かつて東京大学(以下多くの場合は「東大」と称する)は日本一のエリート養成機関とみなされてきた。しかし昨今、エリートの不在が問題視されるなか、東大はいまも、そして今後もエリートを生み出し続けるのだろうか。

东京大学(下文基本会简称为“东大”)曾经被视为专门培养日本精英人才的机构。而近来,精英人才的减少却成为一个值得重视的问题。那么东大现在以及在未来是否还会继续培养出精英人才呢?

東京大学の今日を理解するには、東京大学がどのような経緯で開校し、その後どのような発展を遂げたかを知っておくことが必要である。

要想了解东京大学的现状,就必须要先了解东京大学建校的经过,以及建校之后经历了怎样的发展历程。

まず東大は時代における体制派の政治権力の下に創設されたことを知っておこう。江戸時代の中期に儒教の一派として朱子学が栄えたが、江戸幕府は支配階級(すなわち武士階級)の統治にとって有利な思想を持つ朱子学を重宝し、昌平坂学問所(昌平黌(しょうへいこう)が正式名)を創設して武士道や朱子学を教えた。

东大是在体制派政治权利的时代背景下创立的,江户时代中期,儒家学派之一的朱子学盛行,由于朱子学思想包含对统治阶级(也就是武士阶级)非常有利的一面,因此幕府将朱子学视为珍宝,并创立了直属的昌平坂学问所(正式名称是“昌平黌(しょうへいこう)”)来传授武士道和朱子学。

江戸末期になると外国からの開国圧力もあり、江戸以外の有力藩では藩校において洋学を導入して外国語、兵器・軍艦製造法、天文学、地理学なども教えて、幕府にとっては倒幕の脅威になる人材を育てていた。そこで江戸幕府は幕府の体制内に蕃書調所(ばんしょしらべしょ)をつくって、洋学を学ぶ学校にすることによって有力藩に対抗しようとしたのである。後に開成所と称されるこの学校が東大の起源とみなされている。

到了江户末期,在对外开放政策带来的压力下,江户以外的藩镇开设的藩镇所属院校引进了西洋学术,开始教授外国语言、兵器、军舰的制造方法、天文学、地理学等学科,其中培养出的不少人才,给幕府带来了相当大的对抗性威胁。于是江户幕府在体制内设立了蕃书调所,作为学习西洋学科的学校,以此来对抗其他实力强大的地方藩镇,而后又将其改称为开成所,这所学校就是东大最初的起源。

もう1つの有力な東大の前史として医学所がある。これも幕府内において江戸末期の日本人を悩ませた天然痘を防ぐための研究・治療機関として設立された学校である。種痘という医術を導入するためと、他の病気への対策という目的の学校が幕府内につくられたのである。

东大还有另一个实力雄厚的前身就是医学所。这个医学所也是幕府在其统治下创立的,为了防治让日本人困扰的天花,而创立的作为研究治疗机构的学校。以引进播种疫苗的治疗方法,以及研究其他疾病的救治对策为目的的学校也在幕府内创立。

こうして江戸幕府の体制内につくられた蕃書調所と医学所という洋学と洋医学を学ぶ学校が後に東大の母体となるので、東大は体制派の学校の伝統を有すると理解してよい。後の東大は明治時代以降の官僚、司法家、政治家、医者、教員、経営者などの養成機関として体制維持の学校として発展するのであるが、設立当初から体制派内のエリート養成校として始まったと認識しておこう。

于是,在江户幕府的体制下创建的蕃书调所和医学所合并而成的,教授西方学术和西方医学的学校,后来发展成为最初的东京大学,由此我们也不难理解东大保持体制派学校传统的原因了。东大自明治时代之后,作为培养官僚、法律学家、政治家、医生、教师、企业家等人才的机构,是一所由体制维持的院校,创立之初就以培养体制内的精英学府而闻名。

