あの空の向こうに
「あの空の向こうに―」
十家剣
何で空は青いんだろう。何で広がっているんだろう。
何で雲は流れていくんだろう。何で止まらないんだろう。
何で時は流れていくんだろう。何で止まらないんだろう。
何で僕の命の鼓動は鳴り続けているんだろう。何で止まらないんだろう。
僕の疑問はいつになったら解ける事が出来るんだろう。
―今の僕に分かるのは、きっと死ぬまで解けないって事だけだ。
僕が何でこんな事を考えているのか―
それは僕が、それしか考えていられない状況にあるからだ。
僕は生まれつき体が弱くて、外に出る事が出来ない、寝たきりの病人だ。
「死ぬ」と思っているのに、なかなか死なないものだと思う。
外に出て、走り回れば死ぬのだろうけれど、僕は死ぬのが怖いのか、今までそれをしてはいない。
毎日同じ事が続いて、毎日同じ窓から同じ空を見上げる。
でも、同じ空なのに空はいつも違う。
―僕はいつも同じなのに―
僕は、同じなんだろうか?
僕は、いつも同じように空を見上げるけど、体はちゃんと大きくなっているのだ。
だって、10年前も同じ空を見ていたけど、少し空が近くなっている感じがするんだもの。
そして、僕の残りの命も少しずつ削られているんだ―。
梅雨の珍しく雨が止んだ日。
大きな空がそこにあって、大きな太陽がそこにあって、ちぎれた雲があって―。
僕は初めて見た。美しい虹がかかった空を―
―ああ、なんて美しいんだろう―
僕の体は、無重力の世界にあるかのように何も感じない。
確かにそこにある空と太陽と雲と虹―
何か温かくて、白いものが僕の体を包んでいる気がする―。
とても懐かしい、温かい何かがある―
僕をあの空の向こうに連れて行って。
知りたい事が分かる気がするんだ。大切なものがある気がするんだ―。
きっときっとあの空の向こうに―
----------------------------------------------------------------------------------------------------
「元気、入るわよ。」
母親らしき人物が、元気と呼ばれた少年の部屋の中に入った。
元気は、空を見上げていた。
母親は、「またか」と呆れたように、額に手を当てた。
「元気。薬の時間でしょ?」
元気は、全く反応を示さなかった。
「元気!」
元気は、ビクッとした。彼はまた、自分の世界に入り込んでいたのだ。
「ご、ごめん。薬、後で飲むから置いといて。」<
「だめよ。この間、飲み忘れていたでしょ?」
母親は、元気に薬を差し出した。
別に飲みたくないわけではなかった。ただ、もう少しで届きそうだったのだ。
―今ならまだ間に合う―
なのに、母親が、それを妨げた。
元気は、さっさとそれを飲んで母親を追い出し、また、空を眺めた。
無理だった。
―また、遠くへ行ってしまった―
元気は、落胆した。
「『何』が届きそう」で、「『何』が遠くへ行ってしまった」のかと聞かれると、答えられない。
だってそれは、天使のようで悪魔のようで白いようで黒い。また、空気のようで、固体のような
「何か」なのだ。そして、どこか懐かしい気もする・・・
ただ言える事は、それはあの空の向こうにあるはずなのだ。
それが、たった今、目に見えそうな位置まで来た。手で触れられそうなところまできた。
―ああ、やっぱり、僕には一生解けることなんてできないんだ。この最も大きな謎は―
元気は、すがるように、窓に向かった。母親は、元気が空を見上げるのが怖かった。
何を考えているのか分からなくなってしまう気がしたし、息子を取られてしまうような気がした。
息子の命を。
元気は、生まれつき体が弱く、病気持ちだった。それも、まだ解明されていない病気だった。
もちろん、薬なんてあるわけもない。
なら、何の薬を飲ませているのかというと、母親自身よく分からないのだが、体の抵抗力を高
めるものだという。
病院に入れていないのは、元気が「まだ、治るのではないか」と思っているかもしれない。
病院などに入れてしまったら、その「希望」を壊してしまうだろうと思っているからだ。
それが、元気をここに、この世に留まらせる為に必要なのだ。
つまり、「病は気から」というものである。
医者もそれを薦めた。
しかし、元気は、そんな事は思っていなかった。
「一生治らない」と思っているし、「それでもいい」とも思っている。
「希望」など、生まれた時から無かったのだ。存在すらしていない。
それなのに、名前が「元気」というのは、皮肉である。これも、「希望」を信じてのものなのだろう
