よく「日本人の優しさは世界一」といわれますが、電車の席譲りから横断歩道まで、老人や子供などに対して公共の場で手を差し伸べているシーンに出くわすことはほとんどありません。これはいったいどういうことなのでしょうか?

“日本人是世界上最温柔的”,虽然常常被这样评价,不过几乎没怎么看到过从电车中给老人让座到在斑马线上等公共场所对老人或者孩子伸出援助之手这样的场景。这到底是怎么回事儿呢?

日米で違う人との距離感。

日本与美国的差异,人和人之间的距离感。

日本に行くとまずいちばんに感じる日米間の違いは「人と人の距離感」です。日本では知らない人にむやみに話しかけちゃいけないらしい。ニューヨークで歩いていると、本当によく通行人に話しかけられます。 人が、人に、話しかけている。

去日本之后首先能感受到的日美之间的差异便是“人与人之间的距离感”。在日本,貌似不能随便和陌生人搭讪。在纽约,只要走在大街上,就真的会常常被行人搭讪。人们是会主动向别人搭话的。

まず、世界を代表する観光都市でもあるため、道を聞かれない日がありません。観光客だけでなく、現地のニューヨーカーにもよく聞かれます。 先日は黒人のおばちゃんに「このあたりで、カニ玉食べられる中華料理屋ある?」と、通りすがり。メニューまでは知らんがな(笑)。 何より、オレ、中国人じゃない。この人が何人(なにじん)だろう、まで考える間もなく、近くにいたアジア人に聞いてみる。 なぜならアタシは今、チャイニーズを食べたいから。 聞く理由は至ってシンプル

首先,作为世界上具有代表性的观光都市,没有一天没有人问路。不仅仅是游客,也常常被纽约的当地人问路。前几天,就被一个过路的黑人奶奶问道:“这附近,有没有能够吃到蟹肉煎蛋的中餐馆?”我不可能连餐厅的菜单都了如指掌啊(笑)。首先,我就不是一名中国人啊。大家压根就没有考虑这个人到底是个怎样的人,便直接向距离最近的亚洲人问路了。要问他们为什么这么坦率,其实只是因为想要吃中餐了。问路的理由极致的朴素。

これが日本だと、やっぱり挨拶なしにいきなり通りすがりの人に「ねぇ、このへんにイタリアンない? ピッツア食べたいんだけど。 できればマルガリータ」って聞くとやっぱり後で「今日ヘンな人に会った」と盛り上がられるんだろうなと思います。

这种情况要是放到日本,果然,不好好地打招呼就向路过的人询问:“那个,这附近有没有意大利餐厅?我想吃披萨啊,最好配上玛格丽特酒。”当被这样的人问路,我想之后只会因为“今天遇到了一个奇怪的人”的话题而兴致勃勃吧。

そして、日本で人に道を聞く場合はここまで恐縮しなきゃいけないんだな。 たまたま知っていたので本当(笑)の道案内をしようと「あそこの階段を上がって1回、地上に出てもらって…」と説明前半部分で、「ああ!! ありがとうございます! ありがとうございます! 後は階段上がった時点で、また聞きますので…」とそのまま行ってしまいました。 頭を50回くらい下げながら。

并且,在日本,在街上向人们问路的时候必须要做到一定程度的诚惶诚恐。有一次因为偶尔知道目的地(笑),想要给他们指路,“登上那边的台阶可以走到地面上…”才说明了前半部分,问路的人便说:“啊!谢谢!真感谢你!接下来的路等到我上到地面再找人询问…”就这样走掉了。期间鞠躬了50次左右吧。

相手の時間をわずかながらでも頂戴することは申し訳ないと思っているのでしょうか。 あるいは申し訳ないと思っていると思わせたいのでしょうか。 あるいは知らない人とそこまで関わりたくないけど、聞かなきゃしょうがないから最小限に済ませようとしているのか。 あるいは関わる時間が長ければ長いほど恥ずかしいから、短く切り上げようとしているのか。

或许是因为仅仅占据对方一点点的时间也会觉得万分抱歉吧。或是想让被人察觉到自己占据了对方时间感到很抱歉的心情吧。又或者是不想和陌生人有着过分的关联,不过到了不得不去问路的时候只能把交流缩小到最低限度吧。再或者是与陌生人相关联的时间越长越有一种羞愧感,所以尽量在短时间内结束交集。

どちらにせよ、日頃僕たちがニューヨークで生活している際の人との距離感とあきらかに違うレンジで人が接してる(言葉は母国同士だからホントはもっとコミュケーション取りやすいはずだけど)。日本以外の国だと人と人の距離感が明らかに近いということは覚えておいた方がいい。

无论哪种心态,和他们接触都与和我们平时在纽约生活时交际圈中的人们接触时的距离感明显不在一个次元(由于在语言上大家都是同一个母语,本来以为可以更轻松的进行交流)。在日本以外的国家,人和人的距离感明显亲近很多,这点牢记在心比较好。

