的东西,所有人都认可自己和他人,在一个宽容的社会中生存。在给别人添麻烦和被别人麻烦的过程中,学习作为一个人应有的智慧。尽管如此,因为不让孩子有任何经验,或是体验的机会很少,所以无论经过多久孩子都无法成长,变得离不开家长,家长也必然会因为担心孩子而离不开孩子。

子供の頃から人に迷惑をかけ、人から迷惑をかけられることで人間関係を学び、成長できることは多い。「迷惑をかけ合うのはお互いさま」こう言うと「開き直ったのか」「厚顔無恥で生きろというのか」と思われそうですがそうではなく、逆でむしろ謙虚になれということです。私たちは他者に迷惑をかけること。人さまのお世話になることを恐れる必要はない。ただし、(迷惑をかけた)他者に感謝し今度は自分が他者の「迷惑」を寛大に受け止め許していく。迷惑をかけるのを怖いと思わずに、ドンドンと人様に迷惑をかけていくこと。そして、自分自身もドンドンと人様に迷惑を掛けられることです。「お互いに楽しく迷惑をかけあう」 それだ!!!!!相手の「迷惑をかけたくない」思いの本質を掘り下げる。 そして受け手にとって本当に「迷惑のかかってない」行動にベクトルを修正する。 そしてお互いに同じ気持ちで「迷惑をかけあう」。人は優しさをかけあうが、迷惑もかけあう。そんな感じでいいと思う。

孩童时代开始从给别人添麻烦、被别人麻烦的过程中学习人际关系,然后能够得到成长的情况比较多。“相互给对方添麻烦”若是这样说的话,就会让人觉得是“将错就错吗”、“是让人厚颜无耻地生活吗”,但是实则不然,相反的,倒不如说是让人变得谦虚。我们毫无必要为了“给别人添麻烦”、“让别人照顾自己”而感到恐惧。但是,要对(自己麻烦的)那个人表示感谢,下次自己也要对别人带来的“麻烦”宽容地接受。不要认为给别人添麻烦很恐怖,不断地给别人“添麻烦”吧。然后,自己也不断地被别人“麻烦”。“相互快乐地麻烦彼此吧”就是这样!!!!!挖掘对方“不想给别人惹麻烦”这个想法的本质。然后修正自己的行为,做一些对于接受者来说“并没有添麻烦”的行为。然后双方就可以以相同的心情来“相互添麻烦”。人们相互温柔对待,也相互麻烦彼此。我想这样就很好。

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