が、虚しさを感じるだけである。
元気が、また、自分の世界に入り込もうとした時、外が騒がしくなった。
小学生の下校時間だったのだ。
楽しそうに笑い声をあげながら、男の子や女の子が目の前の道路を通っていく。
別に「羨ましい」と思っているわけではなかった。
そんな感情は、とうに捨ててしまっていたからだ。
「自分も、もうすぐ中学に行く歳になるんだ。」
と元気は思う。
そして、「いつになったら、僕は、ここから離れる事ができるんだろう。」と考える。
それは、どことなく解っていた。
あの「何か」が、連れて行ってくれるのだ。あの空の向こうに。
元気が生きている理由は、その何かを確かめたいという事だけだった。
それを解かる事が出来るなら、元気は迷わず、命さえ投げ出すだろう。
突然、元気に眠気が襲った。
いや、これは眠気ではないのかもしれない。もしかしたら、本当の眠りにつこうとしているのか・・・
目の前が真っ暗になって、何も解らなくなった。
元気は、「これが死ぬという事なんだろうか」と思い始めていた。
すると、パッと明るくなった。というか、目が覚めたのだ。
何せ、目の前には、いつもの自分の部屋があるし、いつもの空がそこにある。
それに、まず、ベッドの上だった。
元気はなぜか、がっかりした。
自分でも、どうして今、こんな感情状態にあるのか良く分からなかったのだが、それは多分、
「死」と謎が解けそうな予感があの瞬間にあったからだ。
ふと、何かの気配を感じて、ドアの方を見た。
何もなかった。
そう思った瞬間、激しい閃光が辺りを満たしたかと思うと、それが一箇所に集まり、人の形に
なっていく。
元気は、心臓が止まりそうなくらいに驚きながらも、その行方を見ていた。
そして、目の前には、肌が白い(というか、光って見えるのだが)、黒く透き通ったローブを着て
いる、男とも女ともつかぬような人物が立っていた。
元気が、感じていた事は、本当だったのだ。
確かに、天使とも悪魔とも言い難い容姿であるし、肌が白く、服が黒いから「白いようで黒い」
というのも当てはまる。
「光のようで固体」というのは、現れた時の瞬間は光だったのに、今は固体である。
しかし、「懐かしい」というのは、この人物に全く心当たりもなかった。
「あなたは・・・?」
元気は、勇気を振り絞って言葉に表した。
「人間の物差しで計れる者ではないとだけ言っておこう。」
目の前の人物は、表情一つ変えずに言った。
「私は、今までずっと、そなたを見てきた。そして、そなたは私を求め、探していた―そうだろう?」
「うん!知りたい事がたくさんあるんだっ!君は、あの空の向こうから来たんでしょ?」
元気は、全ての答えを教えてくれると思った。
「そうとも言える。」
「僕の事を知っているのなら、僕の考えていた事も分かるってことでしょう?」
「その疑問に答えよと言うのだろう?」
「うん!」
「前に言ったように、人間の物差しで計れるものではない。私のことも、そなたの抱く、
地球に関する疑問の数々も。」
その人物は、空の彼方を見るかのように元気の目を見つめた。
「まず、そなた達人間の住む世界ではなく、我々の住む世界には、空も雲も光も闇も時も存在
しない。」
「時が・・・?」
「そうだ。そこにあるのは『無』。何も感じる事の無いただの『無』。つまり、そなたが知ろうとして
いる事は、そなた達人間の間のものでしかない。我々にとっては、全く無意味な事なのだ。」
その人物は、真剣な目になった。
「そなたは、そのうち光を得る。その時が来るまで待つが良い。」
その人物は、仄かに光を放ち始めた。
「ま、待って!また・・・会える?」
「様子見に来るかも知れぬ。」
「じゃあ、何て呼べばいい?」
「名を聞くと?」
元気は、ニッコリ笑った。今まで忘れていた笑顔だ。
「名は無いが・・・」
その人物は、少し考えて、
「『ケーディー』とでも名乗っておこう。名は、不必要なのでな。」
と言うと、現れる時と同じ閃光を放って消えた。
-----------------------------------------------------------------------------------------
元気は、ケーディーの言っていた事を何度も呟いた。
たしかに、その通りだ。ケーディーの世界には、何も無いのだから、元気が考えている疑問は答え
られないし、そういう概念もない。
人間の世界の中だけで成立する事なのだ。
しかし、元気は納得がいかなかった。
人間世界のことについて全く知っていないのだろうか?