官僚養成校として

培养官僚的学府

ここで挙げた2つの学校が出発点となって、1877(明治10)年に東京大学が誕生する。法学、文学、理学、医学を専攻する大学となったが、必ずしもトップのエリート校ではなかった。例えば後に東大のシンボルとなる官僚養成は、各省庁の持つ付属の学校(司法省は司法省法学校、工部省は工部大学校、など)で行われていた。ほかにも陸軍大学校などのエリートコースが存在した。

以前文列举的两所院校为起点,东京大学在1877年(明治10年)正式成立。虽然是主修法学、文学、理学和医学的院校,但当时并非是顶尖的精英学府。譬如说后来成为东大象征的官僚培养,在当时其实是由各个部门及行政机关所附属的院校(比如司法部门有直属的司法学校,工部省有直属的工部大学)来完成的, 其他的还有陆军大学的精英课程等等。

ところが初代文部大臣だった森有礼(ありのり)によって1886(明治19)年に東大が帝国大学と衣替えすることとなった。「帝国大学令」という法令の下で日本のエリート校の頂点としての地位を確立したのである。

第一任文部大臣森有礼于1886年(明治19年)将东大更名为“帝国大学”。在名为“帝国大学令”的法令下,东大确立了其处于日本精英院校之定点的地位。

1897(明治30)年に京都に第2番目の帝国大学がつくられたので、それまでの帝国大学は東京帝国大学と改称された。

1897年(明治30年)在京都开设了第二所帝国大学,所以原来位于东京的帝国大学又更名为东京帝国大学。

帝国大学、東京帝大を通じて、東大は官僚養成の中軸校となったことをここで強調しておこう。明治政府は、欧米に遅れをとった日本の社会・経済を発展させるために、法律をつくったり政策を立案したりする官僚の役割を特に重視した。そこで優秀な帝大卒業生を官僚にすべく種々の政策を導入した。例えば官吏登用試験制において帝大生が有利に合格できる策(帝大出身者は無試験で採用された)、(賃金や昇進などでの)官僚の優遇策などを導入して、優秀な官僚を持つ官僚制国家を日本でつくったのである。

说到帝国大学一般认为是东京帝国大学,这或许也是在强调,东大是培养官员的核心学府这一点。为了使落后于欧美地区的日本的社会和经济都能更快速地发展,明治政府制定了相应的法律和政策,尤其重视官员职务的分配。在这样的形势下,为了能让优秀的帝国大学毕业生获得官员职务,政府出台了各种各样的政策。例如设立了公务员录取考试制度,这条制度对于帝大学生成功录取是非常有利的(帝大出身的人有免试资格可直接被录用),再比如引入了官员优待政策,日本创造出了拥有优秀官员的官僚制国家。

これらの策が見事に成功して、東京帝大の学生が官僚を目指す制度が日本で定着することとなった。「官僚養成校イコール東大」はこの頃から始まり、戦後を経て今日までその伝統が続くこととなったのである。その証拠として、いかに東京帝大卒が官吏登用試験(高文試験とも称された)で優位であったかを表1で示しておこう。東京帝大卒は1894(明治27)年から1947(昭和22)年まで、実に62%の比率という高さである。特に、大蔵省、内務省、外務省、商工省というエリート省庁で圧倒的に高い比率を誇った。

这一系列的政策都得以顺利实行,于是社会上普遍认为,东京帝大的学生都是以政府官员为目标的制度是理所当然的。“培养官员的学校=东大”这个观点就是从那时开始的,经历了战后时期一直到现在,这一传统仍在持续着。这一说法也有据可循,表1正说明了东京帝大毕业生在公务员录取考试(也成为高等文官考试)中占据了多么大的优势。东京帝大毕业生在1894年(明治27年)至1947年(昭和22年)间的实际录取率高达62%,尤其是掌管财务的大藏省、掌管国内地方事务的内务省、掌管外交事务的外务省、商工省这些顶尖政府机关中,东大毕业生都获得了压倒性的超高录取率。

