外国人眼中日本人说不好英语的原因
日本の学生は週に1-2時間の英語の授業で、文法や語彙を学ぶ。そして、それで「学習」は終わりであるため、その後すぐにシベリアに投げ出されるような状態になってしまっている。日本の子供たちはたくさんの英語の言葉を知っているし、文法的知識も豊富なのに、それを実際にどのように使うのかを学ぶ場がない。要は習ったことを補強するための時間が不足しているのだ。英語での読書計画や、会話やディベート、プレゼンテーション、英語での映画鑑賞などに充てる時間が全くない。一人でも学べる「座学 」で終始してしまっているのが残念だ。
日本的学生在每周1-2小时的英语课上要学习语法和词汇。然后,“学习”就此就结束了,之后就是立刻被忘到九霄云外去了的状态。日本的孩子知道很多英语的词句,语法知识也很丰富,但是却没有学习实际上如何使用它们的地方。总而言之就是强化学过的知识的时间不足。用英语写读书计划、会话、辩论、作报告、用英语进行电影鉴赏等活动的时间完全不足。自始至终都是一个人学习,十分遗憾。
先生が黒板の前の教卓に立ち、生徒たちはみんな静かに先生の言うことを聴く…。こんな昔ながらの授業風景から脱することができていないのが、英語を学ぶ環境としてマイナスになっている。先生だけが一人で話し、それをみんな良い子になって静かに聞いているのだが、実際に先生の話を真剣に聞いている人はあまりいなかったりする。日本での英語の授業風景は、「泳ぎ方」を毎週教室でレクチャー するようなものだ。
老师站在黑板前的讲台上,学生们都安安静静地听老师讲课……。这种从以前开始就有的教学场景至今仍然未能摆脱,但它作为学习英语的环境来说是十分不利的。只有老师一个人在说话,学生们都像好孩子一样静静地聆听老师的话,但实际上并没有多少在认真听老师讲课的人。在日本教授英语的场景就像是每周在教室里讲授“游泳的方法”一样。
日本の学生はたくさんのことを学ぶが、その知識を実践することができない。持論だが、スピーキングに必要なのは情報ではなく、スキルだ。正しいやり方を知っていても、実際にやってみたら「できない」という経験は誰もがしたことがあるだろう(サッカーのテレビゲームは上手いのに、サッカーはできないとか)。英会話というのはまさにこれと同じで、実際に会話してみることが何よりも重要なのだ。知識の詰込みだけではあまり意味がない。
日本的学生学习很多东西,但是却没能把这些知识付诸于实践。虽然是一贯的主张,但对于口语来说必要的不是情报,而是技巧。即使知道正确的做法,但是实际上尝试着做了一下之后发现“做不来”的经验每个人都有过吧(明明很擅长足球游戏,但却不会踢足球之类的)。英语会话正是这个道理,实际上尝试着进行会话比什么都重要。只是一味地灌输知识没有什么意义。
日本は無言でやり通すことが許される文化だ。というより、実際は「話さない」ことを求められる。「波風を立てない」ことをベースに、社会が成り立っているのだ。心の中で本当に思っていることを言葉にする…なんてことをしてほしいと思っている人はいない。これは子どもの頃から刷り込まれること。
日本文化允许从头到尾都默默不语。与其这样说,倒不如说实际上还追求“不说话”。社会是以“不挑起风波”为基础建立起来的。没有人想要将自己心中真正所想的话说出来。这是从孩童时代开始就深深印刻在心中的。
日本人はそもそも、英語は「選択肢」だと思っている。「必要不可欠」だと感じている人は少ない。日本では、どこもかしこも 全てが「日本語表記」だからだ。日本にいるほとんどの人が「日本人」に見える。それはまるで、日本以外に他の国が存在しないかのようだ(テレビ以外では)。日本人が英語を使わなくちゃいけない機会に接する確率は、日本でそろばん が必要になる確率と同じ…だと思っているようである。「英語を学ぶ」ことを選択して海外にいる日本人とは違って、大抵の日本人にとって「英語は必要ないモノ」なわけだ。毎日洗濯すること?これのほうが優先事項で、英語なんていつでも後で学べると思っているのである。
说到底日本人还是把英语看做一个“选项”。很少有人觉得是“必要、不可少”的。因为在日本,到处都是用“日语标记”的。他们把在日本的大多数人都看作是日本人。这简直就好像是根本不存在日本以外的国家一样(在电视以外)。日本人接触到不得不使用英语的机会的概率,我想就像是在日本必须要用算盘一样的概率。与选择“学习英语”,然后居于海外的日本人不同,对于大多日本人来说“英语不是必要的东西”。他们认为每天洗衣服与此相比是更重要的事情,英语什么的以后什么时候都能学。
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