日语文学作品赏析《薤露行》
作者:夏目漱石
来源:青空文库
2010-01-06 00:00
世に伝うるマロリーの『アーサー物語』は簡浄素樸 という点において珍重すべき書物ではあるが古代のものだから一部の小説として見ると散漫の譏 は免がれぬ。まして材をその一局部に取って纏 ったものを書こうとすると到底万事原著による訳には行かぬ。従ってこの篇の如きも作者の随意に事実を前後したり、場合を創造したり、性格を書き直したりしてかなり小説に近いものに改めてしもうた。主意はこんな事が面白いから書いて見ようというので、マロリーが面白いからマロリーを紹介しようというのではない。そのつもりで読まれん事を希望する。
実をいうとマロリーの写したランスロットは或る点において車夫の如く、ギニヴィアは車夫の情婦のような感じがある。この一点だけでも書き直す必要は充分あると思う。テニソンの『アイジルス』は優麗都雅の点において古今の雄篇たるのみならず性格の描写においても十九世紀の人間を古代の舞台に躍 らせるようなかきぶりであるから、かかる短篇を草するには大 に参考すべき長詩であるはいうまでもない。元来なら記憶を新たにするため一応読み返すはずであるが、読むと冥々のうちに真似 がしたくなるからやめた。
一 夢
百、二百、簇 がる騎士は数をつくして北の方 なる試合へと急げば、石に古 りたるカメロットの館 には、ただ王妃ギニヴィアの長く牽 く衣 の裾 の響 のみ残る。
薄紅 の一枚をむざとばかりに肩より投げ懸けて、白き二の腕さえ明らさまなるに、裳 のみは軽 く捌 く珠 の履 をつつみて、なお余りあるを後ろざまに石階の二級に垂れて登る。登り詰めたる階 の正面には大いなる花を鈍色 の奥に織り込める戸帳 が、人なきをかこち顔なる様にてそよとも動かぬ。ギニヴィアは幕の前に耳押し付けて一重向うに何事をか聴 く。聴きおわりたる横顔をまた真向 に反 えして石段の下を鋭どき眼にて窺 う。濃 やかに斑 を流したる大理石の上は、ここかしこに白き薔薇 が暗きを洩 れて和 かき香 りを放つ。君見よと宵 に贈れる花輪のいつ摧 けたる名残 か。しばらくはわが足に纏 わる絹の音にさえ心置ける人の、何の思案か、屹 と立ち直りて、繊 き手の動くと見れば、深き幕の波を描いて、眩 ゆき光り矢の如く向い側なる室 の中よりギニヴィアの頭 に戴 ける冠を照らす。輝けるは眉間 に中 る金剛石ぞ。
「ランスロット」と幕押し分けたるままにていう。天を憚 かり、地を憚かる中に、身も世も入 らぬまで力の籠 りたる声である。恋に敵なければ、わが戴ける冠を畏 れず。
「ギニヴィア!」と応 えたるは室の中なる人の声とも思われぬほど優しい。広き額を半ば埋 めてまた捲 き返る髪の、黒きを誇るばかり乱れたるに、頬 の色は釣 り合わず蒼白 い。
女は幕をひく手をつと放して内に入 る。裂目 を洩れて斜めに大理石の階段を横切りたる日の光は、一度に消えて、薄暗がりの中に戸帳の模様のみ際立 ちて見える。左右に開く廻廊には円柱 の影の重なりて落ちかかれども、影なれば音もせず。生きたるは室の中なる二人のみと思わる。
「北の方 なる試合にも参り合せず。乱れたるは額にかかる髪のみならじ」と女は心ありげに問う。晴れかかりたる眉 に晴れがたき雲の蟠 まりて、弱き笑 の強 いて憂 の裏 より洩れ来 る。
「贈りまつれる薔薇の香 に酔 いて」とのみにて男は高き窓より表の方 を見やる。折からの五月である。館を繞 りて緩 く逝 く江に千本の柳が明かに影を□ して、空に崩 るる雲の峰さえ水の底に流れ込む。動くとも見えぬ白帆に、人あらば節面白き舟歌も興がろう。河を隔てて木 の間 隠れに白く□ く筋の、一縷 の糸となって烟 に入るは、立ち上 る朝日影に蹄 の塵 を揚げて、けさアーサーが円卓の騎士と共に北の方 へと飛ばせたる本道である。
「うれしきものに罪を思えば、罪長かれと祈る憂 き身ぞ。君一人館に残る今日を忍びて、今日のみの縁 とならばうからまし」と女は安らかぬ心のほどを口元に見せて、珊瑚 の唇をぴりぴりと動かす。
「今日のみの縁とは? 墓に堰 かるるあの世までも渝 らじ」と男は黒き瞳 を返して女の顔を眤 と見る。
「さればこそ」と女は右の手を高く挙 げて広げたる掌 を竪 にランスロットに向ける。手頸 を纏 う黄金 の腕輪がきらりと輝くときランスロットの瞳はわれ知らず動いた。「さればこそ!」と女は繰り返す。「薔薇の香 に酔える病を、病と許せるは我ら二人のみ。このカメロットに集まる騎士は、五本の指を五十度繰り返えすとも数えがたきに、一人として北に行かぬランスロットの病を疑わぬはなし。束 の間に危うきを貪 りて、長き逢 う瀬 の淵 と変らば……」といいながら挙げたる手をはたと落す。かの腕輪は再びきらめいて、玉と玉と撃てる音か、戛然 と瞬時の響きを起す。
「命は長き賜物ぞ、恋は命よりも長き賜物ぞ。心安かれ」と男はさすがに大胆である。
女は両手を延ばして、戴ける冠を左右より抑えて「この冠よ、この冠よ。わが額の焼ける事は」という。願う事の叶 わばこの黄金、この珠玉 の飾りを脱いで窓より下に投げ付けて見ばやといえる様 である。白き腕 のすらりと絹をすべりて、抑えたる冠の光りの下には、渦を巻く髪の毛の、珠の輪には抑えがたくて、頬のあたりに靡 きつつ洩れかかる。肩にあつまる薄紅の衣の袖 は、胸を過ぎてより豊かなる襞 を描がいて、裾は強けれども剛 からざる線を三筋ほど床 の上まで引く。ランスロットはただ窈窕 として眺めている。前後を截断 して、過去未来を失念したる間にただギニヴィアの形のみがありありと見える。
機微の邃 きを照らす鏡は、女の有 てる凡 てのうちにて、尤 も明かなるものという。苦しきに堪えかねて、われとわが頭 を抑えたるギニヴィアを打ち守る人の心は、飛ぶ鳥の影の疾 きが如くに女の胸にひらめき渡る。苦しみは払い落す蜘蛛 の巣と消えて剰 すは嬉 しき人の情 ばかりである。「かくてあらば」と女は危うき間 に際どく擦 り込む石火の楽みを、長 えに続 づけかしと念じて両頬に笑 を滴 らす。
「かくてあらん」と男は始めより思い極めた態である。
「されど」と少時 して女はまた口を開く。「かくてあらんため――北の方なる試合に行き給え。けさ立てる人々の蹄の痕 を追い懸けて病癒 えぬと申し給え。この頃の蔭口 、二人をつつむ疑 の雲を晴し給え」
「さほどに人が怖 くて恋がなろか」と男は乱るる髪を広き額に払って、わざとながらからからと笑う。高き室 の静かなる中に、常ならず快からぬ響が伝わる。笑えるははたとやめて「この帳 の風なきに動くそうな」と室の入口まで歩を移してことさらに厚き幕を揺り動かして見る。あやしき響は収まって寂寞 の故 に帰る。
「宵 見し夢の――夢の中なる響の名残か」と女の顔には忽 ち紅 落ちて、冠の星はきらきらと震う。男も何事か心躁 ぐ様にて、ゆうべ見しという夢を、女に物語らする。
「薔薇咲く日なり。白き薔薇と、赤き薔薇と、黄なる薔薇の間に臥 したるは君とわれのみ。楽しき日は落ちて、楽しき夕幕の薄明りの、尽くる限りはあらじと思う。その時に戴けるはこの冠なり」と指を挙げて眉間をさす。冠の底を二重にめぐる一疋 の蛇は黄金 の鱗 を細かに身に刻んで、擡 げたる頭 には青玉 の眼 を嵌 めてある。
