日语文学作品赏析《偸盗》(1)
作者:芥川龍之介
来源:青空文库
2010-06-01 13:29
一
「おばば、猪熊 のおばば。」
朱雀綾小路 の辻 で、じみな紺の水干 に揉烏帽子 をかけた、二十 ばかりの、醜い、片目の侍が、平骨 の扇を上げて、通りかかりの老婆を呼びとめた。――
むし暑く夏霞 のたなびいた空が、息をひそめたように、家々の上をおおいかぶさった、七月のある日ざかりである。男の足をとめた辻には、枝のまばらな、ひょろ長い葉柳 が一本、このごろはやる疫病 にでもかかったかと思う姿で、形 ばかりの影を地の上に落としているが、ここにさえ、その日にかわいた葉を動かそうという風はない。まして、日の光に照りつけられた大路には、あまりの暑さにめげたせいか、人通りも今はひとしきりとだえて、たださっき通った牛車 のわだちが長々とうねっているばかり、その車の輪にひかれた、小さな蛇 も、切れ口の肉を青ませながら、始めは尾をぴくぴくやっていたが、いつか脂 ぎった腹を上へ向けて、もう鱗 一つ動かさないようになってしまった。どこもかしこも、炎天のほこりを浴びたこの町の辻で、わずかに一滴の湿りを点じたものがあるとすれば、それはこの蛇 の切れ口から出た、なまぐさい腐れ水ばかりであろう。
「おばば。」
「……」
老婆は、あわただしくふり返った。見ると、年は六十ばかりであろう。垢 じみた檜皮色 の帷子 に、黄ばんだ髪の毛をたらして、尻 の切れた藁草履 をひきずりながら、長い蛙股 の杖 をついた、目の丸い、口の大きな、どこか蟇 の顔を思わせる、卑しげな女である。
「おや、太郎さんか。」
日の光にむせるような声で、こう言うと、老婆は、杖をひきずりながら、二足三足あとへ帰って、まず口を切る前に、上くちびるをべろりとなめて見せた。
「何か用でもおありか。」
「いや、別に用じゃない。」
片目は、うすいあばたのある顔に、しいて作ったらしい微笑をうかべながら、どこか無理のある声で、快活にこう言った。
「ただ、沙金 がこのごろは、どこにいるかと思ってな。」
「用のあるは、いつも娘ばかりさね。鳶 が鷹 を生んだおかげには。」
猪熊 のばばは、いやみらしく、くちびるをそらせながら、にやついた。
「用と言うほどの用じゃないが、今夜の手はずも、まだ聞かないからな。」
「なに、手はずに変わりがあるものかね。集まるのは羅生門 、刻限は亥 の上刻 ――みんな昔から、きまっているとおりさ。」
老婆は、こう言って、わるがしこそうに、じろじろ、左右をみまわしたが、人通りのないのに安心したのかまた、厚いくちびるをちょいとなめて、
「家内の様子は、たいてい娘が探って来たそうだよ。それも、侍たちの中には、手のきくやつがいるまいという事さ。詳しい話は、今夜娘がするだろうがね。」
これを聞くと、太郎と言われた男は、日をよけた黄紙 の扇の下で、あざけるように、口をゆがめた。
「じゃ沙金 はまた、たれかあすこの侍とでも、懇意になったのだな。」
「なに、やっぱり販婦 か何かになって、行ったらしいよ。」
「なんになって行ったって、あいつの事だ。当てになるものか。」
「お前さんは、相変わらずうたぐり深いね。だから、娘にきらわれるのさ。やきもちにも、ほどがあるよ。」
老婆は、鼻の先で笑いながら、杖 を上げて、道ばたの蛇 の死骸 を突っついた。いつのまにかたかっていた青蝿 が、むらむらと立ったかと思うと、また元のように止まってしまう。
「そんな事じゃ、しっかりしないと、次郎さんに取られてしまうよ。取られてもいいが、どうせそうなれば、ただじゃすまないからね。おじいさんでさえ、それじゃ時々、目の色を変えるんだから、お前さんならなおさらだろうじゃないか。」
「わかっているわな。」
相手は、顔をしかめながら、いまいましそうに、柳の根へつばを吐いた。
