日语文学作品赏析《おしの》
作者:芥川龍之介
来源:青空文库
2010-01-06 00:00
ここは南蛮寺 の堂内である。ふだんならばまだ硝子画 の窓に日の光の当っている時分であろう。が、今日は梅雨曇 りだけに、日の暮の暗さと変りはない。その中にただゴティック風の柱がぼんやり木の肌 を光らせながら、高だかとレクトリウムを守っている。それからずっと堂の奥に常燈明 の油火 が一つ、龕 の中に佇 んだ聖者の像を照らしている。参詣人はもう一人もいない。
そう云う薄暗い堂内に紅毛人 の神父 が一人、祈祷 の頭を垂 れている。年は四十五六であろう。額の狭 い、顴骨 の突き出た、頬鬚 の深い男である。床 の上に引きずった着物は「あびと」と称 える僧衣らしい。そう云えば「こんたつ」と称 える念珠 も手頸 を一巻 き巻いた後 、かすかに青珠 を垂らしている。
堂内は勿論ひっそりしている。神父はいつまでも身動きをしない。
そこへ日本人の女が一人、静かに堂内へはいって来た。紋 を染めた古帷子 に何か黒い帯をしめた、武家 の女房らしい女である。これはまだ三十代であろう。が、ちょいと見たところは年よりはずっとふけて見える。第一妙に顔色が悪い。目のまわりも黒い暈 をとっている。しかし大体 の目鼻だちは美しいと言っても差支えない。いや、端正に過ぎる結果、むしろ険 のあるくらいである。
女はさも珍らしそうに聖水盤 や祈祷机を見ながら、怯 ず怯 ず堂の奥へ歩み寄った。すると薄暗い聖壇の前に神父が一人跪 いている。女はやや驚いたように、ぴたりとそこへ足を止めた。が、相手の祈祷していることは直 にそれと察せられたらしい。女は神父を眺めたまま、黙然 とそこに佇 んでいる。
堂内は不相変 ひっそりしている。神父も身動きをしなければ、女も眉 一つ動かさない。それがかなり長い間 であった。
その内に神父は祈祷をやめると、やっと床 から身を起した。見れば前には女が一人、何か云いたげに佇 んでいる。南蛮寺 の堂内へはただ見慣れぬ磔仏 を見物に来るものも稀 ではない。しかしこの女のここへ来たのは物好きだけではなさそうである。神父はわざと微笑しながら、片言 に近い日本語を使った。
「何か御用ですか?」
「はい、少々お願いの筋がございまして。」
女は慇懃 に会釈 をした。貧しい身なりにも関 らず、これだけはちゃんと結 い上げた笄髷 の頭を下げたのである。神父は微笑 んだ眼に目礼 した。手は青珠 の「こんたつ」に指をからめたり離したりしている。
「わたくしは一番 ヶ瀬 半兵衛 の後家 、しのと申すものでございます。実はわたくしの倅 、新之丞 と申すものが大病なのでございますが……」
女はちょいと云い澱 んだ後 、今度は朗読でもするようにすらすら用向きを話し出した。新之丞は今年十五歳になる。それが今年 の春頃から、何ともつかずに煩 い出した。咳 が出る、食欲 が進まない、熱が高まると言う始末 である、しのは力の及ぶ限り、医者にも見せたり、買い薬もしたり、いろいろ養生 に手を尽した。しかし少しも効験 は見えない。のみならず次第に衰弱する。その上この頃は不如意 のため、思うように療治 をさせることも出来ない。聞けば南蛮寺 の神父の医方 は白癩 さえ直すと云うことである。どうか新之丞の命も助けて頂きたい。………
「お見舞下さいますか? いかがでございましょう?」
女はこう云う言葉の間 も、じっと神父を見守っている。その眼には憐 みを乞う色もなければ、気づかわしさに堪えぬけはいもない。ただほとんど頑 なに近い静かさを示しているばかりである。
「よろしい。見て上げましょう。」
神父は顋鬚 を引張りながら、考え深そうに頷 いて見せた。女は霊魂 の助かりを求めに来たのではない。肉体の助かりを求めに来たのである。しかしそれは咎 めずとも好 い。肉体は霊魂の家である。家の修覆 さえ全 ければ、主人の病もまた退き易い。現にカテキスタのフヮビアンなどはそのために十字架 を拝するようになった。この女をここへ遣 わされたのもあるいはそう云う神意かも知れない。
「お子さんはここへ来られますか。」
「それはちと無理かと存じますが……」
「ではそこへ案内して下さい。」