「わが冠の肉に喰 い入るばかり焼けて、頭の上に衣 擦 る如き音を聞くとき、この黄金の蛇はわが髪を繞 りて動き出す。頭は君の方 へ、尾はわが胸のあたりに。波の如くに延びるよと見る間 に、君とわれは腥 さき縄にて、断つべくもあらぬまでに纏わるる。中四尺を隔てて近寄るに力なく、離るるに術 なし。たとい忌 わしき絆 なりとも、この縄の切れて二人離れ離れにおらんよりはとは、その時苦しきわが胸の奥なる心遣 りなりき。囓 まるるとも螫 さるるとも、口縄の朽ち果つるまでかくてあらんと思い定めたるに、あら悲し。薔薇の花の紅 なるが、めらめらと燃え出 して、繋 げる蛇を焼かんとす。しばらくして君とわれの間にあまれる一尋 余りは、真中 より青き烟を吐いて金の鱗の色変り行くと思えば、あやしき臭 いを立ててふすと切れたり。身も魂もこれ限り消えて失 せよと念ずる耳元に、何者かからからと笑う声して夢は醒 めたり。醒めたるあとにもなお耳を襲う声はありて、今聞ける君が笑も、宵 の名残かと骨を撼 がす」と落ち付かぬ眼を長き睫 の裏に隠してランスロットの気色 を窺 う。七十五度の闘技に、馬の脊 を滑 るは無論、鐙 さえはずせる事なき勇士も、この夢を奇 しとのみは思わず。快からぬ眉根は自 ら逼 りて、結べる口の奥には歯さえ喰い締 ばるならん。
「さらば行こう。後 れ馳 せに北の方 へ行こう」と拱 いたる手を振りほどいて、六尺二寸の躯 をゆらりと起す。
「行くか?」とはギニヴィアの半ば疑える言葉である。疑える中には、今更ながら別れの惜まるる心地さえほのめいている。
「行く」といい放って、つかつかと戸口にかかる幕を半ば掲げたが、やがてするりと踵 を回 らして、女の前に、白き手を執りて、発熱かと怪しまるるほどのあつき唇を、冷やかに柔らかき甲の上につけた。暁の露しげき百合 の花弁 をひたふるに吸える心地である。ランスロットは後 をも見ずして石階を馳け降りる。
やがて三たび馬の嘶 く音 がして中庭の石の上に堅き蹄が鳴るとき、ギニヴィアは高殿 を下りて、騎士の出づべき門の真上なる窓に倚 りて、かの人の出 るを遅しと待つ。黒き馬の鼻面 が下に見ゆるとき、身を半ば投げだして、行く人のために白き絹の尺ばかりなるを振る。頭に戴ける金冠の、美しき髪を滑りてか、からりと馬の鼻を掠 めて砕くるばかりに石の上に落つる。
槍 の穂先に冠をかけて、窓近く差し出したる時、ランスロットとギニヴィアの視線がはたと行き合う。「忌まわしき冠よ」と女は受けとりながらいう。「さらば」と男は馬の太腹をける。白き兜 と挿毛 のさと靡 くあとに、残るは漠々 たる塵 のみ。
二 鏡
ありのままなる浮世を見ず、鏡に写る浮世のみを見るシャロットの女は高き台 の中に只一人住む。活 ける世を鏡の裡 にのみ知る者に、面 を合わす友のあるべき由なし。
春恋し、春恋しと囀 ずる鳥の数々に、耳側 てて木 の葉 隠れの翼の色を見んと思えば、窓に向わずして壁に切り込む鏡に向う。鮮 やかに写る羽の色に日の色さえもそのままである。
シャロットの野に麦刈る男、麦打つ女の歌にやあらん、谷を渡り水を渡りて、幽 かなる音の高き台に他界の声の如く糸と細りて響く時、シャロットの女は傾けたる耳を掩 うてまた鏡に向う。河のあなたに烟 る柳の、果ては空とも野とも覚束 なき間より洩 れ出 づる悲しき調 と思えばなるべし。
シャロットの路 行く人もまた悉 くシャロットの女の鏡に写る。あるときは赤き帽の首打ち振りて馬追うさまも見ゆる。あるときは白き髯 の寛 き衣を纏 いて、長き杖 の先に小さき瓢 を括 しつけながら行く巡礼姿も見える。又あるときは頭 よりただ一枚と思わるる真白の上衣 被 りて、眼口も手足も確 と分ちかねたるが、けたたましげに鉦 打ち鳴らして過ぎるも見ゆる。これは癩 をやむ人の前世の業 を自 ら世に告ぐる、むごき仕打ちなりとシャロットの女は知るすべもあらぬ。
旅商人 の脊 に負える包 の中には赤きリボンのあるか、白き下着のあるか、珊瑚 、瑪瑙 、水晶、真珠のあるか、包める中を照らさねば、中にあるものは鏡には写らず。写らねばシャロットの女の眸 には映ぜぬ。
古き幾世を照らして、今の世にシャロットにありとある物を照らす。悉く照らして択 ぶ所なければシャロットの女の眼に映るものもまた限りなく多い。ただ影なれば写りては消え、消えては写る。鏡のうちに永 く停 まる事は天に懸 る日といえども難 い。活 ける世の影なればかく果 敢 なきか、あるいは活ける世が影なるかとシャロットの女は折々疑う事がある。明らさまに見ぬ世なれば影ともまこととも断じがたい。影なれば果敢なき姿を鏡にのみ見て不足はなかろう。影ならずば?――時にはむらむらと起る一念に窓際に馳 けよりて思うさま鏡の外 なる世を見んと思い立つ事もある。シャロットの女の窓より眼を放つときはシャロットの女に呪 いのかかる時である。シャロットの女は鏡の限る天地のうちに跼蹐 せねばならぬ。一重隔て、二重隔てて、広き世界を四角に切るとも、自滅の期を寸時も早めてはならぬ。
去れどありのままなる世は罪に濁ると聞く。住み倦 めば山に遯 るる心安さもあるべし。鏡の裏 なる狭き宇宙の小さければとて、憂 き事の降りかかる十字の街 に立ちて、行き交 う人に気を配る辛 らさはあらず。何者か因果の波を一たび起してより、万頃 の乱れは永劫 を極めて尽きざるを、渦捲 く中に頭 をも、手をも、足をも攫 われて、行くわれの果 は知らず。かかる人を賢しといわば、高き台 に一人を住み古りて、しろかねの白き光りの、表とも裏とも分ちがたきあたりに、幻の世を尺に縮めて、あらん命を土さえ踏まで過すは阿呆 の極みであろう。わが見るは動く世ならず、動く世を動かぬ物の助 にて、よそながら窺 う世なり。活殺生死 の乾坤 を定裏 に拈出 して、五彩の色相を静中に描く世なり。かく観ずればこの女の運命もあながちに嘆くべきにあらぬを、シャロットの女は何に心を躁 がして窓の外 なる下界を見んとする。
鏡の長さは五尺に足らぬ。黒鉄 の黒きを磨 いて本来の白きに帰すマーリンの術になるとか。魔法に名を得し彼のいう。――鏡の表に霧こめて、秋の日の上れども晴れぬ心地なるは不吉の兆なり。曇る鑑 の霧を含みて、芙蓉 に滴 たる音を聴 くとき、対 える人の身の上に危うき事あり。□然 と故 なきに響を起して、白き筋の横縦に鏡に浮くとき、その人末期 の覚悟せよ。――シャロットの女が幾年月 の久しき間この鏡に向えるかは知らぬ。朝 に向い夕 に向い、日に向い月に向いて、厭 くちょう事のあるをさえ忘れたるシャロットの女の眼には、霧立つ事も、露置く事もあらざれば、まして裂けんとする虞 ありとは夢にだも知らず。湛然 として音なき秋の水に臨むが如く、瑩朗 たる面 を過ぐる森羅 の影の、繽紛 として去るあとは、太古の色なき境 をまのあたりに現わす。無限上に徹する大空 を鋳固めて、打てば音ある五尺の裏 に圧 し集めたるを――シャロットの女は夜ごと日ごとに見る。
夜ごと日ごとに鏡に向える女は、夜ごと日ごとに鏡の傍 に坐りて、夜ごと日ごとの□ を織る。ある時は明るき□ を織り、ある時は暗き□ を織る。
