日语文学作品赏析《運》
作者:芥川龍之介
来源:青空文库
2010-01-06 00:00
目のあらい簾 が、入口にぶらさげてあるので、往来の容子 は仕事場にいても、よく見えた。清水 へ通う往来は、さっきから、人通りが絶えない。金鼓 をかけた法師 が通る。壺装束 をした女が通る。その後 からは、めずらしく、黄牛 に曳 かせた網代車 が通った。それが皆、疎 な蒲 の簾 の目を、右からも左からも、来たかと思うと、通りぬけてしまう。その中で変らないのは、午後の日が暖かに春を炙 っている、狭い往来の土の色ばかりである。
その人の往来を、仕事場の中から、何と云う事もなく眺めていた、一人の青侍 が、この時、ふと思いついたように、主 の陶器師 へ声をかけた。
「不相変 、観音様 へ参詣する人が多いようだね。」
「左様でございます。」
陶器師 は、仕事に気をとられていたせいか、少し迷惑そうに、こう答えた。が、これは眼の小さい、鼻の上を向いた、どこかひょうきんな所のある老人で、顔つきにも容子 にも、悪気らしいものは、微塵 もない。着ているのは、麻 の帷子 であろう。それに萎 えた揉烏帽子 をかけたのが、この頃評判の高い鳥羽僧正 の絵巻の中の人物を見るようである。
「私も一つ、日参 でもして見ようか。こう、うだつが上らなくちゃ、やりきれない。」
「御冗談 で。」
「なに、これで善い運が授 かるとなれば、私だって、信心をするよ。日参をしたって、参籠 をしたって、そうとすれば、安いものだからね。つまり、神仏を相手に、一商売をするようなものさ。」
青侍は、年相応な上調子 なもの言いをして、下唇を舐 めながら、きょろきょろ、仕事場の中を見廻した。――竹藪 を後 にして建てた、藁葺 きのあばら家 だから、中は鼻がつかえるほど狭い。が、簾の外の往来が、目まぐるしく動くのに引換えて、ここでは、甕 でも瓶子 でも、皆赭 ちゃけた土器 の肌 をのどかな春風に吹かせながら、百年も昔からそうしていたように、ひっそりかんと静まっている。どうやらこの家の棟 ばかりは、燕 さえも巣を食わないらしい。……
翁 が返事をしないので、青侍はまた語を継 いだ。
「お爺 さんなんぞも、この年までには、随分いろんな事を見たり聞いたりしたろうね。どうだい。観音様は、ほんとうに運を授けて下さるものかね。」
「左様でございます。昔は折々、そんな事もあったように聞いて居りますが。」
「どんな事があったね。」
「どんな事と云って、そう一口には申せませんがな。――しかし、貴方 がたは、そんな話をお聞きなすっても、格別面白くもございますまい。」
「可哀そうに、これでも少しは信心気 のある男なんだぜ。いよいよ運が授かるとなれば、明日 にも――」
「信心気でございますかな。商売気でございますかな。」
翁 は、眦 に皺 をよせて笑った。捏 ねていた土が、壺 の形になったので、やっと気が楽になったと云う調子である。
「神仏の御考えなどと申すものは、貴方 がたくらいのお年では、中々わからないものでございますよ。」
「それはわからなかろうさ。わからないから、お爺さんに聞くんだあね。」
「いやさ、神仏が運をお授けになる、ならないと云う事じゃございません。そのお授けになる運の善し悪しと云う事が。」
「だって、授けて貰えばわかるじゃないか。善い運だとか、悪い運だとか。」
「それが、どうも貴方がたには、ちとおわかりになり兼ねましょうて。」
「私には運の善し悪しより、そう云う理窟の方がわからなそうだね。」
日が傾き出したのであろう。さっきから見ると、往来へ落ちる物の影が、心もち長くなった。その長い影をひきながら、頭 に桶 をのせた物売りの女が二人、簾の目を横に、通りすぎる。一人は手に宿への土産 らしい桜の枝を持っていた。
「今、西の市 で、績麻 の□ を出している女なぞもそうでございますが。」
「だから、私はさっきから、お爺さんの話を聞きたがっているじゃないか。」
二人は、暫くの間、黙った。青侍は、爪で頤 のひげを抜きながら、ぼんやり往来を眺めている。貝殻のように白く光るのは、大方 さっきの桜の花がこぼれたのであろう。
「話さないかね。お爺さん。」
やがて、眠そうな声で、青侍が云った。