女の眼に一瞬間の喜びの輝いたのはこの時である。
「さようでございますか? そうして頂ければ何よりの仕合せでございます。」
神父は優しい感動を感じた。やはりその一瞬間、能面 に近い女の顔に争われぬ母を見たからである。もう前に立っているのは物堅 い武家の女房ではない。いや日本人の女でもない。むかし飼槽 の中の基督 に美しい乳房 を含ませた「すぐれて御愛憐 、すぐれて御柔軟 、すぐれて甘 くまします天上の妃 」と同じ母になったのである。神父は胸を反 らせながら、快活に女へ話しかけた。
「御安心なさい。病もたいていわかっています。お子さんの命は預りました。とにかく出来るだけのことはして見ましょう。もしまた人力に及ばなければ、……」
女は穏 かに言葉を挟 んだ。
「いえ、あなた様さえ一度お見舞い下されば、あとはもうどうなりましても、さらさら心残りはございません。その上はただ清水寺 の観世音菩薩 の御冥護 にお縋 り申すばかりでございます。」
観世音菩薩! この言葉はたちまち神父の顔に腹立たしい色を漲 らせた。神父は何も知らぬ女の顔へ鋭い眼を見据 えると、首を振り振りたしなめ出した。
「お気をつけなさい。観音 、釈迦 八幡 、天神 、――あなたがたの崇 めるのは皆木や石の偶像 です。まことの神、まことの天主 はただ一人しか居られません。お子さんを殺すのも助けるのもデウスの御思召 し一つです。偶像の知ることではありません。もしお子さんが大事ならば、偶像に祈るのはおやめなさい。」
しかし女は古帷子 の襟を心もち顋 に抑 えたなり、驚いたように神父を見ている。神父の怒 に満ちた言葉もわかったのかどうかはっきりしない。神父はほとんどのしかかるように鬚 だらけの顔を突き出しながら、一生懸命にこう戒 め続けた。
「まことの神をお信じなさい。まことの神はジュデアの国、ベレンの里にお生まれになったジェズス・キリストばかりです。そのほかに神はありません。あると思うのは悪魔です。堕落 した天使の変化 です。ジェズスは我々を救うために、磔木 にさえおん身をおかけになりました。御覧なさい。あのおん姿を?」
神父は厳 かに手を伸べると、後ろにある窓の硝子画 を指 した。ちょうど薄日に照らされた窓は堂内を罩 めた仄暗 がりの中に、受難の基督 を浮き上らせている。十字架の下 に泣き惑 ったマリヤや弟子たちも浮き上らせている。女は日本風に合掌 しながら、静かにこの窓をふり仰いだ。
「あれが噂 に承 った南蛮 の如来 でございますか? 倅 の命さえ助かりますれば、わたくしはあの磔仏 に一生仕 えるのもかまいません。どうか冥護 を賜るように御祈祷をお捧げ下さいまし。」
女の声は落着いた中に、深い感動を蔵している。神父はいよいよ勝ち誇 ったようにうなじを少し反 らせたまま、前よりも雄弁に話し出した。
「ジェズスは我々の罪を浄 め、我々の魂を救うために地上へ御降誕 なすったのです。お聞きなさい、御一生の御艱難辛苦 を!」
神聖な感動に充ち満ちた神父はそちらこちらを歩きながら、口早に基督 の生涯を話した。衆徳 備り給う処女 マリヤに御受胎 を告げに来た天使のことを、厩 の中の御降誕のことを、御降誕を告げる星を便りに乳香 や没薬 を捧 げに来た、賢 い東方の博士 たちのことを、メシアの出現を惧 れるために、ヘロデ王の殺した童子 たちのことを、ヨハネの洗礼を受けられたことを、山上の教えを説かれたことを、水を葡萄酒 に化せられたことを、盲人の眼を開かれたことを、マグダラのマリヤに憑 きまとった七つの悪鬼 を逐われたことを、死んだラザルを活かされたことを、水の上を歩かれたことを、驢馬 の背にジェルサレムへ入られたことを、悲しい最後の夕餉 のことを、橄欖 の園のおん祈りのことを、………
神父の声は神の言葉のように、薄暗い堂内に響き渡った。女は眼を輝かせたまま、黙然 とその声に聞き入っている。
「考えても御覧なさい。ジェズスは二人の盗人 と一しょに、磔木 におかかりなすったのです。その時のおん悲しみ、その時のおん苦しみ、――我々は今想 いやるさえ、肉が震 えずにはいられません。殊に勿体 ない気のするのは磔木の上からお叫びになったジェズスの最後のおん言葉です。エリ、エリ、ラマサバクタニ、――これを解けばわが神、わが神、何ぞ我を捨て給うや?……」
