京都の中心地は碁盤の目のように整然と整備されており、通りひとつひとつに名前がつけられています。しかし、その名をすべて記憶するのは至難の業。果たして地元の方々はどのように覚えているのでしょうか。

京都的中心地带犹如棋盘一般整齐排列,每条街道都有它的名字。但要记住这所有的名字十分困难,那么当地人究竟是怎么记忆的呢?

今回『おもしろい京都案内』では著者·英学(はなぶさがく)さんが、京の通りの名の由来と、地元の人なら誰でも歌える「通りを覚えるわらべ唄」を紹介してくださっています。

这次《有趣的京都指南》的作者英学(はなぶさがく)先生为我们讲述了京都街道名字的由来,并介绍了当地脍炙人口的“记路童谣”。

京都の通り名

京都的街道名

今回は京都の地理についてです。と言っても難しい話ではなく、中心地の通り名のお話です。京都の中心地はご存知の方も多いと思いますが、碁盤の目のようになっています。その通り一本一本には名前がついていてその覚え方まであるぐらいです。

本次讲解的是关于京都的地理情况。话虽如此但并不是什么复杂的事,只是关于中心地带的街道名称。想必很多人都知道京都的中心地,它们就像棋盘一样布列在这块土地上。每条道路都有它的名字,而且有专门的记忆方法。

今回はその歴史とユニークな通り名の唄をご紹介します。これを全て覚えてから京都を訪れると数倍楽しくなりますよ!

本次就向大家介绍这其中的历史以及独一无二的道路童谣。知道这些只是后再去逛京都的话一定会乐趣倍增哦!

794年に平安京に都を遷した桓武天皇は、唐(中国)の長安の都をモデルに「条坊制」と呼ばれる都市を築きました。都を中心に東西南北に道を走らせる区画を整備したのです。

794年桓武天皇迁都平安京(现京都),并仿照唐朝(中国)长安城市以“条坊制”构建城市框架。以都心为中心朝东南西北划分街道。

東西方向には13本の大路と26本の小路、南北方向には11本の大路と22本の小路が設けられ、中心に朱雀大路が整備されました。これにより現在の京都の特徴となる碁盤の目のような町並みが築かれました。

东西方向有13条大路和26条小巷,南北方向则设置了11条大路和22条小巷,中心修建了朱雀大路。以此建成了现在颇具京都风味的像棋盘一般的街道布局。

京都の市街地を走る通りの名前は、平安時代からありましたが庶民には浸透しなかったようです。その後時代が下って通り名を変えてから徐々に知られるようになったそうです。

京都市中心街道的名字自平安时代以来就已存在但似乎并没有渗透到平民百姓心中。之后随着时代的变化,街道名称也发生了改变,慢慢为众人所知。

例えば、今は若者に人気の寺町通りなどは当初東京極大路と呼ばれていました。鴨川のすぐ西側の通りなのでこの辺りが都の東の際だったということでしょう。

比如说现在在年轻人中人气十足的寺町街道在当初被称为东京极大路,因为街道位于鸭川西侧不远处,这附近又是都城最东面所以才得名的吧。

秀吉の時代に行われた都市改造で多くの寺院がこの通りの東側に移築された後に今の名前になったんですよ。

秀吉时代进行了诸多都市改造,将不少寺院移址到这条道路东侧后才改成现在的名字。

このように、歴史の移り変わりと共に町の状況や様子などを通り名に取り入れることが多かったようです。

像这样,随着历史的变迁根据街道的状况和外观来取名的情况十分常见。

京都独特の通りの名前とその由来

京都独特的街道名称及其由来

釜座(かまんざ)通り

釜座街道

梵鐘(ぼんしょう)や茶釜の鋳造を行っていた釜座が集まっていた通りで、今も三条釜師には大西家が家業をついています。茶道の千家のために茶道具を作り続ける家柄である千家十職の中の釡師·大西清右衛門(せうえもん)家がある通りです。