「東大卒の首相」が消えた

“东大毕业的首相”已经不再出现

東大が官僚養成校として定着すると、東大生の多く、しかも優秀な学生ほど官僚を目指すため、官僚の幹部(次官や局長)はほとんどが東大卒で占められることとなる。そして官僚として比較的若い年齢で出世し、キャリア終了後は、民間企業や政府関係機関に天下ったり、政治家に転じる人が多くなった。その結果、戦後の一時期には首相の多くが東大出の官僚という国に日本はなってしまった。官僚としてのキャリアをバックに、東大は政界でも重きをなしていったのである。

自从培养官员成为东大的惯例以来,东大的学生日益增多,且优秀的学生都是以成为政府官员为目的,导致政府官员的干部(如次官、局长等)绝大多数都是东大毕业生,并且他们作为官员功成名就的年纪也相对更年轻,作为官员的职业生涯结束后,他们之中大部分会直接空降到私企或与政府有关的机关工作,或是转型做政治家。这一系列情况也导致了,在战后一段时期内,日本首相大多是出自东大的官员。基于培养官员这样的背景,东大在政界相当受重视。

ここで東大出で、かつ官僚出身という首相を明治時代から現代まで見てみよう。表2は時代別にそれを示したものである。明治時代は大学出身者が首相になれる年齢に達していなかったし、大正・昭和初期、戦時期は軍国主義を反映して軍人が首相になることが多かった。戦後になって、官僚出身が幅を利かすようになり、戦後の昭和期は17名中の7名という多きに達した。名前を挙げると、幣原喜重郎(外務)、吉田茂(外務)、芦田均(外務)、岸信介(商工)、佐藤栄作(運輸)、福田赳夫(大蔵)、中曽根康弘(内務)である。なお他に東大出の弁護士が2名いる(片山哲、鳩山一郎)。官僚が多くなった原因としては、戦争責任者として多くの軍人、政治家、財界人がパージされて人材不足となったことと、戦後日本がますます官僚主導の国家になったことの反映である。

下面就让我们一起看看,自明治时代到现,有哪些东大出身,曾身为政府官员的首相吧。表2根据时代分别列举了这些首相。明治时代的大学毕业生还没有达到当首相的年龄,大正、昭和初期,二战时期,受军国主义影响,担任首相的很多是军人出身。二战过后,官僚出身的首相占比逐渐明显了,二战后的昭和时期,17人中有7人是官僚出身,比例颇高。这些首相的名字分别是:币原喜重郎(外务省)、吉田茂(外务省)、芦田均(外务省)、岸信介(商工省)、佐藤荣作(运输省)、福田赳夫(大藏省)、中曽根康弘(内务省),还有两人是东大毕业的律师(片山哲、鸠山一郎)。这一时期官僚出身的首相占比较高的原因,是由于很多军人、政治家、金融界人士作为战争负责人遭到清除,导致人才稀缺,这也反映出日本逐渐成为官僚所主导的国家的现实状况。

それが一変するのは平成時代に入ってからである。宮沢喜一(大蔵)を唯一の例として、他に東大を出たのは学者出身の鳩山由紀夫だけ。なんと16名の首相のうち2名しか東大出はおらず、学歴に関しては完全に群雄割拠の時代となっている。

到了平成时代这样的情况发生了转变。宫泽喜一(大藏省)是唯一一个官僚出身的官员,其他毕业于东大的官员只有学者出身的鸠山由纪夫。16名首相中除了这两名,其他都不是东大毕业的,可见与学历有关的竞争完全进入了群雄割据的状况了。

