六角承禎(1521~1598)

「自由商業」信長より早く|比织田信长更早实行“自由商业”

六角承禎じょうていの「承禎」というのは出家してからの法号で、名乗りは義賢よしかたといった。南近江(滋賀県)の戦国大名である。織田信長と戦って敗れ、そのあと没落してしまったため評価を下げたが、戦国武将として、先進的な施策を進めたことで知られている。

六角承祯的“承祯”是他出家后的法号,而他的本名是义贤。他是战国时期南近江(滋贺县)的大名。被织田信长打败后,六角也变得没落,因此评价走了下坡路,但作为战国武将,他推行的先进政策仍然广为人知。

六角氏は本来、佐々木氏といった。宇多天皇の皇子敦実あつざね親王にはじまるということで、宇多源氏とも近江源氏ともいわれている。鎌倉時代のはじめ、佐々木信綱のときに4家に分かれ、長男重綱が大原氏を、次男高信が高島氏を、三男泰綱が六角氏を、四男氏信が京極氏を名乗り、六角氏が嫡流とされた。

六角氏本来姓佐佐木。家族起源自宇多天皇之子敦实亲王,被称为宇多源氏或近江源氏。镰仓时代开始,到了佐佐木信纲的时候,佐佐木家被分为4家,长男重纲更姓为大原氏、次男高信更姓为高岛氏、三男泰纲更姓为六角氏、四男氏信更姓为京极氏,因此六角氏是天皇传下来的嫡系。

ちなみに、六角という名字は、泰綱の京都屋敷が京都の六角東洞院ひがしのとういんにあったからである。

顺便一提的是,六角这个名字是取自泰纲在京都的宅邸·六角东洞院。

承禎の祖父にあたる高頼のときには、9代将軍足利義尚に従わず、その追討を受けている。しかし、父にあたる定頼および承禎の代には、観音寺城を本拠として、京都を追われた12代将軍義晴および、13代将軍義輝を庇護ひごしたことでも知られている。

到了承祯祖父高赖的时候,六角氏不再听从9代将军足利义尚的指挥,遭到了义尚的讨伐。但是到了父亲定赖和承祯的时候,众所周知的是,他们以观音寺城为大本营,庇护了被迫离开京都的12代将军义晴和13代将军义辉。

近江は、この時代の全国最大の消費地である京都に隣接していることもあり、商品流通が盛んなところであった。近江商人が輩出したのもそのためであるが、承禎はそこに目をつけ、商品流通をメーンにした国づくりに取りくんでいた。それが楽市政策である。

近江毗邻当时全日本大的消费地京都,商品流通非常兴盛。近江地区也是商人辈出,六角承祯留心到了这点,专心致力于建立以商品流通为主的领地。这就是所谓的乐市政策。

天文18年(1549年)、承禎は、観音寺城のふもとにできた城下町の、石寺新市を楽市とするよう命じている。「楽」というのは自由といった意味で、自由商業の奨励である。ふつう、商人たちが商売をするときは、城下町なら、そこの城主に地子じし地代)や年貢を払い、諸役も負担しなければならない。承禎は、そうした税を取らないと宣言し、商人たちの自由な商業活動を保障したのであった。

天文18年(1549年),六角承祯将观音寺城脚下的城下町·石寺新市命名为乐市。“乐”字是自由的意思,说明对自由商业的奖励。通常情况,商人们要是在城下町做生意,需要向那里的城主缴纳地租或年贡,还必须承担各种职务。六角承祯则宣布不再征收此类税赋,保障了商人们自由的商业活动。

どうしても、楽市というと、織田信長が永禄10年(1567年)に岐阜城下を楽市楽座としたのが最初と思われがちであるが、それより18年も前に、承禎が近江で実践していた点は注目しておいてよい。

虽然说到乐市,一般会认为最初是织田信长于永禄10年(1567年)在岐阜城下设立的乐市乐座,但还是应该注意到,18年前六角承祯已经在近江地区实践过这一政策。

その承禎、一時は、北近江の戦国大名浅井氏を凌駕し、近江一国を平定する勢いだったが、浅井長政が登場したことで、その勢いは止まり、やがて信長に滅ぼされるのである。

就是这个厉害的六角承祯,还曾超越北近江的战国大名浅井氏,平定了近江一带,威震一方,但因为浅井长政的出现,六角承祯的势头被遏制,最终被织田信长所灭。

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