シャロットの女の投ぐる梭 の音を聴く者は、淋 しき皐 の上に立つ、高き台 の窓を恐る恐る見上げぬ事はない。親も逝き子も逝きて、新しき代 にただ一人取り残されて、命長きわれを恨み顔なる年寄の如く見ゆるが、岡の上なるシャロットの女の住居 である。蔦 鎖 す古き窓より洩 るる梭の音の、絶間 なき振子 の如く、日を刻むに急なる様なれど、その音はあの世の音なり。静 なるシャロットには、空気さえ重たげにて、常ならば動くべしとも思われぬを、ただこの梭の音のみにそそのかされて、幽かにも震うか。淋しさは音なき時の淋しさにも勝 る。恐る恐る高き台を見上げたる行人 は耳を掩 うて走る。
シャロットの女の織るは不断の□ である。草むらの萌草 の厚く茂れる底に、釣鐘の花の沈める様を織るときは、花の影のいつ浮くべしとも見えぬほどの濃き色である。うな原のうねりの中に、雪と散る浪 の花を浮かすときは、底知れぬ深さを一枚の薄きに畳む。あるときは黒き地 に、燃ゆる焔 の色にて十字架を描く。濁世 にはびこる罪障の風は、すきまなく天下を吹いて、十字を織れる経緯 の目にも入ると覚しく、焔のみは□ を離れて飛ばんとす。――薄暗き女の部屋は焚 け落つるかと怪しまれて明るい。
恋の糸と誠 の糸を横縦に梭くぐらせば、手を肩に組み合せて天を仰げるマリヤの姿となる。狂いを経 に怒りを緯 に、霰 ふる木枯 の夜を織り明せば、荒野の中に白き髯 飛ぶリアの面影が出る。恥ずかしき紅 と恨めしき鉄色をより合せては、逢うて絶えたる人の心を読むべく、温和 しき黄と思い上がれる紫を交 る交 るに畳めば、魔に誘われし乙女 の、我 は顔 に高ぶれる態 を写す。長き袂 に雲の如くにまつわるは人に言えぬ願 の糸の乱れなるべし。
シャロットの女は眼 深く額広く、唇さえも女には似で薄からず。夏の日の上 りてより、刻を盛る砂時計の九 たび落ち尽したれば、今ははや午 過ぎなるべし。窓を射る日の眩 ゆきまで明かなるに、室のうちは夏知らぬ洞窟 の如くに暗い。輝けるは五尺に余る鉄の鏡と、肩に漂う長き髪のみ。右手 より投げたる梭 を左手 に受けて、女はふと鏡の裡 を見る。研 ぎ澄したる剣 よりも寒き光の、例 ながらうぶ毛の末をも照すよと思ううちに――底事 ぞ!音なくて颯 と曇るは霧か、鏡の面 は巨人の息をまともに浴びたる如く光を失う。今まで見えたシャロットの岸に連なる柳も隠れる。柳の中を流るるシャロットの河も消える。河に沿うて往 きつ来りつする人影は無論ささぬ。――梭の音ははたとやんで、女の瞼 は黒き睫 と共に微 かに顫 えた。「凶事か」と叫んで鏡の前に寄るとき、曇は一刷 に晴れて、河も柳も人影も元の如くに見 われる。梭は再び動き出す。
女はやがて世にあるまじき悲しき声にて歌う。
うつせみの世を、
うつつに住めば、
住みうからまし、
むかしも今も。」
うつくしき恋、
うつす鏡に、
色やうつろう、
朝な夕なに。」
鏡の中なる遠柳 の枝が風に靡 いて動く間 に、忽 ち銀 の光がさして、熱き埃 りを薄く揚げ出す。銀の光りは南より北に向って真一文字にシャロットに近付いてくる。女は小羊を覘 う鷲 の如くに、影とは知りながら瞬 きもせず鏡の裏 を見 詰 る。十丁 にして尽きた柳の木立 を風の如くに駈 け抜けたものを見ると、鍛え上げた鋼 の鎧 に満身の日光を浴びて、同じ兜 の鉢金 よりは尺に余る白き毛を、飛び散れとのみ□々 と靡かしている。栗毛 の駒 の逞 しきを、頭 も胸も革 に裹 みて飾れる鋲 の数は篩 い落せし秋の夜の星宿 を一度に集めたるが如き心地である。女は息を凝らして眼を据 える。
曲がれる堤 に沿うて、馬の首を少し左へ向け直すと、今までは横にのみ見えた姿が、真正面に鏡にむかって進んでくる。太き槍をレストに収めて、左の肩に盾 を懸けたり。女は領 を延ばして盾に描ける模様を確 と見分けようとする体 であったが、かの騎士は何の会釈もなくこの鉄鏡を突き破って通り抜ける勢 で、いよいよ目の前に近づいた時、女は思わず梭 を抛 げて、鏡に向って高くランスロットと叫んだ。ランスロットは兜 の廂 の下より耀 く眼を放って、シャロットの高き台 を見上げる。爛々 たる騎士の眼と、針を束 ねたる如き女の鋭どき眼とは鏡の裡 にてはたと出合った。この時シャロットの女は再び「サー・ランスロット」と叫んで、忽ち窓の傍 に馳 け寄って蒼 き顔を半ば世の中に突き出 す。人と馬とは、高き台の下を、遠きに去る地震の如くに馳け抜ける。
ぴちりと音がして皓々 たる鏡は忽ち真二つに割れる。割れたる面 は再びぴちぴちと氷を砕くが如く粉 微塵 になって室 の中に飛ぶ。七巻 八巻 織りかけたる布帛 はふつふつと切れて風なきに鉄片と共に舞い上る。紅の糸、緑の糸、黄の糸、紫の糸はほつれ、千切 れ、解け、もつれて土 蜘蛛 の張る網の如くにシャロットの女の顔に、手に、袖に、長き髪毛にまつわる。「シャロットの女を殺すものはランスロット。ランスロットを殺すものはシャロットの女。わが末期 の呪 を負うて北の方 へ走れ」と女は両手を高く天に挙げて、朽ちたる木の野分 を受けたる如く、五色の糸と氷を欺 く砕片の乱るる中に□ と仆 れる。
三 袖
可憐 なるエレーンは人知らぬ菫 の如くアストラットの古城を照らして、ひそかに墜 ちし春の夜の星の、紫深き露に染まりて月日を経たり。訪 う人は固 よりあらず。共に住むは二人の兄と眉 さえ白き父親のみ。
「騎士はいずれに去る人ぞ」と老人は穏かなる声にて訪う。
「北の方 なる仕合に参らんと、これまでは鞭 って追懸けたれ。夏の日の永きにも似ず、いつしか暮れて、暗がりに路さえ岐 れたるを。――乗り捨てし馬も恩に嘶 かん。一夜の宿の情け深きに酬 いまつるものなきを恥ず」と答えたるは、具足を脱いで、黄なる袍 に姿を改めたる騎士なり。シャロットを馳 せる時何事とは知らず、岩の凹 みの秋の水を浴びたる心地して、かりの宿りを求め得たる今に至るまで、頬 の蒼 きが特更 の如くに目に立つ。
エレーンは父の後ろに小さき身を隠して、このアストラットに、如何 なる風の誘いてか、かく凛々 しき壮夫 を吹き寄せたると、折々は鶴 と瘠 せたる老人の肩をすかして、恥かしの睫 の下よりランスロットを見る。菜の花、豆の花ならば戯るる術 もあろう。偃蹇 として澗底 に嘯 く松が枝 には舞い寄る路のとてもなければ、白き胡蝶 は薄き翼を収めて身動きもせぬ。
「無心ながら宿貸す人に申す」とややありてランスロットがいう。「明日 と定まる仕合の催しに、後 れて乗り込む我の、何の誰 よと人に知らるるは興なし。新しきを嫌 わず、古きを辞せず、人の見知らぬ盾 あらば貸し玉え」
老人ははたと手を拍 つ。「望める盾を貸し申そう。――長男チアーは去 ぬる騎士の闘技に足を痛めて今なお蓐 を離れず。その時彼が持ちたるは白地に赤く十字架を染めたる盾なり。ただの一度の仕合に傷 きて、その創口 はまだ癒 えざれば、赤き血架は空 しく壁に古りたり。これを翳 して思う如く人々を驚かし給え」
ランスロットは腕を扼 して「それこそは」という。老人はなお言葉を継ぐ。
「次男ラヴェンは健気 に見ゆる若者にてあるを、アーサー王の催 にかかる晴の仕合に参り合わせずば、騎士の身の口惜しかるべし。ただ君が栗毛の蹄 のあとに倶 し連れよ。翌日 を急げと彼に申し聞かせんほどに」