現代の官僚はどうだろうか。表3は総合職(幹部になる人)の試験の合格者を出身大学別人数で示したものである。東大がまだ第1位を占めているが23%で、圧倒的な数の多さではない。むしろ私立大(特に早慶両大学)の進出が顕著である。かつては官庁は旧帝国大(特に東大)出身が幅を利かせていたので、早慶出身者の人気は低かったが、官僚の世界に私立大出身者が増加するという新しい動きが見られる。とはいえ、現代でも幹部(例えば次官)になる人は、戦後から2014年まで財務省(旧・大蔵省)で52名中48名が東大法、2名が東大経済の出身であるし、経産省(旧・通産省)で38名中35名が東大法、1名が東大経済の出身なので、官庁内の出世に関してだけはまだまだ「東大法卒」の存在感は大きい。次官になる人が入省した時代では、まだキャリア官僚の多くが東大法の出身者であったからこうなったのであるが、表3で見たように将来を見通せば東大出の幹部が少なくなることは明らかであろう。

那么在现代,官僚人士的发展情况是怎样的呢?表3展示了各个院校在综合职位(管理干部人员)考试中合格人数的统计结果。从数据中可以看出,虽然东大仍然位居第一名,但其合格人数比为23%,并不具有压倒性的优势,反倒是私立大学(尤其是早稻田大学和庆应大学两个学校)排名前列尤为显眼。以前在政府机关中,旧帝国大学(特别是东大)毕业的人非常得势,而早稻田和庆应大学毕业的人却不得意,如今私立大学出身者不断向官僚界增加,也让人们看到了一种新的趋势。不过话说回来,即使在现代社会,就政府政府干部(比如部门的次官)人数来说,从二战之后到2014年间,财务省(以前的大藏省)52个人里就有48人出身东大法律系,2人出身东大经济系,经产省(以前的通产省)38人中有35人出生于东大法律系,1人出自东大经济系,可见,在政府里有所成就的人的背景中,东大的地位还是很重要的。从表3中预测未来的趋势的话,我们能明显地看出东大出身的干部在逐渐减少。

司法界での優位はつづくか

在司法界的优势依然存在吗?

実は官僚の世界のみならず、司法の世界(特に裁判官と検事)でも過去においては東大の優位が明らかであった。司法試験に合格する人に東大出が多かったし、裁判所や検察庁の幹部にも東大出が圧倒的に多かった。この両機関ともに官僚と同等の職なので、学歴と年功が強い影響力を持ちうる組織というのは容易に想像がつく。

其实在过去,东大不仅在官僚界具有绝对优势,在司法界(特别是法官和检察官)也是具有优越地位的。不仅在司法考试中东大的合格人数多,法院、检察院的干部中毕业于东大的人数也是有着压倒性的优势的。由于法院和检察院的职位与官僚机构职位具有同等的级别,所以不难想象学历和资历对这两个机构的职业生涯有着强烈的影响。

戦後に限定して歴代の最高裁長官の出身校を調べると、18名いる中で東大が15名、京大が3名である。全員が旧帝国大学の出身であることもすごいが、その中でも80%強が東大出で占められるという圧倒的な強さに驚かされる。

二战之后对历届最高法院法官毕业的院校进行了调查,结果指出18人中就有15人都是东大毕业的,其余3人毕业于京都大学。虽然这些人全部是出自旧帝国大学的高材生,但其中东大毕业生占比高达80%,可见东大优势如此明显十分令人吃惊。

なぜ裁判官の世界で東大出が出世するのか。司法の世界では頭の良さが重宝されるので、学力の勝者である東大生に打ってつけの職業だからである。さらに、過去の判例や学説をよく知っておかないと仕事ができないので、勉強好きや受験に強い人に向いている。これは検事の世界でも同様である。

为何东大毕业生在法官业内表现如此出众?因为在司法界,头脑聪明的人才十分宝贵,所以法官对于学习能力出众的东大学生来说,算是理想中的职业了。如果不能将过去的案例和学说烂熟于心是没办法做好这项工作的,因此这个职业更倾向于选择热爱学习或考试成绩优异的人才。在检察官的圈子里情况也基本相同。