「では、御免を蒙って、一つ御話し申しましょうか。また、いつもの昔話でございますが。」
こう前置きをして、陶器師 の翁は、徐 に話し出した。日の長い短いも知らない人でなくては、話せないような、悠長な口ぶりで話し出したのである。
「もうかれこれ三四十年前になりましょう。あの女がまだ娘の時分に、この清水 の観音様へ、願 をかけた事がございました。どうぞ一生安楽に暮せますようにと申しましてな。何しろ、その時分は、あの女もたった一人のおふくろに死別 れた後で、それこそ日々 の暮しにも差支えるような身の上でございましたから、そう云う願 をかけたのも、満更 無理はございません。
「死んだおふくろと申すのは、もと白朱社 の巫子 で、一しきりは大そう流行 ったものでございますが、狐 を使うと云う噂 を立てられてからは、めっきり人も来なくなってしまったようでございます。これがまた、白あばたの、年に似合わず水々しい、大がらな婆さんでございましてな、何さま、あの容子 じゃ、狐どころか男でも……」
「おふくろの話よりは、その娘の話の方を伺いたいね。」
「いや、これは御挨拶で。――そのおふくろが死んだので、後は娘一人の痩 せ腕でございますから、いくらかせいでも、暮 の立てられようがございませぬ。そこで、あの容貌 のよい、利発者 の娘が、お籠 りをするにも、襤褸 故に、あたりへ気がひけると云う始末でございました。」
「へえ。そんなに好 い女だったかい。」
「左様でございます。気だてと云い、顔と云い、手前の欲目では、まずどこへ出しても、恥しくないと思いましたがな。」
「惜しい事に、昔さね。」
青侍は、色のさめた藍の水干 の袖口を、ちょいとひっぱりながら、こんな事を云う。翁は、笑声を鼻から抜いて、またゆっくり話しつづけた。後 の竹籔では、頻 に鶯 が啼いている。
「それが、三七日 の間、お籠りをして、今日が満願と云う夜 に、ふと夢を見ました。何でも、同じ御堂 に詣 っていた連中の中に、背むしの坊主 が一人いて、そいつが何か陀羅尼 のようなものを、くどくど誦 していたそうでございます。大方それが、気になったせいでございましょう。うとうと眠気がさして来ても、その声ばかりは、どうしても耳をはなれませぬ。とんと、縁の下で蚯蚓 でも鳴いているような心もちで――すると、その声が、いつの間にやら人間の語 になって、『ここから帰る路で、そなたに云いよる男がある。その男の云う事を聞くがよい。』と、こう聞えると申すのでございますな。
「はっと思って、眼がさめると、坊主はやっぱり陀羅尼三昧 でございます。が、何と云っているのだか、いくら耳を澄ましても、わかりませぬ。その時、何気なく、ひょいと向うを見ると、常夜燈 のぼんやりした明りで、観音様の御顔が見えました。日頃拝 みなれた、端厳微妙 の御顔でございますが、それを見ると、不思議にもまた耳もとで、『その男の云う事を聞くがよい。』と、誰だか云うような気がしたそうでございます。そこで、娘はそれを観音様の御告 だと、一図 に思いこんでしまいましたげな。」
「はてね。」
「さて、夜がふけてから、御寺を出て、だらだら下りの坂路を、五条へくだろうとしますと、案の定 後 から、男が一人抱きつきました。丁度、春さきの暖い晩でございましたが、生憎 の暗で、相手の男の顔も見えなければ、着ている物などは、猶 の事わかりませぬ。ただ、ふり離そうとする拍子に、手が向うの口髭 にさわりました。いやはや、とんだ時が、満願 の夜に当ったものでございます。
「その上、相手は、名を訊 かれても、名を申しませぬ。所を訊かれても、所を申しませぬ。ただ、云う事を聞けと云うばかりで、坂下の路を北へ北へ、抱きすくめたまま、引きずるようにして、つれて行きます。泣こうにも、喚 こうにも、まるで人通りのない時分なのだから、仕方がございませぬ。」
「ははあ、それから。」
「それから、とうとう八坂寺 の塔の中へ、つれこまれて、その晩はそこですごしたそうでございます。――いや、その辺 の事なら、何も年よりの手前などが、わざわざ申し上げるまでもございますまい。」
翁 は、また眦 に皺 をよせて、笑った。往来の影は、いよいよ長くなったらしい。吹くともなく渡る風のせいであろう、そこここに散っている桜の花も、いつの間にかこっちへ吹きよせられて、今では、雨落ちの石の間に、点々と白い色をこぼしている。
