日本电视 六十周年

60歳にして、なお若々しいのか成熟が遅いのか、日本のテレビ放送に還暦の言葉は似合わない。画面では昨日と同じ芸人やアイドルが、昨日と同じ笑顔ではじける

从已经60岁了这一点来看,不知是应该说尚且年轻呢?还是成熟得稍晚了点呢?总而言之觉得花甲这一词汇与日本电视广播并不般配。因为荧屏画面上出现的还是和昨天同样的艺人及偶像,和昨天同样的欢声与笑脸。

NHKの放送開始は1953(昭和28)年2月、受信契約は866件だった。半年ほど遅れて民放の日本テレビが開業する。「宣伝の価値は受像機より視聴者の数」と、220台を街頭に配し、プロレスやプロ野球を中継した。皇太子ご成婚や東京五輪を経て、テレビは黄金期を迎える

NHK的电视广播开始于1953(昭和28)年2月,签订接受合同866份。迟于它半年左右,民营广播日本电视台开业。当年的口号是“宣传价值在于视听者人数而并非接收机的台数”,于是,将220台电视接收机分布于闹市街头,直播职业摔跤及职业棒球等比赛实况,后又经历了皇太子大婚及东京奥运会的直播,电视迎来了它的黄金时期。

「指先からつま先まで、打席や捕球といったプレーの一挙手一投足は、常にテレビを意識していろいろ考えましたねえ」。ほかならぬ長嶋茂雄さんの述懐だ(『あの日、夢の箱を開けた!』小学館)。創る側、観る側ともに熱かった

“从指尖到脚尖,击球位及捕球等所有球员的举手投足都一览无余,我们在球场上也经常顾及到电视摄像的存在而想得很多”,叙述这番话的不是别人,正是鼎鼎大名的长嶋茂雄先生(摘引自《那一天,打开了梦想的彩盒》小学馆出版)。制作方、观看方同样倾注了满腔热情。

夢の箱は薄くなり、オールドメディアになった。生活に溶け込む一方、見入るのは「同世代」の中高年らしい。視聴率に縛られた番組作りなど、とかくの批判も聞く。誰にも一家言と付き合い方がある

随着时间的推移,梦想的彩盒日渐变薄,电视也成为了一个阅历深厚的媒体。它在融入生活的同时也陪养了一批顾此不彼的“同年代”中老年观众。当然,也听到了诸如制作节目只考虑收视率等这样那样的批评意见。无论是谁都会有所谓一家之言的交流方式。

故阿久悠(あくゆう)さんは、台本と首っ引きの進行ぶりを早くから難じていた。「命綱を十本もつけた空中サーカスを誰が見に行くだろう」と。なるほど、筋書きのないスポーツの生放送は人気を保っている

已故的阿久悠先生早就对剧本和束缚手脚的摄制方式颇有微辞,“你也不想想,谁还会去看一场栓着十来条保险绳的空中飞人?”经他这么一提醒,还真是的,难怪那些没有情节设计的体育比赛实况直播能够保持人气不倒。

片や黒柳徹子さんのように、「社会を良くする力」を信じて関わってきたテレビ人も多い。倍のを重ねた新聞の目にも、できることはまだあるように見える。箱の夢は尽きたのか、それを大衆が共有する知恵はないのか。探るだけの価値はありそうだ。

而另一方面,类似黑柳彻子女士那样对于“改良社会的力量”深信不疑,并因此而参与电视制作的人也为数不少。从2倍于它年龄的报刊眼光来看,能够做的事还是有的。彩盒中的梦想真的已经穷尽了吗?有没有将其建设成大众共享的智慧?不管怎么说,探索的价值总还是有的。

声明:本双语文章的中文翻译系沪江日语原创内容,转载请注明出处。中文翻译仅代表译者个人观点,仅供参考。如有不妥之处,欢迎指正。

天声人语系列文章一览>>>