いや、答えは知っているけれど、それを教えるわけにはいかなかったのかもしれない。
それとも、時間がなかったのか。
いや、時間の概念がないのだから、それはない。
元気は、ケーディーが最後に言った、「光を得る」とは何なのか、分からなかった。
しかし、「光」とは、希望や夢や未来の象徴でもある。
―それを僕が得られると言うの?―
元気は、日が暮れ、母親が呼びに来るまで、布団の中で静かに考えていた。
次の日、また、同じように元気は目覚め、同じように空を見上げた。
いや、違う。ケーディーを探すために眺めているのだから、同じではないかもしれない。
元気は心の中で、ケーディーを呼んだ。
すると、昨日と同じように激しい閃光の中、ケーディーが現れた。
「来てくれたんだね!」
ケーディーは、困ったような表情を一瞬見せてから、
「何か用があって呼んだのだろうな?」
と呆れたように言った。
「うん!僕の質問にちゃんと答えて欲しいんだ。」
「昨日の答えがちゃんとした答えだ。」
「でも・・・」
元気は、答えてくれると信じていたわけではなかったが、落胆の色は隠せない。
「納得いかないと?」
元気は、大きく頷いた。
「では、自分の目で確かめれば良いではないか。それが最も合理的で単純な方法であると、
私は思うのだが?」
ケーディーの言う事は、最もだったが、それは自分に自由に歩き回れる体と足があって、成り立つ
ものなのだ。
それを分かっていて、放たれたケーディーの言葉は、元気にとって、一瞥するかのように鋭かった。
「・・・無理だよ、そんなの・・・。」
元気は、重い口を開いて言った。
「無理?無理ではないから、私は言っているのだぞ?」
元気は、気休めのように感じたが、ケーディーは、そんな軽率な事を言うほど、愚か者ではない。
「『そなたは光を得る』―と私は言わなかったか?」
「言った。確かに言ったよ。でも、それは・・・何?『光』って何?」
元気は、最も興味深く、謎に包まれている言葉の真相を早く知りたかった。
「今言ったことだ、元気。」
初めてケーディーは、自分の名前を呼んだのだと気付いた時には、他の考察を吟味した後だった。
「『光』って・・・僕の病気が治るって事なの?」
元気は、ケーディーのまどろっこしい言い方を素早く解釈した。
次の瞬間、ケーディーは微笑んだ。それは確かに、瞬間であったし、陰りのあるものでもあったが。
「明日の午後、薬が開発される。そなたの病は、その薬により治る。それがそなたに与えられた
『光』であり、『希望』なのだ。」
「それは、嘘じゃない?本当のこと?」
ケーディーは、しっかりと頷いた。
その瞬間、元気は、目の前がパーッと明るくなる気がした。
今まで閉ざされていた、門が開け放され、光が心の中を満たした。それは、元気が生まれてからず
っと心の奥に押し隠してきた、『希望』の光であった。
元気は、自分の目の前には、絶対に現れる事のないものだと思いつつも、いつも心のどこかで、
『希望』を信じたい気持ちを捨てずにはいられなかった。
たとえそれが、本人の測れる範疇のものではなくても、それは心の中に存在していた。
―あったのだ。本当の光が。偽物でも形だけのものでもない、『希望』という光が―
元気は、自分の頬に、生暖かいものが伝っているのを感じて、思考の中から舞い戻った。
―これは、涙。『希望』と一緒にずっと封じ込めていたもの―
「・・・では、用は済んだ。私は、帰還する。」
「明日、また来る?」
元気は、明るい声で訊いた。
「そうだな。明日は大切な日。来ねばなるまい。」
ケーディーは、「義務である」ように、そう言って光と共に消えた。
元気は、なんだかよく分からない気持ちになった。
「お母さんっ!」
元気は、大声で母親を呼んでいた。
「なあに?急に大声なんか出して。」
「僕の病気はね、明日治るんだよ!薬が開発されるんだって!」
元気はその時、言って良かったのかどうか思い返した。
「・・・そう。良かったわね。じゃあ、明日に備えて寝なさい。疲れているでしょ?」
母親は、そう言って布団を掛けた。
元気は、部屋から出て行く母親の背中が震えているのに気がついた。
「『夢でも見たのだ』と母親は思っているのだ」と元気は思った。
そして、治りもしないのに、そんな事を言う息子が可哀相だと思って、溢れそうな涙を堪えている
のだ。
―嘘じゃない。僕の病気は、明日治るんだよ―
元気は、そう訴えたかったが、涙を堪える母に声を掛ける事は出来なかった。
次の日の朝、元気が起床すると、ケーディーが現れた。