「冗談云っちゃいけない。」
青侍は、思い出したように、頤 のひげを抜き抜き、こう云った。
「それで、もうおしまいかい。」
「それだけなら、何もわざわざお話し申すがものはございませぬ。」翁 は、やはり壺 をいじりながら、「夜があけると、その男が、こうなるのも大方宿世 の縁だろうから、とてもの事に夫婦 になってくれと申したそうでございます。」
「成程。」
「夢の御告げでもないならともかく、娘は、観音様のお思召 し通りになるのだと思ったものでございますから、とうとう首 を竪 にふりました。さて形 ばかりの盃事 をすませると、まず、当座の用にと云って、塔の奥から出して来てくれたのが綾 を十疋 に絹を十疋でございます。――この真似 ばかりは、いくら貴方 にもちとむずかしいかも存じませんな。」
青侍は、にやにや笑うばかりで、返事をしない。鶯も、もう啼かなくなった。
「やがて、男は、日の暮 に帰ると云って、娘一人を留守居 に、慌 しくどこかへ出て参りました。その後 の淋しさは、また一倍でございます。いくら利発者でも、こうなると、さすがに心細くなるのでございましょう。そこで、心晴らしに、何気 なく塔の奥へ行って見ると、どうでございましょう。綾や絹は愚 な事、珠玉とか砂金 とか云う金目 の物が、皮匣 に幾つともなく、並べてあると云うじゃございませぬか。これにはああ云う気丈な娘でも、思わず肚胸 をついたそうでございます。
「物にもよりますが、こんな財物 を持っているからは、もう疑 はございませぬ。引剥 でなければ、物盗 りでございます。――そう思うと、今まではただ、さびしいだけだったのが、急に、怖いのも手伝って、何だか片時 もこうしては、いられないような気になりました。何さま、悪く放免 の手にでもかかろうものなら、どんな目に遭 うかも知れませぬ。
「そこで、逃げ場をさがす気で、急いで戸口の方へ引返そうと致しますと、誰だか、皮匣 の後 から、しわがれた声で呼びとめました。何しろ、人はいないとばかり思っていた所でございますから、驚いたの驚かないのじゃございませぬ。見ると、人間とも海鼠 ともつかないようなものが、砂金の袋を積んだ中に、円 くなって、坐って居ります。――これが目くされの、皺 だらけの、腰のまがった、背の低い、六十ばかりの尼法師 でございました。しかも娘の思惑 を知ってか知らないでか、膝 で前へのり出しながら、見かけによらない猫撫声 で、初対面の挨拶 をするのでございます。
「こっちは、それ所の騒 ぎではないのでございますが、何しろ逃げようと云う巧 みをけどられなどしては大変だと思ったので、しぶしぶ皮匣 の上に肘 をつきながら心にもない世間話をはじめました。どうも話の容子 では、この婆さんが、今まであの男の炊女 か何かつとめていたらしいのでございます。が、男の商売の事になると、妙に一口も話しませぬ。それさえ、娘の方では、気になるのに、その尼 がまた、少し耳が遠いと来ているものでございますから、一つ話を何度となく、云い直したり聞き直したりするので、こっちはもう泣き出したいほど、気がじれます。――
「そんな事が、かれこれ午 までつづいたでございましょう。すると、やれ清水の桜が咲いたの、やれ五条の橋普請 が出来たのと云っている中 に、幸い、年の加減 か、この婆さんが、そろそろ居睡 りをはじめました。一つは娘の返答が、はかばかしくなかったせいもあるのでございましょう。そこで、娘は、折を計って、相手の寝息を窺 いながら、そっと入口まで這 って行って、戸を細目にあけて見ました。外にも、いい案配に、人のけはいはございませぬ。――
「ここでそのまま、逃げ出してしまえば、何事もなかったのでございますが、ふと今朝 貰った綾と絹との事を思い出したので、それを取りに、またそっと皮匣 の所まで帰って参りました。すると、どうした拍子か、砂金の袋にけつまずいて、思わず手が婆さんの膝 にさわったから、たまりませぬ。尼の奴め驚いて眼をさますと、暫くはただ、あっけにとられて、いたようでございますが、急に気ちがいのようになって、娘の足にかじりつきました。そうして、半分泣き声で、早口に何かしゃべり立てます。切れ切れに、語 が耳へはいる所では、万一娘に逃げられたら、自分がどんなひどい目に遇うかも知れないと、こう云っているらしいのでございますな。が、こっちもここにいては命にかかわると云う時でございますから、元よりそんな事に耳をかす訳がございませぬ。そこで、とうとう、女同志のつかみ合がはじまりました。
