文章导读:
《鸭的喜剧》是一篇带有纪实性色彩的小说。主人公爱罗先珂居住在北京,他觉得十分寂寞,便托人买了一些蝌蚪儿,待它们长大后就可以听到交响曲般的“蛙鸣声”。然而,他又买了四只“诚然是可爱,遍身松花黄”的小鸭。小鸭固然可爱,但它们在游泳的时喉,“吃掉”了河中爱罗先珂的蝌蚪。使他梦寐以求的“蛙鸣交响曲”就这样破灭。事后,他带着遗憾离开了北京。

文章不长,朴实亲切的文字却寓意深刻。通过鸭的喜剧,也就是由蝌蚪的悲剧,提示了弱肉强食的生命现象所折射出的社会现象,委婉的表达了人间不可能无所不爱,唯有反抗强暴,才能保护弱者的思想。

ロシヤの盲目詩人エロシンコ君が、彼の六絃琴を携えて北京に来てから余り久しいことでもなかった。彼はわたしに苦痛を訴え、「淋しいな、淋しいな、沙漠の上にある淋しさにも似て」。

俄国的盲诗人爱罗先珂君带了他那六弦琴到北京之后不久,便向我诉苦说:“寂寞呀,寂寞呀,好似在沙漠上般的寂寞呀!”

これは全く真実の感じだ。しかしわたしは未だかつて感得したことが無い。わたしは長くここに住んでいるから「芝蘭の室に入れば久しうしてその香を聞かず」ただ非常に騒々しく思う。しかしわたしのいわゆる騒々しさは、彼のいわゆる淋しさかもしれない。

这应该是真实的,但在我却未曾感受到。我住得久了,“入芝兰之室,久而不闻其香”,只以为很是嚷嚷罢了。然而我之所谓嚷嚷,或者也就是他之所谓寂寞罢。

わたしは北京にいると、春と秋がないように感じるが、長く北京にいる人の話では、ここでは先にはこんなに暖かいことがなかった。地気が北転しているのだという。しかしわたしにはどうしても春と秋が無いように思われる。冬の末と夏の初めが受け継ぎ受け渡され、夏が去ったかと思うとすぐに冬が始まる。

我可是觉得在北京仿佛没有春和秋。老于北京的人说,地气北转了,这里在先是没有这么和暖。只是我总以为没有春和秋;冬末和夏初衔接起来,夏才去,冬又开始了。

ある日、すなわちこの冬の末、夏の初めの夜間であった。わたしはたまたま暇を得たのでエロシンコ君を訪問した。彼はずっと仲密君の屋敷の中に住んでいたが、この時一家の人は皆睡っていたので、天下は至極安静であった。彼は独り自分の臥榻の上に凭れて、黄金色の長髪の間にはなはだ高い眉がしらをやや皺めて、旧游の地ビルマ、ビルマの夏の夜を偲んでいたのだ。

一日就是这冬末夏初的时候,而且是夜间,我偶尔得了闲暇,去访问爱罗先珂君。他一向寓在仲密君的家里;这时一家的人都睡了觉了,天下很安静。他独自靠在自己的卧榻上,很高的眉棱在金黄色的长发之间微蹙了,是在想他旧游之地的缅甸,缅甸的夏夜。

「こんな晩だ」と彼は言った。 「ビルマはどこもかしこも皆音楽だ。部屋の間、草の間、樹の上、みな昆虫の吟詠があっていろいろの音色が合奏し、いとも不思議な感じがする。その間に時々蛇の声も交って『シュウシュウ』と鳴いて蟲の声に合せるのではないか」彼はあの時の気分を追想するかのように想い沈んだ。

这样的夜间,他说,在缅甸是遍地是音乐。房里,草间,树上,都有昆虫吟叫,各种声音,成为合奏,很神奇。其间时时夹着蛇鸣:嘶嘶!可是也与虫声相和协他沉思了,似乎想要追想起那时的情景来。

わたしは開いた口が塞がらなかった。こんな奇妙な音楽は、確かに北京では、未だかつて聴いたことがないのだから、いかに愛国心を振起しても弁護することは出来ない。彼は眼こそ見えないが、耳は聾ではない。

我开不得口。这样奇妙的音乐,我在北京确乎未曾听到过,所以即使如何爱国,也辩护不得,因为他虽然目无所见,耳朵是没有聋的。

「北京には蛙の鳴声さえない」と、彼は嘆息した。

“北京却连蛙鸣也没有。”他又叹息说。

この嘆息はわたしを勇猛ならしめ、「蛙の鳴声ならありますよ」と、早速抗議を持出した。「夏になって御覧なさい。大雨のあとで、あなたは蒼蝿いほど蝦蟇の叫びを聴き出すでしょう。あれは皆溝の中に住んでいるのです。北京にはどこにも溝がありますからね」

“蛙鸣是有的”!这叹息,却使我勇猛起来了,于是抗议说,“到夏天,大雨之后,你便能听到许多虾蟆叫,那是都在沟里面的,因为北京到处都有沟。”

「おお」
“哦”

幾日か過ぎると、わたしの話は明かに実証された。エロシンコ君はその時もう、いくつかのお玉杓子を買って来た。買って来ると彼は窓外の庭の中程にある小さな池の中に放した。その池は長さ三尺、濶さ二尺ぐらい、仲密君が蓮の花を植えるために掘ったもので、この池の中からかつて半朶の蓮の花を見出すことが出来なかったが、蝦蟇を飼うには実に持って来いの場所であった。お玉杓子は常に隊を組み群をなして水の中に游泳している。エロシンコ君は暇さえあると、彼等を訪問していたが、時に依ると子供等が「エロシンコ先生、彼等に足が生えましたよ」と告げると、彼は非常に嬉しそうに「おお」と、微笑むのであった。

过了几天,我的话居然证实了,因为爱罗先珂君已经买到了十几个蝌蚪子。他买来便放在他窗外的院子中央的小池里。那池的长有三尺,宽有二尺,是仲密所掘,以种荷花的荷池。从这荷池里,虽然从来没有见过养出半朵荷花来,然而养虾蟆却实在是一个极合式的处所。科斗成群结队的在水里面游泳;爱罗先珂君也常常踱来访他们。有时候,孩子告诉他说,“爱罗先珂先生,他们生了脚了。”他便高兴的微笑道,“哦!”

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