日语文学作品赏析《河豚は毒魚か》
作者:北大路魯山人
来源:青空文库
2010-01-13 00:00
ふぐの美味 さというものは実に断然たるものだ――と、私はいい切る。これを他に比せんとしても、これに優 る何物をも発見し得ないからだ。
ふぐの美味さというものは、明石 だいが美味いの、ビフテキが美味いのという問題とは、てんで問題がちがう。調子の高いなまこやこのわたをもってきても駄目 だ。すっぽんはどうだといってみても問題がちがう。フランスの鵞鳥 の肝 だろうが、蝸牛 だろうが、比較にならない。もとよりてんぷら、うなぎ、すしなど問題ではない。
無理かも知れぬが、試みに画家に例えるならば、栖鳳 や大観 の美味さではない。靫彦 、古径 でもない。芳崖 、雅邦 でもない。崋山 、竹田 、木米 でもない。呉春 あるいは応挙 か。ノー。しからば大雅 か蕪村 か玉堂 か。まだまだ。では光琳 か宗達 か。なかなか。では元信 ではどうだ、又兵衛 ではどうだ。まだまだ。光悦 か三阿弥 か、それとも雪舟 か。もっともっと。因陀羅 か梁楷 か。大分 近づいたが、さらにさらに進むべきだ。然 らば白鳳 か天平 か推古 か。それそれ、すなわち推古だ。推古仏。法隆寺の壁画。それでよい。ふぐの味を絵画彫刻でいうならば、まさにその辺 だ。
しかし、絵をにわかに解することは、ちょっと容易ではないが、ふぐのほうはたべものだけに、また、わずかな金で得られるだけに、三、四度もつづけて食うと、ようやく親しみを覚えてくる。そして後を引いてくる。ふぐを食わずにはいられなくなる。この点は酒、タバコに似ている。
ひとたびふぐを前にしては、明石だいの刺身 も、おこぜのちりも変哲 もないことになってしまい、食指が動かない。ここに至って、ふぐの味の断然たるものが自覚されてくる。しかも、ふぐの味は、山におけるわらびのようで、その美味さは表現し難 い、というふぐにも、もちろん美味い不味 いがいろいろあるが、私のいっているのは、いわゆる下関 のふぐの上等品のことである。いやふぐそのものである。
斃 れる失態は、たくさんの例がある。無知と半可通 に与えられた宿命だ。
それでなくても、誰だってなにかで死ぬんだ。好きな道を歩んで死ぬ、それでいいじゃないか。好きでなかった道で斃れ、逝 くものは逝く。同じ死ぬにしても、ふぐを食って死ぬなんて恥ずかしい……てな賢明らしいことをいうものもあるが、そんなことはどうでもいい。
芭蕉 という人、よほど常識的なところばかりを生命とする人らしい。彼の書、彼の句がそれを説明している。「鯛 もあるのに無分別」なんていうと、たいはふぐの代用品になれる資格があるかにも聞え、また、たいはふぐ以上に美味 いものであるかにも聞える。所詮 、たいはふぐの代用にはならない。句としては名句かも知れないが、ちょっとしたシャレに過ぎない。小生 などから見ると、芭蕉はふぐを知らずにふぐを語っているようだ。他の句は別として、この句はなんとしても不可解だ。たいである以上、いかなるたいであっても、ふぐに比さるべきものでないと私は断言する。ぜんぜんちがうのだ。ふぐの魅力、それは絶対的なもので、他の何物をもってしても及ぶところではない。ふぐの特質は、こんな一片のシャレで葬 り去られるものではなかろう。ふぐの味の特質は、もっともっと吟味 されるべきだと私は考える。
それだからといって、なんでもかでも、皆の者ども食えとはいわない。いやなものはいやでいい。ただ、ふぐを恐ろしがって口にせんような人は、それが大臣であっても、学者であっても、私の経験に徴 すると、その多くが意気地 なしで、インテリ風で、秀才型で、その実、気の利 いた人間でない場合が多い。そこが常識家の非常識であるともいえる。
死なんていうものは、もともと宿命的に決定されているものだ。いたずらに死に恐怖を感ずるのは、常識至らずして、未だ人生を悟らないからではないか。
さて、このふぐという奴 、猛毒魚だというので、人を撃ち、人を恐れ戦 かしめているが、それがためにふぐの存在は、古来広く鳴り響き、人の好奇心も動かされている。しかし、人間の知能の前には毒魚も征服されてしまった。
人間はふぐの有毒部分を取り除き、天下の美味を誇る部分をのみ、危惧 なく舌に運ぶことを発見したのだ。東京を一例に挙げてみても、今やふぐは味覚の王者として君臨し、群魚の美味など、ものの数でなからしめた。ためにふぐ料理専門の料理店は頓 に増加し、社用族によって占領されている形である。関西ならば、サラリーマンも常連も軒先で楽しみ得るが、東京はお手軽にいかない怨 みがある。下関 から運ばれるふぐは、東京における最高位の魚価をもっている。
この価格も一流料理屋では、もとより問題ではない。のれんを誇った料理の老舗 も、「ふぐは扱いません」などとはいっておられず、我も我もとふぐ料理の看板を上げつつあるのが、きょうこのごろの料理屋風景である。しかし、私はこの実情を憂 うるものではない。否 、むしろ推奨したいひとりである。