ところがである。裁判官、検事、弁護士になる予備軍として司法試験に合格する人の学歴(法科大学院)を見ると、新しい動きがある。それは表4で示されるように、私立大の方が東大よりも合格者を多く出していることである。トップの早稲田、第2位の中央、第4位の慶応と、国立大と私立大が混在して合格者数を競っているのが現状である。なお合格率に注目すると、京大、東大、一橋大などが上位にいて、やや国立大が優勢を保っている。

话说回来,要想成为未来的法官、检察官或律师就必须通过司法考试,纵观司法考试合格者的学历,我们可以看出新的变化。正如表4所示,私立大学比东大合格人数更多。合格人数最多的是早稻田大学,第二名是中央大学,第四名是庆应大学,可见现在的形势是国立大学和私立大学的合格人数不分上下,竞争激烈。若关注合格率的话,名列前茅的是京都大学、东京大学和一桥大学,这样看来国立大学算是保持住了优势。

社長、役員が多いのは?

企业老板、董事辈出的原因为何?

先程、実業の世界では一橋大や慶応大の活躍が顕著であると述べたが、実は東大も多くの企業経営者(特に大企業)を生んでいた。戦前と戦後のしばらくは、東大出身者が一橋大や慶応大を凌駕していたといっても過言ではなかった。

上文所述,在企业的圈子里,一桥大学和庆应大学表现非常突出,但东大也曾培养出众多优秀的企业经营者(特别是大型企业)。战前和战后的一段时期里,说东大毕业生的成就凌驾于一桥大学和庆应大学之上一点也不夸张。

その理由は、かつての日本では規制が強く、ことに大企業は官庁の指導や助言の影響が大きかったからである。例えば、銀行などではMOF(大蔵省)担と呼ばれる人を指名して、大蔵省と日頃コミュニケーションを持って情報の交換やアドバイスを受けたりしていた。大蔵省の役人には圧倒的に東大出が多いので、銀行はMOF担に東大出をあてることが多く、彼らが将来的に銀行で出世しやすかったことは容易に想像がつく。さらに、企業内で重要な仕事は総務、人事、労務、企画といった管理業務であって、製造や営業という現場業務の人はさして重要視されていなかった。そこで管理的な仕事をうまくこなす東大出が企業内で出世したのである。

说到其中的缘由,是因为过去的日本规章制度十分严谨,导致大型企业在很大程度上要受到政府机关的领导与建议的影响,例如银行就被指定由MOF(财政部)来负责,因此平时经常与财政部的人打交道,要交换信息以及接受财政部提出的建议等。而财政部的公务员里,相当大的一部分是东大出身的,所以与银行常有往来的财政部负责人中东大毕业生的比例也很高,可想而知,这些人未来在银行领域出人头地也不是难事。另外,在企业里面,有许多重要的职务,如总务、人事、劳务、企划等管理业务,而相对地,制造、营业这些现场业务的人员并不受到重视。因此能出色地完成管理类工作的东大毕业生们往往都会在企业里出人头地。

しかし世は変わった。規制緩和が進んで、企業は役所にそれほどの意を配る必要がなくなった。もっと重要なことは、業界における企業間の競争、そして外国との競争が激しくなり、自社製品やサービスをどれだけ売るか、そして安くて質の高い製品やサービスをどれだけつくるかが、企業にとって死命を制するようになった。いわば現業部門の仕事のほうが、管理部門の仕事よりも重要な時代になったのである。

然而世道却在不断变化。随着限制不断放宽,企业已不必太过在意政府机关的意图。更重要的是,在业界内企业之间的竞争,以及与外国企业之间的竞争变得越来越激烈,要如何销售自己公司所生产的产品,或者要怎样提供更好的服务,怎样提供价格低廉且更优质的产品及服务,这些都是企业战胜对手的关键。可以说,在这个时代,现场业务部门的工作,较管理部门而言更加重要。

