2月19日、春節を迎えた横浜中華街では、けたたましく爆竹が鳴り響いた。太鼓とシンバルの音に合わせて獅子舞がうねる。その獅子舞は一軒一軒と通り沿いの店舗の中に入り込んでは、その大きな口をパクパクとさせ客人や従業員の頭を撫でまわる。「頭を撫でてもらえば、その年は健康や発展にあやかれるんです」

2月19日横滨中华街迎来了春节,到处响起了热闹的爆竹声。随着敲锣打鼓舞狮子也活跃起来。狮子进入一家一家的沿街店铺,狮口一张一合,蹭着客人和店员玩乐。“是被舞狮子摸着头了,新的一年就会健健康康一切顺利。”

そう語るのは老舗中華料理店で長く働く女性だ。創業は明治、横浜中華街の伝統を頑なに守り続けるひとりである。秘伝のタレで漬け込んだチャーシューもさることながら、屋号の入った昔ながらの食器からもそのプライドが伝わってくる。

说这话的是在中华料理的老铺里工作的女性。这家店从明治时期就开张营业,她也一直坚守着横滨中华街的传统。用秘传的调味料腌制的叉烧肉自不用说,从店铺里摆设的古老食具也能看出店铺及主人的“自负感”

その女性は言う。「横浜中華街もだいぶ変わりましたよ」――。

这个女人说:“中华街变化太大了。”

横浜中華街の変化、それはすでに「中華街ファン」からも声が上がっていた。その声はむしろ失望に近い。

之前就听到过“中华街粉”们说中华街的变化,当然他们无疑是失望的。

横浜市中区に勤務するIさんはこう語る。

在横滨市中区工作的I先生这样说:

「老舗がどんどん減っています。昔、腕を振るった名コックたちが中華街の外で開店、安くておいしいので、私自身、すでに横浜中華街に足を向けなくなりました」

“老铺子正渐渐减少。过去名声大振的名厨都在中华街外开了新店,价格合理还十分美味。我自己也不想再到中华街来了。”

かつて横浜市の港北区に在住していたというKさんは「20年ぶりに訪れたが、今では『食べ放題』と物売りばかりだ」と驚く。また、自称「浜っ子」のHさんは「昔は情緒溢れる横浜中華街に友人を案内するのが自慢だったが、今ではそんな気分になれない」と失意を隠さない。

曾在横滨市港北区居住的K先生很吃惊地说:“我二十年没到中华街来了,现在这条街尽是卖吃的和买东西的”。还有自称“土生土长的横滨人”的H先生,他也难掩失意,“过去带朋友来充满情趣的横滨中华街,我总是很骄傲的。但现在没那份心境了。”

過去の横浜中華街を知るコアなファンほど、その落胆は大きいようだ。横浜市の行政に携わる人物も忌憚ない意見をぶつける。「横浜中華街は日本の他都市にない“異国情緒”が売りだったはず。しかしながら昨今は、単なるアミューズメント空間に成り下がった感は否めません」

越是知道中华街过去的“中华街粉”,失望想必越大。他们毫不顾忌地向横滨市行政的人员提出意见。“横滨中华街的卖点就是不同于日本其他城市的异国情调。但如今不可否认地成了货真价实的娱乐场所。”

後継者不在がもたらした味の変化

没有后继者导致味道变化

500メートル四方におよそ550の店舗がひしめく横浜中華街、そのうち中華料理店はその半分近くを占める。その歴史は1859年の横浜港開港に始まり、今に見る中華料理を主流とする街の原型は、戦後、在住の中国人が料理屋を営み始めたことに遡ると言われている。

中华街拥有500平米的面积和550家店铺,其中中华料理店占了将近一半。中华街的历史可以追溯到1859年横滨开港,现在看到的一中华料理为主流的街道原型是战后旅日的中国人经营中国餐馆为开端的。

かつて横浜中華街の「中華街大通り」といえば美食家が舌鼓を打つ場所だったが、今その期待に耐えられる店はどれほどあるのだろうか。

过去说到横滨中华街那可真是一个让美食家食指大动的场所,但现在还有值得期待的店铺吗?

横浜中華街を代表する老舗と言えば「聘珍樓(1887年~)」と「萬珍楼(1892年~)」、「華正楼(1939年~)」、「重慶飯店(1959年~)」などがあるが、「まともな料理を出す店はこれらを含めて10軒にも満たない」と地元の人は話す。

说起中华街的老铺子,有聘珍楼(1887年~)、万珍楼(1892年~)、华正楼(1939年~)和重庆饭店(1959年~)等等,据当地人说能拿出货真价实美味的不超过十家,其中还包括上述的几家老店。

「昔あったが今はない」「店名も内装もがらりと変わった」など、そんな声を耳にするが、特にここ十数年での店舗の入れ替わりは激しい。1996年製の「横浜中華街マップ」をもとに現状と比較すると、地図上の「中華街大通り」にあった中華料理店のうち10軒は姿を消していた。もっと詳細な地図と突き合わせれば、その数10軒どころではないだろう。