神父は思わず口をとざした。見ればまっ蒼 になった女は下唇 を噛んだなり、神父の顔を見つめている。しかもその眼に閃 いているのは神聖な感動でも何でもない。ただ冷やかな軽蔑 と骨にも徹 りそうな憎悪 とである。神父は惘気 にとられたなり、しばらくはただ唖 のように瞬 きをするばかりだった。
「まことの天主、南蛮 の如来 とはそう云うものでございますか?」
女はいままでのつつましさにも似ず、止 めを刺 すように云い放った。
「わたくしの夫、一番 ヶ瀬 半兵衛 は佐佐木家 の浪人 でございます。しかしまだ一度も敵の前に後 ろを見せたことはございません。去 んぬる長光寺 の城攻めの折も、夫は博奕 に負けましたために、馬はもとより鎧兜 さえ奪われて居ったそうでございます。それでも合戦 と云う日には、南無阿弥陀仏 と大文字 に書いた紙の羽織 を素肌 に纏 い、枝つきの竹を差 し物 に代え、右手 に三尺五寸の太刀 を抜き、左手 に赤紙の扇 を開き、『人の若衆 を盗むよりしては首を取らりょと覚悟した』と、大声 に歌をうたいながら、織田殿 の身内に鬼 と聞えた柴田 の軍勢を斬 り靡 けました。それを何ぞや天主 ともあろうに、たとい磔木 にかけられたにせよ、かごとがましい声を出すとは見下 げ果てたやつでございます。そう云う臆病 ものを崇 める宗旨 に何の取柄 がございましょう? またそう云う臆病ものの流れを汲 んだあなたとなれば、世にない夫の位牌 の手前も倅 の病は見せられません。新之丞 も首取りの半兵衛と云われた夫の倅でございます。臆病ものの薬を飲まされるよりは腹を切ると云うでございましょう。このようなことを知っていれば、わざわざここまでは来 まいものを、――それだけは口惜 しゅうございます。」
女は涙を呑みながら、くるりと神父に背を向けたと思うと、毒風 を避ける人のようにさっさと堂外へ去ってしまった。瞠目 した神父を残したまま。………
そう云う薄暗い堂内に
堂内は勿論ひっそりしている。神父はいつまでも身動きをしない。
そこへ日本人の女が一人、静かに堂内へはいって来た。
女はさも珍らしそうに
堂内は
その内に神父は祈祷をやめると、やっと
「何か御用ですか?」
「はい、少々お願いの筋がございまして。」
女は
「わたくしは
女はちょいと云い
「お見舞下さいますか? いかがでございましょう?」
女はこう云う言葉の
「よろしい。見て上げましょう。」
神父は
「お子さんはここへ来られますか。」
「それはちと無理かと存じますが……」
「ではそこへ案内して下さい。」
女の眼に一瞬間の喜びの輝いたのはこの時である。
「さようでございますか? そうして頂ければ何よりの仕合せでございます。」
神父は優しい感動を感じた。やはりその一瞬間、
「御安心なさい。病もたいていわかっています。お子さんの命は預りました。とにかく出来るだけのことはして見ましょう。もしまた人力に及ばなければ、……」
女は
「いえ、あなた様さえ一度お見舞い下されば、あとはもうどうなりましても、さらさら心残りはございません。その上はただ
観世音菩薩! この言葉はたちまち神父の顔に腹立たしい色を
「お気をつけなさい。
しかし女は
「まことの神をお信じなさい。まことの神はジュデアの国、ベレンの里にお生まれになったジェズス・キリストばかりです。そのほかに神はありません。あると思うのは悪魔です。
神父は
「あれが
女の声は落着いた中に、深い感動を蔵している。神父はいよいよ勝ち
「ジェズスは我々の罪を
神聖な感動に充ち満ちた神父はそちらこちらを歩きながら、口早に
神父の声は神の言葉のように、薄暗い堂内に響き渡った。女は眼を輝かせたまま、
「考えても御覧なさい。ジェズスは二人の
神父は思わず口をとざした。見ればまっ
「まことの天主、
女はいままでのつつましさにも似ず、
「わたくしの夫、
女は涙を呑みながら、くるりと神父に背を向けたと思うと、
(大正十二年三月)
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