表5は、このことを如実に示すものである。これはいわゆる「社長輩出率」で、上場企業の社長を出身校の卒業生数で割ったものだ。東大も第3位なので健闘はしているが、一橋と慶応の後塵を拝しているのである。

表5如实地反映了这样的情况。这里所说的“社长辈出率”,就是指上市公司的老总所毕业的院校的毕业生人数比例。东大排名第三因而还需不断努力,仅次于一桥大学和庆应大学之后。

東大出身の文豪たち

东京大学出身的伟大文学家们

さほど強調されないことであるが、かつて東大出身者が目立ったのは作家である。明治の文豪二人といえば、多くの人が夏目漱石と森鴎外を挙げるだろう。昭和であればノーベル文学賞の受賞者である川端康成と大江健三郎、さらに惜しくもノーベル賞を逃した作家には、三島由紀夫と安部公房がいる。これら6名は全員東大出身である。他にも芥川龍之介、志賀直哉、谷崎潤一郎など明治時代から昭和にかけて東大出の著名作家はそれこそ数多くいたので、東大は作家を生む第1の大学として君臨していた。

虽然并非要特意强调,但不得不说的一点就是,东京大学曾培养出众多优秀的作家。要说明治时期的两位伟大的作家,大多数人首先想到的大概都是夏目漱石和森鸥外这两位吧。而昭和时期的大作家自然是诺贝尔文学奖获得者川端康成和大江健三郎了,另外还有遗憾地与诺贝尔奖擦肩而过的作家三岛由纪夫和安部公房。上面这六位大文豪全部出身于东大。其他知名作家还有芥川龙之介、志贺直哉、谷崎润一郎等,明治时代到昭和时代这段时期,东大出身者可谓文豪辈出,东大也因此成为培养作家的第一大学府。

しかし現代に至ると日本の文学界は東大の退潮が目立つ。作家の登竜門とされる芥川賞や直木賞は東大出が少なくなり、早稲田大学を筆頭にして、いろいろな大学で学んだ人が受賞者となっている。今ノーベル文学賞候補の最右翼にいる村上春樹も早大卒である。

然而纵观现代的日本文学界,东大明显地衰落了。作为步入文坛的登龙门般存在的芥川奖和直木奖中,东大出身的获奖者少之又少,早稻田大学是最有可能得奖的学校,另外还有在许多其他院校就读的人获奖。而当今诺贝尔文学界后补村上春树也是早稻田大学毕业的。

戦後しばらくの間、日本の学問を代表する大学は京都大学であった。戦後になって湯川秀樹と朝永振一郎というノーベル物理学賞受賞者を生み、その後も化学や医学・生理学でノーベル賞を輩出、京大は「ノーベル賞大学」の別名を授けられるほどであった。東大は学問で京大に劣るとまで言われて、東大関係者にとっては歯ぎしりの時代が続いていた。

战后的短时期内,京都大学成为日本学术的代表学府。战后时期京都大学培养出汤川秀树和朝永振一郎这两位物理学获奖者,后来在化学、医学/生理学领域也涌现出多为诺贝尔得奖者,京都大学因此获得了“诺贝尔奖大学”这个别名。人们都认为东大在学术上比不过京大,而这段让东大相关人员们心有不甘地咬牙切齿的时代仍持续了一段时间。

現代に至ってどうであろうか。東大出身者、ないし東大教授でもノーベル賞受賞者が出てきたので、昔ほどのうしろめたさはないと言ってよい。ノーベル賞(自然科学のみ)では京大と東大は拮抗している。

到了现代情况又如何呢?从具有东大教育背景的人,到东大的教授,出现过不少诺贝尔奖获得者,过去那种憾恨也因此改善,在诺贝尔奖(自然学科分类)中,京大和东大势均力敌。

ノーベル賞予備軍とされる「ネイチャー」や「サイエンス」といったトップの学術誌への登場は、数の上では東大が京大を上回っているのが現状である。表6を参照されたい。もっとも東大の研究者数は京大のそれよりも多いので、1人あたりに換算すると、東大と京大はほぼ同水準とみなせなくもない。