「あと3分後に発表がある。」
「うん!ドキドキして、眠れなかったよ。」
ケーディーは、ただその場に突っ立って、何をするわけでもなかった。
3分後
「時は満ちた。母に頼むと良い。薬が○○薬品の名で、発表されている事を確かめるように、と。」
「ねえ、ケーディー。もう、ここには来ない?」
ケーディーは、一瞬顔を曇らせたようだった。
「確認のために・・・来るかもしれないが。それが、どうかしたのか?」
「ううん。ただ、会えなくなるのかなぁって思ったら、寂しくなっちゃって・・・。また、会いたいな。」
ケーディーは、無言のまま消えていった。だが、微笑んだように見えた。
---------------------------------------------------------------------------------------------------
確かに、特効薬は開発されていた。
そして、やがて元気の元にその薬が届き、みるみるうちに、元気は元気になっていった。
また、それからケーディーは、一度も現れなかった。
しかし、2週間が経った頃だった。
元気は、まだ安静のために、それほど歩き回る事は出来ないでいた。
元気が、薬を飲んで部屋に戻ってきて、寝ようとしていた時だった。
「・・・ケーディー。居るんでしょ?」
元気が言うと、背後からケーディーが現れた。
「なんで分かった?」
「うーん、そんな気配がしたから。」
ケーディーは、露骨に嫌そうな顔をした。
「今日は、確認しに来たの?それとも・・・」
元気は、寂しそうに笑った。
「殺しに来たの?」
ケーディーは、突然の言葉に驚いた。
「・・・なぜ、私がしようとしていた事を・・・」
「・・・僕ね、ケーディーを感じた時、懐かしい感じがしたんだ。最初は、全然検討つかなかった
んだけど、僕が小さい時のこと、思い出したんだ。」
元気は、寂しそうな顔をして、話し始めた。
「3、4歳の時、僕は心臓の手術をしたんだ。その時、夢を見たんだ。大きくて、真っ青な空の夢。
僕は、誰かに手を引かれて、その中を進んでいるんだけど、突然声が聞こえて、夢は覚めてしま
った。」
元気は、苦しそうに笑った。
「あの時、手を引いていたのは、ケーディーなんでしょ?」
ケーディーは、観念したように頷いた。
「お母さんが言ってた。大量出血で生と死の境を行き交っていたんだろうって。」
「・・・そうだ。あれは私だ。だから、そなたの事も知っている。」
ケーディーは、真剣な顔で元気を見た。
「私は、そなたを『薬の副作用』として、殺さねばならない。他に同じ薬を飲んだ者も、
私の同胞によって行われるであろう。」
「そっかあ。お父さんもお母さんも、悲しむだろうな。すごく喜んでたから・・・」
「憎くないのか?恐ろしくないのか?なぜ、笑っていられる?」
「死は、いつもそばにあった。ケーディーの形を取って。だから、そんなに怖くないよ。」
元気は、寂しそうにまた笑った。
「僕は、ケーディーを掴もうとしてたわけだから、死を求めていたってことになるのかなあ・・・?」
ケーディーは、苦渋の色を見せながら、重い口を開いた。
「・・・私は、『死神』と呼ばれる者。死を司り、生命を絶つ者。そなたを我が使命により、死へ
と誘わん。」
ケーディーは、空の向こうを指差した。
「あの空の向こうへと―」
元気は、ニッコリ笑った。全てを悟り、全ての未練を無くしたからかもしれない。
元気は、心の中で呟いた。
―僕の求めていたもの・・・僕の本当の居場所は、あそこにあるんだ―
―きっと、あの空の向こうに―
十家剣
何で空は青いんだろう。何で広がっているんだろう。
何で雲は流れていくんだろう。何で止まらないんだろう。
何で時は流れていくんだろう。何で止まらないんだろう。
何で僕の命の鼓動は鳴り続けているんだろう。何で止まらないんだろう。
僕の疑問はいつになったら解ける事が出来るんだろう。
―今の僕に分かるのは、きっと死ぬまで解けないって事だけだ。
僕が何でこんな事を考えているのか―
それは僕が、それしか考えていられない状況にあるからだ。
僕は生まれつき体が弱くて、外に出る事が出来ない、寝たきりの病人だ。
「死ぬ」と思っているのに、なかなか死なないものだと思う。
外に出て、走り回れば死ぬのだろうけれど、僕は死ぬのが怖いのか、今までそれをしてはいない。
毎日同じ事が続いて、毎日同じ窓から同じ空を見上げる。
でも、同じ空なのに空はいつも違う。
―僕はいつも同じなのに―
僕は、同じなんだろうか?
