叱られたい人々

地震・雷・火事・おやじ…昔から「怖いもの」の代表として、語り継がれてきた言葉です。天災や火事とおやじが同列に並ぶなんて、と思いますが、たしかにかつては、怒ると「雷が落ちた」と形容されるほど怖いおやじをあちこちで見かけたものでした。いまではそんな人には滅多にお目にかかれませんが、そのせいかどうか、最近「叱られたい」願望を持つ若い人が増えているといいます。

想被训斥的人们

地震、雷电、火灾、老头子……这些都是从古至今作为“恐怖之物”的代表,一直被人们谈论。把老头子和天灾、火灾放在一起,似乎让人摸不着头脑,不过在过去,发起火来可以用“天雷劈下”来形容的可怕老头子随处可见。现在这种人不多见了,不知是不是因为这样,把“想被训斥”当做愿望的年轻人变多了。

叱られたがる若者たち

親や家族、近所のおじさんやおばさん、学校の先生、部活のコーチ、会社の上司や先輩…かつて、人は一人前になるまでの過程で、多くの人に叱られて育ったものでした。叱り・叱られる関係は、ごく日常的な風景。それだけに、わざわざ好き好んで「叱られたい」と思う人は、あまりいなかったと言ってよいでしょう。ところがここに来て、これまでの常識をひっくり返すように、「叱られたい」願望を持つ若い人が増えているというのです

想被训斥的年轻人

父母、家人、邻居的叔叔阿姨、学校老师、社团活动的指导员、公司的领导和前辈等等,在过去,一个人在成为成功的社会人之前,都要接受周围大部分人的训斥和教育。训斥——被训斥,这种关系在生活中极为普通。根据这种情况我们似乎可以说,过去的话应该没人会因为爱好而想着“希望受到训斥”吧。然而,现在的情况似乎推翻了我们的论断:“想要被训斥”的年轻人变多了

ネット上のブックストアで「叱る」「叱られる」をキーワードに検索すれば、関連本に続々とヒット。テレビ番組でも、しばしばそのテーマが取り上げられます。アイドルに怒られ続ける動画の再生回数は120万回を突破し、夜の街ではママが客を叱りつける店が大繁盛し、企業では上手な叱られ方を学ぶ研修もあるとか。中には、1時間千円を支払って"おっさんレンタル"を利用し、人生経験豊富な中年男性に叱ってもらうことで安心する人もいるようです。

在网上书店以“训斥”、“被训斥”为关键词进行搜索,相关书籍连连大受欢迎。一些电视节目也会用它作为节目主题。网上某偶像连续不断训斥人的视频,突破了120万的播放次数;在风俗街上训斥客人的妈妈桑也生意红火;在企业里还有关于如何变成”被训高手“的研修。诸如此类的各种”求训斥“,其中还有一小时上千日元的”租大叔“服务,不少客人租借人生经验丰富的大叔来训斥自己,以此获得安心感。

不安の裏返し

NHKが「叱られる」ことについて尋ねたアンケート(10代から30代の200人以上が回答)では、「周囲に叱ってくれる人はいますか」という質問に対して、半数を超える人が「いない」と答え、さらに、およそ4割の人が「叱られたい、叱ってくれる人がほしい」と考えていることがわかりました。

不安情绪造成的逆向应激反应?

NHK电视台以“被训斥”为主题做了一个调查问卷,以十周岁以上四十周岁以下的人群为调查对象,超过两百人回答了“周围有训斥你的人吗”这个问题。结果显示,半数以上的人的回答是否定的,而且大概有四成的被访者觉得,自己“想被训斥、想要有人训斥自己”。

なぜ、そんなに「叱られたい」のでしょう? 同番組の街頭インタビューでは、「叱られないと成長できないと思う」「叱ってくれないと、自分のことを本当に考えてくれているのか不安になる」といった声が聞かれました。

为什么那么“想要被训斥”呢?调查组对此又进行了街头采访,发现存在“不被训斥的话就不能成长”、“不训斥我的话,就会担心对方真否真的为我着想”这种想法。

「叱られたい」という人の多くはソーシャルネットワークでたくさんの人とつながっていて、友人にも恵まれているように見えます。でも、自分が弱気になった時や友人に叱ってほしいような時、「いいね!」という共感ばかりが返ってきて、リアルな感覚がないままに応援されても逆に不安になるのだとか。会社でもプライベートでも、自分を叱ってくれる人がいないという中で、叱ってもらうことが、自己確認のひとつの手段になっているのかもしれません。

“想被训斥”的人大多都是网络社交圈中的活跃者,表面上也与朋友们相处得不错。但是,当他们感到怯懦希望友人能斥责自己几句时,只能得到诸如“赞!”这种共鸣。这种没有实际感觉的鼓励,反而会让人更不安。不管是在公司还是私下跟好友在一起,都没有人训斥自己。也许正因如此,被训斥才变成了自我确认的一个手段。

「叱る」と「怒る」

とはいえ、ただ叱ればよいというものでもなさそうです。若者たちが求めているのは「怒り」ではなく「叱り」。では、「叱る」と「怒る」はどう違うのでしょう?

“训斥”与“愤怒”

话虽如此,仅仅是被训斥的话,似乎也不能让人满意。年轻人追求的不是“愤怒”,而是“训斥”。那么,“训斥”和“愤怒”有什么不同呢?