「それがなかなか、わからないんだよ。今でこそお前さんだって、そうやって、すましているが、娘とおじいさんとの仲をかぎつけた時には、まるで、気がふれたようだったじゃないか。おじいさんだって、そうさ、あれで、もう少し気が強かろうものなら、すぐにお前さんと刃物三昧 だわね。」
「そりゃもう一年前 の事だ。」
「何年前 でも、同じ事だよ。一度した事は、三度するって言うじゃないか。三度だけなら、まだいいほうさ。わたしなんぞは、この年まで、同じばかを、何度したか、わかりゃしないよ。」
こう言って、老婆は、まばらな齒を出して、笑った。
「冗談じゃない。――それより、今夜の相手は、曲がりなりにも、藤判官 だ、手くばりはもうついたのか。」
太郎は、日にやけた顔に、いらだたしい色を浮かべながら、話頭を転じた。おりから、雲の峰が一つ、太陽の道に当たったのであろう。あたりが□然 と、暗くなった。その中に、ただ、蛇 の死骸 だけが、前よりもいっそう腹の脂 を、ぎらつかせているのが見える。
「なんの、藤判官だといって、高が青侍の四人や五人、わたしだって、昔とったきねづかさ。」
「ふん、おばばは、えらい勢いだな。そうして、こっちの人数 は?」
「いつものとおり、男が二十三人。それにわたしと娘だけさ。阿濃 は、あのからだだから、朱雀門 に待っていて、もらう事にしようよ。」
「そう言えば、阿濃も、かれこれ臨月だったな。」
太郎はまた、あざけるように口をゆがめた。それとほとんど同時に、雲の影が消えて、往来はたちまち、元のように、目が痛むほど、明るくなる。――猪熊 のばばも、腰をそらせて、ひとしきり東鴉 のような笑い声を立てた。
「あの阿呆 をね。たれがまあ手をつけたんだか――もっとも、阿濃 は次郎さんに、執心 だったが、まさかあの人でもなかろうよ。」
「親のせんぎはともかく、あのからだじゃ何かにつけて不便だろう。」
「そりゃ、どうにでもしかたはあるのだけれど、あれが不承知なのだから、困るわね。おかげで、仲間の者へ沙汰 をするのも、わたし一人という始末さ。真木島 の十郎、関山 の平六 、高市 の多襄丸 と、まだこれから、三軒まわらなくっちゃ――おや、そう言えば、油を売っているうちに、もうかれこれ未 になる。お前さんも、もうわたしのおしゃべりには、聞き飽きたろう。」
蛙股 の杖 は、こういうことばと共に動いた。
「が、沙金 は?」
この時、太郎のくちびるは、目に見えぬほど、かすかにひきつった。が、老婆は、これに気がつかなかったらしい。
「おおかた、きょうあたりは、猪熊のわたしの家 で、昼寝でもしているだろうよ。きのうまでは、家 にいなかったがね。」
片目は、じっと老婆を見た。そうして、それから、静かな声で、
「じゃ、いずれまた、日が暮れてから、会おう。」
「あいさ。それまでは、お前さんも、ゆっくり昼寝でもする事だよ。」
猪熊 のばばは、口達者に答えながら、杖 をひいて、歩きだした。綾小路 を東へ、猿 のような帷子姿 が、藁草履 の尻 にほこりをあげて、日ざしにも恐れず、歩いてゆく。――それを見送った侍は、汗のにじんだ額に、険しい色を動かしながら、もう一度、柳の根につばを吐くと、それからおもむろに、くびすをめぐらした。
二人の別れたあとには、例の蛇 の死骸 にたかった青蝿 が、相変わらず日の光の中に、かすかな羽音を伝えながら、立つかと思うと、止まっている。……
二
猪熊のばばは、黄ばんだ髪の根に、じっとりと汗をにじませながら、足にかかる夏のほこりも払わずに、杖をつきつき歩いてゆく。――
通い慣れた道ではあるが、自分が若かった昔にくらべれば、どこもかしこも、うそのような変わり方である。自分が、まだ台盤所 の婢女 をしていたころの事を思えば、――いや、思いがけない身分ちがいの男に、いどまれて、とうとう沙金 を生んだころの事を思えば、今の都は、名ばかりで、そのころのおもかげはほとんどない。昔は、牛車 の行きかいのしげかった道も、今はいたずらにあざみの花が、さびしく日だまりに、咲いているばかり、倒れかかった板垣 の中には、無花果 が青い実をつけて、人を恐れない鴉 の群れは、昼も水のない池につどっている。そうして、自分もいつか、髪が白 みしわがよって、ついには腰のまがるような、老いの身になってしまった。都も昔の都でなければ、自分も昔の自分でない。