僕は、いつも同じように空を見上げるけど、体はちゃんと大きくなっているのだ。
だって、10年前も同じ空を見ていたけど、少し空が近くなっている感じがするんだもの。
そして、僕の残りの命も少しずつ削られているんだ―。
梅雨の珍しく雨が止んだ日。
大きな空がそこにあって、大きな太陽がそこにあって、ちぎれた雲があって―。
僕は初めて見た。美しい虹がかかった空を―
―ああ、なんて美しいんだろう―
僕の体は、無重力の世界にあるかのように何も感じない。
確かにそこにある空と太陽と雲と虹―
何か温かくて、白いものが僕の体を包んでいる気がする―。
とても懐かしい、温かい何かがある―
僕をあの空の向こうに連れて行って。
知りたい事が分かる気がするんだ。大切なものがある気がするんだ―。
きっときっとあの空の向こうに―
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「元気、入るわよ。」
母親らしき人物が、元気と呼ばれた少年の部屋の中に入った。
元気は、空を見上げていた。
母親は、「またか」と呆れたように、額に手を当てた。
「元気。薬の時間でしょ?」
元気は、全く反応を示さなかった。
「元気!」
元気は、ビクッとした。彼はまた、自分の世界に入り込んでいたのだ。
「ご、ごめん。薬、後で飲むから置いといて。」<
「だめよ。この間、飲み忘れていたでしょ?」
母親は、元気に薬を差し出した。
別に飲みたくないわけではなかった。ただ、もう少しで届きそうだったのだ。
―今ならまだ間に合う―
なのに、母親が、それを妨げた。
元気は、さっさとそれを飲んで母親を追い出し、また、空を眺めた。
無理だった。
―また、遠くへ行ってしまった―
元気は、落胆した。
「『何』が届きそう」で、「『何』が遠くへ行ってしまった」のかと聞かれると、答えられない。
だってそれは、天使のようで悪魔のようで白いようで黒い。また、空気のようで、固体のような
「何か」なのだ。そして、どこか懐かしい気もする・・・
ただ言える事は、それはあの空の向こうにあるはずなのだ。
それが、たった今、目に見えそうな位置まで来た。手で触れられそうなところまできた。
―ああ、やっぱり、僕には一生解けることなんてできないんだ。この最も大きな謎は―
元気は、すがるように、窓に向かった。母親は、元気が空を見上げるのが怖かった。
何を考えているのか分からなくなってしまう気がしたし、息子を取られてしまうような気がした。
息子の命を。
元気は、生まれつき体が弱く、病気持ちだった。それも、まだ解明されていない病気だった。
もちろん、薬なんてあるわけもない。
なら、何の薬を飲ませているのかというと、母親自身よく分からないのだが、体の抵抗力を高
めるものだという。
病院に入れていないのは、元気が「まだ、治るのではないか」と思っているかもしれない。
病院などに入れてしまったら、その「希望」を壊してしまうだろうと思っているからだ。
それが、元気をここに、この世に留まらせる為に必要なのだ。
つまり、「病は気から」というものである。
医者もそれを薦めた。
しかし、元気は、そんな事は思っていなかった。
「一生治らない」と思っているし、「それでもいい」とも思っている。
「希望」など、生まれた時から無かったのだ。存在すらしていない。
それなのに、名前が「元気」というのは、皮肉である。これも、「希望」を信じてのものなのだろう
が、虚しさを感じるだけである。
元気が、また、自分の世界に入り込もうとした時、外が騒がしくなった。
小学生の下校時間だったのだ。
楽しそうに笑い声をあげながら、男の子や女の子が目の前の道路を通っていく。
別に「羨ましい」と思っているわけではなかった。
そんな感情は、とうに捨ててしまっていたからだ。
「自分も、もうすぐ中学に行く歳になるんだ。」
と元気は思う。
そして、「いつになったら、僕は、ここから離れる事ができるんだろう。」と考える。
