日语文学作品赏析《又一説?》
作者:芥川龍之介
来源:青空文库
2010-01-06 00:00
改造社の古木鉄太郎 君の言ふには、「短歌は将来の文芸からとり残されるかどうか?」に就 き、僕にも何か言へとのことである。僕は作歌上の素人 たる故、再三古木君に断 つたところ、素人なればこそ尋ねに来たと言ふ、即ちやむを得ずペンを執 り、原稿用紙に向つて見るに、とり残されさうな気もして来れば、とり残されぬらしい気もして来る。
まづ明治大正の間 のやうに偉い歌よみが沢山 ゐれば、とり残したくともとり残されぬであらう。そこで将来も偉い詩人が生まれ、その詩人の感情を盛 るのに短歌の形式を用ふるとすれば、やはりとり残されぬのに相違 ない。するととり残されるかとり残されぬかを決するものは未 だ生まれざる大詩人が短歌の形式を用ふるかどうかである。
偉い詩人が生まれるかどうかは誰も判然とは保証出来ぬ。しかしその又偉い詩人が短歌の形式を用ふるかどうかは幾分か見当 のつかぬこともない。尤 も僕等が何かの拍子 に四 つ這 ひになつて見たいやうに、未 だ生まれざる大詩人も何かの拍子 に短歌の形式を用ふる気もちになるかも知れぬ。しかしそれは例外とし、まづ一般に短歌の形式が将来の詩人の感情を盛 るに足るかどうかは考へられぬ筈である。
然るに元来短歌なるものは格別他の抒情詩と変りはない。変りのあるのは三十一文字に限られてゐる形式ばかりである。若し三十一文字と云ふ形式に限られてゐる為に、その又形式に纏綿 した或短歌的情調の為に盛ることは出来ぬと云ふならば、それは明治大正の間 の歌よみの仕事を無視したものであらう。たとへば斎藤 氏や北原 氏の歌は前人の少しも盛らなかつた感情を盛つてゐる筈である。しかし更に懐疑的 になれば、明治大正の間 の歌よみの短歌も或は猪口 でシロツプを嘗 めてゐると言はれるかも知れぬ。かう云ふ問題になつて来ると、素人 の僕には見当がつかない。唯僕に言はせれば、たとへば斎藤氏や北原氏の短歌に或は猪口 でシロツプを嘗 めてゐるものがあるとしても、その又猪口の中のシロツプも愛するに足ると思ふだけである。
尤 も物盛 なれば必ず衰ふるは天命なれば、余り明治大正の間に偉い歌よみが出過ぎた為にそれ等の人人の耄碌 したり死んでしまつたりした後 の短歌は月並みになつてしまふかも知れぬ。それを将来の文芸からとり残されると云ふ意味に解釈すれば、或はとり残されると云ふ意味に解釈すれば、或はとり残されることもあるであらう。これは前にも書いたやうに作歌上の素人 談義たるのみならず、古木 君を前にして書いたもの故、読者も余り当 てにせずに一読過されんことを希望してゐる。(十五・五・二十四・鵠沼 にて)
まづ明治大正の
偉い詩人が生まれるかどうかは誰も判然とは保証出来ぬ。しかしその又偉い詩人が短歌の形式を用ふるかどうかは幾分か
然るに元来短歌なるものは格別他の抒情詩と変りはない。変りのあるのは三十一文字に限られてゐる形式ばかりである。若し三十一文字と云ふ形式に限られてゐる為に、その又形式に
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