4月5日に亡くなった映画監督・高畑勋さん(享年82)のお別れ会が15日、東京・三鷹の森ジブリ美術館で営まれた。会の委員長を務めた宮崎駿監督は、開会の辞で「パクさん」と呼んだ高畑さんの監督としての才能を称えながら、思い出を涙ながらに振り返った。

4月5日离世的电影导演——高畑勋(享年82岁)的追悼会于15日在东京三鹰之森吉卜力美术馆举行。担任追悼会委员长的宫崎骏导演在追悼会致辞中盛赞了他一直称呼为“paku桑”的高畑导演才能卓著,在回忆往事时宫崎骏导演更是数次哽咽。

宮崎監督は「ものすごく朝が苦手な男でして、東映動画(当時)に勤めたとき、ぎりぎりに駆け込んで買ってきたパンをパクパクと食べて水道の蛇口からそのまま水を飲んでいたから、パクさんとなったといううわさです」と呼び名の由来を紹介してから、「パクさんは95歳まで生きると思いこんでいた。自分にもあんまり時間がないんだと思う」と盟友との出会いを明かした。

宫崎导演介绍了paku桑昵称的由来“他早上睡不醒,在东映动画工作的时候,每天都是急急忙忙踩着点来。嘴里塞满买来的面包,一边大口吃着一边打卡,然后直接就着水龙头的水吞下。因为他这个吃相,才叫他paku桑的。”“我一直认为paku桑可以活到95岁。感觉自己也没剩多长时间了。”接着他讲述了和友人相遇的故事。

「1963年、パクさんが27歳、僕が22歳のときに初めて出会いました。初めて言葉を交わした日のことを今でもよく覚えています。バス停にいるとき、雨上がりの水たまりの残る道を一人の青年が近づいてきた。『瀬川拓男さんのところに行くそうですね』。穏やかで、かしこそうな青年の顔がそこにあった。それが高畑勋ことパクさん出会った瞬間だった」。

“1963年,paku桑27岁、我22岁的时候我们第一次见面。第一次交谈的那天我到现在还记得很清楚。我在巴士站,有一个青年穿过雨刚停还有积水的路面向我走来。‘你应该是要去濑川拓男那里吧。’出现在我眼前的是青年沉稳睿智的面庞。那就是我和高畑勋也就是paku桑相遇的瞬间。”

東映動画時代には夢中で語りあったこと、『太陽の王子 ホルスの大冒険』製作時のエピソードに触れながら、「なんという強い絵、圧倒的な絵、なんという優しさなんだろう。」と声を震わせ、「偉い人たちから『あの頃が一番面白かった』と言われた。パクさん、僕らはあの時、生きたんだ。ありがとうパクさん」と何度も涙を拭い、「55年前、あのバス停で声をかけてくれたパクさんのことを忘れない」と別れを惜しんだ。

宫崎导演还讲述了在东映动画工作时期,制作《太阳王子霍尔斯的大冒险》时的插曲“那是多么有气势而厉害的画啊,那又是多么温柔的人啊。”“高层的大人物也说’那个时候最有趣了’。paku桑,我们都在那个时候认真地活过。谢谢你,paku桑。”说这些的时候宫崎导演数次停下来擦拭眼泪,“我不会忘记55年前在那个巴士站和我搭话的paku桑”。

祭壇は「高畑さんを野に咲く花たちで囲みたい。高畑監督の作品にあるどれかでもなく、『祭壇風』でもない。ただ、温かみのある草花たちで包み込みたい」という宮崎監督の想いで飾られた。高畑さんの監督作『おもひでぽろぽろ』にちなんで紅花を飾り、そのほかフランスから叙勲された勲章を『パンダコパンダ』のお父さんパンダを胸につけた。フレデリック・バックさんからもらった人形、『かぐや姫の物語』の羽子板など、家族で送った葬儀のときに飾られていたものが展示室内に置かれた。

追悼会祭坛的布置遵循了宫崎导演的想法 “我想让高畑被田野上绽放的花包围。不是用高畑导演的任何一部作品,也不是所谓的‘追悼会风格’。就想用温暖的花草将他包围”。现场装饰着高畑导演的作品《岁月的童话》里出现过的红花。另外由《熊猫家族》里的爸爸熊猫佩戴了法国受赏的勋章。室内放置了费雷德里克·贝克送的人偶、《辉夜姬物语》里的毽子板等,还有家人送葬时装饰过的一些物品。

高畑さんは、1959年に東映動画に入社し、アニメーション演出家の道を歩み始めた。68年に『太陽の王子 ホルスの大冒険』で劇場用長編アニメを初監督し、同作ではリアリズムと人間描写、ドラマ性を追及し、アニメで現代的なテーマを深く描き出した。『アルプスの少女ハイジ』『母をたずねて三千里』『赤毛のアン』などのテレビシリーズを演出した後、85年に宮崎監督とスタジオジブリを設立。『火垂るの墓』『おもひでぽろぽろ』『平成狸合戦ぽんぽこ』『ホーホケキョとなりの山田くん』『かぐや姫の物語』などの名作を送り出した。