その上、貌 も変われば、心も変わった。始めて娘と今の夫との関係を知った時、自分は、泣いて騒いだ覚えがある。が、こうなって見れば、それも、当たりまえの事としか思われない。盗みをする事も、人を殺す事も、慣れれば、家業と同じである。言わば京の大路小路 に、雑草がはえたように、自分の心も、もうすさんだ事を、苦にしないほど、すさんでしまった。が、一方から見ればまた、すべてが変わったようで、変わっていない。娘の今している事と、自分の昔した事とは、存外似よったところがある。あの太郎と次郎とにしても、やはり今の夫の若かったころと、やる事にたいした変わりはない。こうして人間は、いつまでも同じ事を繰り返してゆくのであろう。そう思えば、都も昔の都なら、自分も昔の自分である。……
猪熊 のばばの心の中には、こういう考えが、漠然 とながら、浮かんで来た。そのさびしい心もちに、つまされたのであろう、丸い目がやさしくなって、蟇 のような顔の肉が、いつのまにか、ゆるんで来る。――と、また急に、老婆は、生き生きと、しわだらけの顔をにやつかせて、蛙股 の杖 のはこびを、前よりも急がせ始めた。
それも、そのはずである。四五間先に、道とすすき原とを(これも、元はたれかの広庭であったのかもしれない。)隔てる、くずれかかった築土 があって、その中に、盛りをすぎた合歓 の木が二三本、こけの色の日に焼けた瓦 の上に、ほほけた、赤い花をたらしている。それを空 に、枯れ竹の柱を四すみへ立てて、古むしろの壁を下げた、怪しげな小屋が一つ、しょんぼりとかけてある。――場所と言い、様子と言い、中には、こじきでも住んでいるらしい。
別して、老婆の目をひいたのは、その小屋の前に、腕を組んでたたずんだ、十七八の若侍で、これは、朽ち葉色の水干に黒鞘 の太刀 を横たえたのが、どういうわけか、しさいらしく、小屋の中をのぞいている。そのういういしい眉 のあたりから、まだ子供らしさのぬけない頬 のやつれが、一目で老婆に、そのたれという事を知らせてくれた。
「何をしているのだえ。次郎さん。」
猪熊 のばばは、そのそばへ歩みよると、蛙股 の杖 を止めて、あごをしゃくりながら、呼びかけた。
相手は、驚いて、ふり返ったが、つくも髪の、蟇 の面 の、厚いくちびるをなめる舌を見ると、白い齒を見せて微笑しながら、黙って、小屋の中を指さした。
小屋の中には、破れ畳を一枚、じかに地面へ敷いた上に、四十格好 の小柄な女が、石を枕 にして、横になっている。それも、肌 をおおうものは、腰のあたりにかけてある、麻の汗衫 一つぎりで、ほとんど裸と変わりがない。見ると、その胸や腹は、指で押しても、血膿 にまじった、水がどろりと流れそうに、黄いろくなめらかに、むくんでいる。ことに、むしろの裂け目から、天日 のさしこんだ所で見ると、わきの下や首のつけ根に、ちょうど腐った杏 のような、どす黒い斑 があって、そこからなんとも言いようのない、異様な臭気が、もれるらしい。
枕もとには、縁の欠けた土器 がたった一つ(底に飯粒がへばりついているところを見ると、元は粥 でも入れたものであろう。)捨てたように置いてあって、たれがしたいたずらか、その中に五つ六 つ、泥 だらけの石ころが行儀よく積んである。しかも、そのまん中に、花も葉もひからびた、合歓 を一枝立てたのは、おおかた高坏 へ添える色紙 の、心葉 をまねたものであろう。
それを見ると、気丈な猪熊 のばばも、さすがに顔をしかめて、あとへさがった。そうして、その刹那 に、突然さっきの蛇 の死骸 を思い浮かべた。