従来は、無知なるが故 に恐れ、無知なるが故に恵まれず、無知なるが故に斃 れ、不見識にもこの毒魚を征服する道を知らず、この海産、日本周辺に充満する天下の美味を顧 みなかったのである。今もって無知なる当局の取締方針など、このまま無責任に放置せず、あり余るこの魚族を有毒との理由から、むやみと放棄し来 った過去の無定見 を反省し、さらにさらに研究して、ふぐの存在を充分有意義ならしめたいと私は望んでいる。
ふぐは果して毒魚だろうか。中毒する恐れがあるかないか。ふぐを料理し、好んで食った私の経験からすると、ふぐには決して中毒しないといいたい。
今を去る十五、六年前かと思うが、確か「大阪毎日新聞」に次のような有益な記事が掲載されていた。それを切り抜いて、ご紹介する。九州帝大医学部福田得志博士が中心になり、過去七年間、この問題を検討した結果である。
以下は同博士の話。
「私は過去七年間、河豚 毒の問題を再検討して、次の毒力表を得た。
表中猛とあるのは、猛毒で十グラムまでは致死的ならず、弱は弱毒で百グラムまでは致死的でなく、無は千グラムまでは致死的でないことを意味する。この毒力は一つの種類の河豚数十尾を検した中の最強の毒力です」
□
これによっても、ふぐの肉はいかなる種類のふぐでも無毒とされている。卵巣と肝臓、腸とを食わなければ無毒だといっている。私もその通りだと思う。要するに、猛毒といっても、肉にあるのではないから都合よくできていて、解明はすこぶる簡単だ。要は血液に遠ざかることである。わずかに滲 み出る血液くらいでは致死量に至らないようだ。むしろ醍醐味 となって、美味の働きをしているのかも知れない。いずれにしても、肉を生身 で食うのが一番美味 いのだから、素人 は皮だの腸だのは食わなくてもよい。しかし、頭肉、口唇 、雄魚の白子 は美味いから、ちりにして味わうべきだ。下関 で鮮度の高い奴 を腸抜 きにして、飛行便で送ってくるから、これなら万 まちがいないはずだ。
ふぐをこわがったのは昔のことだ。それは一にふぐ料理の方法が研究されていなかったからである。現在では、ふぐ屋においてふぐを食って死ぬことはない。このようにふぐを安心して食える時代が来ても、ふぐを恐ろしがることは、全く無知の致すところだと思う。
にもかかわらず、今なお衛生当局の無知は、ふぐ料理を有毒と決め、各県各区勝手な取締りをおこなっている。よしんば取締りを行うにしても、よろしく研究の上、この天与 の美味を生かすように配慮願いたいものである。
ふぐの美味さというものは、
無理かも知れぬが、試みに画家に例えるならば、
しかし、絵をにわかに解することは、ちょっと容易ではないが、ふぐのほうはたべものだけに、また、わずかな金で得られるだけに、三、四度もつづけて食うと、ようやく親しみを覚えてくる。そして後を引いてくる。ふぐを食わずにはいられなくなる。この点は酒、タバコに似ている。
ひとたびふぐを前にしては、明石だいの
ふぐ汁や鯛 もあるのに無分別
ふぐでなくても、無知な人間は無知のために、なにかでそれでなくても、誰だってなにかで死ぬんだ。好きな道を歩んで死ぬ、それでいいじゃないか。好きでなかった道で斃れ、
それだからといって、なんでもかでも、皆の者ども食えとはいわない。いやなものはいやでいい。ただ、ふぐを恐ろしがって口にせんような人は、それが大臣であっても、学者であっても、私の経験に
死なんていうものは、もともと宿命的に決定されているものだ。いたずらに死に恐怖を感ずるのは、常識至らずして、未だ人生を悟らないからではないか。
さて、このふぐという
人間はふぐの有毒部分を取り除き、天下の美味を誇る部分をのみ、
この価格も一流料理屋では、もとより問題ではない。のれんを誇った料理の
従来は、無知なるが
ふぐは果して毒魚だろうか。中毒する恐れがあるかないか。ふぐを料理し、好んで食った私の経験からすると、ふぐには決して中毒しないといいたい。
今を去る十五、六年前かと思うが、確か「大阪毎日新聞」に次のような有益な記事が掲載されていた。それを切り抜いて、ご紹介する。九州帝大医学部福田得志博士が中心になり、過去七年間、この問題を検討した結果である。
以下は同博士の話。
「私は過去七年間、
表中猛とあるのは、猛毒で十グラムまでは致死的ならず、弱は弱毒で百グラムまでは致死的でなく、無は千グラムまでは致死的でないことを意味する。この毒力は一つの種類の河豚数十尾を検した中の最強の毒力です」
□
これによっても、ふぐの肉はいかなる種類のふぐでも無毒とされている。卵巣と肝臓、腸とを食わなければ無毒だといっている。私もその通りだと思う。要するに、猛毒といっても、肉にあるのではないから都合よくできていて、解明はすこぶる簡単だ。要は血液に遠ざかることである。わずかに
ふぐをこわがったのは昔のことだ。それは一にふぐ料理の方法が研究されていなかったからである。現在では、ふぐ屋においてふぐを食って死ぬことはない。このようにふぐを安心して食える時代が来ても、ふぐを恐ろしがることは、全く無知の致すところだと思う。
にもかかわらず、今なお衛生当局の無知は、ふぐ料理を有毒と決め、各県各区勝手な取締りをおこなっている。よしんば取締りを行うにしても、よろしく研究の上、この
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