ランスロットは何の思案もなく「心得たり」と心安げにいう。老人の頬 に畳める皺 のうちには、嬉 しき波がしばらく動く。女ならずばわれも行かんと思えるはエレーンである。
木に倚 るは蔦 、まつわりて幾世を離れず、宵 に逢 いて朝 に分るる君と我の、われにはまつわるべき月日もあらず。繊 き身の寄り添わば、幹吹く嵐 に、根なしかずらと倒れもやせん。寄り添わずば、人知らずひそかに括 る恋の糸、振り切って君は去るべし。愛溶けて瞼 に余る、露の底なる光りを見ずや。わが住める館 こそ古るけれ、春を知る事は生れて十八度に過ぎず。物の憐 れの胸に漲 るは、鎖 せる雲の自 ら晴れて、麗 かなる日影の大地を渡るに異ならず。野をうずめ谷を埋 めて千里の外 に暖かき光りをひく。明かなる君が眉目 にはたと行き逢える今の思 は、坑 を出でて天下の春風 に吹かれたるが如きを――言葉さえ交 わさず、あすの別れとはつれなし。
燭 尽きて更 を惜 めども、更尽きて客は寝 ねたり。寝ねたるあとにエレーンは、合わぬ瞼の間より男の姿の無理に瞳 の奥に押し入らんとするを、幾たびか払い落さんと力 めたれど詮 なし。強いて合わぬ目を合せて、この影を追わんとすれば、いつの間にかその人の姿は既に瞼の裏 に潜む。苦しき夢に襲われて、世を恐ろしと思いし夜もある。魂 消 える物 の怪 の話におののきて、眠らぬ耳に鶏の声をうれしと起き出でた事もある。去れど恐ろしきも苦しきも、皆われ安かれと願う心の反響に過ぎず。われという可愛 き者の前に夢の魔を置き、物の怪の祟 りを据えての恐 と苦しみである。今宵 の悩みはそれらにはあらず。我という個霊の消え失 せて、求むれども遂 に得がたきを、驚きて迷いて、果ては情なくてかくは乱るるなり。我を司 どるものの我にはあらで、先に見し人の姿なるを奇 しく、怪しく、悲しく念じ煩うなり。いつの間に我はランスロットと変りて常の心はいずこへか喪 える。エレーンとわが名を呼ぶに、応うるはエレーンならず、中庭に馬乗り捨てて、廂 深き兜 の奥より、高き櫓 を見上げたるランスロットである。再びエレーンと呼ぶにエレーンはランスロットじゃと答える。エレーンは亡 せてかと問えばありという。いずこにと聞けば知らぬという。エレーンは微 かなる毛孔 の末に潜みて、いつか昔しの様に帰らん。エレーンに八万四千の毛孔ありて、エレーンが八万四千壺 の香油を注いで、日にその膚 を滑 かにするとも、潜めるエレーンは遂に出現し来 る期 はなかろう。
やがてわが部屋の戸帳 を開きて、エレーンは壁に釣 る長き衣 を取り出 す。燭にすかせば燃ゆる真紅の色なり。室にはびこる夜 を呑 んで、一枚の衣に真昼の日影を集めたる如く鮮 かである。エレーンは衣の領 を右手 につるして、暫 らくは眩 ゆきものと眺 めたるが、やがて左に握る短刀を鞘 ながら二、三度振る。からからと床 に音さして、すわという間 に閃 きは目を掠 めて紅 深きうちに隠れる。見れば美しき衣の片袖は惜気もなく断たれて、残るは鞘の上にふわりと落ちる。途端に裸ながらの手燭 は、風に打たれて颯 と消えた。外は片破月 の空に更 けたり。
右手 に捧 ぐる袖の光をしるべに、暗きをすりぬけてエレーンはわが部屋を出る。右に折れると兄の住居 、左を突き当れば今宵の客の寝所である。夢の如くなよやかなる女の姿は、地を踏まざるに歩めるか、影よりも静かにランスロットの室の前にとまる。――ランスロットの夢は成らず。
聞くならくアーサー大王のギニヴィアを娶 らんとして、心惑える折、居 ながらに世の成行 を知るマーリンは、首を掉 りて慶事を肯 んぜず。この女後 に思わぬ人を慕う事あり、娶る君に悔 あらん。とひたすらに諫 めしとぞ。聞きたる時の我に罪なければ思わぬ人の誰 なるかは知るべくもなく打ち過ぎぬ。思わぬ人の誰なるかを知りたる時、天 が下 に数多く生れたるもののうちにて、この悲しき命 に廻 り合せたる我を恨み、このうれしき幸 を享 けたる己 れを悦 びて、楽みと苦みの綯 りたる縄を断たんともせず、この年月 を経たり。心疚 ましきは願わず。疚ましき中に蜜あるはうれし。疚ましければこそ蜜をも醸 せと思う折さえあれば、卓を共にする騎士の我を疑うこの日に至るまで王妃を棄 てず。ただ疑の積もりて証拠 と凝らん時――ギニヴィアの捕われて杭 に焼かるる時――この時を思えばランスロットの夢はいまだ成らず。
眠られぬ戸に何物かちょと障 った気合 である。枕を離るる頭 の、音する方 に、しばらくは振り向けるが、また元の如く落ち付いて、あとは古城の亡骸 に脈も通わず。静 である。
再び障った音は、殆 んど敲 いたというべくも高い。慥 かに人ありと思い極 めたるランスロットは、やおら身を臥所 に起して、「たぞ」といいつつ戸を半ば引く。差しつくる蝋燭 の火のふき込められしが、取り直して今度は戸口に立てる乙女の方 にまたたく。乙女の顔は翳 せる赤き袖の影に隠れている。面映 きは灯火 のみならず。
「この深き夜 を……迷えるか」と男は驚きの舌を途切れ途切れに動かす。
「知らぬ路にこそ迷え。年古るく住みなせる家のうちを――鼠 だに迷わじ」と女は微かなる声ながら、思い切って答える。
男はただ怪しとのみ女の顔を打ち守る。女は尺に足らぬ紅絹 の衝立 に、花よりも美くしき顔をかくす。常に勝 る豊頬 の色は、湧 く血潮の疾 く流るるか、あざやかなる絹のたすけか。ただ隠しかねたる鬢 の毛の肩に乱れて、頭には白き薔薇を輪に貫ぬきて三輪挿 したり。
白き香りの鼻を撲 って、絹の影なる花の数さえ見分けたる時、ランスロットの胸には忽ちギニヴィアの夢の話が湧き帰る。何故 とは知らず、悉 く身は痿 えて、手に持つ燭を取り落せるかと驚ろきて我に帰る。乙女はわが前に立てる人の心を読む由もあらず。
「紅 に人のまことはあれ。恥ずかしの片袖を、乞 われぬに参らする。兜 に捲 いて勝負せよとの願なり」とかの袖を押し遣る如く前に出 す。男は容易に答えぬ。
「女の贈り物受けぬ君は騎士か」とエレーンは訴うる如くに下よりランスロットの顔を覗 く。覗かれたる人は薄き唇を一文字に結んで、燃ゆる片袖を、右の手に半ば受けたるまま、当惑の眉を思案に刻む。ややありていう。「戦 に臨む事は大小六十余度、闘技の場に登って槍を交えたる事はその数を知らず。いまだ佳人の贈り物を、身に帯びたる試 しなし。情 あるあるじの子の、情深き賜物を辞 むは礼なけれど……」
「礼ともいえ、礼なしともいいてやみね。礼のために、夜 を冒して参りたるにはあらず。思の籠 るこの片袖を天が下の勇士に贈らんために参りたり。切に受けさせ給え」とここまで踏み込みたる上は、かよわき乙女の、かえって一徹に動かすべくもあらず。ランスロットは惑 う。
