「消費」ということからみれば、平成という枠組みには、一定の意義が認められる。この30年あまりの年月は、消費が私たちにとってどれほど大きな力を持っているかを、よく教えてくれたからである。バブル期のような華やかな消費がみられなくなった平成以降の社会を、「ポスト消費社会」と呼ぶ者(たとえば上野千鶴子・辻井喬『ポスト消費社会のゆくえ』(2008))もいる。

从“消费”的角度来看,平成这一时期具有一定的意义。这30余年的时间让我们足够认识到,消费对于我们有多么大的影响力。进入平成后,泡沫经济时期盛行的奢侈消费逐渐消失不见,也有学者称之为“后消费社会”。(例如上野千鹤子・辻井乔《后消费社会的将来》(2008年))

しかしそれは「消費社会」の大きさを甘く見積もるか、あえて矮小な意味を与えそれをやりすごそうとするものというしかない。私たちは、楽しみや気晴らしのためだけではなく、そもそも生きていくために、たくさんのモノやサービスを買わなければならない。そのせいで大多数の者は、嫌な仕事を辞められず、上司や得意先、親や配偶者のいうことに渋々でも従う。こうして消費が結節点となり、私たちの生活を縛る社会を「消費社会」と呼ぶならば、この平成の期間で「消費社会」は力を弱めたどころか、よりいっそう生活を強く囲い込んでいるようにみえるのである。

但这样的观点,过于低估了“消费社会”的重要性,或是强行赋予其渺小的意义。我们本就不是为了快乐、消除烦闷而消费的,而是因为要生存下去,必须购买大量物资、服务。为此,大多数人不能辞去讨厌的工作,即使对上司、客户、父母及配偶所说的话感到不舒服,也会选择服从。消费成了束缚住我们的绳结,如果将这个把我们生活束缚住的社会称作“消费社会”,那么平成时代的“消费社会”非但没有减弱其影响力,反而越发将我们束缚于生活的牢笼之中。

消費の沈滞

消费的停滞

もちろん「消費社会」に、まったく変化がなかったわけではない。平成の時代、「消費社会」は不況という最大の試練を被った。振り返ってみれば、平成はバブルの絶頂とその崩壊からスタートする。平成元(1989)年の12月29日、最高値の3万8915円をつけた日経平均株価は、それをピークに暴落し、以降30年近くのあいだで、かつての3分の2の水準にさえ達していない。このバブル崩壊の過程であきらかになったのは、戦後社会を牽引してきた「理想」や「理念」の縮小である。

当然,“消费社会”也并非毫无变化。平成时代,“消费社会”遭遇了经济不景气这一最大的考验。回顾过去,平成是在泡沫经济的鼎盛和崩溃中开始的。平成元年(1989)12月29日,最高数值达到3万8915日元的日本经济平均股价从最高点暴跌,在之后的近30年,连过去水平的三分之二都未曾达到。在泡沫经济崩坏的过程中有一件事很明显——一直以来引领着战后社会复苏的“理想”、“理念”变小了。

たとえば非正規労働の増大や、未婚率の上昇に伴い、男性雇用者を中心とした家族という「理想」は、実現がますますむずかしくなる。家族をつくり、それなりに安定した生活を送ることは、平凡な夢どころか、恵まれた人の贅沢になったのである。他方、「消費」に関連しては、「豊かさ」という「理想」が崩れたことが大きかった。消費水準指数をみれば、バブル崩壊後、消費支出は低落の一途をたどったのである。こうした下降のトレンドから、いつかは誰もが平等に「豊か」になれるという「戦後」的な夢が解体されたと解釈する者もいる。

例如,随着非正规劳动的增加和未婚率的上升,越来越难以实现组建以企业正式雇佣的男性工作者为中心的家庭的理想。组建家庭,过着与之相应的安定生活不仅不再是普通的梦想,反而是只有幸运之人才能拥有的奢侈。另一方面,“富裕”这一“梦想”的破碎对“消费”产生了巨大影响。观察消费水平指数,会发现在泡沫经济崩溃后,人们的消费支出一直处于下滑状态。有人从这个下滑趋势中得出了这样的结论——总有一天人人都能变得“富裕”这一具有“战后”特色的梦想已经分崩离析。

実際、山田昌弘『希望格差社会』(平成16(2004))や橘木俊詔『格差社会―何が問題なのか』(平成18(2006))をきっかけに「格差社会」が流行りの言葉になり、豊かな社会とそうでない社会に断絶が拡がっているという声も大きくなった。

实际上,以山田昌弘所著的《希望格差社会》(平成16年(2004))以及橘木俊诏所著的《格差社会―问题出在哪里》(平成18年(2006))为契机,“格差社会”一词已经成为了流行语,越来越的人认为贫富阶层之间的格差越来越大。

