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案山子のことは記紀の神話の中に出てくるから、日本人にとっては悠久の昔から田んぼの中に立って、外敵から田んぼを守る役目を果たしていたと見える。しかもその形が今日と同じく一本足であったことは、スクナヒコナの神話のくだりから伺えるのである。そこには次のように記されている。

“案山子(稻草人)”的故事出现在了“记纪(《古事记》与《日本书纪》)”神话中,自古以来对日本人而言,它发挥着伫立田间、将外敌驱逐出田地的作用。从《古事记》须久奈比古命神话中的一节可知,其古时的形貌便是一只脚,与现在无异。下面将这段神话介绍如下。

スクナヒコナがかがみ船に乗って波の彼方からやってきたとき、誰もその正体を知らなかったが、久延毘古(くえびこ)なら知っているだろうといって呼んでみたところが、果たしてそれが神産巣日神の御子スクナヒコナであることを言い当てた。この久延毘古のことを古事記は、「今に山田のそふどといふ者なり。此の神は足は行かねども、尽に天下の事を知れる神なり」と紹介している。

须久奈比古命乘着天之罗摩船渡海而来时,众神中无人知晓他是谁,有神开口道“久延毗古或许知道”,于是召来久延毗古,他回答说,“那可是神产巢日神的儿子须久奈比古命”。《古事记》中对久延毗古的事迹记载道:“此即山田的曾富腾,此神虽腿不良于行,却了尽天下事。”

「山田のそふど」にいう「そふど」とは案山子という意味である。その案山子は「足は行かねども」、つまり一本足でうまく歩くことはできないけれども、長い間田んぼの中に立って世の中の動きを観察しているので、天下のことは何でも知っているのだといっている。

“山田的曾富腾”中的“曾富腾”也就是案山子(稻草人)的意思。案山子“腿不良于行”,即是说他尽管单腿无法正常行走,却能长久地伫立在田地里,观察世间的动态,由此天下之事无所不知。

案山子を立てたからといって、それがカラスを追うのに大した効果もないことは、古代人もわかっていたに違いない。それでも、日本人は悠久の時間を越えて案山子を立て続けてきた。それにはそれなりの事情と背景がある。

实际上,就算是在田里竖立一个稻草人,也不会对驱赶乌鸦起到很大作用,对此古人一定也是心知肚明的。尽管如此,在漫长的岁月里,日本人依旧让稻草人继续伫立在田间。这其中不乏相应的原因与背景。

昔話には一つ目一つ足の怪物が出てきて、人を食うという話がある。これがさらに一つ目小僧などに転化したりもするのだが、もともとは山の神の化身とされたものであった。山の民に伝わった風習に、山中に一本の棒を立て、これに目玉を一つ描いて、供え物を置くというものがある。これは山の神を静めるためのものであった。また比叡山には傘を山の神の化身とする伝承があるそうだが、その傘もやはり一本足の山の神の化身が本来の姿であったと思われる。

日本民间故事中,提到过一种一眼一足的吃人怪物。这种怪物后来转化为了“一目小僧”,但在起初,它曾被视作山神的化身。据山民中代代相传的习俗,人们会在山里立一根棒子,在上面画上一只眼,然后放置供品。此举就是为了安抚山神。另外在比叡山也有一种传承的习俗,认为伞即山神的化身,伞原本的形态就是单足山神的化身。

目一つの鬼の話は、出雲風土記にもあり、田んぼを耕していた男を一口で食ってしまったと書かれている。これは山の神が恐れられて、鬼と化したのである。それは他の鬼についても同様で、みなもともとは山の神であったものが、その恐ろしい部分が強調されて鬼と化したのである。

《出云风土记》中也出现了一目鬼,其中记载它将一名耕田的男子一口吞食的故事,山神引起人们的恐惧,于是转化为成了鬼。在这一点上,其它的鬼是一样的,他们原本都是山神,但其令人敬畏的部分经过放大后就转化为了鬼。

案山子はこの山の神が田に下りてきて、田を守る神に転じたと思われる。

这类山神后来下到了田间,成为守护田地的神,稻草人也就由此转化而来。

山の神は、恐ろしさにつけ、ご利益をもたらすものとしての保護者としての側面につけ、日本人にとっては信仰の原点をなすものだった。

山神不论是令人恐惧的一面,还是作为予人利益的守护者的一面,对日本人来说都通往信仰的源头。

だからその仮の姿としての案山子を田んぼに祭ることには、単にカラスを追うという意味を超えて、より根の深い感情が込められていると思われるのである。

因此在田间祭祀作为山神化身的稻草人,就并不仅仅是驱赶乌鸦那样单纯的意义,其中更是含藏了根源深厚的信仰。

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