カメロットに集まる騎士は、弱きと強きを通じてわが盾の上に描かれたる紋章を知らざるはあらず。またわが腕に、わが兜に、美しき人の贈り物を見たる事なし。あすの試合に後るるは、始めより出づるはずならぬを、半途より思い返しての仕業 故である。闘技の埒 に馬乗り入れてランスロットよ、後れたるランスロットよ、と謳 わるるだけならばそれまでの浮名である。去れど後れたるは病のため、後れながらも参りたるはまことの病にあらざる証拠 よといわば何と答えん。今幸 に知らざる人の盾を借りて、知らざる人の袖を纏 い、二十三十の騎士を斃 すまで深くわが面 を包まば、ランスロットと名乗りをあげて人驚かす夕暮に、――誰 彼 共にわざと後れたる我を肯 わん。病と臥せる我の作略 を面白しと感ずる者さえあろう。――ランスロットは漸 くに心を定める。
部屋のあなたに輝くは物の具である。鎧 の胴に立て懸けたるわが盾を軽々 と片手に提 げて、女の前に置きたるランスロットはいう。
「嬉しき人の真心を兜にまくは騎士の誉 れ。ありがたし」とかの袖を女より受取る。
「うけてか」と片頬 に笑 める様は、谷間の姫 百合 に朝日影さして、しげき露の痕 なく晞 けるが如し。
「あすの勝負に用なき盾を、逢うまでの形身 と残す。試合果てて再びここを過 ぎるまで守り給え」
「守らでやは」と女は跪 いて両手に盾を抱 く。ランスロットは長き袖を眉のあたりに掲げて、「赤し、赤し」という。
この時櫓 の上を烏 鳴き過ぎて、夜 はほのぼのと明け渡る。
四 罪
アーサーを嫌 うにあらず、ランスロットを愛するなりとはギニヴィアの己 れにのみ語る胸のうちである。
北の方 なる試合果てて、行けるものは皆館 に帰れるを、ランスロットのみは影さえ見えず。帰れかしと念ずる人の便 りは絶えて、思わぬものの□ を連ねてカメロットに入るは、見るも益なし。一日には二日を数え、二日には三日を数え、遂 に両手の指を悉 く折り尽して十日に至る今日 までなお帰るべしとの願 を掛けたり。
「遅き人のいずこに繋 がれたる」とアーサーはさまでに心を悩ませる気色 もなくいう。
高き室 の正面に、石にて築く段は二級、半ばは厚き毛氈 にて蔽 う。段の上なる、大 なる椅子 に豊かに倚 るがアーサーである。
「繋ぐ日も、繋ぐ月もなきに」とギニヴィアは答うるが如く答えざるが如くもてなす。王を二尺左に離れて、床几 の上に、纎 き指を組み合せて、膝 より下は長き裳 にかくれて履 のありかさえ定かならず。
よそよそしくは答えたれ、心はその人の名を聞きてさえ躍 るを。話しの種の思う坪に生 えたるを、寒き息にて吹き枯らすは口惜し。ギニヴィアはまた口を開く。
「後 れて行くものは後れて帰る掟 か」といい添えて片頬 に笑う。女の笑うときは危うい。
「後れたるは掟ならぬ恋の掟なるべし」とアーサーも穏かに笑う。アーサーの笑にも特別の意味がある。
恋という字の耳に響くとき、ギニヴィアの胸は、錐 に刺されし痛 を受けて、すわやと躍り上る。耳の裏には颯 と音がして熱き血を注 す。アーサーは知らぬ顔である。
「あの袖 の主こそ美しからん。……」
「あの袖とは? 袖の主とは? 美しからんとは?」とギニヴィアの呼吸ははずんでいる。
「白き挿毛 に、赤き鉢巻ぞ。さる人の贈り物とは見たれ。繋がるるも道理じゃ」とアーサーはまたからからと笑う。
「主の名は?」
「名は知らぬ。ただ美しき故に美しき少女というと聞く。過ぐる十日を繋がれて、残る幾 日 を繋がるる身は果報なり。カメロットに足は向くまじ」
「美しき少女! 美しき少女!」と続け様に叫んでギニヴィアは薄き履 に三たび石の床 を踏みならす。肩に負う髪の時ならぬ波を描いて、二尺余りを一筋ごとに末まで渡る。
夫に二心 なきを神の道との教 は古るし。神の道に従うの心易きも知らずといわじ。心易きを自ら捨てて、捨てたる後の苦しみを嬉 しと見しも君がためなり。春風 に心なく、花自 ら開く。花に罪ありとは下 れる世の言の葉に過ぎず。恋を写す鏡の明 なるは鏡の徳なり。かく観ずる裡 に、人にも世にも振り棄 てられたる時の慰藉 はあるべし。かく観ぜんと思い詰めたる今頃を、わが乗れる足台は覆 えされて、踵 を支 うるに一塵 だになし。引き付けられたる鉄と磁石の、自然に引き付けられたれば咎 も恐れず、世を憚 りの関 一重 あなたへ越せば、生涯の落 ち付 はあるべしと念じたるに、引き寄せたる磁石は火打石と化して、吸われし鉄は無限の空裏を冥府 へ隕 つる。わが坐 わる床几の底抜けて、わが乗る壇の床崩 れて、わが踏む大地の殻 裂けて、己れを支うる者は悉く消えたるに等し。ギニヴィアは組める手を胸の前に合せたるまま、右左より骨も摧 けよと圧 す。片手に余る力を、片手に抜いて、苦しき胸の悶 を人知れぬ方 へ洩 らさんとするなり。
「なに事ぞ」とアーサーは聞く。
「なに事とも知らず」と答えたるは、アーサーを欺けるにもあらず、また己 を誣 いたるにもあらず。知らざるを知らずといえるのみ。まことはわが口にせる言葉すら知らぬ間に咽 を転 び出 でたり。
ひく浪 の返す時は、引く折の気色を忘れて、逆しまに岸を噛 む勢 の、前よりは凄 じきを、浪自 らさえ驚くかと疑う。はからざる便りの胸を打ちて、度を失えるギニヴィアの、己れを忘るるまでわれに遠ざかれる後には、油然 として常よりも切なきわれに復 る。何事も解せぬ風情 に、驚ろきの眉 をわが額の上にあつめたるアーサーを、わが夫と悟れる時のギニヴィアの眼には、アーサーは少 らく前のアーサーにあらず。
人を傷 けたるわが罪を悔ゆるとき、傷負える人の傷ありと心付かぬ時ほど悔 の甚 しきはあらず。聖徒に向って鞭 を加えたる非の恐しきは、鞭 てるものの身に跳 ね返る罰なきに、自 らとその非を悔いたればなり。われを疑うアーサーの前に恥ずる心は、疑わぬアーサーの前に、わが罪を心のうちに鳴らすが如く痛からず。ギニヴィアは悚然 として骨に徹する寒さを知る。
「人の身の上はわが上とこそ思え。人恋わぬ昔は知らず、嫁 ぎてより幾夜か経たる。赤き袖の主のランスロットを思う事は、御身 のわれを思う如くなるべし。贈り物あらば、われも十日を、二十日 を、帰るを、忘るべきに、罵 しるは卑 し」とアーサーは王妃の方 を見て不審の顔付である。
「美しき少女!」とギニヴィアは三たびエレーンの名を繰り返す。このたびは鋭どき声にあらず。去りとては憐 を寄せたりとも見えず。
アーサーは椅子に倚る身を半ば回 らしていう。「御身とわれと始めて逢える昔を知るか。丈 に余る石の十字を深く地に埋 めたるに、蔦 這 いかかる春の頃なり。路 に迷いて御堂 にしばし憩 わんと入れば、銀に鏤 ばむ祭壇の前に、空色の衣 を肩より流して、黄金 の髪に雲を起せるは誰 ぞ」
女はふるえる声にて「ああ」とのみいう。床 しからぬにもあらぬ昔の、今は忘るるをのみ心易しと念じたる矢先に、忽然 と容赦もなく描き出されたるを堪えがたく思う。
「安からぬ胸に、捨てて行ける人の帰るを待つと、凋 れたる声にてわれに語る御身の声をきくまでは、天 つ下 れるマリヤのこの寺の神壇に立てりとのみ思えり」
逝 ける日は追えども帰らざるに逝ける事は長 しえに暗きに葬むる能 わず。思うまじと誓える心に発矢 と中 る古き火花もあり。
「伴いて館に帰し参らせんといえば、黄金の髪を動かして何処 へとも、とうなずく……」と途中に句を切ったアーサーは、身を起して、両手にギニヴィアの頬を抑 えながら上より妃の顔を覗き込む。新たなる記憶につれて、新たなる愛の波が、一しきり打ち返したのであろう。――王妃の顔は屍 を抱 くが如く冷たい。アーサーは覚えず抑えたる手を放す。折から廻廊を遠く人の踏む音がして、罵 る如き幾多の声は次第にアーサーの室に逼 る。
