神が人を試せるのなら、どうして人が神を試してはいけないのだろう?
如果神可以尝试人的感觉,那么为什么人不可以尝试神的感觉呢?
音楽に合わせて無心に身体を動かしていると、自分の身体の中にある自然な律動が、世界の基本的な律動と連帯し呼応しているのだというたしかな実感があった。潮の干満や、野原を舞う風や、星の運行や、そういうものは決して自分と無縁のところでおこなわれているわけではないのだ。
随着音乐舞动自己的身体,感受到自己身体中的自然律动与世界基本的律动相互联合起来。潮涨和潮落,原野舞动的风,和运行的星星,这些东西绝对不是和自己无关的。
そんなことはどうでもいい。それが誰であれ、見たければ見ればいい。神の子どもたちはみな踊るのだ。
那样的事情怎样都行。不管是谁想看就看吧。神的孩子全都在跳舞。
僕らの心は石ではないのです。石はいつか崩れ落ちるかもしれない。姿かたちを失うかもしれない。でも心は崩れません。僕らのそのかたちなきものを、善きものであれ、悪しきものであれ、どこまでも伝えあうことができるのです。神の子どもたちはみな踊るのです。
我们的心不是石头,石头也迟早会粉身碎骨,面目全非,但心不会崩毁。对于那种无形的东西,无论善还是恶,我们完全可以互相传达。
 
以上句子节选于村上小说《神的孩子全跳舞》。第一次读这本书是因为听了五月天的《神的孩子都在跳舞》,那张专辑借用了这本书的名字。本书是以日本的一场大地震为背景,描写经历巨变后人们的改变和对生活的重新审视。被称为是村上的转型之作。