这里集聚了铸造梵钟和茶釜的釜座,如今三条釜师还在继续着大西家的家业。这里是世世代代为茶道千家流派制作茶道用具的千家十职中釜师·大西清右卫门家所在的街道。

上長者町(かみちょうじゃまち)通り

上长者町

江戸時代より貨幣を取引する裕福な両替商人の邸宅が立ち並んでいた通りでした。

这是一条林立着江户时代从事货币交易的富裕商人的宅邸的街道。

千本(せんぼん)通り

千本街道

葬送地·蓮台野(れんだいの)への道でおびただし数の死者を送るため千本もの卒塔婆が立てられていたと伝えられている通りです。

因在墓地莲台野为了送无数死者最后一程而设立了千座舍利子塔而得名。

両替町(りょうがえまち)通り

两替町

家康によって江戸時代に小判の製造をする金座が設けられ、金融関係の業者が軒を並べていたと伝わります。

江户时代德川家康执政时期在这里设立了金币制造所,众多金融工作者将店面设立在这里而得名。

京都中心地の十字路

京都中心地的十字路

京都の十字路の多くは、「四条河原町」のように交わる2本の通り名を合わせて呼ばれています。平安時代は、東西の大路が先に名前が付けられていたようです。その後、室町時代後期に商人に経済力がついてきたころに状況が変わります。

京都的大多数十字路都像“四条河原町”一样将两条相交街道的名称合起来得名。平安时代,东西向的大路是首先命名的,在那之后,室町时代后期商人的财力上升后改变了当时的状况。

町に優劣が生じ始めると「三条河原町」ではなく「河原町三条」というように、有力な町が面する通りが先にくるようになったのです。

当街道有了好坏之分后取名就不再是“三条河原町”而是“河原町三条”,将发展得较好的街道放在前面。

簡単に言うと、東西であるヨコの通りが先でタテの通りが後に読まれるのが、その逆に読まれるようになったということです。

简单来讲,原本街道的名称是东西横向在前纵向在后,但后来就反过来了。

京都では住所や道案内も通り名で表し、北へ向かうことを「上がる(あがる)」、南へは「下がる(さがる)」と言います。東へ向かうことを「東入る(ひがしいる)」、西へは「西入る(にしいる)」と言います。

在京都,住址和向导也用道路名表示,如果要向北走就说“往上”,向南走就说“往下”,向东走为“入东”,往西走为“入西”。

平安京の都では北に天皇が住む内裏(だいり)があったので、北へ行くことを「上がる」と言うようになったと伝えられています。これは京都独特の文化として現在も残っています。

天皇住在平安京的都市北边的内里,因此往北走就是“往上”。这作为京都独特的文化保留至今。

京都の子供はみんな歌える、通り名の唄

京都小孩子都会唱的道路名之歌

京都には昔からこの通り名を覚えるためのわらべ歌があります。いくつかあるのですが、そのうちの代表的なものをご紹介しましょう。

京都自古以来就有为了让大家记住路名而唱的儿歌。种类多种多样,今天为大家介绍以下具有代表性的儿歌。

東西の唄

东西之歌

「まる たけ えびす に おし おいけ あね さん ろっかく たこ にしき し あや ぶっ たか ま つ まん ごじょう せきだ ちゃらちゃら うおのたな ろくじょう しち(ひっ)ちょうとおりすぎ はちじょう(はっちょう)こえれば とうじみち くじょうおおじでとどめさす」

丸太町、竹屋町、夷川、二条、押小路、御池、姉小路、三条、六角、蛸薬師、錦小路、四条、綾小路、仏光寺、高辻、松原、万寿寺、五条、(雪駄屋町)、鍵屋町、(銭屋町)、(魚棚)、六条、三哲、七条、八条、九条、十条、東寺

南北の唄

南北之歌

「てら ごこ ふや とみ やなぎ さかい たか あい ひがし くるまやちょう からす りょうがえ むろ ころも しんまち かまんざ にし おがわ あぶら さめないで ほりかわのみず よしや いの くろ おおみやへ まつ ひぐらしに ちえこういん じょうふく せんぼん はてはにしじん」

寺町、御幸町、麩屋町、富小路、柳馬場、堺町、高倉、間之町、東洞院、車屋町、烏丸、両替町、室町、衣棚、新町、釜座、西洞院、小川、油小路、醒ヶ井、堀川、葭屋町、猪熊、黒門、大宮、松屋町、日暮、智恵光院、浄福寺、千本、西陣

京都では子供の頃にこれを教わり、通り名を覚える習慣があります。私もこれを覚えてからは迷うことなく市内中心部であればどこでも行けるようになりました。

在京都,人们从小就要学习这些歌曲,通过歌曲来记忆道路。我也将它牢记于心从未迷过路,只要在市内我就能去任何地方。

是非皆さんも今度京都に行くまでに覚えてみて下さい。楽しみが広がりますよ!

所以请大家也一定要在去京都游玩之前记下来,一定会乐趣倍增的哦!

本翻译为沪江日语原创,未经授权禁止转载。

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