入口に掛けたる厚き幕は総 に絞らず。長く垂れて床をかくす。かの足音の戸の近くしばらくとまる時、垂れたる幕を二つに裂いて、髪多く丈 高き一人の男があらわれた。モードレッドである。
モードレッドは会釈もなく室の正面までつかつかと進んで、王の立てる壇の下にとどまる。続いて入 るはアグラヴェン、逞 ましき腕の、寛 き袖を洩れて、赭 き頸 の、かたく衣の襟 に括 られて、色さえ変るほど肉づける男である。二人の後 には物色する遑 なきに、どやどやと、我勝ちに乱れ入りて、モードレッドを一人 前に、ずらりと並ぶ、数は凡 てにて十二人。何事かなくては叶 わぬ。
モードレッドは、王に向って会釈せる頭 を擡 げて、そこ力のある声にていう。「罪あるを罰するは王者 の事か」
「問わずもあれ」と答えたアーサーは今更という面持 である。
「罪あるは高きをも辞せざるか」とモードレッドは再び王に向って問う。
アーサーは我とわが胸を敲 いて「黄金の冠は邪 の頭に戴 かず。天子の衣は悪を隠さず」と壇上に延び上る。肩に括 る緋 の衣の、裾は開けて、白き裏が雪の如く光る。
「罪あるを許さずと誓わば、君が傍 に坐せる女をも許さじ」とモードレッドは臆 する気色もなく、一指を挙げてギニヴィアの眉間 を指 す。ギニヴィアは屹 と立ち上る。
茫然 たるアーサーは雷火に打たれたる唖 の如く、わが前に立てる人――地を抽 き出でし巌 とばかり立てる人――を見守る。口を開けるはギニヴィアである。
「罪ありと我を誣 いるか。何をあかしに、何の罪を数えんとはする。詐 りは天も照覧あれ」と繊 き手を抜け出でよと空高く挙げる。
「罪は一つ。ランスロットに聞け。あかしはあれぞ」と鷹 の眼を後ろに投ぐれば、並びたる十二人は悉く右の手を高く差し上げつつ、「神も知る、罪は逃 れず」と口々にいう。
ギニヴィアは倒れんとする身を、危く壁掛に扶 けて「ランスロット!」と幽 に叫ぶ。王は迷う。肩に纏 わる緋の衣の裏を半ば返して、右手 の掌 を十三人の騎士に向けたるままにて迷う。
この時館の中に「黒し、黒し」と叫ぶ声が石□ に響 を反 して、窈然 と遠く鳴る木枯 の如く伝わる。やがて河に臨む水門を、天にひびけと、錆 びたる鉄鎖に軋 らせて開く音がする。室の中なる人々は顔と顔を見合わす。只事 ではない。
五 舟
「□ に巻ける絹の色に、槍突き合わす敵の目も覚 むべし。ランスロットはその日の試合に、二十余人の騎士を仆 して、引き挙ぐる間際 に始めてわが名をなのる。驚く人の醒 めぬ間 を、ラヴェンと共に埒 を出でたり。行く末は勿論 アストラットじゃ」と三日過ぎてアストラットに帰れるラヴェンは父と妹に物語る。
「ランスロット?」と父は驚きの眉 を張る。女は「あな」とのみ髪に挿 す花の色を顫 わす。
「二十余人の敵と渡り合えるうち、何者かの槍 を受け損じてか、鎧 の胴を二寸下 りて、左の股 に創 を負う……」
「深き創か」と女は片唾 を呑んで、懸念の眼を□ る。
「鞍 に堪えぬほどにはあらず。夏の日の暮れがたきに暮れて、蒼 き夕 を草深き原のみ行けば、馬の蹄 は露に濡 れたり。――二人は一言 も交 わさぬ。ランスロットの何の思案に沈めるかは知らず、われは昼の試合のまたあるまじき派手やかさを偲 ぶ。風渡る梢 もなければ馬の沓 の地を鳴らす音のみ高し。――路は分れて二筋となる」
「左へ切ればここまで十哩 じゃ」と老人が物知り顔にいう。
「ランスロットは馬の頭 を右へ立て直す」
「右? 右はシャロットへの本街道、十五哩は確かにあろう」これも老人の説明である。
「そのシャロットの方 へ――後 より呼ぶわれを顧みもせで轡 を鳴らして去る。やむなくてわれも従う。不思議なるはわが馬を振り向けんとしたる時、前足を躍らしてあやしくも嘶 ける事なり。嘶く声の果 知らぬ夏野に、末広に消えて、馬の足掻 の常の如く、わが手綱 の思うままに運びし時は、ランスロットの影は、夜 と共に微 かなる奥に消えたり。――われは鞍を敲 いて追う」
「追い付いてか」と父と妹は声を揃 えて問う。
「追い付ける時は既に遅くあった。乗る馬の息の、闇 押し分けて白く立ち上るを、いやがうえに鞭 って長き路を一散に馳 け通す。黒きもののそれかとも見ゆる影が、二丁ばかり先に現われたる時、われは肺を逆しまにしてランスロットと呼ぶ。黒きものは聞かざる真似 して行く。幽 かに聞えたるは轡 の音か。怪しきは差して急げる様もなきに容易 くは追い付かれず。漸 くの事間 一丁ほどに逼 りたる時、黒きものは夜の中に織り込まれたる如く、ふっと消える。合点 行かぬわれは益 追う。シャロットの入口に渡したる石橋に、蹄も砕けよと乗り懸けしと思えば、馬は何物にか躓 きて前足を折る。騎 るわれは鬣 をさかに扱 いて前にのめる。戞 と打つは石の上と心得しに、われより先に斃 れたる人の鎧 の袖なり」
「あぶない!」と老人は眼の前の事の如くに叫ぶ。
「あぶなきはわが上ならず。われより先に倒れたるランスロットの事なり……」
「倒れたるはランスロットか」と妹は魂 消 ゆるほどの声に、椅子の端 を握る。椅子の足は折れたるにあらず。
「橋の袂 の柳の裏 に、人住むとしも見えぬ庵室 あるを、試みに敲けば、世を逃 れたる隠士の居 なり。幸いと冷たき人を担 ぎ入るる。兜 を脱げば眼さえ氷りて……」
「薬を掘り、草を煮るは隠士の常なり。ランスロットを蘇 してか」と父は話し半ばに我句を投げ入るる。
「よみ返しはしたれ。よみにある人と択 ぶ所はあらず。われに帰りたるランスロットはまことのわれに帰りたるにあらず。魔に襲われて夢に物いう人の如く、あらぬ事のみ口走る。あるときは罪々と叫び、あるときは王妃――ギニヴィア――シャロットという。隠士が心を込むる草の香 りも、煮えたる頭 には一点の涼気を吹かず。……」
「枕辺 にわれあらば」と少女 は思う。
「一夜 の後 たぎりたる脳の漸く平らぎて、静かなる昔の影のちらちらと心に映る頃、ランスロットはわれに去れという。心許さぬ隠士は去るなという。とかくして二日を経たり。三日目の朝、われと隠士の眠 覚めて、病む人の顔色の、今朝 如何 あらんと臥所 を窺 えば――在 らず。剣 の先にて古壁に刻み残せる句には罪はわれを追い、われは罪を追うとある」
「逃 れしか」と父は聞き、「いずこへ」と妹はきく。
「いずこと知らば尋ぬる便りもあらん。茫々 と吹く夏野の風の限りは知らず。西東日の通う境は極 めがたければ、独 り帰り来ぬ。――隠士はいう、病 怠らで去る。かの人の身は危うし。狂いて走る方 はカメロットなるべしと。うつつのうちに口走れる言葉にてそれと察せしと見ゆれど、われは確 と、さは思わず」と語り終って盃 に盛る苦き酒を一息に飲み干して虹 の如き気を吹く。妹は立ってわが室に入る。
花に戯むるる蝶 のひるがえるを見れば、春に憂 ありとは天下を挙げて知らぬ。去れど冷やかに日落ちて、月さえ闇 に隠るる宵 を思え。――ふる露のしげきを思え。――薄き翼のいかばかり薄きかを思え。――広き野の草の陰に、琴の爪 ほど小 きものの潜むを思え。――畳む羽に置く露の重きに過ぎて、夢さえ苦しかるべし。果知らぬ原の底に、あるに甲斐 なき身を縮めて、誘う風にも砕くる危うきを恐るるは淋 しかろう。エレーンは長くは持たぬ。