「なんだえ。これは。疫病 にかかっている人じゃないか。」
「そうさ。とてもいけないというので、どこかこの近所の家 で、捨てたのだろう。これじゃ、どこでも持てあつかうよ。」
次郎はまた、白い齒を見せて、微笑した。
「それを、お前さんはまた、なんだって、見てなんぞいるのさ。」
「なに、今ここを通りかかったら、野ら犬が二三匹、いい餌食 を見つけた気で、食いそうにしていたから、石をぶつけて、追い払ってやったところさ。わたしが来なかったら、今ごろはもう、腕の一つも食われてしまったかもしれない。」
老婆は、蛙股 の杖 にあごをのせて、もう一度しみじみ、女のからだを見た。さっき、犬が食いかかったというのは、これであろう。――破れ畳の上から、往来の砂の中へ、斜めにのばした二の腕には、水気 を持った、土け色の皮膚に、鋭い齒の跡が三 つ四 つ、紫がかって残っている。が、女は、じっと目をつぶったなり、息さえ通 っているかどうかわからない。老婆は、再び、はげしい嫌悪 の感に、面 を打たれるような心もちがした。
「いったい、生きているのかえ。それとも、死んでいるのかえ。」
「どうだかね。」
「気らくだよ、この人は。死んだものなら、犬が食ったって、いいじゃないか。」
老婆は、こう言うと、蛙股 の杖 をのべて、遠くから、ぐいと女の頭を突いてみた。頭はまくらの石をはずれて、砂に髪をひきながら、たわいなく畳の上へぐたりとなる。が、病人は、依然として、目をつぶったまま、顔の筋肉一つ動かさない。
「そんな事をしたって、だめだよ。さっきなんぞは、犬に食いつかれてさえ、やっぱりじっとしていたんだから。」
「それじゃ、死んでいるのさ。」
次郎は、三たび白い齒を見せて、笑った。
「死んでいたって、犬に食わせるのは、ひどいやね。」
「何がひどいものかね。死んでしまえば、犬に食われたって、痛くはなしさ。」
老婆は、杖 の上でのび上がりながら、ぎょろり目を大きくして、あざわらうように、こう言った。
「死ななくったって、ひくひくしているよりは、いっそ一思いに、のど笛でも犬に食いつかれたほうが、ましかもしれないわね。どうせこれじゃ、生きていたって、長い事はありゃせずさ。」
「だって、人間が犬に食われるのを、黙って見てもいられないじゃないか。」
すると、猪熊 のばばは、上くちびるをべろりとやって、ふてぶてしく空うそぶいた。
「そのくせ、人間が人間を殺すのは、お互いに平気で、見ているじゃないか。」
「そう言えば、そうさ。」
次郎は、ちょいと鬢 をかいて、四たび白い齒を見せながら、微笑した。そうして、やさしく老婆の顔をながめながら、
「どこへ行 くのだい、おばばは。」と問いかけた。
「真木島 の十郎と、高市 の多襄丸 と、――ああ、そうだ。関山 の平六 へは、お前さんに、言づけを頼もうかね。」
こう言ううちに、猪熊 のばばは、杖 にすがって、もう二足三足歩いている。
「ああ、行ってもいい。」
次郎もようやく、病人の小屋をあとにして、老婆と肩を並べながら、ぶらぶら炎天の往来を歩きだした。
「あんなものを見たんで、すっかり気色 がわるくなってしまったよ。」
老婆は、大仰 に顔をしかめながら、
「――ええと、平六の家 は、お前さんも知っているだろう。これをまっすぐに行って、立本寺 の門を左へ切れると、藤判官 の屋敷がある。あの一町ばかり先さ。ついでだから、屋敷のまわりでもまわって、今夜の下見をしておおきよ。」
「なにわたしも、始めからそのつもりで、こっちへ出て来たのさ。」
「そうかえ、それはお前さんにしては、気がきいたね。お前さんのにいさんの御面相じゃ、一つ間違うと、向こうにけどられそうで、下見に行っても、もらえないが、お前さんなら、大丈夫だよ。」
「かわいそうに、兄きもおばばの口にかかっちゃ、かなわないね。」