それは、どことなく解っていた。
あの「何か」が、連れて行ってくれるのだ。あの空の向こうに。
元気が生きている理由は、その何かを確かめたいという事だけだった。
それを解かる事が出来るなら、元気は迷わず、命さえ投げ出すだろう。
突然、元気に眠気が襲った。
いや、これは眠気ではないのかもしれない。もしかしたら、本当の眠りにつこうとしているのか・・・
目の前が真っ暗になって、何も解らなくなった。
元気は、「これが死ぬという事なんだろうか」と思い始めていた。
すると、パッと明るくなった。というか、目が覚めたのだ。
何せ、目の前には、いつもの自分の部屋があるし、いつもの空がそこにある。
それに、まず、ベッドの上だった。
元気はなぜか、がっかりした。
自分でも、どうして今、こんな感情状態にあるのか良く分からなかったのだが、それは多分、
「死」と謎が解けそうな予感があの瞬間にあったからだ。
ふと、何かの気配を感じて、ドアの方を見た。
何もなかった。
そう思った瞬間、激しい閃光が辺りを満たしたかと思うと、それが一箇所に集まり、人の形に
なっていく。
元気は、心臓が止まりそうなくらいに驚きながらも、その行方を見ていた。
そして、目の前には、肌が白い(というか、光って見えるのだが)、黒く透き通ったローブを着て
いる、男とも女ともつかぬような人物が立っていた。
元気が、感じていた事は、本当だったのだ。
確かに、天使とも悪魔とも言い難い容姿であるし、肌が白く、服が黒いから「白いようで黒い」
というのも当てはまる。
「光のようで固体」というのは、現れた時の瞬間は光だったのに、今は固体である。
しかし、「懐かしい」というのは、この人物に全く心当たりもなかった。
「あなたは・・・?」
元気は、勇気を振り絞って言葉に表した。
「人間の物差しで計れる者ではないとだけ言っておこう。」
目の前の人物は、表情一つ変えずに言った。
「私は、今までずっと、そなたを見てきた。そして、そなたは私を求め、探していた―そうだろう?」
「うん!知りたい事がたくさんあるんだっ!君は、あの空の向こうから来たんでしょ?」
元気は、全ての答えを教えてくれると思った。
「そうとも言える。」
「僕の事を知っているのなら、僕の考えていた事も分かるってことでしょう?」
「その疑問に答えよと言うのだろう?」
「うん!」
「前に言ったように、人間の物差しで計れるものではない。私のことも、そなたの抱く、
地球に関する疑問の数々も。」
その人物は、空の彼方を見るかのように元気の目を見つめた。
「まず、そなた達人間の住む世界ではなく、我々の住む世界には、空も雲も光も闇も時も存在
しない。」
「時が・・・?」
「そうだ。そこにあるのは『無』。何も感じる事の無いただの『無』。つまり、そなたが知ろうとして
いる事は、そなた達人間の間のものでしかない。我々にとっては、全く無意味な事なのだ。」
その人物は、真剣な目になった。
「そなたは、そのうち光を得る。その時が来るまで待つが良い。」
その人物は、仄かに光を放ち始めた。
「ま、待って!また・・・会える?」
「様子見に来るかも知れぬ。」
「じゃあ、何て呼べばいい?」
「名を聞くと?」
元気は、ニッコリ笑った。今まで忘れていた笑顔だ。
「名は無いが・・・」
その人物は、少し考えて、
「『ケーディー』とでも名乗っておこう。名は、不必要なのでな。」
と言うと、現れる時と同じ閃光を放って消えた。
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元気は、ケーディーの言っていた事を何度も呟いた。
たしかに、その通りだ。ケーディーの世界には、何も無いのだから、元気が考えている疑問は答え
られないし、そういう概念もない。
人間の世界の中だけで成立する事なのだ。
しかし、元気は納得がいかなかった。
人間世界のことについて全く知っていないのだろうか?