高畑先生于1959年进入东映动画,开始走上动画导演之路。68年首次执导了剧场用长篇动画《太阳王子霍尔斯的大冒险》,该作品追寻了现实主义、人性描写和戏剧性,并通过动画深刻地描绘了现代性的主题。在导演了《阿尔卑斯山的少女海蒂》《三千里寻母记》《红发少女安妮》等系列电视后,他在85年和宫崎导演一同设立了吉卜力工作室。之后创作了《萤火虫之墓》、《岁月的童话》、《百变狸猫》、《我的邻居山田君》、《辉夜姬物语》等名作。

《阿尔卑斯山的少女海蒂》海报

「お別れの会」には、岩井俊二監督、押井守監督、富野由悠季監督、山田洋次監督、音楽家の久石譲、シンガーソングライターの二階堂和美、西村義明プロデューサー、俳優の瀧本美織、竹下景子、宮本信子、野々村真、柳葉敏郎、益岡徹ら約1,200人が参会。故人を偲んだ。

岩井俊二导演、押井守导演、富野由悠季导演、山田洋次导演、音乐家久石让、原创歌手二阶堂和美、制作人西村义明、演员泷本美织、竹下景子、宫本信子、野野村真、柳叶敏郎、益冈彻等约1200人参加了追悼会,缅怀故人。

宫崎骏悼念词原文节选:

パクさんというあだ名の言われはですね、まあ定かでない部分もあるんですが、大体もの凄く朝は苦手な男でして、東映動画に勤め始めた時もギリギリに駆け込むというのが毎日でございまして。買ってきたパンをタイムカードを押してからパクパクと食べて、水道の蛇口からそのまま水を飲んでいたと。それで、パクパク、パクになったという噂です。

paku桑这个昵称的由来,也有我不确定的部分,但大致是因为他早上睡不醒,刚开始在东映动画工作的时候,他每天都是急急忙忙踩着点来。嘴里塞满买来的面包,一边大口吃着一边打卡,然后直接就着水龙头的水吞下。因为他这个吃相,才叫他paku桑的。

......

9年前、私たちの主治医から電話が入った。「友達なら高畑監督のタバコをやめさせなさい」。真剣な怖い声だった。主治医の迫力に恐れをなして、僕と鈴木さんはパクさんとテーブルを挟んで向かい合った。姿勢を正して話すなんて、初めてのことだった。「パクさんタバコを止めてください」と僕。「仕事をするためにやめてください」。これは鈴木さん。弁解やら反論が怒涛のように吹き出てくると思っていたのに、「ありがとうございます。やめます」。パクさんはキッパリ言って頭を下げた。そして本当に、パクさんはタバコをやめてしまった。僕はわざとパクさんのそばへタバコを吸いに行った。「いい匂いだと思うよ。でも、ぜんぜん吹いたくならない」とパクさん。彼の方が役者が上だったのであった。やっぱり95歳まで生きる人だなあと、僕は本当に思いました。

9年前,我们接到了主治医生的电话。“你要是高畑导演的朋友就请让他戒烟吧”。医生的语气认真得让人害怕。迫于主治医生的压力,我跟铃木(铃木敏夫)还有paku桑坐下来好好谈了谈。那是我们第一次这样正经地谈话。我说“paku桑,戒烟吧”。铃木说“为了工作戒烟吧”。我以为他会辩解或者强烈反对,但paku桑就只是老老实实地低下头说“谢谢你们,我会戒烟的“,然后他真的戒烟了。我还故意到paku桑身边抽烟。paku桑说“味道确实很好闻,但是我已经完全不想吸了“。他比我厉害啊,我真的觉得他一定会活到95岁的。

1963年、パクさんが27歳、僕が22歳の時、僕らは初めて出会いました。初めて言葉を交わした日のことを今でもよく覚えています。黄昏時のバス停で、僕は練馬行きのバスを待っていた。雨上がりの水たまりの残る通りを、ひとりの青年が近づいてきた。「瀬川拓男さんのところへ行くそうですね」穏やかで賢そうな青年の顔が目の前にあった。それが高畑勲こと、パクさんに出会った瞬間だった。55年前のことなのに、なんとはっきり覚えているのだろう。あの時のパクさんの顔を今もありありと思い出す。

1963年,paku桑27岁、我22岁的时候,我们第一次见面了。第一次交谈的那天我到现在还记得很清楚。黄昏时刻我在巴士站等着去练马的车,有一个青年穿过雨刚停还有积水的路面向我走来。‘你应该是要去濑川拓男那里吧’我眼前出现了青年沉稳睿智的面庞。那就是我和高畑勋——paku桑相遇的瞬间。已经是55年前的事情了,我怎么还记得这么清楚呢。那时候paku桑的样子我还记得一清二楚。

......

パクさん。僕らは精一杯、あの時を生きたんだ。膝を折らなかったパクさんの姿勢は、僕らのものだったんだ。

paku桑,我们那时候都竭尽全力地奋斗过了。没有屈服的paku桑的姿态,是我们的宝物。

ありがとう、パクさん。55年前に...あの雨上がりのバス停で声をかけてくれたパクさんのことを忘れない。

谢谢你,paku桑。我不会忘记55年前雨刚刚停时在那个巴士站向我搭话的paku桑。

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