デフレのゲーム

通货紧缩游戏

ただし、そうした指摘には限界もみられる。

不过,这样的观点有其局限性。

第一に、「格差」の拡大をどこまで事実として確認できるかは微妙だからである。社会の不平等さを示す「ジニ係数」は、たしかに平成のあいだ上昇を続けた。しかしこれは現役を退いた高齢世帯が増加したことの影響が大きく、実際、年金や税などの再配分が行われた後のジニ係数をみれば、平成11(1999)年以降は基本的に低下し、現在はほぼ平成初め頃の水準にまで回復している。この意味では近年、格差が増大しているとまではいえない。むしろ確認されるのは「貧富」の差の拡大という以上に、たんなる「貧しさ」の増加である。事実、全世帯の所得の中央値の半分にみたない世帯の割合を示す「相対的貧困率」は、上昇のトレンドを描いている。こうして貧困層が増える傍らで、富裕層はあまり増加せず、それが格差の拡大を抑えたと考えられる。つまり平成の時代には「貧者」の数が相対的に増加し、貧困は私たちの「他者」ではなくなったのである。

首先,“格差”扩大到什么程度,很难进行实际确认。反映社会不平等的“基尼系数”的确在平成一直呈上升趋势。然而其中有很大一部分是退休高龄家庭的增加带来的影响,实际上,观察养老金、税金再分配后的基尼系数,就可发现平成11年(1999)后的基尼系数始终在下降,目前差不多恢复到了平成初的水平。从这一点上看,今年贫富差距其实并未扩大。与其说“贫富”差距在扩大,倒不如说“贫穷程度”在加重是可以确认的了。事实上,“相对贫困率”,即家庭总收入未达到整体家庭总收入中位数一半的家庭占比,正呈现上升趋势。在贫困阶层增加的同时,富裕阶层并未有明显增加,可以认为是这样的情况抑制了差距的扩大。也就是说,平成时代里“穷人”数量相对增加了,贫困不再和我们无关。

それとも関係するが、第二に「格差社会論」は、格差を固定したものとして捉えることで問題がある。不況や貧困の拡大によって、消費はたしかに減退した。とくに被服費や外食費は大きく減り、平成2(1990)年から平成27(2015)年までで、前者は192.4から95.8へ、後者を含む食費は118.5から100.6まで減少している。ただしそれはあくまで価格をベースとした「総計」からみた話で、かならずしも人びとが消費を止めたわけではない。

与之相关的第二点是,“格差社会论”认为格差是固定不变之物是有问题的。因为经济不景气、贫困情况的加重,消费确实减少了。尤其是服饰费、外出用餐费大幅度下降,在平成2年(1990)至平成27年(2015)这段时期,服饰费从192.4下降到95.8,包含外出用餐费用在内的伙食费从118.5下降到了100.6。但说到底这只是从以价格为基础的“总计”得出的结论,人们未必就停止了消费。

むしろ平成社会には、デフレ的消費が真っ盛りとなる。マクドナルドが平成12(2000)年にハンバーガーを65円に値下げし、翌年、吉野家が牛丼を400円から280円に値下げしたことを代表に、外食産業では価格競争が過熱する。またユニクロが平成10年代以降、店舗数を急増させ、さらに平成20年代にはH&MやForever 21といった海外チェーン店の進出がみられるなど、安価なファストファッションも定着した。

相反,通货紧缩型消费在平成社会迎来了全盛时期。麦当劳在平成12年(2000)将汉堡包降价了65日元,次年吉野家将牛肉盖浇饭从400日元降至280日元,以他们为代表,外食产业的价格竞争十分激烈。另外优衣库在平成十集年之后,店铺数猛增,再看平成二十年后开始进入日本市场的H&M、Forever 21等海外连锁店,低价的快时尚已经确立其地位。

そうした店は、ややもすると消費から除外される人びとを補い、「消費社会」の住人になることを保証した点で大きな役割をはたした。バブル崩壊後に一世風靡する100円ショップを代表に、デフレ的ショップは、この社会のほとんどの人が「消費社会」に参加しているという幻想を担保する貴重なインフラになったのである。ただし誤解してはならないが、かならずしも貧しい者だけが、そうした店の客になったわけではない。

这些店弥补了那些会因价格过高而无法进行消费活动的人,在保证他们成为“消费社会”一员这一点上发挥了重要作用。以在泡沫经济崩坏后曾风靡一时的百元店为代表的通货紧缩型商店成为了实现社会上大多数人都能参与到“消费社会”这一幻想中的重要公共基础设施。但是不要误会,并非只有穷人会光顾此类商店。

ではなぜ人びとは、そうした店で買物をしていったのか。

那么为何人们会去此样的商店里购物呢?