「なに、わたしなんぞはいちばん、あの人の事をよく言っているほうさ。おじいさんなんぞと来たら、お前さんにも話せないような事を、言っているわね。」
「それは、あの事があるからさ。」
「あったって、お前さんの悪口は、言わないじゃないか。」
「じゃおおかた、わたしは子供扱いにされているんだろう。」
二人は、こんな閑談をかわしながら、狭い往来をぶらぶら歩いて行った。歩くごとに、京の町の荒廃は、いよいよ、まのあたりに開けて来る。家と家との間に、草いきれを立てている蓬原 、そのところどころに続いている古築土 、それから、昔のまま、わずかに残っている松や柳――どれを見ても、かすかに漂う死人 のにおいと共に、滅びてゆくこの大きな町を、思わせないものはない。途中では、ただ一人、手に足駄 をはいている、いざりのこじきに行 きちがった。――
「だが、次郎さん、お気をつけよ。」
猪熊 のばばは、ふと太郎の顔を思い浮かべたので、ひとり苦笑を浮かべながら、こう言った。
「娘の事じゃ、ずいぶんにいさんも、夢中になりかねないからね。」
が、これは、次郎の心に、思ったよりも大きな影響を与えたらしい。彼は、ひいでた眉 の間を、にわかに曇らせながら、不快らしく目を伏せた。
「そりゃわたしも、気をつけている。」
「気をつけていてもさ。」
老婆は、いささか、相手の感情の、この急激な変化に驚きながら、例のごとくくちびるをなめなめ、つぶやいた。
「気をつけていてもだわね。」
「しかし、兄きの思わくは兄きの思わくで、わたしには、どうにもできないじゃないか。」
「そう言えば、実 もふたもなくなるがさ。実はわたしは、きのう娘に会ったのだよ。すると、きょう未 の下刻 に、お前さんと寺の門の前で、会う事になっていると言うじゃないか。それで、お前さんのにいさんには半月近くも、顔は合わせないようにしているとね、太郎さんがこんな事を知ってごらん。また、お前さん、一悶着 だろう。」
次郎は、老婆の□々 として説くことばをさえぎるように、黙って、いらだたしく何度もうなずいた。が、猪熊 のばばは、容易に口を閉ざしそうなけしきもない。
「さっき、向こうの辻 で、太郎さんに会った時にも、わたしはよくそう言って来たけれどね、そうなりゃ、わたしたちの仲間だもの、すぐに刃物三昧 だろうじゃないか。万一、その時のはずみで、娘にけがでもあったら、とわたしは、ただ、それが心配なのさ。娘は、なにしろあのとおりの気質だし、太郎さんにしても、一徹人 だから、わたしは、お前さんによく頼んでおこうと思ってね。お前さんは、死人 が犬に食われるのさえ、見ていられないほど、やさしいんだから。」
こう言って、老婆は、いつか自分にも起こって来た不安を、しいて消そうとするように、わざとしわがれた声で、笑って見せた。が、次郎は依然として、顔を暗くしながら、何か物思いにふけるように、目を伏せて歩いている。……
「大事 にならなければいいが。」
猪熊 のばばは、蛙股 の杖 を早めながら、この時始めて心の底で、しみじみこう、祈ったのである。
かれこれその時分の事である。楚 の先に蛇 の死骸 をひっかけた、町の子供が三四人、病人の小屋の外を通りかかると、中でもいたずらな一人が、遠くから及び腰になって、その蛇 を女の顔の上へほうり上げた。青く脂 の浮いた腹がぺたり、女の頬 に落ちて、それから、腐れ水にぬれた尾が、ずるずるあごの下へたれる――と思うと、子供たちは、一度にわっとわめきながら、おびえたように、四方へ散った。
今まで死んだようになっていた女が、その時急に、黄いろくたるんだまぶたをあけて、腐った卵の白味のような目を、どんより空 に据 えながら、砂まぶれの指を一つびくりとやると、声とも息ともわからないものが、干割れたくちびるの奥のほうから、かすかにもれて来たからである。
「おばば、
むし暑く
「おばば。」
「……」
老婆は、あわただしくふり返った。見ると、年は六十ばかりであろう。