エレーンは盾を眺めている。ランスロットの預けた盾を眺め暮している。その盾には丈高き女の前に、一人の騎士が跪 ずいて、愛と信とを誓える模様が描かれている。騎士の鎧は銀、女の衣は炎の色に燃えて、地 は黒に近き紺を敷く。赤き女のギニヴィアなりとは憐れなるエレーンの夢にだも知る由がない。
エレーンは盾の女を己れと見立てて、跪まずけるをランスロットと思う折さえある。かくあれと念ずる思いの、いつか心の裏 を抜け出でて、かくの通りと盾の表にあらわれるのであろう。かくありて後と、あらぬ礎 を一度び築ける上には、そら事を重ねて、そのそら事の未来さえも想像せねばやまぬ。
重ね上げたる空想は、また崩れる。児戯に積む小石の塔を蹴 返 す時の如くに崩れる。崩れたるあとのわれに帰りて見れば、ランスロットはあらぬ。気を狂いてカメロットの遠きに走れる人の、わが傍 にあるべき所謂 はなし。離るるとも、誓 さえ渝 らずば、千里を繋ぐ牽 き綱 もあろう。ランスロットとわれは何を誓える? エレーンの眼には涙が溢 れる。
涙の中にまた思い返す。ランスロットこそ誓わざれ。一人誓えるわれの渝るべくもあらず。二人の中に成り立つをのみ誓とはいわじ。われとわが心にちぎるも誓には洩 れず。この誓だに破らずばと思い詰める。エレーンの頬の色は褪 せる。
死ぬ事の恐しきにあらず、死したる後にランスロットに逢いがたきを恐るる。去れどこの世にての逢いがたきに比ぶれば、未来に逢うのかえって易 きかとも思う。罌粟 散るを憂 しとのみ眺むべからず、散ればこそまた咲く夏もあり。エレーンは食を断った。
衰えは春野焼く火と小さき胸を侵 かして、愁 は衣に堪えぬ玉骨 を寸々 に削る。今までは長き命とのみ思えり。よしやいつまでもと貪 る願はなくとも、死ぬという事は夢にさえ見しためしあらず、束 の間 の春と思いあたれる今日となりて、つらつら世を観ずれば、日に開く蕾 の中にも恨 はあり。円 く照る明月のあすをと問わば淋しからん。エレーンは死ぬより外の浮世に用なき人である。
今はこれまでの命と思い詰めたるとき、エレーンは父と兄とを枕辺に招きて「わがためにランスロットへの文 かきて玉われ」という。父は筆と紙を取り出でて、死なんとする人の言の葉を一々に書き付ける。
「天 が下 に慕える人は君ひとりなり。君一人のために死ぬるわれを憐れと思え。陽炎 燃ゆる黒髪の、長き乱れの土となるとも、胸に彫るランスロットの名は、星変る後の世までも消えじ。愛の炎に染めたる文字の、土水 の因果を受くる理 なしと思えば。睫 に宿る露の珠 に、写ると見れば砕けたる、君の面影の脆 くもあるかな。わが命もしかく脆きを、涙あらば濺 げ。基督 も知る、死ぬるまで清き乙女 なり」
書き終りたる文字は怪しげに乱れて定かならず。年寄の手の顫 えたるは、老 のためとも悲 のためとも知れず。
女またいう。「息絶えて、身の暖かなるうち、右の手にこの文 を握らせ給え。手も足も冷え尽したる後、ありとある美しき衣 にわれを着飾り給え。隙間 なく黒き布しき詰めたる小船 の中にわれを載せ給え。山に野に白き薔薇 、白き百合 を採り尽して舟に投げ入れ給え。――舟は流し給え」
かくしてエレーンは眼を眠る。眠りたる眼は開く期 なし。父と兄とは唯々 として遺言の如 く、憐れなる少女 の亡骸 を舟に運ぶ。
古き江に漣 さえ死して、風吹く事を知らぬ顔に平かである。舟は今緑り罩 むる陰を離れて中流に漕 ぎ出 づる。櫂 操 るはただ一人、白き髪の白き髯 の翁 と見ゆ。ゆるく掻 く水は、物憂げに動いて、一櫂ごとに鉛の如き光りを放つ。舟は波に浮ぶ睡蓮 の睡れる中に、音もせず乗り入りては乗り越して行く。蕚 傾けて舟を通したるあとには、軽 く曳 く波足と共にしばらく揺れて花の姿は常の静 さに帰る。押し分けられた葉の再び浮き上る表には、時ならぬ露が珠を走らす。
舟は杳然 として何処 ともなく去る。美しき亡骸 と、美しき衣 と、美しき花と、人とも見えぬ一個の翁とを載せて去る。翁は物をもいわぬ。ただ静かなる波の中に長き櫂をくぐらせては、くぐらす。木に彫る人を鞭 って起 たしめたるか、櫂を動かす腕の外 には活 きたる所なきが如くに見ゆる。
と見れば雪よりも白き白鳥が、収めたる翼に、波を裂いて王者の如く悠然 と水を練り行く。長き頸 の高く伸 したるに、気高き姿はあたりを払って、恐るるもののありとしも見えず。うねる流を傍目 もふらず、舳 に立って舟を導く。舟はいずくまでもと、鳥の羽 に裂けたる波の合わぬ間 を随 う。両岸の柳は青い。
シャロットを過ぐる時、いずくともなく悲しき声が、左の岸より古き水の寂寞 を破って、動かぬ波の上に響く。「うつせみの世を、……うつつ……に住めば……」絶えたる音はあとを引いて、引きたるはまたしばらくに絶えんとす。聞くものは死せるエレーンと、艫 に坐る翁のみ。翁は耳さえ借さぬ。ただ長き櫂をくぐらせてはくぐらする。思うに聾 なるべし。
空は打ち返したる綿を厚く敷けるが如く重い。流を挟 む左右の柳は、一本ごとに緑りをこめて濛々 と烟る。娑婆 と冥府 の界 に立ちて迷える人のあらば、その人の霊を並べたるがこの気色 である。画 に似たる少女 の、舟に乗りて他界へ行くを、立ちならんで送るのでもあろう。
舟はカメロットの水門に横付けに流れて、はたと留まる。白鳥の影は波に沈んで、岸高く峙 てる楼閣の黒く水に映るのが物凄 い。水門は左右に開けて、石階の上にはアーサーとギニヴィアを前に、城中の男女 が悉 く集まる。
エレーンの屍 は凡 ての屍のうちにて最も美しい。涼しき顔を、雲と乱るる黄金 の髪に埋 めて、笑える如く横 わる。肉に付着するあらゆる肉の不浄を拭 い去って、霊その物の面影を口鼻 の間に示せるは朗かにもまた極めて清い。苦しみも、憂いも、恨みも、憤りも――世に忌 わしきものの痕 なければ土に帰る人とは見えず。
王は厳 かなる声にて「何者ぞ」と問う。櫂の手を休めたる老人は唖 の如く口を開かぬ。ギニヴィアはつと石階を下 りて、乱るる百合の花の中より、エレーンの右の手に握る文 を取り上げて何事と封を切る。
悲しき声はまた水を渡りて、「……うつくしき……恋、色や……うつろう」と細き糸ふって波うたせたる時の如くに人々の耳を貫く。
読み終りたるギニヴィアは、腰をのして舟の中なるエレーンの額――透き徹 るエレーンの額に、顫 えたる唇をつけつつ「美くしき少女!」という。同時に一滴の熱き涙はエレーンの冷たき頬の上に落つる。
十三人の騎士は目と目を見合せた。
実をいうとマロリーの写したランスロットは或る点において車夫の如く、ギニヴィアは車夫の情婦のような感じがある。この一点だけでも書き直す必要は充分あると思う。テニソンの『アイジルス』は優麗都雅の点において古今の雄篇たるのみならず性格の描写においても十九世紀の人間を古代の舞台に
一 夢
百、二百、
「ランスロット」と幕押し分けたるままにていう。天を
「ギニヴィア!」と
女は幕をひく手をつと放して内に
「北の
「贈りまつれる薔薇の
