明智光秀にはどうしても主君、織田信長を討ったダーティなイメージがある。この点については非難の声が大きく、近代に入るまで“逆賊”としての評価が圧倒的に多かった。しかし、光秀の実像はかなり違うようだ。生没年は1526~1582年。

说到对明智光秀的印象,大多人想到的都是他讨伐了主公织田信长。关于这一点,对光秀的非难声不断,直到进入近代,对他的评价,压倒性的大多数依旧是“逆贼”。然而,真实光秀却是大为不同的。他的生卒年是1526年-1582年。

明智氏は美濃の守護土岐氏の庶流とされるが、光秀の前半生は判然としない。光秀は公家の社会・しきたりにも明るい知性・教養派でありながら、一時は織田勢の有力武将のなかでも1、2を争うまでに武功を上げている優れた武将だった。足利義昭が信長と対立し始めたのを機に、義昭と袂を分かち信長の直臣となり各地を転戦。1571年(元亀2年)頃、比叡山焼き討ちの功績を認められ近江国滋賀郡を与えられ、坂本城を築いて居城とした。

明智氏是美浓守护土岐氏的庶流,不过光秀的前半生如何却记载不详。光秀属于知性的教养派,深谙公家社会的典章制度,而在织田家的有力武将中,一段时期内他也是战功硕硕、屈指可数的优秀武将。以足利义昭与信长开始对立为契机,明智光秀与义昭分道扬镳,成为信长麾下的武将征战各地。1571年(元龟2年),因在火攻比叡山的战斗中立功,被授予近江国滋贺郡,他在这里修筑坂本城作为居城。

1575年(天正3年)に惟任(これとう)の姓、従五位下、日向守(ひゅうがのかみ)の官職を与えられ、惟任日向守と称した。城主となった光秀はさらに、石山本願寺や信長に背いた荒木村重と松永久秀を攻めるなど近畿の各地を転戦しつつ、丹波国の攻略を担当。1579年(天正7年)、横山城主・小笠原大膳を自害に追い込んで平定した。横山城をわが物とすると、光秀はさっそく改築に取り掛かった。近郷の墓石や五輪塔をかき集めて石垣とし、これを福智山城と名付けた。

1575年(天正3年),光秀被授予“惟任”姓,获得从五位下日向守的官职,人称“惟任日向守”。成为一城之主的光秀转战近畿各地,或进攻石山本愿寺,或讨伐背叛信长的荒木村重和松永久秀,又担任了对丹波国的攻略计划。1579年(天正7年),横山城主小笠原大膳在光秀的攻势下被迫自尽,横山城落入光秀手中。取得横山城后,光秀立即开始对城池进行改修。他集齐近乡的墓石和五轮塔修成石垣,将其命名为福智山城。

その丹波で光秀は領主として様々な善政を敷いている。彼は由良川という暴れ川に堤を作って、農民を水害から救った。また、農民が領主に収める税の一部を吸い取ってしまう地侍を退治、農民を助けた。このため、現在でも丹波で、地侍の子孫の中には光秀を悪くいう人がいるが、一般には評判が良く、広く敬われている。彼が民政を重視した結果だ。

在丹波,作为领主的光秀施行了各种善政。当时由良川时常泛滥,光秀修建了堤坝,帮助农民摆脱了洪水之灾。此外,他又驱逐了一些蚕食农民缴纳给领主课税,救助了农民。因为这个原因,直到现在的丹波地区,光秀得到广泛的尊敬,尽管农村武士的子孙中也有批评光秀的人,但总体上评价还是不错的。这便是他重视民政的结果。

丹波を平定して、丹波29万石を領有することになった彼は、1573年(天正元年)から1年半かけて城を築いた。彼は丹波一国に近江の坂本を合わせた自分の領国の本拠地、いわば司令部をこの亀山に置こうとしたのだろう。わずか6万石の領内にしては破格な規模の城下町の佇まいだ。それだけに領民の誇りも高く、優れた光秀の民政力と相まって、亀山は繁栄の地となった。

从1573年(天正元年)开始,平定丹波,拥有丹波29万石领土的光秀历经一年半修筑了城池。大概他有将丹波一国、包括近江坂本城在内的自己的领国的根据地,也即司令部安置在龟山的打算。仅仅6万石的领内,却有着规模不同寻常的城下町。因为这样,领民怀有自豪感,加之光秀优秀的民政力,龟山成为繁荣之地。

本能寺の変の際も、明智軍1万3000はこの亀山城で戦備を整えて出発していったのだ。無念の最期を遂げた彼の、それまでの善政を慕う領民が、その霊を祀っている。こうしてみると、明智光秀は“主君弑逆”で民政手腕を評価されない“悲劇の名君”といえよう。

在本能寺之变中,全副武装的1万3000人明智军队也是从龟山城出发的。最终光秀遗憾地败死,领民们仰慕他的善政,一直供养其灵位。如此看来,明智光秀可谓是一个“悲剧的名君”,他在民政上的才能因为“杀害主君”而没能得到正当评价。

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