「打つ。蹴 る。砂金の袋をなげつける。――梁 に巣を食った鼠 も、落ちそうな騒ぎでございます。それに、こうなると、死物狂いだけに、婆さんの力も、莫迦 には出来ませぬ。が、そこは年のちがいでございましょう。間もなく、娘が、綾と絹とを小脇 にかかえて、息を切らしながら、塔の戸口をこっそり、忍び出た時には、尼 はもう、口もきかないようになって居りました。これは、後 で聞いたのでございますが、死骸 は、鼻から血を少し出して、頭から砂金を浴びせられたまま、薄暗い隅の方に、仰向 けになって、臥 ていたそうでございます。
「こっちは八坂寺 を出ると、町家 の多い所は、さすがに気がさしたと見えて、五条京極 辺の知人 の家をたずねました。この知人と云うのも、その日暮しの貧乏人なのでございますが、絹の一疋もやったからでございましょう、湯を沸かすやら、粥 を煮るやら、いろいろ経営 してくれたそうでございます。そこで、娘も漸 く、ほっと一息つく事が出来ました。」
「私も、やっと安心したよ。」
青侍 は、帯にはさんでいた扇 をぬいて、簾 の外の夕日を眺めながら、それを器用に、ぱちつかせた。その夕日の中を、今しがた白丁 が五六人、騒々しく笑い興じながら、通りすぎたが、影はまだ往来に残っている。……
「じゃそれでいよいよけりがついたと云う訳だね。」
「所が」翁 は大仰 に首を振って、「その知人 の家に居りますと、急に往来の人通りがはげしくなって、あれを見い、あれを見いと、罵 り合う声が聞えます。何しろ、後暗 い体ですから、娘はまた、胸を痛めました。あの物盗 りが仕返ししにでも来たものか、さもなければ、検非違使 の追手 がかかりでもしたものか、――そう思うともう、おちおち、粥 を啜 っても居られませぬ。」
「成程。」
「そこで、戸の隙間 から、そっと外を覗いて見ると、見物の男女 の中を、放免 が五六人、それに看督長 が一人ついて、物々しげに通りました。それからその連中にかこまれて、縄にかかった男が一人、所々裂 けた水干を着て烏帽子 もかぶらず、曳かれて参ります。どうも物盗りを捕えて、これからその住家 へ、実録 をしに行く所らしいのでございますな。
「しかも、その物盗りと云うのが、昨夜 、五条の坂で云いよった、あの男だそうじゃございませぬか。娘はそれを見ると、何故か、涙がこみ上げて来たそうでございます。これは、当人が、手前に話しました――何も、その男に惚 れていたの、どうしたのと云う訳じゃない。が、その縄目 をうけた姿を見たら、急に自分で、自分がいじらしくなって、思わず泣いてしまったと、まあこう云うのでございますがな。まことにその話を聞いた時には、手前もつくづくそう思いましたよ――」
「何とね。」
「観音様へ願 をかけるのも考え物だとな。」
「だが、お爺 さん。その女は、それから、どうにかやって行けるようになったのだろう。」
「どうにか所か、今では何不自由ない身の上になって居ります。その綾や絹を売ったのを本 に致しましてな。観音様も、これだけは、御約束をおちがえになりません。」
「それなら、そのくらいな目に遇っても、結構じゃないか。」
外の日の光は、いつの間にか、黄いろく夕づいた。その中を、風だった竹籔の音が、かすかながらそこここから聞えて来る。往来の人通りも、暫くはとだえたらしい。
「人を殺したって、物盗りの女房になったって、する気でしたんでなければ仕方がないやね。」
青侍は、扇を帯へさしながら、立上った。翁 も、もう提 の水で、泥にまみれた手を洗っている――二人とも、どうやら、暮れてゆく春の日と、相手の心もちとに、物足りない何ものかを、感じてでもいるような容子 である。
「とにかく、その女は仕合せ者だよ。」
「御冗談で。」
「まったくさ。お爺さんも、そう思うだろう。」
「手前でございますか。手前なら、そう云う運はまっぴらでございますな。」