それを理解する上でキーになるのが、かつてジャン・ボードリヤールが分析していたように消費が、何かを表現するコミュニケーションとして働くことである。消費は、自分のセンスや出身階層や貧富を伝える機会にもたしかになる。だがそれに加えてデフレ的ショップで買うことは、自分が商品を吟味し、無駄なものに金を使わない「賢い」消費者であることをよく表現する。これは、「消費社会」で核心的な役割をはたす。いいなりになって買う「愚かな」消費者ではないことを証明する、それは格好の手段になるからである。

理解这个问题的关键就是,正如过去让・波德里亚所分析的那样,消费是一种交流沟通的媒介。消费也可能成为传达自身品味、出身阶层、经济能力等信息的机会。在通货紧缩型商店购物,可以自己挑选商品,很好地展现自己是不会将钱耗费在无用之物上的“聪明”消费者。这在“消费社会”中起了核心作用,是证明自己不是一个人云亦云进行消费的“愚蠢”消费者的有效方法。

この意味ではデフレ的ショップでの消費は、対立しているようにみえて、ブランド品を買うこととむしろ連続している。たとえばiPhoneを買うことで、私たちは自分が、アップルの歴史やセンスを「正当」に評価でき、それゆえ安物を買いで銭を失わない、「賢い」消費者であることを主張する。両者は、同じ土俵の上でどちらがより優れた消費者であるかを競い合うゲームを続けているのである。

从这种意义上说,在通货紧缩型商店消费看似与购买名牌的消费是对立的,其实是相关联的。比如购买了苹果手机,我们就可以“公正”地评价苹果产品的历史及美感的价值,因此不会买便宜货造成自己的损失,主张自己是一位“聪明”的消费者。在通货紧缩型商店中购物的消费者与品牌产品的消费者,在同一环境下持续着角逐谁才是更优秀的消费者的游戏。

古市憲寿は『絶望の国の幸福な若者たち』(平成23(2011))で、不況期にも若者が意外に幸福感を示していることを指摘していた。その幸福感は、こうしたゲームの拡大によって支えられていた節がある。かつての若者が意味のある買い物に熱心だったのと似て、デフレ期の若者たちは、安い商品をより「賢く」買うという消費のゲームに興じていく。それが場合によっては、相当の貧困に陥っている者にさえ、富裕な者と「平等」に生きているというリアリティに、それなりの実感を保証してきたのである。

古市宪寿在《绝望国度里的幸福年轻人》(平成23年(2011))中指出,即使在经济不景气的时期,年轻人拥有出乎意料的幸福感。这种幸福感一定程度上是因为这种游戏的扩大而产生的。和过去的年轻人热衷于进行有意义的购物一样,通货紧缩时期的年轻人逐渐对更加“聪明地”购买便宜的商品的消费游戏充满兴趣。一些情况下,甚至可能给十分贫困的人带来一种真实感——自己的生活和有钱人的没什么差别,是平等的。

消費を拒否する消費

拒绝消费的消费

平成の時代に特徴的なのは、消費自身を拒否し否定する、ラディカルな消費の形式まで流行していくことである。モノをなるべく持たないミニマリストへの共感というかたちで表明された買うことの拒否がある。

拒绝并否定消费本身,激进的消费方式逐渐流行开来是平成时代的消费特征。人们对尽量舍弃不必要之物的极简主义产生共鸣,其中蕴含了拒绝购物的意味。

极简主义生活

「エシカルな消費」、または関係づくりを主眼とした「第四の消費」や、消費を媒介に地方と関わりを夢みる「関係人口」、モノの有用性の獲得やみせびらかしといった目的が否定され、望ましい関係づくりに役立つことが、消費に求められる。しかし消費のシステムにだまされない「賢い」主体であることを追求するという点では、それらも100円ショップでモノを買い漁ることや、ブランド品を愛でることと同じく、現れては消えるこの社会のモードのひとつというしかないからである。

“环保消费”、以建立社会关系为主要目标的“第四消费”,以及以消费为媒介和地方建立联系的“关系人口”,消费来获得物品的实用性或是达成炫耀等目的的作用被否定,人们渴望通过消费来建立理想中的关系。但是从人们追求自己成为不被消费体系欺骗的“聪明”消费者这一点来看,这些消费行为和在百元店内扫购商品,以及酷爱名牌商品一样,只能说是不断地出现又消失的社会模式中的一个表现而已。

では、こうして続けられてきた消費のゲームに、本当に終わりはないのだろうか。

那么,这样的消费游戏真的不会结束吗?

いずれにしても、先のことは分からないが、元号が変わるぐらいでは、平成を席巻した消費のゲームが終わりそうにないことは確かである。もし真のあたらしい時代が来るとすれば、それは、私たちを駆り立てきた消費のゲームの可能性や限界が具体的に検証され、それを更新する道がより切実に求められるときなのである。

总之,虽然未来之事无法知晓,不过即使年号将改变,席卷了平成时代的消费游戏也没有要结束的迹象是可以确定的。而如果新时代真的来临,那将是具体验证迫使我们去消费的消费游戏持续可能性及其极限的时候,我们需要更为切实地去寻找代替消费游戏的崭新道路。

本内容为沪江日语原创翻译,严禁转载。

相关阅读推荐:日本平成一代VS中国独生子女:我们为什么工作?