いや、答えは知っているけれど、それを教えるわけにはいかなかったのかもしれない。
それとも、時間がなかったのか。
いや、時間の概念がないのだから、それはない。
元気は、ケーディーが最後に言った、「光を得る」とは何なのか、分からなかった。
しかし、「光」とは、希望や夢や未来の象徴でもある。
―それを僕が得られると言うの?―
元気は、日が暮れ、母親が呼びに来るまで、布団の中で静かに考えていた。
次の日、また、同じように元気は目覚め、同じように空を見上げた。
いや、違う。ケーディーを探すために眺めているのだから、同じではないかもしれない。
元気は心の中で、ケーディーを呼んだ。
すると、昨日と同じように激しい閃光の中、ケーディーが現れた。
「来てくれたんだね!」
ケーディーは、困ったような表情を一瞬見せてから、
「何か用があって呼んだのだろうな?」
と呆れたように言った。
「うん!僕の質問にちゃんと答えて欲しいんだ。」
「昨日の答えがちゃんとした答えだ。」
「でも・・・」
元気は、答えてくれると信じていたわけではなかったが、落胆の色は隠せない。
「納得いかないと?」
元気は、大きく頷いた。
「では、自分の目で確かめれば良いではないか。それが最も合理的で単純な方法であると、
私は思うのだが?」
ケーディーの言う事は、最もだったが、それは自分に自由に歩き回れる体と足があって、成り立つ
ものなのだ。
それを分かっていて、放たれたケーディーの言葉は、元気にとって、一瞥するかのように鋭かった。
「・・・無理だよ、そんなの・・・。」
元気は、重い口を開いて言った。
「無理?無理ではないから、私は言っているのだぞ?」
元気は、気休めのように感じたが、ケーディーは、そんな軽率な事を言うほど、愚か者ではない。
「『そなたは光を得る』―と私は言わなかったか?」
「言った。確かに言ったよ。でも、それは・・・何?『光』って何?」
元気は、最も興味深く、謎に包まれている言葉の真相を早く知りたかった。
「今言ったことだ、元気。」
初めてケーディーは、自分の名前を呼んだのだと気付いた時には、他の考察を吟味した後だった。
「『光』って・・・僕の病気が治るって事なの?」
元気は、ケーディーのまどろっこしい言い方を素早く解釈した。
次の瞬間、ケーディーは微笑んだ。それは確かに、瞬間であったし、陰りのあるものでもあったが。
「明日の午後、薬が開発される。そなたの病は、その薬により治る。それがそなたに与えられた
『光』であり、『希望』なのだ。」
「それは、嘘じゃない?本当のこと?」
ケーディーは、しっかりと頷いた。
その瞬間、元気は、目の前がパーッと明るくなる気がした。
今まで閉ざされていた、門が開け放され、光が心の中を満たした。それは、元気が生まれてからず
っと心の奥に押し隠してきた、『希望』の光であった。
元気は、自分の目の前には、絶対に現れる事のないものだと思いつつも、いつも心のどこかで、
『希望』を信じたい気持ちを捨てずにはいられなかった。
たとえそれが、本人の測れる範疇のものではなくても、それは心の中に存在していた。
―あったのだ。本当の光が。偽物でも形だけのものでもない、『希望』という光が―
元気は、自分の頬に、生暖かいものが伝っているのを感じて、思考の中から舞い戻った。
―これは、涙。『希望』と一緒にずっと封じ込めていたもの―
「・・・では、用は済んだ。私は、帰還する。」
「明日、また来る?」
元気は、明るい声で訊いた。
「そうだな。明日は大切な日。来ねばなるまい。」
ケーディーは、「義務である」ように、そう言って光と共に消えた。
元気は、なんだかよく分からない気持ちになった。
「お母さんっ!」
元気は、大声で母親を呼んでいた。
「なあに?急に大声なんか出して。」
「僕の病気はね、明日治るんだよ!薬が開発されるんだって!」
元気はその時、言って良かったのかどうか思い返した。
「・・・そう。良かったわね。じゃあ、明日に備えて寝なさい。疲れているでしょ?」
母親は、そう言って布団を掛けた。