前々回の日本出張時に山手線に乗車した際、隣に座っている20代後半〜30代前半くらいのビジネススーツの男性が膝の上に置いているネイビーのブリーフケースがとても格好よく見え。「いいね、ソレ。 どこのブランド?」と聞いた際の彼のすっごく引きつった驚いた顔を忘れることが出来ません。 あきらかに「ヤバい! ヘンな人に話しかけられた」っていう顔(笑)。 同乗した反対隣に座っていた僕の知り合いにも「高橋さん、ヤメましょ、ね。 ヤメましょ」となだめられました(笑)。

之前有一次我到日本出差,乘坐山手线的时候,我看到坐在我旁边的一位20代后半〜30代前半年龄的男性商务人士膝盖上放置的藏青色的皮质公文包非常有品位。“这个,这好看啊。哪个牌子的公文包?”当我问道这句话的时候,他万分震惊的面庞直到现在都无法忘记。那表情明显就在说“糟糕!被一个奇怪的人搭话了。”(笑)。和我同乘一辆列车坐在我对面的熟人立刻安慰我说:“高桥先生,别追问了,呐,别追问了。”(笑)

オレ…褒めたのに…。

我…明明夸奖了他的包…

実は世界で、人間にとって、ごくごく自然なことが、日本では不自然なことに映る。 そんな社会になってしまっている気がします。

实际上在这个世界上,对于别人来说非常自然的事情,在日本就会被映照成不自然的事情。感觉日本渐渐变成这这样的社会。

メルマガで「日本の素晴らしさ」を、「アメリカのバカっぽさ」をここ数回訴えてきました。 日本が世界でいちばん素晴らしい国だという認識は変わりません。

在杂志上还好几次提到“日本的美好之处”以及“美国的鲁莽之处”。日本是世界上最温柔的国家这样的认知也没有改变。

でもねー。

但是呢ー。

ここだけは強調したいのですが、NYの地下鉄でお年寄りが立っている光景をみることは絶対ありません。15年間ほぼ毎日地下鉄を利用して、そんな景色はただの一度も見たことがない。

我只想强调一下这种情况。在纽约乘坐地铁的时候,绝对看不到老年人站着的光景。我在15年中几乎每天都会乘坐地铁,一次都没有看到过此般光景。

たまの日本出張。1週間の滞在で何度、そんな光景を見たことか―。

而在偶尔出差日本的时候,1周的滞留时间,就能看到好几次这样的情况。

そこだけは日本の圧倒的完封負けです。 断言します。

我能够断言在这一点上是日本压倒性的完败。

先日、est新宿の地下でベビーカー片手のお母さんが、重いガラス扉を片手で開けようと戦ってる。 そのスグ真後ろをオシャレな格好した若いカップルがガン見して一切助けようとしていない(これ、なんかの罰ゲームなの?)。

前几天在东新宿的地下,看到了一个单手推着婴儿车的母亲,用另一只手与厚重的玻璃门作斗争。就在她身后站着一对打扮时髦的情侣,只是看着她而完全没有伸出援手。

池袋のホームでおじいさんが買い物袋をぶちまけて転けた時、乗客全員がおじいさんとぶちまけられた買い物の品々を避けて歩き去っていく。

在池袋的站台上,有一位老爷爷的摔倒了手提袋倾撒一地的时候,所有的乘客都紧急避开从老爷爷袋子中撒出来的物品,纷纷离去。

そこだけは日本は後進国、だと僕は思っています。

在这点上日本是一个落后的国家,我是这么认为的。

これらの話を日本の方にすると必ずされる返答があります。

我的这种说法想必会遭到日本的各位的反驳吧。

「イヤ、実は日本人もみんな席を譲ってあげたいんだ。 だけど、シャイだから、行動に出れないだけなんだよね」

“不不,其实所有日本人都想让座位给老人。但是,因为性格上比较害羞,很难付诸行动啊。”

そういった類いの返答をされます。

被这种说法如此反驳道。

なるほど。 確かにそうかもしれない。いや、おそらくは僕もそう思います。 アメリカ人より、オーストラリア人より、日本人の方が絶対、優しいということを僕は知っているから。 その意見に100%同意です。

原来如此,或许确实是这样的吧。不,恐怕我自己也是这么认为的。比起美国人、比起澳大利亚人,日本人绝对更加温柔,这我知道的。所以100%同意这个意见。

ただ、シャイだから行動に出ないのであれば、一生、シャイで家に閉じこもってたら? とも思ってしまいます。

只不过,我觉得:仅仅因为比较害羞而不付诸行动,那么一生就因为害羞而闭门不出吗?

人と人の距離感の違い。 あまりに他人のスペースを尊重する文化は尊重しすぎて、助けの手すら差し伸べないなら。

人与人之间距离感的差距。日本的文化过于重视尊重他人的空间,以至于都无法伸出援手。

距離感、間違えてるよ!

这样的距离感,弄错了吧!

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