三等奖

「今、平和を考える」

马智民(中央财经大学外国语学院)

最近、中国と日本では不幸なことが起きていました。9月6日、日本の北海道では、胆振地方中東部地震で数十人が犠牲になり、数百人がけがをし、他の被害者は数を数えられないほど出ました。同じく9月には、「山竹」という台風が中国の広東省に登陸し、中国南部の沿海に巨大な災害となっています。

中日両国は灾難が頻発する国だが、灾害のたびに、両国の人々はすぐに積極的に救助を行い、被災地の人々の生命と財産の安全を保障しています。このような人権に対する十分な尊重や困難に直面した時一致させ、助け合う精神は、両国が次々に危険を乗り越えられた重要な原因の一つであると思います。

1978年から四十年間、両国は無数の風雨を乗り越えました。1972年、田中角栄首相の中国訪問が氷を破り、1978年鄧小平の日本を訪問しました。1973年、天津と神戸は初めての友好都市を皮切りに、今では300組ぐらいの友好都市が盛んに発展しました。この四十年は、相互援助の四十年であります。2018年は日中平和友好条約締結の四十年です。これをきっかけに中日両国の平和問題が私の思考を引き出しました。

我々の先輩たちは、40年前に平和友好条約を締結する方式で中日両国間の対立と敵視を終わらせました。重要な歴史の時期には、議論を棚上げにし、裁判部ではなく、交渉のテーブルで対等に話し合いを交わし、中日国交の新しい一章を開いました。それは本当に素晴らしいだと思います。それ以来、中日両国は政治、経済貿易、文化、観光、技術などの多様な分野で広い交流と協力を展開してきました。

近年、中国に来た日本人観光客が増えています。5月のある日、学校に帰ってきた13号地下鉄で、一人で北京を旅行した日本人の青年に会いました。当時の状況はこうでした。「日本語が分かる方、いらっしゃいますか?」という駅係員の声を聞きました。こちらの日本青年は、中国語も英語もわかりませんでした。でも、彼が持っていたのは、日本語で観光パンフレットだったので、日本人観光客だったと判断しました。彼はパンフレットの中で一枚の写真を指しました。私は彼より少し背が高いので、思わず膝を曲げて、彼の維持と同じ高度に見て、それは万里の長城でした。そして、私は日本語で万里の長城への行き方を教えました。日本人に対する抵抗感があると思っていますが、周りの人の目から私への称賛を感じました。その後私は駅に着いてから車を降り、その後彼が無事に万里の長城に行けたかどうかも知りませんでした。その経験を通して、私は初めて日本語を勉強することが役に立つことを意識して、人を助けることができてとてもうれしいと思っています。とともに、私も、あの日本人の青年にたいへん感心しています。一人で、異国に来て言語さえ分からなくて、勇気を持って乗り越えることが必要です。しかし、考えてみれば、それも今の中日両国の平和友好関係の縮図だと思います。異国の地でもいい、言葉が通じなくてもいい、中国のどんなところに、多くの人がこの日本人の青年を助けると信じています。

私は平和が簡単なことだと初めてわかりました。「平」を先に「和」ということができます。「平」というのは「平等」のことであり、「和」というのは「平和」のことであります。以前、中国人はいつも被害者の視点で中日関係を見ていました。确かに歴史は、日本がかつて中国を侵略したことを教えて、中国人民に深刻な災難をもたらしました。しかし、これは無意識のうちに自分を見上げる視点を置きました。これは憎しみの見方です。このような視点で、中日は平等ではなく、平和も言えません。中国は世界第2の経済体となり、発展はますます良くなっています。中国人が自信を持って、これは我々の誇りに値することです。しかし、これは自分を見下ろす視点を置きました。これは自慢の見方です。「平和」はこの視点で、強力な方に転落した独りよがりの施し、結果はただ意味のないスローガンになりました。中国と日本とは平等の国で、中国人と日本人とは平等の人間です。私たちは相手に平等の視点を選択するとき、相手の目の中で憎しみも自慢も見えなくて、同じ平等の視点を選択する相手だけを見られます。平等の視点を選択するのは、平和な気持ちで現実を直視しますと同じ意味です。まず「平等」を作り、「平和」は自然なことになります。これが「平和」という言葉が私たちに伝えたいものですね。

「平」から「和」に行く道を選択は、我々の世代の選択しなければなりません。

私の希望は中日平和です。「平和」を実現するために、みんなで平等の方法を採用し、力を合わせてほしいです。

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