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“文化”。この単語は、如何なる話題にも顔を出します。“食べ物”の話題に関しても、それは例外ではありません。「フランス料理は世界に誇る文化だ」、「会席料理は日本の伝統文化の素晴らしさを代表する」等々。

“文化”。这个单词,你能在各种话题中见到它的身影。而和“饮食”相关的话题也不例外。例如“法国料理是值得向全世界夸耀的文化”、“会席料理代表了日本传统文化的精华”等等。

“食べ物”は“文化”だなどと言うからには、この単語が、一体、何を意味しているのかを考えてみる必要があると思います。

既然有“饮食”是“文化”之类的说法,我觉得就有必要思考下“文化”这个单词到底意味着什么。

「文化」には、大別して、二つの意味があります。
(1)は、自己集団中心主義から見た「文化」
(2)は、学問的な立場から見た「文化」
です。

“文化”大致可分为两种意思。

(1)从自我集体主义角度来看的“文化”
(2)从学术角度来看的“文化”

まず、(1)ですが、これは現在の日本のほとんどすべての人々の頭にこびりついている意味での文化です。

首先是(1),这是指扎根在当今几乎所有日本人思想中的文化。

特定の時代(すなわち現在)、地球上の特定の地域(すなわち日本)、特定の人々(すなわち日本の人々)にとって“憧れの対象”になるものが文化であるとされるのです。

能成为特定时期(即现在)、地球上特定地区(即日本)、特定人群(即在日本的人们)“所憧憬的对象”的东西就会被定义成文化。

(2)の意味での文化は、かいつまんで言うならば、特定の時代に、特定の地域に生きる人々が、一般的に共有している行動、すなわち、何かを“どのようにか”しているということのすべてを意味しています。どの社会にでも、1人や2人は変人と言われる人がいます。そういう例外的な人々の行動は除いて、普通の人が普通だと思っている行動のすべてを指しているのです。

而意思(2)层面上的文化,概言之便是在特定时期、特定地区生活的人们一般所共有的行为、即想把什么“怎么样”的所有行为。不管在什么社会,总会有那么一些被视为异类的人。文化则指的是除了这些个例行为以外、平常人觉得平常的一切行为。

その行動は、大別すれば二種類のものが見えます。食べることを例にとれば、その一つは、現在の日本では、おひたしを食べるときには醤油を使うというような、外から見ることができる行動、もう一つは、普通の人がレストランのショーウインドウや店の外に出ているメニュ-を見て、「あ!これが食べたいな」と思うような、頭の中で何かを“どのようにか”考えるという、外から見ることができない内面で起こす行動です。

这种行为大致有两种体现方式。把饮食作为例子去看的话,一种是表面就能看到的行为,像在如今的日本,吃凉菜时会拌入酱油这样,还有一种则是在脑海中想着要把什么“怎么样”,这是表面无法看到的内心行为,比如一般人看到饭店橱窗或门外的菜单,产生“啊!好想吃这个啊”这样的想法。

すなわち(1)の意味で言えば、着飾って寿司屋に出かけて高級寿司を食べるのも、一山百円のミカンをこたつでテレビを見ながら食べるのも、焼いた目刺しを肴に日本酒でチビリチビリやるのも、お母さんが固形のルウを使って作ったカレーライスを一家で食べるのも、みんな現在の日本文化の例なのです。

也就是说,从意思(1)来看,打扮一番去寿司店吃高级寿司也好,在被炉里边看电视边吃一百日元能买一堆的橘子也好,配着沙丁鱼干串饮饮日本酒也好,全家人一起吃母亲用固体咖喱块做的咖喱饭也好,无一例外都是如今日本文化的例子。

気を付けなければならない点は、まず、文化とは個人的なものではないということです。ネギを食べるのは日本の食文化の一例だというとき、「わたしはネギが嫌いだから、それは日本文化ではない」と言うことはできません。

在这里必须要注意一点,首先,文化这东西不是个人性质的。比如把食用葱看作是一种日本饮食文化的话,就不能说“我讨厌葱,所以这不是日本文化”。

さらに、「カレーライスは日本のものではないので、日本の食文化に入らないのではないですか」という人がいますが、それはカレーの起源を問題にしているのであって、現在という時点で考えれば、カレーライスは日本における立派な食文化の一例と言えるのです。それどころか、日本式のカレーライスの起源はインドではなくて、1770年代の英国であり、それが日本国に紹介されたのは1870年代、一般の人々がその存在を知ったのは、そのずっと後のこと、さらにそれが日常的な食事として人々の間に行き渡ったのはこの数十年間のことに過ぎません。すなわち、カレーライスは、たった百年ほど前には、日本の一般的な食文化には含まれないものだったのです。

还有人持这样的意见,说“咖喱饭并非是日本本土的,是不是就不能归入日本饮食文化了呢”,这是将咖喱的起源作为一个问题去看,但若立足于现阶段,咖喱饭在日本可以称得上是独当一面的饮食文化了。岂止如此,其实和式咖喱的起源也不是印度,而是1770年代的英国,之后在1870年代传到日本,一般人认识咖喱已经是很多年后的事了,而它也是在这几十年间才作为日常料理出现在日本餐桌上。也就是说,就在大概一百年前,咖喱饭还不是日本普通饮食文化中的一份子。

また、その間には、この料理の名前も、ライスカレーからカレーライスへと変わって来ています。その違いを指摘するにも諸説があります。カレーの具が米より多いのがカレーライス、米の方がカレーより多ければライスカレーであるという説。カレーとご飯とが別々なのがカレーライス、ご飯の上にカレーをかけたのがライスカレー、などというのから始まって、関東と関西とでの違いではないか等々。こうして名前の由来、その料理の定義の仕方にも人々が熱心に関わっているということ、それもまた日本の食文化のあり方だと言えるわけです。

而在此期间,这种料理的日语名也逐渐从“ライスカレー(饭咖喱)”变成了如今的“カレーライス(咖喱饭)”。关于它们之间的差异众说纷纭。一说是,咖喱料比米饭多的是咖喱饭,而米饭比咖喱料多的则是饭咖喱。还有咖喱和米饭分开放的是咖喱饭,把咖喱浇在米饭上的是饭咖喱这样的说法,再就是说可能关东关西有差异等等。像这样人们热衷于讨论某种料理名字的由来、定义等行为,又可以说是日本饮食文化的一种存在方式。

今回の話で一番重要なことは、刺身でも、煮干しでも、豆腐でも、それら自体は文化ではないということです。人が刺身や煮干しや豆腐を食べ物であると信じていること、そうしたものを食べたいと思っていること、そうしたものを食べているということ、それが文化なのです。そのようなものに誰一人として関心を持たなくなったとしたならば、それはすでに日本の食文化であるとは言えなくなるのです。(著者:西江雅之氏)

本次话题中最重要的一点是,不管是生鱼片、还是小杂鱼干、亦或是豆腐,其本身都算不上是文化。人们相信生鱼片、小杂鱼干或者豆腐是食物、想要吃或者吃着这样的食物才是文化。如果对于这类东西谁都变得没什么兴趣了的话,那它们也将渐渐失去日本饮食文化这一定义。

可以成为“聊天话题”的日本文化小事

21世纪新谚语辞典:白衬衫沾上咖喱乌冬

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