「おや、太郎さんか。」
日の光にむせるような声で、こう言うと、老婆は、杖をひきずりながら、二足三足あとへ帰って、まず口を切る前に、上くちびるをべろりとなめて見せた。
「何か用でもおありか。」
「いや、別に用じゃない。」
片目は、うすいあばたのある顔に、しいて作ったらしい微笑をうかべながら、どこか無理のある声で、快活にこう言った。
「ただ、
「用のあるは、いつも娘ばかりさね。
「用と言うほどの用じゃないが、今夜の手はずも、まだ聞かないからな。」
「なに、手はずに変わりがあるものかね。集まるのは
老婆は、こう言って、わるがしこそうに、じろじろ、左右をみまわしたが、人通りのないのに安心したのかまた、厚いくちびるをちょいとなめて、
「家内の様子は、たいてい娘が探って来たそうだよ。それも、侍たちの中には、手のきくやつがいるまいという事さ。詳しい話は、今夜娘がするだろうがね。」
これを聞くと、太郎と言われた男は、日をよけた
「じゃ
「なに、やっぱり
「なんになって行ったって、あいつの事だ。当てになるものか。」
「お前さんは、相変わらずうたぐり深いね。だから、娘にきらわれるのさ。やきもちにも、ほどがあるよ。」
老婆は、鼻の先で笑いながら、
「そんな事じゃ、しっかりしないと、次郎さんに取られてしまうよ。取られてもいいが、どうせそうなれば、ただじゃすまないからね。おじいさんでさえ、それじゃ時々、目の色を変えるんだから、お前さんならなおさらだろうじゃないか。」
「わかっているわな。」
相手は、顔をしかめながら、いまいましそうに、柳の根へつばを吐いた。
「それがなかなか、わからないんだよ。今でこそお前さんだって、そうやって、すましているが、娘とおじいさんとの仲をかぎつけた時には、まるで、気がふれたようだったじゃないか。おじいさんだって、そうさ、あれで、もう少し気が強かろうものなら、すぐにお前さんと
「そりゃもう一年
「何年
こう言って、老婆は、まばらな齒を出して、笑った。
「冗談じゃない。――それより、今夜の相手は、曲がりなりにも、
太郎は、日にやけた顔に、いらだたしい色を浮かべながら、話頭を転じた。おりから、雲の峰が一つ、太陽の道に当たったのであろう。あたりが
「なんの、藤判官だといって、高が青侍の四人や五人、わたしだって、昔とったきねづかさ。」
「ふん、おばばは、えらい勢いだな。そうして、こっちの
「いつものとおり、男が二十三人。それにわたしと娘だけさ。
「そう言えば、阿濃も、かれこれ臨月だったな。」
太郎はまた、あざけるように口をゆがめた。それとほとんど同時に、雲の影が消えて、往来はたちまち、元のように、目が痛むほど、明るくなる。――
「あの
「親のせんぎはともかく、あのからだじゃ何かにつけて不便だろう。」
「そりゃ、どうにでもしかたはあるのだけれど、あれが不承知なのだから、困るわね。おかげで、仲間の者へ
「が、
この時、太郎のくちびるは、目に見えぬほど、かすかにひきつった。が、老婆は、これに気がつかなかったらしい。
「おおかた、きょうあたりは、猪熊のわたしの
片目は、じっと老婆を見た。そうして、それから、静かな声で、
「じゃ、いずれまた、日が暮れてから、会おう。」
「あいさ。それまでは、お前さんも、ゆっくり昼寝でもする事だよ。」
二人の別れたあとには、例の
二
猪熊のばばは、黄ばんだ髪の根に、じっとりと汗をにじませながら、足にかかる夏のほこりも払わずに、杖をつきつき歩いてゆく。――
通い慣れた道ではあるが、自分が若かった昔にくらべれば、どこもかしこも、うそのような変わり方である。自分が、まだ
その上、
それも、そのはずである。四五間先に、道とすすき原とを(これも、元はたれかの広庭であったのかもしれない。)隔てる、くずれかかった
別して、老婆の目をひいたのは、その小屋の前に、腕を組んでたたずんだ、十七八の若侍で、これは、朽ち葉色の水干に