作为诺贝尔奖预备力量的《Nature》和《Science》两大权威学术杂志上刊登过文章的人中,东大在人数上确实是超过了京大。具体数据可从表6中看出。东京大学原本的研究者数量就要多于京都大学,如果按照平均人数来计算的话,东京大学和京都大学的水平几乎可以说是不分伯仲的。

残されたのは学問の道?

发展学术成唯一途径?

とはいえ学問の世界における東大の復権には著しいものがある。なぜ東大が学問・研究で最強になったのか、様々な理由を指摘できる。大きな変化としては、これまでの東大は自校出身者を教員として採用していたが、他校出身の優秀な人を教員として積極的に採用するようになった。さらに、日本一の大学であるという名声は、外部からの研究資金を多額に受領できるようになっているし、文部科学省からの科学研究費補助金での資金獲得にも成功している。優れた研究を行うためには、研究施設の充実は当然として、研究補助をする人や研究の助けになる大学院生を採用するのにも資金は必要なのである。その意味で、大学の独立行政法人化は大学間の格差を広げ、研究機関としての東大に有利に働いたといえる。

虽然在学术界东大明显地恢复了优势,但为何对于东大在学术、研究领域成为最强者,其原因多种多样。比较主要的几点是,东大不仅聘用本校毕业的学生当教员,还积极地聘请其他院校出身的优秀人才担任教员。加上东大素有日本首屈一指的大学的名声,又能从外部申领到高额的研究资金,并且还能够成功地申请到文部科学省发放的科学研究费补助金。为了更好地展开研究,晚上研究设施自然必不可少,而为了聘用获得研究补助的人才和身为研究助手的大学院学生,充足的资金也是必要的。这就意味着,大学实行独立行政法人化,使不同院校之间的差异,而东大作为研究机构拥有巨大优势。

東大は今でも全国で最も入試が難しい大学であり、優秀な学生が入学していることは間違いない。しかし卒業生の進路に注目すると、官界、政界、司法界、実業界、文学界などでは過去の栄光は消滅しつつある。京大、一橋大、早稲田大、慶応大などが東大に肉薄しているし、分野によっては東大が後塵を拝している。大学は群雄割拠の時代である。

东大至今都是日本最难考的大学,其学生的优秀程度是不容置疑的。而随着其毕业生未来的发展越来越受到关注,在官宦界、政治界、司法界、企业界、文学界等领域的辉煌已渐渐黯淡下来。京都大学、一桥大学、早稻田大学、庆应大学等优秀院校都在逐渐逼近东大,而单独在某些领域里,东大甚至稍显逊色。所以说,当今是众多出色院校群雄割据的时代。

またエリート校としての東大の最大の強みであり、拠りどころであった官僚の影響力が低下しているのも大きい。もともと日本でエリート教育とされるものは、東大に代表されるように、勉強、学問に偏ったものだった。本来のエリートの資質と思われる指導力、優れたコミュニケーション能力、探究心、決断力などはなかなか学校教育で育てられるものではない。

再加上,东大作为精英院校,曾经具备的最大优势,即官僚制度的影响力逐渐减小,这也是导致其被追赶的一大因素。东大作为日本精英教育的代表,本来就更偏向与学习和学术研究。精英被认为应当具备的指导能力,优秀的交流能力,热爱钻研的内心,决断能力等资质,也并非全部靠学校的教育来培养。

しかし以前にも増して東大が強くなっているのが研究の世界である。誇張すれば、東大の生きる道は研究の世界かもしれない。

然而以前,使得东大变得越来越强的因素都是在学术研究领域,夸张点说的话,东大的生存之道或许就是发展学术研究了。

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