元気は、部屋から出て行く母親の背中が震えているのに気がついた。
「『夢でも見たのだ』と母親は思っているのだ」と元気は思った。
そして、治りもしないのに、そんな事を言う息子が可哀相だと思って、溢れそうな涙を堪えている
のだ。
―嘘じゃない。僕の病気は、明日治るんだよ―
元気は、そう訴えたかったが、涙を堪える母に声を掛ける事は出来なかった。
次の日の朝、元気が起床すると、ケーディーが現れた。
「あと3分後に発表がある。」
「うん!ドキドキして、眠れなかったよ。」
ケーディーは、ただその場に突っ立って、何をするわけでもなかった。
3分後
「時は満ちた。母に頼むと良い。薬が○○薬品の名で、発表されている事を確かめるように、と。」
「ねえ、ケーディー。もう、ここには来ない?」
ケーディーは、一瞬顔を曇らせたようだった。
「確認のために・・・来るかもしれないが。それが、どうかしたのか?」
「ううん。ただ、会えなくなるのかなぁって思ったら、寂しくなっちゃって・・・。また、会いたいな。」
ケーディーは、無言のまま消えていった。だが、微笑んだように見えた。
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確かに、特効薬は開発されていた。
そして、やがて元気の元にその薬が届き、みるみるうちに、元気は元気になっていった。
また、それからケーディーは、一度も現れなかった。
しかし、2週間が経った頃だった。
元気は、まだ安静のために、それほど歩き回る事は出来ないでいた。
元気が、薬を飲んで部屋に戻ってきて、寝ようとしていた時だった。
「・・・ケーディー。居るんでしょ?」
元気が言うと、背後からケーディーが現れた。
「なんで分かった?」
「うーん、そんな気配がしたから。」
ケーディーは、露骨に嫌そうな顔をした。
「今日は、確認しに来たの?それとも・・・」
元気は、寂しそうに笑った。
「殺しに来たの?」
ケーディーは、突然の言葉に驚いた。
「・・・なぜ、私がしようとしていた事を・・・」
「・・・僕ね、ケーディーを感じた時、懐かしい感じがしたんだ。最初は、全然検討つかなかった
んだけど、僕が小さい時のこと、思い出したんだ。」
元気は、寂しそうな顔をして、話し始めた。
「3、4歳の時、僕は心臓の手術をしたんだ。その時、夢を見たんだ。大きくて、真っ青な空の夢。
僕は、誰かに手を引かれて、その中を進んでいるんだけど、突然声が聞こえて、夢は覚めてしま
った。」
元気は、苦しそうに笑った。
「あの時、手を引いていたのは、ケーディーなんでしょ?」
ケーディーは、観念したように頷いた。
「お母さんが言ってた。大量出血で生と死の境を行き交っていたんだろうって。」
「・・・そうだ。あれは私だ。だから、そなたの事も知っている。」
ケーディーは、真剣な顔で元気を見た。
「私は、そなたを『薬の副作用』として、殺さねばならない。他に同じ薬を飲んだ者も、
私の同胞によって行われるであろう。」
「そっかあ。お父さんもお母さんも、悲しむだろうな。すごく喜んでたから・・・」
「憎くないのか?恐ろしくないのか?なぜ、笑っていられる?」
「死は、いつもそばにあった。ケーディーの形を取って。だから、そんなに怖くないよ。」
元気は、寂しそうにまた笑った。
「僕は、ケーディーを掴もうとしてたわけだから、死を求めていたってことになるのかなあ・・・?」
ケーディーは、苦渋の色を見せながら、重い口を開いた。
「・・・私は、『死神』と呼ばれる者。死を司り、生命を絶つ者。そなたを我が使命により、死へ
と誘わん。」
ケーディーは、空の向こうを指差した。
「あの空の向こうへと―」
元気は、ニッコリ笑った。全てを悟り、全ての未練を無くしたからかもしれない。
元気は、心の中で呟いた。
―僕の求めていたもの・・・僕の本当の居場所は、あそこにあるんだ―
―きっと、あの空の向こうに―
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