コミュニケーションや育児の世界では、「怒る」と「叱る」は使い分けられているようです。それによると、自分が腹を立てたことを相手にぶつける動作は「怒る」であり、相手に成長・改善の気づきや機会を与えるのが「叱る」。

叱り方にもコツがあるといいます。叱る関連本の中のベストセラー、『叱られる力』(阿川佐和子著/文春新書)によれば、その極意は「借りてきた猫」で、

か・・・感情的にならない
り・・・理由を話す
て・・・手短に
き・・・キャラクター(人格や性格)に触れない
た・・・他人と比べない
ね・・・根に持たない
こ・・・個別に叱る

在交流活动和育儿活动中,“愤怒”和“训斥”两词是分开使用的。其中,“愤怒”是把自己的怒气发泄到别人身上,而“训斥”则是给予对方成长和改善的机会。

据说,训斥也是有窍门的。在关于“训斥”的书籍中,《被训斥的力量》(阿川佐和子著/文春新书)荣登畅销榜第一,作者在书中把这种窍门总结为“借来的猫”(读作“karitekitaneko”)

ka——不感情用事
ri——说出理由
te——尽量简短
ki——不指责对方性格、人格
ta——不把对方与他人作比
ne——不耿耿于怀
ko——一个个的训斥

というもの。人を「叱る」には叱る側の覚悟も必要で、そのあたりが、ただ感情をぶつけて「怒る」との違いなのでしょう。

以上就是此书总结的训斥窍门。人在训斥别人的时候是需要下定决心的,这一点和发泄自己感情的“发怒”不同。

同書には、「社会のルールを教えようと見知らぬ若者を叱ると、"それがきっかけで事件につながるケースもあるから、どうぞやめてください"とやんわり警察に諭された」という笑い話のような実話も載っています。多少の不都合があっても、見て見ぬふりをしてやり過ごす方が生きやすいとされる現代社会。「叱られたい」若者たちは、こうした社会の空気を感じ取り、何かを訴えているのかもしれません。

在这本书中还收录了这样一则像笑话一样的真事:“看见不认识的年轻人,想要教给对方社会规则而去训斥人家,结果被警察委婉地劝说道,‘以此为契机发展成案件的事情可不少,还是别这样做吧’。”现代社会便是如此,就算有人做出一些不太好的行为,大家也会装作没有看见的样子,因为这样活着会比较轻松。一些年轻人们也许是感觉到了这样的社会风气,才“想要被训斥”,想要用这种方式去倾诉感情吧。

「ほめる」と「叱る」

先日の新聞には、大人を対象に行った「こんな言葉でほめられたい」というアンケート調査の結果が掲載されていました。子どもに対して「ほめて伸ばす」のは、いまや子育ての常識とされていますが、ほめられれば嬉しいのは大人も同じ。「1位:頭がいい、2位:思いやりがある、3位:笑顔がいい…」と続き、ほめることによって社会に好循環が生まれると書かれています。そして、「ほめる技術の8割は観察力、2割が表現力」といった解説も。「肝心なのは、相手に関心を持ち注目していると伝えること」なのだそうです。(朝日新聞be、RANKING/2015年9月12日)

“表扬”与“训斥”

在前几天的报纸上,刊登了以成年人为对象进行的调查——“想被这种话表扬”的调查结果。对于孩子来说,“有表扬才有提高”这种观点已经成为育儿界的常识,而成年人也是一样的,被表扬了也会高兴。这些想听的话是:“第一名:脑子好使;第二名:有同情心;第三名:笑容很棒……”,调查显示,表扬这种行为对于促进社会的良性循环有好处。接下来谈到“表扬人的技术,八成靠观察力,剩下靠表现力”,“关键是要表达出一直在关注对方这一点”。(朝日新闻be、RANKING/2015年9月12日)

そう考えていくと、「ほめられたい」も、「叱られたい」も、おそらく、その根っこは同じなのではないでしょうか。「愛の反対は憎しみではなく、無関心」という言葉もありますが、人間関係の希薄になったこの社会で、深く人と関わり合い実感のある人間関係を持ちたいという気持ちが、「ほめられたい」「叱られたい」願望となっているような気もします。

这样想的话,不管是“想被表扬”还是“想被训斥”,恐怕本质上是一样的。有这样一句话,“爱的反义词不是恨,而是冷漠”。在这个人际关系淡漠的社会里,大家想与人深入交往、感受实实在在的联系,才会产生“想要被表扬”、“想要被训斥”这种愿望的吧。

つながっている人の数は多くなったのに、逆に個々の関係性は希薄になっているネットワーク社会。そんな現代社会の中で、私たちは実感のもてる人間関係をどう築いていけばよいのでしょう?

明明与很多人相互联系着,人与人之间却很冷漠,这就是如今的网络社会现状。在这种现代社会中,我们该如何建立有实际存在感的人际关际呢?

「叱る」ことが目的ではなく、叱ってあげられるほど相手を注視し、相手のことを思った上で叱ることができるか━━大人に問われているのは、そんな覚悟なのかもしれません。

“训斥”不是目的,而能否做到注视着对方、为对方的事情考虑而去训斥他呢?在训斥别人的时候有这种觉悟吗?——也许这才是成年人需要思考的。

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