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シルクロードと日本人

中国人にとって、シルクロードは、洛陽を東の端とするのが常識かもしれないが、日本人の中には、それよりさらに東の「奈良」まで延びていたという感覚を持っている人もいる。正倉院に保存されている数々の宝物を目にするたびに、「シルクロードの東端は奈良である」と実感する。

「奈良の大仏」で知られる東大寺大仏殿の北西に、正倉院がある。正倉院は、仏教を深く信仰し、東大寺の大仏を建立した聖武天皇(701-756)とその皇后ゆかりの品々を保存した場所である。その数は9000点あまりに及び、その多くは遣唐使が唐から持ち帰った美術工芸品であるといわれる。

例えば、宝物の1つに「白瑠璃椀」というガラスの器がある。これと同じものがササン朝ペルシャ(現在のイラン)の遺跡から多く見つかっている。調査した結果、この「白瑠璃椀」は、1200年以上も前にペルシャからラクダに積まれ、シルクロードを通って中国に伝えられた後、遣唐使の船に乗って日本にやってきたことが分かった。また、「螺銅紫檀五弦琵琶」という宝物もある。世界で唯一現存する五弦の琵琶で高度な技術による細工が施され、表面にはラクダに乗った吟遊詩人が描かれている。いかにもシルクロードを通って日本に伝えられたことを物語っているような宝物である。ほかにも、ガラス製の瓶、杯などの器、ガラス玉の装飾品など、西域で作られた物がシルクロードを通って日本に伝来したことが判明している。他方、8世紀ごろに遣唐使に随行してペルシャ人が来日した記録も残っていることなどから、日本が唐代の東西交通路に連なっていたことは事実であり、日本人が「シルクロードの東端は奈良である」というのも、あながち理由のないこととはいえないのではないだろうか。

シルクロードは悠久の太古から、東アジアと西アジア、アジアとヨーロッパ、そして北アフリカとを結んできた。「絹の道」とも呼ばれるように、中国原産の絹が西アジアやヨーロッパに運ばれるとともに多様な文物や技術がシルクロードを行き来した。そのため、シルクロードのルート上にある地域では、東西の文化が融合し、独自の変化を遂げてきたのだ。

アジアとヨーロッパ、北アフリカの三大大陸を結ぶルートは、広大且つ複雑である。例えば、現在の洛陽を起点としてローマに至る古代シルクロード「オアシス路」は、新疆ウイグル自治区に入って、天山山脈の北側を通るルートと南側を通るルート、そしてタリム盆地の南縁を通るルートなどに分かれる。このほか、ユーラシア大陸北部の草原地帯を通る「ステップ路」、広州から海に乗り出し、インド洋、アラビア半島に至る「南海路」もあった。さらに、洛陽を起点として東の明州(寧波)に至るルートもあり、その明州からは、日本の奈良につながる海路が存在していたということだ。

日本人がシルクロードに強い関心を寄せるようになったのは、日中平和友好条約が締結(1978年8月12日)された2年後の1980年に、『NHK特集シルクロード』が放映されてからである。多くの人たちが「シルクロード」という言葉にエキゾチックなイメージを強く抱いたのであった。あるいは喜多郎が作曲した「NHK特集シルタロード」のテーマ曲の影響もあったかもしれない。実は、それ以前にも、圏伊玖磨が管弦楽組曲「シルクロード」を作曲したり、平山郁夫がシルクロードを旅し、仏教文化の伝来をモチーフに絵画を描いたりするなど、シルクロードに魅せられ、その思いを独自に表現していた日本人がいたことも忘れてはならない。

毎年秋になると、奈良国立博物館で正倉院の宝物展が開催される。第1回開催は1946年にさかのぼるが、以来、正倉院に保存されている宝物のうちから、毎年70点ほどが選ばれ、一般に公開されている。約20日聞の会期中に訪れる人は、毎回10万人以上に上り、2009年にはその数は30万人近くに達した。毎年泊まりがけで正倉院展を見に行く熱心なファンもいるほどだ。そして、そのだれもが、はるか昔に唐をはじめ、インド、ペルシャ、遠くはギリシャやローマなどからもたらされた、国際色豊かな工芸品を目にして感嘆の声を上げ、シルクロードと日本のつながりを強く実感させられる。

シルクロードを訪ねる日本人旅行者も増えている。西安、敦煌はもちろんのことかつてはシルクロードのオアシスといわれ、現在では中国有数の工業・商業の中心地へと変貌したウルムチや、古くからシルクロードの重要な拠点として栄え、『西遊記』の舞台にもなったトルファン、千数百年の時間を砂の中で眠り続けた楼蘭などを訪ねる人々も多い。

そんな旅行者が異口同音に言う。「1200年以上も前から日本は世界につながっていたのだ」と、その日本と世界をつないでいたのがシルクロードだと思うと、壮大なロマンを感じるではないか。

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