「何をしているのだえ。次郎さん。」
相手は、驚いて、ふり返ったが、つくも髪の、
小屋の中には、破れ畳を一枚、じかに地面へ敷いた上に、四十
枕もとには、縁の欠けた
それを見ると、気丈な
「なんだえ。これは。
「そうさ。とてもいけないというので、どこかこの近所の
次郎はまた、白い齒を見せて、微笑した。
「それを、お前さんはまた、なんだって、見てなんぞいるのさ。」
「なに、今ここを通りかかったら、野ら犬が二三匹、いい
老婆は、
「いったい、生きているのかえ。それとも、死んでいるのかえ。」
「どうだかね。」
「気らくだよ、この人は。死んだものなら、犬が食ったって、いいじゃないか。」
老婆は、こう言うと、
「そんな事をしたって、だめだよ。さっきなんぞは、犬に食いつかれてさえ、やっぱりじっとしていたんだから。」
「それじゃ、死んでいるのさ。」
次郎は、三たび白い齒を見せて、笑った。
「死んでいたって、犬に食わせるのは、ひどいやね。」
「何がひどいものかね。死んでしまえば、犬に食われたって、痛くはなしさ。」
老婆は、
「死ななくったって、ひくひくしているよりは、いっそ一思いに、のど笛でも犬に食いつかれたほうが、ましかもしれないわね。どうせこれじゃ、生きていたって、長い事はありゃせずさ。」
「だって、人間が犬に食われるのを、黙って見てもいられないじゃないか。」
すると、
「そのくせ、人間が人間を殺すのは、お互いに平気で、見ているじゃないか。」
「そう言えば、そうさ。」
次郎は、ちょいと
「どこへ
「
こう言ううちに、
「ああ、行ってもいい。」
次郎もようやく、病人の小屋をあとにして、老婆と肩を並べながら、ぶらぶら炎天の往来を歩きだした。
「あんなものを見たんで、すっかり
老婆は、
「――ええと、平六の
「なにわたしも、始めからそのつもりで、こっちへ出て来たのさ。」
「そうかえ、それはお前さんにしては、気がきいたね。お前さんのにいさんの御面相じゃ、一つ間違うと、向こうにけどられそうで、下見に行っても、もらえないが、お前さんなら、大丈夫だよ。」
「かわいそうに、兄きもおばばの口にかかっちゃ、かなわないね。」
「なに、わたしなんぞはいちばん、あの人の事をよく言っているほうさ。おじいさんなんぞと来たら、お前さんにも話せないような事を、言っているわね。」
「それは、あの事があるからさ。」
「あったって、お前さんの悪口は、言わないじゃないか。」
「じゃおおかた、わたしは子供扱いにされているんだろう。」
二人は、こんな閑談をかわしながら、狭い往来をぶらぶら歩いて行った。歩くごとに、京の町の荒廃は、いよいよ、まのあたりに開けて来る。家と家との間に、草いきれを立てている
「だが、次郎さん、お気をつけよ。」
「娘の事じゃ、ずいぶんにいさんも、夢中になりかねないからね。」
が、これは、次郎の心に、思ったよりも大きな影響を与えたらしい。彼は、ひいでた
「そりゃわたしも、気をつけている。」
「気をつけていてもさ。」
老婆は、いささか、相手の感情の、この急激な変化に驚きながら、例のごとくくちびるをなめなめ、つぶやいた。
「気をつけていてもだわね。」
「しかし、兄きの思わくは兄きの思わくで、わたしには、どうにもできないじゃないか。」
「そう言えば、
次郎は、老婆の
「さっき、向こうの
こう言って、老婆は、いつか自分にも起こって来た不安を、しいて消そうとするように、わざとしわがれた声で、笑って見せた。が、次郎は依然として、顔を暗くしながら、何か物思いにふけるように、目を伏せて歩いている。……
「
かれこれその時分の事である。
今まで死んだようになっていた女が、その時急に、黄いろくたるんだまぶたをあけて、腐った卵の白味のような目を、どんより
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