「うれしきものに罪を思えば、罪長かれと祈る
「今日のみの縁とは? 墓に
「さればこそ」と女は右の手を高く
「命は長き賜物ぞ、恋は命よりも長き賜物ぞ。心安かれ」と男はさすがに大胆である。
女は両手を延ばして、戴ける冠を左右より抑えて「この冠よ、この冠よ。わが額の焼ける事は」という。願う事の
機微の
「かくてあらん」と男は始めより思い極めた態である。
「されど」と
「さほどに人が
「
「薔薇咲く日なり。白き薔薇と、赤き薔薇と、黄なる薔薇の間に
「わが冠の肉に
「さらば行こう。
「行くか?」とはギニヴィアの半ば疑える言葉である。疑える中には、今更ながら別れの惜まるる心地さえほのめいている。
「行く」といい放って、つかつかと戸口にかかる幕を半ば掲げたが、やがてするりと
やがて三たび馬の
二 鏡
ありのままなる浮世を見ず、鏡に写る浮世のみを見るシャロットの女は高き
春恋し、春恋しと
シャロットの野に麦刈る男、麦打つ女の歌にやあらん、谷を渡り水を渡りて、
シャロットの
古き幾世を照らして、今の世にシャロットにありとある物を照らす。悉く照らして
去れどありのままなる世は罪に濁ると聞く。住み
鏡の長さは五尺に足らぬ。
夜ごと日ごとに鏡に向える女は、夜ごと日ごとに鏡の
シャロットの女の投ぐる
シャロットの女の織るは不断の
恋の糸と
シャロットの女は
女はやがて世にあるまじき悲しき声にて歌う。
うつせみの世を、
うつつに住めば、
住みうからまし、
むかしも今も。」
うつくしき恋、
うつす鏡に、
色やうつろう、
朝な夕なに。」
鏡の中なる
曲がれる
ぴちりと音がして
三 袖
「騎士はいずれに去る人ぞ」と老人は穏かなる声にて訪う。
「北の
エレーンは父の後ろに小さき身を隠して、このアストラットに、
「無心ながら宿貸す人に申す」とややありてランスロットがいう。「
老人ははたと手を
ランスロットは腕を
「次男ラヴェンは
ランスロットは何の思案もなく「心得たり」と心安げにいう。老人の
木に
やがてわが部屋の
聞くならくアーサー大王のギニヴィアを
眠られぬ戸に何物かちょと
再び障った音は、
「この深き
「知らぬ路にこそ迷え。年古るく住みなせる家のうちを――
男はただ怪しとのみ女の顔を打ち守る。女は尺に足らぬ
白き香りの鼻を
「
「女の贈り物受けぬ君は騎士か」とエレーンは訴うる如くに下よりランスロットの顔を
「礼ともいえ、礼なしともいいてやみね。礼のために、
カメロットに集まる騎士は、弱きと強きを通じてわが盾の上に描かれたる紋章を知らざるはあらず。またわが腕に、わが兜に、美しき人の贈り物を見たる事なし。あすの試合に後るるは、始めより出づるはずならぬを、半途より思い返しての
部屋のあなたに輝くは物の具である。
「嬉しき人の真心を兜にまくは騎士の
「うけてか」と
「あすの勝負に用なき盾を、逢うまでの
「守らでやは」と女は
この時
四 罪
アーサーを
北の
「遅き人のいずこに
高き
「繋ぐ日も、繋ぐ月もなきに」とギニヴィアは答うるが如く答えざるが如くもてなす。王を二尺左に離れて、
よそよそしくは答えたれ、心はその人の名を聞きてさえ
「
「後れたるは掟ならぬ恋の掟なるべし」とアーサーも穏かに笑う。アーサーの笑にも特別の意味がある。
恋という字の耳に響くとき、ギニヴィアの胸は、
「あの
「あの袖とは? 袖の主とは? 美しからんとは?」とギニヴィアの呼吸ははずんでいる。
「白き
「主の名は?」
「名は知らぬ。ただ美しき故に美しき少女というと聞く。過ぐる十日を繋がれて、残る
「美しき少女! 美しき少女!」と続け様に叫んでギニヴィアは薄き
夫に
「なに事ぞ」とアーサーは聞く。
「なに事とも知らず」と答えたるは、アーサーを欺けるにもあらず、また
ひく
人を
「人の身の上はわが上とこそ思え。人恋わぬ昔は知らず、
「美しき少女!」とギニヴィアは三たびエレーンの名を繰り返す。このたびは鋭どき声にあらず。去りとては
アーサーは椅子に倚る身を半ば
女はふるえる声にて「ああ」とのみいう。
「安からぬ胸に、捨てて行ける人の帰るを待つと、
「伴いて館に帰し参らせんといえば、黄金の髪を動かして
入口に掛けたる厚き幕は
モードレッドは会釈もなく室の正面までつかつかと進んで、王の立てる壇の下にとどまる。続いて
モードレッドは、王に向って会釈せる
「問わずもあれ」と答えたアーサーは今更という
「罪あるは高きをも辞せざるか」とモードレッドは再び王に向って問う。
アーサーは我とわが胸を
「罪あるを許さずと誓わば、君が
「罪ありと我を
「罪は一つ。ランスロットに聞け。あかしはあれぞ」と
ギニヴィアは倒れんとする身を、危く壁掛に
この時館の中に「黒し、黒し」と叫ぶ声が
五 舟
「
「ランスロット?」と父は驚きの
「二十余人の敵と渡り合えるうち、何者かの
「深き創か」と女は
「
「左へ切ればここまで十
「ランスロットは馬の
「右? 右はシャロットへの本街道、十五哩は確かにあろう」これも老人の説明である。
「そのシャロットの
「追い付いてか」と父と妹は声を
「追い付ける時は既に遅くあった。乗る馬の息の、
「あぶない!」と老人は眼の前の事の如くに叫ぶ。
「あぶなきはわが上ならず。われより先に倒れたるランスロットの事なり……」
「倒れたるはランスロットか」と妹は
「橋の
「薬を掘り、草を煮るは隠士の常なり。ランスロットを
「よみ返しはしたれ。よみにある人と
「
「
「
「いずこと知らば尋ぬる便りもあらん。
花に戯むるる
エレーンは盾を眺めている。ランスロットの預けた盾を眺め暮している。その盾には丈高き女の前に、一人の騎士が
エレーンは盾の女を己れと見立てて、跪まずけるをランスロットと思う折さえある。かくあれと念ずる思いの、いつか心の
重ね上げたる空想は、また崩れる。児戯に積む小石の塔を
涙の中にまた思い返す。ランスロットこそ誓わざれ。一人誓えるわれの渝るべくもあらず。二人の中に成り立つをのみ誓とはいわじ。われとわが心にちぎるも誓には
死ぬ事の恐しきにあらず、死したる後にランスロットに逢いがたきを恐るる。去れどこの世にての逢いがたきに比ぶれば、未来に逢うのかえって
衰えは春野焼く火と小さき胸を
今はこれまでの命と思い詰めたるとき、エレーンは父と兄とを枕辺に招きて「わがためにランスロットへの
「
書き終りたる文字は怪しげに乱れて定かならず。年寄の手の
女またいう。「息絶えて、身の暖かなるうち、右の手にこの
かくしてエレーンは眼を眠る。眠りたる眼は開く
古き江に
舟は
と見れば雪よりも白き白鳥が、収めたる翼に、波を裂いて王者の如く
シャロットを過ぐる時、いずくともなく悲しき声が、左の岸より古き水の
空は打ち返したる綿を厚く敷けるが如く重い。流を
舟はカメロットの水門に横付けに流れて、はたと留まる。白鳥の影は波に沈んで、岸高く
エレーンの
王は
悲しき声はまた水を渡りて、「……うつくしき……恋、色や……うつろう」と細き糸ふって波うたせたる時の如くに人々の耳を貫く。
読み終りたるギニヴィアは、腰をのして舟の中なるエレーンの額――透き
十三人の騎士は目と目を見合せた。
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