「へええ、そうかね。私なら、二つ返事で、授 けて頂くがね。」
「じゃ観音様を、御信心なさいまし。」
「そうそう、明日 から私も、お籠 でもしようよ。」
その人の往来を、仕事場の中から、何と云う事もなく眺めていた、一人の
「
「左様でございます。」
「私も一つ、
「
「なに、これで善い運が
青侍は、年相応な
「お
「左様でございます。昔は折々、そんな事もあったように聞いて居りますが。」
「どんな事があったね。」
「どんな事と云って、そう一口には申せませんがな。――しかし、
「可哀そうに、これでも少しは
「信心気でございますかな。商売気でございますかな。」
「神仏の御考えなどと申すものは、
「それはわからなかろうさ。わからないから、お爺さんに聞くんだあね。」
「いやさ、神仏が運をお授けになる、ならないと云う事じゃございません。そのお授けになる運の善し悪しと云う事が。」
「だって、授けて貰えばわかるじゃないか。善い運だとか、悪い運だとか。」
「それが、どうも貴方がたには、ちとおわかりになり兼ねましょうて。」
「私には運の善し悪しより、そう云う理窟の方がわからなそうだね。」
日が傾き出したのであろう。さっきから見ると、往来へ落ちる物の影が、心もち長くなった。その長い影をひきながら、
「今、西の
「だから、私はさっきから、お爺さんの話を聞きたがっているじゃないか。」
二人は、暫くの間、黙った。青侍は、爪で
「話さないかね。お爺さん。」
やがて、眠そうな声で、青侍が云った。
「では、御免を蒙って、一つ御話し申しましょうか。また、いつもの昔話でございますが。」
こう前置きをして、
「もうかれこれ三四十年前になりましょう。あの女がまだ娘の時分に、この
「死んだおふくろと申すのは、もと
「おふくろの話よりは、その娘の話の方を伺いたいね。」
「いや、これは御挨拶で。――そのおふくろが死んだので、後は娘一人の
「へえ。そんなに
「左様でございます。気だてと云い、顔と云い、手前の欲目では、まずどこへ出しても、恥しくないと思いましたがな。」
「惜しい事に、昔さね。」
青侍は、色のさめた藍の
「それが、
「はっと思って、眼がさめると、坊主はやっぱり
「はてね。」
「さて、夜がふけてから、御寺を出て、だらだら下りの坂路を、五条へくだろうとしますと、案の
「その上、相手は、名を
「ははあ、それから。」
「それから、とうとう
「冗談云っちゃいけない。」
青侍は、思い出したように、
「それで、もうおしまいかい。」
「それだけなら、何もわざわざお話し申すがものはございませぬ。」
「成程。」
「夢の御告げでもないならともかく、娘は、観音様のお
青侍は、にやにや笑うばかりで、返事をしない。鶯も、もう啼かなくなった。
「やがて、男は、日の
「物にもよりますが、こんな
「そこで、逃げ場をさがす気で、急いで戸口の方へ引返そうと致しますと、誰だか、
「こっちは、それ所の
「そんな事が、かれこれ
「ここでそのまま、逃げ出してしまえば、何事もなかったのでございますが、ふと
「打つ。
「こっちは
「私も、やっと安心したよ。」
「じゃそれでいよいよけりがついたと云う訳だね。」
「所が」
「成程。」
「そこで、戸の
「しかも、その物盗りと云うのが、
「何とね。」
「観音様へ
「だが、お
「どうにか所か、今では何不自由ない身の上になって居ります。その綾や絹を売ったのを
「それなら、そのくらいな目に遇っても、結構じゃないか。」
外の日の光は、いつの間にか、黄いろく夕づいた。その中を、風だった竹籔の音が、かすかながらそこここから聞えて来る。往来の人通りも、暫くはとだえたらしい。
「人を殺したって、物盗りの女房になったって、する気でしたんでなければ仕方がないやね。」
青侍は、扇を帯へさしながら、立上った。
「とにかく、その女は仕合せ者だよ。」
「御冗談で。」
「まったくさ。お爺さんも、そう思うだろう。」
「手前でございますか。手前なら、そう云う運はまっぴらでございますな。」
「へええ、そうかね。私なら、二つ返事で、
「じゃ観音様を、御信心なさいまし。」
「そうそう、
(大正五年十二月)
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