不少人提出不满,像“过去有的,现在不是那个味道了”“不管是店名还是内部装潢都与以前大有不同”。特别是近十年来店铺的更新换代更加迅速。对照1996年制的“横滨中华街”地图的话就会发现街上有十家店铺消失不见了。要是再对比更为细致的地图的话,可能消失的就不止十家了。

一方、老舗の衰退とともに勢力を増すのが「食べ放題」を掲げる新店である。

另一方面,随着老铺的衰退,可以大吃大喝的新店一一上场。

露骨なまでの顧客獲得競争、道にせり出すド派手なメニュー看板は風情を損ない、しつこい客引きに来街客も眉をしかめる。地元の人も「その手の店で出すのは冷凍食品が多い」と敬遠する。

恶俗的竞争、有损情趣的大招牌还有纠缠不休的揽客手段都让来客们心头不悦。连当地人都对这些店敬而远之,因为“这些店铺的饭食多为冷冻食品”。

だが、そこにはやむにやまれぬ理由があった。老舗料理店で働く女性が打ち明ける。

但是这其中也有不得已的理由。在老店工作的女店员说出了秘密。

「世代交代をする中で、若手が店を継がなくなっているのです。今の若い人たちは学もあるので、飲食店経営など難しいことはやりたがりません。従業員を雇ったり、日常生じるトラブル解決も容易ではありませんから」。こうした認識は同店のみならず、中華街の老舗に共通するものだ。

“在店铺的继承过程中,年轻人都不愿意再继续经营下去了。当然也有原因,想是饭店经营比较困难,他们不愿再继承下去吧。雇店员和处理日常的矛盾都不容易。”这些道理不仅这家老店明白,中华街的其他老店也明白。

一大観光地になった反面、 街から生活感が消えた

成为观光地,街上的生活气息消失不见

横浜中華街の変化は、誰よりも地元の生活者がそれを敏感に感じ取っているようだ。月刊誌「地図中心」(2011年12月号)には、華僑家族の4代目の李美□(□の文字は女へんに華)さんが書いた寄稿文が紹介されているが、そこにこんなくだりがあった。

要说谁对横滨中华街的变化最有感触,街上生活的人应该是最有发言权的。月刊《地图中心》(2011年12月号)上载有华侨家族的第四代人李美嬅的投稿,其中有这么一段。

「近年では生活感がない街になってきている気がします。日本企業による店舗経営や中国の投資家たちによるベンチャー企業が加わるようになり、昔からいる地元華僑の経営者の姿がどんどん消え、個人経営する店舗が少なくなってきているように感じます」

“近年来越发觉得没生活气息了。日本企业的店铺经营和中国投资家的投机企业都在增加,过去地道的中国华侨也渐渐消失了,个人经营的店铺也变得越来越少。”

一方で、マクロ環境の変化にも目を向けてみたい。近年の横浜中華街を取り巻く交通アクセスは目覚ましい変化を遂げた。2004年から東急東横線渋谷駅と元町·中華街駅が35分で結ばれ、また近年は西武池袋線や東武東上線ともつながった。これによって従来の横浜市民を中心とした来街者は、首都圏をターゲットに大きくマーケットを広げた。3月14日に上野東京ラインが開通すれば、高崎、宇都宮からの集客も見込めるようになる。

另一方面,也不得不说宏观环境的改变。近年来围绕中华街的交通也发生了巨大变化。从2004年起,东急东横线涩谷站到中华街只用35分钟就行了。近几年和西武池袋线以及东武东上线也连结起来了。因此以横滨市民为中心的中华街的造访者便将首都圈囊括进来,开拓市场。3月14日上野东京线的开通使得高崎和宇都宫的游客也纷沓而至。

また、羽田空港との間には直行バスも走るようになり、集客は国内から海外へと広がりを見せるようになった。これまで日本人客を対象にしてきた横浜中華街だが、ここに外国人観光客も加わるようになった。

另外由于和羽田机场之间有直行巴士,中华街的访客从国内扩展到了国外。原本的顾客是日本人,但现在外国观光客也加入了进来。

「テーマパーク化は街を滅ぼす」 と地元は危機感を募らす

当地人感到危机感,觉得主题公园式的发展会毁灭中华街

横浜中華街には、1972年に発足した「横浜中華街発展協同組合」がある。横浜中華街を観光地として、また、一大料理店街として発展させようとする機運の中で、この組合が誕生した。

横滨中华街上有1972年就成立的《横滨中华街发展协同联合会》,在将横滨中华街发展成观光地还是料理界的当口,这个组织诞生了。

「中華街は少なくともテーマパークではありません。テーマパーク化したら街は滅んでしまう。横浜中華街は先輩たちが築いた伝統を守って継承し、中華文化を発信し続ける場所であるべきなんです」

“中华街至少不应该是主题公园。若是主题公园化了肯定招致毁灭。中华街应该是先辈们继承传统,发扬中国文化的场所。”

伝統を発信してこその差別化、それこそが生き残り策だというわけだ。

发扬传统文化才能区别与其他地方,也唯有此才是生存之策。

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